アメリアの花火

 湖畔地方のアメリアに辿りついたのは、長野を発って二日後のことだった。空港からチャーター便のバスに揺られること数時間。疲労感がピークを迎えようとしていた僕の目前に現れたのは、山脈の切れ間の巨大湖、アメリア湖だった。まばゆい太陽をキラキラと反射する水面に、これまでの疲れが一気に吹き飛んだ。

 数十年前、市から移住者が現地開拓をおこなった経緯から、アメリアとは姉妹都市提携を結んでいる。今回、四年おきに開催されている相互表敬訪問の代表団として僕が選出された。セミの泣き始める中学二年の初夏、十人の表敬団とともに、僕はアメリアへと赴くこととなった。

 現地に到着してからは、荷ほどきや滞在説明などで慌ただしく時間は過ぎた。気付けば空は赤く、団長の指示に従い、僕らは大きなホールに集められた。

 簡単な歓迎パーティーを開いてもらえるとのことだった。テーブルには、現地の伝統的な夕食が並び、立食形式のパーティーが始まった。盛大な拍手とともに、僕らの自己紹介が始まった。壇上に並ぶと、ホール全体が見渡せる。大半が大人だが、中には制服姿の子供も何人か見つかった。それもそう、現地の学生交流も予定に含まれているため、僕らの紹介の後に挨拶があるのだ。

 壇上で、現地の言葉でたどたどしい挨拶をした後、一人の少女が駆け寄ってきてくれた。

「とても、よかった!」

日本語として聞き取れたが、独特のイントネーション。笑顔で手を差し出す彼女がアイだった。

「ありがとう」

照れ笑いしながら握手を交わす。

「わたし、アイ。よろしくね」

「こちらこそ、よろしく。僕は、サカキ」

「パーティーは特別だから、制服を着なさいって言われてたの」

 アイは日系三世で、浅黒いが見た目は日本人そのものだった。文化の違い、そして熱帯雨林地域ということもあってだろう。彼女の服装は、学校でも薄いピンクのキャミソールにハーフパンツ、サンダル姿。見た目とその服装のギャップに僕は衝撃を受けた。明るく、無邪気に話しかけてくる彼女を一言で表すなら、陽気。一緒にいるときはいつも、笑顔が絶えることはなかった。

 僕は精一杯覚えてきた、現地の言語を。彼女はおばあさんから習ったという、自分のルーツである日本語をお互いに配慮しながら会話する。ちゃんと伝わっているかな、そう伺うように表情を覗き込み、目を合わせてお互いの話を慮る。本当は日本語がペラペラなんじゃないか、と思ってしまうほど、僕らの会話は早かった。徐々に僕はアイの、日本人から若干かけ離れた発音や表現、カタコト具合に慣れ始め、アイは、僕の話す現地語の発音を理解し、正しい発音を教えてくれた。

 文化の違いを感じたのはパーソナルスペースの近さとスキンシップの強さだった。日本人とは違い、この国の人々は、親しさというものが素直に対人距離と密着具合に現れる。ぐいぐいと僕に近寄ろうとすることが、非常に困ったところだった。コロコロ変わる豊かな表情。喜ぶたびに僕の腕をとる彼女の動作に、頭がのぼせたような感覚になり、なんだか疲れてしまう。

 前半三日目を終える頃には僕のことをお気に入りと言いふらしてくれるほど、仲良くなることができた。アイを介し、日本語のしゃべれない友人たちともコミュニケーションを取ることができるようになり、すれ違うたび、サカキ、と僕に声をかけてくれる人が増えた。それは、言葉は完全に通じないが、心は通じている。そう、僕が思うには十分な経験だった。

 六日目の夜には、カーニバルに招待されることになっていた。流入した日本人の文化が、日系人が増えゆく中で緩やかに混ざり合い、カーニバルには日本の祭り的側面も溶け込んだ趣深いものになっている。団長や、お世話になっている、現地職員の人から話をきいた。

 現地の人、それからアイやその友人達との楽しい日々は氷が融けるように一瞬で、あっという間にカーニバルの夜を迎えた。カーニバルでは、派手な衣装に身を包むという話を耳にしていたこともあり、僕はアイの晴れ姿が見れることをとても期待していた。

 しかし、待ち合わせの時間に現れた彼女はいつものキャミソール姿だった。サンバ等の出し物もあるため、てっきりアイも参加するものとばかり考えていた。いや、サンバまでは時間がある。このあと準備するのだろうか。

「カーニバルには出ないの?」

少し伺うように僕は言った。

「毎年出られるもん。サカキがいるのは今年だけ」

「そっか。じゃあ、一緒に見て回るの?」

露店やダンス、祭りの浮ついた雰囲気を二人で見るのも悪くないな。そう思っていたが、彼女は首を振り、

「見せたいものがあるの」

アイは勢いよく僕の手を取った。

「えっ」

手を引かれる先はカーニバルの会場とは逆方向だった。

 アイは無言で僕の右手を引っ張り続ける。僕らはひたすら湖畔沿いの土道を歩き続けていた。指先から伝わるほのかな温もり。湿った土の匂い。既に日は落ち、夕闇と巨大な雲が空を覆い始めている。

 時々振り返ると、遠くにカーニバルの華やかな光が灯り始めていた。なぜ、こんな光のない方に向かっていくのだろう。僕は内心、不安を感じ始めていた。しばらく歩くと、湖の中心方向に向かい、木製の桟橋がまっすぐ設置された船着場らしき場所に到着した。

「ここなの」

カーニバル会場からちょうど対岸の位置。カーニバルの楽しげな喧騒と設置された会場の光が遠望できる。湖面はタールのような漆黒色。風はない。

 どこか寂しさを感じるこの場所に、なぜ彼女は僕を連れてきたのだろうか。僕は辺りを見渡す。アメリアは僕の住む街と本当によく似ている。山々に囲まれた湖の傍にできた街。低い山々の尾根の向こうから漏れてくる隣街の明かり。優しい人々。僕の街そのものと言っても過言でなかった。

「座って」

彼女に促され、桟橋の際に僕らは並んで座った。二人きり、闇夜。この状況、いろいろとまずいのではないだろうか。少しずつ心臓の鼓動を意識し始める。アイは無言のまま、足を仄暗い水面に入れる。闇が波打った。僕は慌てて彼女に尋ねる。

「ピラニアとかいないのか⁉」

「…大丈夫。ここは湖だから」

いつもの彼女とは違う、あまりに冷静な返答に僕はどうすれば良いのかわからなくなってしまった。

 僕らは無言のまま、対岸を見つめる。彼女の息遣い。僕の鼓動。あまりの静けさに聞こえなくてもいいものまで聴こえてくる。未だ彼女の意図が見えてこない。

「ねぇ、サカキ。この祭りは日本の祭りに見える?」

彼女がポツリと呟く。僕に投げかけているはずなのに、自問しているようなアクセントだった。

「そうだね。部分的に。なんだか不思議な気分。とっても遠くにきたはずなのに、日本から出てきたのが嘘みたいだよ。隣町の祭りに来たみたい」

場を和ませようと、いつもの彼女が期待するであろう答えを率直に返した。

「そう…」

しかし、彼女は僕の表情すら伺わず、また沈黙した。何か悩んでいるのだろうか。視線は対岸から離れることはなかった。

「…ねぇ、サカキ。私は日本人にみえる?」

彼女の声はさらに小さくなった。

「うん。そう思うよ」

僕は肯定してほしいものだと思い、率直な意見を返した。

「私はたまに、自分が何者なのかよくわからなくなる。日本人の血が100%流れているはずなのに、日本語喋れない。心は日本人じゃない」

「…」

徐々にトーンと言葉に力が入る彼女の発言に僕は言葉が出てこない。

「でも、私の故郷(ルーツ)はここ」

「…うん」

また、しばらくの沈黙。対岸の遠影を見つめる彼女の表情と視線は変わらない。仄明かりに浮かび上がる彼女の表情は日本人、そのものだった。キャミソールの片側の肩紐が垂れ、脱力しきった彼女は、何を見ているのだろうか。

「ねぇ、サカキ」

アイは急に、僕の左手を取った。繋いだ手から感じる熱に心臓が跳ね上がる。

「なに?」

「私は…」

僕を見つめる芯のある瞳。何かが喉元まで上がってきたその時だった。遮るように、視界が瞬く。巨大な鳳仙花に遅れて、破裂音が響いた。

「ひゃッ」

驚いたアイは繋いだ手を解き、腕を抱きしめて胸に引き寄せた。柔らかい感触。僕自身の鼓動の高まり。彼女の鼓動の高まり。熱を帯びた何かが体から溢れてくる。

 対岸の華麗な爆破の連続は、諏訪湖で観た水上花火そのものだった。巨大な光の輪が、湖面に放射状に広がり、街の建造物の影を浮かび上がらせている。爆発する光の点は尾を引いて輝きを水面に融けていった。

「…これは、日本の花火。日本人が始めたもの」

「私は一体…」

アイの瞳には火花の色味を含んだ大粒の涙が流れていた。それは、この五日間を共に過ごした中で見たことがない、悲しげな表情だった。日本人と同じ肉体、血。でも、日本人とは違う文化、こころ。僕らを隔てている違和感は一体なんなのだろうか。

 僕は、彼女が僕と接触してきた理由を勘違いしていたのかもしれない。僕への興味や異性としてではなく、これまで彼女が抱いていた自分のルーツに関する違和感、それを本当の日本人である僕を通じて知りたいという一心で、僕と行動を共にしていたのだろう。おばあちゃんから必死に習ったという日本語。お気に入り。全部、そういうことだったのだ。彼女は僕と接触することで、自分の中にある自分が何者かであるか。その命題を解き明かしたかったのだろう。しかし、僕との接触ではらそれが解決できなかった。その絶望と悲しみが、涙となって溢れたのだろう。彼女の意図、感情に気付いた時、高鳴る心臓に雷が落ちた。

 同時に、その気づきは、初めて抱いた恋という感情の芽を早くも摘みとられてしまったということでもあった。棘の生えた蔦が心臓を中心に広がり、容赦なく締め上げ始める。痛い。僕は初めて、実のない痛みを感じた。全身を伝い、視界がぼやけていく。恋を意識する間もなく、初めての失恋を経験したのだった。

 抱きしめられた腕。ただ水面のように視界で淀み続ける花火。僕らは離れることはなかった。最後の花火が終わり、再び対岸の賑やかな喧騒が聞こえ始めた。

「…ねぇ、抱きしめていい?」

「…」

言葉の出ない僕を彼女は引き寄せ、強く抱きしめた。彼女は僕から、日本人から何かを、最後の搾りかすだけでもいいから引き出したかったのだろう。えらく抱きしめる腕に力がこもっていた。彼女の温もりを感じる一方、先ほど抱いた感情はもはや存在せず、ただ強く心で抱いていた、刺の生えた蔦がリアルな痛みだけが僕を駆け巡っていった。

 諏訪の花火を観るたび、僕は思い出す。あの日お互いに抱いた心の傷。日本にいるというのに、古傷のように痛み続けるのはどうしてなのだろう。僕にとっては甘くて苦く、彼女にとっては苦さしかなかったあの夜が、僕にはずっと忘れられない。

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