寄せては返す波のように

 暗闇に足跡をつけていく。しゃく、しゃく。しゃくしゃく。踏みしめるごとに、ざらつきながら沈んでいく。

 砂浜にはテンポの良い足音が響き渡っていた。何度もこの場所にやってきたからだろう。浜辺へと近づくにつれて、彼と過ごした記憶が何度も蘇る。でも、それは今夜を最後に、記憶の海へ沈むことになるのだろう。

 波間を視認する頃には、重なる波の音から、気泡の、淡い余韻を感じ取れるようになってきた。しゅわしゅわと弾けて消えるその音は、何かがこの闇の中から少しずつ失われていくような錯覚を抱かせてくる。

 なんとなく、一人で先を歩きたかった。今年で最後になるであろう家族旅行。手をつないで歩いていたあの頃から、あたしは随分大きくなった。いや、大きくなりすぎた。それなのに、心に未熟さを抱えるあたしは、寂しさをうまくコントロールできず、兄を置き置き去りにして先に波間にたどり着いてしまった。

 あたしにとって、五歳離れた兄は目標だった。モテたにも関わらず、大学生の間、女性関係の話を全て断って目標に邁進し、弁護士になるという念願を叶えたその背中は偉大で、尊敬の的だった。その一方で妹のあたしに対してはいつも優しく、わがままを許してくれていた。

 一緒に暮らし始めてから募り募った思慕。その思いが想いへと変わるには時間はかからなかった。大きく膨らみ始めた胸に秘めた想いは、過ごす時間に比例して大きくなり、今もあたしの中で不安定な状態で包み込まれている。

 兄が地元を離れるまで、あと数ヶ月。そうすることは分かっていた。その事実が近づき始めたことで、心の中に押し込まれていた感情が徐々にせり上がり、制御を失い始めていた。

「いたいた。もう、おいてかないでよ」

やさしく微笑みながら駆け寄ってくる兄の手にはバケツとちいさな花火セットが携えている。毎年持ってくるようになった、小さな水色のバケツ。色あせる一方で、二人で過ごした時間を刻み続けたそれは、質量を持つ思い出と化していた。

「いいじゃん。最後ぐらい一人で歩かせてよ」

心とは裏腹に、強い言葉が口から放たれてしまう。

「危ないじゃん。女の子一人で歩いちゃ…」

そう言って、兄はあたしのそばに花火を置いた。そのままの流れで波間に歩み寄ると、バケツで海水を掬って戻ってきた。

「…」

かける言葉が、かけたい言葉が喉元で留まっていた。強い言葉は言えるのに、どうして、この繊細な感情は。言葉になる寸前のその感情には質量があるようで、喉の奥に熱いものを感じた。

兄は汲み上げたバケツを砂浜に置くと、花火セットの開封に取り掛かった。腕に巻かれた懐中電灯を花火に向けて照らしながら、あたしは兄を無言で見下ろしていた。

「どうしたの? 怒ってる?」

手持ち花火をばらす手を止め、兄はあたしの顔を覗き込んだ。暗くてあたしの表情が見えないからか、いつもより顔が近い。

「…ちがう」

返事が精一杯だった。察せられる前に、あたしもしゃがみこんで準備を手伝った。不要なゴミの片付けが済むと、兄は手持ち花火の持ち手をあたしに向け、手渡してくれる。

「あれ、火は?」

あたりを見渡すも、ロウソクや着火器具は見当たらない。

「大丈夫。持ってきてるから」

そう言うと、兄のポケットから見覚えのないライターが出現した。

「…それどうしたの?」

「もらったんだ。合格祝いって。かっこいいでしょ」

パチン、と音を立て不慣れながらもライターの先端を回転させる。彼の手元で一瞬小さく灯った炎は、彼の満面の笑みを照らし出した。あたしが知りたいのは、それを誰から貰ったのか、ということなのに。

「この部分。フリント・ホイールっていうんだって」

火花によって再び揺らめいた灯火に手持ち花火を添えると、たちまち穂先を縮ませ、眩い光が飛び出した。

「はい。お兄ちゃんも」

あたしは、そのまま待機し、兄が手持ち花火を手に取るのを待つ。ライターをしまうと、兄は花火を手に取った。

「はい。お兄ちゃんも」

あたしは花火の穂先を兄の花火の穂先に重ねた。ぶわっと発火すると、もくもくと煙をあげながら輝き始めた。


「…お兄ちゃん、来年はこれるの?」

平静を装いながら、あたしは淡々と述べた。

「うーん。厳しいかもなぁ。忙しい時期だし」

「そう、なんだ…」

言葉に詰まる。それを察してか、兄は申し訳なさそうに眉根を寄せて言う。

「なに? 寂しいのか?」

あたしには重い言葉だった。言葉を返せずにいると、兄は後頭部を掻いた。

「…しかたないなぁ。来れるよう頑張ってみるよ」

「ぜーったいだからね」


 バケツの中身が増えていく。いつものように、花火を持って走り、振り回したりすることはなかった。ただ、バケツを囲み、手元にある花火の輝きを見つめ、淡々と消費を続ける。残すところ、花火は線香花火のみとなった。風を遮るように並んでしゃがむと、顔が近くなった。再び兄はライターを取り出し、ねじられた穂先に火を近づける。バチリ、と音を立て、小さな赤玉が溶岩のように溶け始める。

光源に照らされるあたしの顔に力が入っていたようで、

「ん? どうした? 面白くない?」

あたしの調子を気にしてくれた。

「ううん。落とさないように集中してる」

少しでもこの時間が延びるように。あたしは動かないように身を固めた。

線香花火ほど、時間を意識させる花火はないと思う。手持ち花火は終わっても次があるような気にさせてくれるのに、線香花火は、楽しいひと時が終わりに近づくことを想起させ、残りの本数のことばかりを考えさせる。

線香花火が、ずっと終わらなければいいのに。

二人の夜が、ずっと続けばいいのに。

「線香花火って長く保った方がいいって言うけどさ、俺はそう思わないな」

思いに反し、兄はつぶやく。

「えっ…。どうして?」

思わず、兄の顔を見つめる。

「手元に集中しないといけないから、花火をしている人の、楽しそうな姿が見れないからね」

その目には、一体誰が映し出されているのだろう。あたしは兄を見つめることができなかった。


 最後の火球が滴る。花火が、この夜が終わってしまった。花火によって消えていたはずの波音は再び耳に流れ込んでくる。

「もっと、花火したかったなぁ…」

思いが漏れ出す。

「少しでいいって言ってたのに。相変わらずの気分屋だなぁ」

確かに、ここへやってくる前までは、とっとと花火を済ませたい。二人でいる時間をできるだけ短くしたい。最後となるであろう、この出来事を、苦い記憶として終えたくないと言う思いが強かった。そのため、少しでいいよ、と兄に告げていた。でも、こうして花火をはじめてみると、違う思いがこみ上げてきた。まだ、終わりたくない。もっと一緒に過ごしたい。そんな、独りよがりでわがままなままのあたしの感情があたしの外に出ようとあばれるのだ。

「まるで波だ」

兄は言った。

違う。波なのは兄のほうだ。傍には居てくれるのに、心は必要以上には近づいてくれることがない。波間に寄せても、あたしの足に届かずに返っていく波だ。あたしは、どん、と兄に寄りかかり体を預けた。

「どうした?」

「…そういう、気分なの」

薄手のTシャツを通じ、体温を感じ取る。胸の高鳴り。呼吸をするのが難しい。これまで、幾度となくこの場所を共に過ごしたはずなのに、最後の旅行になってしまうだろうことが悔やまれて仕方ない。身を寄せる心には、嬉しさやときめきなんかより、その体温を求める寂しさや悲しさが押し寄せる。

「こうしていられるのはもう半年もないんだな」

兄はぽつりと呟く。

「…」

ダメだ。兄は前進するための努力してきたのに、停滞を望むのは間違っている。あたしも覚悟を決めなければならないのだ。

「さて。残念ながら花火も終わったし、帰ろっか」

兄はあたしを起こし、立ち上がる。手を取ると、あたしを引っ張り上げた。

「さ、いこ」

繋がれたその手のひらからは、兄の力強い脈を感じた。どうして、この流れる血が、あたしと同じではなかったのだろう。同じだったなら、きっとこう想うことはなかったはずだ。

せめて。どうにもならないことがわかっていたとしても。打ち砕かれることが目に見えているとしても。制服に袖を通していられる残り時間で、この気持ちを伝えられるだろうか。あたしには、それが…。


夜は更けていく。波は寄せては返し続けている。どうか、焦がれる想いもさらわれませんように。あたしは繋いだ手を離す。

「…もう少しだけ」

サンダルを脱ぎ捨て、あたしは目の前に広がる波打ち際へと走り出す。闇夜の中、くるぶしに浴びた波は冷たい。

あたしは、振り返る。

追いかけてきて欲しい。そのくせ、覚悟もできない情けない想いに、冷たいあわ波が現実を突きつけてくる。

立ち尽くすあたしと兄との距離は、未だ遠いままだった。

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