第34話 限界

 周宗が必死で考えている頃、慎綺は書物を読み耽っていた。

 宮殿の書庫には読み切れないほどの書物が保管してあり、好きに読んでいいと深蘭に言われていた。

 しかし巻物は一枚読み終わるごとに巻物を巻き直す必要がある。

 これが片腕を失った慎綺には困難で、一人で戻すのは難しい。その作業を緋玉が手伝ってくれるのだ。

 横にいて、慎綺が読み終わった巻物を巻き直すと、緋玉も自分の書物を読む。

 慎綺はこの時間をなんとも幸福に感じていた。

 かくして二人の蜜月は周宗も深蘭も関係なく静かに流れていく。



 朱天は泥に塗れた顔を瓶の水で洗った。

 こびりついて固まった血も同時にこそぎ落とす。

 南軍に赴任した当初は客将ということもあり後曲で無聊を託っていたのだが、それも僅かな間だけであった。

 なにぶん、戦線は膨張しすぎている。いかに帝国軍が大軍だといえ、戦線全てに兵を配備出来る筈もなく、局所的に見れば数的不利のまま戦闘になだれ込むことも珍しくない。

 そんなわけで、南将軍の配下の補佐役のさらに伝令兵の指示に従い、朱天は最前線を駆け回る。

 この日も敵陣に浸透し、集積地を焼き払って帰還したのだ。

 奇襲、乱戦、撤収は部下ともどもお手の物だが、泥に伏せ、血だまりに転がったため、全身はひどい有様である。

 しかし、苦労の甲斐はあり、帝国軍は付近一帯での勢力を確たるものとした。

 朱天も客将でありながら功を成したということで何かしら褒美が頂けるらしい。

 しかし、気に入らなかった。

 南軍諸将の傲慢な態度はなんだ。

 戦略的な無策は誰が悪い。

 なぜ、他人の戦争で部下を死なさねばならんのか。

 なにより、なぜ自分はこんなところで言われるがままにしているのか。

 朱天は思わず水瓶を殴り割りたくなった。

 

「親分ちょっと、次は俺なんですからどいてください」


 横に控える虎淡の一言で、朱天は我に返った。

 差し出された手拭いで顔を拭うと、近くに置いてあった樽にどっかと腰を降ろす。

 戦果を挙げるたび、朱天の隷下には部隊が配属され、今では総数二千を超える数になっていた。

 当初、山賊あがりということで冷たかった風当たりも変化し、最近では朱天を積極的に持ち上げる者まで出てきた。

 このまま耐えていればさらに出世し、ゆくゆくは大将軍という夢も叶うのだろうか。

 朱天は腹の奥底から息を吐いた。

 最近はこの手の鬱屈に取り込まれ、振り払おうと暴れ続けていた。

 最も敵が集中する陣への突撃も繰り返し、そのうちに側近の部下たちは死に、なくなってしまった。

 腕に覚えがなく、戦場ではいつも遥か後方から見物している虎淡だけが生き残り、朱天の世話をしている。

 他の部隊からも虎淡は朱天の腹心と見られている様でいつの間にか作戦命令や、他部隊からの連絡も虎淡に届くようになっていた。

 朱天は空を見上げる。そこにきっかけがあればいいのに、と思った。

 しかし、そこには小さな雲の切れっ端がいくつか浮いているだけだった。

 と、伝令兵が走ってきて、虎淡の耳元で何事か囁く。

 瞬間、虎淡の表情が険しくなった。

 何事か命じるとすぐに追い返す。

 

「よお、虎淡。なにかあったのか?」


 朱天が呼ぶと虎淡は駆け寄ってきて小声で報告をした。

 

「慎綺の若様が皇帝の妹と結婚したそうです」


 その一言に、朱天は頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 血流が速くなり、めまいがする。

 

「それから、帝国の国宝も頂いたとか」


 朱天は虎淡を押し退けて立ち上がる。

 

「虎淡、準備をしろ!」


 朱天は怒鳴った。

 周辺にいた部下や友軍兵士が何事かと見て来るが関係なかった。


「親分、準備ってなんのです?」


 虎淡は周囲の視線を気にしながら聞いた。


「俺はこのまま国を出るぞ!」


 朱天の暴言を受け、虎淡の額からは冷や汗が流れる。

 持ち場を放棄するというその発言は明確な違反であり、咎められれば斬首も考えられる重罪であった。


「お、親分何を言っているんですか。ちょっと落ち着いて」


 慌てて朱天の口を塞ごうとする虎淡を押し退けると、朱天は天に向かって吠えた。


「うるさい、もう沢山だ。いつまで他人の戦場で戦わなければならんのだ! 敵も味方も揃ってクズばかりじゃねぇか!」


 遠くないうちに帝国の庇護下から出ていくという、周宗の言葉を信じたのがバカだったのか。

 朱天は血が出るほど下唇を噛む。

 

「し、しかしまだ半年は経っていません。周宗さんは半年待てと……」


「同じ事だ、もう小僧共は皇帝から取り込まれて離れられなくなっちまったんだよ」


 朱天は槍と長刀を担いで今にも飛びださん勢いだった。

 戦闘中以外、四六時中付き従っている虎淡には朱天の苛立ちが増していくのを理解していた。

 今、行動を起こすべきではないと言うことは重々承知しているが、虎淡の主は他の誰でもなく朱天である。朱天が行くといい、止められないのであれば自分もついて行く他ない。

 しかし、できるだけの準備をするのも子分の仕事である。


「わかりました。親分、ちょっとだけ待ってて下さい。要るモノを集めてきますから」


 言うと虎淡は朱天を幕舎代わりの天幕に押し込むと走り出て行った。

 朱天も手早く荷をまとめて待っていると、虎淡が戻って来る。


「準備は万端です。行きましょう」

 

 天幕から出て、朱天は目を見張った。朱天の部下である二千の兵の悉くが馬に乗っているのだ。


「おい、こいつらはなんだ?」


 朱天が聞くと虎淡は照れたように笑った。


「こんな日が来てもいいように馬を盗む算段を立てていたんですよ。兵隊達にも話は付けております。皆親分に着いていくそうです」


 山賊上がりや異民族、囚人兵、奴隷兵などあからさまに筋がよくない者をあてがわれた朱天軍の兵士達にも、帝国軍は息苦しかったのだろう。

 皆、迷いのない目をして朱天を見つめていた。

 

「……今日ほどおまえを連れてきてよかったと思うことはないぞ」


「え、これまでだって親分の兵隊まとめたり世話したり全部俺がやってたじゃないですか」


 確かにそのとおりであると思い、朱天は思わず笑った。


「おまえは立派な俺の副官だ」


 虎淡は照れくさそうだったが、嬉しそうでもあった。


「はは、じゃあ誉められついでにもう一つ」


 虎淡が合図すると数人が一頭の馬を牽いてきた。


「お、おまえ、この馬は……」


「はい、南将軍の馬です。ついでだから貰っていきましょう」


 朱天はその名馬を見上げた。十万を率いる将軍用の名馬である。虎淡は『俺もあんな馬が欲しい』という朱天のつぶやきを覚えていたのだろう。


「ははは、上等の馬に上等の部下。幸先がいいじゃないか」


 言って朱天は馬に飛び乗る。


「行くぞ!」


 気勢を上げ、勢いよく朱天は走り出した。虎淡をはじめ二千の兵も後に続く。

 その騒音に南将軍はじめ他の武将達も飛び出してきたが、走り行く馬の一団を止める手だてがあるわけもなく、ただ呆然と眺めるだけだった。

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