灯台島からみえるもの

 穏やかな日差し。輝く波間。港の崖には原色に近いカラフルな屋根が軒を連ねており、さながら新鮮な果物が並んでいるかのように美しさを放っている。

 帰国までの余暇時間を活用し、私は、かねてから訪問を夢見ていた、地中海のとある港町へ足を運んだ。エメラルドグリーンの水面に敷かれた桟橋を歩いていく。広がる枝葉にはヨットや漁船が停泊し、漁師たちが船の整備や網の整備をしていた。

 上着を抱えながらスーツ姿で見て回っていると、物珍しさからか、キレイに肌の焼けた初老の男性に声をかけられる。現地の言葉だろう、矢継ぎ早な口調に困惑していると、たどたどしい標準語で話してくれた。

「どこから来たのかね」

なまりの強い言葉をなんとか理解し、片言の言葉でこちらも返事する。

「東のほうの国です」

国名を告げると、男性は驚いた表情を浮かべた。

「それはそれは。よく来た。それにしても、この街に来るなんて珍しいな。だいたいの観光客は隣の街に行くから」

男性の言うように、地中海の観光地といえば、隣の街のほうが有名だ。その上、観光化も進んでいる。海や街並み、バカンスを楽しむのであれば、隣の街に行くのが普通であろう。稀有な人もいるもんだな、と言わんばかりの表情の男性に、私は胸ポケットから一枚の写真を取り出して見せた。

「この場所に来てみたかったんです」

写真には、翡翠色の海が一面に広がり、島の輪郭が浮かび上がっている。存在感あるその島の中央には、真っ白な灯台が聳(そび)え立っていた。数年前。ある少女と出逢い、一枚の絵を手にしたことがきっかけで、自分が本当に観たい景色を探すようになった。そのさなかにこの写真に出会った。

「あんた、灯台島のことを知っているのか。こりゃまた珍しい」

写真の場所を知っているらしく、男性の声は朗らかになった。

「たまたまインターネットで見つけたんです」

「そうか。便利な社会になったもんだな、…行ってみるか?」

男性は指で桟橋の方を指した。

「えっ」

急な誘いに驚きの声が出る。

「連れてってやろうかときいているんだ。何かの縁だ。島まで船をだしてやろう」

こんな、会って間も無い人間を連れて行こうとは。さすが地中海のおおらかな人柄だ。そう思いつつ、島に行けるという喜びに、私は二つ返事をした。

「それは嬉しいです。ぜひ」

「よし。今日の仕事を終わりにして連れてってやろう」

 男性に連れられ、所有するボートが停泊する船着場へと到着する。船着場には、小さな漁船が数台停泊するだけ。人気もないことから、スーツ姿の私の不自然さがますます際立った。

「さぁ、乗った乗った」

ウサギのような身軽な跳躍で男性がボートに乗り込むと、ボートが左右に揺れる。湖面に波紋が広がった。私もスーツの股下が破けないように注意を払いながら乗船すると、すぐにボートは離岸した。

 穏やかな日差しに照らされる波間は目を覆うほどまばゆく、光を反射させて輝いている。漣(さざなみ)の音が心地いい。ここで昼寝をすればどれだけ気持ち良いだろうか。

 次第に近づくその遠影が、輪郭をリアルにしていく。淡い青の一面に聳える、一本の柱。写真ではない、本物の灯台だ。徐々に大きくっていく姿にうっとりしていると、男性が話しかけて来た。

「灯台島にはな、フランソワってのが住んでるんだ」

「人が住んでるんですか?」

「そうさ」

この灯台島を調べるにあたって、灯台について調べたことがある。始まりは紀元前。エジプトのアレキサンドリア港まで遡ると言われている。港の位置を灯火の色で伝えたり、浅瀬などの危険な航路を示すため、今なお、多くの国で用いられている。そんな海を行き来する人々の道しるべに住んでいる人が居るなんて、聞いたこともなかった。どんな人が住んでいるのだろう。守衛のような役割を担う屈強な男が住み込んでいるのだろうかと考えていると、男性の返答は意外だった。

「しっかりした好青年だ。まだ住んで日は浅いがな」

若者が住んでいる。一体どんな人柄で、どんな理由で住んでいるのだろう。ますます期待が膨らんだ。


 接岸し、なびくボートから、小さな桟橋に足を延ばす。コンクリート製の小さな港にあがっても、しばらく地面が揺れているような感覚が残った。一方、男性は手馴れた様子でボートを縄で縛りつけて身軽な体使いで上がってきた。

 照り返しが強い。島というには、自然はなく、あるの島を囲う乱雑に積み上がったテトラポット、コンクリートの平地。そして無機質な灯台の人工的な構成だった。道なりに進み、眼前に迫った巨大な塔を見上げた。どこまでも白かった。灯台入口の鉄扉をノックし、しばらく待っていると一人の青年顔を出した。

「やぁ、フランソワ。東方からのお客さんだ。少し、話を聞かせてやってはくれんかね」

現地語らしき言葉で男性と会話するフランソワは長身細身の青年だった。まだ若者に分類される私から見ても、彼は若く、幼さが残っていた。

「そうですか。これはこれは遠いところ、よくお越しになりましたね」

私たちは握手を交わした。

「じゃあ、適当な時間に迎えに来るから」

そう言い残すと、男性は船へと戻って行く。

「どうぞ、長い階段で大変ですが」

「ありがとう」

中に引き入れてもらい、私たちは長い螺旋階段を上った。

 少しひんやりとした薄暗い階段を登っていく。螺旋がほどけると、目の前には青い遠映が広がっていた。一面の青い海と、遠くに映る港。幾重に重なる白波の流れが見え、カモメだろうか、群れをなした白い鳥たちがときどき島へ降下して来た。

 簡素な作りの室内には、書斎の様な家具の配置がされており、木製の小さなテーブルに、ランタンとたくさんの本が積み上げられていた。どうぞ、とペッドボトルの水を手渡され、二つある丸椅子に向かい合って座った。

「申し遅れました、フランソワです」

「シマノです」

今一度、握手を交わす。

「お仕事でいらっしゃったようですが、こちらでは何をされていたんですか」

フランソワは私に尋ねた。

「会社員です。この国の会社との取引があるので。今日は、仕事が早く片付いたので、行こうと思っていたこの場所に来たのです。この場所に来れるという保証はなかったので、遠巻きに観られればよいな、と思っていました。そんな矢先、先ほどの男性がここまでつれて来てくれたんです」

そう言いながら、さきほど、男性にも見せた写真をフランソワに手渡す。

「この場所の写真ですね」

「夢を見ているようです」

私は大海の広がる大窓を見つめる。写真加工技術の進んだこの時代、長方形の断片の写るこの場所はこの世界に存在するのか、それとも幻なのか。そんな疑いすら抱くほどに、まだ実感が薄い。だが、こうして目の前に島、灯台、そして大海原の景色が現れたことで、徐々に現実感とともに感動や興奮、幸福などの複雑に入り混じった感情や感覚が心から体全体へと解き放たれていく。それらを正確に言い表すことができるわけもなく、ただ声を失ったまま、青く広がった世界を自分の目に刻みつけることが精一杯だった。

「いいところでしょう?」

彼もまた、海を眺める。

「ええ。思っていた以上でした」

写真は、世界を枠に収めたに過ぎない。改めてそう感じた。切り取られた対岸の風景。匂いや香り、そこに生きる人々。実際にその場所へ行くからこそ、その場所の価値というものを知ることができるのだ。

「私も、この場所で日々感じています」

「この灯台に住んでいると聞きましたが、看守をされているのですか?」

初老の男性の言った住人というのは、灯台から港を監視する役割であり、実際に住居としているわけではないのだと思っていた。しかし、彼はそれを否定する。

「いいえ。本当に住人なんです」

「どうして、灯台に住まれているのですか?」

「そうですね、端的に言えば使命、みたいなものでしょうか」

「ほう、使命ですか。ぜひ、お伺いしたいですね」

「では、お話ししましょう」

彼は、大きく深呼吸し、話を始める。

「ここに来る前のことです。私の父は転勤の多い職についていました。そのため、十八歳になるまでの間、私は二週間単位でさまざまな場所に滞在し、普通の人が一生かかって見るような様々な人や物、文化をこの目で見て来ました。私の祖父母の家はありましたが、私の両親は、あまりの移動の多さに家を持ちませんでした。つまり何が言いたいかというと、私には故郷、と呼べる場所がなかったのです。

 成人し、ようやく自分で独り立ちした私は、親と行動を分かつことにしました。彼らも転職し、私も家を出たことで、めまぐるしい日々から解放されました。その途端、これまで進むだけだった時間が無限ではない、ということに気づくようになりました。祖父母、父母ともに老い、あの頃見聞きした音楽や映画はいつのまにか昔の作品と呼ばれるようになっていました。

 飛び回っている間は、私とって親が全てでしたから、解放された瞬間に、私の生きる理由はなんだろう、私にできることはなんだろう、としばらく自分自身を見失ってしまいました。

 親元を離れ、私の居場所を探してさまよう中で、この街にたどり着きました。まさにその時でした、この灯台が後継者が途絶え、役割を務められなくなるため、取り壊そうとされているという話を耳にしました。実際に、この灯台にやってきて、初めてこの景色を観た時、私は虜となってしまいました。そうして私は、この場所を故郷にすることに決めました。

 ひとりで過ごす中で、私には何があるだろう、と考えました。何か地位や、特別できることがあるわけでもありませんでした。唯一、私と他人を分かつことができるもの、それは、目に焼き付けてきた様々な景色や、その地に営む人々の暮らしでした。私は普通の人が一生かかってみたものを、私の一生をかけて、ゆっくりと紐解いて言葉にし、この地に生きる人々に生活や生きる上での知恵として伝えていくこと。それが私のできるころだ。そう、気づいたんです」

そう言いながら、彼は机の横に積み上げられた本を撫でた。その背表紙には、彼の名前が書かれており、積み上がった本全てが彼によって作られたものだということに私は気づいた。

「ようやく安住の地と生きる理由を手に入れたということなんですね」

「ええ。ありがたいことに。この街の人々にも、私の書いた書籍を供給することで、この場所で住むことを受け入れてもらうことができました。

 世界には、生まれた土地から一度も出ることなく一生を終える人もたくさんいます。そんな人たちに異国に住む人々の生活や文化、生き方を伝えることで、自分たちの生活を再考する、そんなきっかけになればいい、そう思っています。月に一度、街でお話をする機会も頂いたりして、この街に生きる人々に世界の素晴らしさ、この街の素晴らしさを伝えることができています」

そう話すフランソワの笑顔は柔らかくも、自信に満ち溢れていた。彼がこれまでの見たもの、聞いてたこと、生活の中で学んだこと。その場所を訪れたからこそ伝えられる様々な経験や見識が、この場所で遺憾無く発揮されているようだ。

「とても素晴らしいことじゃないですか。素敵です」

「だからこそ、シマノさん。あなたも、あなたが見て学び、感じたことをあなたの国の人たちに伝えてください。あなたが一枚の写真を手に、この場所を訪ねたように、あなたが伝えることで、誰かにとっての新しい世界の扉を開くきっかけを授けることにつながるかもしれませんから」


 迎えに来た男性の船に乗り込む。船の方まで見送りに来てくれたフランソワと握手を交わし、灯台島から離岸した。港へ船を走らせながら、初老の男性は私に話しかけた。

「どうだった?」

男性は港を見つめ、横目で問いかけた。

「お話の通り、立派な青年でした」

「だろう。こんな田舎に住もうと思ったのか、不思議なくらいだ」

嬉しそうに男性は微笑んだ。

「そうですね」

そう言いつつ、彼の話を聞いた私は内心では不思議には思わなかった。

「でもな、あいつはきっと早歩きし過ぎたんだろうと思うんだ。人生を。だからこそ、ゆっくりとこれから先を歩いて行けるよう、この場所を選んだんだろうなとは思う」

操舵しながら、言ったその言葉は、重みがあるように感じられた。

「そう思います」

「大変だっただろうな。今の時代だったら遠く離れても友達と繋がれるのかもしれないが、十八まで親と同行して世界を回っていたのなら、同世代の友達はなかなかできないだろう。それでも、あんな風に立派になれたのはフランソワが自分にしっかりと向き合うことができたからだろうな。おれたちがこの歳でもできないことだ。だからこそ、この街の人たちは縁もゆかりもないあいつを受け入れて、灯台を任せることにしたんだろうな」

彼はこの、広大な海原の広がる灯台を選んだ。穏やかな海原を見下ろし、これからも内なる自分を、この地に住む人々を見つめながら生きていくのだろう。


 桟橋に到着し、私たちは船から降りた。

「ありがとうございました。とてもいい経験ができました」

私は男性に感謝を述べる。

「そうかい。また、来なよ」

「ええ。きっと来ます」

「今度は、あんたが見たものをおれや、フランソワに伝えてくれ」

男性の差し出した手を私はしっかり掴んだ。

彼が見て来た以上のものを見て、知ることができるだろうか。そんな一抹の不安が浮かんだ。しかし、フランソワが私に告げた言葉が頭に浮かぶ。自分が見て、学んだことを私自身の手で伝えることに意味があるのだと。

迷いは消えた。

「そうします」

まばゆい太陽に照る鮮やかな街、そして穏やかな海。交わされた握手は熱をはらんでいた。私が一枚の写真を手にこの場所へ誘われたように、私が抱いた思いは、きっと私の、そして誰かの次の景色へと繋がってゆくのだろう。

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