嬉しい悲しい
それから二人の奇妙な生活が始まった。いわゆる三食と勉強、それに昼寝、遊びが少女にもたらされ、彼は今まで何もせずに過ごしてきた日々が彼女の面倒を見るという日々に変わった。彼女は言うまでもなくこの生活に満足し、外に居たときの様な酷い扱いをしない彼を信頼しきっていた。彼は、疑問の答えを求めるべく彼女に教養と人間の生活を与えているつもりだったが途中から他のものも感じ始める。
――一週間後
「えーっと、これはこう読んで……」
「そうだ、それでいい」
――二週間後
「この本、全部読めました!」
「おお、早いな」
彼女の学習速度は早かった。
――三週間後
「あぅ……食器使いにくい……」
「これは上手くいかないものだな」
どうも食器の扱いは苦手な様で。
――そして一ヶ月……
「やった! 全部書きうつせました!」
少女が嬉しそうに持ち上げる紙束。それは一冊の童話を書き写したものだった。字はガタガタだがしっかりできている。
「ここまで早いとはな」
彼はその紙を見て、何かを感じた。そして無意識に彼女の頭を撫でていた。
「! 私は何を……」
疑問を口にする彼。だがその疑問を考える暇もなく、彼女は彼に抱きついていた。更に彼もまた彼女を抱き返した。ここに言葉のやり取りはほぼ無かったと言っていい。ふたりとも行動は無意識だったと言っていい。だが少なくとも二人は暫くそうしていたかった様で言葉も交わさぬままそうしていた。
「不思議な事もあるな」
「私はただ嬉しかったんです」
「嬉しい?」
「今までこんな事無かったから……」
「嬉しい、か。もしかすると私も」
彼は考えた。先程感じた事、前にも似たような感覚があった事、それらを踏まえれば「嬉しい」という感情がこの感覚に当てはまるのではないのかと。
(今のこいつに聞いても仕方ないだろうが一応聞いてみるか)
そう考えた彼はこの疑問について少女に問う事とした。
「嬉しい、というのはどういう物だ?」
「うーんと、さっきみたいに書きうつしが終わったあととか……」
「つまり、何かを成し遂げた後の感覚か?」
「それもそうなんですけど、いっぱいあるから全部は……」
「では何故、頭を撫でられたり抱きしめられると嬉しいんだ?」
「私は、してもらった事がなかったから……」
「という事は無かった物を得たからから嬉しいのか?」
「あ、それもあります。でも他にもあるのかな……」
彼女の回答は傍から見れば不完全そのものだ。だが感情というものを明確に言葉で表す事もまた困難であるのは事実だろう。学者先生ですらそれを見つけるのに苦心しているのだから少女に答えられなくて当然である。しかし、この回答で彼は満足したらしい。
「いや、それだけ分かればいい。どうやら私は嬉しい様だ」
「? よく分からないですが嬉しい事はいい事だと思います」
彼女の言葉で彼は嬉しいという事の一端を得た。無かったものを得たから嬉しいのだ。彼女が書き写しを完成させた時、彼女と共に彼もまた達成感を得た、だから嬉しいのだ。彼には明確な自覚はなかったが彼女の言葉で自覚出来なかった分を補い、嬉しいという感覚を得たのだ。
「嬉しい、という感覚、悪くないな」
それからというもの、彼は嬉しいというものを自覚できる様になってきた。少女が何かを達成して嬉しそうにしていると彼もまた嬉しくなった。彼女が嬉しそうに食事をしているとそれを見た彼も嬉しくなった。とにかく、彼女が嬉しそうな時、彼も嬉しくなったのだ。今まで終始無表情だった彼は嬉しい時に少しだけ笑みを浮かべる様になった。
――それから更に一ヶ月
二人は変わらぬ日々を過ごした。そして少女は学習する度、加速度的に知識を身に着けていく。その歳に不相応な程の速さでありこの二ヶ月少々で初等教育一年分の知識を得たといってもいい。それは彼女が勉強を好んでいることと彼の指導の上手さにある。今日も今日とて少女は本を読み、それを書き写す。
「今度はこれが読めるようになりました!」
少女は少し難しい本を読めるようになった。それを笑顔で言ってくる。
「ほお、それはいい。嬉しい事じゃないか」
彼もまた笑顔で返す。その笑顔は僅かなもので一見では分からない。だが少女には見えている様だ。そして彼女は少し変わった事を言いだした。
「あの、今まで言えなかったんですけど、あなたのお名前は?」
「!」
そう、今の今になって彼の名を彼女は尋ねてきたのだ。しかし彼にもまた名は無かった。いや、あったのだが忘れてしまったのだ。永い時の中、独りで過ごしてきた彼には名前など意味をなさなかった。
「名前……か」
彼は呟く。今まで自分の名の事など忘れていた彼は質問に答えられなかった。そして質問に答えられない事に何故か次は別の揺らぎを感じた。
「あぅ、ごめんなさい……聞いちゃだめでしたか?」
「あ、いや、そうじゃない。ただ私にも名前が無いんだ」
「だからそんなに悲しそうな顔を?」
「悲しい、これがその感覚なのか?」
「私は悲しい時が前はいっぱいありました。だから何となくわかります。どんどん悲しいって気持ちもなくなっていったんですけどね」
「そう、だったのか……」
彼は悲しさというものに触れた、いや「嬉しい」の時と同じく思い出したのだと言っていい。だが自分に名前が無いという事よりも少女の言う事に大きなそれを感じた。自分自身が「悲しい」を無くした事よりも彼女の「悲しい」の無くし方のほうが酷いものだと思ったからだ。
「お前はずっと『悲しい』をどこかに持ってたんだろうな……」
彼は少女を抱きしめた。明確な所は分からないがそうしたかった、否、そうせざるを得なかった。この「悲しい」は彼にとってそれをするだけの大きな理由になったのだ。
「……っ!」
少女もまた彼を抱きしめた。彼女もまた「悲しい」を思い出し、それを彼と共有した。
「……ありがとう」
「いや、こちらこそだ。お前のおかげで色々と分かる事が多い」
蝋燭が半分になったところで二人は手を離した。彼女には笑顔がある。それを見ると彼は嬉しくなり、そしてそんな彼の顔を見た少女もまた嬉しくなった。
「そうだ、あなたも名前が無いんですよね?」
「ああ、残念だが」
「なら私が見つけた名前を使ってもらうのはどうですか?」
「! いいのか?」
「はい、この本の裏側に書いてあったんです。『ナイト』って」
「ナイト、か。悪くない」
彼はまさか自分の名前を彼女から貰うとは思ってもみなかった。この城には二人しかいないが故に名前も特段必要でないといえばない。だがいざ貰ってみると嬉しいもので彼はまたしても顔が綻んだ。彼は彼女に与えているつもりが与えられているのかもしれぬ。
「じゃあ、これからはナイトさんって呼んでもいいですか?」
「ああ、でも『さん』は要らない。ナイトでいい」
「じゃあ私は……あ、名前、ないんだった……」
「スーア」
「!」
名前が無いことに落ち込みかけた少女に彼が言う。
「それって……」
「お前の名にどうだ?」
「……」
「不満か?」
「いえ、とっても嬉しいです!」
二人はお互いに名付けあい、名前を手に入れた。それはとても嬉しい事で、今までの悲しいを大きく削ってくれたのだ。
「食事にするか。スーア」
「ナイトが出してくれるご飯美味しいから大好きです!」
「ちゃんと食器使うんだぞ」
裂目に入る二人には穏やかな笑顔で、自然と距離は近くなった。
彼はこの二ヶ月で得たものが多い。
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