世界と幽霊《わたし》と傭兵と。
光を反射するナイフのまばゆさ。愉悦と共にとけこむ甘美な意識。刻まれたパンケーキの谷間をベリーソースが流れ落ちていく。
私はまた、ナイフを入れた。砂塵舞う荒野。砕けた土塊の家跡。そして、防壁とは言うには厳しい、ひび入ったレンガと土嚢の山。かつて町だったこの場所には夜のような静寂しか残されていない。私は小さな傭兵に並び、
「…また来たのか、極東の幽霊さんよ」
銃に付属するスコープを覗きながら、少年はつぶやく。整った横顔は、もう慣れてしまったと言わんばかりの無表情で、私に瞳すら向けなかった。
「まだ続けるの? やっぱりお金?」
少年は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「そりゃそうさ。あんたの社会も金がすべて。そうだろう? それに…」
彼はスコープから視線を外し、私の手元、表情の順に一瞥した。その青い瞳の奥底は出会った頃から変わらず、澱んだままだった。
「…あんたもまだ、続けているじゃないか」
意識が戻った時、彼は私の眼の前にいた。
「お迎えが来たか…、とでも言うと思ったか。死ね、亡霊!」
直前。私はお気に入りのパンケーキに入刀し、切り口から流れ出る鮮やかなベリーソースをうっとりと見つめていた、はずだった。意識の明暗直後、視界には荒野が広がり、迷彩服の少年兵が銃口を私に向け散弾した。
「えっ、なに! 夢なの⁉︎」
突如として起こった映像転換に、私から出たのは悲鳴ではなく、戸惑いだった。即座に両手で上体をかばうが、着弾の痛みはない。そのうえ、弾が体を透過する様子が半透明となった体の中に見えた。火薬の匂いも感じられない。乱射が止まると、少年は笑い始める。
「こりゃまいったぜ。神よ」
狂ったような笑いを浮かべ、天を仰ぎながら彼は銃を下した。
「…幽霊さんよ。お前は一体何者なんだ?」
少なくとも、これまで十回はここに来たような気がする。
「またパンケーキとやらを食べようとしたのか?」
彼はスコープの照準を調整し、呆れているような口調で言った。
「いいじゃない。それに、食べたからこそ、あなたがまだ生きているのを確認できた」
「それはどうも」
その言葉には感情はない。彼にとって、私からの心配ほど価値のないものはないのだろう。
「敵影を見つけるのって、眠くならないの?」
「あんたは命と引き換えに眠るのか?」
些細な疑問を投げかけたはずが、彼の即答はとても鋭く、私の胸を深く抉った。私より五歳以上幼い彼の発言は、私よりもはるかに現実的で、重い。
「幽霊はいいよな。身の危険を気にする必要がない」
彼はため息をつく。
「いつか、心配せずに済む日が来るのかな」
私はぽろりと想いをこぼした。
「ビジネスライクな人間が気にすることじゃない」
彼が自嘲気味に口元を歪ませた。
「傭兵らしい言葉だね」
少年として瞳に映る彼の心は、既に少年ではないのだ。一人の戦士なのだ。私は、住む世界のギャップを強く感じずにはいられなかった。
「俺たちは金で誰かの憎しみのケツ拭きをしてるだけさ。始まりと終わりは俺たちの決めることじゃない。本当に戦争ってのは馬鹿らしいぜ」
そのとき、彼の握るトリガーがカチャリと金属音を響かせる。
「…静かに」
彼の纏う空気が変わった。
「耳塞げ。必要なら」
耳元に手を当てた瞬間、彼は巨大な反動に耐えた。ダダダダダ、ドド。鈍い鼓音が幽霊になっているはずの私にも伝わって来る。数百メートル先に砂塵が巻き起こった。
何度聞いても、本能的な恐怖が沸き立つ音だ。すくんでいると、彼は半身を立てた。
「…移動するぞ」
低姿勢を保ち、背後を気にしながら次のポイントへと移動する。周囲を双眼鏡で伺いながら、何度か場所を変える。最終的に、数百メートルほど離れた石垣に移動し、再び同じ姿勢をとった。
「で、話が止まったけど」
「うん」
「戦争の馬鹿らしいところがよ。殺してやりたいという明確な意志のある者が、一番後ろにいて、明確な意志のないものが、一番前にいるところだよ。そりゃ、戦争もおわらねぇし、必然的に誰かを巻き込むことになるわけさ。皮肉だが、その馬鹿どもの距離に比例して、大きな金や物資、捕虜や兵士が循環する。
ほんと、俺だって金さえあれば、よそ様の非効率な喧嘩に突っ込みたくないぜ。それにな」
彼は深く呼吸をすると、私を見た。
「何も奪われていない俺が何かを他人から奪う権利なんてないからな」
ビジネスライクだという彼の口から出たその言葉が、本心なのかはわからない。
「…それでも、やるしかないんだ。大金を手に入るか、遠くにいる馬鹿どもが終わりの合図をするまでは」
その言葉を最後に彼は一度閉口した。弾倉を交換し終えると、彼はスコープから視線を外して地平線を見つめた。
「…もし、叶うのなら、こんな幽霊みたいな姿じゃなくて、実物としてあなたに会いたいな」
なぜだろう。意識せず、言葉が出た。自分でも驚いていると、彼は即座に反論した。
「馬鹿なのかあんたは? 戦場で女がどういう扱いを受ける可能性があるか、あんたの国で学ばないのか? そもそも、あんたが現実世界にいるという保証がない」
「いるよ!」
そう。ここに体がないだけなのだ。私は半ば睨むように彼に実体があることを伝えようとした。しかし、彼は表情を変えず反論した。
「俺たち傭兵は、”ある"ものにしか信頼を置いていない。そんな、あるのかどうかもわからないもの信頼するのは馬鹿のすることだ。傭兵は、その信頼を金と命でやりとりしている。それなのに、あんたときたら、信じて欲しいなんて言う。そもそも、あんたが視えるのは俺の頭がイかれてるだけかもしれない。それに…」
「それに?」
「俺は金を得るために、この流れに乗ってしまった。もう安住を得ることは叶わない」
彼はそれからしばらく、引き金を引くことはなかった。ただ、ひたすらに移動と待機。そして何かの設置を繰り返したのち、無言のまま双眼鏡で何かを眺め続けていた。
言葉を解いたとき、彼は今まで以上に冷淡な口調で私に投げかけた。
「残念だが、ここでお別れだ」
「まだそんなに長い時間居ないじゃない」
「…この先はあんたに見せたくないんだ」
無表情の彼はただ冷淡に言葉の意味を理解させるよう、ゆっくりと話した。
「えっ」
「あんたには、どうやら視えてないし、聴こえないみたいだな」
「何が?」
「たくさんの敵影と、俺以外の銃声。気づいていないのか? もう俺以外には、味方はいないんだぜ。それにこの廃屋は包囲されてるんだよ」
私は慌てて辺りを見渡す。人の姿ひとり見つけることはできなかった
「いないじゃない! 変なこと言わないでよ」
「最後に一人じゃなくて楽しかったぜ。明日からは、現実を見て生きていけよ」
彼は地図を開くと、赤く塗られたポイントを確認していた。
「嘘。もう会わないための口実でしょ?」
彼は銃を置き、立ち上がった。
「俺の名前、教えとく。俺たちの国では、信頼を得るために親の名前、お前の国でいう苗字ってやつから名乗るが、お前にはいいよな。…俺の名前はスキーンだ」
「やめて」
「大丈夫さ。生きるさ」
瞬間。世界は灰塵と爆炎に覆われる。消え入る意識。豪雨のような銃声だけが耳に焼き付いて離れなかった。
硝煙世界から切り替わり、目の前に映ったのは純白の天井だった。揺れるカーテン。埃っぽさのない穏やかな風。ゆっくりと起き上がると、左手首に包帯が巻かれており、肘付近に点滴針が刺されていた。
「目が覚めましたね。体調はどうですか」
視線を上げると、恰幅の良い医者が私を見下ろしていた。
「ええ。もう、大丈夫です」
「ここがどこだか、わかりますか」
医者の診断を要約すると次のような話だった。過労からくる精神不安と一時的な記憶障害に陥っていたこと。処方されていた睡眠導入剤と抗不安薬の多量摂取により、幻覚症状を発現していたこと。そして、部屋で発見された私は、お気に入りのパンケーキではなく、自分の手首にナイフを入れており、出血多量で生死を彷徨っていたこと。
では、彼のいた最前線も幻だったか。いや、そんなはずはない。彼といるときの私はまともな思考をしていたからだ。私は慌てて言う。
「先生、テレビつけてください」
まだブラウン管のままの小さなテレビを付け、チャンネルを切り替えてニュース番組を映した。速報ではるか遠くの国々の停戦合意の様子が伝えられた。振り返るように次々と映される激戦地の映像。連日の爆破テロや銃撃戦。そして、三日前の集中爆撃後の映像には、彼と初めて出会ったあの廃屋、土嚢の山が生々しい銃痕とともに映し出されていた。
…私は嗚咽を留めることはできなかった。幻覚ではなかったのだ。肩で息をしながら、振り切る感情を押さえ込もうとすると、今になって銃撃された胸がズキズキと痛んだ。
「数日、安静にしたほうが良いでしょう」
医者は立ち上がり、部屋を出て行った。
手首を切りつけ、死のうとすることがトリガーだったとしても、彼との時間が私にとって生だった。それを肯定させるために脳が幻覚を見せ、この手首に幾重にも刻まれた死に損ないの証が積み重ねられたのだ。そう思い込むことしか、私への救いはなかったのだ。
涙をぬぐおうと、体の痛みに苦しみながら、テーブルのティッシュケースに腕を伸ばした。すると、知らない言語で書かれた国際メールが一通、置かれていた。消印はない。開封すると一枚の砂で汚れた紙が入っていた。なぜだろう、その走り書かれた文字を、私には読むことができた。
『じきに全部終わる。だからもう、あんたが傷を刻む必要はない。 ー馬鹿より。』
言葉が重く胸に刻まれていくにつれ、紙面の文字は色を失い始める。託された想いが私の心へ完全に転移すると、紙は灰となり、開かれた窓へと攫(さら)われた。
幽霊(わたし)に生きることを教えてくれた彼は、もうこの世界にはいない。
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