四章 汝の隣人を愛せよ

 狼狽えた様子のユマに案内され、到着した元コトレッタ国王のいる部屋は城の端にあった。

 拘束、などと言っていたからどれだけ物々しい部屋なのかと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。目の前にあるのは俺達が使っている客室と対して変わらない、シンプルな木製の扉だった。さすがにこれで中は牢獄ということはないだろう。

 扉の前には見張りとしてだろうか、青ざめた顔のメイドがそれでも気丈に立っている。彼女はアルマの姿を見つけ、ほっと僅かに表情を緩めた。

「アルマ様……」

「怖い思いをさせてすまなかった。ありがとう」

「いいえ……お気をつけくださいまし」

 不安そうなメイドの言葉にアルマは緊張した面持ちで頷いて、こんこんと扉をノックする。

「アルマです。目覚められたと聞きました」

「入るが良い」

 即座に応えた低い声は、確かにあの男のものだ。俺達はごくりと息を呑んで、アルマが開いた扉のキィと蝶番が鳴く音を聞く。

「失礼します」

「アルマ様、オレの後ろにっ……」

 アルマを追って部屋へと飛び込むユマに続くように足を踏み入れれば、予想していたように俺達が使っている客室と同じ作りをしていた。唯一違うのはベッドの上、そこを椅子代わりに座り込んでいる男が、赤い縄の亀甲縛りで拘束されているくらいか。

「って、スルーできるか! 拘束方法がなんで亀甲縛りなんだよ!」

 圧倒的な存在感に耐えられず、シリアスな空気をぶち壊して俺は思わずツッコんでしまった。俺の大声に驚いてアルマとユマが揃ってびくりとしていたが、どうか許してほしい。これをツッコまずにいられるものか。

 拘束するとはいっても様々な方法があったであろうに、数多くの手段の中でなぜ亀甲縛りが採用されてしまったのか。手間がかかり、なおかつ技術も必要になる亀甲縛りがなぜ。

 そして、何よりも疑問なのは縛られている男が動じることもなく、真顔でベッドに座っている事である。こいつ亀甲縛り状態で「入るが良い」とか冷静に言ったの? 不動の心も度が過ぎない?

 しかもオールバックに撫で付けられていたはずの髪から、アンテナのようなくせ毛がみょいんと生えているし。せっかくのシリアスがオーバーキルである。

「そう怯えずとも良い。これは魔封じの縄のようでな、今の我輩は身動きはおろか魔術も使えぬ木偶の坊よ」

「いや怯えとか、もうどっか飛んでったわ……」

 男がせっかく威厳たっぷりに笑ったというのに何の重みも無くなってしまっているし、本当に酷い。

「亀甲縛りってボク初めて見たけど、弛みも緩みもなく無駄に仕事が丁寧だね……羽根もうまく避けてこの出来……プロの技だよ」

「お褒めに預かり光栄です」

 男に少し近づいて眺めていた朔也が零した一言に、入り口から見張りをしていたメイドがひょいと顔を出す。縛ったのお前かよ。さっきまで青ざめて怯えてたのは何だったんだ。こんなにきっちり縛っておいて、一体何に怯えてたっていうんだ。

 一見普通の可愛いお姉さんなメイドの凶行に、俺は思わず呆れた視線を投げる。するとメイドは俺達の視線を賞賛と勘違いしたのか、ぐっと親指をこちらに立てて扉の向こうへと去っていってしまった。心なしか表情が誇らしげだったのがまた憎らしい。

「何だったんだあいつは……」

「さあ……人は見かけによらないものだよね……」

 俺と朔也は半ば呆然として、緊縛師のメイドが去っていった扉を思わず見つめてしまった。

「ええと、その。話を聞かせてもらってもいいでしょうか、陛下」

 微妙な空気の中、戸惑うように響いたアルマの声に俺は、はっと我に返る。そうだ、それが本題だった。亀甲縛りのインパクトの強さに、危うく目的を忘れるところだ。

 閑話休題、気を取り直して俺は話を聞く姿勢に入った。

「良かろう、だが陛下と呼ぶのはやめるのだ。敬語もいらぬ。我輩はすでに王位を退いた。ここにいるのはただのドライという男だけよ」

「わかった……じゃあドライ、頼む。コトレッタ国で、何があったんだい」

 亀甲縛りのまま名乗った男に、アルマが真剣な顔で問う。あ、そのままの状態で話をするのか……と思うが、ツッコんではまた話が進まないので俺は衝動をぐっと堪えた。ただ、絵面がものすごくシュールということだけお伝えしておきたい。

「始まりは、男が双剣を携えて天より我が城へと落ちてきたことだ。突如現れたその男はぎらついた目をしていて、全身に殺気をみなぎらせていた。まるで怒りの化身が舞い降りたようだと、その時思ったのをよく覚えている」

「天……つまり空から来たなら、ボク達と同じだ。やっぱりその双剣の男が、セカイちゃんが言ってた人なんだね」

 ドライがアンテナ、もといくせ毛をみょいんみょいんと動かしながら話すのを聞いて、朔也が俺に耳打つ。どういう仕組みなんだあの毛と思いつつも、俺は朔也の言葉にこくりと小さく頷き返した。

 他に世界を危機に陥れている原因なんて無さそうだったし、セカイが言っていた倒すべき存在は双剣の男だろうとは思っていた。あくまで推測でしかなかったそれが、ドライの話で確実になった訳だ。

「男はこの世界の力を全て奪うのだと宣言し、我輩の目の前で抵抗しようとした城の者たちを次々と眠らせた。そうして最後に残った我輩へ、世界を壊さないかと言ってきたのだ……我輩は、その誘いを断れなかった」

「なぜ……君はいつも冷静で、変化を望まなかったはずだ。それなのに、どうしてよりによって滅びを選んでしまったんだ……!」

 動揺するアルマに、ドライが緩く首を振った。自嘲するように、表情が歪む。

「我輩は変化を望まなかったのではない。望めなかったのだ。我輩に、そんな力など無かった。数代前からずっと、実権は元老院に握られていたからな。我輩のできることなど、奴らが決めた事が書かれた書類にひたすらサインをするくらいだ。お前ら他国の王と話をする時の台本まであったんだぞ、馬鹿みたいだろう」

 権力を奪われた、形だけのお飾りの王。それは歴史を紐解けば、よくある話だった。俺の頭の中でも、日本史の教科書から幾つかのページが思い浮かぶ。テストに必要だからと覚えた、何気ない知識としての話だ。一問五点の、外したらちょっと残念な思いになる程度の話。

 けれど、何もできない立場に就かされてしまった王の内心なんて、今まで一度も考えたことがなかった。その虚無のなんと深く、悲しいことか。

 ドライは大きくため息をついて、ぎゅっと眉を寄せた。

「元老院のクソ爺共は私腹を肥やすことしか考えておらぬ。そこから出される政策など、腐りきったクズみたいなものばかりだ。当然、あちこちで問題が山積みの状態になる。政治に向けられるのは常に不満と不信だ。それなのに元老院の奴らも民も、そんなことになるのは全て王が頼りないせいだと言う。やってられぬと我輩が王を降りようとしても、直系の血族は我輩しかいないから駄目だと言う。結局我輩は何もできぬまま、謂れのない非難を浴びせられるだけの存在であり続けるしかなかったのだ」

「そんな……そんなのって……あんまりっすよ……王様になんで、なんでそんな酷いことを……」

 ドライの吐き捨てるような告白に、ユマが青ざめた顔で呟く。ここカプレーゼ国はアルマやその周囲を見る限り、王族は民衆の良い指導者であり、慕われる存在だ。その環境で育ったユマにとって、王が無下に扱われているコトレッタ国の話は信じられないものだったのだろう。

 震えるユマを抱き寄せながら、俺は影を落とすドライの赤い瞳をじっと見つめた。

「だから、双剣の男の誘いに乗ったのか」

「………そうだ。もう何もかもが嫌だった。全てを投げ出して、捨ててしまいたかった。それでも我輩は王なのだからと、どうしようもないのだからとずっと諦めていた。そんな時に現れた圧倒的な存在に世界を壊してやろうと、王座が嫌ならもらってやろうと言われたのだ。抗えるわけないだろう」

 俺に頷いて、ドライはどこか投げやりな笑みを浮かべた。瞳には、ぞっとするような暗い虚無の影がちらついている。

「我輩は、男に……我が王に乞われるまま、この世界の話をした。どこの守りが薄いか、どこから侵入すればいいか洗いざらい話した。城を拠点として差し出し、民が多く守りの固いところは我輩が撹乱して王が襲った。そうすれば、あんなにも我輩を苦しめていたコトレッタ国は、あっという間に無くなってしまった」

 淡々と、まるで何でもないことのようにドライは語る。何でもないなんて、そんな訳ないのに。

「……おかしなものでな、いざそうなっても自由だと嬉しくもならず、かと言って国を喪ったと悲しくもならないのだ。ただ後戻りはできないと、身を焦がすような焦燥だけが湧いたのを覚えている。王の座を放り投げ、自らの国を滅ぼしたのだ。もう退くことはできない、世界を滅ぼすしかないと、そう何かに追い立てられるようにここまで来た」

 周囲に追い詰められて国を、世界を滅ぼすきっかけになってしまった王がぽつぽつと零す言葉は、悲しくなるほどに静かだった。

「お前達にとっては酷く自分勝手な話だろう。憎いはずだ。許せないはずだ。なあ、アルマ殿。殺したいのならばそうするといい。抵抗はせん」

 立ち尽くすアルマへと視線を投げて、ドライは力なく笑う。笑顔に滲むのは、諦念と疲労と……僅かな歓喜。

 もしかしたら、ドライは解放されたいのかもしれない。自身の犯してしまった罪の重さから、耐え難いほどの虚無から。だから、ドライはこうやって抵抗すらせず、おとなしく捕まっていた。自分を罰してもらうために。本当に全てを、自らの命ごと捨てるために。

 そんなドライの様子にアルマはぐっと唇を噛み締めて、やがて緩く頭を振った。

「殺さない。私は、そんなことはしたくないよ」

 強く断ずるようなアルマの言葉に、すっとドライの笑みが失われる。代わりにその瞳に滲んだのは、激情だった。

「……なぜだ。我輩の身勝手がお前の大切な人々を苦しめ、すべてを失わせたのだぞ。嬲り、殺す権利が、断罪する義務があるのだ。それなのに……なぜ殺さない!」

 理解できないと怒りに震え糾弾する言葉は、まるで懇願のようだった。拘束さえなければ、アルマに掴みかかっていたかもしれない。勢いにぎしりと、縄が軋む。

「死以外にこの罪を贖えるものか! 偽善で手をかけることをためらい、我輩を生かすというのならば、それは被害を受けた者達への裏切りであるぞ!」

 ドライはアルマを詰り、責め立てながら、自らを殺せと訴える。罰を望むその姿は悲しくなるくらい、必死で。

 だからこそ、アルマは頷かない。激しい怒号に、ただ静かに首を横に振り続けた。

「あなたのしたことは、許されないことだと思う。正直に言えば、あなたを憎いと思う心が少しも無いとは口が裂けても言えない。それでも、そんなことをしても何の解決にもならないだろう」

「そんな……」

 落ち着いた真っ直ぐなアルマの視線を受けて、やがてドライは萎れるように怒りを失っていく。表情も、途方にくれるようなものへと変わった。

「なぜ……どうして誰も我輩を罰してくれないのだ……我輩は、罰を受けねばならないのに……」

 そうして、ついにはがくりと肩を落として俯いてしまったドライの背へ、アルマはそっと手を置いた。

「コトレッタ国がそんな状態にあることを、私達三国は知らなかった……いや、知ろうともしていなかった。無意識のうちに、コトレッタ国は私達とは違うのだからと無関心になっていたんだ。知っていれば、ドライがここまで追い詰められる前に、何かできたかもしれないのに。ドライを救えたかもしれないのに。それなのに一方的にドライを責めるなんてこと、私にはできない」

「そうっすよ! それに悪いのは双剣の男っす。ドライ様は悪くないっすよ!」

 労るような静かなアルマの声に、ユマも俺の腕から抜け出しながら勢い良く頷く。そんな優しい二人の言葉に、けれどドライはくしゃりと顔を歪めた。

「……しかし、どんな理由があろうと滅亡を望み、手を貸したのは事実だ。我輩がいなければ、こんなにも早く侵攻することは無かっただろう……取り返しのつかない罪を、我輩は犯してしまったのだ」

 僅かに震える声は、まるで迷子の子供のようで。気づけば俺は、ドライに駆け寄ってその肩を掴んでいた。

「取り返しがつかないなんて、そんなことない!」

 張り上げた俺の声に驚いたのかはっとドライが顔を上げたが、すぐ逃げるように俯こうとしてしまう。そんなドライの顔をがしりと両手で挟んで、俺は真っ直ぐにドライと目を合わせた。間近で、赤い瞳が戸惑うように揺れる。

「まだみんな、眠ってるだけだ。誰一人失われてなんかない。双剣の男をなんとかしてみんなを目覚めさせれば、それでいいんだよ。それだけのことなんだ。だから、もう自分を責めるな。どうしても罰が欲しいなら、死んで詫びるんじゃなくて、生きて世界を救って償え!」

「生きて……償う……そんなこと……考えもしなかった」

 俺の一喝に、ドライが目を見開いて呆然としたように呟く。そうして、やがてドライはへにゃりと情けないような笑みを浮かべた。

「お前達は甘いな、馬鹿みたいに甘い……。……だが、その甘さに救われた。死でしか贖えないと思っていたのに、許されたいと思ってしまった。まだ間に合うと、全てを取り戻せると言うならば、我輩はそうしたい……虫のいい話だが、お前達を手伝わせてくれないだろうか」

「ああ、当然だろ。世界、救いに行こうぜ」

「ドライが味方になってくれるなら、こんなに心強いことはないよ」

 ドライの言葉に、俺とアルマは力強く頷く。同時にドライの顔を固定していた両手を俺が離せば、ユマがぱたぱたとドライへと駆け寄った。

「なら、もう縄はいらないっすよね。今解くっすー!」

「えっ……ああ、解くのか……そうか……」

 なぜかちょっと残念そうなドライをよそに、ユマが複雑な縛り方に四苦八苦しながら縄を解いていく。わずかに開いた扉の隙間からも不満そうな声が聞こえた気がしたが、これは気にしないことにしておこう。というかなんで拘束を解いてるのにこんな反応なんだ。

 そうして、ユマの苦労のかいあって赤い縄が取り払われ、ドライがベッドから立ち上がったその時。

「うおっ⁉」

「な、なんすか⁉」

 突如として、部屋にまるで火山でも噴火したかのような轟音が響き渡った。思わずぎょっとするようなその音に、ドライとユマが狼狽えたように声を上げる。いきなりこんな音がしては驚くのも無理はない。

 しかし、俺とアルマは凄まじい既視感に襲われながら、苦笑いを零しつつくるりと後ろを振り返る。音源であるそこにあったのは涙目で顔を赤くして震える、朔也の姿だ。

「もう駄目……シリアスシーンだからって、頑張って耐えてたけど……もう限界…………」

 震える声で、ぽつりぽつりと零しながらきゅっと朔也は自らの腹部を両腕で抱きしめる。途中からやけに大人しくなっていたのはこのせいだったのかと、俺は大きくため息を零した。

 すうっと朔也の、息を吸い込む音が聞こえる。そして。

「おなかすいたああああああああ――――ッ‼」

 渾身の、悲痛すぎる泣き言が炸裂した。



「あー…………やっと正気を取り戻せた……お腹すきすぎてあのまま狂うかと思った……」

 掻き込むような勢いでうどんを貪り、たんっとテーブルに空の器を置いた朔也が満足げなため息を零す。結構熱々の状態で出てきたはずだがそれをものともしない、まるで飲むような早さでの完食だった。よくあれでやけどをしないものだ。

 呆れるような、感心するような思いで隣に座る朔也を横目で見ながら、俺もずるずると麺を啜る。昨日食べたうどんと同じものだと思うが、格段にうまく感じた。空腹は最高のスパイスというが、まさにそれだ。

 胃袋に満ちていく幸福感に頬を緩ませながら、俺はちらと視線を上げる。テーブルの向こう側にいるのは上品に麺を啜るアルマと、やたらと息を吹きかけ冷まして食べるドライだ。昨日の時点では考えられなかった二人が、肩を並べているのだ。これは実は下手したら歴史に残っちゃうような、すごい光景なのでは……っていうかドライはどんだけ猫舌なんだ。もうそれ人肌以下の温度だろ。

「ユマちゃーん! ボクおかわりー!」

 朔也は朔也でお構いなしとばかりに、器を高々と掲げて叫ぶ。結局一杯では足りなかったらしい。

 まあ、実質これは昨日の夕食兼、遅い朝食兼、早めの昼食といったものになるので二杯くらい食べても仕方がないかもしれない。俺もいつもの身体だったら二杯、下手したら三杯食べていただろう。あまり身体的に変わりのない朔也と違って、少し小さくなった俺は今以上は入りそうにないが。

「サクヤ様ー。おかわり持ってきたっすよー」

 ぱたぱたと急ぎ足でおかわりを持ってきてくれたユマから、朔也が器を受け取る。

「ありがとーユマちゃん。ほんと美味しいよこれ……生きててよかった……」

「そっすか? そんなに喜んで貰えるなら作りがいがあるっすね」

 涙ぐみさえしながら再び麺を啜り始める朔也に、ユマはぱっと照れたように笑った。なんと驚いたことに、今食べているうどんも昨日のうどんも、作ったのはユマなのだ。ユマの歳でこの腕前は見事なものである。俺と朔也がレトルト食品しか作れないことを考えると驚異的だ。

 というのも、現在ユマはここの料理を任されているらしい。なぜ幼いユマが任されたのかというと、それは料理のできる人間が全員被害にあってしまって、残っているメイド達は全員壊滅的な料理オンチだったからだ。つまり俺達が見かけてきた清楚なお姉さんメイドも、上品で真面目そうなメイドも、ドライを縛り上げていた緊縛師のメイドも全員料理をすれば殺戮兵器を創造するのである。なんとも悲しい話だ。

 まあ、そんなオーバーキルメイド達も麺を打ったり、食器や材料を用意したり、火を見たりの手伝いはできるそうで、完全にユマ一人で全てをやっているわけではないらしいがそれでもすごい。俺達の世界にいたら、香川県民だと思われるかもしれない。

「あー美味しかった! ごちそうさまー!」

 そうして二杯目のうどんもあっという間に平らげた朔也の一声を聞いて、アルマがくすりと笑いながらさて、と居住まいを正した。

「これからどうしようか。その双剣の男を倒すにしても、こちらから攻め入るのは難しいと思うのだけれど……二人は何か案はないかい?」

 アルマに問われてはた、と俺と朔也はお互いを見合わせる。表情から察するにどうやらお互い、セカイから原因へ辿り着く方法なんてものは聞いていないようだ。倒すべき原因をちゃんと話さなかったことといい、セカイは自分を救えと言っていたくせにどうもこちらに投げっぱなしのことが多いような気がする。自分のことなんだからもっと綿密に伝えてほしい。力だけ与えてなんとかしろ、は無責任だろう。

 などとセカイのいい加減さに不満を抱くが、今それを言ってもしょうがない。俺は頭をなんとか回転させ、双剣の男へ辿り着く方法を考える。が、そもそも双剣の男の拠点であるコトレッタ国は確か山の向こうだったはず。もしかしなくとも辿り着くには、めちゃくちゃ遠い上に大変な労力がいるのではないか。人手もない今、下手したら辿り着く前に力尽きてしまいそうだ。

「ドライちゃんはここまで飛んできたんでしょ? ボク達を抱えてひとっ飛びーっていうのはできないの?」

「無理だな。少しの荷物程度なら運べるが、人なんか抱えて城までは飛べぬ。どう頑張っても途中で墜落するわ」

 授業中発言する生徒のようにぴっと真っ直ぐに挙手した朔也だったが、ドライは即座に首を横に振った。却下のあまりの早さに朔也が不満げに唇を尖らせる。

「えーつまんなーい。空飛んでみたかったのにー」

「ふむ……どうしてもというのなら風で巻き上げて、吹き飛ばすという方法があるが……」

「わーどう考えても命の保証がない! 諦めよう!」

 ごねられて考え込んだドライが出した答えで、朔也はすっぱりと憧れを放り投げた。さすがにいくら思い切りの良い朔也でも、憧憬のために命は捨てられないだろう。

「人手もないのに攻め込むなんてやっぱり無茶っすよ。返り討ちにされてしまうっす。そんな危険なこと、オレは皆さんにしてほしくないっすよ……」

 器を片付けながら不安そうな声を上げるユマに、俺達はぐっと言葉に詰まる。ユマの言う通り敵の本陣へと乗り込むのが無謀に近いと、誰もがわかっていた。

 しかし、ならばどうすれば双剣の男と対峙できるのだろう。原因である男をなんとかしなければ、この世界は滅んでしまうのに。男の元に辿り着くことさえできないのか。

「いや、双剣の男にならば会えると思うぞ」

 打つ手なしかと沈みかけた場の空気は、けれどすぐにドライの呑気な一言で霧散した。

「はあ?」

「ドライちゃん、それどういうこと?」

 首を傾げる俺と朔也を見て、ドライは少し言いにくそうにしながらみょいんと頭のアンテナを揺らす。

「さっきも言ったが……我輩が襲うのは撹乱が目的だ。まず城を落とし、城下街を威嚇して混乱させ…………そこを双剣の男が襲撃する予定であった。我輩が任務完了の合図を出せば、すぐにでも男は飛んでくるはずだ。何せここが最後の街だからな」

「そうか……! それなら私達はドライに合図を出してもらって、双剣の男を迎え撃てば……!」

「攻め込むよりも、勝機はある……か」

 沈んでいたアルマの表情がぱっと明るくなり、俺も頷きを返した。

 相手がこちらへ来るというのなら得体の知れない相手の懐へ飛び込むよりも、ずっとやりやすい。スポーツの試合のように、やはりアウェイよりもホームの方が有利になるはずだ。

「合図ってさ、具体的に何するの?」

 朔也の問いに、ドライはぽんっと掌に小さな光の玉のようなものを出した。淡い光を放ったそれはちかちかと瞬いて、すっと空気に溶けるように消える。

「……このような光の玉を空に打ち上げるのだ。実際にはもっと大きく強い光のものを、コトレッタから見えるように高くに。そうすれば、男はそこに文字通り飛んでくるはずだ」

「それなら、合図を出す場所は開けたところがいいっすよね……あ、城下街の外れのタリアの丘なんてどうっすか? あそこなら街から離れてるし、見通しもいいっすよ」

 食器を抱えたまま少し考え込んでいたユマが、閃いたというようにぴっと指を立てる。同じように考え込んでいたアルマも、ユマの提案に頷きを返した。

「そうだね、あそこならいいかもしれない。よし、じゃあ準備が整ったら、そこでドライに合図を出してもらおう」

「じゃあ、それで決まりだね! あとどれくらいの余裕があるの?」

 ぱんっと手を打って、朔也がはしゃいだ様子でドライへ首を傾げる。ドライはそうだな、と考えるようにしながら口を開いた。

「我輩がもうこちらに辿り着いていることは、双剣の男もわかっているだろう。だからどんなに手間取っていると考えたとして、今日中……いや夕方には合図を出さねば、不審に思うだろう。様子を見に来てしまうかもしれない」

「意外と時間ねえな……」

 食堂の窓が塞がれていてよくわからないが、今は昼前くらいの時間のはずだ。夕方までの時間なんて、数時間程度のあっという間のものだろう。『世界を救う戦い』にしてはあまりにもインスタントではないか。

 唐突に確定してしまった決戦の時を思って、俺の胸にじわりと焦燥が滲む。思えば変身して戦ったのなんて、まだドライとの一戦きりなのだ。自信なんかあるはずがない。この世界のために戦うとは決めたが、どうやって戦うのか検討もついてないというのが正直なところだ。不安でしかない。

 つまり短い残り時間、俺がするべきことはただ一つ。

 俺がすっと知らず俯いていた顔を上げれば、隣にいた朔也も同じように顔を上げるところだった。ちらと視線をやれば、にこりと笑みを返される。どうやら、朔也も同じ気持ちのようだ。

 そうして俺達は小さく頷き合い、そして。

「アルマ……すまん、少しだけでいい……本当に基礎だけで構わないから、剣を教えてくれ……!」

「ボクもボクも! お願いだからドライちゃん、魔法のコツ教えてー!」

 きょとんとした顔で俺と朔也を見る正面の二人に、テーブルへと頭を擦り付ける勢いで頭を下げた。

 そう。決戦前だというのに、俺達に何よりも必要なのはめちゃくちゃ基本的なことだったのだ。

 聖女という特殊能力に頼って戦うにしても、平々凡々と生きてきた俺達には圧倒的に戦いに関する経験値が足りない。それはドライと戦ったときに痛いほどにわかったことだ。あの時はなんとかなったが、次もなんとかなるとは思えない。

 だからこそ決戦前の今、急ごしらえでもなんでも俺達は戦闘の基礎を身に着けなくてはならなかった。そのためには多少のスパルタも覚悟……したつもりだったのだが。



「ちょ、ちょっと待った! 待ってくれって‼」

 覚悟はどうにも甘かったらしく、二時間後に俺は城の中庭で汗だくになりながら、涙目で絶叫を上げるハメになっていた。

「待てないよ。時間がないんだ」

 申し訳なさそうにしながらも、アルマの剣撃は全く緩まない。絶え間なく繰り出される剣を、俺は受け止めるので精一杯だ。少しでも隙を見せたら打たれるので気が抜けない。練習用の木剣とはいえ、当たるとめちゃくちゃ痛いのだ。

「もう、むりいーっ!」

「無理じゃない。諦めたら負けだ、自分を信じるのだ!」

 遠くから朔也の悲鳴と、ドライのスポ根みたいな一喝が爆発音と共に聞こえる。どうやら向こうもこちらと大して変わりがないようだ。部活もやってなかった俺達に、この特訓はだいぶハードである。

「ほら気を逸らさない! 相手に集中する!」

「――――っ!」

 少し考え事をした途端にアルマの木剣が俺の横腹にめり込んで、激痛に喉から声にならない悲鳴が迸る。一撃の勢いを受け止めきれずに、俺の体はそのまま横へと吹っ飛んだ。

「う、ぐっ!」

「ツバサ、大丈夫かい⁉」

 地面に打ち付けられた俺へ、はっとしたようなアルマが駆け寄ってくる。立ち上がらせようと手を差し伸べてくれるが、凄まじい痛みと激しい息切れに腕も上がらない。

「す、すまん……ちょっと休憩……」

 あまりの満身創痍っぷりに、思わず弱音を吐きかけた時。

「がんばるっすよ! お、お兄ちゃーん……!」

 突然耳朶を打った、恥じらうように震えながら必死に呼びかける声に俺はがばりと体を起こす。

「うわっ起きた」

 アルマの驚いた声が聞こえたが、そんなのは二の次だ。視線をきょろきょろとさまよわせると、顔を真っ赤にしながらミニスカのメイド服を着たユマが視界に飛び込んでくる。しかもなぜかユマの小さな手には、『がんばれ♡お兄ちゃん♡』とやけにポップな字体で書かれたうちわが握られているではないか。

 どう考えても朔也の差し金である。あの謎うちわとかここはライブ会場かよ。いつ作ったんだよ。と俺のかろうじて冷静な部分がツッコむが、俺の大部分がユマの外見の可愛らしさに狂わされる。何せユマは優愛にそっくりなのだ。しかも『お兄ちゃん』呼びなんて、抗えるわけがない。何だあれ、あざといくらいに可愛い。人生が狂いそうになるくらい可愛い。あの可愛さのためだったらなんでもできる。

「アルマ、どんどん頼む……!」

 ゆらりと立ち上がりアルマに向き直れば、アルマは若干戸惑うような様子を見せつつもすっと再び剣を構えてくれた。

「さあいくよ、ツバサ!」

「おうッ‼‼」

 先程までの満身創痍はどこへやら。己の内から湧き出る不思議なほどの気力に背を押され、俺は勢い良く地を蹴る。

 肉体の疲労や痛みを全てを忘れるような高揚感。今なら俺は、いつまでだって戦えそうな気がしていた――

「むり……ほんとうにもうむり……一ミリたりともうごけねえ……」

 そしてそれは当然気のせいなのでその一時間後、俺は大地に沈むハメになっていた。呻く言葉すらひらがなのような気がする。

 あれから倒れる度に『お兄ちゃん♡』で蘇生させられ、何度も何度もリビングデッドのように起き上がっていた。しかし当然だが麻痺してるだけでしっかり体にはダメージが降り積もっていて、一点を超えたあたりで唐突に限界がきたのだ。知ってるか、アドレナリン、別名脳内麻薬っていうんだぜアレ。俺は今思い出したところだ。ちくしょう。

「ボクもうなにもでない……ひからびちゃう……」

 隣には同じような状態の朔也が転がっている。心なしかやつれたような気がするが、精も根も尽き果てた今は朔也を気遣う余裕もない。ユマの件について肩を揺さぶってやりたい思いもあるが、それも後回しだ。

 体力ゲージも気力ゲージも真っ赤で、どう考えても数時間では回復しそうにない。怒涛の訓練によって剣の腕は少しマシになったとは思うが、決戦前に力尽きてしまっては本末転倒ではないだろうか。

 疲労から虚ろに青い空を眺めていると、いつの間にか傍らにしゃがみこんでいたドライがごそごそと、ポケットからミニトマト位の木の実のような何かを取り出した。

 ………いや、なんかやけにブツブツしてるし、色がそもそも銀色とか食べ物の色をしてないし、たぶん木の実じゃないわ……なんだあれ……よく見たら人の顔みたいな模様してるし……怖……。

 なんとなく見るともなしにその不思議な物体を眺めていると、ずいっと俺の目の前へとそれが差し出されてしまう。まさか、と思うと同時にドライが口を開いた。

「これを食え」

「えっ、生理的に無理」

 あんなに疲れ切っていてひらがなしか話せなかったというのに、あまりの拒否感に思わずはっきりと即答してしまった。だってどう見ても食べ物じゃない。オーラが禍々しすぎる。

「これを食べれば、即座に気力体力共に全回復するのだ。四の五の言わずに食え」

 ぶんぶんと首を横に振って拒否する俺の頬へと、焦れたドライがみょいんみょいんとアンテナを揺らしながらその謎の物体を押し付けてくる。

 聞く限り効果は素晴らしいが、ビジュアルが本当に受け付けない。というか、なんでありがたいアイテムが信じられないくらい毒々しいんだ。おかしいだろ。妙に柔らかいし、ドライのポケットに入っていたからかなんだか生温かいし。無理。これを口に入れるなんて正気の沙汰じゃない。

「いや、ない。本当にない。無理だって、それ食い物じゃねえって」

「大丈夫だ、安全性は保証されている。たしか」

「そういう問題じゃねえんだわー! しかもたしかって、うろ覚えじゃねえかー!」

 決死の攻防を繰り広げる俺達の横で、朔也がちょいちょいとユマを手招く。ものすごく嫌な予感がするが、今ドライから気を逸らす訳にはいかない。気を抜けばそこでデッドエンドだ。

「えっ……オレが……? ええええ………し、仕方ないっすね……ドライ様、ちょっとお借りするっすね」

 しかしそのせいでユマは、まんまと朔也に悪巧みを吹き込まれてしまったようだった。はじめユマは嫌そうな顔をしたが、やがて諦めたようにドライから物体Xを受けとってしまう。そうして白く細い指先でそれをつまみ上げ、恥じらいながらそっと俺へと差し出した。

「お、お兄ちゃん……あーん……っす」

「イタダキマス……ッ!」

 疑似妹からあーんなんてされては、俺に拒否権などあるはずもなく。死を覚悟して、俺は涙目になりながらも本能的に閉じようとする口を無理やりこじ開ける。その瞬間に、ぽいと白魚のような指先から悪魔の果実が口内へと落とされる。

「す、すごい……! あんなに躊躇っていたのに、即座に口にした……!」

 アルマの驚く声を聞きながら覚悟を決め、俺は外見を思い出さないように努めつつ勢い良く実に歯を立てた。何とも言えない食感と共に、果皮が破けるのがわかる。

 直後、俺は宇宙を感じた。何を言っているのかよく分からないと思うが、そうとしか言えない。味という枠に収まらない、圧倒的なまでの衝撃。コスモが俺を襲っていた。ちかちかと視界に光が瞬いているような、俺自身が星空の一部になってしまったかのような感覚。意識が無重力を漂って、だんだんと光の射す方へと吸い寄せられて――

「……はっ! やばい、死ぬやつだこれ!」

 なんとか光の向こうへとたどり着く前に我に返った。危ない、今のどう考えても臨死体験だったぞ……こんな死に方は嫌だ……。

 あまりの体験に思わず自らの体を抱きしめ震えていると、俺はふとあることに気がつく。

「あれ……、体が軽い?」

「言っただろう、気力体力共に回復すると」

 ドライが得意げに胸を張るが、これは滋養強壮というレベルではない。肉体的疲労と精神的疲労が完全に回復していることもそうだが、先程負ったはずの全身の擦り傷や打撲といったものもすべて消え失せているのだ。

「なんだこれ……すげえ……二度と食いたくないけど……」

 しげしげと自分の全身をくまなく見分し、立ち上がったりしゃがんでみたりして動きを確かめるがどこも痛くない。存在が悪夢みたいな木の実なのに、凄まじい効果だ。副作用がないか若干怖いが、考えないことにしたい。

「ドライ、これ朔也の分もあるんだろ?」

「ああ、もちろんあるぞ。ほら、これだ」

「サンキュ」

 そんなことよりもと、俺は上機嫌でドライから銀色に光り輝く木の実を受け取る。反撃開始だ。ニィと唇を釣り上げながら、朔也の傍らへと膝をついた。

「朔也、ほら。あーん」

「いや……ボクそういうのはちょっと遠慮したいっていうか……」

 ノリノリで俺から差し出された禍々しすぎる木の実に、朔也は怯えた様子で身をよじって逃げ出そうとする。が、疲労に蝕まれた体は起き上がることを許さず、べしゃりと朔也は再び地面へと沈んだ。逃亡が無理なことはわかっているのに、それでも逃げたくなるのがこの木の実の圧力の凄さを物語っている。

「観念するんだな……喰らえええええッ!」

「ウワーッ‼」

 そうして身動きの取れない朔也の口へと、俺は小宇宙の元を捻り込んだ。絶叫をあげながらも朔也が実を、飲み込む。

 と、途端。朔也を取り囲むように、光り輝く魔法陣が周囲に展開した。カッと朔也の瞳孔が開き、全身が光に飲まれていく。そしてなぜかどこからともなく賛美歌のようなものすら流れ始めた。なんだこれ死ぬほど壮大。

「えっ、大丈夫なのかよこれ⁉ 俺の時もこんなんだったの⁉」

「そうだよ。まあ、カッツオの実だからね。元気になるよ」

「珍しいんすよこれー。オレ今日が見るの初めてっすもん」

「コトレッタの特産品だ。しかしいつ見ても派手だな」

 しかし動揺する俺をよそに、他の三人は花火でも見るような様子だ。こんな最終兵器始動みたいなモーションなのに。嘘だろ。世界が違うなら常識も違うとは思うが、どうしても理不尽な気持ちが拭えない。

 俺がカルチャーショックに打ちのめされているうちに、魔法陣の光は収まって賛美歌もどきも止まる。と、同時に朔也は跳ね起きて、涙目で俺へと飛びついてきた。

「コスモが! 小宇宙が! 翼、ボク大丈夫だよね⁉ ボク何か大天使とか、ラスボスになってたりしないよね⁉」

「大丈夫だ……覚醒してたりとか第二形態とかになってたりとかないぞ……俺達たぶん人間のままだ……なんかごめんな……」

「ボクもごめん! ほんと怖かった! 怖かったよ翼ー!」

 お互いの無事を確認して、俺達はひしと抱き合う。今こそ、一人でこの世界に来なくてよかったと思うときはない。一人でこの体験をしていたら、恐怖に耐えられたかわからなかった。ありがとう友よ、という感じだ。

 怯える俺達の様子に、他の三人は揃って不思議そうにこてりと首を傾げた。

「……? 治ったからいいだろう。結構貴重な物なんだぞ」

「そうっすよ。十年に一度、満月の日にしか採れない高価なものなんすよ?」

「一粒につき、金十キロと等価とも言われてるんだけどね。二人には合わなかったのかな?」

「なんなんだよその追加情報怖っ! 知りたくなかった!」

 やいのやいの言う三人の話から、つい今さっき飲み込んだものの値段を換算してしまいそうになって俺は慌てて思考を止める。

 出し方がポケットからとかいやに雑だったせいで騙されたが、これだけの驚異的な効果があって貴重となれば相応の値段がするのも仕方がない。とはいえ、アレが恐ろしい金額であることも、嘘みたいに高価なものを体内に入れてしまったことも、しばらくは考えたくないのだ。

「そんなことより、ボク汗かいちゃったからお風呂入りたいなー! ね、翼!」

 朔也もあまりそのことを考えたくないのか、あからさまなほどの明るい声でやや強引に話題を変えにきた。

「お、おう……それもそうだな」

 同意を求められてなんとなく自身へと視線を落としてみれば、汗とかそんなレベルではないものすごい惨状がそこにあって思わず真顔で頷いてしまった。狂気の食物のことをこれ以上考えたくないというのもあるが、それを抜きにしても確かに早急に風呂に入ったほうがいいだろう。稽古着を借りておいてよかった……制服がこのレベルで汚れていたら、絶望に泣き崩れるところだった……。

 俺達のどろどろぼろぼろ状態にアルマも言われて気が付いたようで、にわかに慌てた様子を見せる。

「うわ、ごめんね気付かなくて! そうだよね、女の子だしそういうの気になるよね……! ユマ、急いで二人を案内してくれる?」

「おまかせくださいっす! じゃあお二人とも、こちらへどうぞーっすよ!」

 主人の命令に、ユマが元気に応え俺達を手招いた。どうやらメイド服には慣れてきたらしい。本人にとって慣れた方がいいのかどうかはわからないが、俺の目にとてもいい光景なのでコメントは控えておく。下手に言及して着替えるとか言い出されたら泣くし。

「ありがとー、ユマちゃん! ほら、翼も早く!」

「わかったから、引っ張るなって。アルマ、ドライ、また後でな」

 よほど風呂が嬉しいのか俺の手を引いて先を急ごうとする朔也に苦笑しつつ、アルマとドライにひらりと手を振る。思えば昨日も風呂に入っていないし、朔也のはしゃぎようも仕方がないのかもしれない。かくいう俺も城の風呂に入るなんて、今までもこれからもないであろう体験に少し胸が弾んでいた。いったいどんなものなのか、とても気になる。

「ねえねえ、案内してくれてるけどお風呂ってすぐに用意できるの?」

「地下から温水が出るんっすよ。だから一日中ずっと流しっぱなしで、お湯が冷めたりとかはないっす」

「ひゃっほー! つまりそれって温泉だ! しかも源泉かけ流し! 最高だね翼!」

「そうだな」

 そうして喜びに飛び跳ねる朔也にまんざらでもない気持ちで頷きを返しながら、俺もいそいそとした足取りで二人の後へと続いたのだった。



「ここがお客様用の浴室っすよ!」

「おお……」

 城の中、案内された風呂は期待に違わぬ広さで俺は思わず感嘆の声を上げる。

 白を基調とした広い空間に、ぽつりぽつりとあちこちの柱にある明かりの火が揺らめいているのが、立ち上る湯気もあいまって幻想的な雰囲気だ。それに何よりも真ん中にある、プールかと思うほどの大きな丸い浴槽が目を引いた。その近くの柱の一つに設置されたうどんの像の器部分から、お湯が絶え間なく浴槽に流れ込んでいるのが唯一めちゃくちゃ気になるが、それ以外はものすごく豪華な浴室だ。

「すっごーい! ほら見て、お湯が白いよ! 最高!」

「この城の浴室は人気なんすよ。貴族の方や、他国の方がこれを目当てに城へ挨拶に来ることもあるくらいっす」

 朔也が目を輝かせて湯舟へと駆けよれば、ユマが誇らしげに胸を張った。

「お二人とも、着替えはここに置いていくっすからね」

 ユマはそう言って、洗っておいてくれていたのかきちんと綺麗に畳まれた制服とタオルの入ったかごを持ってきて浴室の隅へと置く。脱衣スペースがないなとは思っていたが、なるほど浴室はそれも兼ねているらしい。浴室は広いからうっかり濡らす心配もないし、こういうのもありかもしれない。

 それじゃ、なんてそのまま去ろうとするユマにあれ、と朔也が首を傾げた。

「ユマちゃんは一緒に入らないのー?」

「な……っ! 女の人となんて入れないっすよ! オレだって男なんすから、そういうことは言っちゃだめなんすよ、もう!」

 途端、真っ赤になって慌てたユマの言葉を聞いて、俺はここで初めてある違和感に気が付いた。思えば意識していなかっただけで、この世界に来てからずっと違和感はあったような気がする。あれ、まさか、そんな。

 ぷすぷすと怒りながら去っていくユマを見送りながら、ぽつりと俺は違和感を口にした。

「もしかしてだけど、みんな俺達が元男だっていうこと知らない……?」

 そういえばさっきもアルマが『女の子だし』とか言っていたし、そもそも最初から俺達のことを『姉妹みたい』とか言ってなかっただろうか。

 視線を朔也へとやれば、朔也もうろりと記憶を探るように視線をさまよわせ……はっとしたように呟く。

「言われてみれば……説明した記憶もないね……!」

「ということは……」

「ボク達女の子だと思われてるね……いや、それで何か困るってわけじゃないんだけど……」

 うーん、と朔也は微妙な顔をする。そう、別に悪いことをしているわけでもないし、不都合があるわけでもないのだが、何か騙しているようで心苦しいのだ。あーと意味のない呻き声を上げて、俺はくしゃと自分の髪をかき混ぜた。

「一応後で言っとくか……」

「それもそうだね……説明すっごく面倒そうだけど」

「それなー」

 俺本人だって元の世界では男子高校生だったけど、この世界に来るときに女の身体になって聖女になったとか説明してて気が狂いそうになるくらいだ。でも実際に起きてしまったんだから仕方がない。事実は小説よりも奇なりってやつである。

「まあ特に問題もなかったしいいじゃん。それより早く入ろ!」

 どう説明すべきかと悩んでいると切り替えるように朔也が言って、ごそごそと稽古着を脱ぎ始めて俺はぎょっとする。そういえば、風呂というのは当然全裸になって入らなくてはならないのだ。つまりは女になった自分の身体も再び見なくてはならないし、忘れていたが一応女になっている朔也の身体も見ることになるのではないか。

「ちょ、ちょっと待て! やっぱり別々に入ろう!」

「え、何急に……ってああ、そっか」

 慌てて止めた俺を朔也は怪訝そうに見たが、すぐに納得したらしく露骨に面倒だという顔をした。

「別にボクは前とそんなに変わらないし、翼のは昨日変身するときに散々見たじゃん。第一、昔からプールとか一緒に行ってるんだしさー」

「そういう問題じゃないだろ! っていうか昨日そんなに見てたのかよ! なんでだよ!」

「迸る好奇心を抑えきれなくてつい!」

「正直に言えば許されると思うなよ!」

 昨日の黒歴史レベルの羞恥を思い出して涙目になる俺に、朔也はまっすぐな瞳で最低なことを言い放つ。なんで俺は異世界に召喚されて、幼馴染にセクハラを受けているんだろう。ちょっと意味が分からない。倫理観をもっと強く持ってほしい。

「まったく、翼はしょうがないなあ……あ、ほらタオル巻けばいいじゃん。何枚か置いてくれてるし」

 頑なな俺の態度を見て、少し呆れたように笑いながら朔也がかごからタオルを引っ張り出した。バスタオルくらいの大きさのそれは、確かに巻けばうまい具合に身体が隠れるだろう。まだ露出度は高いが、全裸よりは格段にましだ。

「じゃあ、それで……」

 俺は躊躇いながら朔也からタオルを受け取り、極力自分や朔也を見ないように心掛けながら急いで服を脱いでタオルを身体に巻き付けた。たったそれだけのことなのに、巻き終わった時にはどっと疲労感に襲われる。意識しない日常の中では自分の身体にも慣れたが、さすがに全裸は別だ。早く自分の身体に戻りたいと、ぐったりしながら思う。

「翼ー? 何してんのー?」

 俺が一人苦悩している間に朔也はすでに身体を流していたようで、湯舟へとその身を沈めていた。広い浴槽でのんびりとくつろぐ姿に、慌てて俺も体を流し、後を追う。

「はー……あったまる……」

 そっと足先からその乳白色の湯へと身体を沈めていけば、心地よい温かさに全身の筋肉が緩むのがわかった。ちゃぷんと肩まで浸かると顔から下が見えなくなって視界に肌色が入らなくなったこともあって、俺はほっと息をつく。体力や気力はあの恐ろしい実で回復していたが、それとはまた別に精神が回復したような気分だ。やはり風呂はいい。

 俺がしみじみと幸福を噛みしめながら「これってだし汁を注ぎ込んでるっていうコンセプトなんだろうか」と割とどうでもいいことを考えながらうどんの入った器の像から流れる湯を眺めていると、ぱしゃりと水音を立てながら朔也が近づいてきた。やけに真剣な顔をしているが、どうしたのか。訝しむ俺に朔也は声を潜めて、そっと耳元に囁く。

「ねえ翼。もしかして翼ってさ……ずっとノーブラ?」

「お前は他に言うことはないのか」

「へぶぅッ」

 そのあまりの発言の中身のなさに、思わず脊髄反射で朔也の頭を掴んで湯へと沈めてしまった。真面目な顔をして何を言ってるんだこいつは。

「だって! その大きさでノーブラって! ものすごい重大なことじゃない⁉」

 ざばりとすぐに湯から顔を上げた朔也の主張は、男子高校生として気持ちは分からないでもないがやはりどうかと思う。呆れに大きくため息をつきながら、俺はばしゃりと朔也に湯をかける。

「言い方が悪い。女ものの下着なんか持ってるわけないから仕方ないだろ……それに、それは朔也も同じだろーが」

「え、ボクずっと絆創膏つけてたよ」

「え、ええー……なんだそれ、コメントに困る……」

 絆創膏ってなんだよ、絆創膏って。そんなさも当然みたいな顔されても困る。どんな顔して貼ったんだよ。さらりととんでもないことを言われて戸惑う俺に、朔也はずいと身を寄せる。

「走ったり動いたりするときに動くの痛いでしょ。ボクは絆創膏ぐらいでいいけど、翼はちゃんと下着つけなきゃだめだよ」

「う……でも、そんなの持ってないし……」

 アルマを追った時や、稽古の時の心当たりを思い出して怯む俺に朔也がぐっと親指を立てた。

「大丈夫! ボクちょうど持ってるから!」

「なんで⁉」

 どうして学校の帰りに拉致されるような形で異世界に来たのに、『ちょうど』女性用下着を持ってるのか。意味がわからない。混乱する俺に、朔也は朗らかに笑いながらぱしゃぱしゃと湯の水面を叩く。

「いやー、お姉ちゃんが福袋に入ってた変な『日本一』とかおっきく書いてあるの、いらないからってくれてさー。あの日帰りに翼の家に寄る予定だったじゃん? その時に翼の部屋に置いておこうかなーと思って、スカートのポケットに入れて持ってきてたんだよね。今思えばあの日荷物検査とかなくてよかったー」

「そういう問題じゃないな⁉ 何さらっと人の家にトラウマものの悪夢仕掛けようとしてんだ!」

 気軽な調子で未遂だった犯行をぶちまけられたが、それを実際に実行されていたらと思うと背筋が冷えるものがある。女性用下着が俺の部屋にあるのをもし家族に見られたら、家族会議待ったなしだ。特に優愛に知られた日には目も当てられない。死を考えるレベルだ。

「で、どうする? 『日本一』いる?」

 想像に肝を冷やしていると、焦れた朔也に聞かれて俺はぐっと言葉に詰まった。今までのことを思えば着けた方がいいのはわかるが、やはりどうにも抵抗がある。何なんだよ『日本一』って。何を主張しての『日本一』なんだよ。そりゃ姉ちゃんもいらないと思うわ。

「う、ぐぐ………」

 正直、心底着けたくない。しかし、動きがとりやすくなるのなら着けるべきではないのか。俺が嫌な二律背反に苛まれていると、朔也があ、と手を打った。

「部屋にあった包帯借りて、さらしみたいに巻いてもいいかもね」

「それだ……!」

 提示された起死回生の一手に、俺は勢いよく縋りつく。本当にありがとう包帯。よかった……『日本一』を着ける羽目にならなくて本当に良かった……!

「そんなこと話してる間に温まったねー。そろそろ出よっか」

 俺が喜びを噛みしめていると、朔也はざばりと立ち上がる。確かに入浴してから結構な時間が経っているし、そろそろ頃合いかもしれない。そう思って俺も立ち上がろうとした。が。

「ツバサ―? サクヤ―? 私も入るよー?」

「はっ⁉」

 入口の方からそんな呑気なアルマの声が聞こえてきて、俺は思わずびくりと飛び上がってしまった。

 だって、アルマは俺達を生粋の女だと思っているはずなのだ。なのになぜ普通に入ってくるのか。もしかして混浴が普通の文化なのかと思うが、すぐにさっきのユマの態度を思い出して否定する。じゃあ、なぜ。

 そう思って振り向いた先。答えは。

「あ、もしかしてもう出るところだったかな?」

 なんてことはない。俺が勝手に青年だと思っていたアルマは、実は女の子だったというわけだ。あんなにイケメンで、強くて、誰よりも頼れるアルマは王子じゃなくて、姫。それを確認してしまい、納得してしまった俺は瞬時に真っ赤になって絶叫を上げていた。

「うっわああああああああああああああ‼」

「えっ、どうしたんだい⁉」

「あっちゃー」

 絶叫を止められない俺、戸惑うアルマ、呆れた朔也。そんなどうしようもない阿鼻叫喚に、またひとり入口から血相を変えて人が飛び込んでくる。

「どうした! いったい何があったのだ!」

 絶叫を心配して駆けつけてくれたドライ、正真正銘の身体も精神も生粋の男である。そんな心根の優しい男が、肉体的には女性しかいない風呂場に突入してきてしまったのだ。どう考えてもアウトである。

「お前は来ちゃだめだろ‼‼」

 直後、俺の手から放たれた渾身の桶が顔面ストライクすることになったのも、仕方のないことだと思っていただきたい。

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