輝赤(きせき)の雨

 水鏡の水平線はどこまでも続く灰空を反射させ、視界を白くぼやけさせる。

 生きているのか、死んでいるのか。そんなことすら些細になってしまうほど、ここには何もない。


 駆動するバイクは彗星だ。幾重にも広がる波紋を生み出しては置き去っていく。モーター音を響かせて向かう先は、宛てのない場所ではなく、GPSが示すことのできる座標。かつて調査団だった彼女の両親が、そして、幼かった彼女が両目に宿した光景だ。

「この場所は、ウユニ塩湖のように晴れることはない。ずっと曇り空さ」

「知ってるー」

思念にのせて言葉を伝えられる僕とは対照的に、エンジンの轟音に憚られないよう、彼女は声を張り上げ答えた。

「それでも、まれに夕陽が顔を出す時…、その時さ。この世界が命あるものだと思い出せるのは」

僕は呟く。彼女に伝える為なのか、僕がその光景を思い出す為なのか。

東南アジアの雨季空(あめぞら)は今日も灰白い。


 僕の二度目の意識は、何もない、この場所で産み落とされた。充血した衝動を宿す眼。一瞬に冷えていく体とは対照的に、燃えるように熱い腹部。怨恨に歪んだ表情。最後の瞬間が視界に転写され、黒に焼き尽くされた後、映像が切り替わった。

 美しい光景だった。何が起きたか理解できず、悪夢から覚めた後の恐ろしさが体を包んだ。なんでもいい、僕を一人にしないでくれ。身を任せ、眼前に映る、母に抱かれた彼女にすがりついた。

「あたしは覚えてませんけどね、全く」

水平線を見据えたまま、彼女は呟く。それもそうだ。彼女がこの場所にやってきたのは十五年前。三歳の頃なのだ。

「でも、記憶の断片、既視感みたいなものはあるんじゃない?」

僕は尋ねる。

「ないですよ。あったとしても、それはテレビやネットで観たウユニ塩湖の映像が脳にすりこまれた、まやかしの光景です」

彼女は冷静に告げる。

 速度メーターの目盛りは徐々に下降し始める。モニターの座標を確認すると彼女はブレーキをかけ、バイクを止めてエンジンを切った。ヘルメッドを置く。速度にボタついた髪を彼女は軽く整え、周囲をぐるりと見渡した。

 まるで、この世界が水たまりだけで出来ているかのように、視界には一面の水鏡しかなかった。うごめく白い雲は、どこまでも空を覆っている。鉱物が主成分でやせ細ったこの地では、たとえ豊満な雨が降り注がれようと植物が育つことはない。

 モノクロの海に立っているようだった。その現実離れした光景の中で、バイクが付け続けてきたの彗星の跡、そして、地に立つ彼女のブーツの跡が違和を放ち、この世界が現実のものであることを示してくれている。

「ここです」

彼女は僕に振り向いた。


 最初に彼が視えた時、あたしはなんて言ったんだろう。十五年前。まだ簡単な言葉しか口にできなかったあたしは、初めて彼を視た。

 彼は、自分は死んでいる、と言った。死、という概念をまだ理解できていなかったあの頃は、その言葉が意味することを知ることよりも、そこにいるのに、いない、という存在そのものに夢中になってしまった。お兄さんがそこにいる。ほら、座ってるよ。そんな好奇心からくるあたしの言動で両親を困らせてしまっていた。視えないものが視える、という幼児特有の流行病だろうと大ごとにはならなかった。しらはくして、周りの顔色を伺うことを覚えたあたしは、彼のことを両親や人前で喋ってはいけないのだということがわかってきた。

 あたしが言葉と社会規範を理解できるようになってから、彼はあたしに、あたしは彼に話しかけるようになった。彼は、いつもあたしのことを気にしつつ、自分のことを気にしなくてよいこと、わたしに張り付いて動けなくなってしまったことを申し訳なく感じていること、そして、そんな彼が、この世にかつて実在していた人物であるということを彼から告げられた。

「殺人事件の調査をした頃が懐かしいね」

彼はあたしの隣に立って呟く。十五年経っても変わらない、彼の姿。年を取らないまま、死の直前の姿で存在し続けている。あたしはいよいよ彼が生きていた時の年齢に近づきつつある。

「そうですね。色々ありました」


「まさか、殺された側の方がここまで長く、この世に留まることになるなんて思わなかった」

僕は、十五年前。当時付き合っていた女性に刺殺された。中学生になった少女に告げた時、最初は信じてもらえなかった。彼女が人前で僕のことを示唆することを避ける少女に無事育ったことで、両親や周囲の人間に無為な精神治療を受けさせられることはなかったが、いずれ僕の存在について話さなければならないだろうということは常に考えていた。

 彼女が精神的に成熟した高校生になった三年前、僕は、僕の本名と僕が殺された時間・場所を告げた。そして、実体のない僕にはできなかった、僕を殺した女性のその後の消息を探してもらった。ようやく、僕が実在することを、いや実在したことを理解した彼女は、僕の手足となって、僕の痕跡を見つけ出してくれた。新聞やネットの隅に残されていた事件の記事には確かに僕が殺されたことが記載されていた。それに加え、僕を殺した女性がその後自殺したという追記があった。僕を殺して、自分も死ぬことを選んだのか。実体のない僕ですら、言葉にならない思いが漏れ出た。

「それにしても、彼女に殺されたのに、よく平気でいられますよね。女の子と居るのに」

確かに、普通の人間ならトラウマものだろう。狂気と悲しみに満ちた彼女の充血した瞳を僕は忘れられずにいる。もしかしたら、死んでいるから二度と殺されることがない、という事実があるからかもしれない。いや、そんなことよりも、僕を殺した女性なんかより、ずっとずっと長い時間、君と一緒にいられたからだろう。

「君が、“女の子”になる前から一緒に居るからだよ。なんなら、僕の中ではまだ子供だけどね」

「もう子供じゃない! 大学生だし」

「それから?」

「一人で海外に来れる」

「それから?」

「バイクも運転できる」

「それから」

「こうやって、この場所にあなたを連れて…」

少し怒ったような彼女の横顔が僕に向いた瞬間、彼女はやはり少し悲しい顔を浮かべた。

「…いるよ」

音もなく消えてしまうのではないか、彼女は心配そうに僕を見つめている。そんな表情を見るためにここに来たわけじゃないんだ。僕は冗談を、いや、そう願いたい思いを口にする。

「僕が女の子と居られる理由は、もしかしたら…」

「もしかしたら?」

「神様が、女の子は皆、本当は素敵なんだ、ってことを理解させてから死なせようとしているのかもね」


 穏やかな彼は、不条理な憎しみを受けたにも関わらず、いつもこうやって微笑んで冗談を言う。その余裕は一体どこから来るのだろう。

 彼は交際相手の嫉妬により殺された。女性は、さんざん浮気をした挙句、大切にしてくれていた彼を、私をどうして浮気しないようにしてくれなかったの、という理不尽で、衝動的な逆上で刺し殺したのだった。彼には、殺される理由は一つとしてなかった。彼が残した部屋には、彼女との思い出の写真が飾られ、刺繍の得意だった彼が彼女の大切なセーターを修繕している様子が残されていた。彼の友人周りの証言や、加害者の証言からも彼の温厚で優しい人柄は明らかで、むしろ呪い殺されるべき相手は女性の方だった。

そうであるにも関わらず、仕方のないことだった。運が悪かっただけ、なんてすんなり運命を受け入れている。どこまでお人好しなのだろう、あたしと生まれた世界が違いすぎる、愛された人、だったのだ。

「…本当にお別れなの?」

あたしが大学生だった半年前。彼は、あの場所に行きたい、と言った。そろそろ君を一人にしてあげたい。人並みに恋愛をしようにも、僕の影が君を邪魔してきた自覚はある。だからこそ、そろそろ去らなければいけない頃なんじゃないかな。彼はそう言った。

「分からない。でも、その可能性があるからここに来たんだ」

彼の発言から半年経ったと言うのに。頑張って免許やパスポートを取ったのに。ここまでやってきたと言うのに。あたしの心は、現在進行形で整理できていないままだった。


 白かった空にオレンジが点り始める。それは街灯が遠い先から順番に柔らかな炎を灯すようだった。薄雲ごしに斜陽が注ぎ始めたその時、オレンジは赤へとグラデーションを始める。

「…いよいよ来たね」

「うん…、あっ」

思わずその光景に声を漏らした。


 命を見た。鮮やかな紅が、この、モノクロの水平線に優しさを広げていく。天の茜雲から降り注ぐ幾重もの霧雨は、輝くルビーの雨を大地に降らせた。

「きれいだ…」

「うん。きれい…」

無機質だった地平線が脈々と命に揺れる。夕焼けなんかより、はるかにこの世界に命があることを実感させるその光景からは、しばらく目を離せなかった。

 彼が、この場所で蘇ったのは、この場所が、彼が受けた理不尽な死の対極にあるからだと思う。

この場所には、鮮やかな生があるからだと思う。

そうであってほしい。あたしは心の中でそう願っている。


「かんな」

あたしの名前を呼ぶ。赤の残り香が地平の先に尾を伸ばした頃、彼は口を開いた。

「…生きるってなんなんだろうね」

「あたしだってわかりません、けど」

「けど?」

彼はあたしを一瞥する。

「景色、綺麗って思えるじゃないですか」

あたしの言葉に、彼は赤い水平線へ再び向き直る。

「世界を美しいと感じることができるじゃないですか。それは生きている人にしか出来ないことだと思います。だから、あなたは十五年間、確かに生きてきました」

「僕は、生きているのか」

噛みしめるように、彼は言葉を反芻する。

「…そうか。生きている」

そう言って、彼は茜空を見上げた。あの頃からずっと美しい横顔を携えて。

あたしは、やはりこの言葉を言いたかったんだろう。確信に変わったその時、自然と言葉が出た。

「…あたしはあなたがずっと好きだった、いや今もずっと好きだ」

思いを乗せるように、それでいて正しく伝わるように。一字一句に意味を込めながら言霊を吐き出す。

はっとした彼はあたしに向き直り、大きく笑む。その表情はいつもの調子で優しく、愛情に満ちていた。

「重い女はこりごりなんだ。どうか、勘弁してほしい」

それでいて、どうしてそんなに嬉しそうな笑みを見せてくれるのよ。

「重くない! 軽い!」

「それはそれで嫌だな」

「変なこと言わせないでよ!」

ムッとしたはずが、その表情を見ていると、自然と腹の底から笑えてきてしまった。

「とうとう自分の死すらネタにし始めたのね」

「十五年も経てば、笑い話にしたっていいじゃないか。生きてるけど、死んでいるんだし」

「なんか、バカみたい。生きてることなんて無理に考える必要なんてなかったのかもね」

あたしたちは子供のように笑った。


 リュックサックからタンブラーを取り出し、ぱかり、と音を立てて、彼女は蓋を開けた。まだ湯気が登っており、ルビーに揺れた残空を眺めながら、彼女は暖かいコーヒーを口にした。勢いよく流し込んだ彼女は、その熱さにゲホゲホとむせ返す。

「大丈夫?」

「大丈夫だから!」

触れるはずもない僕の手を払いのけ、口元を拭った。

「ゆっくり飲みなよ。時間はあるんだから」

「そんなことはないわ。時間は大切にしないと」

どうやら、彼女の中の何かが変わったらしい。

 息を吸い込んでむせ返り、痛みを感じながらこの世に生き返るよりは、こうして、肉体はなくとも、輝赤の雨の中で彼女と共に蘇生できたことは、僕にとっては悪いものではなかった。確かに、殺されたことに対して、憎しみを抱いていないと言えば嘘になる。それでも、そんなことが些細に思えるほど、彼女と過ごした死後の十五年間は僕を満たしてくれた。そして、今日、再びこの場所で焼き付けた輝赤の雨と彼女の輝く横顔は、僕がこの世に残って待つべき理由を教えてくれた。あと、何年この世に居られるかは分からない。それでも、もう少しだけ存在したい、その思いを再確認することができた。

満足した彼女はヘルメッドを手に取り、装備を始める。

「さぁ、帰りましょう」

「そうだね」

僕らはバイクにまたがる。

エンジン音がこだまする。

車体と彼女が、小刻みに揺れる。

「あなたがまだこの世界に居られること、確信してるわ」

日本は遠いし、もう十五年も経つ。

「どうして?」

でも、そのことには、僕も確信を持っている。彼女の背中につかまる僕は尋ねた。

「あなたと居る日々が鮮やかなままだからよ」

彼女と僕は、彗星になる。

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