ローグシャーの朝に

 気づけば、いつも異国の空の下にいる。彼女が見ようとした世界を探してー。


 乗り継ぎバスを待ちわびていた。まばゆい星空の丘、ローグシャーへの数少ないアクセス方法。それがこの廃れた路線というわけだ。

果てに向かうにつれて、家屋や乗客は次第に減り、景色に人工物がなくなった頃には、さめざめとした雨がバスの窓を滴っていた。

天気予報は好天だったのに。星空が見れる、という淡い期待はバスを降車する頃にあっけなく打ち砕かれた。

「本当にここで降りるのか?」

下車する意思を伝えた際、運転手の中年男性は、心配するような、好き者だなというような怪しさを持った視線を向けて訪ねた。

「ええ」

「お気をつけて」

 僕以外に人はおらず、簡易的な雨よけが施された、小さなバス停以外には、一本の道路と起伏に富んだ草原どこまでも広がっていた。

 厚く垂れ下がる灰色の雲はどこまでも続く。相変わらず、本当に運のない男だ。自嘲する。その上、降りるとはいったものの、帰りのバスはどうするのだ。代わりに見られそうな観光地もないのに、浅はかだった。ぐるぐると、心の中にも灰雲が対流を始める。

 いざとなれば簡易テントを張って寝ればいいじゃないか。バス停の長椅子でうつむき、雨音が奏でるノイズで頭を冷やしていると声がかかった。

「旅の人かい?」

顔を上げると、チェックの服にオーバーオール姿のふくよかな老人が立っていた。僕のオレンジのバックパックを見て話しかけてくれたのだろう。

「ええ。星空を観に来たんです」

俯いていたこともあり、充血する目の脈動を感じながら男性を見つめた。

「それは残念じゃったな。好天は明日にずれ込むらしい」

「そうですか…」

雨に濡れた青年の姿が老人にはどう見えたのだろうか。腕組みを解くと、僕に笑みを投げかけた。

「どうだ。ここで出会ったのも何かの縁じゃ。うちに来ないか? 見た所、泊まるところも決めずに飛び出してきたようじゃしな」

「いいんですか?」

「ああ。せっかくうちの村に来たんじゃ。せめて、いい思い出を残して帰ってもらいたいからな」


 年の割に力強い歩みを踏み出すおじいさんに連れ立っていくと、丘の上に大きなログハウスが見えてきた。おじいさんは立ち止まり、こちらを見ながら指差した。

「あれが我が家じゃ。どうだ。雲が近いじゃろう。それに、あっちを見てくれ。麓の街がよく見える。気分は仙人じゃ」

僕らの立つ丘からは、湾へと続く平野。そして、湾へと溶け込む支流に沿って立ち並んだ市街地がよく見えた。

 おじいさんの家の前に到着すると、その巨大さに驚いた。がっしりと組み合わされた巨木が入江に向かってどっしりと構えられており、首を大きく上へと見上げなければ、屋根の全景が収まりきらなかった。

「まぁ、何にもないところじゃが、ゆっくりしていってくれ」

「はい」

屋内に入ると、すぐにさめざめとした雨が大きく音を立て始める。家の前に設置されている木製のベンチは雨に濡れ、窓ガラスを伝う雨粒は次第に流線を形成した。

 バス停に到着した頃は霧雨だったことから、天気予報がもう一度外れて晴天になるかもしれない、という一縷の希望があった。しかし、この状況では完全に晴れ間は現れないだろう。僕は大きくため息をついた。

 変わることのない雨の強さに諦めがつき、僕は窓の外を眺めるのをやめた。

「歓迎が遅くなってすまんかったな」

「ありがとうございます」

おじいさんは僕に暖かい飲み物を手渡し、向かいの大きなテーブルに向き、椅子に腰掛けた。テーブルには様々な布が並び、中央には、小さな螺旋状の機器が取り付けられた天球儀のような機械がゆっくりと動作を始めていた。

「これは、骨董品の編み機じゃ。珍しい形をしておるじゃろう。昔、わしが作ったんじゃ」

手芸が趣味だというおじいさんは、手元の虫眼鏡に目を向けながら話してくれる。

「おじいさんは一人で暮らしているんですか」

「ああ、今はな。つい五年前までは妻がいたんじゃが、先に旅立ってしまったわ」

「そうですか。なんだかすみません」

「いや、いいんじゃよ。もう笑って過ごせるわい。そんなことより、お前さんも”ひとり”、なんじゃないのか?」

「えっ」

「お前さんが、なんだか五年前のわしを見ているようでな。一人で。一人きりで、魂を震わそうとして空回りをしておるのだろう。そう、わしにはみえた。だから、声をかけたんじゃよ」

おじいさんは僕に同じ匂いを感じていたらしい。

「似た者同士、ってことですか」

「まぁ、端的に言えば、そうなる。で、どうなんじゃ。わしの目は正しかったのかね?」

「…その通りです」

「なにかあったようじゃな。話してみなさい」

おじいさんはいつの間にか手を止め、こちらに向き直っていた。その目は暖かくも真剣そのもので、僕から視線を話そうとしなかった。

「わかりました」

 僕は、僕が旅する経緯をおじいさんに打ち明けることにした。

「…生涯を共にしよう、そう誓った彼女が僕にはいました。奇遇という言い方も変ですが、その女性も、おじいさんの奥さんと同じ五年前、若年性の病が原因でこの世を去りました。

 生前、旅行好きだった彼女と僕はこうやって、いろんな国を巡っていました。そんな熱の冷めない中で、病床に伏せたものですから、大層悔しかったことでしょう。結果として、遺書となった彼女の最後の手紙には、私の分まで景色を見て回って欲しいということが書かれていました。美しい文字には、恨みつらみはなく、ただ純粋な情熱と渇望、そして希望が力強く込められていました。

 僕は彼女の遺志をくみ、休みを見つけては世界中を見て回るようになりました。生前、彼女が見たいといっていた場所、モノ、そして人々。僕は、彼女との記憶が灰となって色褪せる、その前に書き起こしたものを参考に、できるだけたくさんの景色をこの目に焼き付けよう、そう思って旅するようになりました

 ここ、ローグシャーの星空も彼女が見たいといっていた場所の一つでした。星空の丘、美しいその響きに魅了されていたこと。誰もいないようで、星々に包まれる、そんな素敵な場所、行かない手はないじゃない、そう言いながら笑った彼女のまばゆい笑顔を叶えたいと思っていたんです」

「そうかい。立派じゃな。ちゃんと彼女の願いを叶えておるなんて。ただ…」

「ただ?」

「今回は、見せたいものが見せてあげられないのは申し訳ないのう」

おじいさんは目元を少し細め、残念そうに窓の外を見つめた。

「いいえ。おじいさんのせいじゃありませんよ」

「残念ながら、明日まで晴れ模様は見込めんわい」


 夢を見た。昔、彼女と東南アジアの動物園を訪れた時の思い出だった。

『あなたはいつも簡単に諦めすぎ。もう少し、図々しく行かなきゃダメよ!』

「そうは言ったって、もう閉園時間十分前じゃないか。今から入るのは迷惑だよ」

『大丈夫! 十分で戻ればいいんだから!』

片付けを始めたパークスタッフが目に写る。

「おおらかな国民性であるからといって、迷惑をかけてはいけないよ。諦めよう」

『嫌。これを見ないで、何しにこの国来たっていうの?』

「それならなんでもっと先に来る計画にしようって言わなかったの?」

『旅に変更はつきものよ。全部、全部しっかり見ないと意味ないじゃない』

珍しく彼女と口喧嘩をした夢。最近よく見る夢の一つだった。

「また来ればいいじゃないか」

『また、っていつよ?』

「それは…」

彼女は僕の両手を掴み、僕をまっすぐ見た。

『まだ、十分ある。その”十分"を見なかった後悔は一生残るのよ。もしかしたら、素敵なものがその”十分”で見られるかもしれない。もしかしたら、私が死んじゃって、その十分が二度とないかもしれない。たとえ、十分に高いお金を支払うことになろうとも、少し、無理をすることになろうとも、二度とできないのならば、私はお金も、プライドも。絶対に惜しみはしないわ!』

「そうは言っても」

『もちろん、スタッフには一言断りを入れてくから! じゃ、行って来るわね!』

そう言い放ち、園内に入っていく彼女の後ろ姿を見送る。いつも、その場面で僕は夢から覚める。


 時計は午前四時だった。空は相変わらず重い雲に覆われていたが、雨は上がっていた。今回も簡単に星空を諦めていた僕の心の奥底には、彼女の言う後悔が少なからず芽生えていたのだろう。目が覚めてしまったので、静かに外の生乾きの木製のベンチに座り、ぼうっと灰に染まる空を眺めた。

「なんじゃ、諦めてなかったのか」

「う、うわっ!」

暗闇の中、急に後ろから声がかかったため、僕は飛び上がった。振り向くと、おじいさんが立っていた。

「そんなに驚かなくてもいいじゃろ」

「やめてくださいよ。幽霊かと思ったじゃないですか」

「お前さんを恨む要素なんてないわい」

そう言いながら、僕の隣に腰掛けた。

「朝まで待つつもりか?」

「そうですね。ここまで来たんです。もう少しだけ粘ってみようと思います」

「そうか。風邪、ひかんようにな」

そう言うと、朝の準備があるからと、おじいさんは室内に戻っていった。

 彼女の言う、最後の”十分"の意味をしばらく考えていた。誰しも時間に限りがあり、明日がわからないのだから、今、この瞬間にもっと執着すべきだと言いたかったのだろう。わかっていたつもりだった。しかし、言葉に反し、彼女と共に旅をし、彼女のその姿を見てきたはずなのに、一つ一つの旅の質よりも旅の量にこだわっていた。たくさんのものを見られるだけ見ておくことこそが、彼女への弔いになると信じて。

 でも、彼女の言っていたことを僕は勘違いしていた。見られる期待が薄いのものはやめにしておいて、代わりのものをたくさん見よう、そう考えていた。一人になってからも、根本的に僕は変わっていなかったのだ。

 もう少し、もう少しだけ。儚い有限の時間の中で、今に、そして世界に期待すること。そして、あきらめないこと。それが、彼女が本当に言いたかったことなのではないのか。だからこそ、五年経った今でも彼女が亡霊として夢に出てくるのだ。

きっと、美しい空は広がる。朝までの残り時間に、僕はかけてみることにした。

 うとうとしていたらしい。徐々に雲が白色がかっていた。朝が近いようだ。やけに雲の動きが早く、雲が滞留しながら左から右へと流れていく。その時だった。湾岸からまばゆい光が反射し、眩しさに目を覆った。

 太陽だ。雲を割くように平野を照らし始め、徐々に丘に向かって光が昇ってくる。

たちまち、まばゆいオレンジの草原が眼前に広がった。

「わしの予報も外れたようじゃな」

嬉しそうに笑むおじいさんはテーブルを運んでくると、テーブルクロースを敷き始めた。たっぷりの野菜、こんがりとした色目のベーコン、ぷりっとした目玉焼き、香ばしい小麦の薫るクロワッサンをテーブルに並べていった。最後に熱々のコーヒーを白いカップに注ぐと、僕の隣に座った。

「さて、朝食にしようかの。わしは、星空よりも朝焼けの方が名物じゃと思っているが、どうじゃ?」

おじいさんの言葉に、熱いものがせり上がって来る。

「…そうですね、最高です!」

「あきらめなかったお前さんの勝ちじゃな!」

ええ、と僕は言ったが、彼女の意志が僕を勝たせてくれたのだ。

ふわりと香るコーヒーを一口含む。冷めきっていた体の感覚が、徐々に蘇ってきた。テーブルを輝かせる温かな陽射しの中、僕はようやく、彼女が見ようとしていた世界を見られるようになったのだろう。僕はこの遠景を強く瞳に焼き付けた。

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