第49話 決心
「私を……保護してくれて、緋玉まで贈ってくれた義兄を裏切れというのか?」
周宗に問う慎綺の顔は苦悶にゆがむようにクシャクシャだった。
力なく項垂れ、机に寄り掛かる。
「その通りです。後々お礼はしますが今は逃げねばなりません」
問われた周宗も答えるが、もはや心はここにあらず、砂の様な声が口から洩れるだけだった。
「ここを出てどうする? この強大な帝国に泥を掛けながらどこへ逃げるというのか?」
「東方に、すでに新たな国を興す用意があります。私たちが行きさえすればすぐにでも動き出せます」
「数百万の罪なき民に動揺を与えてまで私は国が欲しいとは思わない。……私のために人々が犠牲になるくらいなら私は歴史に埋もれたままでもいいのだ!」
慎綺は両目を閉じ、机に突っ伏した。
しかし、周宗は生気の抜けた眼でそれを眺めるだけ。
ただ、義務的に質問に答えていく。
「あなた様が自らのために人が傷付くことが耐えられないように、私にも耐えられないことがあります」
「何だ?」
「慎綺様以外の下で働くことです。慎綺様のためにと思い、この数ヶ月深蘭皇帝の下で働いてきましたが、もはやこれ以上は我慢がなりません。皇帝は聡明かつ寛大なお方です。使いつぶす予定の私が自害したとて、あなた様を責めはしないでしょう」
それは言外に周宗が支えない慎綺は脅威になりえないと言っているのだ。
そうして、事実そうなのだろうと慎綺も思う。
慎綺を守る一党もなにもかも、周宗が駆けずり回って用立ててくれたものばかりだ。
周宗がいなければ、あるいは忠誠がもうすこし薄ければ自分はとうに死体となって転がっていたはずだ。
「これが私の最後の忠です。どうぞお達者で」
周宗が深々と礼をし、頭を上げると再び出口に歩き出した。
「……私が死ねばいいのか?」
慎綺の言葉に周宗は動きを止め、慌てて振り返る。
「な、何を言われます……」
「死ぬことは、前にも考えたことがあった。その時は朱天殿に一喝されたが……私はおまえのような有能な者に忠誠を誓われるほどの器ではないのはわかっていたのだ。現に、おまえの足枷にしかなっていない。私が死ねば、おまえはもっと気の儘に生きることが出来るのではないか?」
「それは……」
「新しい国とやらも私を据えるよりもおまえが国王に座った方が国民に対しても有益なのは明らかだ。緋玉については義兄上に任せていれば間違いもあるまい。私が死のう。緋玉には悪いが、これがおまえと義兄に報いる最良の方法だと思う」
「し、慎綺様が自害なさるなら私も後を追わせていただきます」
「ならん。おまえまで死ぬことはあるまい。生きろ」
「……無理です!」
いつもと違い自信なさげに話す周宗に慎綺は不思議さを感じていた。
「……何故だ? おまえほどの知恵者が何故私を見限らない? 私の元を離れ、数多の豪傑を従えて、何故自分で暴れようとは思わないのだ?」
「慎綺様が思っているほど私は賢いわけではありません。ただあなた様にお仕えしようと、この貧才の身に幾ばくかの知識を纏っているだけでございます。もし、慎綺様が亡くなられたなら私は、れまでに積み上げてきた知識と技の全てを失うでしょう。あなた様を支えることのみを励みに研鑽してきたのですから……」
いつの間にか周宗の双眸からは止めどない涙が流れ出していた。
眼前で故国が潰れようとも、数万の同胞が焼き殺されようとも、決して揺らぐことのなかった周宗の精神が今、崩れ掛けているのだ。
「……ッ!」
その涙に最も動揺を受けたのは他の誰でもなく周宗自身であった。
常人には背負いきれぬものをその細身に背負い、耐えきれぬ重圧に耐えるため必死で膨らませていた精神が、弾けた。
その顔を両手で押さえ、膝をつき、倒れ伏した。
「ォォォォォォォォッッッッッ…………!」
辛うじて声を殺してはいるが、普段の凛とした雰囲気からは決して想像することが出来ない程不様な姿であった。
「あなた……」
その状況の中、口を開いたのは緋玉であった。
「あなたは周宗に着いていくべきではないのですか?」
「し、しかしそれでは義兄上に対する申し開きが……」
「でも、慎綺様は兄様よりも周宗にお世話になっていますよ?」
慎綺は言葉に詰まった。
「どちらかにしか報いることが出来ない恩ならより大きな恩に報いればいいではないですか」
言うと周宗を抱き起こした。
「周宗、私の旦那様はいい人ですよ。兄様も私には優しいですけど、慎綺様は皆に優しいの。だからこういうときも悩むの。でもね、それでも慎綺様を見捨てずに助けようとしてくださることは私も嬉しいですわ」
優しく言う緋玉に、泣きじゃくる周宗。
まるで奇妙な親子のような光景に慎綺は胸打たれ、決心を固めた。
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