三章 誰が為の贄

 放課後、夕焼けに呑まれて赤く染まった教室で、まるで歪な儀式のようにそれは行われる。

 普段の教室ではけして聞こえることのない、じゅうという肉が焼ける音と同時に、押し殺しきれなかった灯矢のくぐもった絶叫が上がる。絶え間なく何度も繰り返し上がる身が裂かれるような叫びに、私は何もできずにただ扉越しに聞いていることしかできない。

 時折漏れるマリアの癇に障る笑い声に、私はぎゅっと唇を噛みしめる。灯矢はこうやってマリアが訪れるたびに、私を部屋の外へと出すようになった。神様が見る事じゃない、そう言っていつもみたいに笑って私を追い出す。それがまるで私には関係のない事だと言われているようで、腹立たしかった。

 再び絶叫が上がる。胸を抉るような悲痛さに、私はとうとう耐えられなくなって扉から身を離した。ふらり、と目眩を覚えながら階段の方へと足を向ける。あまり動かないでいて、と灯矢は言っていたのだが、何もできないのにこの場にい続けるのはきつかった。

 慣れた場所であるし少しの距離なら大丈夫だろうと、手摺りを命綱のように握りしめながら階段を下りていく。向かう宛があったわけではない。どこでもいいから、あの絶叫の聞こえないところへ行きたかった。

 あれからマリアを調べ続けていて、けれど成果が殆ど何もないという事実が私の焦燥に拍車をかけていた。灯矢がいいように玩ばれているというのに、消息不明の未成年者のリストを照合しても、国外にまで手を伸ばしてみても、何をしてもマリアらしき人物のデータはどこにも見当たらなかった。マリアの言っていた通り、マリアはデータ上この世界には存在しない人間というわけだ。ふざけた存在だとしか言いようがない。

 マリアが『マリア様』であることはもはや疑いようのない事実だった。持ち帰ったナイフは仁礼が持っていたものと確かに同じであったし、入手経路も聞いた通り掴めなかった。そして何よりあれだけの残虐性、凶暴性を見た後に殺人鬼であることを疑う事はできなかった。あんな人間がそうそういてたまるものか。

 マリアの存在に歯噛みしながらもそろそろと気を配って下りていくと、灯矢の声が遠ざかると同時に微かな話し声が耳に届いて私は首を傾げる。

「もう遅いのに……誰かいるのかしら?」

 部活も終わっている時間帯だ、生徒はほぼ全員もう帰宅しているだろう。教員が僅かに残っていたはずだが、彼らは職員室を離れることはあまりない。眉を顰めて進めば、踊り場に幾人かの女子生徒が隅に群がっているのが見えた。

 何をしているのかと思えば、なんてことはない。一人の背の低い女子を囲んで、口々に罵詈雑言をぶつけているだけであった。幼稚でくだらない、集団において必ず発生する弱者の排斥。いつもならば気にかけることすらない。

 けれど、そんなくだらないことをこんなに私の機嫌が悪い時にやっていたのが間違いだ。今の私にとっては目障りでしかない。

「何をしているの」

 声は、思っていた以上に冷たく響いた。人が来るとは思っていなかったのであろう女子生徒達が驚いた様子で振り返るが、私の姿を認めた瞬間に全員面白いようにタイミングを同じくして青ざめる。

「目障りよ、散りなさい。このクズ共」

 短く重ねてそう言えば、小さな悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように彼女等は去っていった。遠ざかっていく背中を見ながら私は盛大に舌打ちを零す。こんなどうでもいい奴らを追い払ったところでどうしようもない。マリアを追い払えないならなんの意味もないではないか。

 行き場のない憤りを持て余す私に、おずおずとけれど間延びした声がかけられる。

「あ、あのー、十文字さん」

 声のした方へと視線を向ければ、そこには先ほど囲まれていた女子生徒がそのままの状態で隅に立っていた。こいつは逃げなかったのかと改めて顔を見れば、その顔には見覚えがあった。おそらく同じクラスの人間だ、と思ったところで既視感を覚える。そう言えば数日前にも同じような事を思った記憶がある。その時も、確かこの女ではなかっただろうか。

「助けてくれて、ありがとー。部活の子達なんだけど、あたしがとろいからって最近ずっとあーゆーのばっかでまいっちゃってたんだー」

 さっきまで責め立てられていたとは思えないような脳天気にすら聞こえる声だったが、表情は少しくたびれて見えた。毎日自己への否定を聞かされ続けるのは一種の拷問に等しい。その痛みを彼女は確実にその身に負っていた。そんな彼女から目を背け、私は吐き捨てる。

「別にあなたのためにやった訳じゃないわ。単に邪魔だったのよ」

 今の私の行動に良心など一片たりとも存在しない。ただの八つ当たりだ。それだというのに彼女はふにゃりと力の抜けるような笑みを浮かべた。

「それでもね、あたしは救われたんだよ。他でもない十文字さんが助けてくれたから、あたしはもうあんな目にあわないで済むの。お礼くらい言いたいなー」

 言われて、私は居心地の悪いような思いに眉を顰める。確かに、十文字がわざわざ止めたのだ。そのことを知って、再び彼女に手を出すという事は十文字に刃向うも同然である。この学園内でそんな度胸のある人間はまずいないだろう。

まあ、今回の場合は完全に私の虫の居所が悪かっただけなのでそんな事はないのだが。けれどその違いを理解する人もいるまい。これではまるで偽善者の様だ。気持ち悪い。

「勝手にすれば。付き合ってられないから、私はもう戻るけれど」

 彼女に背を向け、手摺を握る。灯矢もそろそろ開放される時間だ。終わった時に姿が見えなければ灯矢に無駄に探し回られてしまう。それに、マリアに怖気づいたと思われるのは癪だった。

「あ、危ないかも」

 階段を半ば辺りまで上ったその時、背後からそんな言葉が聞こえたと同時に縋り付いていた手摺が壁から外れ、ガクリとバランスを崩す。

「……っ!」

 落ちる。一瞬の浮遊感と共に、私はさっと青ざめた。いつもこういう時、庇ってくれる灯矢はここにはいない。衝撃を覚悟して、ぎゅっと目を閉じる。

「…………?」

 けれど、痛みは訪れなかった。代わりに感じたのは震えながら背中を支える二本の腕。とっさに灯矢が来たのかと思ったが、違う。

「ま、間に合ったー。こんなところ壊れるんだね……大丈夫? 十文字さん」

 間延びした声でそんなことを言って、体勢を立て直した私をさも心配そうに覗き込んだのは彼女だった。

「何で、助けるのよ」

 灯矢以外に誰かが私を助けようとするなんて思っていなかったから驚いて、思わずそう問うと彼女はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせて再びふにゃりと笑う。

「だって危ないって思ったら、体が動いちゃったんだもん。十文字さんが怪我するの嫌だし、間に合ってよかったよー」

「……別に、そんなこと頼んでないわ」

 何の裏表も無さそうな言葉に、私は彼女から顔を背けた。恩を着せられるのが嫌で口を突いて出てきた言葉も、彼女は気にしない。

「あたしが勝手にしたことだから気にしないでいいよー。じゃあ、今度は気をつけて上ってね。んー……手摺より壁に手をついた方が安全なのかなあ?」

 小首を傾げながら彼女はそう言って、私を支えていた手を離す。それからまたね、と小さい子供がするみたいに私に手を振った。これほど無愛想に対応したにも関わらず笑っているなんて変な人だと思いながら、私は彼女に背を向けて言われた通りに壁に手をつき、再び階段を上り始める。

 そろそろと数段を上ったところでちらりと後ろを見ると、まだ彼女は手を振っていた。私が見えなくなるまで振るつもりなのか。そう思った私は諦めたような気持ちで溜め息を吐いて、振り返る。

「あなた、名前は何」

 突然の私の問いに彼女はぴたりと手を止めて、少し驚いたような顔をした。そしてそれから一転、まるで花が綻んでいくように破顔する。

「私は八木。八木ようっていうの。また明日ね、十文字さん!」

 彼女――八木がそう嬉しそうに名乗って、さっきにも増して大きく手を振るものだから。私はなんだかいたたまれないような気持ちになって、ふいと八木に背を向ける。そうして残りの階段を少しだけ急いで上り、その場から逃げるように去った。

 階段を上り切ると、ちょうどがらりと扉が開くところだった。そこからひょこりと、今日は男子の制服を着たマリアが顔を出す。きょろりと廊下を見渡して私の姿を捉えると、にこりと笑って駆け寄って来た。

「おねーさん、お待たせ。ふふ、今日も楽しかったよ。やっぱり、こういうのも堪らないよねえ」

 マリアは満足げにほう、と愉悦の溜め息を漏らす。今の今まで灯矢に対して残虐な行いをしていたとは思えないようなその態度に、私は嫌悪感で顔を歪めた。

「……悪趣味ね」

「誰だって、大なり小なり嗜虐性っていうのは持ってるものだよ。それに僕は殺人鬼だから。そういうのがちょっと顕著なんだよ。特に命を奪う時ってなんて言うかな、ぞくぞくして、ああ僕生きてるんだなって感じがするからやめられないんだよね」

 そんなふざけた事を言って頬を上気させ、紫を恍惚に煌めかせていたマリアはふと、思い出したように顔を上げる。

「そういえばさ、おねーさん。おにーさんって火に弱いんだね」

「火?」

 一体何の話だと唐突な言葉に思わず首を傾げる私に、マリアも真似してかことりと首を傾げた。

「そう。今日遊んでて気づいたんだけどさ、火傷だと微妙に他の傷より治り遅いみたい」

 マリアの発言にふと、前に灯矢が火傷した時を思い出してみる。そう言われてみれば、火傷の時はいつもより治るのが遅かったような気もした。

それが何だというのだと問おうとする前に、マリアはひらりと手を振って私に背を向ける。

「焼き鏝使ってたから、ちょっと気になっちゃって。それだけ。じゃあね、おねーさん」

 そのまま廊下を小走りで駆けていって、あっという間にマリアは姿を消す。マリアが消えていった方向を睨みつけて、私はぎりと奥歯を噛みしめた。

 今日も、私は何もできなかった。その思いが、絶望的なまでに重く大きく胸を占める。今日もマリアを退ける手立てを思いつくでもなく、マリアに対して何か一矢報いるでもなく。要求されるがまま、灯矢を差し出して散々に甚振られて。そんな日々が続いていて、私は自身がマリアの奴隷になったような気すらしていた。

 悔しさとやり場のない憤りに苛まれながら、私はマリアが出てきた教室へと足を踏み入れる。カーテンが全て締め切られ、薄暗い室内。その後方、少しだけ空いたスペースに灯矢は横たわっていた。近寄ってみると、すーすーと微かな呼吸音が規則的に聞こえる。どうやら眠っているようだ。

 そっと傍らに跪いて、灯矢の全身に視線を走らせる。一見いつも通りの体に見えたが、あちらこちらに散らばるようにして、まだ小さく肉が盛り上がって蠢いていた。マリアが立ち去ってなお、再生が終わっていないというのは珍しいことだった。これが、さっきマリアが言っていた火傷なのだろうか。

 ぐったりとどこか力ない様子で眠る灯矢の姿に、扉の前で漏れ聞いたあのくぐもった絶叫が耳の奥に蘇り木霊する。その響きの悲痛さにどれだけ惨い事をされたのか、それは想像に易かった。

 唇を噛みしめて、灯矢の手を握る。温かな掌を自らの額へ寄せ、私は小さく呻いた。

 謝ることは簡単だった。無力な自分を許して欲しいと請えば、灯矢は私をなんのためらいもなく許すだろう。いや、最初から神様は何も悪くないなどと言って、無力を私の罪にすらしないかもしれない。

 けれど、そうやって灯矢に許してもらって、何になるというのだろう。マリアがこの行為をやめるわけでも、灯矢の苦痛を無くすわけでもない。何も改善せずに、ただ私の罪悪感が減るだけだ。そんなのは甘え以外の何物でもない。絶対に、我慢ならない。

 そう思って今までだって過ごしてきたのに、謝罪が口をついて出ようとする。そんな自分が許せなくて、情けなくて堪らなかった。

「灯矢……」

 目覚めないように吐息だけで、その名前を呼ぶ。その声は震えていて、私の惨めさを煽った。ぎゅっと強く掌へ額を押しつける。

 どうかあと少し、あと少しの間だけ目を覚まさないでいてと思う。酷い顔をしているであろう今の自分を、灯矢に見せたくなかった。



「十文字さん。どうしたのー」

 間延びした声が、俯いた頭の上からかけられる。のろのろと膝に乗せていた頭を持ち上げれば、そこには心配そうに表情を曇らせる八木の姿があった。

 昨日と同じ踊り場だ。今日もマリアが現れて灯矢に追い出された私は、その階段で蹲るようにして座り込んでいた。

 ここのところ毎日だ。灯矢はいつか飽きると根拠のないことを言うが、そんな気配は今の所微塵も感じない。いつになったらこの苦痛は終わるのか。どうしても私には何もできないのか。一人になると、そんなことばかり考えていた。

「……別に、どうもしないわ」

 再び額を膝へと寄せて応える。マリアに虐げられているなどと言えるわけがない。それに、言ったところで何の解決にもならないのはわかっていた。早く何処かへ行けばいいと、膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。

「そっかー」

 けれど八木はそう頷いたと思うと、何故か私の隣へと腰を下ろした。なんのつもりかと訝しんで顔を上げた私に八木はそっと笑う。

「ね、ここにいてもいい?」

 一体何がしたいのか。意味のわからない行動に、私は首を傾げたが、なんだか追い払うのも今は億劫だった。返事をすることもなく、膝へと再び顔を埋める。

「ありがとう」

 八木は勝手にそれを肯定と受け取ったらしい。嬉しそうにそう言って、私と同じように膝を抱える。そんな彼女を視界の端にとらえながら、私は再び暗く深い思考の海へと沈んでいく。

結局、それから八木は何をするでもなく、何か話すでもなくただずっと私の隣に座り続けた。けれど時折、こっそりと心配そうに私を窺い見る視線が私の首筋を刺してきて。それに私は気付かないふりをし続けた。

そうしてゆっくりと時間は過ぎて、灯矢を迎えに行こうと気の進まない体を無理矢理立ちあがらせた時。八木もまた立ちあがって、来た時と同じようにそっと笑った。

「また明日ね、十文字さん」

 そう言って、背を向けて階段を下りて行く。その背中を見ながら、八木は何を私に求めていたのだろうとぼんやりと思う。ただ隣に座って、時間を無為に過ごしただけだったではないか。

少し考えたが私は結局八木が何をしたかったのかわからないまま、重たい足を引きずって階段を上る。

ああ、今日も何もできなかった。そんな思いだけがずっと私の頭をぐるぐると回り続けていて、いい加減気が狂いそうだった。

翌日も、何故か八木はきた。

「十文字さん、こんにちはーって、今日も元気ないね」

ぐるぐると今日もマリアと灯矢の事を考え続けて憂鬱に飲まれていた私は、その間延びした能天気な声に思わず顔を顰める。

同じ場所にいるのが悪いのかもしれないと思ったが、八木がきたからと移動するのも面倒だった。結局、私は昨日と同じ態勢で、再び自らの膝へと額を擦りつける。

八木はそんな私の反応を気にもかけなかったようで、今日はまるで当然のように私の隣へと腰を下ろした。しばらくは昨日と同じように黙っていたが、やがてすうっと息を大きく吸い込んで不自然なくらいの明るさで口を開く。

「朝から話しかけるタイミング探してたんだけどね、なかなか話しかけられなくて。あー今日終わっちゃったなって悲しかったから、会えて嬉しいなあ。もしかしたらって、またここ来てよかったなあ」

「……私に何か用なの」

 返す言葉が尖った。私に話をと聞いて『十文字』である私に対して、何か叶えてもらいたい望みがあるのかと咄嗟に思う。そういう人間は今までにも何人かいた。利権に群がり甘い汁を啜ろうとする身のほど知らずのハイエナ共。八木はそういう人間には見えなかったのに。

 張り詰める私を和らげるように、八木はくすりと笑う。

「んーん。特にこれといってあるわけじゃないよ。あえて言うなら、十文字さんとお話しするのが用事かな」

 身構えていたのに、予想もしなかったくだらない八木の言葉に私は呆れた声を出した。

「何よそれ、意味わからないわ」

「今まであたしね、十文字さんって怖い人なのかなーって思ってたの。でも話してみたら、思ってたよりもずっと普通の女の子なんだもん。お友達になりたくなったの」

 笑みを浮かべたまま重ねて意味のわからないことばかり言う八木に、私は乾いた笑いを漏らす。

「友達……? 冗談でしょう。何が目的なのよ」

 私の言葉に八木は何故か悲しそうな顔をして、ふるふると小さく首を振った。

「違うよ、こうやって十文字さんが一人の時に隣にいたいだけ。そんな顔の十文字さんを放っていなくてもいい立場が欲しいだけだよ」

「そんな顔……?」

 その言葉が引っかかって私は思わず自分の頬へと手を伸ばす。確か、灯矢もそんなことを言っていた。私は、一体今どんな顔をしているというのだろう。

 八木が悲しそうな顔をしたまま、手を伸ばして頬へ添えた私の手へそっと掌を重ねた。その手は灯矢と同じ温かさで、私の手へ熱を移していく。

「泣きそうな、顔。泣きたいのに、泣けない顔してるよ」

 私は目を見開いた。そんな顔、私はしてない。泣く事なんかない。涙なんか、私には必要ない。そう言いたいのに、言葉は喉に張り付いて出てこない。

 八木はほたりほたりと雨音のように静かに、寂しい声で呟く。

「痛い辛い、悲しいって叫びたいような顔してるんだよ。全部背負って、倒れないように必死な顔してるの」

 私は痛くない、辛くもない。それは灯矢のものだ。今誰よりも痛い思いをしているのも辛い思いをしているのも灯矢だ。だから私は悲しく思うことなんて、そんな権利なんて無いのに。

「どうして、八木が泣くのよ……」

 はらはらと、伏せた睫毛の端から透明な雫が零れ落ちる。雫は夕陽の赤を溶かし込んで光りながら、ただ階段を濡らしていく。それは一枚の宗教画か何かのように厳かで、神聖な光景に見えて私は戸惑う。

 一昨日初めてまともに会話しただけの人間に、八木はどうしてこんなことを言うのだろう。その前で涙を流すのだろう。私には、わからない。

「十文字さんが泣かないから、あたしが代わりに泣くの。きっとあたしは何もできないけど、側にいることくらいはしたいよ」

 けれど、私の為だなんてそんな勝手なことを言って、八木が小さく嗚咽を漏らすものだから。私はためらいながら重ねられた手をとって、その手をきゅっと緩く握った。

「……好きに、したらいいわ」

 私の言葉に八木は大きな瞳を見開く。それから、泣いたままくしゃりと笑った。

「ありがとっ、十文字さん」

 そう礼を言う八木に、私はまたなんだかいたたまれなくなって膝へ顔を埋める。膝へ触れた頬は少しだけ、いつもより温かだった。

 そうして少しの時間を八木と過ごして、迎えた時間はいつもより少しだけ早かったと思う。階段を上る私を名残惜しそうに見つめる視線が、背をくすぐった。嫌ではないな、と思う。

 少しだけ軽い足取りで階段を上ると、もう教室の前に灯矢はぼんやりと立っていた。今日はいつもより早かったのだろうか、そう思いながら近寄る私に気がついて、灯矢がひらりと手を振る。

「神様、お待たせ。帰ろうよ」

 差し出された手をとり、私は灯矢の顔を見た。にこにこと微笑むその表情は、拍子抜けするほどに常と変わらなくて私は首を傾げる。今日は今までのように眠っていないし、疲れたような様子も見えない。

「どうしたの、神様。帰らないの?」

 きょとんとした顔の灯矢にくいと急かすように繋いだ手を緩く引かれ、私はふいと灯矢から視線を外す。そうして気づかれないように小さく息を吐いた。

 この様子ならきっと、今日はそれほど酷い目に遭わされなかったのかもしれない。どうせマリアの気まぐれだろうが、そのことに私は少しだけほっとしてしまう。

「帰るに決まってるでしょ。早く行きなさい」

 そんな思いを灯矢に悟られたくなくて無愛想にそう言えば、灯矢はいつものようにへらりと笑った。

「うん。じゃあ、行こっか」

 手を引かれて、薄暗くなった階段をゆっくりと下りる。そうして何事もなく進んで、さっきまでいた踊り場の前を通り過ぎるのに、ついうろりと視線が空間を彷徨った。当然、八木の姿はない。きっと私と別れた後、すぐに帰ったんだろう。

「神様?」

 私の様子に気がついた灯矢が私を呼んで、はっと我に返った。慌てて、ぱっと踊り場から視線を外す。なんとなく踊り場に後ろ髪引かれるような思いがしたが、それを断ち切って私は再び階段へと足を踏み出した。

「……何でもないわ」

 何故だか、八木の事を灯矢に言う気にはなれなかった。別に言う必要もないはずだ。そう胸の中でひとりごちて、再び灯矢の手に引かれる。その手の温度に、八木の温度が重なった。それに釣られるようにして間延びした、雨音のように静かな囁きが耳元に蘇る。そっとささくれだった気持ちを撫でていくような、そんな響きを嫌いではないと思った。

 明日も、八木はここにいるかしら。そんなことをぼんやりと考えながら、私は手の中の温度を頼りに薄闇の中を進んでいく。



 はたして翌日も、その次も、そしてそのまた次も八木はあの踊り場へと姿を現した。灯矢がマリアに連れられて教室に消えてから階段を下りていくと、先に着ている八木が私の姿を認めた瞬間にふわりと笑みを見せるのだ。

「十文字さん」

 毎回そうやって柔らかに呼ばれて、調子が狂うと思いながら私は八木の隣へと腰を下ろす。そうして夕陽が赤く染める階段で、灯矢が戻ってくる時間まで八木ととりとめない事を話すのが実は私は嫌いではなかった。

 話がはずむという訳ではない。笑い転げたりするようなこともない。それでも、ぽつりぽつりと続く会話は穏やかで、沈みきって強張っていた私の心を少しだけ慰めてくれる。それに何より、一人にならないから現状について考え込まずに済むのがありがたかった。

 八木とは同じクラスだが不思議と昼は話さない。けれど、それがかえって夕方のこの時間を特別なものにしているように感じた。

そういえば、と私は思う。最近八木が砂山と口論をしているのを何度か見かけたが、あれは何だったのだろう。大方、砂山が何か失礼なことを言ったのだろうが。

「ねえ、十文字さん」

 ぼんやりとどうでもいいことを考えていると、間延びした甘い声が耳朶をくすぐる。何、と短く問えば、八木はついと手を伸ばして私の髪をひと房つまんだ。

「十文字さんの髪って、結構長いんだね。腰の方まであるのに、まっすぐで全然痛んでないのはすごいよ。あたしは癖っ毛だから羨ましいなあ」

 言いながら、もう片方の手で自らの髪を指に巻いてくるくると弄ぶ。八木の髪は確かに私とは違って肩よりも少し短いくらいだし、それになんだかふわふわしていた。真っ黒でとくに特徴もない私と違って、茶色っぽい明るい色は砂糖菓子のようで彼女らしいと感じる。

「長いのがいいなら、八木も伸ばせばいいじゃない」

「無理だよー。大変なことになって、自分でも手に負えなくなるんだよ。朝には大爆発だよ」

 私の提案に、八木はとんでもないとでも言うように首をぶんぶんと横に振った。

大爆発、はさすがに大げさな表現だと思うが、癖毛だとそれほどに手入れが大変なのか。何とも思っていなかったが、直毛というのはありがたいことなのかもしれない。そう思って何気なく自分の髪をくいと引く私に、八木はそうだ、と明るい声を上げる。

「あたし、リボンもってるの。十文字さんの髪、少しだけ弄ってもいいかな」

 ひらりと取り出されたのは、細めの白いシンプルなリボンだった。自分で使うために持っていたのだろう。授業中、髪が垂れてきて鬱陶しいとこの間ぼやいていたから。特に断る理由もなかったので、私はこくりと頷く。

「別にかまわないわ。痛くしたら怒るけど」

「はーい、気を付けまーす」

 本当に気を付ける気があるのか疑わしいような返事をして、八木が私の後ろへと回った。櫛はないらしく、髪を手で梳きながらご機嫌に鼻歌を歌う。私はそんな時々音が外れる、よくわからない歌を聞きながら、時折項を掠める指先のこそばゆさに首を小さく竦めた。それはいつもなら払いのけたりするようなものだったが、そうしたいとはどうしても思えなかった。

 しばらくして、手が髪から離れるのを感じる。それと同時に、ほうと満足げな溜息が後ろから漏れ聞こえた。

「よし、完璧……十文字さん。可愛いよー」

 言われて、後ろへと手を伸ばす。鏡が無いから自分ではよくわからないが、どうやら両脇をみつあみにして後ろでリボンを使ってまとめたらしい。自分ではあまりこういう髪型をしないので新鮮だ。

ひとしきり指先で確認をして満足した私は、リボンを返そうとその端に手をかける。と、慌てた様子で八木がそれを止めた。

「わーっ、もったいない! せっかくだから、今日はそのままでいてよ。そのリボンあげるから。ね?」

「でも……」

「いーから。そのリボン、十文字さんによく似合ってるもん。プレゼントだよ」

 躊躇う私をそう押し切って、八木は立ちあがって伸びをした。そうして私へと手を差し出して笑う。

「それに、そろそろ時間。もう行かなきゃでしょ?」

 得意げなその表情がなんだかおかしくて、当たり前に差し出されたその手をとりながら私は苦笑した。

「……そうね、仕方ないから受け取ってあげてもいいわ」

 きゅっと握った掌は今日も温かで、静かに私に熱を移していく。引かれるままに立ち上がると、すぐにその手は離れていってそれを少しだけ惜しく思ってしまう。

「それじゃあ、またね」

 八木と別れて階段を上っていると、途中で上から誰かが下りてくる足音が聞こえてきた。反射的に顔を上げると、紫の瞳にかち合ってひゅっと息を飲む。

「……マリア」

 呟く声は自然、低くなった。このところ、灯矢を迎えに行く時には出くわさなかったから油断していた。ぐっと壁に縋る腕に力を込めて、マリアを強く睨みつける。

「もう用は済んだのでしょう。さっさと消えなさいよ」

 けれどマリアはそれを意に介す事もなく、ただじっと無表情に真っ直ぐな視線を返してきた。

「おねーさんはさ、それでいいの?」

 ぽつりと零された呟きのようなそれは、鈴の音のように凛と響いて空間を震わせる。言葉の意味を掴みかねて、口をつぐむ私にマリアは重ねた。

「本当にそれでいいの? 事実から目を背けないで、ちゃんと考えて。それからそれでもいいっていうなら、別にいいんだけどさ」

「何が言いたいのよ」

 意味のわからない問いかけに苛立って声を荒げると、マリアは睫毛を伏せてこれみよがしに溜め息を吐いた。

「わからないのならそこまでってお話だよ。ともかく、もうちょっとだけ考えてよね。それじゃ僕、子羊に呼ばれてるから」

 そんなやはり訳のわからない事をぼやいて、マリアはとんとん、と階段を下りてくる。そうして、私の脇を通り過ぎる時にくすりと笑って囁いた。

「あとで泣くのは、おねーさんなんだからさ」

「は……っ?」

 どういう意味だと慌てて振り返るが、マリアの背はすでに遠くなっている。踊り場へと姿を消す寸前、振り返りもせずに小さく振られた手が見えて思わず舌打ちを零した。

 一体、マリアは何を言いたかったのだろう。まるで私が何かを間違えているかのように言っていたが、何の事だか心当たりを探ってみたが思い当たるものはない。もやもやとした思いを抱えさせられたことに苛立ちながら、私は階段を再び上った。

「神様!」

上った先で待ち構えてでもいたのか、灯矢が私の姿を見つけた途端に手を振りながら廊下を駆けてくる。まるで数年ぶりの再会とでもいうような大げさな挙動を、私は若干呆れながら迎えた。

「私、そんなに待たせたかしら」

「そんな事無いよ、おれも今終わったところだから」

 へらりと笑う灯矢のその表情のどこにも陰りが無いことを確認して、私はそっと息をつく。

ここ最近、迎えに来た時にこうやって灯矢は元気な様子を見せるようになった。もしかしたらマリアが段々と、灯矢への興味を失って来ているのかもしれない。解放は、近いのか。そう思って、少しだけ胸の中に溜まった澱が吐き出されたような気持ちになる。

「神様、髪どうしたの?」

「……別にどうもしないわ、ただまとめただけよ」

 言われて反射的に自らの髪へと手を伸ばしながら、私はきゅっと唇を噛んだ。やはり、私がリボンをつけているのはおかしかっただろうか。そんな思いが頭をかすめる。けれど、灯矢はなにやら興味深げにそれを見たかと思うと、そっと微笑んだ。

「いいね、よく似合ってると思うよ」

「……っ!」

 私に盲信的な灯矢が否定的な事を言うわけがないとわかっていながら、その短い言葉に動揺してぱっと私は顔を伏せてしまう。まるで少女のように反応してしまったのが恥ずかしくて、それを隠すように私は慌てて灯矢の手を掴んだ。

「そんな事はいいから、早く帰るわよ。暗くなるじゃない」

「あ、待ってよ神様。気をつけないと危ないよ」

 急に手を引かれ慌てる灯矢を尻目に、私は上って来たばかりの階段へと足を延ばす。視界の端で、ひらりと白が舞って八木の得意げな笑みが頭をよぎった。

 帰ったら、この髪型を少しだけ練習してみよう。貰ったリボンの使い道が他にないから、ただそれだけの事だから。そう考えながら下ろす足は、いつもより軽く感じた。



「十文字」

 灯矢と別れていつものように階段を下りようとした時、名前を呼ばれて足を止めた。振り返るとそこには砂山がいて、私は苛立ちに内心舌打ちを零す。

「何か用ですか」

 冷たく応えると、砂山は青ざめて何かに追い詰められた顔をしてはくはくと、まるで水面に酸素を求めて浮かび上がる魚のように口を開け閉めした。それを見て私はまたか、と今度は実際に舌打ちをする。

 最近、砂山はずっとこうだった。何かもの言いたげに私をじっと見ていたり、今回のように声をかけておいて何も言わずに黙り込んでいたり。正直、鬱陶しくてかなわない。

「用がないならもう行きますが」

 きっと今日も八木はいるだろう。約束しているわけではなかったが、待たせていると思うとどうにも落ち着かない。できることならば早く向かいたかった。

 私が煮え切らない様子の砂山から言葉を引き出すのを諦めて、背を向けた時。か細く震えた声が、ようやく鼓膜を震わせる。

「……八木の事だ」

「は?」

 何故、八木の名前が砂山の口から出るのか。驚いて再び振り向いた私に、砂山は絞り出すようにして続けた。

「八木に、関わるな。近寄るな」

「何言ってるのよ。一体、何で砂山にそんな事を言われなくちゃいけないの」

 ともかく意味がわからなかった。当然意味を問いただそうとしたが、砂山は首を振って取り合おうとはしない。

「……っともかく駄目だ。駄目なんだよ……八木は、お前なんかの傍にいていい人間じゃない。お前達にその関係はふさわしくない」

 あまりに唐突で横暴な物言いに、かっと腹の底に火が灯る。衝動のままに、砂山の足を強く蹴り飛ばした。

「ぐ……っ!」

 痛みに呻き、跪く砂山の肩を私は踏みつけて、ぐりと踵で抉る。

「誰に物を言っているの。誰に命令をしているの。答えなさい、砂山」

 腸が煮えくりかえるような思いだった。砂山ごときに刃向われたことも、八木を私から遠ざけようとしたことも、私を軽んじたことも何もかもが許せなかった。

 肩を蹴り飛ばし、後ろへと倒れ込んだ砂山の胸を踏む。じわりと体重をかければ、砂山は苦しいのか苦悶の表情を浮かべた。私はそれを、冷たく見下ろす。

 できるだけ痛い思いをすればいいと思った。私の憤りがどれほどのものか思い知らせてやろうと思った。痛みをその身に染み込ませて、二度とそんな口を聞けないようにしてやろうと思った。

 けれど砂山は青い顔のまま、それでも私をぎっと強く睨みつける。

「お前が、誰なのかって言うのは吐き気がするくらい知ってる。でもな、八木は駄目だ。あいつから、離れろ」

 振り絞るかのような砂山の言葉に、私は苛立ってさらに体重をかけて冷たく言い放った。

「嫌よ。誰がお前なんかの言う事を聞くと思っているの」

 私の言葉に砂山の表情が醜く歪む。まるで傷つけられたと言わんばかりの表情に、私は強く胸を蹴り飛ばして足を退けた。痛みに声をあげ、げほげほと大げさなくらい咳き込みながら丸まる砂山の姿は滑稽でしかない。

「私が誰と付き合おうとお前には関係ないでしょう。指図される謂れはないわ」

 それでもなお口を開こうとする砂山の腹を蹴る。かはっと開いた口から空気が漏れる音がして、ようやく砂山は静かに蹲るだけになった。それを確認して、私はくるりと再び背を向ける。全く、無駄な時間を使ってしまった。八木が、待っているかもしれないのに。

「身のほどを知りなさい砂山。次にこんなことを言ったら、ここから放り出すわよ」

 返る声はない。痛みでそれどころではないのだろう。ひゅーひゅーと荒い呼吸音を聞きながら、私は苛立ちを足にのせて階段を踏みつけるように下りていく。

普段多く会話している姿からも、砂山は八木を気に入っている節があった。そんな八木が気に食わない私にとられるのは我慢ならなかったのかもしれない。

「……気持ち悪い」

 勝手な想像でしかなかったが、もしそうだったのなら心底吐き気がする。砂山こそ八木から離れたほうがいいのではないか。そんなことを考えて、私はぎりと唇を噛んだ。

「あ、よかったー。十文字さん来たあ」

 踊り場が見えて、今日も間延びした声が私を迎える。その穏やかな響きにほっと、私は思いがけず息を漏らした。寸前まで胸を占めていた怒りが霧散していくのを感じる。私は少しだけ足を早めて、八木の元へと急いだ。

「遅くなったわ、八木。待たせたかしら」

「そんなことないよー。でも今日はもう来ないのかなって、あたしちょっと不安になっちゃった。来てくれてよかったあ……って、あっ! リボンしてくれてるー嬉しーなー!」

 私の髪型に気がついた八木がぱあっと表情を輝かせる。あまりに嬉しそうに言うので、なんだか恥ずかしくなってしまって私はぱっと自分の髪を押さえた。

「貰った物を使わないのはもったいないと思っただけよ。別に、八木のためじゃないわ」

「それでも全然いいよー。えへへ、やっぱり十文字さんその髪型似合うねー」

本当に嬉しそうに私を見る八木は、いつも通りの笑顔で。この関係が間違ってるだなんて、どう考えても砂山の勝手な言いがかりとしか思えなかった。



 けれど、そんなぬるま湯のような穏やかな日々は長くは続かなかった。

「ねえ、神様……もしかしてだけど、友達できたの?」

 ある日いつものように八木と別れて、灯矢を迎えに来た時。地平線に沈む前の太陽が、断末魔みたいに一番赤く世界を染め上げるそんな時。いつになく神妙な顔をした灯矢に、そんな事を聞かれて、どくりと心臓が大きく脈打つのを感じた。さっと顔から血の気が引く。

 別に隠していた訳じゃない。ただ、灯矢がマリアに対峙している時に八木と会っていたのが後ろめたかった。灯矢が苦しい思いをしているかもしれない時に、私は穏やかな時間を過ごしているのだと言うのは、とてもじゃないができなかっただけなのだ。けれど、そんなのはただの言い訳にしかならない事なんて、私が一番よくわかっていた。

「……っ」

 それを非難されるのかと、詰られるのかとぎゅっと唇を噛み身構えた私に、灯矢はくしゃりと何故か悲しそうな顔をする。どうしてそんなに悲しそうな顔をするのかと疑問に思う前に、灯矢は硬く冷たい言葉を吐いた。

「駄目、駄目だよ神様……その子にもう二度と会わないで」

 言われた言葉が信じられなくて、呆けたように私は灯矢を見る。灯矢はその表情を悲しみに歪めながらも、その赤い瞳はいつものように私をまっすぐ見ていて。嘘や、冗談で言っているのではないと痛いほどにわかってしまった。

「なん、で……?」

 ぐらりと、地面が揺れる。なんで、どうして灯矢がそんな事を言うのか。灯矢にだけは、そんな事言って欲しくなかったのに。絶望に似た、黒く冷たい水が私の胸を満たしていく。

 灯矢は苦しそうな顔をして、理由も言わずにただひたすらに駄目なんだと繰り返した。

「お願いだから、やめて。どうしても駄目なんだ。酷い事を言ってるのはわかってる。でも、駄目。会っちゃ駄目だよ」

 どうして駄目なのか。私と八木は、友達なのに。脳裏に、夕焼けに飲まれた階段の穏やかな時間が蘇って、きゅっと胸を締め付ける。あの時間が失われてしまうと思うと、堪らなかった。

何が一体原因なのか。何が私達を引き離そうとしているのか。わからないまま、納得することなんてできなくて。どうして、そんな砂山みたいな事を灯矢が言うのか。ぐるぐるぐるぐるとそこまで考えた辺りで私の思考は、ぴたりと止まった。

そうだ、砂山だ。八木に近づくなと言っていたのはあの男だったではないか。

「……砂山に、何か言われたの」

 ぞっとするほど、低い声が零れる。それと同時に、腹の底から臓腑全てを燃やし尽くすような怒りが、憎しみが炎を上げた。

「えっ……?」

 白々しくも驚いたような顔をする灯矢をぎっと強く睨みつけて、私は吠える。

「あの男に、砂山に何か言われたんでしょう……っ! 灯矢までそんな事を言うなんて、あんな男の言う事を鵜呑みにするなんて馬鹿じゃないの⁉ 私、そんなの絶対に認めないから!」

「待って、神様っ!」

 気がついた時には階段を駆け下りていた。後ろから灯矢の慌てた様な呼び声が聞こえたが、そんなものは無視をする。何度か足を引っ掛け、転びそうになりながら私は無我夢中で走った。私を突き動かすのはただ砂山への怒りと、灯矢に裏切られたという思いだけだ。それが、私の頭を真っ白に焼きつくしていた。

 許せない、許せない、許せない。身勝手な事を言う砂山も、そんな砂山の言う事を鵜呑みにして私から八木を奪おうとする灯矢も、何もかもが許せなかった。

 走って走って、そうして学校から少し離れた辺りで派手に転んで、私はアスファルトへと強かに体を打ちつけた。情けないことに滅多に走らない体はすでに悲鳴を上げていて、痛みに呻きながら体を起こしてげほげほと咳き込む。座り込んだままうろりと視線を動かして原因を探れば、どうやらアスファルトのひび割れに躓いたようだった。情けないことこの上ない。ぎゅっと唇を噛みしめて、擦りむけて血を流す役立たずな自らの足を殴った。

「神様―っ!」

 遠くから灯矢が私を追いかけてくる声が聞こえる。今はまだ、灯矢の顔を見たくない。それなのに、体はもう動きそうになくて。思わず舌打ちを零しそうになった私に、ふわりと柔らかな声が落ちる。

「あれー? 十文字さん、どうしたのー?」

 間延びした声が、今一番会いたかった人が不思議そうな顔をしてそこにいた。あれほど荒れていた心が、凪いでいく。

「八木……」

 ぽつりと名前を呼べば八木はいつものように、にこりと明るい笑みを浮かべて手を差し出してくれた。

 そうして八木に手を引かれて、私は灯矢から身を隠すようにいつもと違う道を歩く。

気が付けば吐き出すようにして、全部洗いざらい八木に話してしまっていた。マリアが灯矢を甚振っている事、砂山に八木に近づくなと言われた事、そして、そんな砂山の言う事を鵜呑みしたであろう灯矢の事。きっと支離滅裂で聞きづらかっただろうに、それでも八木はいつもみたいにただ静かに頷いて聞いてくれた。全てを聞いて、八木は泣いてくれたあの日みたいにそっと悲しそうな顔をする。

「……辛かったね、苦しかったね。十文字さんは、そんな重たいものを背負ってたんだ。ずっと知らなくて、支えてあげられなくてごめんね」

 八木の言葉に、私は緩く首を横へ振った。八木がいなかったら、私はきっと耐えられなかった。八木とのあの時間があったからこそ、私は今日までをきっと耐えて来られたのだ。それだと言うのに、何故。ぎゅっと、唇を噛みしめる。

「あたしもね、十文字さんと一緒にいちゃ駄目だってせんせーに言われたの。いやだって言ったけど。どうして、あたし達一緒にいちゃいけないんだろうね。何が駄目なんだろうね」

「……わからないわ」

 悲しそうにそう零す八木に、私は再び首を振る。二人とも、理由は言わなかった。ただ繰り返し駄目とだけ言って、それが私の納得できない原因でもあった。

そうしてそのまましばらく二人で黙りこんで、俯いてゆっくりと歩いて。八木が突然、よしと明るく大きな声を上げて、私は思わず顔を上げた。

「どうして駄目なのか、ちゃんとせんせーと、とーやくんに聞こう。それで、その理由が何でも、あたしちゃんと何とかできるようにするから。だから、十文字さんとは離れないし、十文字さんが抱えてる問題も、あたしが全部何とかしてみせる。十文字さんに、もうそんな顔絶対にさせない。だから、大丈夫だよ。笑って、十文字さん」

 そんな根拠のない勝手な事を、自信ありげにそう言って八木は笑う。八木程度が、私ですら持て余すような問題を解決できるわけない事なんてわかっていた。それでも、八木がそう言って笑うと、何もかもが上手くいくような気がしてしまって。

「……ありがとう、八木」

 自然と、口元が綻ぶ。そんな私に八木は一瞬驚いたように目を見開いて、それから本当に嬉しそうに頬を上気させてにっこりと微笑んだ。


 それから、一度八木の家に行こうと言う事になった。家に帰れば灯矢と鉢合わせしなくてはならないし、今度どうするかというのも二人で話したかった。

 生まれてからずっといる町の、初めて歩く道を八木と手をつないで歩く。夕闇に沈むいつもと違った景色、その中を二人きりでぽつぽつと話しながら進む時間はいつもよりもずっと特別に思える。それだけで心が浮き立って、幸福だった。

時折、何かに躓いてはよろける私を支えて、八木は嬉しそうに笑う。

「十文字さんって、少し抜けてるところがあるよね。ずっと完璧だと思ってたから、そういう所が見えると可愛いなあって思っちゃう」

「か、可愛いって……私、全然完璧じゃないわ。だって――」

 八木のからかいに頬を赤らめながら、疫病神とも言える自らの体質を口にしようとして――私はさああっと青ざめた。砂山が、灯矢が言っていたことの意味を瞬時に理解して、全身の血の気が引いて行くのを感じる。私は、今何をしているんだ。

「十文字さん?」

 突然足を止めた私を、八木が不思議そうに覗き込む。その瞳に見えるのは私への信頼と、親愛だけだ。ちかりと瞬くように、頭に昔の記憶がフラッシュバックする。昔、同じ瞳を私に向けていた人を思い出す。そして、その人がどうなったのかを。駄目だ、私は八木の傍にいてはいけない。灯矢もいない今、私は絶対に八木の傍にいてはいけないのだ。

「八木、ごめんなさい。私、やっぱり帰るわ!」

「十文字さんっ⁉」

 ばっと手を振り払って、走り出す。驚いた八木の声も振り払って、私は走る。ずきずきと思い出したように痛み始める膝を無視して、私は全力で走った。少しでも、八木から距離を取らなければ。早く、家に戻って閉じこもらなければ。だってそうしないと、八木が。

「……ッ!」

 それだと言うのに、線路に差し掛かった辺りでまた私は転んでしまった。一度擦りむいた膝をもう一度擦ったらしく、膝が酷く痛む。それでもぎゅっと唇を噛みしめながら体を起こして……立ち上がれない事に、気がついた。爪先が、ぎっちりと線路のくぼみへと嵌り込んでしまっていたのだ。

「嘘……」

 転んだ拍子に挟まってしまったのだろうか。暗闇の中慌てて靴を引っ張ってみたが、どうにも抜けそうにない。ならばと靴を脱ごうとしたが、ちょうどのサイズの靴だったためか、それも上手くいかなかった。焦る私を煽るように、カンカンカンカンというけたたましい警報音が降り注ぐ。同時に、無情にも遮断機がまるで線路内に私を閉じ込めるように下りた。

 遠くから、線路を伝ってかたんかたんと音が聞こえる。左側から小さな明かりが、大きな影を引き連れて迫ってくるのが見える。私はそれを見て必死になって靴を引っ張りながらも、心のどこか隅で安堵の息を吐いていた。

ああ、八木のいない時で良かった。あの子を巻き込まないで良かった。あの人みたいにせずに済んだと心底、そう思っていたのに。

「十文字さんっ!」

 どうして、あなたはこんな所に来てしまうの。

「八木、駄目よ! 来ないで!」

 警報音に負けないように、喉が裂けそうなくらいにそう叫んだのに、息を切らした八木は易々と遮断機をくぐって一目散に私の元へと駆け寄ってきた。そうして私の靴にしがみ付いて、必死に引き抜こうと力を込める。そんな八木を睨んで、私は叫んだ。

「やめて、お願いだからやめて! どうして来ちゃうのよ、どうしてこんな事するのよ……っ!」

 半ば涙声になった私の絶叫に、八木は負けじと怒鳴り返す。

「友達が、十文字さんがこんな目にあってるのに、それをあたしに外で見てろっていうの⁉ 冗談じゃないよ! そんなの、できるわけないじゃん!」

 その迫力に、ぐっと私は言葉に詰まった。どうあっても八木は引きそうにはない。このままでは八木が、私に巻き込まれてしまう。それだけは避けなければと自らも靴を強く引きながら、緊急停止ボタンを探す。うろりと視線を彷徨わせれば、ボタンはすぐに見つかった。けれど、それを押しに行くには少しだけ、時間が足りなかった。

 耳を劈くようなブレーキ音と警笛が強く鳴り響く。反射的にそちらへと顔を向ければ、もう間近に迫っていた電車のライトが私の目を焼いた。同時に、白い光の中で私の足がようやく自由になる感覚がしたけれど、もう何もかもが遅かった。

 ぎゅっと思わず目を瞑れば、いつも見ていた死が走馬灯のように駆け抜ける。ついに、私が死ぬ時が来たのだ。そう覚悟を決め、八木だけは助けたかったと強く思ったその時。

「大丈夫だよ、十文字さん」

 そんな間延びした声がして、とんっと私は突き飛ばされた。線路の外に転がった私が急いで顔を上げると、そこには光の中でいつものように笑う八木がいて。

手を伸ばそうとしたその瞬間、勢いを殺しきれなかった車体が私の前を薙ぎ払って行った。ぴしゃり、と温かな液体が私の頬を濡らす。触れてみればぬるりと指先が滑った。

「八木……?」

 震えた声で、今の今まで目の前にいた人の名前を呼ぶ。返事はない。ただ応えるようにじわりと赤黒い液体が、ようやく止まった車体の下から溢れ出た。それは今まで何度も何度も見てきた、見慣れたはずの光景。だけど、いつもと違ってそれはピクリとも動かない。蠢いて元の形に戻る事なんて、絶対にない。

ひらりといつの間にかほどけたリボンが、血溜まりの中に落ちて赤く赤く染まっていく。八木に貰った、私に似合うと言って結んでくれたリボン。それが、赤に飲まれていく。

「あ……ああ……っ」

 あれほどうるさかった警報機の音が遠くなっていく、視界が歪んでく。

どうして、どうしてこんな事になってしまったのだろう。私は、知っていたのに。自分が疫病神だって知っていたのに。私はきっと、八木を殺してしまうとわかっていたのに。絶望が、虚無が私を満たしていく。叫び出したいほどの痛みが私の胸を貫いた。私は慟哭する。

幼い頃、同じようにして死んだあの人――父の姿が目の前の光景に重なった。私を庇って父は死んだ。私が殺したんだ。なのに、何故私はまた同じことを繰り返すのか。どうして、私はその罪を忘れたのか。自らに対する憤りが、悲しみがこの身を焼いていく。

私は、人並みの幸福など望んではいけなかったのに。人を殺してまで生きる価値なんか、最初からなかったというのに。どうして。泣き叫ぶ私の瞳を、そっと掌が覆った。暖かな闇の中で、いつの間にか背後に立っていた灯矢の静かな声が耳朶を震わせる。

「神様は、何も悪くないよ。何も悪くない……だからもう自分を責めるのはやめてよ、神様」

 降り注いだそれは甘い甘い、甘露のような許しだった。けれど、それを受け入れるわけにはいかない。逃げるように灯矢の手を振り払って、私は耳を塞いで叫ぶ。

「私を許さないで、灯矢! 私が、私が八木を殺したのよ!」

 灯矢はそんな私をくしゃりと今にも泣き出しそうな顔で見て、耳を塞ぐ手ごと私の頭を抱き寄せた。温かい体に思わずひゅっと息を飲んだ私に、ぽつぽつと灯矢の声が降り注ぐ。

「ごめんね。おれがいれば、いつもみたいにおれが代わりに死んだのに。悲しませてごめん、友達を守れなくてごめん。これはおれの罪だよ。神様の罪じゃないんだよ」

 そんな事を言って、私の背をあやすように撫でる灯矢の胸を私は強く叩く。ふざけるな、これは私の罪だ。誰にも渡さない、私が償わなくてはならない罪だ。そう言いたいのに、もう言葉は出なくて。

 結局、私はそのまま灯矢の胸に縋りつくようにして、ただ泣きじゃくることしかできなかった。


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