レンシアの星空《そら》の下で

 空が広い。この世界にはこんなにも巨大な空があったんだ。私はマーケットの屋上から空を見上げる。コンクリートと鉄の街で生きる私は浮上したような高揚感に包まれる。

 各地の通信が集結する街、レンシアに立ち寄った。この街は特殊で、地上に通信網を置かずに電線は全て地下に埋め込まれているため、電柱一本すら見当たらないのだ。その結果、この街に何が起こったのか。空が異常に広いのである。

 地上に入り組んだケーブルがなく、閑散とした印象を受けるものの、マーケットは充実している。イスタンブールほどの規模ではないが、迷路のように入り組んだ通りには服飾、生活雑貨や食品など、多くの露店が並んでいた。ざらざらとした土混じりの地面。少し砂埃っぽい空気。ガヤガヤとした喧騒。様々な色を身に纏う現地の人たち。

 今回、この情報集積地レンシアに会社の新規拠点を設けることが決定したため、視察する運びとなった。その視察代表として派遣されたのがこの私である。今や、世界中のどこからでも現地の立体地図がみれるようになった。しかしながら、現地の人々の生活模様、すなわち街の呼吸は、画像だけではわからないことの方がまだまだ多い。たとえば、拠点を作るにしろ、生活インフラは十分に発達し、安定して運用されているのか。故障した際に、すぐに復旧できる見込みがあるのか。海外企業が拠点を設け、その社員が現地に居住することになった場合、安全は確保できるのか。観光者ではなく、居住者の立場となる場合にはさまざまな問題がつきまとう。そんな生きた街の顔を見てこいとの役員の指示を受け、私ははるばるこの街へとやってきたのだ。

 今日から数日にわたり、カーニバルが開催されるらしく、マーケットの表通りは賑わいをみせている。飛び交う露天商の掛け合いは空間を反響し、各地からやってきた観光客が麻や臙脂色のテーブルクロスに並べられたネックレスや陶器などを人流のなかで、眺めている。ごついカメラを路地に向かって構える、緑のTシャツに半ズボンの高身長の欧米男性。長旅をしているのだろう、腰まで伸びたオレンジのリュックサックを担ぐ若いカップル。頭髪をまとめ上げたベージュのカンドゥーラに身をまとう現地住人たち。様々な色の川が通りを流れていく。

 対照的に、一歩裏通り足を入れると、そこはもう居住区。住宅地への入口となっており、トーンが二段階ほどダウンする。細い石畳が伸びていく路地の店はまばらで、道端では灰色の野良猫がのんびりと過ごしている。

 私は、観光地だけではなく、海外の住宅街を歩くのが好きだ。観光という視点で見る街の表面は、ビジネスで会社訪問する際に、相手の考えを知ろうとするのと大差ない。立場や関係、利益によって化粧された表情を見るだけでは、彼らの腹の中を知ることができないことと同じだ。そうでなく、生きる人々や生活を見ること、その街のすっぴんを見てこそ、その街の本当の姿を知れると思うから。本当に仲のいい友達だったら、お泊まりしたときのすっぴんトークの方が、本音を知れるのと一緒だ。

 そんな裏通りの落ち着いた情緒を感じ始めたその時だった。目の前の個人経営らしい電気屋店の前に、奇妙な看板が設置されていた。

「ぬくもり、あります」

色ぬりされた木製の置き看板には、確かにその地の言語でそう書かれている。

“ぬくもり"、とは温もりのことなのだろうか、それとも、この地域の方言か何かなのだろうか。店内は展示された蛍光灯や室内灯などで明るく、店番をするおばさんもごく普通の雰囲気。怪しい雰囲気がないため、尋ねてみることにした。

「すみません。店先で気になったのですが、この、『ぬくもりあります』とは、一体何のことなのでしょうか?」

「ああ、これね」

おばさんはあざ笑うように、いや、厳密にはバカなことやってるなぁ、というニュアンスの笑いを浮かべて言った。

「うちの旦那がねぇ、変なことをやってるのよ。みてく?」

ぬくもりは見えるものらしい。ますます気になり、二つ返事する。

「よろしければ」

すると、カウンターに飛び出しているパイプに向かっておばちゃんが叫んだ。

「とうちゃーん、客だよー」

その後、カウンター裏から何かを取り出した。

「じゃあ、ここから入って。はい。ランタン」

「えっ」

いきなり渡された妙に年季の入ったランタンは、ところどころ真鍮色がはげている。灯火はほのかに明るい。デザインは、昔イスタンブールで眼にした異国情緒漂う細かな幾何学模様が彫られていた。そして、おばさんによって開かれた扉の先には真っ暗な螺旋階段。ここを降りていけ、ということか。私は少し言って後悔した。やばいところに案内されるのではないか。少し不安になる。

「少し狭いけど大丈夫よ」

そう言っておばさんは親指を立てた。私はおばさんの謎の自信もそうだが、不意に目に入った、国の認証を受けた証書を確認したことで、信用することにした。この認証は厳しく、公的な仕事を受け持つ機関にのみ発行されるものだったからだ。

「わかりました。行ってきます」

私は螺旋階段に姿を消す。

 レンガ模様の壁はひんやりとしており、先ほどおばさんが話しかけていたパイプが手すりに沿って取り付けられている。炎が明暗するランタンを片手にコツンコツンと音を立てながら慎重に下って行くと、少し大きな一本道に出た。地下に降り立つと、なんだか少し空気の温度が上がったように感じられた。道の先にはひとつの扉が見え、扉には営業中の看板が下げられていた。

 ノックをし、扉を開ける。目の前の光景に私は驚く。

体育館のような巨大な空間。無数の灰色の配線が森のように生い茂っていた。まとめ上げられた配線たちはおおきくうねり、ごうごうと低い音が反響している。どうやら通信配線らしく、部屋の四方と上方には赤や緑のライトか明滅しており、配線の中を涼しい微風が流れていることから、重低音は冷却ファンの発する音だとわかった。

「あの、すいませーん」

人間の姿が見えず、辺りに呼びかける。すると、どこからともなく音が聞こえた。配線をかき分ける音のようだ。目の前の配線が上下に動く。

「やぁ、いらっしゃい」

タオルを頭に巻いた無精髭の初老男性が、配線の森の中から出現した。

「わぁ」

とんでもないところに住んでいる。私はその姿にすこし驚いてしまう。

「びっくりしたでしょう」

そう言いながら半袖の男性は狭い通路を通ったことでよれてしまった服を整えた。

「え、ええ」

「あの、ぬくもりっていうのが気になりまして」

「オーケイ。じゃあ、おいで」

「この中、ですか?」

どうしよう。私は自身の下半身を見つめる。私の服装はスカート。低姿勢では汚れるのではないかと不安になる。

「ああ、お嬢さん。スカートがきになるのかね。大丈夫だよ。床は綺麗にしてるから」

「そうですか。よかった」

「いこう」

男性はうねりに消えた。私も、言われるままに配線の海を潜って行く。映画で見た狭い下水道の管を通り抜けるように、配線でできた管を腰を落として進んでいくと、急に大きな空間が目の前に現れた。その瞬間、私は息を飲んだ。

 筆舌を尽くしても表現し難い、透明の配線が覆う光の空間。クリスマスツリーの飾りのような、メリーゴーラウンドのような。まるで銀河の集合体のような。そこには、まばゆい光の空があった。床に散らされた配線からも、ほのかにオレンジががった光が漏れており、光でできた畑が広がっている。

「どうだ、あったかいだろ? これ全部、人と人とのつながりが生んだぬくもりなんだよ。ある意味では、この街のすべて。普段なら、これが独り占めさ」

誇らしげな表情で、おじさんはその場であぐらをかきながら、”空”を見上げる。

「これは一体…」

「通信網さ、地上に埋められた、ね」

その言葉は、同時に、各地へとつながる巨大な通信集積網の一部がこの一人の技師によって整備されているということを表していた。

「きれい、ですね」

眼前の光景に、純粋な思いが漏れた。人は、想像を超えるほど美しいものを見た時、最も単純な表現しかできないことを知った。ふと我に返った私は、おじさんに質問する。

「こんな、見ず知らずの人を簡単に通してよかったんですか?」

「きみは、ぬくもりを求めに来たのだろう? なら、悪いことをするために入ってきたわけじゃないはずだ。まぁ、悪そうなやつだったら、かーちゃんが入れないだろうからね。そうだろう?」

「…そういわれれば、そうですよね」

その言葉に、疑いをかけた私自身が恥ずかしくなる。

“星空"のもとで私も腰を下ろす。それから、おじさんは話を始めた。

「小さい頃、”地上"から見上げる星空は、今のように綺麗だった。でも数年前までは技術の発達に伴って、星空に電線という名の"蜘蛛の巣”が幾重にも覆われてしまっていたんだ。人々が絆を早く、そして強く求めてしまったためだな。

 結果、景観を気にしたお役所が、地下に埋めることにしたんだ。これじゃあ、街の文化まで暗く覆ってしまいかねないってな。それで、今はコレ。人々の見えないところで、人々の絆は維持されている。こんなにも綺麗なものが、星空よりも見栄えが悪いなんて皮肉な話だ。ホント」

配線の空間の中で、声が反響する。おじさんは、もったいなさそうな、残念そうな表情を浮かべ寝転んだ。

「だからこそ、この暖かい人々の絆を見て、感じてもらって。これを機に、少しでも考えてくれる人ができたらいいなと思うようになったんだ。それが、ぬくもりを謳って人を入れてる大きな理由だな」

「つまり、人々の繋がりが見えなくなった地上は寂しいものになってしまった、ということですか?」

「そこまで言わないさ。綺麗な星空は、人々を癒してくれるからな。ただ、人々の絆も星空を作れるということ、それに優しい気分にもできることを知ってほしいんだよ。ただそれが、地上にあった時は複雑に絡みすぎていたってだけだ」


 私は電気屋さんを出て、街の郊外の川沿いを目指した。裏通りを流れる川は静かで、遠くでライトアップされた歴史的建築物を除いては、小さな街灯が数十メートルおきにほのかに灯るだけだった。恋人同士や、親子が橋の欄干に寄りかかり空を見上げていた。

 私も、空を見上げた。確かに、景観を乱すとされた電線の類はなく、満天の星空が街の光にかき消されることなく鮮やかに映し出されていた。こういうと、ロマンチックだと感じる人もいるだろう。でも、おじさんの言葉を聞いてからは、純粋にその感情だけを持つことができなくなってしまった。

 ふいに、メイン通りの向こうの建築群のあたりからまばゆい光が差し、遅れて破裂音が耳に届く。花火だ。そういえば今日、カーニバルだったんだ。私は思い出す。何度も空を彩る鮮やかな色に、欄干の方から歓声が上がった。

 私はひとり、遠い異国の街で、大空に打ち上がる花火の音に澄ませた。地上の星空そら、地底の星空そら。レンシアの二つの星空そらの下、私はこの街の表情を知る。

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夜明けは旅立ちのかおり 秋山津 沙羽 @heat2atsu

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