一章 彼と彼女の日常

 私は、神だ。

 といっても、七日間で世界を作ったり、復活したりなどの奇跡を起こせたりするわけじゃない。私はよくそのへんにいるような高校二年の女で、まあつまりはただの人間だ。

 石をパンに変えたり、水をワインに変えたりなんかできない私が、それでもなお自分を神だと言い張るのには理由がある。それは妄想でも、願望でもない。ただの事実として、そこにある。



耳を劈くような激しい急ブレーキの音と一緒に、視界に赤が散る。

凄まじい勢いで突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされ、まるで人形か何かのようにいともたやすく宙に舞った彼の体は、一瞬の後すぐにアスファルトへと叩きつけられた。

ぐしゃりとひしゃげ、どこが関節だったのかもよくわからないほど捩れた彼だった物体から赤はとめどなく溢れ出て、大きな水たまりを作っていく。

肉は潰れてあちこちひき肉みたいになっているし、あばらの骨なんか体から飛び出している。しかも頭はぱっくり割れてしまって、まるで石榴のように中身を零していた。彼のトレードマークだった白髪も、もう真っ赤になってしまっている。白だから綺麗に染まったな、なんて私はぼんやりと思う。

そんな時、どう見ても地獄絵図としか言えないような悲惨なそこに、ふわりと春の柔らかな風が吹いて鉄錆に似た香りを巻きあげた。

それを合図とするように、周囲にいた女の子達の甲高い悲鳴が耳を穿つ。呆然としていたトラックの運転手もようやく事態を把握したように青ざめるのが見えた。この場に立ちつくしている人間は全て、その光景の恐ろしさ、おぞましさに心を囚われていたのだ。

 彼に庇われ、助けられた私だけが静かにそれを見ていた。

 確かに、誰がどう見てもこのでき事は悲惨で、絶望に満ちている。可哀想に、こんな光景を見せられてしまってはしばらくの間到底肉なんか食えまい。それどころか悪夢として夢に見るかもしれない。

 ああでも、と私は思う。本当に夢に見るのはこの後の事かも知れない。普通なら、この後なんてない。だけど、彼は普通ではないから。

 ぴくりと、彼だったものが動く。散らばった肉片が、零れた血液が僅かに揺らぐ。それに気付いた人達の怯えるようなどよめきが聞こえるなか、それは大きく動いた。

 まるで生き物であるかのように彼の破片は蠢き、次々と主の元へと集っていく。それらを取り込みながら彼だったものは、みしり、ぐちゃりと何か嫌な音をたてて元の彼の形に戻っていく。

 血の一滴さえ意思を持ったかのように、次々と彼の体に飲まれていくその光景はできの悪い巻き戻し映像のようで、酷く滑稽であった。

 それは、本来ならばあり得ない事。この世の法則全てを無視した、奇跡と呼ばれるような現象。だが、彼にとってそれは当たり前で、当然のことでしかない。何故ならば、彼はけして死ぬことのない体を持つ――言わば不死の存在なのだから。

 そうして彼が全てを再生し終わる頃には、どよめきは悲鳴へと変わっていて、周りにいた人間は皆逃げ出してしまっていた。

 残ったのは私と彼、そうして彼を跳ねあげて痛々しく車体をへこませたトラックだけ。人類の夢とも言われる不死だが、一般的に見ればそれは酷くおぞましいものでしかないのだと人々の反応は如実に表している。

 結局、人間という生き物は自らと異なる存在が、理解できないものが怖いのだ。それは当然の事で、わかりきっていた事だけど。

「逃げ出された方の気持ちも、少しは考えて欲しいわ」

 何とも感じないとでも思っているのだろうかと憤りながら、私は未だ道路の真ん中でいっそ気持ちよさそうに横たわる彼の元へと向かう。

「灯矢」

 声を張り上げる事もなく、ぽつりと名前を呼んでやればすぐに彼はぱちりと瞼を開けた。血のように赤い瞳がきょろりと動いて私を捉えると、彼――灯矢はまるで子供のような混じりけのない笑みを浮かべる。

「おはよう、神様」

 そうして何のためらいも、揶揄する様子もなく、灯矢は私を『神様』と呼ぶ。まるで当たり前のことのように声を弾ませて私を『神様』にする。

 彼こそが私の唯一の信者、私を神とする唯一の理由。灯矢は出会ったその日から私を神とし、盲目としか言えないような一途な信仰を私に向けている。私は、彼の信仰に足るような存在ではないというのに。

 灯矢が不死である理由はわからない。昔一度本人に聞いてみた事があったが、本人もよくわかっていないようで「そういう生き物」なのではないかと答えられた。いつ自分が生まれたのかもよくわからず、何年生きているのかもよくわからないと言っていた。いい加減なものである。

 なにはともあれ、私はとりあえず彼を起こそうと手を伸ばし……灯矢の姿に思わず視線を逸らした。

「……灯矢、服」

 いくら灯矢が不死でも、彼が纏う衣服に再生能力はない。あちこちが破け、悲惨な状態になっている。言葉につられて自らの姿を確認した灯矢は、途端にくしゃりと顔を歪めて泣き出しそうな顔になった。

「ど、どうしよう……また破いちゃった……ねえ、この服まだ着れない? 神様」

 涙声で縋りつくように言われて仕方なしに視線を戻すが、やはりそれはもうどう見ても悲惨だったし、穴だらけでもはや服ではなくてぼろ布でしかなかった。

「無理」

「そんなあ……」

 無慈悲にそう切り捨てれば、灯矢は悲痛な声を上げて未練がましく己の服だったものを見つめてがっくりと肩を落とす。

 悲壮という言葉がぴったりの灯矢の様子に、私はじわりと自分の中に苛立ちが滲むのを感じた。

「そんなのでいちいち泣かないでよ」

 荒れた気持ちのままにとげとげしくそう言うと、灯矢はびくりと体を跳ねさせて青ざめた顔で私を見つめる。

「ごめんなさい……おれ、神様を怒らせるつもりなんかなかったんだ……ごめんなさい、ゆるして、おねがい」

 彼は不安なのだ。いつ私が彼を見捨てるのか、愛想を尽かすのかと。神として私を信仰している灯矢にとって、私からの関心が得られなくなる事はよほど恐ろしいことのようだ。震えた声で、まるでナイフでも突き付けられたかのようにその瞳に恐怖をちらつかせている。

 怯えを含んだその視線にさらに私は苛立って、舌打ちをしながら灯矢から視線を逸らした。

「許すも何もないわ。……服くらい、買えばいいでしょ」

「え?」

 何を言われたのか把握できていないのかぽかんとする灯矢を無視して、私はトラックへと向かう。タイヤに足を掛けて中を覗き込んでみれば、案の定震えてみっともなく泣いている男の姿があった。トラックの運転手にふさわしいガタイの良いはずの体は、そうしてみると酷く小さく見える。よく見れば年の頃は私達とそう大して変わらないだろう。

 こんな常軌を逸した目に若い身空で遭わされた事を可哀想にと思わないでもなかったが、こちらは一応被害者様だ。大きく出てやっても罰は当たるまい。

 そう思った私は僅かに開いていた窓を強引に手で押し広げ、さらにローファーで私達を隔てているドアを強く蹴り飛ばす。べこりと車体がへこむような感覚と鈍い音がして、びくりと男はようやくこちらを見た。まるで化け物でも見るみたいな表情でこちらを見る彼に手を突き出し、私は一片の慈悲も含まない淡々とした声で言い放つ。

「慰謝料、よこしなさい」



「えへへ、えっへへー。神様、洋服ありがとう!」

 買ったばかりの洋服を嬉しげに着て、灯矢はそう呑気に笑う。まるで特別な品でも手に入れたかのような反応だが、実際に着ているのはスーパーの端でワゴンに積まれていた特売品のなんだかよくわからない柄のパーカーと、ただのジーンズだ。

灯矢は私が渡すものなら何でも喜ぶ。たとえそれがゴミであっても喜ぶんだろう。そう思うと、喜んでいる灯矢の姿を見るのは酷く虚しく、そして面白くなかった。

 どうせだったらもっとおかしなものを買ってやればよかった。小さないらつきを感じながら、私は財布へと残りの金を仕舞う。

 運転手が命乞いでもするかのように差し出してきたそれは、洋服代にしては少し――いや、かなり多かった。しかも、灯矢が馬鹿みたいに安い服しか買わないから大分余ってしまう。その事に少しだけ罪悪感を覚えたが、私はすぐに思いなおす。

 どうせまたすぐに服は破けてしまうだろうし、その時に使えばいいだろう……灯矢はきっと、またすぐに死んでしまうのだから。

 そう、灯矢が死ぬのは別に珍しい事でも何でもない。私が凄惨な現場を見ても何も動じなくなるほど、灯矢は死んでいる。それもかなりの頻度で、何度も何度も。

 普通、人は生活していく中でそう何度も命の危険にさらされることはない。それが灯矢の場合、毎日のように、まるで戦場にでもいるかのように死は灯矢のすぐ傍にいる……いや、違う。正確に言うのなら、私の傍にいるのだ。

 私は昔から酷く運が悪い人間だった。よくこんなにもバリエーションがあるものだと呆れるほどの事故や事件が日常的に起きて、いつだって私も巻き込まれる周りも傷だらけだった。それが、私の特別でも何でもない迷惑で理不尽極まりない最悪な体質。灯矢の言う通りに私が神だとしたら、きっと厄病神に違いない。

けれど灯矢と出会ってから、灯矢にそれらを押し付けるようになってから私の生活は変わった。不死の灯矢は私の代わりに傷つき、時に死ぬ。体のいい盾を、私は手に入れたのだ。

代わりに私は身寄りのない灯矢に、家族の一員としての権利を与えた。衣食住に加え、私を守るために学校に通わせ、同じ苗字を与えた。命と引き換えの交渉にしては安すぎる条件。それでも灯矢が文句も言わず、むしろ喜んでそれを受け入れているのはひとえに彼の異常なまでの信仰心があるからだ。

灯矢は死を恐れない。それは不死であるというのも大きな要因だろうが、神である私のために死ぬのは当然だと思っている節があるからだ。まさにそれは殉教であり、信仰のためならば灯矢は自らの命でさえ惜しくはない。むしろ誇らしいと思っている節さえあると、私は感じている。

灯矢の信仰はそれほどまでに一途だし、盲目的だ。時に恐怖すら感じるほどに。それが私には気にいらない。灯矢が笑って死ぬたびに、私は心底吐き気がする。

それでも、私は灯矢を犠牲にしなければまともな生活が送れない。彼の屍の山の上に私の日常は成り立っているのだ。そんな私に何かを言う資格なんかないし、ましてや灯矢を突き放すことなんかできるわけがない。だから私は、今日もふつふつと静かに煮え立つような苛立ちを抱えて生きていくしかないのだ。腹立たしいことこの上ない事実である。

灯矢はそんな私の思いも知らずに、今日も笑って嬉しそうに校門をくぐる。

「ついたー!」

「遅刻だけどね」

 はしゃいだ一言をぴしゃりと叩き落として、もう誰もいない昇降口へと向かう。灯矢は一瞬、また泣き出しそうな顔になって足を止めたが、すぐに慌てて私の後を追いかけてきた。

「ごめんなさい……おれの服、買ってたから」

「いつものことじゃない」

 おどおどとした灯矢の姿に、また私の中にじわりと怒りが滲む。

 文字通り命がけで守ってもらっておきながら遅刻を咎める奴がいるとでも思っているのだろうか。少しぐらい考えればいいのに。ああ、苛々する。

 ささくれたような気持ちのままに廊下を進み、教室の扉をやつあたりのように開ける。途端に、教室中の視線が私達をまるで異物か何かのように突き刺した。

「遅刻しました」

 針の筵のようなそれらを無視して担任に一言そう告げて、かかとを鳴らしながら自らの席へと座る。追いかけてきた灯矢も慌ててそれに倣って私の隣である席へと座った。

 そんな私達を見て呆れたように、担任の男――砂山が溜息を吐いた。

「相変わらず堂々とした遅刻だよな、十文字家は……」

「灯矢が死んだので。不可抗力です」

 嫌味のような砂山の言葉に淡々と事実を告げてやれば、砂山はボサボサの黒髪を苛立たしげに手で乱して不服そうにわかってると返してきた。

 砂山は若いが酷くやる気のない人間だ。現代文の教師のくせに常によれた白衣を着て、何もかもが面倒だという態度でいる。一年の時から砂山が担任だったが、この男から授業を受けるたびに本当にこいつは心の機微というものを理解しているのだろうかとよく疑問に思ったものだ。私のことが気に食わないような顔をよくしているが、実際に言う勇気はないらしい。取るに足らないつまらない男、それが砂山に対する私の評価だった。

 そんな砂山はやはり面倒そうにしながらも、そう言えばと口を再び開く。

「十文字……灯矢の方。お前、死ぬ時は周り見ろっつったろーが。新入生が何人かお前の死体見てトラウマ負ったじゃねーか。保健室に青ざめた女子が溢れかえったわ」

 何を言っているんだこいつは。死ぬ時に周りの事など考えていられるものか。理不尽としか言えない発言に怒りが湧きあがるのを感じる。立ちあがって殴りつけてやろうかと考えたが、行動に移すより先に灯矢がうろたえて口を開いてしまう。

「ご、ごめんなさい……?」

 よくわかってないまま謝った灯矢に、砂山は不服そうにしながらもそれでいいとかなんとか言いながら適当に頷く。大方、形だけでも謝罪させろと学年主任辺りにでも言われたんだろう。くだらない。何でそんな事に灯矢が従わないといけないんだ。ああ、本当に皆馬鹿ばかりだ。

 砂山のせいで余計に強まった苛立ちに私が思わず漏らした舌打ちは、タイミングよく鳴ったチャイムの音にかき消される。その音に、砂山は欠伸を噛み殺しながらホームルームの終了を告げ、それから思い出したように最後に付け加えてこう言った。

「あ、そうだ。さっきも言ったけど、お前ら『マリア様』には気をつけろよ」

 その「さっき」は私達が来る前の事だったのだろうか。その言葉の意味が、私にはよくわからなかった。『マリア様』、なんとなく小さく口の中だけで繰り返す。その響きは、何故か少しだけ不気味なものを感じさせた。



 それからは何か起こることもなく、私はただぼんやりと教師達の話を聞いて過ごした。ノートは灯矢がとっているから私には他にやることが無かったのだ。苦痛に感じられるほどの暇を持て余しながら、すでに家庭教師に教わった内容をただぼんやりと聞き流す。

その行為に虚無感を覚えながら、何故か嬉しそうに私の分のノートをとる灯矢の横顔に私はちらりと視線を投げた。ノートを代わりにとれ、なんて私は言ったことないのに。灯矢はいつだってそうだ。私が望んでないのに、私の事にすぐに首を突っ込む。手を出したがる。それが私にとっては酷く鬱陶しい。

きっと、長い永い時間を生きてきた不死身の灯矢にとって私は子供に見えるのだろう。灯矢からしてみれば私は弱く、庇護しなければすぐに死んでしまう儚い、脆い存在であると思われているのかもしれない。それは酷く気にくわない考えだった。

面白くないと思いながらその姿を見ていると、少しして灯矢が私の視線に気がついた。あからさまなくらいぱっと笑顔になって、私へと小さく手を振る。何が一体嬉しいんだろう。私にはそれがよくわからなかった。

こんな短距離で手を振り返すのはなんだか馬鹿らしくて、私はそのままふいと視線を逸らす。その視界の隅で、灯矢が打って変わってしおれた顔をするのが見えた。

馬鹿みたいだ、と思う。私の一挙手一投足に振り回される灯矢も、それに一々苛立つ私も。いっそ離れてしまえたら楽なのかもしれないけれど、それすら私達はできない。だって灯矢無しに、私は生きていけないのだ。

一人で身を守ることもできずに、ただ灯矢に縋りつくことでしか保てないこの不自由でくだらない生活に何の意味があるのかと私は時々考える。人並みに生活できているようで、制約まみれの単調でつまらない毎日。私を神だなんて勘違いをしている灯矢を利用して、死に怯えて過ごして。そうまでして、私は生きていたいのだろうか。

深い水底を見つめるような問いを自身に繰り返していると、鐘が大きく鳴って私は唐突に現実へと引き戻される。惰性のような教師の挨拶を遠くに聞きながら、夢から覚めたばかりのような心地で顔を上げると、いつの間にか目の前には灯矢が立っていた。

「神様、次は体育だよ。行こう」

 差し出された手は私と同じ形をしていて、手を伸ばして触れてみれば温かかった。そんな当たり前の事を確認して、私は息を吐く。壊れ物のように私の手を握って灯矢はへにゃりと笑った。

灯矢はよくこうやって私と手をつなぎたがる。きっと、私の身代わりにすぐになれるようにしているのだ。幼い頃は何も考えずにその手を取れたのに、今はそんなことを考えてしまう。

「行こう。今日も見学だけど」

 灯矢の柔らかな声に促され、私は仕方なしに立ちあがった。緩やかに手を引かれて、更衣室へと向かう流れから私達だけ逸れていく。休み時間になって人が溢れ始めた廊下を何も言わないで、喧騒の中を泳ぐように私達は進んだ。こんなにも沢山の人がいるのに、私達を見るものは誰もいない。突然それが何故だか冷たく空虚に思えて、私は縋るように手の中の熱を握った。手の中の温度だけが、確かな世界とのつながりのような気がしたから。

廊下を進むうちやがて人はまばらになって、喧騒も遠のいていった。人気のない、静かな渡り廊下を私達はただ手をつないで歩く。前を歩く灯矢の白い髪が日に照らされて歩くたびに、きらきらと光って私はその眩しさに思わず目を細めた。ふわふわとした雪のような、柔らかなそれは人から奇異の目を向けられる色ではあったが、私は嫌いではない。本人には、到底言えないことではあるが。

そうしてしばらく歩いて、まだ誰もいない体育館へと私達はたどり着いた。薄暗いその隅のベンチに導くように座らされて、ようやく手は離れていった。反対の手よりも少し温かくなった自分の手を私はぎゅっと握りこむ。

「手なんて引かなくても、私はここに来られるわ」

 唇をきつく噛んで私は俯く。壊れ物を扱うように私に接する灯矢に、校内ですら庇護されなくてはならない弱い存在であると言われたように思った。この程度の距離でさえ、私は一人で歩けないのだと。毎度毎度そう感じて嫌になるのに、それでも私は灯矢の差し出した手を振り払えない。自分から離せない。嫌、なのに。

私のそんな思いになんか気付きもしないで、灯矢は明るく無邪気に笑う。

「おれが、そうしたかったんだ。神様と手を繋ぐの好きだから」

 そんな、理由にもなっていないような適当な事を言って。安っぽい嘘だとわかっていながら、それでも私はその嘘を暴けない。手が、寒くてたまらないのだ。

「……そう。それなら、しかたないわ」

 寒さに耐えかねてそう嘯いて、幾度かためらいながらも私は離されたばかりの手を再び差し出してしまう。灯矢は一瞬きょとんとしてその手を見つめていたが、やがてふわりと幸福そうに微笑んだ。

「ありがとう、神様」

 言葉と同時に舞い戻った熱は心地よくて、同時に酷く虚しい。灯矢の嘘に乗っかって、手を伸ばした自分が醜く思えた。手を握り続けただけ、自分の浅ましさが浮き彫りになっていくようで嫌だった。

段々と近づいてくる喧騒の中、自らへの苛立ちにじりじりと蝕まれながら私はそれでもその手を離すことはできなかった。



「神様っ! はい、あーん」

「灯矢、そういうのはやめてって言ったでしょ」

 呑気な声と共に突き出された卵焼きを、ぴしゃりと弁当箱の中へと叩き落とす。私がそういう反応を返すとわかっていてやっただろうに、灯矢は見る見るうちにしぼんで悲しげに卵焼きを自分の口に収めた。その様子が気にくわなくて、私も八つ当たりのようにプチトマトを口に放りこんで噛み潰す。

 昼食時、誰も来ない屋上で私達は食事をする。私達がいるから誰も来ないのか、それとも風に舞い上がった砂埃が弁当に入り込むのを嫌ったのかはわからない。別に、わかりたいとも思わない。

 ともかく、私はこの時間が嫌いではなかった。食事なんか抜いたって構わないくらいどうでもよかったけれど、灯矢がひょいひょいと食べ物を平らげていくのを見ているのは気持ちがよかった。

灯矢は不死だから、食べなくても死なない。正確には、餓死してもすぐに生き返る事ができる。実際に餓死で死んだことが何回かあるらしく、その時の事を灯矢は食べ物を残してばかりだった幼い私に珍しく神妙な顔でこう語った。

「神様、餓死って言うのは凄く辛いんだよ。ずっとずっとお腹が減って、苦しくて気持ち悪くて。くらくらしてね、力が入らなくなってきちゃうんだ。だんだん手足がしびれてきてね、体ががたがた震えてくる。凄く寒くて、何もないんだ。それが凄く悲しいんだよ」

 だから神様はきちんと食べてね、お腹いっぱいになってね。と灯矢が何度も何度もしつこいくらい繰り返してきたのをよく覚えている。

私はその時よりずっと成長したというのに、灯矢の姿はあの時と変わらない。ずっと年上だと思っていた灯矢が、同じ年齢ぐらいに見られるようになったのはいつの事だっただろうか――そして、私の方が年上に見えるようになるのはいつなのだろうか。

本人ははっきりとは言わないが、灯矢はずいぶん長く生きているようだ。その灯矢の長い人生の中で、私といる時間なんてきっと僅かなものでしかない。その事が、自分を軽んじられているようで時折酷く憎らしくなる。

そんな私の思いなど露知らず、今、灯矢は嬉々としてデザートに取り掛かっている。私が食べた量の倍以上食べておいて、まだ喰い足りないというのか。

 少々呆れながらその様子を見ていると、灯矢はずいと私の目の前に小さな入れ物の一つを差し出した。

「はい、これ神様の分」

 そう言ってにこにこと馬鹿みたいに笑うので、私は毒気を抜かれたような気持ちでそれを仕方なく受け取る。ぱかりと蓋を開けると、同時に甘い芳香が広がった。中には瑞々しい林檎が行儀よく詰まっている。

 林檎は嫌いではなかったので、その淡い黄色の果肉にフォークを投げやりにさくりと突き刺して口に運んだ。口内に溢れる爽やかな酸味と、細胞の一つ一つが歯に押し潰されてくような感覚。それを感じるのが昔からなんとなく好きだった。知恵の実、禁断の果実と神話で呼ばれる割にその味は素朴で柔らかだ。

 さくりさくりと一切れをゆっくり咀嚼して、ふと顔をあげると灯矢も大きな入れ物を手に再びデザートを堪能していた。中身は私とは違って桃のようだ。ふわりと風に乗ってあの独特な蜜のような香りが漂ってくる。夢中になって次々と桃を口に運ぶその表情があまりにも幸福そうだったので私は呆れてしまった。

「灯矢、それそんなに美味しいかしら?」

「うん、美味しい。神様も食べる? はい、どうぞ」

 皮肉のつもりでそう言うが、灯矢はその棘に気付かない。にへらと能天気に笑って、最後の一切れをフォークに刺して私に差し出してきた。まるで子供に与えるようなその行動に私は少し苛立って、ばっとそのフォークを奪いとる。乱暴に口に放り込んだそれを噛みしめれば、じゅわりと口の中いっぱいに甘い蜜が満ちた。

「そんなに、食べたかったの?」

「……煩いわ」

 私の不満など知らぬままに、ぽかんとする灯矢の口へ林檎をねじりこむ。もがと小さい呻きをあげて目を白黒させた灯矢は、すぐに笑顔になってそれをもぐもぐと美味しそうに食べた。

 その様子がなんだか動物のようで少し、愉快だったから。飲み込んで口を開こうとするたび、灯矢の口に私は林檎をねじりこんで眺める。そうすれば、すぐに私の手の中の入れ物は空になった。

 幸福そうに頬を膨らませる灯矢を尻目に、私は食事を終えて弁当箱を手早く片付ける。それが済むと、立ちあがって軽くスカートを払った。

「行くわよ、灯矢」

「神様早いよ! 待って、今行くから!」

 歩き出した私を慌てて灯矢も立ちあがって追いかけてくる。まるで犬のような様子のそれを横目に見ながら扉に手を掛けたところで、追いつかれた灯矢にぐいと手を引かれた。

「なっ……」

当然バランスを崩し、転びそうになった私は振り返って灯矢を叱りつけようとして――勢いよく開いた扉に弾かれる。

「……っ!」

 地面に体を打ちつけた痛みに俯く私の目の前に、ぴしゃりと赤い液体が落ちた。ぼたぼたと続けて降ってくる赤とともに灯矢の呻き声が、零れる。……ああ、またなのか。

 慣れてしまった光景に瞬間的に何が起きたのかを理解して、私はのろのろと顔を上げる。そこには、包丁を刺されて胸元を真っ赤に染めた灯矢と、その包丁を握る真っ青な顔の女子が立っていた。彼女の返り血に染まりかけた制服のタイの色を見ると、どうやら下級生の様だ。中学から上がったばかりでまだ幼さを残した顔立ちは、ぞっとするほどに無表情だ。

「悪魔は滅ぼさなくちゃいけない……この世にいちゃいけないの……消さなきゃ……消さなきゃ……悪魔は、いらない……だって、マリア様もそう言ってた……マリア様も殺していいって言ってた……だから、これは間違ってなんかない……私は、間違ってない……ねえそうでしょう、マリア様……」

 彼女はがたがたと震えながらも、何かに取りつかれたように意味のわからない事を繰り返し呟く。『マリア様』。どこかで聞いたその単語に一瞬引っ掛かりを覚えたが、その違和感も目の前の光景にかき消される。

細い腕が無造作に灯矢の胸から包丁を引き抜き、再び振り下ろす。血が、びしゃりと飛び散った。

「死んで! 死んでよ‼ 死ねよおおおおおおおおおッ‼‼」

 とても年下の少女とは思えないような絶叫を上げて、何度も何度も狂ったように灯矢を突き刺した。灯矢の体に無数の穴が空いて血が噴き出して、ぐちゃぐちゃになっていく。呻き声も消えて、灯矢は無抵抗に刺され続けていた。きっと、死んでしまったのだろう。

私はそれを見ているだけだ。一方的な暴力に弄られ、朝買ってやって喜んだ服もめちゃくちゃにされて。それはいつものことなのに。それが、何故かどうしようもなく苦しかった。

「……やめなさい」

 気が付いたら、私は血に濡れたスカートの裾を引っ張っていた。絶え間なく振り下ろされていた彼女の手が、止まる。ぐるりと首が動き、瞳孔の開ききった真っ黒な瞳が私を捕らえた。

「……あなたも、悪魔?」

 ぽつりと落ちた響きには、一片の感情もなくて。彼女は狂っているのだと、痛いほどにわかってしまった。死ぬかもしれない。今まで何度も感じてきた絶対的な恐怖が、ぞわりと背筋を冷たく撫でていく。

それでも、そんなものに屈したくなかった。負けたくなかった。そんなちっぽけな矜持から、私は挑むように狂人を睨みつける。

「だったら、何? ……灯矢みたいに私も殺すのかしら。これじゃ、どっちが悪魔かわかったもんじゃないわね」

「あ……あああああああああああああああああああああああああアアアアアアアッ‼‼‼」

 嘲るように言えば獣のような咆哮と共に、再び大きく彼女の腕が振り上げられた。一瞬後、風を切る音がして、刃が私をめがけて落ちる。

「……ッ!」

 咄嗟に体をひねったが避けきれずに掠めて、腕に熱のような痛みが走った。ガキンと地面に刃を突き立てる硬質な音が響く。腕の痛みを堪えて顔を上げると、ぎらついた瞳とぶつかった。真っ暗な炎を宿すその瞳に映るのは、ぞっとするほどに明確な殺意だ。

獰猛な獣と化した少女は言葉にならない唸り声をあげて、飛び上がるようにして姿勢を整える。その小さく華奢な掌に、ギラリと包丁を構え直すのが見えた。次は、避けられない。姿勢を崩したままの私は、瞬時にそれを悟った。まるで空間を裂く弾丸のように刃が、閃く。

「神様ッ‼」

 覚悟を決めた次の瞬間、私と彼女の間に血まみれの灯矢が立っていた。立っているのが不思議なくらいに、再生しきってなくてぼろぼろの体。その腹に刃を柄まで沈みこませて、灯矢は彼女の攻撃を受け止めていた。苦痛に顔を歪めてごぼりと血を吐きながら、それでも灯矢は倒れない。

「あ、悪魔……あんなにやったのに……なんで、どうして死なないの……」

 包丁を握りしめ血に染まる少女は引きつった声で、呻くようにそう零す。灯矢を見るその目に浮かぶのは、恐怖と絶望だ。間近に蠢く肉に視線をやって、声にならない悲鳴を上げる。

「いや、嫌……ッ‼」

 ぼろぼろと涙を流しながら再び腹から包丁を抜こうとする少女に、灯矢がぐっと拳を振り上げた。武器の回収で無防備になった彼女に、それを避ける術などない。

「が……ッ‼」

 肉を殴る鈍い音がして、少女の体が勢いよく吹き飛ぶ。小柄だった彼女の体は意外と遠くまで飛んで、地面に叩きつけられた。

しばらく私は呆然と横たわる彼女を見つめていたが、起きあがらないところを見ると気を失ったのだろう。ぴくりとも彼女が動かないのを確認して、私は大きく息を吐いた。心臓がばくばくと音を立てているのが分かる。死神の鎌から逃れられたのだという安堵感が、私を満たしていた。

「神様、無事?」

灯矢が自らの流した血に集られながら、ふらふらと私を振り返る。そうして、私を確認したとたん、灯矢はくしゃりと顔を歪めてがくりと膝をついた。

「神様……怪我、してる……おれのせいだ……ごめん、ごめんね……おれ、守らなきゃいけないのに……」

 ぼろぼろと涙までこぼし始めた灯矢のその視線は、私の腕に注がれている。先ほど避けきれなかった包丁でできた小さな切り傷だ。確かに痛いし、血もわずかに制服を染めている。だがそれを全身血まみれで、腹に包丁を埋め込んだ男が憐れむのか。その光景があまりにも滑稽で、馬鹿馬鹿しくて――酷く腹が、立った。

湧き上がる苛立ちのままに私は灯矢の腹から飛び出している柄を掴んで、勢いよく乱暴に引き抜く。

「ぎゃッ!」

 そんな情けない悲鳴を今更上げながら倒れる灯矢を無視して、私は立ち上がった。スカートの裾を雑に払い、扉に向かう。あちらこちらに散らばった灯矢の血が蠢いて、集まっていくのを横目に見ながら扉に手を掛けた。自分の方がよほど酷い怪我をしているというのに、本当に馬鹿ではないのか。こんな傷、比べたら無傷にも等しいというのに。

「か、神様あ……せめて傷手当てしてから行こうよお……あと一人は危ないよ……待って……」

 呻くような灯矢の懲りない言葉にまた苛立って、それを断ち切るように私は勢いよく扉を閉めた。同時に、昼休み終了のチャイムが無情に鳴り響く。その音に頭痛を覚えながら私は大きく、溜息をついた。あの少女の後始末もしなくてはいけないし、砂山にだってこれを伝えなくてはいけないだろう。その面倒さを思って私は舌打ちを零した。

「……また、授業遅刻じゃない」



 人気の無くなった放課後の教室。差し込んだ夕日で赤く染め上げられたそこで、私は砂山と二人向き合っていた。向き合った砂山が苛立たしそうに私を見るその視線が不快で、私は思わず眉をひそめる。

 私は砂山に呼び出されていた。理由は決まっている、昼休みの事だ。

「一年の仁礼は昏睡状態、その上全身に打撲などの損傷を受けて入院だそうだ」

 こちらは被害者だというのに、砂山はまるで私の方が加害者であるかのように鋭い口調でそう告げる。大して興味もなかったので曖昧に頷くと、それが気に食わなかったのか砂山は嘲笑うように唇を歪めた。

「仁礼は委員会が俺の担当でさ。怖がりで、オカルト好きな面があったけど真面目ないい奴だったんだ。灯矢が死んだの見てからだよ、あいつがおかしくなったのは。怖い、気持ち悪いって毎日切羽詰まった顔で周りに零してたらしいぜ。一人の人間を追い詰めて狂わせて、それでもお前らはなんとも思わないんだろ? もうこんなの何人目だかもわかんないもんな。どうせお前らにとったらどうでもいいことなんだろ」

「……先生」

 乾いた笑いを零しながら言い募る砂山が不愉快で、口を開く。それでも、まるで聞こえないとでも言うかのように砂山は止まらない。

「お前らは自分が良けりゃいいんだよ。どんなに犠牲が出てたって気にもならねえ。その犠牲者の山の上で何でもない涼しい顔してるんだよお前らは。周りにとってお前らは害悪でしかない」

「先生」

 再び、私は口を開く。咎めるように、その立場を思い出させるように。それでもそんな私の声にも砂山は怯まなかった。いつもならば、ここまで砂山が言うことはない。仁礼のことをそれなりに気に入ってでもいたのだろうか、面倒な。

「この学園内で、いや町内で起きたことならいくらでも揉み消せるもんな。何せお前は十文字家の娘だ、この学園で不自由なんかしないだろ。お前のための学校みたいなもんだしな。何もかも思い通りの世界に生きてる気分はどうだよ、女王様」

「……砂山、黙りなさい」

 少しくらいなら聞いてやろうと思っていたが、もう我慢の限界だった。砂山の分際でよくもそこまで言えたものだ。弱者のくせに分を弁えることもできないのか。ぺらぺらとよく回っていた口は私の一言で急停止する。

 ある程度までなら年長者の、教職に就くものとして扱ってやろう。だが、その許容範囲を超えるつもりならば容赦はしない。静かに、私は砂山を見据える。

「もしも、私が思い通りの世界に生きているとしたら。あなたも私のその思い通りの世界に生きているって事、忘れないでちょうだい。それとも、あなたはこの学園にもういたくないのかしら」

 まるで殴られでもしたように憎らしげに、砂山はきつく私を睨みつけた。しかしその口は封でもしたみたいに開かない。その様子はひどく滑稽で、くだらないものだった。

「つまらないわね、牙を剥くなら最後まで剥き続けなさいよ。……そうしたら、主人が誰か思い出させてやったのに」

 なんの面白みも無くなった人間に背を向け、席を立つ。扉に手をかけて、軽く振り返って笑ってやった。

「ああ、もう喋ってもいいですよ先生。あと結局、私に何が言いたかったんでしたっけ」

 嘲笑うような響きの私の言葉に砂山はかっと頬を赤らめ、怒りに震える声で答える。

「……こういう事は今後避けてくれ。それだけだ」

「向こうから来なければ私達は何もしませんよ。それでは、失礼します」

 からりと扉を引いて、薄暗くなった廊下に出る。すると、待っていたように一人の女生徒が教室へと飛び込んでいった。俯く砂山に笑顔で駆け寄っていく。

「せんせーっ、ちょっと聞きたいことあるんだー。教えてー」

 すれ違う顔になんとなく見覚えがあった。おそらくクラスメイトだろう……名前はわからないけれど。砂山と仲がいいのか、よく話しているのを見る。

「せんせーなんかお疲れ? 元気出してよー」

「ああ、まあちょっとな……でもお前に心配されるなんて、俺も落ちたもんだ」

「あー、心配してあげたのに酷いんだー」

言葉を返す砂山の声は陰りを帯びてはいたが、私の時よりずっと柔らかい。それに応える女生徒の声も明るく、どうやら話が弾んでいるようだ。あんなのでも生徒には慕われているらしい。世も末としか言いようがない。

 廊下にまで聞こえる間延びした脳天気な声を遮るように扉を閉め、寄りかかって舌打ちをした。砂山の言葉がいやに頭に残っていて気分が悪い。

「何もかも思い通りなわけないじゃない……馬鹿じゃないの」

 吐き捨てるようにそう呟いて、私はそこを立ち去る。少し周囲に視線をさまよわせれば、階段の前に灯矢の姿を見つけた。昼間にまた服は破けてしまったので、今はとりあえずジャージ姿だ。服が破けた事をまた気にしていたから、帰りに買ってやらねばならない。

「灯矢」

 ぼんやりと遠くを見ていた灯矢は呼びかけた瞬間にぱっとこちらを向き、顔を輝かせてまるで犬のように駆け寄ってくる。灯矢に尾があったならば、それはぶんぶんと振り回されていたに違いない。

「神様っ! お疲れ、早かったね」

 弾んだ声でそう言う何も考えてなさそうな笑みに、なんだかがくりと気が抜けた。苛立っていたのが馬鹿らしくなって、私は深くため息をつく。

「どうかしたの? 疲れちゃった?」

「何でもないわ。帰るわよ」

 途端に心配気に表情を曇らせる灯矢に背を向けて、階段を降りていく。今日は疲れたので早く帰りたかったのだ。

「待って」

「何よ」

 引き留める声に振り向けば、そこには手を差し出して笑う灯矢の姿があった。まるで、当然の事のように差し出される手。私はその手を、拒めない。

「……わかったわよ」

 仕方ないとため息をつきながら握った手は、いつも通り温かかった。



 私達の家は、学園からそれほど離れてはいない。せいぜい歩いて十分程度の距離だ。夕暮れに染まったいつも通りのその道を、灯矢に手を引かれながら歩いていく。

 途中、朝の残りの金で小さな服屋に寄って灯矢の服を買った。灯矢はまた変な柄のパーカーなどを買おうとしたので、きちんとしたワイシャツとズボンを選ばせたが……どうせこれもすぐに破けてしまうのだろうと思うと、酷く虚しい行為だった。

 そうしてようやく家に着いて玄関の扉の前に立つと、私は小さく息を漏らす。今日は何もなかった、と灯矢の手を解きながらぼんやりと思った。

 短い距離とはいえ、やはり外は屋内よりも危険が多い。そのため、私は外にいる間はいつだって気を張っていなければならなかった。気を抜けば死が私を刈り取っていく。それが、私の日常なのだ。

 僅かな疲労感と共に、解いた手を壁に取り付いたパネルへとかざす。するとすぐにピピッと軽い電子音がして、鍵が開く音がした。それを待って、私は扉に手をかける。

 中に入ると、電動の車いすに乗った母が出迎えた。膝に毛布をかけ穏やかに笑う、華奢で線の細い母。膝の上には眼鏡があるから、きっとさっきまで仕事をしていたのだろう。

 母は大学病院などを経営する十文字グループの実質的なトップであり、私の通う付属高校の聖ロータス学園の理事長でもある。その膨大なはずの仕事量を、彼女は全て自宅であるこの屋敷でこなしていた。

「おかえりなさい。今日の子はどうします?」

 穏やかな笑みのまま、母は夕食のリクエストでも受けるようにそう言う。昼の事が頭を過ぎった。今日の子というのが誰を指すのか、考えなくてもわかってしまう。

「……知っているの」

 短く問えば母はきょとんとして、首を傾げる。

「知らないわけないでしょう? 報告がきていますし、仁礼さんは今うちの病院にいるんですもの。それで、どうします?」

「別に、どうもしないわ」

 靴を脱ぎながら投げやりに答えた私に、母は困ったように笑った。我儘な子供を見るような目で、私を見る。

「あなたが嫌がるし、下手に注目を集めたくないから大事にはしませんけど、あの子のやった事は殺人未遂です。私は処分した方がいいと思うんですけどね……あなたがそう言うのならとっておいてあげましょう」

 処分。軽く放たれたその言葉に、心のどこかが重くなった。人間一人、いや家族一つの運命さえ軽い気持ちで左右することができる母。見方によってはまるで神のような高みから、すべてを操るその人に私は意見ができてしまう。私の一言で、壊してしまう。それが、私は嫌だった。

こういう事があるたびに母にとって、人は要素でしかないという事を嫌というほど実感させられる。損得でのみ物を見ていて、不利益だと感じたものに容赦をしない母。よく笑い、人の良さそうに見える母の人間らしさの薄いその感覚は、時折私に恐怖を感じさせた。

 やるせなさにぎりと奥歯を噛みしめ俯く私を母はじっと眺め――ふと、その視線が一点で止まる。視線の先は制服の破けた左腕……昼間に怪我をしたところだ。その事に気が付いた私は咄嗟に腕を後ろに隠したが、遅かった。すっと真顔になった母の視線が、今まで見向きもしなかった灯矢に向けられる。

「十八番、ここにきて座りなさい」

 感情のない無機質な冷たい声が、灯矢を穿った。命令することに慣れた、反抗を許さない絶対服従の声。それはけして大きな声でも怒気をはらんだ声でもないのに、逆らう気など根こそぎ奪っていく。十八番と呼ばれた灯矢はびくりとして、それからおずおずと母の前に座った。

 ぱん、と乾いた様な弾ける音が鳴る。母が灯矢の頬を平手で打ったのだ。灯矢は呻きもせず、赤くなった頬を押さえることもなく、ただ俯いてその痛みを受け入れていた。

「十八番、あなたの役目は何。何のために、ここにいる事を許されていると思うの」

「……神様の、護衛。おれは、神様の盾」

 ぽつりぽつりと呟くように答える灯矢を見下ろして、母は灯矢を責め立てる。灯矢は私を守ったのに。ぎゅうと思わず私は左腕を握りしめる。じりとした痛みが走るが、こんなのはどうだってことはない。こんなかすり傷程度のもので、どうしていつもこうなるんだろう。どうしてこんなくだらない事をするんだろう。そう思って、呼吸が苦しくなる。

「それなら、あの怪我は何」

「おれのせい……ごめんなさい」

 灯矢のせいな訳ないのに。そう思っているのに私は何も言えなくて。ただ黙って、私の事で責め立てられる灯矢を見ていた。母は何の感情も込めず、淡々と灯矢を詰る。

「役立たず。あなたは所詮使い捨てじゃないから使ってるだけなのを忘れないでちょうだい。使い捨てでよければあなたの代わりなんていくらでもいるのよ」

「そんな、代わりなんて……やだ……! まだおれ神様の傍にいたい……!」

 代わりの存在を匂わせた途端、必死になって主張する灯矢を見る母の目は冷めている。母に情で訴えるなんて無理な話だ。それで彼女が動いたことなど、ただの一度もないのだから。

「それならあの子をきちんと守り切りなさい。できそこないはいらないわ」

 そう最後に冷たく言い放って、母は私に視線を戻す。うってかわって表情を綻ばせ、笑みを浮かべる母に私はぞっと背筋に寒気が走るのを感じた。

「じゃあ、私はお仕事に戻りますね。怪我、ちゃんと後で見てもらいましょう」

 穏やかささえ感じるその言葉にうまく頷けないまま、母はくるりと背を向けて廊下を去っていった。仕事部屋のある方へと消えていく車椅子を見送って、私は灯矢へと手を差し出す。

「……部屋に行くわ。ついてきて」

 何か他に言う事があるはずなのに、私の口からはそんな言葉しか出て来なくて。それでも灯矢は私の手を嬉しそうに笑ってとる。

「ありがとう、神様」

 屈託のないその笑顔にまだ薄く残った赤い痕が少し、痛々しくて。私はそっと灯矢から目を逸らした。母の車椅子の理由を思うと、私は母に何も言えなくなってしまう。灯矢が叱られようと、頬を打たれようと私にそれを止める資格などないのだ。

 そんなどうしようもない苦い思いのままいくつかの日課をこなし、眠った日の夜中。私は息苦しくて目が覚めた。全力疾走した後のように跳ねまわる心臓を宥めながら、またかと苛立たしい気持ちで私は息を吐く。いつもこうだ。浅く眠っては夢の表層を撫でて起きる。それを何回か繰り返して、私は毎日朝までをやり過ごしていた。

 夢を、見るのだ。自分が死ぬ夢。事故に巻き込まれたり、誰かに襲われたりして私は死ぬ。いつも灯矢に押し付けている死を、鮮やかに生々しく私で再現されるのだ。いつ現実になってもおかしくないその恐怖に襲われて、目覚めるたびに思い知らされる。私は、結局死というものに怯えているのだと。それは弱い自分を無理矢理自覚させられるようで、とてもじゃないが気分のいいものではない。

再び眠りにつく気にもなれず私はベッドから起き上がり、ぼんやりと慣れた自分の部屋を眺める。何一つ明かりをつけていない暗闇の中で窓から差し込むか細い月の光だけが、部屋を照らし出していた。その明かりを頼りにそっと、静寂を裂かぬようにベッドを抜け出す。

どこかに行こうとか目的があった訳ではなかった。ただ、落ち着かなくてベッドに横たわっていられなかったのだ。

そうしてふらりと真っ暗な廊下に出て、すぐ隣の扉に手を掛ける。ドアノブを捻ればあっさりと扉は開いた。月の明かりに浮かびあがるのは物の少ない小さな、私の半分くらいの広さしかない部屋。その窓際の古びたベッドに、灯矢は眠っていた。私はそのベッドの傍にぺたりと座り込む。

すうすうと穏やかな寝息をたてて眠る灯矢はいつもよりもずっと幼く見える。不老不死なんて嘘みたいに穏やかで、平和な寝顔。今日だけで二回も死んでるなんて、嘘みたいだ。

 ベッドの縁に体を寄りかからせて灯矢、と声を出さないで名前を呼んだ。月光の下で銀色に光る白髪を、呼吸のたびに小さく上下する胸を眺める。静かで穏やかな感覚が私の心を凪へと導いて行くのがわかった。

うと、とまどろみさえ覚えたその時、頬を柔らかな風が撫でる。ひっかかるような小さな違和感を覚えたそのすぐ後、窓のすぐ前に咲いている林檎の花びらが、はらりと目の前に落ちた。

窓が、開いている? 花びらの軌跡を追う様に顔を上げると、いつの間にか窓辺に燕尾服を着こんだおかっぱの子供が腰かけていた。吸い込まれそうな一対の紫の瞳が印象的な、中性的な子供だ。精緻に作りこまれた人形のように整った顔をしたその子供は花びらの舞い落ちる中、くすくすと笑って私を見ていた。

「ずいぶん可愛い夜這いをするんだね、おねーさん」

少年なのか、少女なのか判別の付かない透き通った声でからかうように言われ、かっと屈辱に頬が熱くなる。立ちあがって、ぎっと強く子供を睨みつけた。

「あなた、誰よ」

子供は私の視線なんてまるで意に介さない様子で、心底楽しそうに名乗った。

「僕の名前はマリア。明るく愉快で可愛い、みんなの殺人鬼だよ!」

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