二章 殺人鬼マリア
一陣の風が、林檎の花を部屋の中へと散らす。ひらひらと舞い落ちた白い花びらは暗闇の中で月光を受けて、部屋のあちらこちらでそっと光を放った。
どこか現実離れしたようなその空間の支配者であるかのように、自らを殺人鬼と名乗った子供――マリアは嫣然と微笑む。
「殺人鬼って言っても無差別に襲うような節操なしじゃないから安心してね。僕は基本的に自殺のお手伝いくらいしかしない善良な殺人鬼だよ」
「どこが善良よ。どんな意図があろうと、どんな矜持を持ってようと人殺しは人殺しじゃない」
どこか得意げな様子に心底軽蔑し、吐き捨てるようにそう返すとマリアは何がおかしいのかくすくすと笑いを零した。
「その通りだよね。でもおねーさんって怖いもの知らず。そんな人殺しが目の前にいるのに普通、そんな相手の気を逆撫でるような事言う?」
「どんな相手だろうが私は屈しない事にしてるのよ。それに、あなたが殺人鬼だなんて誰が信じるの? 今のところあなたはただの頭のおかしな不法侵入者でしかないわ」
マリアは華奢で、小柄だ。それに、不自然なほどに整った外見はそう言った血なまぐさいことなどとは一番遠い印象さえ受ける。そんな子供が自身を殺人鬼だと言っても信じようがない。
そんな私の一言にマリアはぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、困ったように首を傾げた。
「そう言われても、実際に僕は殺人鬼なんだけどなあ……今だって一人お手伝いしてきた帰りなのに」
「その証拠はないんでしょう?」
やはり狂言か。嘲笑う様にそう返せば、マリアは目を細めて意味深に笑う。
「無いね、お手上げ。でもおねーさん。僕の名前、聞いたことあるんじゃない? そう、例えば今日のお昼休みの時、とか」
わざとらしくゆっくりと言われたその言葉に、自分の表情がこわばるのを感じた。あの屋上で、仁礼が『マリア様』と呟いていたのを思い出したのだ。言われるまで何の意味も持たなかったそれが、やけに不吉なものに思えた。
「なんで、知って……」
あの場には私達以外誰もいなかったはずだ。知る人間がいるわけがない。動揺する私を面白がるように、マリアは声を上げる。
「あはっ、なんでってとーぜんでしょ。仁礼は僕の子羊だったもん。あの子はお喋りだから僕の事言っちゃうと思ってたよ」
「子羊……?」
その言葉が指すのは信徒だ。僕の、という事は『マリア様』とはこの子供を神とした新興宗教の類なのだろうか。そして仁礼は『マリア様』を、この子供を神としていたのだろうか。
どこか現実味の無いようなそんな話を、静かに微笑みながらマリアは続けた。
「そうだよ。僕に悪魔がいる、耐えられない、助けてって泣きついてきた可哀想な子羊。そんなに辛いなら、もう殺しちゃうしかないんじゃないって僕が言ったんだよ。苦しみを終わらせてあげたかったからね」
そう言うマリアの声には慈しみに似たようなものが滲んでいて。やっている事は殺人教唆だというのに、まるで救いを与えているかのようだ。その事が無性に苛立たしかった。
「ずいぶん、勝手な事を言うのね。勝手に人の事悪魔呼ばわりして勝手に怯えてただけでしょ。それで殺されそうになるなんてたまったもんじゃないわよ」
「でも死ななかった。あの子は追い詰められてたから、やったならきっとぐちゃぐちゃになるまで刺したはず。それなのにおねーさんは小さな切り傷だけ」
マリアはそこで初めて灯矢にすっと視線を落とした。静かに眠る灯矢を見るその瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように煌めく。無邪気で、純粋な獰猛さが揺らめいているその瞳の深さに、何故か私は底の見えない穴を覗き込むようなぞっとした寒気を覚えた。
「そして、おにーさんに至っては無傷。……ねえ、不死のバケモノってこっちのおにーさんでしょ」
「……っ」
隠していた訳ではない。ただ大っぴらにしないだけで、学園に通うものならば大抵の人間が知っていることだ。それなのにマリアにそう言われた瞬間、どくりと心臓が嫌な音を立てたのがわかった。知られてはいけない相手に存在を知られた、何故かそう本能で感じる。
「あはっ。やだなー、そんなに身構えなくてもいいじゃん。今日は特に何かしに来たんじゃなくて、ちょっと挨拶にきただけ。そしたらおねーさんが可愛いことしてたからさ、ついからかいたくなっちゃって。女王様って聞いてたからちょっと意外だったなあ」
警戒する私に、マリアの明るい声が降り注ぐ。からかうような面白がるようなその調子に、かっと再び頬が熱くなった。
「いいかげんにしなさい。警備員を呼んで、あなたのこと放り出すわよ」
「できないよ」
かなり強い口調で言ったにもかかわらず、マリアは揺らがない。逆にあっさりと切り捨ててしまった。あまつさえ、憐れむような視線を投げてよこす。
「警備のおにーさん達が来たらさ。おねーさんここにいる事、ばれちゃうよ。可愛い一人娘が夜に男の部屋にいる事を、理事長はどう思うかなあ」
「っ! 私は、何も!」
下世話な内容につい熱くなる私に、マリアは淡々と冷水でも被せるように続ける。
「そうだとしても、誰が証明するのさ。僕はしてあげないよ? それにただいただけだとしても、おかーさんは気分よくないんじゃない? おにーさんを叱ったり、下手したら追い出されたりしちゃうんじゃない?」
「そんな……こと」
無いとは言い切れなかった。むしろその通りになりそうで、私は言葉を詰まらせる。
母は私に甘い。私に害をなすものと灯矢を認識してしまったら、家を追い出すだろう。そうでなくとも灯矢が侵入者を目の前にしておきながら眠っていたと知ったら、また叱りつけるに違いない。そしてきっと、灯矢は文句も何も言わないで、いつものように全て受け入れてしまう。それは想像するだに、とても腹立たしいことだった。
「自分の持ってる武器が自分も傷つけると知った気分はどう?」
くすくすと勝ち誇ったように笑うマリアに苛立って、ぎりと奥歯を噛みしめた。
「……面白くないわ。あなたは一体何がしたいの」
「だから今日は挨拶だって。でも、おねーさんとお話するの楽しいからちょっと話しこんじゃったかなー」
ちらと時計を見ながらそう言うマリアに、私も釣られて時計を見やる。部屋に入った時よりも針は二回りほど進んでいて、今は午前四時を指していた。真夜中もいいところだ。
これでは明日も寝不足だろうと、溜息を吐きながら視線を戻す。すると、いつの間にか目の前に立っていたマリアのアメジストの瞳とかちあった。
「……!?」
「おっと、逃げないでよ」
予想外の距離の近さに思わず後ずさる私の手を、苦も無くマリアは捕らえる。灯矢と違ってひんやりと冷たいその手に、反射的に体が跳ねた。
「な、何がしたいのよ……」
動揺に揺れる私の言葉に、マリアはにっこりと笑みを浮かべ――ちゅっと小さな音をたてて私の指先に口付けた。
「な……っ!?」
一体何をするのか。驚いて反射的に手を引いた私をくすくすと笑いながら、マリアは再びふわりと窓の縁へと戻る。花びらが、マリアを隠すように散っていく。
「よく眠れるおまじない。それじゃ、またね」
「待ちなさ……っ」
最後にふざけた事を言って、マリアはふっと窓の外に消えた。慌てて窓に駆け寄ったけれども、窓の外には林檎の花の白としんとした闇が広がるばかりだ。月の頼りない明りだけでは、到底マリアを探せそうにない。
突然現れ、突然去っていったマリア。確かにさっきまで会話をしていたはずなのに、いなくなってしまえばその存在はあまりに幻想じみていて。さっきまでのは夢だったのか、それとも現実だったのかそれさえ怪しい。
「一体、なんだったのよ……」
茫然として呟けば、後ろから小さな呻き声が聞こえてきた。はっとして振り向けば、ぼんやりとした灯矢の赤い瞳と出会う。こてんと力なく首を傾げ、灯矢は間延びした声を上げた。
「あれ……神様? 何でここに……眠れないの? 一緒に寝る?」
そして事もあろうにそんな事を言って、へらりと笑う灯矢の姿にぴきりと私の中の何かが切れる音がする。さっきまでピクリともせずに眠りこけていたというのに、何故今頃目が覚めるのか。しかも、一緒に寝るかだなんてそんな子供扱いを提案するのか。
「灯矢」
「え? 何……っていたたたたたたっ!?」
無性に腹立って、私は寝ぼけていた灯矢の両頬を力強く引っ張ってやった。痛みに目を白黒させる灯矢がおかしくて、少しだけ気分が晴れる。ぱっと開放してやれば、灯矢は涙目で自らの頬をさすった。
「何でもないから寝なさい。私も寝るわ」
「う、うん。わかった。おやすみなさい」
きょとんとして首をかしげる灯矢に背を向け、私は部屋を出る。自室に戻る道すがら灯矢に私が夜中に部屋に入っていることをついに知られてしまった。という思いがふっと胸に湧き上がった。毎回息を殺して行っていたというのに、その努力が水の泡である。
少しすねたような思いでベッドへと再び潜り込む。灯矢は、どう思っただろう。これでさらに子ども扱いをするようになったら、どうしてくれようか。
そう考えながらふと私はあの子供、マリアに口づけられた指先を見つめた。おまじないなど信じていないし、効果なんかあるわけがない。そう思いながらも私はその指先を握りこんで、そっと瞼を閉じた。
不本意ながら本当によく眠れてしまった。
翌朝、まだ眠気の残る頭で不機嫌に私はそう思う。あのふざけた『おまじない』が効いてしまったのか、それともただ単に度重なる睡眠不足がついに限界を超えたのか。
おそらく後者であるとは思うが、それにしても夢も見ずにというのは珍しくて釈然としないような思いにさせられる。
「神様ー遅刻しちゃうよー?」
「今行くわ。前で待っていて」
「はーい! 早く来てね!」
朝っぱらから元気にそう答え、先に外に出ていく灯矢を適当に見送る。ぼんやりと玄関で靴を履きながら、そっと『おまじない』のあった手に視線を落とした。あの時マリアは挨拶と言っていたが、マリアは再び現れるのだろうか。
一体、何のために。そう考えた時、灯矢を見ていたあの視線を思い出す。獲物を見つけた猫のように煌いた紫に、ぞくりと背筋が寒くなる。それを振り払うように私は緩く頭を降った。
忘れよう。もしかしたらマリアにはもう会わないかもしれないし、それに結局マリアが本当に殺人鬼かどうかもわからないのだから。
「あら、もう行くんですか?」
溜息をつきながら扉に手をかけた私の背中に、母の声がかけられる。振り向けば、にこにこと笑っている母がいつの間にかそこにいた。相変わらず気配を消すのがうまい人だ。
「ええ、もうすぐ時間だもの」
何気なしに頷くと、母はぼんやりと世間話でもするように口を開く。
「行く前に一応伝えておこうと思ったんですよ。仁礼さんのことで」
「仁礼のこと……?」
その名前にどきり、と心臓が鳴った。彼女は、マリアの信者なのだと聞いたばかりだったから。
けれど彼女はいま入院しているはずだ、その彼女がどうしたというのだろう。母は少しだけ言いにくそうに、困ったように笑いながら続けた。
「彼女……仁礼さん、自殺してしまったみたいなんですよね。今朝、首をナイフで十字に切って死んでいるのが見つかったそうです。ナイフ、手荷物検査では見つからなかったはずなんですけどね……どこに隠し持っていたんでしょう」
困りましたねとさして動揺も見せずに笑う母をよそに、私はすっと全身が冷えていくのを感じていた。仁礼の『自殺』、それはきっと。
耳元で、マリアのあの鈴を転がすような澄んだ笑い声が聞こえた気がした。
「…っ!」
「あ、神様行こ――ってなんでそんなに急いでるの⁉ ま、待ってよー‼」
湧き上がる確信に追い立てられるような思いで、家を飛び出して灯矢の腕をつかむ。半ば引きずるようにして歩けば灯矢の情けない声が上がった。
「『マリア様』とは何なの。答えなさい、砂山」
そうして学校に着いてすぐ、私は気が付けば砂山を捕まえて絞り上げていた。砂山が昨日『マリア様』を話題にあげていたのを思い出したのだ。灯矢を見張りに立て、埃っぽい資料室の棚の陰で詰め寄る。
「……珍しく遅刻しなかったと思ったら、朝っぱらから女王様かよ。ついてねえ……」
砂山は陰鬱に表情を曇らせ、露骨なまでに顔をしかめてぼやく。その言い草に苛立ち、きつく睨みつけると砂山はわざとらしく大きくため息を吐いた。
「ったくよ……昨日話してやったのに、お前らが遅刻して聞かなかったんだろうが……あーはいはい、女王様すみません話します話しますー」
「いいからさっさと話しなさいよ。一時間目が始まるでしょう」
苛々と先を促せば砂山はぶつぶつと口の中だけで何かをぼやき、やがて面倒そうに口を開く。
「あー……『マリア様』っていうのは数年前からちょっとずつ聞き始めた、まあ都市伝説の一つみたいなもんだ」
「……都市伝説?」
思いもしなかった単語に思わず首を傾げる私に、砂山はだるそうに続けた。
「そ。町のはずれに元教会の廃墟あるだろ。ほら、昔建てたけどすぐに財政難でうち捨てられたやつ。あそこの奥にある告解室で自殺したいだとか言うと、その夜『マリア様』が自分を殺しにくるっていうよくある話だ。遊びだとか調査だとかで結構行ったみたいなんだが、何もなかったらしい。それで、眉唾だって話が大半なんだが……まあ、ここまではよくある話だ」
そこで初めて砂山は躊躇う様に視線を彷徨わせたが、やがて諦めたように言う。
「ただ、何人か『マリア様』に会いに行くって言ってた奴が、その後本当に自殺してる。『マリア様』を待ち切れずに自殺したのか、それとも本当に『マリア様』に殺してもらったのかは証拠も何もないからわからないけどな。最近じゃ話に尾ひれがついたのか、『マリア様』は誰かを殺したい奴の手伝いまでしてるって話だ。死という救いを与えてくれるだとかふざけた事言って、『マリア様』に心酔してる信者みたいなやつも結構いるらしい」
噂が先か、犯行が先かはわからないがつまりはそう言う事だったのかと、私はひとり頷いた。噂は餌なのだ。自殺志願者という獲物を誘うための餌。そうして噂に惹かれ、寄って来た獲物を『マリア様』は何の苦もなく食い殺す。しかも獲物の方から勝手に狩りのお膳立てまでしてくれるのだ、これほど人を殺すのが容易な環境はない。
それにしても、と私は口を開く。
「……死が救いだとか、頭の悪い事考える奴がそんなにいるなんて世も末ね。死にたいなら勝手に死ねばいいのに、人に手伝ってもらわないと死ぬ事さえできないなんてただのクズじゃない」
あまりの馬鹿馬鹿しさにそう鼻で笑うと、砂山はまるで自分が馬鹿にされたかのように顔を歪めた。
「……お前ならそう言うと思ってたよ。自殺したいほど追いつめられた人間の気持ちなんか、お前には一生わかんないんだろうな」
嘲るような物言いに、私は無言でその足を蹴り飛ばす。突然の痛みに声もなくしゃがんで呻く砂山が滑稽で、見下ろして私は嗤ってやった。
「そんなものわかりたくもないわ。生きるのが辛い、死にたいなんてとんだ甘えよ」
死にそうな目に遭う事もなく、何も考える事無く外を歩けるような連中が何を言っているんだと思った。世界に生きている事を許されて、祝福されているくせに死にたいなんて。理解なんてしてやりたくなかった。
「もういいわ。戻りなさい、砂山」
「待て、何でお前急に『マリア様』なんて言い出したんだよ」
用は済んだと背を向けた私の背中に、砂山の声が追いすがる。教えてやる義理などなかったが、昨日砂山が仁礼のことを気にしていたのを思い出した。情報料にこれくらい教えてやってもいいかもしれない、と私は慈悲の心で振り返る。
「仁礼が自殺したのよ。昨日『マリア様』って仁礼は言ってたわ。何か関連があるんじゃないのかと思うのは当然でしょう」
昨夜現れたマリアのことがあったが、それについては言わなかった。あのマリアが本当に『マリア様』か確証はなかったし、そこまで言う必要は無いと思ったからだ。
けれど、それだけの情報で砂山に衝撃を与えるのには充分だったらしい。
「は……? 仁礼が自殺……嘘だろ……だってあいつ、『マリア様』に行っても何もなかったって……」
「嘘なんか言ってどうするのよ」
目を見開き、はくはくと酸素を求める魚のように口を開け閉めする砂山に冷たく言い放つ。事実は事実だ。変えられはしない。
呆然とする砂山を残し、私は再び背を向ける。がらりと扉を開ければ、そこには入った時と同じ姿勢で待つ灯矢の姿があった。
「神様っ!」
私の姿をとらえた途端、ぱっと灯矢の表情が明るくなる。私はそれを確認して、教室の方へと歩みを向けた。
「先生とお話どうだった? 聞きたいこと聞けた?」
「そうね、期待していた程度には情報が得られたわ」
にこにこしながら灯矢は私の後を追う。その足音を背中で聞きながら、私は適当に答えた。頭の中を巡るのはマリアのことだ。
もしも『マリア様』がマリアならば。マリアの目的は何なのか、そして私達に何をしようとしているのか。わからない今の状態は気味が悪かった。
砂山が言っていた教会の跡地を思い浮かべる。町の外れにあるそこは私が幼い頃から廃墟であり、いつだってびっしりと蔦に覆われていた。まるで自然がゆっくりとその小さな教会を飲み込んで消化しようとしているような、そんな状態だったのに人などまともに入れるのだろうか。
「神様」
考え込んでいると名前を呼ばれ、緩く体を引かれる。何なのだと立ち止まったその瞬間に目の前を何かが落ちていって、足元でガシャンと音を立てて砕けた。軌跡を追うように視線を落とせば、そこには無数のガラスの破片と白い粉があって、その中に見覚えがある金具を見つけてようやくそれが蛍光灯だと理解した。
立ち止まらなければ、あそこに私はいただろう。死ぬことは無いだろうが怪我ぐらいはしたに違いない。
「神様、大丈夫? 怪我はない?」
「問題ないわ」
心配げに顔をのぞき込んでくる灯矢に短くそう返し、緩く頭を振って私は再び歩き出す。
この程度のことでは、もう驚きも動揺もない。あるのはただ、僅かな諦念と小さな怒りだけ。私はあと何度、こんな目に遭うんだろう。途方もない人生の長さを思ってくらりと眩暈を起こしそうになる。
「……本当、嫌になるわ」
誰にも聞こえないようそう呟いて、教室へと再び足を向け歩き出す。頭上にも少し注意を払いながら、私は教会跡地までの道のりを思い出していた。
気味が悪いほどの赤い夕暮れの中、細い道を歩くほど家がだんだんと少なくなっていく。ぽつぽつとあった電灯も、時折電球が切れているかどうかもわからない錆びたものがぼんやりと佇むだけになっていた。
「神様、帰ろうよ。あんまり遠出したら危ないよ」
握った手にきゅっと力を込めながら、半歩先を歩く灯矢はそんな情けない声を出した。ここに来るまでに自転車に二回、バイクに一回ぶつかられているのでその服はすでにぼろぼろだ。少し不憫に思わないでもなかったが、私はその考えを断ち切るようにあえて強い口調で言う。
「駄目よ、あと少しじゃない。いいから進みなさい」
「はあい……」
途端しょんぼりと叱られた犬のような顔をして、灯矢はそう応える。目的もよくわからないまま向かわされているのだ、あまり気が進まないのだろう。
けれど、まさか自分から殺人鬼がいるかもしれないところへと向かっているだなんて説明もできない。そんな事言ったら絶対に止められる。そうなったらいろいろと面倒だ。
灯矢の背中ごしに、私は道の先を見つめる。道は森に飲まれるような形になっていて、その先は薄暗くてよく見えない。けれど、その先に目的地はあるはずだった。
放課後、私達は砂山から聞き出した『マリア様』のいる町はずれの教会へと向かっていた。
マリアと『マリア様』は同一人物なのか、そして本当にそうなら一体私達に『挨拶』までして何をしようとしているのか。
灯矢を見ていた、あの紫の煌めきが脳裏から離れない。あれは人間を見る目ではなかった。あれは玩具を、獲物を見るような目だった。あの子供が持つ背筋がぞっとするような得体の知れなさに、正直私は恐怖していた。
こんな思いを抱えたまま、いつ来るとも知れないマリアを警戒して日々を過ごしていけば確実に精神を摩耗する。だから私はその正体を暴き抗うために、いつも通りの道を帰ろうとする灯矢に教会に行くように言ったのだ。子供であるならば、簡単に捻りつぶせる。私の世界から放り出して、その存在を消してやるのだ。
木々に挟まれた半分消えかけたような道に足を踏み入れて少しして、ようやく目的の教会が見える。教会は記憶よりも小さくて、今にも潰れそうに崩れかけているのを全体を侵す蔦が支えているようにも見えた。
「やっとついた……久しぶりに見たけどもう廃墟だよね、ここ。これでも崩れないなんてすごいねー」
感嘆するようなそんな声を上げて教会を見上げる灯矢の横を追い抜くようにして、私は扉へと駆け寄る。自然、手を繋いでいた灯矢は引っ張られる形となり、一転慌てた声を上げた。
「神様、中入るの? 危ないよ!」
灯矢の訴えを無視してノブを捻れば、何人も出入りしているからか特に引っ掛かりもなく扉はキィと小さく鳴いて簡単に開く。覗きこむと、そこにはちらちらと隙間から落ちた夕日の赤が散る細長い廊下が続いていた。途中いくつかの扉があり、一番奥に観音開きの大きな扉が見える。おそらくあれが礼拝堂だろう。噂の告解室はあの中か。
恐る恐る所々朽ちかけているような廊下に足を踏み出してみると、案の定ギシリと軋んだが思っていたよりも腐敗は進んでいないようだ。これなら体重を預けても大丈夫だろう。
覚悟を決めて足を踏み出そうとすると、ぐいと少し強く手を引かれる。出鼻をくじかれた思いで振り返ると、そこにはこわばった表情でこちらを見る灯矢がいた。赤い瞳が私を射る。
「神様、行かない方がいいよ」
普段、私の行動に灯矢が異議を唱える事はほぼ無い。その灯矢が珍しく強い口調で、そう主張した。灯矢も、もしかしたらこの先にある何かを感じ取ったのかもしれない。それでも、私は引きたくはなかった。
「いいえ、行くわ。……嫌なら、灯矢一人でここにいなさい」
こう言えば灯矢がどう答えるかわかっていて、私は断じる。ずるい言い方だ。灯矢は案の定うろりと瞳を泳がせて、それから諦めたように足を踏み出した。
「わかった、おれもいくよ。神様はおれが守るから」
「……頼んでないわ」
抵抗するように小さく呟いたが、少しほっとしている自分に気が付いて唇を噛む。結局、私は灯矢という安全無しに動くのは怖いのだと思い知らされたようで。それが惨めだった。
灯矢がいつものように半歩先を歩く。その手に引かれて、私は狭く薄暗い廊下を進んだ。短い廊下ではあったが何度か腐った箇所を踏み抜いて足をとられかけ、その度に灯矢に支えられる破目になった。一人では廊下すら歩けないのかと自身に苛立ちが募る。これでよく灯矢に待っていろなどと言えたものだ。
一応気になって見てみた間々にある扉は開くものも開かないものもあったが、皆一様に朽ちていて入れそうにもなかった。人がいた時はそれぞれ別の用途があったに違いないが、今は皆同じような様子で、床は抜けて隙間から入り込んだ蔦や雑草に全体を侵食されていた。廊下がまだ機能しているのが不思議なくらいだ。
そうして進んだ先、一番奥の扉の前で灯矢は立ち止まると振り返って私を見た。
「本当に行くの?」
不安そうにそう言ってじっと見つめる赤は私の覚悟を問うている。けれど、ここまで来ておいて引くわけにはいかない。そんなのは逃げているようで私のプライドが許さなかった。私は灯矢を押しのけ、扉に手をかける。
「当然でしょ。何のためにここまで来たと思うの」
恐怖も緊張も不安も、灯矢の視線も全てを振り払うように灯矢の手を離して、私は扉を押し開ける。ギイイと重々しい錆びた蝶番の悲鳴を聞きながら開けた視界の先は、思っていたよりも随分とこぢんまりとしていた。教室二つ分より少し小さいくらいのそのスペースはガラスなどは所々割れていたりしたが、今までこの建物の中で見た中で一番崩壊を免れていて、しんとした静謐な空気さえ現役の頃のままを保っているようだった。人の気配を全く感じないそこに、私は足を踏み入れる。
夕陽で赤く染められた礼拝堂。その全面に埃を被った長椅子が行儀よく並び、正面にはお決まりの十字架がかけられた小さな祭壇がある。視線を彷徨わせると、左側の壁の一部が割れた聖母マリアのステンドガラスが赤々と禍々しく光っているその下に、細工の凝った木製の電話ボックスを二つ繋げたようなものを見つけた。おそらくあれが噂の告解室だろう。薄汚れたカーテンが下がっていて中の様子は見えない。マリアは、あそこにいるのだろうか。
「何か、罪があるの? 許されたい罪が」
部屋を観察していると、凛と透き通った声が礼拝堂に響く。告解室へと向けていた足を止めて声の主を探すと、長椅子の影からすっとそれは姿を現した。小柄だが、私と同じ制服を着ているから学園の人間だろうか。そう思った次の瞬間、目が合ってそれが違うと知る。煌めくその瞳は、紫。
「マリア……!」
「いらっしゃい、おねーさん。僕に会いに来てくれたの? 嬉しいな」
姿を見せた瞬間、静かな礼拝堂そのものを飲み込むような圧倒的な存在感に私は息を飲む。華奢で小柄な子供なはずなのに、何故か全身の肌が粟立つような感覚が私を襲った。
そんな私の様子がおかしいのかくすくすと笑うマリアは、昨夜と同じように悠然としていた。ひらりと制服のスカートの裾が翻るのを見せつけるようにして、マリアは祭壇の前へと立つ。
「どう? 僕スカートも結構似合うでしょ。ふふ、おねーさんとお揃い。……換えはもういらないからって、仁礼に貰ったんだ」
まるでただお下がりの服を贈られたかのように無邪気に出されたその名前に、私はぎりと奥歯を噛みしめた。挑むようにマリアを睨みつける。
「……やっぱり、あなたが仁礼を殺したの」
マリアは私の問いに一瞬きょとんとした顔をして、それから今日の日付でも聞かれたかのようにあっさりと答えた。
「そうだよ、仁礼は僕が殺してあげた。あの子に『悪魔殺し』の結果がどうであれ、そうして欲しいって頼まれてたからね。成功しても人殺し、失敗しても悪魔と同じ世界にい続ける。どっちも耐えられないんだって泣きながら言ってたよ。それにしても、やっぱりおねーさん僕の言った事信じてなかったんだ。ちょっとショックー」
欠片もショックなど受けていないだろうにぷうと頬を膨らませ、拗ねるふりをするマリアに私は舌打ちをした。
「不法侵入者の言うことをそんな簡単に信じられるわけ無いでしょう」
「そうかな。じゃあ、たいした証拠じゃないかもだけどこれあげるよ」
そう言ってマリアはスカートの裾を僅かにたくし上げ、そこからついと何かを取り出して無造作に私の足元へと放り投げる。
「神様」
ぐいと灯矢に腕を引かれ後ずさった次の瞬間、私のいた場所にとすりと小さな音を立てて銀色の光が突き刺さった。近づいて引き抜いて見れば、それは柄に十字が刻まれただけの小ぶりのナイフだ。私に当てるつもりだったのかと顔をあげてマリアを睨むと、しかし投げた当の本人であるマリアは不思議そうな顔をして自分の掌を眺めていた。
「おかしいな? 僕手元が狂うなんて滅多にないのに……変なの」
自分の腕に自信があったらしいマリアは少し考え込んでいたが、やがてまあいいかと手を振る。
「それ、仁礼にあげたのと同じのだからさ、確認してみてよ。実はこのナイフって僕のオリジナルだからさ、同じのってそうそう無いと思うんだよね」
「……わかったわ」
ナイフが本当にオリジナルかどうかはわからないが、実際に仁礼が使った物と同じものであったならばマリアが仁礼を殺したという確率はぐっと高くなる。この場で明確な証拠を得られなかったのは不服だが、これを持ち帰って母にでも確認すればはっきりすることだ。
私は改めて掌のナイフへ視線を落とし、ポケットからハンカチを取り出して無造作にその刃にぐるぐると巻きつけた。それをポケットへと仕舞うと、くすくすとマリアの笑い声が響く。
「それにしてもさ、おねーさんは神様なの? それならおねーさんは僕の胎から生まれたのかな」
「生憎、殺人鬼で頭のおかしな母なんか持った覚えはないわ。聖母なんて柄でもないでしょうに」
さっき灯矢が私をそう呼んだことだろう。自らの下腹部を撫でながらのからかうような言い草に苛立ってそう吐き捨てるように返すと、ずっと後ろで静かにしていた灯矢がすっと私の前へと出た。私を庇うように立って、マリアに挑むような目を向ける。
「神様は、神様だよ。おれの神様。何もおかしくなんかない」
珍しくも硬質な灯矢の言葉にマリアは、ここに来て初めて灯矢へと視線をやった。じっと頭の先から爪先まで観察するように視線を滑らせ、にこりと満足げに笑う。
「起きてる時では初めましてだね、おにーさん。ここに来てからずっと黙ってるから、あんまり僕とお話したくないのかと思ったよ」
「起きてる時では? それってどういう……」
「ふふ、それはおねーさんに聞いてね。僕が話したらおねーさん怒りそうな気がするもの」
怪訝な顔で首を傾げる灯矢をよそにマリアは告解室の前へ足取りも軽やかに歩いて、割れた聖母マリアのステンドガラスから注がれる赤い光の中へ立った。マリアが、赤く染まる。
「ごめんね、別におにーさんの信仰を否定したつもりはないんだよ。人の信じているものを軽んじるほど、僕は傲慢じゃないつもりだからね。心底信じていれば、誰だって、何だって神様になれる。信じているその人にとっての神様になれる。だから僕にとってはどうでもいい人間だって、道端の石だって誰かにとっては神様なのかもしれない。その信仰を頭がおかしいだとか、くだらないと吐き捨てるのは簡単だよ。でもさ、それって酷い事じゃない? その人の価値観の中枢を、ひいては自己を踏みにじるって事だよ。あなたも私の信じるものを信じてって強要されない限り、否定するのはあんまりよくないよね。だから僕は皆の『マリア様』だし、おねーさんもおにーさんの神様。それでいいと思うよ」
饒舌に語って、マリアは灯矢を振り返る。その顔は嫣然とした頬笑みに彩られていて。まるで夢見るように頬を薔薇色に染めてマリアは言う。
「ねえ、そんな事よりもさ。おにーさんのこと、殺させてくれないかな」
するりと袖口から先ほどと同じナイフが現れ、マリアはそれを掲げる。照準を合わせるように、刃先を灯矢へとまっすぐに向けた。まだ距離は十分にあるというのにそれだけで、首筋に刃物を突き付けられているかのようにぞくりとした寒気が背筋を駆け上がっていく。
「駄目よ、私のものに勝手なことしないでちょうだい」
反射的に、寒気を怖気づいた気持ちを振り払おうと声を張り上げる。マリアはそんな私を見てくすくすと笑った。
「えーなんでー? おにーさんはいくら殺しても平気なんでしょ、ちょっとくらい良いじゃん」
「良いって言うと思うの」
まるでつまみ食いの申請でもするような気軽さに狂気を感じながらそう返すと、マリアはにいと笑みを深めて私を見た。私を射るその瞳は、昨夜見たものと同じ深い深い紫で。さああと自身の血の気の引く音が聞こえた気がした。
「じゃあさ、おねーさんを殺すね?」
静かで、透明な声が響いたと思った次の瞬間。とんっと、軽い音がしてマリアの体が宙を舞う。重力を感じさせない軽やかさで、瞬きの合間にマリアは私の目の前に来ていた。上気した頬で、いっそ慈愛さえ感じさせる光を瞳に宿したマリアがその掌にナイフを煌めかせている。突然のことに息を飲み、目を見開くことしかできない私に銀の光が走る。
「……っ!」
死神の鎌がついに私の首筋に届いたと思ったその瞬間、刃は止まった。一拍遅れて、ぽたぽたと首筋に温かい液体が落ちる。固まった体をぎちぎちと動かして見てみれば、刃は灯矢の掌を貫いて私の首筋の寸前でその刃先を止めていた。切っ先から赤い雫がとめどなく滴り落ちていく。
「……神様に、何するの」
低い、静かな灯矢の声が耳朶を打つ。その音で、止まっていたようだった私の時間が息を吹き返した。意図せず安堵のため息が漏れる。死を目前にしたからか、どくどくと心臓が痛いくらいに跳ねていた。そんな私とは対照的にマリアは楽しそうに声を弾ませる。
「何って僕言ったでしょ。おにーさん殺しちゃだめって言うから、おねーさんを代わりに殺そうとしただけだよ。自分から殺人鬼のところに来たんだから、これくらいは許してよ」
「……あなた、自殺の手伝いしかしないんじゃなかったの」
「基本的にはね。でもおにーさんとおねーさんは特別。殺してあげたくなっちゃった」
昨夜の発言を思い出して非難するようにそう言うと、マリアはしれっと悪びれもせずにそんな無茶苦茶を言った。別に最初からこいつの言った事を鵜呑みにしていた訳ではなかったが、やはり腹が立つ。舌打ちをして睨みつけるが、マリアはこちらの事などもう見てはいなかった。ナイフを突き刺した灯矢の掌を、私の皮膚の上に落ちていた血液が蠢き戻っていく様子を興味深げにじっと見ている。
「へえ……本当にこうやって治るんだね。ここだけ別の生き物みたいに動いてどんどん塞がってく。面白いし便利だけど、ちょっと気持ち悪いね」
言葉とは裏腹に楽しそうに呟いて、マリアはそっと祈りでも捧げるかのように突き刺さったままのナイフに手をかける。
「ねえ、おにーさん。やっぱりさ、おにーさんのこと殺してもいい? そうしたら、おねーさんにはナイフを向けないから。だめ?」
わざとらしく小首をかしげての身勝手な二択に、私は即座に拒絶を口にしようとした。しかしそれよりも早く灯矢が声を上げる。
「わかった。おれを殺したければ、何回だって殺してもいい。だから神様には手を出さないで」
「何を勝手に言ってるの、灯矢! そんなの私は許可しないわ!」
そんな事、私は望んでいない。そう抗議するけれど、私の言葉などマリアにはすでに聞こえていなかった。灯矢を映す紫の瞳が興奮に煌めいて、瞳孔が開く。にいと形の良い唇を三日月に歪めて、マリアは陶然とした笑みを浮かべた。
「ふふ、交渉成立だね。じゃあさっそく、いただきまーす!」
ふざけたようなそんな言葉と共に、刃は治りかけた灯矢の肉を裂きながら勢いよく引き抜かれた。戻ったばかりの血液が再び飛び散っていく。
「……っ!」
痛みに耐えて呻く灯矢にマリアはうっとりとした表情を浮かべながら、腕へ、足へと躊躇う事無くナイフを振り下ろしていく。急所をわざと避けながら、太い血管を確実に断ち切って灯矢の全身はあっという間に血にまみれた。
「抵抗してもいいんだよ、おにーさん。いつもは自殺のお手伝いだからみんな無抵抗だけどさ、僕抵抗する人を切るのも嫌いじゃないんだよねー……って言っても。あはっ、もう動けないかな」
マリアは狂ったように笑いながら、まるで解体ショーか何かのように灯矢の体を次々と切り開いていく。
「ねえ、おにーさん。死なないって言うのはさ、本当に幸運なのかな」
次々と枝を切り離すように、掌から指が落ちる。
「見た感じ、痛みは人並み程度にはあるみたいだしさ」
無造作に一線させたナイフは喉を切り裂き。
「どんなに辛くても、痛くてもそれが終わらないって」
耳は容易に削がれ、軽々と投げ捨てられる。
「それは、むしろ生き地獄ってやつじゃないかな。ねえ、おにーさん」
大きく開かれた腹から、ずるりと腸が引きずり出された。終わらない悪夢のようなそれが瞬く間に目の前で繰り広げられて、気が付けば私の腰は抜けていた。がくがくと全身が震えて、背中には冷や汗が伝う。
マリアは返り血を全身に纏いながら、それを欠片も感じさせない慈愛の表情で灯矢を尚も切り刻んでいく。それは、狂気としか言いようのない姿で。
暴力という概念が人の形をしたなら、こんな生き物になるのかもしれない。私はこんなものをどうしようとしていたのだろう。どうして、どうにかできると思っていたのだろう。
怖い、ただそう思った。
「あ、ああ……」
灯矢の虚ろな目ががたがたと情けなく震える私を見て、声帯を切られてひゅーひゅーと空気の漏れる音しかしなくなった唇が動く。「だいじょうぶだよ」そう確かに形作った。
「灯矢……」
思わず手を伸ばしかけた私の目の前で灯矢の眼にナイフが突き刺さり、立て続けにもう片方の目も抉りだされ、たやすく踏みつけにされる。ぐじゅり、と嫌な音がした。
さっきまで私を見ていたそこには、赤々と血に塗れた眼窩がぽっかりと穴を開けている。あの優しく私を見た赤い瞳は、もうそこには無い。
「い……や……」
私と繋ぐ手が手首からごとりと落ちる。私を呼ぶ唇が引き裂かれていく。歩く時に私の歩調に合わせてくれる足が裂かれていく。日に照らされるときらきらと光って綺麗だった白髪に、ナイフが突き立って赤く染めていく。灯矢が、私の灯矢が無くなっていく。
「やだ……やめて…………もうやめて……っ! マリアッ!」
堪らなくなって引きつれた声で叫ぶと、一次停止でもしたかのように突然ぴたりとマリアは動きを止めた。そうしてそこの知れない紫で私をじっと見て、あきらかな嘲笑を浮かべる。
「なんだ、結局おねーさんも普通の人なんじゃん。こんなんで腰抜かして、震えちゃってさ」
「……なに、よ」
何が言いたいのか。そう問いただしてやりたいのに、声がひりついた喉に張り付いて上手く出ない。マリアは灯矢から離れ、座り込んだ私の前にくすくすと笑いながらしゃがみこんだ。
「おにーさんがどんだけ死んでも不死だから何とも思いませんって顔してもさ、惨いことされたら耐えられなくなる程度じゃ、その辺の人と大して変わらないよね。おねーさんが普段くだらないと思ってる人達と同じ。学園の女王様で十文字のお姫様なのに、この程度なんだ。なんかちょっと拍子抜けしちゃうなあ」
勝手な事を言いながら、マリアは私の目を見た。吸い込まれそうな、底の見えない紫に思わず息を飲む。目が、逸らせない。
「おねーさんが何をしたかったのか、何をしに来たのかは大体わかるよ。どうせ十文字ご自慢の権力でも使って社会的に僕を殺そうと思ってたんだ。僕が怖いから、さっさと消したかったんでしょ。気が強いのにさ、意外と臆病だよねえ」
図星を指され、私はぐっと唇を噛んだ。考えがすべて読まれていたことに、臆病だと笑われたことに対してぶわりと腹の底に怒りが湧きあがる。それなのに腰が抜けたまま動けずにいる自分が情けなくて、せめてもの抵抗にきつくマリアを睨みつけた。
「うるっさい……っ」
そうやって、絞り出した虚勢は果たして何の効果もなく。マリアは楽しげに唇を歪めた。
「ふふ、そんな状態で凄まれたってぜーんぜん怖くないよ。おねーさんのそういう世間知らずで井の中の蛙感あるところ嫌いじゃないな、僕。でもさ」
言いながら、マリアは立ちあがる。くるくると踊るようにして、再び祭壇へと足を向けた。一歩進むごとに、マリアの体から灯矢の血が蠢いてぱらぱらと落ちていく。
「残念ながら、僕は社会的にはいないんだよ。学校にも行ってないし、家族もいない。当然友達もいないし、たぶん出生届すら出されてないから戸籍もないよ。名前だってないから、ここでお手伝い始めてから皆が勝手に呼び始めたやつ使ってるし。聖母マリアのステンドグラスが真上にあるからって、ちょっと安直だよね。まあ、気にいってるからいいんだけどさ。そう言う訳だから、僕がこの世界にいるのを証明できるのは、僕自身以外何もないんじゃないかなあ」
「嘘……」
「嘘じゃないんだよ。残念ながらね。だから何も失わない。何も持ってないからね。いくら十文字が凄くても、社会的に生まれてきてもいない人間を殺す事なんてできないでしょ?」
絶句する私にマリアは事も無げにそう言った。夕陽に赤く染められた祭壇の前に立ったマリアにはもう、血の一滴すらついていない。
「更に言うなら、警察も犯行現場を見られない限りこんな子供がやってるなんて思わないだろうし、そもそも自殺だと思われてるから足なんかつかない。あとここを壊したとしても、廃屋なんてこの町だけでも探せばいくらでもあるから僕は困らない。人を使って僕をなんとかしようとしたら、その人達の事ためらい無く殺しちゃうよ。それくらいの事なら僕何でもないし。ねえ、おねーさんができることってこれくらいじゃない? ほら、おねーさんの持ってるもので僕を傷つけることはできないでしょ? ってことで証明終了かなー」
残念だったねと言いながら、マリアは愕然とする私を振り返ってにっこりと笑う。その笑顔に私は反射的に勝てない、と思ってしまった。
今までそんな徹底的に何も持たない人間などいなかった。そんなもの、いるはずがなかったのだ。皆何かしら持っていてそれを奪ったり、奪うと脅すことで簡単に排除できた。それが、マリアには何の意味もないことだなんて。
「それじゃ、どうしたらいいのよ……」
思わず零れた言葉は、自分でも信じられないほどに弱々しくて。十文字の力を失った私自身は何もできない子供なのだと思い知らされたようで、悔しさに強く唇を噛んだ。
牙を、盾を奪われ、無力に打ち震えるだけの無様な私をマリアはくすくすと嗤う。
「どうしようもないよ。ただ僕の気が済むまでさ、おにーさんをおもちゃにさせてよ。せっかくだからいろいろやってみたいんだよね。おにーさんも何回殺してもいいよーって言ってたし、いいよね?」
「……っ!」
目の前の灯矢の惨状を見ておいて、いいとは口が裂けても言いたくなかった。けれど、もう私の意見なんか通りはしない事は痛いほどにわかっていた。私は頷く代わりに、精一杯の抵抗でマリアを睨みつける。
「あなたのこと、私嫌いだわ……!」
「残念、僕は結構おねーさんのこと気に入ってるんだけどな。まあ、しょうがないか」
吐き出した稚拙な悪態にようやくマリアは小さく眉をひそめたが、くるりとすぐに元の無邪気な笑みへと戻ってひらひらと手を振る。
「それじゃ、僕はこの辺でばいばいするねー。あ、次は僕から会いに行くからさ、楽しみに待っててよねっ!」
「え? ちょっと、待っ……!」
ふざけた事を言いながらマリアは壁に空いた穴に手をかけて、私の制止を聞くこともなくひょいと身軽にそこを通って外へと出ていってしまった。呆然と見送った穴は意外と小さく、マリアぐらいしか通れそうにない。
マリアがいなくなって、しんとした静寂が薄暗くなってきた礼拝堂を満たす。そうなってようやく、私は深く息を吐き出した。張り詰めていた糸が切れるように、どっと全身に疲労感が襲う。
「……灯矢」
がたがたと震えて言う事を聞かない体を引きずり、少しずつ元の形を取り戻そうと蠢く肉塊となった灯矢の元へ手を伸ばす。精一杯伸ばした手で触れたくっついたばかりの指先は、いつものように温かくて。縋るようにその手を握った。
小さく息を吐いた途端ぐらり、と世界が揺れる。すぐに揺れているのが世界ではなく自分だと気付くが、もはや抗う気力もない。ほたりと力無く、灯矢の隣へと自らの体を横たえた。
「灯矢」
黴臭い床に転がって、手を繋いだままの相手の名前を掠れた声で呟く。いつもなら呼びかければすぐに目を開けて笑う筈なのに、手を握り返すことすらしない。傷が深く、多いために再生が間に合っていないのだ。
蠢く肉と血が時折ぐちゃりと鳴くのを聞きながら、そっと目を閉じる。瞼裏に映るのはやはり紫の煌めきで、私は思わず舌打ちを零した。
昨日の砂山の言葉が頭を過ぎる。違うとその時は思ったが本当は私自身、大抵のことが自分の思い通りになると無意識に思い込んでいたのだ。マリアに自分では手が出せないと思い知らされて、愕然としたあの瞬間までその事に気が付かなかった。自分の甘さに反吐が出る。所詮、私は私自身では何もできやしない。そのことが情けなくて、悔しくて――惨めだった。
このまま私はマリアに弄ばれ、甚振られるだけの存在になるのか。そんなのは屈辱でしかないし、絶対に許容できない。早急に、確実にあの毒虫を排除しなくてはならない。けれど……どうしたら。
寄る辺なく、途方に暮れたような思いで瞼を持ち上げれば、眼前には血肉の蠢きが収まったらしい灯矢の穏やかな寝顔があった。
「灯矢」
再び呼ぶ。すると今度は瞼が震えて、赤い双眼が姿を現した。その瞳はちゃんといつも通りの赤で、私は小さく息を吐いて手を離した。踏み潰され、ナイフを突き立てられた痕跡など、どこにもない。当然の事なのに、心のどこかであの赤がもう見られなくなるのではないかと思っていた自分に気付いてはっとする。
「神様……?」
灯矢はぱちぱちと瞬きをしながらぼんやりと呟いて、赤い瞳に私を映すと同時にへにゃりと困ったように笑った。くしゃりとそのまま、子供にするみたいに頭を撫でる。
「そんな顔しないでいいんだよ。あの子が殺すのはおれだけなんだし、神様は何も不安に思うことなんかないんだよ。放っておけばおれは殺しても殺しても死なないから、きっとすぐに飽きてくれるって」
「灯矢は……灯矢は私のだもの。そんな勝手許せないわ」
子供を宥めるような煩わしい頭上の手を跳ね除けて、悔しさと屈辱にぎりと唇を噛みしめる。灯矢は弾かれた手を残念そうに少し見て、そうしてよいしょと零しながら身を起こした。すっかり日が沈み、夕闇が礼拝堂を覆う中で灯矢は祝詞でも紡ぐようにそっと口を開く。
「おれなら大丈夫だよ。神様の為なら何度死んだって構わない。どんなに痛くても怖くても神様を守るためならいくらだって耐えられる。おれのこの体は神様を守るための盾だし、それがおれの存在理由で生きがいなんだから。別に、神様はそんな事気にしなくてもいいんだよ。それにね、おれにとっては、神様がそういう顔してる方が嫌なんだよ」
「……そういう顔ってどういう顔よ」
言われて思わず顔をしかめると灯矢はまた笑って、床に転がったままの私へと手を伸ばした。さっき離したばかりの手を取ればぐいと強く引かれて、体を起こされる。
「神様は何もしなくて大丈夫だから。ただそこにいて、守らせてくれればそれでいいんだよ。おれはそのためにいるんだし、神様はおれの大切な神様なんだから」
笑顔のまま曇りなくそう言う灯矢に、ずきりと胸を抉られたような気がした。私を信仰する信徒として灯矢の言葉は何も間違っていない。むしろ正しいはずなのに、私は無邪気なその言葉が痛くて辛くて唇を噛んだ。守られるだけの無力な自分が当然という事実に苛立って、苦しくて、悲しくて、情けなくて。
「だからそういう顔はしないでいいって。大丈夫だから」
また困ったように笑って、性懲りもなく灯矢は俯いた私の頭を撫でる。それはそっと壊れ物でも扱う様に静かにゆっくりとした、優しい手つきで。怪我なんか私はどこもしていないのに胸が痛くて堪らなくて、その手を払えなかった。虚無と無力感が喉を塞いで何も言えなかった。
「神様、これがおれの幸せだから」
満ち足りたような顔でそんな事を言う灯矢が憎かった。そんなわけないだろうと口汚く罵ってやりたかった。それなのに全ての言葉は喉の奥で縮こまって、ひゅうと掠れた音だけになってしまって。
「………」
私は結局、何もできずに俯いたまま灯矢が飽きるまでずっとそうしていることしかできなかった。
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