間章 夢幻に揺蕩う

 夢を、見ていた。昔むかし懐かしい記憶。私がまだ幼く、世界を愛していた時。


「あなたに、新しい護衛の人を連れてきましたよ」

 そう言って、ある日母が連れてきたのは真っ白なお兄さんだった。母の車椅子の傍らに立ちつくしているその人は全身白くて、うちの入院着を着て、髪も肌も真っ白。唯一虚ろな瞳だけが、血のように赤く光っていた。私はそれを見てアルビノかな、なんていつか何かの本で見た単語を思い出す。

 母がこうやって、護衛の人を連れてくるようになったのは父が死んでからだ。大抵の護衛の人は、大なり小なり怪我をしてすぐにいなくなってしまう。彼は十八番と呼ばれていたから、きっと護衛の人は十八番目なのだろう。私は、数えた事もないけれど。

でも、今回の人はどうしてかぼんやりとしているし、なんだかいつもの護衛の人よりも若いみたいだ。高校生くらいの、ひょろっとした体で以前にも増して到底長続きしなさそうに見えた。

「それじゃあ、十八番。今日からこの子を守るように。いいわね、命に変えても守りなさい」

「わかった」

 事務的で、不条理ともとれるいつもの母の命令を、白い人はこくりと何のためらいもなく頷く。それを確認して、母は私に柔らかくにこりと笑いかけた。

「十八番の事は気にしないでいいですよ。それでは、私はいつも通り仕事してきますから、いい子で大人しくしていてくださいね」

 ゆるりと手を振って、母が扉の向こうへと姿を消す。それを見送った私は残された白い人を一瞥して、母がくる前に読んでいた本へと再び視線を落とした。しばらくそうやって本を読んでいたが、私はやがて視界の端に映それに耐えられなくなって諦めてぱたりと本を閉じる。

「ねえ、あなたどうしてずっとそこに立っているのよ。目障りだわ。座ったらどうなの」

 苛々とそう険のある声で言うと白い人はぼんやりと私を見て、こてんと首を傾げた。

「……どこに?」

 この人はもしかしたら変な人なのかもしれないと思ったのはこの時だ。私は溜息をついて無精不精椅子から立ち上がり、机の向かいの椅子を引いてやった。

「ここ。ここに座りなさい」

 指差して示してやれば、白い人は存外大人しく座る。けれどそのまま何を言う事もなく、私をじっと見つめてきたので私はついに舌打ちを零した。

「……何よ」

 居心地が悪くなってそう問えば、白い人はやはりぼんやりとした様子で、再び首を傾げる。

「それで、何したらいいの」

「別に、好きにしたらいいわ」

 今までの人間はずっとそうだった。筋トレを始めたり、本を読み始めたり、端末を弄っていたり。中には転寝をしたり、ゲームをしたりする奴もいた。けれどこの白い人は、そうではないらしい。

「好きに……って?」

 そもそも言われた意味がわからないとでもいうように、首を傾げている。ここで、ぷつりと私の短い堪忍袋の緒の限界はきた。

「じゃあ自己紹介でもしてちょうだい。十八番、なんて外じゃ呼びたくないもの。名前教えなさいよ」

 声を荒げてそう言えば、白い人はそんな私に戸惑う事もなく少し首を捻って考えて、考え込んで……そして、ぽつりと信じられない言葉を返してきた。

「わからない。あったかもしれないけど、良く覚えてない」

「はあ⁉ あなたそれで、どうやって生きてきたのよ! あなたいくつなのよ!」

 冗談のような返答に驚いて、思わずそう問えばそれすら白い人は悩んで緩く首を振る。

「自分の歳も良くわかんない。たぶん、百は過ぎてると思うんだけど」

「そんな……っ、さすがに嘘でしょう!」

 こんな外見でそれはない。そう思うが、当の白い人は首を傾げるだけだ。嘘など付いているようには見えない。一体、この人は何なのだろうか。

 怪訝に思い顔を顰める私に、白い人は何を思ったか机の上にあったハサミを手に取った。何をするのだろうと見ていると、子供用のそのハサミを躊躇なく白い人は自らの掌へと突き刺す。

「……っ! あなた、何して……ッ!」

 飛び散る血に眩暈を覚えながら、再びハサミを振りかぶろうとした手を慌てて掴んで止めた。痛いだろうに、その表情はピクリとも動かない。それどころか、私に対して傷口を見せようと掌を開いて私の眼前へと差し出してきた。その痛々しさに思わず目を閉じようとして――血が、動いて傷口に集まっているのに気がつく。

「なに……これ……」

 呆気に取られて見つめているうちに、傷口はどんどん蠢く血液によって塞がっていった。そうして全て元通りになるのを確認して、白い人はぼんやりと再び口を開く。

「おれは不老不死ってやつなんだって。だから名前もないし、歳もわかんない。ごめんね」

 そう言いながら、白い人は掌を隠そうとする。私はそれを捕まえて、ぎゅっと抱え込んだ。驚いたような顔で私を見る白い人に、気が付けば私は問うていた。

「大丈夫? 痛くないの⁉」

 あのハサミはそれほど鋭利という訳ではなかった。それを無理に突き刺したのだ、きっと痛かったに違いない。痛々しい傷を思い出して、顔を顰めながら私がその掌を指先でなぞると白い人は不思議そうに首を傾げた。

「気味悪くないの……? おれのこれ見ると、大体みんな嫌がっておれに触りたがらないんだけど……」

 そう言われて、今度は私が首を傾げる番だった。

「怪我をした人がいたら、その心配をするのが先でしょう? 気持ち悪いかどうかなんて、考えてもいないわよ。凄く回復が早いって思えばなんてことはないわ」

 当然の事を言っただけなのに白い人は一度大きくその赤い瞳を見開いて、そうして何故かへにゃりと笑う。

「……ありがとう。痛かったけど、大丈夫だから」

 初めて見せた笑顔はどちらかというと情けなくて、全然強そうだとか役に立ちそうには見えなかったのだけれど、それでもさっきのぼんやりと生きているのか死んでるのか良くわからないような顔よりはずっといいと思った。

「大丈夫ならいいわ。ねえ、それじゃあ私があなたの名前を決めてあげるわ。ないと不便だもの」

「わかった。お願いするね」

 私の提案に、白い人は笑みのまま頷く。その顔をじっと見つめて少し考えて、私は一つの名前を口にした。

「『とうや』っていうのはどうかしら。十八番って呼ばれてたから十でとう、八でや。安直だけど、元々の呼び名に掛けてるから馴染みやすいんじゃないかしら。漢字にするなら当て字だけど、灯りの矢で、『灯矢』とかかしらね」

「とうや……灯矢……?」

 机の上のメモに思いついた名前を書くと、それを白い人――灯矢は口の中で何度も繰り返した。その反応になんだか不安になって灯矢の袖を引く。

「嫌なら他のを考えるけれど……」

 そう言いかけた私を遮り、灯矢はゆるゆると首を横に振る。そうして、袖を引いた私の手をとって嬉しそうに笑った。

「ううん、嫌じゃない。全然、嫌なんかじゃない。ねえ、試しにおれを呼んでみてよ」

 改めてそう言われると、少し気恥ずかしいものがある。私はぎゅっと灯矢に握られた手を誤魔化すように握り返しながら、今つけたばかりの名前を口にした。

「と、灯矢……?」

 途端、灯矢はへにゃりとまたあの少し情けないような笑顔になって、少しだけ震えた声で呟く。

「君は凄いね。名前をくれて、おれの手を握ってくれる。おれを、人みたいにしてくれる。なんだか――神様みたいだ」

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