第15話 酒席
深蘭がカラスキで皇帝に就任したころ、鳴坤堂では周宗の部屋に朱天が訪れていた。
辺りは日が沈み、間もなく暗くなろうとしている。
「おい、俺を捜していたそうだが……」
朱天が声をかけると、書類に見入っていた周宗が気づき顔を上げた。
「ああ、わざわざすみません」
言って立ち上がると来客応接用の机に移り、朱天に椅子をすすめた。
「いや、いいさ。何せおまえは恩人だからな」
朱天が椅子に腰掛けると、周宗も向かいに腰を降ろす。
机の上には甕が一つと杯が二つ用意されていた。甕の中にはなみなみと黄酒がたたえられていて、朱天はそれを見ただけで涎が沸いた。
周宗は柄杓をつかって杯を満たすと、一つを朱天に差し出した。
朱天はそれを一息に飲み干す。口の中に黄酒の風味が広がり、胸が熱くなった。
周宗はすぐに次を注ぎ、自らも杯を干した。
朱天と周宗は互いに目を合わせながらも無言で酒を舐めた。
互いに五杯を飲み終わったころ、ようやく朱天が口を開いた。
「思えば……おまえと二人で話すのは二度目だな」
周宗から柄杓を受け取ると、空になった杯に今度は自分で酒を注ぐ。
「飲みなよ」
言って、周宗の杯にも黄酒を注ぐ。
周宗も一礼してそれを半分ほど飲んだ。
「で?」
朱天は杯を机に置いて言った。
「用があるから捜してたんだろ?」
朱天はこの若造に恩がある。
だからこそ、彼を含む主従一行の保護を引き受け、山塞に住まわせているのだ。
出来るだけのことはしてやり、不自由もさせていない。その程度の自負はあった。
「折り入ってお話がございます。実はあなたに使いを頼みたいのです」
朱天の眉間にしわが寄った。
いったい、この小僧は何を言っているのだろうかと不思議な気にさえなる。
「あなたは決して私の部下ではない。それを承知の上であなたに頼みたいのです」
朱天の不機嫌な表情を見ても周宗は取り乱さず、噛んで含めるように言葉を継いだ。
「それは何をだ?」
そもそも、山塞の長である朱天が山を離れてノコノコと出歩けるわけもない。
そうして、それがわからない周宗でもないはずだ。
「ある人物を連れてきてもらいたいのです」
「ヒト? てめえが行かねえで俺に行かせる理由は?」
「私が行っても連れてこられないからです」
周宗は悔しそうに目を伏せた。
「ほう、そもそも誰を連れて来いって言うんだ?」
「殺し屋です」
「殺し屋だ? そんなもんどうしようって言うんだ」
「私の書いた筋書きには必要な存在です」
周宗の言葉を理解しようと大人しく話を聞いてた朱天の感情が、そこで抑えきれずにあふれ出す。顔面には明らかな怒りが浮かんだ。
「筋書き? おまえはそれの上で俺を踊らせようって言うのか」
声にも強烈な怒気を孕む。
「そうです」
周宗ははっきりと言った。
「おまえが考えた通りに俺が動かないときはどうするつもりだ?」
「動いてもらいます。どうやっても……」
朱天が机を叩き、言葉を遮った。机の脚が一本折れ、傾いた天板から甕が転がり落ちる。
甕が床に落ちて砕ける寸前に朱天の手はそれを捕まえ、机に戻した。
勢いで大半がこぼれてしまっているものの、いくらかは残っていた。
「おまえ……何か勘違いしてないか? 確かに俺はおまえのおかげで漠蜂の呪いから解かれた。だがな、成り行きでも何でも俺は鳴坤堂の堂主でおまえは客だ。何でおまえのために踊らんといかんのだ」
そう言うと甕に残った酒を一気にあおった。
酒精が胸に満ち、凶暴な気分に拍車をかける。
「私のために働けというのではありません」
「当たり前だ! おまえらの面倒を見る事で十分に恩は返している。それ以上どころか俺をおまえの下に置きたいというのならそれは筋違いだろうよ」
朱天は空になった甕を後ろに放り投げた。
放物線を描いて飛んだ甕は壁にぶつかって粉々に砕ける。
「あなたを私の下に置く気はありません」
視線の一つも動かさずに、朱天をまっすぐ見据えて周宗は言った。
しかし、眼力で押されるくらいなら山賊の頭目など務まりはしない。
朱天は上から見下ろしながら、周宗の真意を値踏みしていた。
目の前のガキはむしろ頭の回転が速いはずではなかったか。
「次、同じようなことを言ったらお前でも打ち殺すぞ」
朱天は手に持った杯を握り潰すと、手に着いた破片を払い落してから席を立った。
「酒飲みは終わりだ。酒も杯もなくなっちまった」
「あなたと取引がしたい!」
歩き出そうとした朱天の背中に周宗が叫んだ。
常からは考えられないような切迫した声に、思わず朱天も足を止める。
周宗は手にした杯を朱天に差し出した。
「まだ酒は残っています。どうぞお掛けください」
朱天は何か言おうと思ったものの、諦めて席に着く。
周宗は恩人に違いなく、縋られて話を聞くくらいの義理はあると判断したからだ。
「あなたは、納得のいく死に方をしたいといいましたね」
「言ったかもな」
周宗の問いに朱天はつまらなそうに応えた。
現につまらなかった。
過去に自分が何を言ったにせよ、それをあげつらうような口調が気に食わないのだ。
「ここで山賊稼業を続けたって天下を切り裂く大盗にはなれません。もっと、巨大な人物となり世の中に名前を轟かせてみませんか?」
そう言う周宗の目は熱っぽく光っている。
もしかすると、武者修行へと故郷を飛び出したころの自分と眼の光が似ているだろうか、と朱天は思った。
「名前、ねえ」
「あなたは今、山賊の首領だ。だが、あなたの力と器はこんな辺境で腐らせるには惜しい」
周宗が言った言葉にしかし、朱天は「興味ねえな」と言った。
「俺の死に方は、俺だけが納得できればいいんだ。今の暮らしにも満足しているし、今更誰かの下で働く気もない。ましてや、そんな根拠もない話に乗るわけもないだろう」
「下ではなくて同盟関係でいかがでしょう。私たちは国が欲しい。そうして、そのためにもあなたという有力な将の協力が不可欠なのです。対して、あなたは軍を率いて名前を売れる。そうなればあとは自分の国を興すもよし、他国に仕官するもよしです」
周宗はそう言うと、服の袖をまくって見せた。
朱天とは比べ物にならない細腕が白く伸びている。
頼りなく見えるが、主を救い、朱天を漠蜂から解き放った実績もある腕だった。
「その、たかが辺境の山賊に寄生しているおまえらみたいなガキの集団が、いったい何を喚こうと現実味はねえな」
朱天は鼻で笑った。これ以上聞いていても仕方がない。
周宗が抱える杯をヒョイと取り上げ、中身を飲み干した。
「これで酒は終わり、戯言も止め時だ」
周宗はそれに応えず、妖艶に微笑んだ。
「あなたはそうおっしゃると思いまして、若輩なりの取れる手は既に打っております」
「どんな?」
朱天は少しだけ興味が沸き、問うた。
「ゼンキ帝国の皇帝を暗殺することに成功しました」
朱天の顔が凍り付く。
ゼンキ帝国の皇帝が急死したとの報は確かに受け取っている。
「あなたのおっしゃるとおり、私たちはガキですし、困っているからこそなんでもするのです。覚悟の程をご理解いただけましたか?」
周宗の笑みはとても血に汚れた者のそれとは思えないほどに美しかった。
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