第10話 血まみれ
刺客と深蘭は皇帝を挟んで二人は同じくらいの距離を取っていた。
突然沸いて出た深蘭を見た刺客が誰何する。
「貴様、何者か!」
その言葉で皇帝は初めて深蘭が後ろに立っている事に気付き、足下に這い寄ってきた。
「おお、深蘭、助けてくれ」
理解し難い状況に皇帝は、なぜそこに息子がいるかなどまるで頭が回らないらしい。
素っ裸のままおたおたと慌てる様に、地上最大の国家を統べる威厳はない。
しかし、そんな父の醜態も深蘭の目には入っていなかった。
刺客と、深蘭の二人は互いをにらみ合ったまま目を動かさない。
そのとき、深蘭の足に皇帝がすがろうとした。
「父上、これが私なりの孝行です」
深蘭は言うが早いか剣を一振りした。目を見開いた皇帝の首が飛び、窓から外に落ちていったが、深蘭はその首にさえ一瞥もくれようとはしなかった。
目をそらしたらその途端に切り捨てられそうな気迫を目の前の男から感じ、それに対応する方を優先したのだ。
父を殺した自分には生き延びる義務がある。深蘭には強く思っていた。
「深蘭……貴様は第一皇子の深蘭か?」
刺客は、剣先を深蘭に向ける。
覆面の合間に光る眼の鋭さが更に増し、深蘭の脈拍が跳ね上がった。
呑まれてはいけないと自分に言い聞かせながら、深蘭も剣先を刺客に向ける。
「そうだが、おまえは何者だ?」
勤めて皇族らしい優雅さを装い、聞き返すと、刺客はゆっくりと剣先を下げた。
「お初にお目にかかる。名は名乗れないが、無礼については詫びよう」
言うと刺客は顔を覆っていた布を外した。
蝋燭の炎に映し出された顔は、数十日前に鳴坤堂を発った栄沙のものであったが、深蘭がそれを知る筈もない。
「悪いがおまえも始末させてもらうぞ」
栄沙があらためて剣を構え、重心を落とした。必殺の気合いが栄沙から深蘭に向けられる。
その殺意を感じながら、深蘭は死ぬかもと他人事のように思う。
彼我の技術差は比べるまでもないだろう。
しかし、深蘭の顔に思わず我知らず笑みが浮かんでいた。
短剣を構えながら、大きく息を吸い込む。
心地よい。籠の中で過ごしてきた深蘭にとって、外からの風はすべて心地よく感じるものであった。
ましてや己はこれほどまでに激情を向けられた事があっただろうか。
次々湧き上がってくる快の感情に全身に鳥肌が立つのを感じる。
全身に血液が流動している感じがありありと感じられた。
時間にすれば十秒ほどの見つめ合いの後、仕掛けたのは栄沙からだった。
「ハッ!」
手にした剣を一閃し剣風で蝋燭を消し、そのまま間合いを詰め、大上段に斬りつけた。
強烈な一撃を深蘭はどうにか受け止め反撃に転じる。痺れた腕で出した剣は栄沙の右腕を少しかすめた。
「ちっ!」
腕ごと切断せんばかりの胴切りにも、実と虚を使い分ける変幻の剣技にも、反応し防ぐ。
事前に服用していた興奮剤で感覚が走っているのが解る。
深蘭は常ならぬ己の動きに興奮しながら、剣を振り回し続けた。
それでも、力の差が埋まることはない。隙を窺いながらも深蘭は徹底して待ちの戦法をとった。敵の剣戟は激しく、そうしなければ一撃で切り捨てられてしまいそうだった。
十合ほども打ち合ったころ、深蘭は栄沙の呼吸が荒くなっているのを感じた。
互いに剣を振り回しあって、負った傷は栄沙のひっかき傷が一つ。
しかし、それで十分だ。
深蘭は胸を狙った突きをギリギリで弾きながら大きく後ろにさがった。
栄沙はそれを追おうとして足を止めた。
最初の鋭い眼光は既に無く、半開きになった口からもだらしなくヨダレが垂れていた。
はぁ、はぁ……。
栄沙が吐く息は不規則になっていた。
苦しいのか片手で喉をかきむしる。爪が破った皮膚から血が溢れ、襟元を塗らした。
栄沙は何事か言おうとして口をパクパクと動かしたのだけど、声が出なかった。
少しして、立っていることさえ不可能になった栄沙が膝を着いたのを見て、深蘭は大きく深い息を吐いた。
「やっと効いたか」
つぶやき、額の汗を拭うと、握りしめた拳の爪が剥げていた。
秘薬の効果か痛みは感じなかったものの、全身から汗が噴き出しており、服がベッタリと皮膚に張り付いている。
勝者として、王者として栄沙を見下ろすと、もはや瞼さえ閉じかける目で栄沙は睨みかえした。
「無駄なあがきは止せ。強力な毒だ」
深蘭は傍らの寝台に腰掛けた。
鼓動が激しすぎて胸が苦しかった。
「死にはしない。何日か動けなくなるが、その後に聞きたい事がいくらでもある。ゆっくり休め」
やっと人心地つき、消された蝋燭に火をつける。
――ビチャビチャ!
突如音がした。振り返ると栄沙の口から大量の血が出ていた。
「おい、どうした?」
駆け寄る深蘭に栄沙は笑い、真っ赤な口を動かした。
く・そ・く・ら・え。
ハッとして深蘭が身を引いたが、遅かった。栄沙の剣が跳ね上がり、襲いかかる。
首をとっさに動かせたは興奮剤がもたらした僥倖であった。振り上げられた剣先から頭を反らす。その代わりに左腕が残った。
栄沙の握力はそれで出尽くしたのだろう。
振り上げた剣はそのまま手から離れ、飛んでいく。
深蘭の増幅された感覚は天井に刺さって振るえる剣と、床に落ちて転がる自らの左腕を両方捉えていた。
思考が全てかき消える。
深蘭の右腕は、切断された左腕を追いかけ、拾い上げた。
痛みも、冷静さもどこかへ行ってしまって、深蘭の胸中には巨大な焦燥感に似た感情だけが広がっていく。
もっとも、注視しなければいけない刺客の存在が脳内から抜け落ちた。
噴き出る血を抑えようとして、抑えられず混乱していると、ようやく栄沙の行動に気づいた。
失敗を悟った刺客は体を引きずりながら窓に辿り着いていた。
口から真っ赤な血を流しながら、栄沙は振り向き、深蘭と眼が合う。
互いに言葉もなく見つめ合う濃密な一瞬の後、栄沙はゆっくりと窓枠の外に体を出し、そのまま落ちていった。
ドサッ!
潰れる音を遠くに聞きながら、深蘭も倒れ、意識が途絶えた。
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