六章 俺達はスーパーヒロイン!

 断末魔のような赤さで地平へと沈みゆく日を背に、男の榛色の瞳が炯々とした光を放つ。ゆらゆらと未だ辺りで燃え盛る炎に似た長い赤髪も相まって、男の姿はまさに以前ドライに聞いた通りまるで怒りの化身のような姿であった。

 男はただ立って双剣を構えているだけなのに、威圧感にぞくりと俺の背筋が冷たくなる。これが、世界を滅ぼさんと望む男の気迫なのか。

 そう感じていたのはきっと、俺だけではない。この場の誰もが男に緊張した面持ちを向けていて、男は一瞬にしてこの空間を支配していたのだから。

 圧倒される俺達を前に、男は無造作に剣を振るう。

「跪きなさい」

 凛とした、逆らうことを許さない男の低い声が響いたと思った瞬間、俺の体は宙へと浮いていた。数メートル離れた後方の地面へと叩きつけられてようやく、衝撃波のようなもので弾き飛ばされたのだと知る。視界の端で、手にしていたはずの赤い剣が霧散するのが見えた。

「かは……ッ!」

 肺から押し出された空気を吐き出しながら遅れて知覚した痛みに転がれば、周囲に同じように倒れるみんなの姿が視界に入る。口々から漏れる小さな呻き声に少し不安になるが、どうやら大きな怪我を負った人はいないようだった。

 それでも激しい衝撃がやはり尾を引いていて、すぐには身動きの取れない俺達の中を男は悠々と歩く。そうしてドライの前でぴたりと立ち止まったと思うと、男は嘲るようにドライを見下ろして嗤った。

「ドライ、あたしを裏切ったのね。まあ元々、この世界の命は全て眠らせるつもりだったから、ドライもいずれ寝かせないといけなかったんだけど。……悪いかなとちょっと思ってたから、こっちの方が心置きなくできていいかもしれないわね」

「王よ……」

「あたしをもうそんな風に呼ばないで。あなたの代わりも、もうおしまいよ。どうせすぐに世界ごと終わるのだもの。安心して眠りなさいな」

 痛みを堪えたような小さなドライの呼び声をぴしゃりと叩き落として、冷え切った瞳で男は双剣を掲げる。ドライが横たわる地面に青く光る魔方陣が展開し、双剣が淡い光を纏いだしたのを見て、ばっと焦燥が俺の身を焦がした。

 まずい。どういう攻撃かよくわからないが、あれをくらえば覚めぬ眠りにつかされてしまうという話ではなかったか。このままではドライが……そんなのは嫌だ。

「……ま、待てッ! 待ってくれ……!」

 痛みに軋む体に鞭打って、転がり込むようにドライと男の前へと俺は躍り出る。ぐっと精一杯腕を大きく広げて、ドライを背に隠すように男と対峙した。

「ツバサ殿……」

 背後から聞こえたドライの声の弱々しさに、必死になって俺は男を睨みあげる。割り込んできた俺に男は一度双剣を下げ、大きく舌打ちを零した。

「あなたが聖女ね……あたしと同じ世界から来たっていう。力で多少は丈夫みたいだけど。あなた程度じゃ、あたしには敵わないわ。この世界のものじゃない命なんていらないのよ、どきなさい」

 命じることに慣れた硬い声は、あまりにも冷たい。怯んでしまいそうになる体を抑えて俺がなおも退かずにいると、ばっと男と俺を隔てるように大きな透明な壁が展開した。振り向けば、ふらつきながらも杖を掲げ、こちらへと駆け寄ってくる朔也の姿が目に入る。

「翼! ドライちゃん!」

「朔、也……」

「もう、無茶するから……!」

 ほっとして膝から崩れ落ちる俺を、文句を言いながら朔也が支えてくれる。思えば、剣を再び具現化させるのも忘れていた。俺は今、丸腰だったのだ。無防備な状態でひとり男へと立ち向かっていたのだと気がついて、今更ながらに膝が震えた。

「ドライちゃん、動ける?」

「ああ、なんとかな……」

 身を起こそうと、藻掻くドライに朔也が声をかける。ドライは立ち上がるのも辛そうで、とてもすぐには戦えそうにない様子だ。どうやら先程男が言っていたように、聖女である俺達は比較的丈夫にできているらしい。

「なら、痛みが引くまではドライちゃんは後ろに行ってて! ここはボク達がなんとかするから!」

「そんな、二人にだけ戦わせるなど……!」

 朔也の言葉に異議を唱えようとするドライに、俺は首を横に振った。

「いや、ドライは一度下がってくれ。あいつは『この世界の命』がいるって言ってただろ。その点、俺達なら大丈夫だから」

「しかし……」

「アルマとユマも診てやって欲しいんだ。ドライが一番動けるみたいだし、頼むよ」

 俺の言葉にはっとしたドライが、振り向いて未だ動けない様子で倒れているアルマとユマを見やる。ぐっと一瞬苦しげにドライは表情を歪めたが、やがてしっかりと頷きを返してくれた。

「わかった……だが、すぐに戻るからな。二人とも、無理はするな」

「ありがと。アルマちゃん達をよろしくね」

 背を向けて頼りない足取りながら倒れる二人の元へと向かうドライを見送って、俺達は透明な壁へと向き直る。と、男は双剣を構えることすらせず、何故か壁の向こうで呆然としたような表情をしてこちらを見ていた。まるで、信じられないものを見るかのような視線に、思わず朔也と二人顔を見合わせる。

「な、なんだ? なんかしたか俺達?」

「わかんない……とりあえず、そろそろ限界だから壁解くよ。気を付けて」

 朔也の警告の後、ふっと壁がかき消える。俺は慌てて出現させた赤い剣を構えたが、やはりどうにも男の様子がおかしい。さっきまでの戦う意志が、すっかりどこかへ行ってしまっている。敵意の見えない男に斬りかかるのもはばかられて、俺達は困惑するばかりだ。

 一体なんだというのだろう。居心地の悪さすら覚えながら視線を浴びていると、男がようやく口を開いた。

「朔也くん……雨宮朔也くんよね……? ってことは、一緒にいる女の子の翼ちゃんは……まさか橘くん……? 橘……翼くん……?」

「は……? なんで……?」

 半信半疑といった様子で呟かれたのは、俺と朔也の苗字までを含めたフルネームだ。この世界に来てから苗字まで名乗る機会なんて無かったし、わざわざ戦う前に名乗りあげたなんて訳もない。だというのに名前を知っているということは……まさか、男は俺達の世界での知り合いなのだろうか。

 しかし、どんなに男を見ても全然心当たりがない。考え込み始めた俺の横で、唐突に朔也が大きな声を上げた。

「あーッ!」

「なんだよ、騒々しい」

 思考を断ち切った大声に俺が文句を言いつつ朔也を見やれば、右肩を勢いよく掴まれてがたがたと興奮した様子で揺さぶられる。

「翼、あの子だよ! 南雲ちゃん! 秋野南雲ちゃん!」

「秋野って……同じクラスのか?」

「そう、その南雲ちゃん! 出席番号、男子の一番と女子の一番で組んだことあるから間違いないよ!」

 藪から棒に出された名前に俺は思わず首を傾げたが、朔也はなおも肩を揺さぶりながら強く主張する。確かに思い出してみれば、秋野は男と似た髪色をしていたような気がするが。どうにも、目の前の男と秋野が結びつかない。だって秋野は女子だ。男子ではない。

「びゃッ⁉」

 そう思った直後、がしりと朔也に胸を鷲掴まれた。痛みに悲鳴を上げて飛び上がる俺に、朔也は呆れたように半目になりつつそのままぐにぐにと胸を揉む。

「翼、忘れちゃったの? 『世界を渡る副作用で性別が変わる』んだよ? つまりそれって、ボク達だけじゃなくて世界を滅ぼすために来た人――南雲ちゃんだってそうってことなんだよ!」

 気付いてみれば、それは自明の理であった。俺達と同じように世界を渡ったのならば、双剣の男も当然性別が変わっているのだ。むしろなぜ今までその考えに至らなかったのだろう。

 朔也の言葉にはっとして、胸を揉む手をはたき落としながら俺は改めて男を見る。秋野だと思って男を見れば、なるほど男は秋野の親戚のようであった。そしてそれは、俺が初めて性別が変わった自身を鏡で見たときの感想と同じで。ようやくここにきて俺は、双剣の男=秋野という事実を飲み込んだのだった。元の自分よりも背が高く、しっかりとした体格であるのは多少敗北感を感じなくもないが。

 しかし、とふと俺は少しだけ疑問に思う。秋野は確か俺達がこの世界に来る日に、昼に早退したのだと聞いたような気がする。それからこちらに来たのだと考えると、どうにも経過時間の計算が合わないのだ。時間のずれも、世界の境界を渡った影響だったりするのだろうか……元の世界に戻ったときに浦島太郎なんて事態だけは御免被りたい。

 ちらと考えてしまった可能性に顔を顰める俺を、秋野は目を白黒させて見つめている。どうやら、相手の性別の変化に混乱したのは俺だけでは無かったようだ。

「雨宮くんはそのままだけど、橘くん……本当に橘くんなのね……? 信じられないけど、雨宮くんとのやりとりがまんまだし、あたしが今こうなってることを思えばおかしくないんだけど……でも、なんでそんな……魔女っ子みたいな可愛いことに……?」

「頼む、秋野。今すぐ記憶を失ってくれ」

 変身する時に羞恥など投げ捨てたと思っていたが、クラスメイトの女子に改めて現状を確認されるなんて拷問では話は別だ。即刻見なかったことにしていただきたい気持ちでいっぱいだし、正直社会的に死んだのではないかという絶望感すら感じている。

「翼、その服よく似合ってるのに。南雲ちゃん可愛いって言ってくれたじゃん」

「そういう問題じゃないだろ……!」

 小首を傾げる朔也に抗議する俺に秋野は思わずといった様子で噴き出して、くすくすと楽しげに笑った。警戒を解いたのか、辺りで燃え盛っていた炎がすっと次々に勢いを失って消えていく。

「やっぱり橘くんなのね。大丈夫、言いふらしたりなんかしないから」

 秋野の笑う様を見て、俺もまたやっぱり男は秋野なのだという思いを深めた。直接話したことは少ないが、教室の片隅でよくこうやって女子の輪の中で笑っていたのを思い出す。体が違いこそすれ、笑い方や雰囲気は変わっていないのだ。

 しかし納得すると同時に、無視しきれない疑念が俺の胸へと湧き上がる。秋野はこう言っては何だが、いわゆる普通の女の子だった。取り立てて素行が悪かったり、短気だったりという話は聞いたことがなかったし、どちらかといえば大人しい部類に入るはずだ。そんな秋野がなぜ、世界を滅ぼさんとする『双剣の男』なのか。何かの間違いではないのか。

 けれどその願望に近いような俺の思いは、即座に秋野本人によって切り捨てられることになる。

「でもよかった、橘くんと雨宮くんなら話を聞いてくれるもの。あたし、この世界の命を全部もらってね、あたし達の世界の一部をちょっと組み替えたいなって思ってるのよ。だから、今回は手を引いてくれない?」

 楽しそうな笑みのまま、秋野は信じられないくらいの気軽さでそんなことを言ってのけたのだ。まるで家庭科の授業で使う調味料を譲ってもらうかのように、ちょっと悪いな程度の態度で。あるのは俺達に対する謝罪だけで、この世界の命を奪うことに対しては何の思いも抱いていないようだ。

「この世界の命、全部もらうって……お前……」

 あまりのことに呆然とする俺を秋野は説明を求めていると受け取ったのか、えっとなどと言いながら気楽な様子で言葉を続ける。

「リリとセツから聞いたんだけど、二人は世界を滅ぼして作り直すための存在なんですって。滅ぼすときに命を回収することによって、その力で新しい世界を作るらしいのよ。あたしはあたし達の世界を滅ぼしたいなんて思ってないから、ここの世界を滅ぼして命をもらったら、あたし達の世界に戻るのと、一部を組み替えるのに使おうかなって」

「命を使うって……使ったら、今寝てる人達はどうなるんだよ……」

 あまりの無情な話に思わず動揺した俺へ、秋野は小首を傾げてあっさりと答える。

「んー魂みたいなものを貰うみたいだから、その体は抜け殻なのよね。植物状態ってやつ。だからみんな寝続けたら食事も水もとれないし、死んじゃうと思うわ。世界を滅ぼすって、意外と静かなものよね」

 まるで当たり前のことを話すみたいに、秋野の口調は何の感情も見えない。言っていることはどう考えても、大量虐殺に他ならないというのに。

 秋野は本当に、この世界の命のことなど何とも思っていないのだ。ただやりたいことをやるのに必要だから、そのための手順の一つだから滅ぼすだけ。秋野にとって、世界が一つ滅ぶことなんてそれだけの話でしかない。そこには敵意も悪意も何一つなく……だからこそ、恐ろしかった。

「さっきも言ってたけど、ボク達の世界の一部をを組み替える……ってどういうこと? 何をするつもりなの?」

 朔也が警戒も顕に秋野を見る。秋野が世界の境を自力で越えてしまうほど、世界を一つ滅ぼしても構わないほどの願いだ。それが俺達の世界へと影響を与えようとしているというのだから、願いが一体どういったものなのかを危惧するのは当然のことだろう。

 秋野は朔也の不審気な視線に一瞬きょとんとして、そっと視線を地面へと落とした。ぽつりと静かな声で、秋野は願いを零す。

「二人には関係のないことよ。誰かが困ったり、怒ったり、悲しんだりするようなことじゃないわ。ただあたしの『好き』を、世界の全員に好きになってもらいたい。それだけなのよ」

 どこか寂寥感の滲む言葉は、痛いくらいの切実さを伴っていて。秋野が好きだというものが何なのかはわからないが、秋野にとって大切な想いなのだと、本気であるのだとわかってしまう。

 けれど、どうしたって秋野の願いを叶えてはやれない。たとえどれほどの悲願だろうと、俺達は退くわけにはいかなかった。だって秋野の願いには、犠牲があるのだ。後方で、魔術で治療しているはずのアルマ達を、それぞれの願いを思う。犠牲にして良いわけがない。

「秋野……駄目だ。やめよう。こんなの、間違ってる。たくさんの命を奪って、そうやって願いを叶えるなんて駄目だ」

 なんとかして止めなくてはと俺は必死に秋野を止めようとするが、言葉を紡げば紡ぐほどに秋野の瞳は冷たさを増していく。突き刺すような視線に思わず口を噤めば、秋野は嘲笑うように唇を歪めた。

「だから、何? あたし達以外誰も知らない、別の世界が滅ぶだけよ。知らないものが無くなろうがどうなろうが、誰も何とも思わないわ」

「そういうことじゃ……」

「そういうことよ。感情を引き起こすのは、それに対する情報量だわ。友達が怪我をしたら酷く心配になるけども、三つ先の駅で誰かが飛び込んで電車が止まったらその人の心配より電車が動くかの心配をしてしまうんじゃないかしら。ドキュメンタリーで肉食動物の視点で狩りを映したとき、失敗したらその空腹を思って可哀想になるでしょう。草食動物の視点でのドキュメンタリーでは助かって良かったと思ってしまうのに。人が一人死んだって話でも、男性が死んだと聞くより、翌日が誕生日の男性が死んだって聞いた方が可哀想に思うでしょう。それと一緒よ。存在すら誰も知らない世界が一つ滅んだって、たいしたことじゃないの。罪にだって問われないしね」

 滔々と続けられる秋野の話に、俺はぐっと唇を噛む。心当たりがないとは言えなかった。思えば、痛いほど身に覚えのある感覚だったからだ。誰だってそうだろう。けれど。

「だからって……! そんなことしていいはずないだろ……!」

 頷くわけにはいかなかった。罪になるかどうかじゃない。誰が知っているかとかそんなことじゃない。他者の命を奪って、自分勝手に利用して。許されていいわけがない。憤る俺に、秋野は酷薄な笑みのまま、吐き捨てるように口を開く。

「つまらないこというのね。それは、薄っぺらい倫理観から言ってるのかしら……ああ、それとも数日ここの人達と一緒に居ただけで、情でも湧いちゃった? そんな安い同情のためにあたしの願いを踏みにじろうなんて、反吐が出るわね」

 俺の言葉はもう、何一つ届かないのかもしれない。返されたのはそう思わせるような固く、強い拒絶だった。ぎらりと秋野の榛色の瞳が、険を帯びる。

「どうしても叶えたい、けれど叶えることのできないことがあったとき、目の前にそれができる手段がきたのよ。それをふいにするなんて馬鹿のすることだわ。手垢のついたような偽善者の綺麗事なんて聞きたくないのよ」

 偽善者。秋野の一言がざくりと胸を刺す痛みに、思わず俺は俯いてしまった。俺が信じるものがまるでハリボテの、中身のない空虚なものであるかのような否定に自身の無力さを突きつけられた思いがしたのだ。……俺には秋野を、止めることなどできないのだろうか。

 いつの間にか太陽は沈みきり、俺と秋野の間には理解を拒むような重たい闇が横たわっている。そこに、さっきまでのクラスメイトという慕わしさはもはやどこにもなかった。あるのは、もう秋野とはどうしてもわかり合えないのだという失望感だけだ。

「南雲ちゃんは、それでいいの?」

 だが、そんなどうしようもないような空間で、ずっと黙り込んでいた朔也がぽつりと口を開く。顔を上げて振り返れば、昇ったばかりの月を背に朔也は寂しげな表情をしていた。白く頼りない光の中で朔也は泣き出しそうにも見えて、俺は少しだけどきりとする。

「ずっとずっとわかってもらえなかった自分の『好き』を、みんなに好きになってもらえたら嬉しいと思う。幸せだと思う。だけどそんな無理矢理に、強制的に好きになってもらって、本当にそれでいいの? みんなの言う『好き』が紛い物の『好き』だってそう知っていて、本当に南雲ちゃんは嬉しいの?」

 静かに、まっすぐに朔也は問う。本当にそれが秋野の望みなのかと。恐れも怒りも含まない朔也の声は、あまりにも悲しげで。痛みを堪えるような朔也の視線に初めて、秋野が傷ついたような顔になる。冷たい怒りを湛えていた瞳が、揺らいだ。

「どうして、そんなことを言うの……」

 はたと零された迷子の子供のような寄り辺ない秋野の呟きは、一瞬の後に激情を孕む。

「それでいいのかって、そんなわけないでしょう……! 本心から『好き』って言ってもらいたいに決まってるじゃない! それでも……ッ、もうあたしの『好き』を馬鹿にされるのは、笑われるのは嫌なの!」

 憤りと、悲嘆がない混ぜになったような声で、秋野が全身で叫ぶ。ごうっと同時に巻き起こった炎が、再び辺りを燃やした。煌々と光を放つ炎が、俺達と秋野の間の闇夜を裂く。ぶわりと頬を撫でる熱風に怖気づいた俺へと、炎の向こうで秋野は再び双剣を構えた。

「交渉は決裂よ。あたしだってこんなことしたくないけど……でも、それでも……雨宮くんと橘くんが、あたしの邪魔をするっていうのなら…………」

「待て、秋野!」

 向けられた秋野の瞳は、狂気と殺意にぎらついている。止めようと伸ばした俺の手は、秋野には届かない。

「この世界ごと、殺すわ」

 宣言するような無慈悲な言葉の後、すうっと大きく息を吸って、秋野は勢いよく双剣を振り抜いた。

「い……っ!」

「くッ……!」

 衝撃波に再び弾き飛ばされた俺は、今度は地面へと叩きつけられることなく、ぼすりと柔らかな何かへと受け止められる。

「ツバサ!」

「ツバサ様、大丈夫っすか⁉」

「アルマ、ユマ!」

 振り返ればそこにはアルマとユマの姿があって、俺は思わず笑みを浮かべた。なんとか無事に動けるまでに回復してもらえたらしい。

「サクヤ殿、無事か」

「うん、ありがと。ドライちゃん」

 視界の端で同じように朔也がドライに受け止められているのも確認して、全員が無事であったことに俺はほっと息をつく。そんな俺にアルマは笑みを返し、それからそっと表情を曇らせた。

「双剣の男は……彼は、ツバサとサクヤの知ってる人なのかい?」

「ああ……秋野……秋野南雲ってやつで……クラスメイトの……同じ学校のやつなんだ……」

 頷くと、恐る恐るといった様子でユマが続く。

「怖い方……なんすか……?」

「いや、そんなことはない……はずなんだ」

 自信なく答えながら、俺は教室で見かけていた秋野を思い出す。秋野のことは大人しく、困ったように笑う姿が印象的な女子だと思っていた。けれど、それだけだ。クラスメイトだというのに、俺は驚くほど秋野のことを知らなかった。知ろうと思いもしなかった。平凡でなんでもない日常の中で、秋野はこんな激しい怒りに飲まれるほどに傷ついていたはずなのに。それなのに、俺は秋野をここまで駆り立てた、秋野の好きなものが何であるかさえわからないのだ。

 同じ世界から来たはずだというのに、秋野はここにいる誰よりも遠い存在となっていて。思い知らされた事実に、つきりと俺の胸が痛んだ。

「翼! くるよ!」

「う、わ……ッ!」

 朔也から飛んだ鋭い警告に俺が咄嗟に剣を構えれば、一跳びで間近に迫ってきていた秋野の双剣が即座に剣へと打ち込まれる。力だけでいえば先程のリリの一撃には劣るが、それでも耐えるのがやっとの衝撃だ。やはり秋野も、俺と朔也と同じように身体能力が強化されているらしい。

「チッ……」

 なんとか勢いを殺しきって弾き返すと、秋野から舌打ちが漏れた。殺気に満ちた射抜くような秋野の視線に、ぞくりと俺の背筋が冷たくなる。本気なのか。本気で、秋野は俺を殺しても構わないと思っているのか。つい昨日まで、俺達はクラスメイトだったのに。信じがたい光景に、俺はガツンと強く頭を殴られたような思いがした。

「ツバサ、私も加勢するよ!」

 一瞬思わず動きを止めてしまった俺に代わるように、アルマが秋野へと斬りかかる。間近で始まった攻防の激しさから、下手をしたらアルマを傷つけてしまいそうで手を出すことは躊躇われた。そしてそれは俺以外のみんなも同じようで、緊張した面持ちで剣戟の行く末を息を詰めて見つめている。

 次々と繰り出されるアルマの攻撃を双剣でいなしながらも、秋野が僅かに顔を歪めるのが見えた。秋野も俺達と同じようにただの高校生、剣技においてはアルマの方が上なのだ。このままアルマが押し切るかに見えた次の瞬間、けれどにいと秋野の唇が笑みの形に歪んだ。

 直後秋野の防御がぱっと唐突に解かれ、絶え間なく繰り出されていたアルマの剣が勢いのまま秋野の首筋目掛けて振り下ろされる。当たれば間違いなく即死のコースである。

「……ッ⁉」

 焦ったアルマが必死に剣の軌道を逸し、ぐらりと大きくバランスを崩した。その隙をついて、秋野は剣の腹で勢いよくアルマの胴体を殴り上げる。かはっと空気が押し出されるような音が、アルマから漏れた。秋野の狙いはこれだったのだ。

「アルマ殿っ!」

 肉を叩く鈍い音と共にアルマの体が跳ね上げられ、即座にドライが起こした風に受け止められる。風が攻撃の勢いを殺して地面へと降ろしたことで叩きつけられることはなかったが、ダメージは大きかったようでアルマはすぐに体を起こすことができない。

「アルマ様、アルマ様っ!」

 必死な表情でアルマへと駆け寄っていくユマを前に、秋野の哄笑が辺りへと響き渡った。

「あはっ! やっぱり人を殺せないのね! あたしを殺せば全部終わるのに、馬鹿な子だわ!」

「秋野! お前なあ!」

「南雲ちゃん、おいたが過ぎるよ!」

 アルマを馬鹿にするような言葉にカッとなって剣を構え、駆け出す俺の背後から朔也の矢が幾本も放たれる。確実に秋野を穿つはずだった光の矢達は、しかし再び秋野によって無造作に振るわれる双剣から放たれた衝撃波に弾かれ、俺と朔也を襲った。

「うわッ!」

「い……ッ!」

 鈍器で殴打されたような痛みが次々と襲い、堪らず俺達は短い悲鳴を上げて地面へと転がる。外見が矢である割に鈍い痛みで、一撃一撃はそこまで強力ではないのだがいかんせん数が多かった。

「翼、ごめーん……」

「いや、いい……これはしかたない……」

 弱々しい朔也の謝罪に、俺は転がったまま同じく弱々しく応える。さすがに今の反撃を予測しろというのは酷な要求だし、アルマの件で朔也も動揺していたのだろう。

「そんなことより……早く、起きなきゃ……⁉」

 なんとか立ち上がろうと藻掻いた時、俺達へと再び秋野がすっと双剣を振り上げるのが見えた。まるでスローモーションになってしまったかのように、双剣が振り下ろされる動きが見える。

 防御が間に合わない、そう思った瞬間。俺達を飛び越して、一陣の風が駆けた。パンッと弾けるような音がして衝撃波と風が相殺される。

「二人とも、無事か!」

「ドライ……ッ!」

 すんでのところで防御してくれたドライを振り返ると、ふらついてすっかり顔色を悪くした姿が目に入って俺はぎょっとしてしまった。ぜーはーと息を切らし、土気色の表情を歪めるドライは、誰がどう見ても限界だ。

「ドライちゃん、怪我まだ治りきってないでしょ……それに治療で、魔術使いすぎてるんじゃ……!」

 朔也の気遣わしげな声に、俺ははっとする。思えば、ドライはリリに負わされた傷の治療も中途半端なまま戦闘に参加し、ずっと治療やらなんやらで魔術を使い続けているのだ。特訓の時に朔也が力尽きていたことからわかるように、魔術は無尽蔵ではない。限界だって、当然ある。そんなこと、少し考えればわかることだったのに。

「ドライ、もういい! お前は下がってろ、無理すんな!」

 慌てて退かせようと声を上げた俺に、けれどドライは緩く首を横に振ってまっすぐに秋野へと向き直った。

「我輩は、王を止めねばならぬ。王が差し伸べた手をとった我輩だけは、王から逃げてはならない。王の怒りと悲しみから、目を背けてはいけない。我輩は、王を救いたいのだ」

 体はボロボロで、もういつ倒れてもおかしくないはずなのに、ドライは凛として折れる気配を見せない。瞳が赤く光って、ごうと辺りに強い風が巻き上がる。

「救うって、馬鹿なんじゃないの? そんなの頼んでないわ。それにあたしに駒として使い捨てにされて、散々に利用されただけなのに。なんで、まだあたしを王と呼ぶの?」

 嘲笑いながら、秋野の声に動揺が滲んだ。心底理解できないという秋野の視線にさらされてなお、ドライは意見を翻さない。ふらつきつつ、何の躊躇いも、迷いもなくドライは秋野の元へと歩き出す。

「駒として使われただけでも、利用するためだけに近づいただけでも構わない。それで我輩が、あの鬱屈した悪夢のような世界から抜け出せたのに変わりはないからだ。あのまま皆と同じように眠らされ、もし再び目覚めたとして。きっと地獄は何事もなく続いただろう。王が我輩を選び、苦しめていた世界を我輩に壊させたから。我輩は罪を知り、今こうしてツバサ殿達に出会えたのだ。この世界を、守ろうと思えたのだ」

 語る言葉は強く、揺るぎない。風を従え、固い意思で前を向き続けるドライの姿は上に立つものにふさわしい、まさしく王者の風格を纏っていた。全身ボロボロで、弱りきっているはずのドライの迫力に、俺は思わず目を瞠る。彼こそが王であるのだと、本能で思い知らされたのだ。

「何よ……だから、何だっていうのよ……」

「地獄から救ってくれて、感謝している。だから今度は、我輩が苦しんでいる王を救いたいのだ。取り返しのつかない罪を犯す前に、止めてみせる」

 怯んだようにドライを見る秋野へ、ドライは手を伸ばすようにすいと腕を持ち上げる。ぶわり、と風が秋野を囲んだ。

「きゃ……ッ!」

 短い秋野の悲鳴を飲み込んで、風は勢いを増して小さな竜巻と化す。風の威力は出会った時に朔也へ放ったものに比べると、ずっと大きく、ごうごうと激しい。おそらく、残る力を振り絞っての攻撃なのだろう。苦しげなドライの額に、じわりと汗が滲むのが見える。

 風の檻に囚われ逃げ場を奪われた上、四方八方から襲い来る攻撃は朔也のように壁で防御もできない秋野には防ぎようがないはずだ。後はただ秋野が風に嬲られ、大人しくなるのを待つだけ。そのはずだった。……だが。

「なん、だと……!」

 ドライの声が、驚きに詰まる。ふいに竜巻に炎が混ざり、やがて炎の渦と化したのだ。少し離れているはずの俺達が顔を顰めるほどの熱を放って、炎は赤々と燃え上がる。

「ドライちゃん、何やってるの……?」

「違う……これは、我輩ではない……!」

 動揺する朔也の視線に、ドライは慌てたように首を振って腕を下ろした。魔術発動時に光を灯す赤い瞳は、既に平常時の様子を取り戻している。ドライは今、魔術を使っていないのだ。

 それでは、この炎の主は。

「うるっさいのよ……」

 低く、唸るような呟きが、燃え盛る炎の中からぽつりと漏れる。炎が弾ける音の中だというのに、その声はいやに響いた。怒りにまみれた、憎しみのこもったような声色に、背筋が凍った次の瞬間。炎の柱が、轟音と共に爆ぜた。

「う、あッ⁉」

「がア……ッ!」

「わ……ッ!」

 襲い来る衝撃波に、俺達は三者三様に悲鳴を上げ吹き飛ばされる。地面に打ち付けられたのに加え、同時に降り注ぐ火の雨に全身のあちらこちらを焼かれ、許容量を超えた痛みに俺の視界がじわりと滲んだ。

「い……うあ……」

 ひゅーひゅーと嗚咽混じりの呼吸で、転がったまま周囲へと視界を巡らせれば、ドライも、朔也も地面へと倒れていて。朔也は、呻き声を上げているところから意識はあるようだが、ドライはぐったりとしていて意識を失っている様子だった。さすがに力尽きたのだろう。

満身創痍の俺達の中でただ一人、方々に炎が散る丘で秋野だけが双剣を手に立っていた。

「ツバサ、みんな!」

「アルマ様、そんな体では無理っす!」

「しかし……!」

 離れていて衝撃波の被害が小さかったのか、視界の外からアルマの絶叫のような呼び声が響く。駆けつけようとしたのか、引き止めるユマの声も必死だ。二人の言い合いを遮るように、秋野が大きく舌打ちを零した。

「きゃんきゃんきゃんきゃんうるさいのよ……消費されてもうすぐ消え失せる存在のくせに……このあたしに意見して、邪魔して……! もうあんた達しかこの世界にはいないのに……っ、なんでこんなに手こずらなきゃいけないのよッ!」

 話すうちにだんだんと声量が大きくなり、秋野は激情を顕にする。苛立ちに満ちた絶叫、その内容を理解して俺はひゅっと息を飲んだ。だって、つまりそれは。

「待ってくれ……もう私達しかこの世界にいない……? それじゃ、みんなは……城下町で、頑張ってたみんなは……⁉ 城で、留守を守ってくれてるみんなは……⁉」

 同じことに気が付いたアルマの声が震える。だってみんな今日別れてきたばかりなのだ。元気に笑いかけてくれていたいろんな人達の顔を思い返して、信じたくないという気持ちが胸を占める。来たばかりの俺ですらそうなのだ、みんなを守りたいと立ち上がったはずのアルマの胸中は計り知れない。

 それなのに、秋野はアルマの動揺などくだらないとでもいうように、双剣を気怠げに構え直しながら吐き捨てる。

「何を今更。ここに来る前に全員眠らせてきたに決まってるでしょう。それで最後だと思ったら材料が足りなくて、リリとセツが急に走り出してここに来たんじゃない」

 ああ、と思い出したように秋野はにいと唇を歪めて嘲笑う。

「みんなアルマ様、って誰かの名前を呼んでから倒れると思ったら、あなたの名前だったのね。神様か何かと思ったわ。みんな逃げ惑って、無力なのに反抗しようとして。笑っちゃうくらい惨めだったわよ」

 それは、あからさまな挑発だった。乗ってはいけないと、これが罠であるとわかっていて、けれどアルマは自身を抑えることができなかったのだろう。

「貴、様……ッ!」

 激情にかられて、アルマが秋野の前へと飛び出す。途端、我を失ったアルマの足元に、ぶわりと花開くように青い光を放つ魔法陣が展開した。

「な……っ⁉」

「ふふ、お馬鹿さん! まずはあなたからもらうわね!」

 がくりと急に身動きを止めて目を見開くアルマに、秋野はくすくすと笑って双剣を掲げる。秋野はアルマを眠らせるつもりなのだ。

「ま、まて……秋野……!」

 アルマを守らなければいけないのに、俺の体は全然思うように動かない。ただ地面を這いずって、双剣が淡い光を帯びていくのを見つめることしかできないのだ。

「やめ、やめて……南雲ちゃん……やめてよ……!」

 同じように這いずり、決死の表情で朔也が呻く。みんなアルマを救おうと必死なのに、それでも誰一人立ち上がることはできなくて。どうしようもなく、俺達は無力だった。

「バイバイ、アルマ様♡」

 そうして、俺達が秋野の哄笑を絶望と共に聞いた、その直後。突然どんっと何かが勢いよくぶつかって、アルマの体が魔法陣の外へと押し出された。

「えっ……?」

 地面に転がりながら、呆然とした表情でアルマが自らを押し出したものを見る。入れ替わるように魔法陣の中へ立ったのは、ユマだった。恐怖からか青ざめて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ユマは魔法陣の外へと出たアルマを見てほっとしたように笑う。

「アルマ様、信じてるっす」

 祈りのような呟きの後。ユマは、ふっとその場に崩れ落ちた。とさり、と軽い音がして、ユマが無造作に地面へと転がる。魔法陣がすっとかき消え、後には静寂だけが満ちた。あまりの出来事に、俺達はぴくりとも動けなかったのだ。

「ユマ……?」

 アルマが、震える手でユマを揺する。けれど、ユマは返事をすることも、目を開くこともない。ユマは、醒めぬ眠りへと飲み込まれてしまったのだ。世界が救われるまで……ユマは目覚めない。

 事実に打ちのめされたように、呆然とした表情でアルマはユマの力ない体をきゅっと抱きしめる。

「私は……、守れなかった……? それどころか、ユマに守られて……ユマを…………犠牲にして………私は、何をやってるんだ………」

 ぽつぽつと溢れる呟きと共に、アルマの緑色の瞳から次々と涙が零れていく。今のアルマにあるのは絶望と、無力感だけだ。戦意は、もはや失われていた。

「んー? 順番はちょっと狂っちゃったけど……まあ全員回収しなきゃいけないんだし、同じことよね。じゃあ改めて、いただきまーす」

 呑気にすら思える調子で笑って、再び秋野が剣を掲げ直す。ぶわりと再び青く光る魔法陣がアルマの元へと咲いたが、虚ろなアルマの瞳にはもはや何も映っていないようだった。

 未だ駆けつけることもできない自らの体に、もうどうすることもできないのかと俺が思った時、アルマの前に透明な壁が展開した。今までよりもずっと薄く小さな壁は、弱々しくもアルマとユマを覆って守ろうとしている。朔也へと視線を投げれば、這いつくばりながらも手に小さくなった杖を握りしめていた。

「やっぱり、こんなの駄目だよ……こんなの、間違ってるよ南雲ちゃん……!」

 痛みに掠れる声で、泣き出しそうな悲痛な声で朔也が訴える。そんな朔也へと、秋野は苛立ちも顕に舌打ちを零した。

「この後に及んでまだあたしの邪魔をするの? 雨宮くん、いい加減しつこい……」

「しつこくたっていい! ボクの話を聞いてよ!」

 秋野の言葉を遮るように、朔也が叫ぶ。朔也の勢いに、びくりと秋野は僅かに怯む様子を見せる。いつにない朔也の激情に、俺も思わず息を止めて二人を見つめていた。

「南雲ちゃんは、好きなものがあって、それをみんなに好きになってもらいたくて、こんなことをするんだよね。『好き』を否定されるのは辛いの、ボクもよくわかるよ。女の子の格好するの好きって言うと、時々おかしいって言われるし」

 なんでもないことのように言って、朔也は笑う。まっすぐに朔也は秋野を見つめ、言葉を紡ぐ。まるで、祈るようにその声は響いた。秋野まで、想いが届くように。

「馬鹿になんてされたらすごく嫌だし、ものすごく腹立たしくなる。大切な人ならなおさら。理解してもらえなかったら、びっくりするほど悲しくなるよね。みんなが自分の『好き』を好きになってくれたら、もう自分は傷付かない。『好き』を認めてもらえる。それはすごく魅力的なことだよ。でもさ、やっぱりそんなことしちゃ駄目なんだよ」

「……どうしてよ」

 不貞腐れたようにむすりと秋野が返せば、朔也はよろよろと必死になって身を起こそうと藻掻く。

 いつの間にか辺りに散っていた炎は消え、天上から降り注ぐ青く冷たい月の光だけが、二人を照らしていた。神聖さすら覚える光景の中で、朔也はぼつりぽつりと言葉を続ける。

「価値観はその人が今までの人生で培ってきた、その人そのものだから……南雲ちゃんが好きなものを嫌いにさせられたら、それはきっと南雲ちゃんじゃないよね……? 同じように、嫌いなものを強制的に好きにさせられちゃったら、きっとその人はもう今までのその人じゃなくなっちゃうよ。今までのその人を否定することになっちゃうと思うんだ……好きも嫌いも、価値観でしょ? 嫌いを否定すると、南雲ちゃんは自分を傷つけてきた人達と同じになっちゃうんだよ。どんな好きも嫌いも、誰かを傷付けたり、危害を加えるものになっちゃ駄目だと、ボクは思う」

 痛みをこらえながら、懸命に朔也は秋野の側へと向かおうとしていた。ガクガクと膝を震わせて、杖に縋るようにして立ち上がる朔也の姿は痛々しくて見ているこちらの方が辛い。けれど、それでも朔也は秋野を止めようと必死で足を前へと進めるのだ。

「『好き』のために誰かを嫌いにならないで。恨まないで、呪わないで。南雲ちゃんの『好き』は、誰かを傷つけるための大義名分じゃない……そんな、つまらないものじゃないでしょ?」

「それなら……、それなら雨宮くんは! 自分の『好き』を馬鹿にされて、嘲笑われて、くだらないって言われて、ないがしろにされて! それでも傷つき続けて、無抵抗でいろっていうの⁉ 否定されるたびに、泣き出したいくらい痛くて辛いのに! それをずっとずっと続けろって言うの⁉ それがどれほど惨く、苦しいか雨宮くんは知っているのに!」

 諭すような朔也の調子に、秋野は涙が滲んだ声で激高する。怒りは、ひりつくような痛みと絶望に満ちていて。どうしようもなく、悲しかった。

「秋野……」

 突き刺すようなその苦しみをなんとかしてやりたくて、俺も剣をなんとか具現化してそれを支えに立ち上がる。全身が痛くて痛くて堪らなくて、少し前に進んだだけで全身がばらばらになってしまいそうになる。力が入らない足は、何度も崩れてしまいそうになった。でもそんなことよりも、俺は目の前で嘆くクラスメイトを救いたかった。何ができるわけじゃないのに、側へと向わずにはいられなかった。立ち上がる俺をちらりと見て立ち止まった朔也が、そっと微笑む。

「南雲ちゃん、世界はそんなにも辛いばっかりじゃないよ。悪意なく好きを否定する人がいたら、それが嫌なんだって教えてあげればいい。自分の好きなもののどこがいいのか伝えればいい。言葉は誰かを傷つけるためだけにあるわけじゃないから。好きになってくれなくても、理解して『好き』を認めてくれる人が一人でもいれば。きっと悪意で『好き』を否定する人なんてどうでも良くなるし、世界はそんなに悪いものじゃなくなるから。ボクにとって、翼がそうであるように」

「俺……?」

 突然出てきた自分の名前にぽかんとする俺を振り返って、朔也は可笑しそうに笑った。

「だって、中学に上がるタイミングで馬鹿にされちゃうかな、笑われるかな、ってびくびくしながら女の子の制服を着てった時。翼、ボクを見てなんて言ったか覚えてる?」

「いや、覚えてないけど……」

 四年くらい前のことを急に持ち出され、俺は首を捻る。確かに朔也が初めて女の格好で着たのは覚えているが、その時した会話と言われても特に覚えていないし、ましてや自分が何を言ったかなんてろくに覚えているわけがない。いつまでたっても思い出せない俺に、朔也は耐えられないといった様子で噴き出した。

「『丈が短すぎる。校則に引っかかるんじゃないか』だよ! 翼は、それしか格好について言わなかったんだ!」

 頬を薔薇色に上気させて、まるで大切な宝物を見せるみたいに朔也は俺が言ったという言葉を口にする。でもそんなのただの注意で、いつも言っていることなのに。それなのに、朔也は誇らしげに話すのだ。

「学校に着いてからみんなや先生がボクの格好について言いにきた時も、『ちゃんと制服着てるだろ』って。それだけ言ってみんな黙らせちゃった。翼は何でもないことだって思ってるみたいだけど、そうやってボクの『好き』を当たり前だって考えてくれることが何よりも嬉しかった。特別だったんだよ」

「そうなのか……? でも、そんなことで……?」

 そうは言われてもいまいちぴんとこなくて俺がぱちぱちと瞳を瞬かせれば、朔也はゆっくり頷きを返してそっと唇を開いた。

「そんなこと、じゃなかったんだよ。もちろん、ボクの『好き』を翼も好きになってくれたらすっごく嬉しいし、幸せだと思う。一緒に可愛い服着てみたいとか、そういう欲がまったくないとは言えないよ。けどね、そうじゃなくたって十分なんだよ。女の子の格好をすることだけじゃなくて、翼がボクの色々な『好き』を認めて、ボクの話を聞いて、理解しようとしてくれたから。だから、ボクは誰になんて言われても『好き』を諦めずにいられた。『好き』を思いっきり楽しめた。そしたら、周りも少しずつボクの『好き』を当たり前にしてくれたんだ。全部、中学入学のあの日に翼が当たり前にしてくれたから。翼が、ボクの『好き』を認めてくれたから。ボクの世界は、翼が救ったんだよ」

 俺はずっと、朔也は自由なのだと思っていた。自分のしたいことは迷わずにやって、誰に何を言われようが気にすることなく自分を貫いて。それは朔也の決断力の強さと、行動力の高さからくるものだと思っていた。

 だが、朔也自身の性質だけではなかったのだ。朔也も、他の人の目を気にすることがあって。それを俺が助けてやっていたなんて、思いもしなかった。

「ねえ、南雲ちゃん。南雲ちゃんが大切な人達も、きっと話せばわかってくれると思う。すぐにじゃないかもしれないけど、嫌だって伝え続ければきっと否定するのをやめてくれる。それに、南雲ちゃんの『好き』をもう好きな人や、これから好きになってくれる人にいつか会えるかもしれないでしょ? たくさんの人達を犠牲にして、全部を偽物の『好き』にしちゃうことないよ。ね?」

 朔也が、再び秋野へと視線を戻して立ち尽くす秋野へと手を伸ばす。けれど、秋野はその手を取らない。両手でぎりと剣を握りしめて、苦しげな表情で朔也を睨みつけた。

「それは、もう理解者を得ているから言える無責任な綺麗事でしかないって、雨宮くんはわかってるくせに。あたしだって、そうなってくれたらいいと思うし、そうなるよう今まで努力しなかったわけでもない……それでも駄目だったから、こうしてるの。大切な人達はあたしの『好き』を異常として扱って、善意からやめさせようとする。理解してもらおうとするたびに否定されて傷ついて。『好き』に貴賎なんてないはずなのに、いつまでたってもあたしの『好き』はくだらないものにされるの。おかしいことだって笑われるの。もう、『好き』を誰かに貶められるのはうんざりなの。いつか、なんて不確かな可能性にかけて、傷つき続けたくはないのよ」

「南雲ちゃん……」

 悲しみに満ちた朔也の呼び声に、秋野は首を横に振って双剣を構える。榛色の瞳は、未だ怒りの炎を宿していた。ちらちらと熾火のようになりながらも、熱は絶えることなく秋野を燃やし続けていたのだ。

「なあ、秋野。理解者なら、俺達がなるから。秋野の『好き』が何かはわからないけど、俺達は絶対に笑わないし、踏みにじったりなんてしない。約束する。だから……!」

「嘘ばっかり。そう言って、聞いてから結局馬鹿にするんだわ」

 なんとかしてやりたくて必死に俺が告げた想いは、けれどぴしゃりとにべもなく秋野に叩き落とされる。冷たく硬い声は、取り付く島もない。

「ここに来た日もそうだったの。お昼にご飯を食べながら、いつもの友達みんなで話をしているところでね。ちらっとあたしの『好き』を話したの。みんなならわかってくれるかもしれないって思って。そしたらすごい馬鹿にされて、散々に笑われたのよ。慣れてるつもりだったけど、駄目だった。みんなに悪意がないのはわかってたのに、だからこそ悔しくて悲しくて憎らしくて。そのまま、昨日のテレビの話を初めたみんなを置いて怒りのまま外へ飛び出したら、世界を越えてたの」

 ごうっと、俺と朔也を囲むように地面に炎が走る。逃げ場を失い、それぞれの武器をもはや体を支えるためにしか使えない俺達に抵抗する術はなかった。

「リリとセツに会って、この力を手に入れて。チャンスだと思ったの。あたしが、あたしの『好き』を誰にも気兼ねすることなく、貶められることなく、当たり前のものにできる最初で最後のチャンス。あたしが、喉から手が出るほど欲しかったもの。だから、諦められない………………ごめんね、二人とはここでお別れ。ばいばい、橘くん。雨宮くん」

 少しだけ寂寥の混じった言葉と同時に振り上げられた双剣に、俺達はぎゅっと目を閉じる。ここまでなのか。どうしようもできなかったやるせなさと、生への執着に泣きそうになる。

 圧倒的な力も、説得力もない俺には世界も、秋野も何も救えなかったのだ。優愛の顔が、家族の顔が、学校の友人達の顔が次々浮かんでは消えていく。まだ読んでる途中の推理小説だってあったし、そういえば来週俺誕生日だったし、来月には遊園地行く予定だってあったし、そもそも俺まだ十六歳だし。びっくりするぐらい未練だらけで、あれもこれもとやりたかったことが尽きない。ついには、普段ろくに信じてもいない神に祈ってしまった時。俺達の前でがきんと、刃がぶつかる鈍い金属音が大きく響いた。秋野のものか、鋭い舌打ちが零れる。

「ツバサ、サクヤ! ごめん、待たせた!」

 名前を呼ばれてぱっと瞳を開けば、目の前でアルマが秋野の双剣を受け止めていた。絶望に崩れ落ち、戦意を完全に失ってユマに縋りついていたはずのアルマの姿に、俺と朔也は目を見開く。

「アルマ、お前なんで……」

「アルマちゃん、無理しないで……!」

 心配する朔也にも振り向かずに、傷ついてぼろぼろの体でアルマは秋野の剣をぐっと押し込む。

「私がするべきことは、絶望することでも、悲しみに暮れることでもないって、気がついたんだ。私はただ、諦めちゃいけなかったんだよ」

「弱いくせに……まだそんなこと言ってるの?」

 押し返してきて馬鹿にしたように嘲笑う秋野に、けれどアルマは揺らがない。額に汗を浮かべながら、必死に足裏で地面を削って耐える。退くことを知らない緑の瞳には、強い意志が宿っていた。

「ユマは倒れる前、『信じてる』って言ってくれた。城のみんなも、街の人達も……この国のみんなが、私を信じてくれた。私がするべきことは、そんなみんなが倒れたことを嘆くことじゃない。みんなの信頼に応え、最後まで諦めないことだ。たとえ力が及ばないとしても、それでもやらねばならない。お前の願い、ここで断たせてもらう!」

 きいんと、硬質な音と共に拮抗が解かれ、衝撃で秋野が僅かに後ずさる。アルマによって、秋野の剣が弾かれたのだ。

「この……ッ!」

 悔しげに表情を歪め、即座に双剣を振って秋野が衝撃波を放つ。気がついたときには、俺達は再び地面へと転がっていた。

「うわ……ッ」

「わあッ!」

 武器を手放してしまって立ち上がれない俺と朔也が藻掻く中、アルマはばっとすぐに立ち上がる。アルマだって、負っているダメージは相当なものであるはずなのに。それでも立ち上がるのは、ひとえに想いの強さにほかならない。

「私は! カプレーゼ王国第一王女、アルマ・カプレーゼ! ここで退いて、国など背負えるものか!」

 そうして剣を構え高らかに名乗りあげるアルマの言葉には、確かな矜持とそれに足る気迫が籠もっていて。あまりの迫力に、びりびりと空気が震えたような気さえした。

 アルマの言葉に秋野の榛色の瞳が、大きく見開かれる。それは迫力に押し負けて、というより何か他のことに衝撃を受けたようだった。

「う、そ……なんで……?」

 思わずといったように溢れた言葉は震え、秋野は明らかに動揺した様子を見せる。一体何が秋野を揺さぶったのか。俺が疑問に思った途端、秋野は頭を振って双剣を振り回す。

「なんでよ……ッ!」

 悲鳴じみた言葉と共に、秋野がまるでヤケになったかのように次々と衝撃波を放った。何度も何度も立て続けで放たれた衝撃波の波状攻撃に、俺達はおもちゃのように跳ね飛ばされ転がることしかできない。全身を襲う痛みに、俺と朔也はもはやただ呻くだけだ。

 だが、アルマは。アルマだけは、ふらつきながらも再び立ち上がる。何度転がされ、倒れても。アルマは立ち上がり続けた。

「まだ、だ……」

 痛くないわけがない。辛くないわけがない。きっと、限界だって越えている。それなのに、アルマは剣を構え続けるのだ。もう、立っているのがやっとで、斬りつけに行くこともできないのにまっすぐに秋野へ、折れない確固たる意志で向かい続けている。

「……………………」

 アルマへと、秋野が無言で双剣を掲げる。三度、青い魔法陣がアルマの足元に展開して、身動きがついに取れなくなって。だが、アルマは屈しなかった。秋野から目を逸らすことなく、挑み続ける緑の瞳は……あまりにも強く美しい。

 アルマの視線の中、秋野はぐっと手が白くなるくらい強く双剣を握りしめて──くしゃりと、表情を歪めた。

「………できない」

 ぽつりと小さく呟くと同時に崩折れた秋野の手から、がらんと双剣が零れ落ちる。堪えていたものが決壊してしまったかのようにぼろぼろと榛色の瞳から涙が溢れ出して、俺は思わずぎょっとしてしまった。

「ここまできて……あと少しなのに…………、どうして…………どうして、こんな……っ、あたしに……あたしに……できるわけないじゃない………こんなの……酷い…………あんまりだわ………………」

 嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる秋野に、俺もアルマも困惑を隠しきれない。俺はよろよろとなんとか身を起こして秋野を見たが、まったく見当がつかない。

 動揺の中、朔也だけが少し考え込むような表情で、俺と同じように地面からふらふらと身を起こす。

「もしかして……」

 そうして、ぽつりと朔也が口を開いた直後。辺りに、閃光が弾けた。発生源は、地に落ちていた双剣だ。

「う……ッ!」

 とっさのことで庇いきれなかった俺は再び目が眩み、一瞬何も見えなくなる。少しして戻った視界には、予測通り双子の少女が立っていた。俺が剣を手放してしまったからか、それとも形態変化を挟んだからか、リリとセツの手足に赤い輪は嵌っていない。ぼろぼろではあるが立っているところを見ると、どうやら無事に力も入るようだ。大丈夫だろうとは思っていたが、実際に赤い輪から開放されている姿に俺はこんな時だというのに少しだけほっとしてしまった。

 しかし、リリとセツから向けられているのは明らかな敵意であることにすぐに気が付いて、ぎくりと身がこわばる。秋野との戦いの前の一戦を思い出せば、今二人に勝てる見込みなどゼロに等しかった。

「あるじさま、なかせた」

「ますたーに、ひどいことした」

 双子は警戒に固まるこちらをきつく睨みつけて、うずくまる秋野を守るように両側からぎゅうっと抱きしめる。

「リリ……セツ……ごめんね…………あたし、できなかった…………やらなきゃいけなかったのに…………できなかったのよ…………」

 二人の腕の中でより一層泣きじゃくる秋野へ、リリとセツは宥めるようにそっと頬を擦り寄せた。

「だいじょうぶ、あるじさまの『すき』はリリたちがまもるから」

「セツたちがなんとかしてあげる。だからますたー、なかないで」

「でも……っ、あたしできなかったのよ………もう、どうしようも………っ」

 交互に落とされた柔らかな声に、秋野がゆるゆると首を横に振る。けれど、そんな秋野にリリとセツはそっと微笑んだ。直後、三人の足元に白く光る魔法陣がぶわりと展開する。

「な……っ⁉」

 慌てて動けるようになっていたアルマがよろよろと近付こうとするが、すぐにばちりと何かに弾かれてしまった。どうやら周囲に結界のようなものがあるらしい。

「えっ……これ何……?」

 戸惑う秋野と、笑んだままのリリとセツを、魔法陣から生じた光の帯が絡め取っていく。

「このせかいのものでねがいにたりない、いのちはふたつ」

「ドライとアルマ。ふたりのぶん。リリとセツがかわればいい」

「………え………………?」

 二人の言葉にぽかんとする秋野をよそに、リリとセツは秋野を抱きしめたまま互いに手を合わせた。途端光の帯が、三人を閉じ込める鳥かごのような球体を形作る。

「あるじさまは、ただのどうぐだったリリたちになまえをくれた。そうけんじゃなくて、リリとセツにしてくれた」

「セツたちと、たくさんおはなししてくれた。たのしいも、うれしいもますたーがおしえてくれた」

「あるじさまのねがいはリリたちのねがい」

「ますたーがしあわせになるなら、セツたちはそうしたい」

 ぽつぽつとリリとセツが言葉を重ねるごとに、秋野はどんどんと青ざめていく。ふわりと、球体が浮き上がった。

「待って……そんなの……そんなのだめよ……リリも、セツも……犠牲になんか…………」

 再び涙を溢れさせる秋野を、リリとセツがぎゅうっと愛おしげに抱きしめる腕に力を込める。

「ありがとう、あるじさま」

「ばいばい、ますたー」

「いや……! リリ、セツ…………ッ!」

 ぼろぼろと泣きじゃくる秋野の頬へ、リリとセツが両側からそっと口づけた瞬間。光の奔流が溢れ、三人を飲み込んで完全な球体になる。

「秋野ッ!」

「リリちゃん、セツちゃん!」

 とっさに俺と朔也が声を上げたが、光は真っ暗な空へとすっと高度を上げて遠ざかっていってしまう。少しずつ大きさも明るさも増しながら白く光り輝く球体は月よりもずっと眩しく、眠りについた世界を照らし出していった。鮮烈なまでの白が、世界に満ちる。まるで、すべてをかき消してしまうように。

「世界は……終わるのか……」

 意識を失っていたドライがいつの間にか側にきていて、呆然と空を仰いでいた。ドライの言葉にへたり、とアルマがその場に力無く崩折れる。

「そんな…………もう、どうしようもないのか…………私達には、もう…………」

 圧倒的な存在を前に打ちひしがれるドライとアルマの様子に、ずきりと強く俺の胸が痛んだ。だって聖女としてここにやってきたのに、俺は結局何もできていない。戦いではアルマやドライに頼り、秋野の痛みも癒せず、ついには世界の終焉も止められない。この世界を救うために、俺はここに来たはずなのに。

 悲しさと悔しさと自分への無力感への苛立ちとがない混ぜになったような感情に、俺は思わず俯いて力を渡された証である自らの右手首の赤い痣を見つめる。秋野と同じく世界の化身から手に入れた力であるはずなのに、どうしてこんなにも歯が立たないのだろう。聖女は、世界の危機を退ける程の力があるはずなのに。先程の戦いでも秋野は剣も魔法も使って、まるで俺と朔也の二人分の力を持っているかのようだった。

 と、そこで俺はあることに気がつく。そう、元々最初に召喚されようとしていたのは俺『ひとり』だけであったのだ。俺を追って飛び込んだ朔也の存在は、イレギュラーだったはず。

「じゃあ、秋野が『二人分』の力を持ってるんじゃない……俺達が力を『わけた』んだ……! 朔也!」

「そっか……! それなら、力を一つに戻せば……まだ、ボク達にもなにかできるかもしれない……! 翼!」

 白い光の中で、思いついた勢いのまま俺は右隣にいた朔也へと痣のある右の手を伸ばす。俺の言葉にはっとして、即座に朔也も痣のある左手を伸ばした。指先がぶつかって、力を一つにするように指を絡めてしっかりと繋ぐ。

 直後、合わさった掌から白に負けないほどの金色の光が生まれて、ぶわりと俺と朔也を飲み込んだ。

 暖かい光に全身を包まれて、体中の痛みと疲労がすっと消えていく。光が収束すると、同時に着ていたワンピース調の魔法少女服が一瞬金色に光り、直後にばさりとドレスのように変化した。驚いて俺が朔也を見やれば朔也も同じようにドレス姿となっていて、にっと笑みを返される。

「フォームチェンジって感じだね! ボク、今だったらなんだってできそう!」

 言いながら朔也がぎゅっと繋いだ手に力を込めれば、二人の手の間に背丈よりも大きな金色の大剣が出現した。慌てて握るとその質感は今まで持っていた赤い剣と同じだったが、どう見ても格が違う。規格外の大きさと威圧感すら覚える荘厳さに、俺は思わず息を呑んだ。

「これで……止められるのか……?」

「でも、どうやってあんな高くまでいく……? 羽でもあればいいんだけど……ってうわっ!」

 空に浮かぶ白く丸い光を見上げながら朔也が呟くと、本当にばさりと金色の羽が俺と朔也の背中に広がる。もはや何でもありだ。これが、『想像次第』の真の力なのか。

「伝説の、聖女……」

 自分の意思で羽を動かせることを恐々確認し、ふわりと僅かに浮き上がった俺と朔也を見てアルマがぽつりと零す。側にいたドライもはっとしたように俺と朔也を見つめて、それからゆっくりと口を開いた。

「世界を、あの人を。頼んだぞ」

「……わかった」

「待ってて。世界も何も、犠牲になんかさせないから」

 託された想いに朔也と二人でしっかりと頷きを返して、天へと視線を投げる。白く眩しい球体、そこに秋野達はいるのだ。ばさりと慣れない羽を動かして、とにかく球体の元へと向かいたいのだと強く願えば、俺達の体はなんの抵抗もなくすっと高度を上げた。みるみるうちに小さくなっていくドライとアルマ、そして倒れたままのユマの姿を視界に捉えて俺はぐっと唇を噛みしめる。ユマの勇気を、強さを、信頼を。無駄になんてするわけにはいかない。

「翼、覚悟はいい?」

「当然だろ」

 朔也の問いに、迷いなく答えて。大剣と一緒に、繋いだ手にどちらからともなく力を込めた。

 そうするうちに、高度はどんどんと上がっていく。雲と同じ高さまで来て、もはや巨大な光の玉は眼前に迫っていた。郊外で見かける丸いガスタンク程の大きさと痛いくらいの白の眩しさに一瞬怯んだが、繋いだ手の熱さに自然と恐怖が薄れていく。隣を見れば、同じようにこちらを見ていた朔也とばちりと目が合った。同時に、にやりと笑って。

「行こっか、翼!」

「俺達で世界、救ってやろうぜ! 朔也!」

「「せーのっ!」」

 俺達は勢いよく大剣を振り上げ、白い光へと金色を突き刺した。手を剣から離すとばちり、と大きな音が辺りに響く。

 直後、突き刺した部分からぴきりと球体に金色のヒビが入った。まるで卵から雛が孵る時のように、ぴしりぴしりと金色のヒビは少しずつ全体に広がっていく。

 そうして、とうとうぱきりと一部が割れて中身が露出した。中にいたのは、うつろな目をした秋野と、俺達を憎々しげに睨みつけるリリとセツだ。三人ともそれぞれ球体の内部を満たす白い光の帯に絡めとられ、身動きは取れないようだった。

「せいじょ……やっぱりころしておくべきだった」

「もうすこしでますたーのねがいがかなうの。じゃましないで」

 刺々しい双子の視線は、けれど儀式の影響か少し力無いもので。そんな二人に、俺と朔也は首を横に振って断言する。

「秋野の願いは、こんなことじゃない」

「南雲ちゃんは嫌だって、言ってたでしょ。泣いてたでしょ。それが、願いが叶う人の言葉だと思う?」

「……っ」

「それは……」

 怯むリリとセツを横目に俺達は羽を霧散させて球体の中へと降り立ち、宙を見つめて動かない秋野の前へと向かった。虚無を抱いたような瞳は、ただ悲しみを湛えている。

「南雲ちゃん、起きて。まだ終わりじゃない、まだ何も終わってないんだよ」

 俺と繋いだままの手と、反対の手で朔也が秋野の手をそっと握った。温度に反応するように、ぴくりと秋野の肩が小さく跳ねる。

「秋野……いや、南雲。しっかりしろ、このままだと願いが叶う代わりに大事なもの失うぞ」

 祈るような思いで、俺も繋いでいない方の手で秋野の――南雲の手を取る。と、南雲の瞳からぼろりと大粒の涙が零れた。

「い……や……」

 一度溢れてしまえば、あとからあとから涙は零れていく。だんだんと光を取り戻した瞳で、南雲はリリとセツを映した。

「あたし、いや……っ! リリとセツを失いたくない! 犠牲になんて、代償になんてしたくない!」

「あるじさま、だって『すき』をみとめてもらいたいって」

「ますたー、そのためにずっとがんばってたのに」

 悲鳴じみた南雲の慟哭に、リリとセツが戸惑ったような表情を返す。そんな二人に南雲は、ぼろぼろと涙を零しながら叫んだ。

「確かに、あたしは『好き』をみんなに認めて欲しいわ。愛して欲しいわ。だけど……だけど、リリとセツだって、あたしの『好き』なのよ! 『好き』のために別の『好き』を犠牲になんてできない、したくないわ!」

 南雲の叫びと同時にぱんっと弾けるような音がして、南雲と双子を拘束していた白が砕け散る。解放された途端に、南雲は俺と朔也の手をほどいてリリとセツへと駆け寄った。

「ごめん、ごめんね……ここまでさせて、犠牲になってでもあたしの願いを叶えてくれようとしたのに……あたし、リリとセツを失いたくないのよ……」

 ぎゅうと二人を抱きしめて泣きじゃくる南雲に、くしゃりと腕の中のリリとセツの顔が歪む。

「あるじ、さま……」

「ますたあ……」

 やがて声を上げて泣き始めた二人ごと崩れ落ちるように、南雲はぺたんとその場に座り込んだ。ぼんやりとどこか遠くを見つめながら、南雲は泣き笑う。

「あーあ、全部水の泡。あたしのしたことなんて何の意味のないことで、あたしはまたあの地獄に帰るしかないんだわ。『好き』を馬鹿にされて軽んじられて笑われて。そんなどうしようもない痛みにのたうつだけの毎日。反吐が出そう」

 諦めと絶望の入り混じった南雲の呟きに、朔也がゆるゆると首を横に振った。

「何も意味がないなんて、そんなことない。ボク達は南雲ちゃんのことを知れたし、リリちゃんとセツちゃんにだって会えた」

「元の世界が地獄だっていうなら、俺達がいる。南雲の『好き』を、俺達は絶対に否定したりなんてしないから」

「口にするのは簡単でしょうけど……」

 重ねて先ほどはねのけられた提案をもう一度俺が口にすれば、南雲はやはりまだ信じられないというじとりとした視線をこちらに向けてきた。気持ちはわかるが、こればっかりは信じてもらうほかない。

 と、そこで朔也があ、と小さく声を上げ。

「そういえば、南雲ちゃんの『好き』って、『お姫さま』だったりする?」

 そう口にした途端、ぼふりと南雲が顔を赤らめた。直後にさっと青ざめて、南雲はいまだにぐずぐずと泣きじゃくっているリリとセツの肩へと顔をうずめて隠れてしまう。この反応は、どうやら正解のようだ。

「朔也、何でわかったんだ?」

 不思議に思って俺が問えば、朔也はんーと少し考えながら答えを返す。

「えっと、南雲ちゃんがアルマちゃんに対して、ちょっと変になったのって『お姫さま』って名乗ってからだったでしょ? 眠らせようとしてできなかったのも、アルマちゃんが南雲ちゃんの『好き』な『お姫さま』だったからかなって」

「『好き』のために『好き』は犠牲にできない、か……」

 さっきの南雲の叫びを思い出して、俺はなるほどと頷いた。言われてみれば、確かにアルマに対して最初は強気で接していたのに、名乗り以降南雲は明らかに取り乱していた。あれはそういうことだったのか。納得する俺を、秋野が涙目で睨みつける。

「何よ。言っておくけど、自分が『お姫さま』になりたいわけじゃないわよ! あたしは『お姫さま』の生まれ持った地位による国を背負う自負と気高さ、それに負けない矜持。民から愛される象徴であり、決して屈しない強さ。そういうのが好きなの! そういうのを愛してるの! なのにみんな、ろくに話も聞かないで…………もう嫌……馬鹿にしたいなら、すればいいでしょ…………」

 憤るように荒げていた声は最後の方は急に消え入りそうにか細く震えるものになって、南雲はぼすりと双子の肩に顔を隠してしまった。涙でぐしゃぐしゃで話すこともできない双子に無言で睨まれて、俺と朔也は思わず噴き出してしまった。びくりと跳ねた南雲の肩を叩いて、俺達は笑う。

「『お姫さま』を馬鹿にするなんて、そんなことできないよ。だってボク達『お姫さま』大好きだもん」

「強くて綺麗で、誰よりもまっすぐな『お姫さま』を知ってるからな。ほら、だからさ。泣くなよ」

 気が付けば、南雲は落ち着きかけていた涙腺を再び決壊させていた。ぼろぼろと嗚咽さえ漏らしながら、南雲が大声を上げて泣く。

「ずっと……、ずっとそう言って、もらいたかったの……っ! 子供っぽいって、笑わないで……あたしの『好き』を、馬鹿にしないで……、すごいって、自分も『好き』なんだって……っ、そう、言ってほしかったの……っ!」

 ぱりん、と大きく砕ける音がして、周囲を覆っていた白い光が弾けた。球体が崩壊したのだ。無数の破片となった白い光が流星のように地上へと次々と降り注いでいく様を見ながら、俺達は淡い金色の光に包まれてゆっくりと空を落ちていく。

 夜が明けるのだろう。遠くに見える地平線が白んで、世界を今度は柔らかく照らし始めていた。

「見て、翼」

 朔也に手を引かれ町の方へと視線を落とせば、空を見上げる多くの人達が目に入る。同時に、がらんがらんと、少し騒がしいくらいの勢いで城の鐘が鳴り始めた。世界が、眠りから目覚めたのだ。

 はっとして、ずいぶん近くなった丘の上を見れば、ドライが、アルマが、そしてユマが、手を振っているのが見える。無事なみんなの姿が、泣きたくなるくらいに嬉しくて。

 俺は朔也と二人、互いの顔を見合わせて笑った。


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