五章 女王の処刑

 次に目を覚ました時、私はまた暗闇の中にいた。どうやら私が気を失っていた時間は短いらしい。気を失う前と同じく礼拝堂の床に転がっているのだと知って、あのまま殺されはしなかったのだと小さく安堵する。起きあがろうと全身の鈍い痛みに呻きながら体を動かそうとしたが、すぐにそれは不可能な事を知った。

「……っ」

 手首と足首がそれぞれ縄で纏められ、その間をやはり縄が繋いでいる。試しに力を入れてみたが、ギシリと僅かに鳴くだけでどうにも解けそうになかった。それでも何とか外せないかと試行錯誤する私に、くつくつと乾いた笑い声が降り注ぐ。

「良いざまだなあ女王様。縄、良く似合ってるぜ」

「……砂山」

 唇をぎりと噛みながら声の主を探して視線をうろりと彷徨わせれば、それはすぐ傍の長椅子に腰かけて炯々たる光を放つ瞳で私を見下ろしていた。反射的に強く睨み返すと、気にくわないというように表情が歪められる。

「俺はお前が嫌いだったよ。問題ばっかり起こして、みんなに迷惑かけて、怯えさせて、傷つけて、無慈悲な女王のように振舞うお前が大嫌いだった」

「……そう」

 向けられた嫌悪を静かに受け止める。そう思われていた事など、とうに知っていた。むしろそうであるように、私自身振舞っていたのだから。人は自分を映す鏡なのだという。だからこそ、全てが憎く、全てがくだらない。そんな思いで過ごしていて、人が私を厭わないはずがなかった。

 砂山が腰を上げて、不意に私の脚を踏みつける。ぐりと体重を掛けて抉られれば、激痛と共に骨が軋んだような気がした。額に脂汗が滲み、呻き声が零れる。

「く……っ」

「でも、そういうもんだって諦めてもいたんだ。どれほど腹が立ったって、刃向えば俺はこの学園から放り出される。それでここを放りだされたと知れたら、もう二度とまともに社会にいられないって知ってた。だからできるだけどれだけ苛立っても関わらないように、無視するしかないんだって決めてやり過ごしてた……それなのに」

 堪え切れなかったように段々と語調が荒くなって、掛けられる体重が増した。みしりと今度こそ骨が軋む音を聞いて、私はあまりの痛みにひゅうと息を呑む。

「お前らは、八木を殺した」

 弾劾するようにそう言って、堅い革の爪先がぐりと肉を抉る痛みに強く唇を噛みしめて耐える。無意識のうちに逃れようと身を捩るように動いた体が、手首と足首の縄をぎりときつく締めあげた。

「仁礼が死んだ時も凄くショックで落ち込んだし、俺がなんとかできたんじゃないかって後悔もした。それでもあの子が望んだ事だから仕方がなかったんだって、諦めようとしてたんだよ……でも、八木は」

 そこまで口にして、砂山はくしゃりと表情を歪める。その顔は泣き出す寸前の子供のようで、少しだけ幼く見えた。

「八木は……俺の、教師としての支えみたいな子だった。他の奴らがだるそうに授業聞いてる中であいつは真剣に聞いてて、終わった後にもわからない所をわざわざ聞きに来るんだ。『先生』としての俺を必要としてくれたのが、俺は嬉しかったんだよ。あいつがいたから俺は今まで頑張ってたとか言うと言いすぎかもしれねーけど、でもそれに近いぐらい俺にとって八木の存在はでかかったんだ」

 ぽつりぽつりと震えた声で、独り言のように呟かれたそれは容易に想像できた。八木は馬鹿みたいにまっすぐでまるで善意の塊のような人だったから、そうやって全てにきちんと向き合っていたのだろう――私にも、そうしてくれたように。それが救いになるなんて、欠片も思いもせずに。

「八木がお前の傍にいるようになったって知って、俺はすぐに引き離すべきだって思った。お前の周りで事故が多発してるのは周知の事実だったから、絶対にいつか巻き込まれるってわかった。でも、八木に離れろって言ったら嫌だって言って取り合ってもらえなくて、どんなに説明してもあの子は頷いてはくれなかった。もう十文字から関わるのをやめてもらうしかなかった。だけど、お前にそれを言うのは怖かったんだよ。十文字にそんな事言ったら、機嫌損ねて学園を追い出されるかもしれない。俺は臆病だったから、そんなことはできないと思った。でも……八木が、あの子がいなくなるのは耐えられなかった」

 あきらかに痣になっているであろう箇所を執拗に踏みにじられる痛みに呻きながら、砂山の胸の内をすべて吐き出すような告白に胸を抉られる。私が穏やかな時間だと愛していたものが、砂山にとっては苦痛でしかなく忌むべきものだったという事が悲しかった。

「悩んで悩んで、結局ビビりながらもお前に八木から離れろって言ったけど、何でかは怖くて言えなかった……それがよくなかったんだ。中途半端に言わないで、ちゃんと言えばよかった。学園を追い出されて今の生活がなくなったとしても、俺は言わなきゃいけなかったんだよ……」

 声が、震えて小さくなる。ぱたぱたと私の体に暖かい雨が落ちた。ひゅうと砂山の喉が鳴って、嗚咽が漏れる。砂山は泣いていた。それを拭う事もなく、ただぼたぼたと滂沱の涙を流しながら砂山は血が滲むように慟哭する。

「だから、八木は死んだんだ! こうなる事はわかってたのに、俺が根性無しのクズで自分のことばっかり考えてる最低な人間だったから! 八木を守れなかった自分が、俺をこんな最悪の奴にして八木を殺した十文字が憎い! もう何もかもが憎いんだよ、全部憎くて憎くて堪んないんだよ! もう嫌だ、返せッ! 八木を返せよ十文字ぃッ!」

 叫びと共に振り下ろされた脚は、私の腹を抉った。あまりの激痛にちかちかと目の前が明滅して、悲鳴と共に血の混じった胃液を吐き出す。再び意識を失いそうになりながら、私は目の前の男に自らを重ねていた。

 ああ、同じだったんだ。砂山もずっと、自分ではどうもできない事に苛立って、八木の存在に救われて、その死にああしていたらともしかしてを考えて自分を罪で責め立てて、元凶を呪って憎んで。そうやって、今日までを過ごしていたんだ。それは私と同じで――砂山は私そのものだった。

「お前が、お前が代わりに死ねばよかったんだ! お前が生きてたって、どうしようもないんだよ……ッ!」

 絶叫するその苦しみが、悲しみが痛いほどにわかって涙がぶわりと視界を滲ませる。あれほど厭っていた砂山が自らの片割れのように、酷く身近に思えた。その痛みを、内臓を掻き回していくような激情を私は知っていたから。だからこのまま砂山が私を殺そうとしても……きっと、止める事はできない。砂山になら、殺されても仕方がないと思えた。

 抵抗する気を完全に失った私を見て、砂山はようやくぴたりと蹴りを止める。そしてぐいと乱暴に涙を白衣の袖口で拭いながら、砂山はごそごそと懐から小振りの瓶を取り出して、後ろ手に無造作に放り投げた。パリンという瓶が割れる音に続いて、砂山の背後である祭壇にばっと火の手が上がる。先ほどのあれはどうやら火炎瓶だったらしい。闇に沈んでいた空間を引き裂くような赤々とした炎の眩しさに目を焼かれながら、砂山の狂ったような笑い声を聞く。

「何もかも終わりにしようぜ……俺もお前も、罪も、この気が狂いそうな感情ごと全部、灰に還るべきなんだよ……この建物のあちこちに燃料は撒いてある、小さな建物だからすぐに火は回るだろ。なあ、一緒に死んでやるからさ……死んでくれ十文字」

 ぱちぱちと火の爆ぜる音を聞きながら、狂気の笑みを浮かべる砂山に私は一言だけ掠れた声で返す。

「私と、心中したいの」

「……もう、そうする以外にないんだよ」

 ぽつりと呟くように返ってきた言葉は、弱々しく響いた。彼もきっと苦しんで苦しんで、そうして死にたくなったのだ……だって、私がそうだった。

世界が憎くて、自分自身すら許せなくなったらそうするしかない。世界は容易に変わらないし、自分自身さえ存在を許せなくなったら、もう生きていけないから。

もう少しで死ぬというのに、私の心は驚くほどに落ち着いていた。あれほど怖かった死の来訪を、今は穏やかに受け止める事ができる。そもそも砂山が来なければ、私はマリアに『自殺』させられていたのだ。それが少し遅くなっただけ、何も問題はない。

火の端が木製の床を呑みこみながら迫っているのが見える。じりじりとした熱が全身を覆って熱いし、煙が上がってるからか少しだけ息も苦しい。ああ、これでようやく私の人生は終わるのだとほっと息を零したその時。背後からバンと乱暴に扉が開く音がした。

「神様ッ!」

 同時に聞こえた声に思わず目を見開く。どうして、何でここに。慌てて振り返ろうとしたが、縛られている状態では上手く振り向けない。けれど徒に天井を見る事しかできない私の視界に、すぐにそれは飛び込んできた。

「神様ぁ……!」

 息を切らし、泣き出しそうな顔で私を呼ぶのは間違いなく灯矢だった。けれど、灯矢に私は行き先も何も告げなかった。あれからすぐに回復したとしても、私の後を追えたはずはないのに。まさか、私がいるかもしれない所を全部回ったとでもいうのか。

突然の事に頭が追いつかずに呆然とする私を、灯矢は即座に縄を解いて身を起こさせた。そうして私の顔を見るとぶわりと赤い瞳に涙を浮かべて、ぎゅうと縋りつくように抱きついてくる。汗で湿った体からは、ふわりと汗の匂いがしてさっきの考えが間違いで無かった事を知った。ついにぐすぐすと泣きながら、ごめんなさいと灯矢は口にする。

「おれ、神様が死にたいのわかってたんだ。嫌だけど、おれを殺すほど真剣に神様がそう願っているなら止めちゃいけないって思ってたのに。でも、駄目だった。神様がいない世界なんておれ耐えられない……だって、やだよ……死んじゃやだ……っ」

 やだやだと駄々をこねるように泣く灯矢の姿に、気が付けば頬を涙が伝っていた。私の死を嫌だと、生きていて欲しいと言う言葉が勝手に胸に染みてきて痛い。私には、そんな事言ってもらえる資格なんかないのに、甘えたくなってしまいたくなる。そんなのは駄目だ。

「とう、や……やめて……かえって……っ」

 掠れた声で何とかそう言って、拒絶するように肩を押すと灯矢は容易に離れて行った。その事に少しだけ傷付いてしまいそうになって、ぎゅっと唇を噛みしめて俯く。私はこのまま罰を受けねばならない。だからどうか、決意が揺らぐ前に呆れて去って欲しかった。

 灯矢はそんな私を前にしばらく黙りこんでいたと思うと、すっと立ち上がる。ああ、こんな時でも灯矢はやはり言う事を聞いてくれるのか。そんな安堵と寂寥感が入り混じった感情を覚えながら、床を見つめて離れていく灯矢の足音を聞いた。けれど、次に聞こえたのは蝶番の軋む音ではなくて。

「ぐ……ッ!」

 砂山の呻き声と共に、ばきりと殴打の音が弾ける。一拍遅れて、派手に床に倒れ込む音が聞こえて私は思わず顔を上げた。見れば、倒れ込んだ砂山の上に灯矢が馬乗りになって拳を振り上げている。

「神様に、何したの」

 ばきりと再び強く砂山の頬を殴りながら、静かに問う声は低く冷たい。そのくせ、ぞっとするほどの怒気が赤い瞳に間近に燃える炎のようにちらついていて、先ほどまで私に縋りついて泣いていた男とはまるで別人のようだった。

「あんな全身痣だらけにして、縄で縛って、散々に泣かせて。どうしてそんな事をしたの。どうしてそれが許されると思ったの」

 淡々とした灯矢の問いに、砂山の狂ったような笑い声が重なる。口の端から血を流しながら、砂山はケタケタと笑った。

「ばっかじゃねえの、許される許されないなんて関係ないね! その女は八木を殺した。それでのうのうと生きているのを俺が許せなかった、それだけの話だッ!」

 泣きながら割れた声でそう叫んで、砂山は灯矢に拳を振り上げた。がっと鈍い音が響いて、灯矢の体が長椅子に叩きつけられる。同時に、灯矢が痛みに呻く声が聞こえた。

「灯矢……っ!」

 思わず立ちあがりかけるが、ずきりと脚が痛んで私はバランスを崩して倒れ込む。全身を打ちつけた痛みを唇を噛んで堪えているその間に、砂山は再び灯矢に歩み寄っていた。

「あの子が感じた痛みを、苦しみを全部教えてやりたいんだ! 全部終わりにするんだ、こんな糞みたいな人生になんて何の価値もない! 俺もあいつも罪に焼かれて死ねばいいんだよ!」

 ぱちぱちと燃える炎が血の滲むような叫びを呑みこんでいく。それは私の叫びでもあるように思えた。もう何もかも終わりにしたい。この罪に塗れた生を焼き払ってしまいたい。それが、ただ一つの償いの方法だから。

 けれどその思いを蹴散らすかのように、砂山に負けないくらい灯矢は大きく声を張り上げた。

「馬鹿にしないでよ!」

 滅多に大声を出さない灯矢の一喝が空間をびりびりと震わせ、私達を圧倒する。呆然とする砂山の胸倉を掴んで、灯矢はものすごい剣幕で怒鳴った。

「神様は殺したくて殺したんじゃない! そんなの、望んでたわけじゃない! ただ皆、神様を守りたかったんだ、神様に生きてて欲しかったんだよ! 神様が好きだったから、勝手にやったんだ! その思いを全部踏みにじって、馬鹿にして先生は何してるの⁉ 八木さんが生きた意味を全部否定して何になるって言うの! おれ達は望んで犠牲になってるんだ、その思いを馬鹿にしないでよ!」

 その叫びは、後半涙に濡れていた。泣きながら、灯矢は怒っている。自分の、皆の犠牲の意味を失わせない為に怒っていた。けれど、砂山も負けていない。灯矢の胸倉を掴み、怒鳴り返す。

「誰かの犠牲がなくちゃ生きていけないなんて、間違ってんだろうが! あいつが、十文字がいなけりゃ生きてたんだよ! 八木だって、死ななかったんだ!」

 その言葉に灯矢はくしゃりと悲しそうに顔を歪めて、砂山の胸倉をそっと離した。砂山の険しい視線をまっすぐ受け止めながら、口を開く。

「……確かに、神様に出会わなければ八木さんは今も生きてるだろうし、痛い思いもしなかっただろうね」

 改めて突き付けられた事実に、私はずきりと胸が痛む。賛同を得たとばかりに暗く笑む砂山に、灯矢はでも、と強い瞳で続けた。

「でも、おれは神様を庇った人達の中に、神様に出会いたくなかったって思う人は一人もいないと思うんだ。命を捨ててでも、守りたい大事な人だった。出会えて幸福だったと思ってるはずだよ。その死を間違っているというのは、その思いを否定することだ。復讐なんてくだらないエゴのために、八木さんの最後の願いを奪う覚悟が先生にあるの」

 静かに諭すような灯矢の言葉に砂山はゆっくりと笑みを崩して、やがて掌で顔を覆う。時折漏れる嗚咽が、彼が泣いているのだと知らせた。

「そんな事は……わかってる……こんなの八木は望まないってわかってた……でもさ、ならどうすればいいんだよ」

 顔中をぐしゃぐしゃにして、迷子の子供のように砂山は途方に暮れた声でつぶやく。

「行き場のない怒りを、理不尽を喪失感を。俺はどこに持っていけばよかったんだ。八木が死んだ理由がのうのうと生きているのが耐えられない、許せないんだよ」

「それはエゴだよ。神様が死んだって八木さんは帰ってこないし、その最後の願いが踏みにじられるだけだ。失った痛みと苦しみを抱えて生きるのが、おれ達が唯一できることだよ」

 静かに諭すようにそう言う灯矢は、老成した目をしていて。私は彼が重ねてきた年月の片鱗をそこに見た。

「八木……なんで、死んだんだよ……八木……」

 灯矢の言葉に涙を溢れさせて、砂山は天を仰ぐ。そこに狂った男はいなかった。いるのはただ、大切な生徒を失って耐えがたい痛みに苦しむ聖職者だけだ。そんな砂山を見下ろして、灯矢は立ちあがって扉の方へと声を上げた。

「マリア、そこにいるんでしょ」

 さっき出て行ったはずの名前に思わず私もそちらへと顔を向ければ、開いた扉から言葉通りそこにいたマリアがひょいと顔を出した。くすくすと笑って、そのままひらりと灯矢の元へと駆け寄ってくる。

「ふふ、おにーさんありがと。僕じゃちょっとこの役は向いてなかったからね、助かったよ」

 そんな事を言いながら、マリアは修道服の裾をふわりと持ち上げて砂山の隣へと跪いた。

「マリ、ア……? なんで、ここに……」

涙に濡れながら驚いたようにマリアを見る砂山に、マリアは手を差し伸べる。

「せんせー、嘘つく気だったでしょう。僕との約束、守らない気だったでしょう」

 その言葉に、砂山はばつが悪そうに顔を背けた。約束、その言葉にマリアが先ほど立ち去る前に砂山に告げていた言葉を思い出す。約束を忘れないでと確かにマリアは言っていた。

あの時はよくわからなかったけれど、二人は一体何の約束をしていたのか。ぼんやりと疑問に思ったそれは、珍しく困ったように笑ったマリアによって明かされた。

「誰かを殺したいと願う人のお手伝いを僕がするのは、その人がそれを終えた後に僕に殺されたい時だけって言ったじゃん。せんせー、勝手に一緒に死のうとしたでしょう。それは契約違反だよ」

「……別に、結果は同じだろ」

 ふてくされたようにそう返す砂山の手を、マリアは勝手に取り上げて小さく唇を尖らせる。

「違うよ、全然違う。僕に殺されたいと思っていないなら、せんせーは僕の子羊じゃないもの。子羊じゃない子の願いは聞いてあげないもん。それに僕のお気に入りのお家まで放火するし、もう駄目。お仕置きしますー」

「それって、どういう……?」

 マリアの言葉に問いかけを返そうとした砂山の言葉は、途中で止められた。見れば、砂山の腕にはマリアの袖口から突き出した注射器の針が突き刺さっている。

「な、に……」

 動かなくなった口で、そう掠れた声を上げる砂山の腕から針を抜き取りながら、マリアは砂山の手をパッと離してにっこりと笑った。

「安心して、ただの睡眠薬だよ。僕を騙そうとするような悪い人は殺してあげないからね。精々生きて、罪の意識に苦しんで、時々お墓参りでもしてこの馬鹿みたいに長い人生を過ごしてよ。それが、僕を騙そうとした罰だよ」

 その言葉に砂山は目を見開いて、それからくしゃりと顔を歪めて再び顔を覆って呻く。

「酷ぇ罰だよ……最悪だ……」

 その言葉を最後に、砂山は腕をぱたりと床へ力なく落とした。どうやら気を失ったらしい。それを確認して、マリアはよっこいしょなどと言いながら砂山の体を持ち上げた。当然、砂山の体の方が大きいため引きずるような形になっているが、意外と力はあるらしい。

そのままずるずると砂山の靴の踵を削るかのように引きずって歩いて、マリアは扉の方へと向かっていく。そうして扉をくぐる前にぴたりと足を止めて、私達を振り返って笑った。

「それじゃ、僕はこれで用事おしまいだから。おにーさんとおねーさんも脱出するならそろそろ急いだ方がいいよー」

 そう言ってひらりと手を振ったマリアは、そのまますぐに扉の向こうへと消えて行った。一体今のは何だったのか。マリアが現れるたびに感じる嵐が通り過ぎて行ったような感覚に呆然としていると、すっと目の前に手が差し伸べられる。

「神様、行こう」

 いつも通りの優しい声、当たり前のように差し出される掌。けれど私は、その手をいつものように掴む事ができない。伸ばしそうになる手でぎゅっと胸元の服を掴んで、私は強く首を横に振った。

「駄目よ、灯矢。私はここで死ぬの……もう誰かを犠牲にして生きるのは嫌。私自身の生にそれほどの価値があるなんて思えないの。自分の罪に耐えられないの、もう生きて行くのが嫌なのよ」

 硬い声で告げる。砂山の、灯矢の、マリアの話を聞きながらずっと考えていたことだった。皆が私が生きる為に犠牲になってくれた事も、罪を償うのは死ではない事もわかっていた。死にたいと願う事が全てを踏みにじるエゴなのだと言う事も、痛いほどにわかっていた。

それでも、もう私は生きて行くのが嫌だったのだ。

「お願いよ、灯矢。私をおいていって、死なせて。酷い我儘だって、わかってるわ。でも、私はもう罪を背負ってまで生きていきたくはないのよ」

 声を振り絞るように、私は灯矢へと切々と訴える。それが、今の私の心からの願いだった。けれどいつも願いを叶えてくれるはずの灯矢は、そんな私に再び抱きついてきた。ひゅっと驚きに息を呑む私に、灯矢は笑う。

「神様の罪は、おれが全部貰うから。おれが、神様を守りたい皆の代わりに勝手に神様を守って死ぬ。ずっとずっと神様の傍で、おれはそうやって死んで守り続ける。だってそれはおれの生きがいで、幸福だから。それを神様は罪に思う事はないんだ」

「……そんなの、嫌よ」

 灯矢の腕の中で、ぎゅっと唇を噛みしめる。それでは、今までと何ら変わらないではないか。灯矢に目隠しされて罪を犯し続けながら、世界を呪っていた時と変わらない。そしてそれは、本当の幸福なんかじゃない。俯く私に灯矢は困ったように笑って、じゃあと言葉を続けた。

「どうしても嫌だって言うなら、おれもここに残る。神様と一緒に死ぬよ」

「灯矢は、死なないじゃない」

「いや、死ぬかもしれないんだよね」

 言われた言葉に驚いて顔を上げれば、灯矢は軽い調子で言葉を返してくる。

「おれ、炎に弱いらしくてさ。燃やすと再生にすごい時間かかるらしいんだ。だから、骨も残らないくらいに燃やし尽くされちゃえば、もしかしたら死ぬかもしれないんだよ」

 あっけらかんとした返答に、私は驚いて言葉も出ない。咄嗟に嘘だろうと切り捨てようとして、以前マリアが火傷だと治りにくいなどと言っていたのを思い出してしまう。

もし、本当に死んでしまうとしたら、私は我儘で灯矢を殺すことになるのではないか。もう誰かを殺したくないから、私は死にたいのに。よりによって灯矢を殺すのか。

「灯矢だけ、出ていきなさいよ……」

「それは駄目。いくら神様のお願いでも聞けないよ」

 今回に限っては、灯矢は私の言う事を聞く気が無いらしい。一体どうすればいいのか。混乱に頭を抱える私に、灯矢は縋りつくように抱きしめる腕に力を込める。苦しいと訴えようと振り上げた手は、くしゃりと泣き出しそうに顔を歪めた灯矢を見て止まった。

「だって、神様がいない世界で生きてる意味なんてないんだ……神様が死ぬなら、おれも死にたい……生きてなんかいけないよ……」

「……っ」

 ぱちぱちと炎が痛いほどに迫ってきていて、辺りには煙が満ちている。赤い瞳が、私を映して揺れている。選択する時間は、なかった。


 灯矢に手を引かれながら痛む足を引きずって、私はあちらこちらから火の手の上がる廊下を歩いていた。二人の間に、言葉はない。襲いくる熱と、周囲に満ちる煙に身を縮こませながら、時折躓いては灯矢に助けられる私の心は暗澹たるものだった。

 死ねなかった、そんな暗い思いだけが私の胸中を占めていた。この選択が正しかった訳はない。けれど、灯矢を殺す事はできなかった。他に、選択のしようはなかったのだ。

 薄い酸素にくらくらとしながら、熱で噴出した汗を拭う。歩くたびに全身に振動が響くように痛む。特に砂山に踏みつけにされていた脚は、時折激痛が走って立っていることすら困難になる。けして長くないはずの廊下が、永遠のもののように感じられた。

「……神様、ごめんね」

「灯矢は、悪くないわ」

 呟かれた灯矢の謝罪を、私は即座に叩き落とす。謝られたところで、私を一人で死なせてくれないのならそれは意味のないことだ。しゅんと肩を落として、また口ごもった灯矢の後ろを唇をぎゅっと噛みながらよろよろと歩いた。

 このまま灯矢に守られて、死ぬ事も許されず、ただ罪を重ね、友を得ることすらなく生きるのだと思うと、自分のこれからの人生に希望など見出せるはずがなかった。私は、何のために生きるのだろう。これほど苦しくて悲しいのに、どうして生きなくてはならないのだろう。もはや生きる事そのものが、私の罰であるような気がしていた。

「神様」

 痛みを堪えて俯いて歩いていた私に、灯矢が声をかける。ふらつきながら顔を上げれば、ようやく煙の向こうに出入り口の扉が見えたところだった。開いたままの扉からひゅうと吹き込んでくる夜風は、熱波で火照った体を冷ますように撫でていく。

「神様、外だよ」

 ほっとしたようにそう言って、灯矢が私の手を引いた。少しだけ急いたようなそれにつられて足を踏み出した瞬間。激痛が、右足を襲った。

「……っ」

 思わずバランスを崩し、転んでしまった私を灯矢が驚いたように振り返る。全身を打ちつけた痛みに呻いたその直後、ばきりと木が割れる音をどこかで聞いた。

「神様……ッ!」

 全ては一瞬のでき事だった。灯矢の叫びと共に、大量の木片が炎と共に私の上へと降り注ぐ。きっと、天井が崩れたのだろう。目をぎゅっと閉じて、全身に降りかかる痛みと衝撃に堪えていると、脳髄を貫くような激痛が背を、そして腹を貫いた。砂山に蹴り飛ばされて時とは比べ物にならない焼けつくような痛みに、喉からは絶叫が迸る。意識さえも吹き飛ばしてしまいそうな痛みに、涙が溢れる。息が、うまくできない。

「神様ッ! 神様あッ‼」

 気が付けば、傍らには泣き叫ぶ灯矢がいた。その姿に少しだけ冷静になって、自らの背へと手を伸ばす。突き刺さったものは木製だったが背から腹を突き破り、床まで貫いたようでピクリとも動かない。限界まで首を捻り突き刺さっているものが何かを確認して、私は思わず乾いた笑いを漏らした。――それは、十字架だった。おそらく、教会の屋根に飾られていたものだろう。それが今、私を標本のように床に縫いとめている。酷い皮肉だった。

笑った拍子に、ごぼりと喉の奥から血が溢れてきて床へと吐き出す。見れば、床にはすでに大きな血だまりができていて、長く持たないだろうとわかった。ああ、神はやはり私が生きるのを望まないのだ。

「神様、待ってて今おれが助けるから……ッ! やだ、死なないで! やだよお……ッ!」

 半狂乱になって、灯矢が私の背から十字架を引き抜く。けれど体が自由になる代わりに、腹に空いた空虚からは勢いよく血液が溢れ出てきた。灯矢はそれを血まみれになりながら必死に抑えて止めようとしているが、時間の問題だろう。私はようやく死ぬのだ。ぼやけ始めた意識で、そう思って私は微笑む。痛みは、段々と遠くなっていた。

「と、や……」

 息がうまく吸えなくて掠れた声で、名前を呼ぶ。腹の穴を抑える灯矢の手に、手を重ねた。灯矢の手は、こんな時だって温かい。それが、堪らなく愛しいと思った。

「ごめ……ね………あり、がと……」

 ずっと言いたかった。謝ったって何もならないから、お礼を言っても何もあげられなかったからずっと言わなかった。言えなかった。でも、これが最後だと言うのなら。どうしても、これだけは言いたかった。

 灯矢が目を見開いて、血に濡れた手で私の手を握りしめる。その感覚さえ、もう遠くて。

「かみさま……」

 そう涙声で呼ぶ灯矢の顔も、もう見えない。きっと泣きじゃくって酷い事になっているだろうに、それさえわからない。全てが黒い闇に覆われて、世界が遠くなっていく。全部、無くなっていく。ああ、これが死というものなのか。

「かみさま……おれが、なんとかしてみせるから……だから……」

 遠くなっていく世界の中で最後に覚えたのは灯矢のそんな言葉と、直後に唇に触れた柔らかな感触。そして口内に広がる鉄錆の味だった。


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