雪天の下、砲台島で。

 エンジン音が曇天に響く。甲板を挟み、僕らは切り裂く波間を見つめていた。僕は彼女を横目に、彼女も僕を伺いながら、もうすぐ接岸する小島へと意識を向け始めた。


「とにかく人のいない場所。普段のデートでは行かないような場所がいい」

それが彼女のオーダーだった。普段の穏やかな雰囲気でなく、温かさや優しさの介在しない場所がいい、そう強く言う彼女に違和感を覚えつつも、彼女の希望に応じるべく、僕はある場所を選んだ。

 砲台島。近畿地方に浮かぶ、小島だ。半世紀以上前の大戦では、防衛・迎撃拠点として、砲台や城壁、弾薬庫等が建築された。戦後になり、不要となった砲台は破壊され、目的のなくなった砲台島は無人となった。近年、緩やかに朽ちる構造物が話題となり、今では、観光名所として名を馳せるようになった。

 こんな時期に来る人間なんてよっぽどの歴史マニアや武器マニアだけだ、と受付の初老の男性は冗談交じりに言った。物好きだね、と。

しかし、僕らには、物好き、という言葉が本当に笑えてしまう。なぜなら、僕らは、その対偶ー、人嫌いになった二人なのだから。

 僕らは、二人とも上京組で、社会人になってからは慣れない環境に順応すべく、様々なつながりを求めた結果、出会った。お互いに、地方出身ということもあって意気投合し、いつしか、お互いの悩みを打ち明けるうちに、お互いを補うようになっていた。

 そんな僕らが、社会人三年目になったにも関わらず、苦手であり続けたのが、人、だった。これだけたくさんの人を毎日見ているのに、どれだけ見ても、これまで一度も見たことがない人がいるということが怖かった。そのため、僕らが出かける先はいつも、人の濁流を避けるように、都心から離れた自然溢れる観光地ばかりだった。

 ジェット船がゆっくりと細身の桟橋に接岸する。後方の作業員が係船柱にロープを巻きつけ、アスファルトに橋をかけた。足元に注意するよう促され、桟橋へ降りると、幽体離脱したように波を漂った感覚だけが、意識に反して体を揺らめかせた。

 降りたのは僕ら二人だった。まっすぐ続く桟橋には、人一人見当たらない。船は、僕らを取り残すように水平へと去っていった。

「本当に、誰もいないのね」

希望通りであるものの、少しぐらい人がいるんじゃないだろうか、そう思っていたようで、少し寂しそうに彼女は島を見つめている。

「そうだね」

「…いこっか」

「ああ」

 島の入り口には、侵食された岩でできた石垣が設置されており、島名が書かれたプレートが貼り付けられていた。多い時には、無人島であるにもかかわらず三百人近くが一時滞在し、ハイキングや釣り、キャンプなどのためにやって来るのだという。にもかかわらず、先ほど職員に告げられたように今日の客は僕らだけということだった。

 腐りかけた矢印看板には、島の名所と距離が書かれていた。何度も塗り直されたようで、細かな文字が潰れてしまっていて読みにくい。僕らはまず、海沿いで冬風になびく竹林を横目に、レンガ要塞跡に向かうことにした。

 冷たい風が寂しさを余剰に演出する。歩き続けると、芝生の切れ目はやがて土塊となり、雑草や低松に覆われたレンガの残骸が徐々に浮かび上がって来た。風化、という言葉に似つかわしい、直方体の構造物。要塞跡だった。

「大きいんだね」

「こんなにはっきり残ってるなんて、驚いたな」

「なんだか、抹茶ペーストのかかったカステラみたいだね」

「言われてみれば、そんな風に見えなくもないな」

「でも、近くで見るととても古く見える。不思議な建物」

積み上げられたレンガの色や草木の色が明るいこともあいまっていたからだろう、僕らが近づいたことで構造物が劣化したのではないか、と思えるように壁面が様変わりした。

「確かに。魔法に解除されたみたいだ」

「そうね」

彼女は手のひらのミラーレスカメラを構造物に向けた。

「向こうに、砲台跡があるみたいだ」

声をかけると、彼女がのっそりと立ち上がり、こちらに歩いて来る。

 砲台跡、の名付けられた通り、破片の飛び散った台座の遺構がただ寂しく鎮座していた。台座の形から、海に向かって設置されていたのであろうことが容易に想像がつく。形の一部残った錆びた大砲らしきものが、大海に向けられているものの、今となっては、命中させる必要のある目標物が現れることは二度とない。

「もう敵なんていないはずなのに、何に向かって構えているんだろうね」

彼女はつぶやく。

「構えてなんかいないさ。退役軍人みたいに、穏やかに海を眺めているんだよ、きっと」

僕も、思いつきを口にする。

「終わってしまった、そういうことを噛み締めているのかな」

少し、不愉快そうな、悲しそうな表情を砲台跡へと向けた。その横顔が、妙に僕の瞳に残像を焼きつかせた。

 枝葉や太い木々の根が覆いかぶさるようにレンガ造りの貯蔵庫は緩やかに侵食されていた。内部の通路は暗く、ここで迷子になったら二度と再会できないのではないだろうか、そう思えてしまうほどの無がそこにはあった。

 携帯電話のライトを構え、しばらく進むと、目の前に光が差し込んで来た。時空の迷宮を抜けると、貯水池だろうか、レンガの構造物に囲まれた広場に出た。

「少し、休憩する?」

「そうね」

僕らは、貯水池のそばの縁に腰掛け、しばらく会話を止めた。空間を満たしているのは、風の音と木々のさざめき。それだけなのに、どうしてこんなにも空間に質量を感じるのだろうか。大きく深呼吸をし、思考を巡らせるも、普段の人混みの疲れが後を引いているんだ、そんな陳腐な考えしか浮びあがらなかった。


 しばらく歩くと、見覚えのある桟橋が眼に映る。どうやら、島を一周したらしい。上陸した時には気づかなかったが、上陸して来た桟橋の正面に、木製の小屋が見えた。

「待合室って書いてある」

彼女が小谷を指して呟く。

僕は時計を確認する。

「まだ暫く船が来るで時間があるし、行ってみようか」

 遠目に見えていた小屋は、近づいてみるとログハウスであることがわかった。ニス塗りの丸太が積み上げられており、どっしりとした印象を受ける。入り口のドアにはプレートが取り付けられており、ご自由にお入りください、との旨が記載されていた。ゆっくりとドアノブを押すと、ドアに据え付けられたベルがちりん、と鳴った。

「誰もいない」

室内を見渡す。大部屋が一つあるのみで、手作りだろうか、いびつな流木を組み合わせて作られたベンチ設置されており、スクリーンに向かって並べられていた。玄関マットで足を軽くぬぐい、木製ベンチに僕らは少し間を置いて座った。部屋はどこか暖かく、耳をすますと、バチバチと、弾ける音がかすかに聞こえて来た。

「どこかに、暖炉でもあるのかな」

そう言ってお互いに辺りを見渡すも、そのようなものは見当たらなかった。ふいに、音の方角に気づいた僕は、スクリーンの方に視線を送った。

「あれから、みたいだね」

スクリーン脇に備え付けられたオーディオスピーカーを僕は指差した。

「ああ。音を流していただけなんだ。無人だものね」

彼女も合点がいったようだ。

「それにしても、流れている映像は何なのかしら」

一方、スクリーンの映像は、音がなかった。男女がただ街を歩き、旅に出る。そんな様子を永遠と繰り広げている。

「無声映画、とってやつじゃないかな」

僕らは、登場人物たちの動きをしばらく無言で見つめた。静かな室内は、薪が弾ける音だけが響き渡っている。

 ベンチに座る僕らの距離感は、片手を伸ばして届かないぐらい。今の状況を表すのに、ふさわしい幅だった。ふいに、彼女が口を開いた。

「どうして、私が人のいない場所に行きたいって、言ったと思う」

彼女の視線はスクリーンから離れておらず、ただ事実を告げるだけの機械音声のようだった。質問、ではなく、一方的な発言。僕に尋ねているはずなのに、初めから答えが決まりきっているかのように感じられた。

「それは…」

なぜだろう。暖気に満ちたはずのこの部屋が、二人だけのはずなのに、とても息苦しい。

「…人嫌い、だから」

僕の言葉に、彼女は黙りこくった。

火花の音が、妙に僕を焦らせる。

未だ、彼女は僕に視線を合わせようとはしていない。そういえば、今日一度も視線を合わせていなかったのではなかっただろうか。

意識しないと窒息しそうな暗黙が、ようやく一つの答えを導き出し始める。

人嫌い。それは、不特定多数の人の濁流。それを指したつもりだった。しかし、状況が、人嫌いの人が誰を指しているのか気づいたとき、彼女は再び口を開いた。

「私、確かめたかったんだ。この溺れそうなぐらいの息苦しさが、都会の人の海によってもたらされたのか。それとも…」

彼女がこちらに向き直る。ようやく、僕らは目を合わせた。

答えは、お互いに同じだった。そう悟った僕らは同じ表情をしていた。

「…あなた、なのか」


「信じたくなかったんだ」

「僕も」

「たった1人と交わり続けていたことが、これほどまで私を苦しめていたなんて」

彼女の一言が、終止符を打った。途端に、冷凍庫を開いたときのように、心の底から冷気が急速に溢れて来る。寒い。とてつもない、寒さが、体全体を冷やしていく。

「…そう、結論づけるしかないよね」

人混みに砲台を向けることで、通じ合っていた僕らは、いつの間にかお互いに砲台を向けていたのだ。

「信じたくなかった。だからこそ、私は人混みを離れることで、そうじゃないってことを確かめたかった。なのに…」

彼女は、最後の最後まで信じたくなかったのだ。この苦しみが、僕によってもたらされたものではなく、日々を生き抜く中で人の濁流に飲まれることでもたらされたものだと信じて。

だからこそ、こんな真冬の人の気配すらない島にわざわざやって来たのだ。

でも、その結果、信じたくなかった方が事実だったことを確信してしまった。

そう、砲台は僕を指していたのだ。

「…別れましょう」

放たれた砲弾が、僕の心に大きく穴を開ける。

「ああ」

僕は、小さな悲鳴のような返事をすることしかできなかった。彼女が小屋のベルを鳴らして去っていくと、次第に視界が白くぼやけていった。


 窓へと目を向ける。視界は白に染まったままだった。世界がリセットされたのだろうか、そう期待して外に出ると、白雪が一面に積もり始めていた。降雪により、曇天と地上の境界を失ったことで、バランス感覚を失われる。

 人嫌いになったこと。お互いにお互いを嫌いになってしまったこと。その事実を認めたくない。そう、もがき苦しみだした心とは裏腹に、呼吸する冷気がより一段と心地よく感じはじめる。その感情と心の乖離は、頬で融ける雪が二本の温かな大河に交わるほど、十分すぎる熱をはらんでいた。

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