桜の幻、現(うつつ)に踊る

 幕が上がる。フライングしそうな心臓を身体(からだ)に抑え込み、暗闇の中、始まりを待つ。

 静寂。その無音が、わたしの心にあの暗い雪の情景を浮かび上がらせる。わたしは開始姿勢をとる。

 刹那。明転。スポットライトの点灯音が空間を鋭く突き刺し、やわらかく淡い桃が空間を優しく満たしていく。


 管弦の音。世界のはじまり。織物のように繊細なボレロが四次元空間を満す中、わたしはバレエのかみさまの見えない手を取り、リードする。わたし自身の内面の爆発を振り付けにのせ、さらに高いところへ連れだっていく。


 演じる、という言葉がわたしは嫌いだ。あくまでも、演じる対象が主役であり、わたしはそれを自分に下ろすだけだから。だからこそ、わたしはひらがなでえんじる。そう書くことにしている。

 えん。その言葉をひらがなに落とし込むことで、その響きの美しさ、その意味の多様さを、意識するようになった。円。スポットライトと世界の中心。遠。舞台と観客席の間を隔てる、永遠の時空。煙。わたしがそこにいるような、いないような意識のぼやけ。婉。心身のしなやかさ。繊細さ。縁。世界や人々との巡り合わせ。挙げればきりがないのだと思う。

 わたしの故郷…日本の舞踊では、踊ることでかみさまを降ろすという風習がある。そのためだろうか、わたしたちの体の部位には、神経、なんていう名前が付けられている。神経とは、神気、すなわち精神。そして経脈、すなわち経路。かみさまと同化できるようにこの名前が付けられたのかもしれない。

一方で、わたしの解釈は、こうだ。神経とは、かみさまのマリオネットとなる糸ではなく、かみさまをリードをリードするための輝く道しるべとなるもの。そんな話を異邦の振付け師にすると、バレエの起源は儀式じゃないよ、なんて笑われた。加えて、いかにも日本人的だとも言われた。欧米の、遠い天の国から広く民を見守る唯一神と異なり、かみさまが身の回りの事象に宿ると考える日本人だからこその発想だと。

それでもいい、と振付け師は笑った。バレエへの思いは人それぞれだ、と。この、七分のえんぎの中で、わたしの中から溢れ出るものが、情熱であろうと、愛であろうと、神気であろうと、それがきみらしい輝きであるのなら、それらを全て受け入れるのがバレエだ、と。

 剛と柔。ポワイトのなかの指先は不定に形を変えていく。常に変わり続けることこそが、バレエの物語性であるのだと、本場で学ぶようになってからから、強く意識するようになった。それは終わりのない旅を先導するようで、つま先から指先、地面から天空まで、駆け抜けていくひとつひとつの所作が、質量をはらんだ世界を切り開いていくよう。観客には見えているだろうか、わたしの物語が。わたしは目を閉じる。

 …わたしの景色。誰もいない夜の雪の丘に、わたしを飲み込む大きなしだれ桜がが見える。いつからだろう。その”到達点"にたどり着いた時、わたしが見える世界は一変するようになった。

 うめうつつ。目を開いて見える世界と、目を閉じて見える世界がシンクロする。ステージ上に見えない世界を降ろす。花びらと雪の結晶。白と淡紅の流れ落ちる滝のはざまに、わたしは揺れる。踏みつけた足跡。雪の夜桜の下、踊り渡っていくわたしの軌跡。


 ワールドツアーが終わり、短い休暇期間を過ごすため、故郷である日本へと帰ってきた。空港の出口ゲートが開くと、わっと歓声が響き渡る。笑顔で手を振ってくれる女性。「サクラ・ミヤモト」と書かれた横断幕を大きく揺らし、アピールをする男性。帰ってくるたび、出迎えの人数が増えた事が嬉しいのはもちろんなのだが、こうやって、わたしのかえってくる場所だということをファンから再認識させてもらえるのが本当に嬉しい。短い時間だが、握手やサインに応え、笑顔のまま迎えの黒いバンに乗り込んだ。

「おかえりなさい。桜(さくら)」

ドアを閉めると、ミラー越しに父が声をかけてくれた。こちらを伺う笑顔には、以前よりも深いしわが刻まれている。日本に帰ってくるときには、わざわざ二時間以上の時間をかけて、空港まで迎えに来てくれる父には、感謝しかない。

「ただいま」

わたしも笑顔を返す。

「エリさんもおかえり」

「ただいま、です」

隣に乗り込み、笑顔を振りまく大人びた女性。わたしのマネージャー、エリさんだ。もう、五年以上もわたしのマネージャー、そして兼振付け師として相方を務めてくれている。エリさんはハーフで、日本人の血筋を引いているが、国籍は日本ではない。そのため、彼女にとっては、おかえり、という言葉は不思議に響いているかもしれない。

「遠かったでしょう。家まで寝寝ていいからね。エリさんもファン対応で疲れてるだろうし、車の中ぐらい休んでね」

「ありがとうございます」


 次に目をさますと、雄大な雪嶺が高速道路からもはっきりと見えてはじめていた。北アルプスの自然豊かな田舎町。わたしの生まれ故郷だ。車は下道に入り、ゆるやかな川沿いを遡上していく。雄大な山脈をバックに緑豊かなこの街の入り口である、大きな吊り橋が帰ってきたなといつも感じさせてくれる。

 父には、行きたい場所がある。と告げ、そのまま目的地まで連れてきてもらった。バンから降りると、やはり北アルプスの春はまだまだ肌寒く、厚手のセーター越しにも冷たい風を感じた。空には重く灰がかった雲がもくもくと滞留している。

「行きましょう」

私はエリさんを促す。

「ええ」

今回、エリさんを故郷に連れてきたのには訳がある。…見せたいものがあったのだ。これまで、わたしが観客に観せてきた光景を。いつも舞台袖でサポートに徹し続けてくれた彼女への感謝の気持ちを込めて。

 しばらく舗装された道を歩いて行くと、目印となる小さな祠が見えてきた。そこから脇道に逸れ、小道を歩いて行く。古びた鳥居が見えてきた。

「ここ、です」

エリさんも何かを感じてくれているようで、辺りを見渡し、大きく深呼吸をした。

「なんだか、神聖な気持ちね」

「…もうすぐです」

「たのしみ」

白い息を吐きあげながら、しばらく歩みを進めた。斜陽がグラデーションがかってくると、暗い空から小さな天使が舞い降りてきた。雪だ。

「雰囲気、出てきたね」

嬉しそうにエリさんは微笑む。

「はい。その日を狙ってきましたから」

わたしも自然に笑顔がこぼれた。

「着きました」


 見えてきた光景に心臓は高鳴った。わずかに積もる雪の光に反射し、やわらかな桃色の大樹が夕闇の中で輝いていた。世界から切り離された幻の中に佇むようなその姿は、永遠の美を思わせる見事な存在感を放っており、みるみる力が湧き上がってくるように感じる。

「これが、わたしのこころ、です」

わたしはその場でエリさんに振り向く。ここが、わたしが舞台に作り出そうとしていた世界。観せたかった世界なんです。その気持ちを伝わるよう、やさしく、やわらかく。シルクのように気持ちを言葉に織り込んだ。

一呼吸を置き、言葉を続ける。

「…見ててください。今日は、エリさんのために踊ります」

夜桜の下。花びら広がる雪に、轍(わだち)が出来あがっていく。目を閉じても感じる、その大きな存在。バレエのかみさま。両親が、この美しい雪花にちなみ、名付けてくれた大楼。二つの大きな存在をリードするように、つま先から指先まで、緩やかな流線を描いていく。


寒さを感じないほど、本当に心地よいバレエだった。

それは、劇場で浴びる歓声以上のものだった。

そのたった一人の拍手は、何にも代えがたい拍手だった。

ようやく、エリさんに観せる事ができたのだ。夢を叶えたわたしの心には、これまで経験したこともないような幸福感が満ち溢れていた。あまりの嬉しさに、わたしは徐々に高揚する心をスキップに委ねながら、エリさんに駆け寄り、抱擁する。涙が止まらなかった。

「…ほんとはね」

エリさんが耳元で呟く。聞き逃すまいと耳に集中する。

「この景色が、みえていたの。あなたと出会ったときから」

一瞬、何を言っているのか理解が追いつかなかった。高揚する心臓を抑え込みながら反芻し、じわじわとその言葉の意図を理解していく。花畑が広がっていくようにこころが暖かくなっていく。ゆっくりと、わたしは彼女の抱擁から離れた。

「ありがとう、本物を見せてくれて。今が一番幸せ」

みえていたんだ。わたしのこころが。嬉しくて、考える間もなく抱きつく。

「桜。あなたの心の”桜”はみんなにしっかりと映っているよ。これからもその”桜”をみんなに見せていこうね」

「……はい!」


 幕が上がる。フライングしそうな心臓を身体(からだ)に抑え込み、暗闇の中、始まりを待つ。

静寂。その無音が、わたしの心にあの明るい雪の情景を浮かび上がらせる。わたしは開始姿勢をとる。

刹那。明転。スポットライトの点灯音が空間を鋭く突き刺し、やわらかな淡い桃が、今日も心を優しく満たしていく。

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