第9話 皇子

 大陸で最も広大な版図と最大の軍事力をもつゼンキ帝国は、巨大都市のカラスキを首都に据え、周囲の国々の戦争、併呑に明け暮れていた。

 その拡大の勢いは尋常ではなく、技術者たちが地図を作るのを諦めたと言われるほどに国境線は日々書き換えられていく。

 カラスキでも最も高い高楼の屋根の上で深蘭は前日に報告を受けた新しい国境線の延長を計算しながらため息を吐いた。

 深蘭は引き締まった顔つきに意志の強そうな目つきをした少年で、先日十七歳になったばかりにしても少々小柄である。しかし、袖から見える腕、あるいは襟から除く胸板には充分に筋肉が付いていて、十分な量の鍛練を積んでいるのが見て取れる。

 皇帝の百を越える子の内、もっとも長じた男子であり、同時に次期皇帝の呼び声も高い皇太子。それが深蘭の肩書きであった。

 眼下に目をやれば日没後にもかかわらず明かりを焚いて活動を続ける帝都の姿が浮かび上がる。

 都市の端には首都を囲むように三重の石壁が築かれているし、さらに遠くに目をやればカラスキを守る為の砦がいくつも建築されている。

 そうして幾重にも守られた都市の、更に厳重に守られた宮殿の敷地内に高楼は立てられており、周辺の豪壮な建築物と比べても群を抜いた背の高さを誇っていた。

 深蘭は周辺を見回しながら、横になる。

 高楼の屋根の上は本来、人が上がる場所でもなく周囲からも見られないのはいいのだが、常に強い風が吹き当たっており日没後は寒い時もある。

 深蘭は屋根の一部に隠して設置された物入れを開け中から毛布を取りだした。

 物入れには毛布の他に小さな小瓶と短剣が入っている。

 間もなく高楼の最上階に設えられた寝室に皇帝が来るだろう。

 深蘭は毛布に包まると、ついでに短剣も取り出して押し抱いた。

 二年掛けた計画が間もなく実行に移されようとしている。

 深蘭は頭が緊張に火照るのを感じ、冷たい風が頬を撫でるのを心地よく感じた。


 ※


 先代の頃より帝国の領土が拡大したのは、それが国是だからである。

 帝国はそもそも、大陸の統一という途方もない夢目標を掲げて旗揚げされ、今も動き続けている。

 そう言った意味で、現皇帝は理念に忠実だった。

 しかし、あまりに無能でもある。

 深蘭は実の父をそう断じていた。

 官僚団の実務があり、国は回っているものの、皇帝が自信は国内の状況を把握していない。

 興味があることはただ、酒色ばかりの俗物で、政務の場でたまに口を開いたと思えばやれ、カラスキ防衛網の増築だ、軍の増員だと周囲を惑わせる。

 一体、国境から遙か離れた大都市にどこの誰が攻めてくると言うのか。

 叛乱勢力というのは十分ありえるのだけど、無為な税の取り立てや過度な軍役は叛乱の芽をせっせと育てているにほかならない。

 深蘭は帝国を上手く治める自信があるが、皇帝が死ぬまで帝国の命脈が保つかは甚だ怪しい。


 深蘭は数年前、父である皇帝に高楼の建築を提案した。

 決め文句は「彼の部屋は天に最も近くありますれば、いずれ陛下は女神とも契れましょうや」であり、まったく以て馬鹿馬鹿しいことながら、皇帝はそれを受け入れ、深蘭が望むよう、現場での指示も取らせてくれた。

 もしかするとそれは自慢の長男を他者に自慢したいという親心の表れだったのかもしれないと思いながら、深蘭はいくつかの仕掛けを施し、皇帝を殺す準備をせっせと済ませたのだった。

 それが二年前。

 皇帝は出来上がった高楼の、最上階で情事に耽ることを気に入り、定期的に利用するようになった。

 今晩は、ついに計画を実行すると思えば感傷的にもなろう。深蘭は親殺しを前に父の思い出を反芻していた。


 月は細く、低い。

 宵闇が深くなり、深蘭は父を待つ。

 高楼は仕組みとして、最上階の寝室以外は階段になっており、内部に響く嬌声を聞かないため警備兵は入り口のみを塞ぐ。

 そもそもが治安の保たれたカラスキの、更には厳重な警備がしかれる宮殿内であって、皇帝も警備兵たちも危機を想定していない。

 事前に立ち入り、侵入者がないかを検める形ばかりの検査が行われ、寝室は既に無人である。

 深蘭が物音も建てずにじっとしていると、やがて父が護衛と側女を引き連れて現れ、二人で高楼に入っていくのが見えた。

 いよいよである。

 しかし、どの瞬間がいいのか。

 コトの前に立ち入れば大声を出される危険もある。

 そう考えれば、コトが終わった直後が適切か。

 深蘭は短剣に小瓶の中身を垂らした。

 致死性の猛毒であり、万が一でも討ち漏らすことがないように用心を重ねる。

 そうこうするうちに、階下では睦言が始まり、やがて嬌声になっていった。

 ここまではある程度うまくすすんでいる。深蘭が寝室に降りる為の隠し梯子を降ろそうとした瞬間、視界の隅に何かが映った。

 地上を奇妙な影が駆けている。それはかがり火の作り出す濃艶な闇を伝い、入り口に近づいてくる。兵士達の死角をうまく突き、確実に、しかし素早く。

 と、兵士に気付かれる限界まで近づいた瞬間、影は陰を飛び出した。

 一瞬の間に数回白刃が煌めき、油断しきっていた兵士達は声も出さず倒れた。

 全員を斬り倒すと、影は返す刃で転がる兵士達の首をすべて刎ねた。影はそのまま流れるように楼閣に入ってくる。

 深蘭が気付いてからわずか十数秒の間の出来事であった。あまりに鮮やかな手並みに一瞬惚けていた深蘭だったが、すぐに頭が回り始めた。

 どうする?

 賊はあっという間に上ってくる。目的はおそらく……。

 深蘭は手にした剣を見つめた。影の目的は間違いなく深蘭と同じであろう。

 いっその事、任せるか。まさかしくじりもしまい。しかし……。

 深蘭はわずかの間の自問自答に答えを出し、階下の部屋に飛び込んだ。そこには、すでに顔まで黒布で隠した影が立っていた。その足下に転がる女の首。

 皇帝は何が起きたのか理解できないのだろう。呆けた面で刺客を見ていた。

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