四章 痛みの中で
父は優しい人だった。人のために何かをするのが好きな人だった。
誰よりも私を可愛がって、忙しい仕事の合間にあちこち色んな所へ私を連れて行ってくれた。父が見せてくれるものはいつも見たことのないものばかりで、それを面倒くさがらずに一つ一つわかりやすく丁寧に説明してくれるのが、私は凄く嬉しかった。
それから私の我儘を、父は全て叶えてくれた。欲しいと言った物は大体何でも買ってくれたし、どうしても手に入りそうにないものは父が手作りしてくれた。不器用だった父が作ったものは大体歪で、欲しかったものとは違っていたけれど私はそれで十分満足だった。
仕事が終わって帰ってきて、疲れているだろうに私と遊んでくれた。よく抱き上げて、歌ってくれた。調子外れの自作の歌はおかしくて、父の腕の中で私はよく笑い転げた。
すぐに危ない目に遭いそうになる私を、父はいつだって助けてくれた。怖かったと泣きじゃくる私を、大丈夫だよと笑って大きな手で慰めてくれると、心の底から安心した。
そんな父が、私は大好きだった。
カーテンの締め切られた真っ暗な部屋で、私は目を覚ました。時計も見えず、今何時なのかもわからないなか、ぼんやりと天井を見つめる。あれから、どれくらい経ったのだろう。泣いて、眠ってその繰り返しで、時間の経過がよくわからなくなっていた。
八木が死んで、私はずっと部屋へと籠っていた。八木との穏やかだった時間、あの柔らかな間延びした声、そして最後の笑顔。それらを思い出す度に、八木にはもう二度と会えないのだと胸が張り裂けるような思いがした。そしてその原因が自分だと思うと、気が狂いそうになるくらい苦しかった。枯れ果てたと思った涙が、私の頬を伝って行く。
私の周りの人間はこうなるのだとわかっていたのに、どうして八木を近寄らせてしまったのだろう。心地良いあの関係に甘えて、盲目になって、大切な事を忘れて。私はなんて愚かだったんだろう。どんなに普通であろうとしても、私は疫病神でしかなかったのに。
灯矢の……砂山の忠告をきちんと聞けばよかった。気にくわないからと、撥ねつけて踏み潰してはいけなかった。どういう理由で言っているのか考えるべきだった。いいや、そもそも八木に心を開いてはいけなかったのだ。強く拒絶するべきだったのだ。そういった、もしもあの時ああしていればというとりとめない思いが、泡のように浮かんでは消えて私を苛む。
もう何も考えたくなくて、全てを追い出すようにばさりと頭から布団をかぶって胎児のように丸まった。目を閉じると瞼裏にこびりついた八木の最後が繰り返されて、私はまた涙を零す。
幼い頃、私を庇って父が死んだ時に私はもう誰も傍に寄せてはならないと、痛いほどに思い知ったはずだったのに。私は一人で生きて行くんだと、そう決めたはずだったのに。どうして、私は同じ事を繰り返してしまうのか。
八木の最後に、父の最後が重なる。私に突っ込んできた車に撥ねられて、沢山血を流しながらそれでも私の無事を確認して、良かったと笑ってそのまま逝ってしまった父。いつも傍にいてくれた、優しくて大切だったかけがえのない人。そういう人を、私はまた殺したのだ。
唇を血が滲むほどに強く噛んで、溢れそうになる嗚咽を殺した。悲しみ、憤り、虚無、絶望、後悔、そういった感情の全てが私の体中をぐちゃぐちゃにかき回していく。
結局今までずっと、私は灯矢に守られていたのだ。死という直接的な危険からだけじゃなく、周囲の人間を巻き込んで私が誰かを殺してしまわないようにしていた。私に自らの罪を自覚させないように、ずっと自らの死でそれを覆い隠していた。それに気付かないで私は罪を忘れて、普通の生活が送れない事に苛立っていた。それがどんなに我儘なことか知りもしないで。
自身の無恥さにベッドの中で蹲り、呻き声を漏らしているとトントン、とノックの音が響いた。返事をする気も起きず、もぞりと布団から顔だけ出して様子を窺っていると、カチャリと扉が開く。
「起きていますか。具合はどうでしょう」
そう静かに言いながら顔を覗かせたのは、母だった。普段は仕事部屋に閉じこもっている事が多く、ましてや私の部屋に姿を見せる事などほとんどないのに。珍しい姿に、鉛のように重たい体を起こして母を出迎える。
「……よくは、ないわ」
こんな様子で虚勢を張るのも馬鹿らしく俯いてそう答えると、母は悲しげに顔を歪めてベッドの脇へと車椅子を移動させた。そして無意識にシーツを握りしめていた私の手へと、そっと自らの手を添える。
「恨むのなら、呪うのなら私にしてください」
母の言葉にはっと顔を上げる。母は静かな真っ暗な瞳で、まっすぐ私を見ていた。重ねられた手は冷たく、そして少しだけ震えていた。
「今回の事も、あなたが無事で生きているという事に私は安堵しました。あなたが友人を失って悲しんでいるというのに、私は彼女が代わりに死んでくれて良かったと思ってしまいました。つくづく、最低な人間です。それでも私はあなたが生きていれば、それだけでいいと思ってしまうのです。あなたさえ失わないならば、他のものがどれほど犠牲になっても構わないと思ってしまうのです。そんな私を、あなただけはどうか許さないでください。呪ってください、憎んでください。その代わり、もう自分を責めるのはやめてください」
淡々と、けれどまるで罪の告白でもするようにそう言った母を、私は愕然とした思いで見つめる。あれほどまでに無情で、冷酷だった母の姿はそこには無い。神のように大きく絶対的だと思っていた母の姿が、酷く小さく見えた。
これが本来の彼女の姿だ、と思った。私を生かすために心を凍らせ、強くあろうとしたのだろう。私は、この人を変えてしまった。
「……お願いですから、泣かないでください」
その事が悲しくてまた涙を零す私を、母が肩を抱えるようにして抱きしめる。その時、はらりと母の膝に乗っていた膝掛けが床へと落ちた。脚が、膝から下がない母の脚が闇の中で露わになる。それに私ははっと目を見開いて、これも私がやったのだと唇をきゅっと噛みしめた。
ビルの工事現場から落ちてきたガラスが、私を抱きしめた母の両足を切り落とした瞬間がフラッシュバックする。きらきらと無数に舞い散るガラス片と、花が咲くように飛び散った赤い赤い滴。耳を劈くような母の絶叫。忘れていた訳ではない。忘れられる訳がない。けれど、確実に色褪せていた罪が私の眼前に突き付けられる。私は、母の人生を狂わせているのだ。
ああ、どうして。どうして皆私を守ろうとするのだろう。私はそんな事をしてまで守るような人間ではないのに。母の腕の中で、涙腺が壊れたように涙が溢れる。罪を重ねて重ねて、そうやって生き続けるのが苦しかった。
誰も私を守らなければ、こんな思いをしなくても済んだのに。こんな苦しみを知らないまま、消える事ができたのに。私の、生きる価値はどこにあると言うのだろう。
暗い暗い闇の中で母の腕に縋って、私は今度こそ涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
散々泣き疲れて眠って、私は再び目を覚ました。虚ろに眺めた部屋はやはり闇に沈んでいて、眠ったのが数時間だったのか、それとも一日経ってしまったのかはわからない。重たい体を無理矢理に起こせば泣きすぎか寝すぎか、おそらくその両方の要因で頭がずきりと痛んだ。
「……っ」
痛みに思わず顔を顰めて舌打ちを零し、サイドテーブルに置いてあった水差しからコップへとこぽりと水を注ぐ。用意されてから随分経っているのだろう。その周りには零したのかと思うほどの結露が落ちていて、無造作に口内に流し込んだ水はすっかりぬるくなっていた。不味いそれをぐいと一息に飲み干して、空になったコップを叩きつけるように置く。カンッというガラスと木のぶつかり合う硬質な音が、静寂を乱した。すぐにしんと静まり返る部屋に、今は深夜なのかもしれないとぼんやりと思う。
濡れた唇を乱暴に片手で拭い、ベッドから降りた。乱れた髪を手櫛で簡単に梳いて、パジャマから制服へと着替える。手早く身支度を整えながらきつく宙を睨み据えて、私は大きく息を吐いた。荒れ狂っていたはずの感情は、今やすっかり凪いでいる。
私の背の高さほどのチェストに寄り、一番上の引き出しを指先の感覚だけで探った。すると、すぐにこつりと目当てのものに爪先が当たる。引き寄せてハンカチの包みから取り出せば、それは暗闇の中ぎらりと冷たい銀の光を返した。以前、マリアから証拠として渡されたナイフだ。仁礼のものと同じか確認した後は処分する気も、ましてや返す気も起きず仕舞いこんでいた。
私はそれをハンカチで包みなおし、スカートのポケットへと滑り込ませる。一度軽く上から叩いて、その存在を確認すると扉を開けた。キィと小さく蝶番が鳴く音を聞きながら、そっと廊下へと出て隣の扉を開ける。その部屋の奥、古びたベッドで眠る灯矢の傍に近寄って、いつものようにぺたりと座り込んだ。
眠る顔を、呼吸のたびにゆっくりと上下する胸をしばらく眺めて、ふとか細い月の光だけが差し込む真っ暗な窓の外を見る。そこに誰かがいるはずもなく、林檎の木はすっかり花を落としきって葉ばかりになって静かに佇んでいた。それを確認した私はすっと立ちあがって、灯矢に背を向ける。
「どこに行くの」
突然掴まれた手に、踏み出そうとした足が止められた。振り返ると、いつの間にか体を起こした灯矢のまっすぐな赤い瞳が私を射抜いている。その視線の強さに、私は息を飲んだ。ぐっと握られた手が、熱い。
「……離して」
掠れた声で訴えたが、灯矢は手を離さない。緩く頭を横に振って、ぐっとかえって力を強めた。
「……嫌だ、離さない。離せないよ。ねえ、一人で……おれを置いてどこに行くの」
その声はいつになく硬くて、けれど同時に縋るような切実さが混じっている。置いていかないで、と訴えるその態度に心が僅かも動かなかった訳ではない。それでも私はそれを振り払うように、あえて強く冷たい声を放った。
「灯矢、私は離しなさいと言ったの。聞こえなかったかしら」
びくり、と灯矢は身を竦ませる。けれど、手は離さなかった。くしゃりと泣き出しそうに顔を歪めながら、私の手を命綱のように握りしめて俯く。
「……駄目、駄目だよ。離したら、神様は行っちゃうんでしょ。そんなの、駄目」
「灯矢には、関係のないことだわ」
子供のように駄目と力なく繰り返す灯矢に揺らがないように、灯矢から視線を外して断じた。身動きした時に腿を掠めるポケットの重みが、私に退く事を許さない。私は、こんな所で立ち止まっている場合ではないのだ。それでも、灯矢は引かない。顔を上げて、私の手を自らの首筋へと導いた。掌を伝う温かな体温としっとりと柔らかな皮膚の感触に、思わず小さく息を呑む。
「どうしてもって言うんだったら、おれを殺していってよ。この首を絞めて、おれの息の根を止めて。そうしたらおれはしばらく動けないから、神様を止める事もどこかに行く神様を追いかける事もできないよ。生きて動けたなら、おれはどうしても神様の邪魔をしちゃう。その思いが本当なら、おれを殺してでも行ってよ」
そう言う灯矢はさっきまで俯いていたとは思えないほど静かな瞳で、私を見つめていた。動揺して手を離そうとしたけれど、灯矢はそれを許さない。じっと、私の答えを待っている。掌にじんわりと、汗が滲んだ。
「そんな、こと……」
できない。震えた声でそう言おうとした私の言葉を、灯矢が遮る。
「それなら、おれは神様を行かせないだけだよ。それでもいいの」
言われて、ぐっと言葉に詰まった。私は迷って迷ってうろりと視線を彷徨わせ、ためらいながらもう片方の手を灯矢の首筋へと伸ばす。恐る恐る両手で包みこめば、指先にとくりとくりと脈打つ感覚が伝わった。生きている。その事を、強く思う。
「ねえ、神様。それがどれほどの覚悟なのか、おれに見せてよ」
そのまま固まった私に、灯矢は慈しみさえ感じる穏やかさで微笑んだ。そっと私の手に自らの手を支えるように重ねて、静かな声で呟く。
「おれを、殺して」
その言葉に私は大きく息を吸って、灯矢をベッドに押し倒すようにぎゅうと両手に力を込めた。一瞬、灯矢の赤い瞳が驚いたように大きく見開かれる。
「死んで……灯矢……っ」
私の両手の下で灯矢の白い喉がひゅうと鳴る。必死になってぐっと力を込めるたびに苦しそうに灯矢は少しだけ眉根を寄せたが、それでも灯矢は穏やかな笑みで私を見ていた。その顔に、ぱたぱたと雫が落ちる。
「……っ!」
気が付けば私は泣いていた。荒くなった呼吸に嗚咽を混じらせて、縋るように灯矢の首を絞める。こんな事やりたくない。それでも、私はやらなければならなかった。
何かに追い立てられながら必死になって絞め続ける私へと、意識が遠くなってきているであろう灯矢がのろのろと手を伸ばした。予想外の動きにびくりと身を竦ませた私の眦を灯矢の手が掠る。その指先はまるで、涙を拭うようで。
驚きに目を見開く私に、灯矢はそれでぽたりと腕を落として虚ろな瞳を閉じる。最後に動いた唇はかみさまと私を呼んだように見えた。
「灯矢……?」
震えた声で呼ぶが、灯矢は答えない。ただ青い顔で微笑んだまま、動かなくなっていた。そっと口元に寄せた掌は、何も感じなくて……灯矢は、確かに死んでいた。私が殺したのだ。
少しすればいつものように目を覚ますのだとわかっていて、それでも痛いほどの罪悪感が胸に去来する。まだ温かな手を握りしめて、額に寄せた。
「……灯矢」
応えないとわかっていて名前を呼ぶ。灯矢の手を握る掌には、灯矢を絞殺した感覚が生々しく残っていた。初めて直接に人を殺したその感覚に、私は震える。もう、戻れない。
「さようなら、灯矢」
手を離して、私は立ちあがった。灯矢に今度こそ背を向けて、歩き出す。やるべき事をするために、私は行かなければならない。ぐいと目元に残った涙を乱暴に拭いながら入ってきた扉を開けて、私は再び真っ暗な廊下へと足を踏み出した。
しんと静寂が満ちる闇の中、私は再びギイイと重々しい錆びた蝶番の悲鳴を聞く。
「いらっしゃい、おねーさん。って、なんだかぼろぼろみたいだね」
くすくすというマリアの癪に障る声が、闇に沈んだ礼拝堂の中に響き渡る。その言葉通りここに来るまでに何度も転び、あちらこちらに痣と擦り傷を作っていた私は大きく舌打ちを零した。
「……あなたには関係のない事でしょう」
言いながら声のする方へと歩み寄れば、暗闇の中から祭壇に座った修道服のマリアが姿を現す。小さな手には石榴の実が握られていて、細い指で一粒摘まんでは同じ赤さの唇へと放りこんでいた。
「季節に関係なくさ、好きなものを好きな時に食べられるのはいい事だよね。まあ人間にとって都合がいい事ってだけで、植物としては人間に家畜化されたも同然なんだからそうでもないんだろうけど。種を遠くに運んでもらうために果実を甘くしたのに、種を運ぶでもない生き物に自らの性質を歪められるっていうのはどうなんだろうね、おねーさん」
「知らないわよそんなの。どうでもいいわ」
いつものように、くだらない事をべらべらと話すマリアに苛立つ。マリアは微笑みながらそんな私へと、石榴をぱらぱらと数粒掌に零して差し出した。天井の隙間から差し込む淡い月の光が赤い、ガーネットの欠片のようなそれを照らし出す。
「食べる? そうやって苛々してさ、お腹すいてるんじゃないの」
言われて、初めて自身の腹部の空虚感に気がついた。最後にまともな食事をとったのはいつだっただろう。正確な時間はわからなかったが、確かに空腹を覚えてもいい頃かもしれない。
けれど、マリアから施しを受けるくらいならば餓死した方がマシだった。差し出された手を乱暴に跳ねのける。衝撃で、数粒の石榴は暗闇の中へと呑まれて消えていった。
「余計なお世話よ。それに、腹が満たされて収まる程度の苛立ちなんか、私には無いわ」
強い口調でそう言えば、マリアは弾かれた手を振ってちょっと唇を尖らせる。
「せっかく美味しいのにさ、もったいない事するよね。食べたからって僕、別に黄泉の国に引きずり込んだりしないのにさ」
そう少し不満げに零して、残った石榴をひょいと口へと放りこんだ。もぐもぐと口を動かして咀嚼し、嚥下したところでそれで、とマリアは口を開く。
「そんなぼろぼろってことはさ、今日はおにーさんはどうしたの」
「……灯矢なら、置いてきたわ」
きょろりと獲物を探すような瞳で私の背後を探るマリアに、私は低い声で応えた。その答えに驚いたようにぱちぱちと瞬いた紫の瞳が私を捕らえて、やがて愉快そうに唇を歪める。
「へえ、珍しいね。おねーさんって、おにーさんがいないと何もできないと思ってた」
「……馬鹿にしてるの?」
からかうような口調に思い切り睨めつければ、おお怖いなどと心にもないであろう事を言ってわざとらしく身を竦ませる。その様子に余計苛立ってぎりと唇を噛みしめると、マリアは天使のように整った顔でにこりと笑って私の目の前へと立った。手を伸ばせば、触れる距離。そこでマリアは、澄んだ歌うような声で私に問う。
「それでさ、おねーさんはここに何をしに来たの。まさか、夜の散歩だなんて言わないよねえ」
軽い口調とは裏腹に、私の心中を見透かそうとする紫の深さに圧倒されそうになって、思わず私はごくりと息を呑んだ。幼い子供とは到底思えない、深い深い底の見えない瞳。反射的に後ずさりしそうになる体を押さえて、ポケットの中身をスカートの上から握りしめる。大きく息を吸って、私はそれを取り出した。ぎらりと、硬質な銀の光をマリアへと突き付ける。
「……あなたを殺しに来たのよ。マリア」
けれど、刃物を突き付けられたはずのマリアは揺らがない。恐怖などみじんも感じていない様に平然と目の前のナイフを見て、くすくすと笑った。
「まともに刃物持ったことすらないようなおねーさんがさ、そんな事できるの?」
「やってみなければ、そんなのはわからないわ!」
自らを勢いづけるようにそう声を荒げ、私は無造作にマリアへと切りかかる。マリアの首筋を狙って一線させた刃は、しかしひょいと首を傾げてかわされ虚しく空を切った。
「くっ……!」
諦めずに返す刀で腹を狙って腕を振ったが、それも身を少し逸らすことで簡単に避けられてしまう。転ばせようと同時に脚を出していたが、それも縄跳びか何かのようにマリアは軽く跳ねて避けてしまった。それだけで私は軽く息が上がってしまったというのに、マリアは欠伸さえ漏らして呆れた声を出す。
「おねーさん運動音痴でしょー。物凄いへったくそ。センスゼロもいいとこだよ」
「馬鹿に……っ、しないでよ!」
食らいつくように叫んで、私はマリアへと向かってナイフを滅茶苦茶に振り回した。けれど、どれほど必死に狙おうとマリアの体は切っ先の僅か先へと逃げていく。マリアは反撃する事もなく、ただひょいひょいと微かに身を動かして冷めた紫の瞳で私を見ていた。
「あのさあ、おねーさん馬鹿なの? できるわけないじゃん。ずっと人の善意の籠の中にいた、守られてばかりのお姫様だったんだから。そんな事、おねーさんもわかってるくせに」
そうして、私が息を切らせてふらつき始めた頃。大きな溜息を零して、マリアはそうつまらなさそうに言った。
「……っ!」
マリアの言葉に、胸を抉られて刃が止まる。自覚したばかりの傷が強く疼いて、思わず私は息を切らしながら顔を顰めた。そんな私に畳みかけるように、マリアは言葉を重ねる。
「僕がおにーさんで遊んでる時だって、何もできなかったじゃない。ただずっと僕におにーさんを捧げて誤魔化してさ、自分はお友達と仲よしこよし。最初は罪悪感とかで苦しんでたみたいだけどさ、途中からおにーさんが何でもないって顔してるからってそれすら薄くなったでしょ。おにーさんがおねーさんが辛い顔するの嫌だからなんて甘い事言って、必死に再生しきってない体隠してた事も知らないでさあ。言っとくけど僕何もやり方変えてなかったから、おにーさんだいぶ我慢してたと思うよ。それじゃつまんないから、僕おねーさんに忠告してあげたのに気付かないし。そんな馬鹿みたいに甘い善意の鳥籠の中で生きてきたおねーさんが僕を殺す? あはっ、面白い冗談だよね」
「灯矢が……?」
嘲るような物言いに憤る前に、私は初めて知った事実に動揺していた。灯矢がそんな事をしていたなんて、私は少しも気がつかなかった。私はただマリアが灯矢に対して興味を失ってきているのかとそんな的外れな事を思うだけで、平気な顔をして笑っている灯矢が痛みを我慢しているだなんて考えもしなかった。私は、自分が知らない所でも守られていたのだ。
ぐっと自らへの悔しさと情けなさに唇を噛みしめる。きっと、今までもそうだったんだろう。灯矢は、そしておそらく母もそうやって私の周囲から棘を取り除いていたのだ。私があらゆるものに傷つかないように、苦しまないように。そうやって、庇護されていたのだ。それなのにその中で自分の思い通りにならないと、ずっと苛立っていた自分の幼さを改めて思い知らされたようでかっと頬が熱くなる。
「ほら、やっぱり気がついてなかった。考えればわかるはずだったのにさ、そういう所が甘いんだよね。おねーさんは」
マリアはそんな私を見て、憐れむような頬笑みを浮かべながら自らに突き付けられたナイフへとおもむろに手を伸ばした。びくりと動揺した私の目の前で、弄ぶように刃の背を細い指先がなぞっていく。そうして、上目がちに私を見て酷薄な笑みを浮かべた。その瞳は、ぞっとするほどに美しく煌めく。
「あのさ、僕は殺人鬼なんだよ。そんな温室育ちのおねーさんに簡単に殺されるほど、甘くはないよ。おにーさんにしてたような事、されたいの」
柔らかなソプラノに囁かれて、耳元に灯矢の絶叫が蘇る。痛みに慣れているはずの灯矢があれほどの悲鳴を上げるのだ。きっと、その苦しみは想像を絶するものなんだろう。前回ここにきた時の灯矢の受けていた暴力の凄惨さを思い出して、生々しい死の存在に自然と体が震えた。
実力差など、痛いくらいに知っていた。どれほど無謀な事をしているかも、馬鹿な事をしているかもわかっていた。けれど……こうせずにはいられなかったのだ。
パンッとナイフに掛かるマリアの手を撥ねのけて、私は改めて紫の瞳を強く睨みつけた。
「それでも……たとえ死んでしまうとしても、私はあなたを殺すわ。マリア」
張り上げたはずの声は震えていたけれど、構わずに私はナイフをマリアの首筋を狙って再び突き出す。決死のそれは軽々と避けられ、マリアは可笑しくて堪らないとでもいうように突然喜悦の笑い声を上げた。
「あはっ、そっか。僕わかっちゃった」
ナイフを持った私の腕をぱしりと受け止めて、ぐいとマリアが身を寄せる。鼻先が触れ合いそうな距離にマリアの顔が近付いて、全てを見透かそうとでもするように深い紫の瞳が私の瞳を覗きこんだ。その瞳の底知れなさに、ひゅっと息を呑む。
「おねーさんさ、死にたいんでしょう」
「……っ」
そうして優しく囁かれて、私は目を見開いた。どくりと心臓が大きく跳ねる。マリアはそんな私を見てにいと笑みを深めた。
「図星? そうだよねえ。おねーさんは気が付いちゃったんだ、自分がどれだけ世界にいらないかってことに」
「そん、な……こと……」
違うと言いたいのに、喉がひりついて言葉が出ない。別に、死にたくてこんな事をしたのではない。ただ私はマリアが許せなくて、それで。頭の中ではそんな言葉が溢れるのに、それは一つも口にできない。はくはくと、音もなく唇から空気を漏らす。
「おねーさんの体質……っていうかすぐに事故とか事件に巻き込まれるやつ? どうなってるのかとかさ、どうしてなのかとか良くわからないけど酷いものだよね。こんな殺人鬼も引き寄せちゃうし、周りの人間は巻き込まれて不幸になるばっかりだし。ほんと最悪だよね」
マリアがまるで世間話か何かのように言ったそれに、私は目を見開いた。どうして、その事をマリアが知っているのか。その思いは表情にでていたらしい。マリアはくすりと笑みを零す。
「どうして、おねーさんの体質の事を知ってるかって? この間、僕の子羊に聞いたんだよ。まあでも、この町では割と有名らしいから、聞かなくてもいずれ知ってたと思うけどね」
「……っ」
からからと笑ってそう話すマリアに、私はぎりと唇を噛む。一番知られたくない相手に知られたという思いが、焦燥感となってじりと私を焦がしていた。マリアはそんな私を愉快そうに見つめて、私の頬をさらりと撫でる。
「おねーさんを守って、いろんな人が傷ついたよね。巻き込まれていろんな人が死んだよね。でもさ、その犠牲を出すだけの価値が本当に自分の命にあるのかなって思ったことはない?」
今まで何度も繰り返し考えていた事を指摘されて、びくりと思わず体が震えた。マリアはそんな私を慈愛の瞳で見つめながら、淡々と言葉を続ける。
「おねーさんが生き延びれば生き延びるほど、犠牲は増えてくよね。背負う十字架はどんどん重くなる。その重さに、耐えられなくなってきてない? 人を犠牲にする痛みを、もう二度と味わいたくないとそう思ってない?」
「い、や……」
言葉の一つ一つが、私の虚勢を剥いでいく。弱い自分を暴きだそうと、醜い私を自覚させようとマリアはしているのだ。その事が、酷く怖かった。
「だからおねーさんは僕を殺しに来たんだ。そんな自分の運命に耐えられなくなったから、僕に殺してもらおうとして。それに、もし上手く僕を殺せたらここ最近の犠牲……お友達の死とおにーさんの苦しみは僕のせいだって、擦り付けてちょっとだけ落ち着く事ができる。うん、ずるいけどいい考えだよね」
「やめて……っ」
マリアの声を聞いていたくなくて思わず耳を塞ごうとするが、その腕はマリアに掴まれたままで容易に阻まれる。逃げられない。マリアの甘い声が、私の脳髄を揺さぶってくらりとめまいがする。
「ねえ、僕思ったんだけどおねーさんのその体質はさ。きっと世界に愛されてないって証なんじゃないかな。世界にとっていらない存在だからこそ、世界はおねーさんを殺そうとしてるんじゃないかな」
マリアの言う事は妄言のようだったが、全て真実のように思えた。気が付けば、じわりと視界が滲んで膝から崩れ落ちていた。マリアはそのまま寄り添うように、私の傍へと座る。
私は世界に否定されていて、死を望まれていて。それなのに無理矢理に生きているから、こんな歪に罪を重ねるだけの生なのだ。私さえいなければ、誰も犠牲になんてならなかったのに。
今までわざと見ないようにと目を背けていた考えが、私の首を絞めていた。息が、苦しい。
「でも、私は……っ」
「今までの犠牲のために死ねない? 自分を生かすために犠牲になった人たちを無意味にはできない?」
苦しみながら絞り出した言葉は、マリアに続けられた。マリアは俯く私の頭を優しく撫でる。そっと静かに、あやすような穏やかな声が降り注いだ。
「もう、いいんだよ。おねーさんはここまで頑張ったんだもん。全部全部投げ出してもいいんだよ。苦しかったよね、辛かったよね。でも、もういいんだよ。全部、終わりにして楽になってもいいんだよ」
「楽に……?」
それは自分がずっと望んでいたもののように思えて、私は顔を上げる。そこには月光に照らされ、慈愛に満ちた紫の瞳で微笑むマリアの姿があった。いつの間にか自分の手から外れていたナイフが、マリアの手で銀色に煌めいている。ずっと冷たく思えていたその光は、今の私には希望の光に見えた。
吐息が触れそうなほどに近い距離で、マリアが私の瞳を見つめて痺れてしまいそうな甘い声で囁く。
「ほら、お願いしてごらん。僕は、望んだ人にしかそれを与えてあげられないから」
声に、脳髄が痺れる。救いが欲しい。罪なんて投げ出してしまいたい。全部全部、全て消し去ってしまいたい。だって自分自身を含めて何もかも全部、大嫌いだったから。
「私、は……っ」
馬鹿みたいに涙を流して、私は震えた手を縋るようにマリアへと伸ばす。そうして、自分の願いを口にしようとして――パンッと、その手は強く地面へと叩き落とされた。
「……?」
落ちた手を、他人事のような不思議な思いで眺める。何故、落ちたのか。確実に、叩き落としたのはマリアではなかった。それでは、一体誰が私の邪魔をしたのか。
のろのろと鈍くなった頭を上げてきょろりと叩き落とした人を探すと、いつの間にか私の脇に誰かが立っていた。薄汚れたズボンを辿り、視線を上げればよれた白衣が視界に入りこむ。見慣れたそれが指す人物に、私は瞠目した。
――どうして、こいつがここにいるんだ。
そんな思いが、私の中で渦を巻く。暗くて顔はよく見えないが、目の前にいる男は砂山だ。どうして今、こいつが現れるのか。混乱に呆然とする私を無視して、マリアが砂山へと声を上げた。
「ちょっとせんせーさあ、僕のお楽しみ取らないでよ。せっかくおねーさんがその気になってたのにさあ」
目の前にいるマリアからはすっかり慈愛は抜けて、不満気に唇を尖らせている。さっきまでの姿が幻想であったかのように、ナイフをくるくると弄ぶ姿はすっかりいつものマリアだ。
それを見てぼんやりとしていた頭が急激に冷めて、私はさっと青ざめる。私は、今一体何をしようとしていたんだろう。自分の行動に今更怖気づいて、背筋に冷たいものが走った。
「話が違うだろーが。俺はお前にそんな事、一言も頼んでねーぞ。『マリア様』よ」
砂山はそう苛立たしげに言いながら舌打ちを一つ零して、マリアへと詰め寄る。それでマリアを照らす月光が、砂山をも照らし出した。暗闇に浮かび上がったその表情に、私は思わず呼吸を忘れる。
「……っ」
いつもの面倒そうな、だるそうな顔をした教師はそこにはいなかった。いるのは真っ青な顔で目の下に大きな隈を巣食わせた、ぎらついた瞳の男だけだ。その変貌に、ぞくりと肌が粟立つ。
「べつにやったっていーじゃん。何が不満なのさ」
鬼気迫る風貌の男に迫られているというのに、マリアは動じない。ぷうとわざとらしく頬を膨らませてそう主張した。その挑発するような態度に苛立ったのであろう砂山が、顔を歪めて声を荒げる。
「ふっざけんな! この糞女に自殺なんか誰が許すかよ!」
それは咆哮だった。声に籠った怒りと憎しみが、びりびりと空間を震わせる。息を荒げ、まるで野生の獣のようにそれは吠えた。
「今まで積み重ねてきた罪を、犠牲にしてきた全ての痛みをこいつは知らなきゃいけねえんだ! それなのにそれから逃げて、ただ安らかな死を与えるなんて俺は絶対に許さねえッ!」
叫びと共に、蹲った私を砂山が勢いよく蹴り飛ばす。ひゅんと風を切るような音がしたと思った次の瞬間に私の体は強烈な痛みと共に宙を舞い、長椅子へと強く体を打ちつけていた。かはっと肺の中の空気が、吐き出される。頭を打ったのか揺らぐ視界の中で、砂山はそんな私を一瞥してマリアへと再び向き直った。
「こいつを殺すのは俺だ。そう言う話だったろうが『マリア様』」
「はいはい、わかったよーだ。なんか釈然としないけど、子羊の願いは叶えてあげなきゃいけないしね」
殺気だった砂山の言葉にマリアは少し不服そうにそう返して、ひらりと祭壇から身を躍らせる。そのままおもむろに以前出て行った壁の穴を通り抜けようとして、何かを思い出したようにくるりと振り向いた。
「あ、そうだ。ちゃんとその後の約束も忘れてないからね。せんせーも忘れちゃ駄目だよ」
意味深なその確認は私にはわからなかったが、砂山にはきちんと伝わったらしい。苦々しく表情を歪めて、吐き捨てるように応えた。
「……わかってる。さっさと行けよ」
「はーい。それじゃあバイバイ、おねーさんっ」
マリアが、明るい別れの言葉と共に壁の外へと姿を消す。瞬間、しんとした静寂が空間を満たして、残った砂山がそれを裂くように大きく溜息を吐いた。それは全身の空気を吐き出すような深い溜息で、砂山の疲労が透けて見えるようなものだった。
いつもだらしないと思っていた服装は薄汚れ、一応剃られていた顎は無精ひげが覆っている。全体的にくたびれた印象だったが、その中で爛々と鈍い光を放つ瞳だけがその異常性を主張していた。
「なあ、十文字」
振り返った砂山が、私を見る。ぎらついた瞳が向けられて、私は思わずびくりと体を跳ねさせた。冷たい、痛いほどのむき出しの悪意が、殺意が私を貫く。立ちあがりたいのに、逃げ出したいのにさっきの蹴りで体が上手く動かない。
けれど、だからと言って砂山相手に怯えを見せる事なんてできなかった。いつもあれほどくだらないと、どうしようもないと思っている男に対して、弱さを見せるなんて事は砕け散った私の最後の自尊心が許さない。
「こん、な……事して……ただで済むと……」
掠れた声でそう言って精一杯の矜持で睨みつけるが、次の瞬間には腹を強く蹴り飛ばされている。激痛と急激な胃の圧迫感に、嗚咽と共に腹の中に僅かにあった水を吐き出した。咳き込みながら腹を抱えて蹲る私を、砂山は尚も蹴り飛ばす。
「お前は、どうしていつもそうなんだよ」
蹴りながら、激情を抑えた声で砂山はそう呟くように口を開いた。私はそれを聞きながら、身を縮こまらせて痛みの嵐に耐える。
「そうやって傲慢で、誰も彼も踏みつけて蹴散らして。いろんな奴を傷つけて、怯えさせて。どうしてそんな事するんだよ。どうしてそれでずっと苛立ってるんだよ」
脇腹を、腕を、脚を、背中を、頭を全身まんべんなく蹴り飛ばされる。全身が痛くて、段々と視界が狭くなっていくのを感じた。
今、意識を失ったら私はどうなるのだろう。その間に殺されるのだろうか。そうぼんやりと思って意識を保とうとするが、それは難しいようでどんどん世界は遠くなっていくばかりだ。ほぼ見えなくなった視界の中で、砂山の顔がくしゃりと歪むのが見える。
「お前が、お前がそんなんだから、俺は……っ」
最後に聞いたそんな砂山の声は、何故か泣き出す前の子供のように聞こえた。
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