三章 天使が舞い降りて決意の朝がくる

「ああー、茶がうまい……」

「そうだねえ……なんかこう、染み渡っていくよねえ……」

 中身のない会話をしながら朔也と二人、華奢なティーカップを傾ける。少々行儀悪くずずっと音を立てて茶を啜れば、ふわりと香ばしいような香りが鼻先を掠め、口内に仄かな甘みが満ちた。

 うん、なんの茶だかよくわからないがうまい。

 ぼんやりとしながら、俺は茶の味に思わず口元を緩める。いつもなら原料を気にしたり、飲むまで躊躇したりしたかもしれないが、今は細かい事を気にするキャパシティがないのだ。もういい、害がないならそれでいい。

 のろのろと鈍った頭でそんな事を考えつつ、俺は続けて目の前にあった細長い揚げ菓子へと手を伸ばす。サクリとした食感と、中のモチモチとした食感がたまらない。さらに上にかかった砂糖の甘みが疲れ切った体に大変嬉しい。………これ今気がついたけどたぶんうどん揚げたやつだ、美味しいからいいけども。

 普段なら確実に追求するであろう点も、今はスルーだ。とにもかくにも余裕が今はないのである。

 男との戦いの後、精神的にも体力的にも使い果たし、真っ白になって動けなくなっていた俺達は、見かねたアルマに最初にいたベッドのある部屋へと連れてこられていた。アルマの指示であっという間にメイド達にお茶を振る舞われ、今に至っているわけである。

 アルマ自身も男の攻撃で体を痛めていたはずだが、俺達が落ち着いたのを確認すると後始末をすると言って出ていってしまった。俺達も片付けだとかを手伝いたかったのだが体が動かず、見送る事しかできなかったのは少し罪悪感を覚えるがあの時はもう体がどうしようもなかったのだ。

 メイドもアルマの後に続いて出たため、今ここにいるのは俺と朔也の二人だけである。気の知れた間柄ということもあり、少し気だるい空気に浸りながら俺達はそのままだらだらとしばらく茶を啜り、サクサク揚うどんを頬張り続け。

 時間をかけてようやく空にしたカップを、同時にソーサーへかちゃりとひそやかな音を立てて置いた。

「ところでだな。これ、どうするんだ」

 そうおもむろに言いながら俺は着ている服の裾をつまみ、ひらりと揺らす。そう、今の格好は元の男子制服ではなく、先程変身した魔法少女のままなのだ。力を使い終わったら元に戻るとかいう話はどうなったんだ。

 正直、スカートは足元がスースーして落ち着かないから、さっさと着替えたいというのが本音である。

 だがしかし、着てきた制服は魔法少女服になってしまったし、そもそも魔法少女服はチャックやボタンといったものがないため脱げない。このままでは強制的にエブリデイ魔法少女だ。全裸よりは格段にマシだが、さすがにエブリデイ魔法少女は辛いものがある。

 あと、制服がないと元の世界に戻ったときにとても困る。正確にいうならば、制服は一着で結構いいお値段なので、魔法少女服になってしまったという理由で買い替えるなんてとてもではないができない。なけなしの俺の貯金を殺す気か。

「んーあー……解除は確かねー」

 俺の切羽詰まった思いとは裏腹に、朔也はいかにもだるそうに答えながら右手を掲げて、ぱちんと指を鳴らす。途端、朔也の全身が変身するときのように光に包まれ、光が収まると元の制服姿へと戻っていた。

「はい、できた」

 事も無げに言って手を下ろし、朔也はぐたりと机に伏せる。しかし、俺は一連の流れを見て呆然とするしかなかった。

「……できない」

「え?」

 ぽつりと零した言葉に、朔也が怪訝そうな顔をしてのそりと起き上がる。そんな朔也に見せつけるように、俺は右手を掲げた。指を合わせ、勢いよく弾く。

 だが。

「……鳴らないね」

「俺指鳴らすのできないんだよ! どうすんだこれ!」

 分かってはいたが、何度試してもできない。ただ、かしゅっと虚しく皮膚の擦れる音が聞こえるだけだ。

 まさか、できなければずっとこのままだというのか。悲痛な声を上げた俺に、朔也が掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出す。

「どうして練習してないの⁉ 普通指パッチンの練習するでしょ!」

「しねえよ! 何なんだその前提!」

「中学生ぐらいの時に、『イッツ・ショータイム!』パッチーン! みたいなの憧れるでしょ⁉ 翼それでも男子なの⁉」

「わからんでもないが、実際そんな理由で習得するやつ少ないだろ!」

 ひとしきり言いがかりをまくし立ててきた朔也は、はあと大きくため息をついて頭を抱えた。

「指パッチンは必修科目だと思ってたのに……どうして今の事態を想定できなかったの翼……」

「ある日突然異世界に召喚されて女になって、世界を救うための聖女という名の魔法少女にされ、その変身を解くのに指パッチンが必要だという事態をか……事前に想定できてたら俺はエスパーか電波野郎だろ……」

 朔也のあまりの言い草にぐったりとしながら、俺も頭を抱える。どれほど文句を言ったところで、現状は変わらないのだ。

 つまり指を鳴らせなければ俺は制服を失い、これからエブリデイ魔法少女。下手をしたら元の世界に帰って男に戻っても魔法少女。朔也ならいいかもしれないが俺は一発アウトである。

 ぐっと拳を握りしめて、俺は覚悟を決める。

「今からでも……練習するしかない……!」

「そうだね翼、頑張るしかないよ。ボク応援してるから!」

 こうして長く(三十分)苦しい(手の筋肉が)戦いが始まった。

 もう何十回やったかわからなくなるほど指を弾き、手の筋肉はやがて疲労で痛くなる。擦り続けた指先も赤くひりつき、もうだめかと諦めそうになる時も何度もあった。

 けれどお値段約三万六千円の制服の存在と、このままではエブリデイ魔法少女という現実が俺を突き動かす。ちなみに朔也は途中で見守るのに飽きて、茶をもう一杯淹れて飲んで揚うどんをサクサクしていた。あとで頬をめちゃくちゃ引っ張るからな覚えてろ。

 固い決意を胸に指を延々弾き続けていると、ふいにコンコンと密やかなノックの音が響いた。

「はーい、どうぞー」

 後始末を終えたアルマか、それともメイドが茶器を片付けにきたのか。相変わらず手元では文字通り血の滲むような努力をしつつ、俺は朔也の気の抜けた返事に応えてカチャリと開く扉を見やる。

 と、扉の向こうから天使がひょこりと顔を出した。

「えっ、あれ?」

 驚いたような朔也の声が聞こえる。俺はその瞬間、時が止まったように感じた。同時に、思わず力んだからかバチンとようやく自らの指が鳴ったが、そんなことはどうでもいい。光に包まれて念願だったはずのいつもの制服に戻ったのも、もはや些細なことになってしまった。

 だって天使だ。俺の胸元くらいまでしかない小さな華奢な体、白くふっくらとした頬、肩まで伸ばしたさらさらの烏の濡羽色の黒髪、そしてまんまるの大きな瞳。もうこの世の可愛いを煮詰めて作ったような造形だ。そんな可愛いものが執事服を着て、ちょこんと扉の前に立っているのだ。我を失わない方がおかしい。そう、そこにあったのはまさに天使……別名俺の妹、優愛の姿。

「優愛ーッ!」

「ウワーッ! なんすかこの人ー!」

 どうして別の世界であるはずのここに妹がいるのだとか、今の自分の姿だとかはすべて放り投げて、堪らず名を呼び小さな体へと飛びつく。と、同時に優愛にしては少し低い悲鳴があがって、俺ははてと首を傾げた。

「優愛?」

 不思議に思って抱きしめたまま顔を見れば、そこには胸に埋もれて真っ赤な顔をした優愛が――いや、よく見たら目の下の愛らしいほくろが無い。それから耳の形が若干違う。

「ひ、人違いっすよお……は、離して……」

 ぐすぐすと涙目で訴える姿や口調は、言葉の通り確かに普段の優愛の姿からはかけ離れている。しかし、同じように死ぬほど可愛い。天使が言うとおりどうやら別人のようだが、こんなに可愛い存在がはたして二人もいていいものだろうか。この世は天国か。

 ぎゅむぎゅむと抱きしめながら考えていると、朔也が腕の中を覗き込んで感嘆の声を上げる。

「えーほんとに優愛ちゃんじゃないの? すごいよく似てる……あ、この子男の子だ」

 言われて再び至近距離で顔を見るが、どう見ても天使で性別なんてわからない。もっとも、妹関連については判断力が鈍るだの何だのよく言われるため、俺が鈍いのか朔也が鋭いのかは謎だが。

「だからそのユア? さんとオレは別人っす……お二人とは初対面っすよ……」

 腕の中で優愛によく似た天使――少年が重ねて主張する。冷静に考えれば俺達の他に異世界にきたのは今のコトレッタ王だけのはずなのだから、優愛がいるわけがないのだ。いない方がいいとわかってはいるのに、つい取り乱してしまった。

「なんだ……人違いか……」

「そう言いながら手は離さないんだね翼……」

 呆れたような朔也をスルーしつつ、俺はため息をついてもふりと少年の髪に顔を埋める。

 しかし、ならば一体この少年は誰なのだろう。優愛ではなかったことに落胆しつつ俺が首を傾げた時、胸元に埋まったまま少年がうわずったような声を上げる。

「オレの名前は、ユマっす。この城の見習い執事をしてるんすよ」

「へえ、執事さんなんだ。小さいのにすごいねえ。それにしても名前まで似てるなんて、なんか運命を感じられずにはいられないね」

 少年、ユマの名乗りに朔也は笑って、ユマの頬をちょいちょいとつつく。突かれるたびにうっ、と微かなうめき声を零していたユマは、やがてむすりと頬を膨らませた。

「あ、あの……いい加減離してくださいっす……オレ、お二人を呼びにきただけなんすけど……」

「俺達を呼びに?」

 てっきりお茶の片付けか何かにきたのだと思っていたので、その用事は想定外であった。思わず聞き返したと同時に、開きっぱなしだった扉からひょいとアルマが顔を出す。

「ねえ、ここにうちのユマがこなかったかい? なかなか戻ってこなくて……って、あ」

 そうしてこちらの状況を確認し、一拍おいてみるみるアルマの顔が赤くなっていく。なんだか見たことがある光景である。

「あ、えっとその……、ユマお楽しみ中ごめん……?」

「アルマさま、違うっすよ⁉ オレはなにも楽しんでなんかないっす……!」

 胸の大小戦争に引き続き、今度は何を勘違いしたのか。真っ赤になったアルマの言葉に、必死になってユマが俺の腕から逃れようと手足をばたつかせる。

 しかし現在深刻な妹成分の不足に陥っている俺は全く離す気がなかったため、結果さらにユマをぎゅうと抱きしめただけに終わった。

「ちが、違うのに……! うう……離してくださいっす……」

 ユマは耳まで赤くして涙目でしばらく抵抗していたが、やがて大人しくなり、胸元できゅうとか細い鳴き声のようなものを零す。うむ、とても可愛い。

「あ、あのっ……もう、やめ……」

 違うとわかっても外見がほぼ一緒のため、ついにやにやしつつ頭を思う存分撫でる。

 さらさらと触り心地の良い髪を梳いていれば、擬似的にだが枯渇していた妹パワーが満ちていくような気がする。

 ほくほくと擬似妹を堪能している俺を呆れたように眺めて、朔也はあーと間の抜けた声を出す。

「まあ、確かにいたいけな少年に手を出すお姉さんっぽさはあるよね……そしてこういうときばっかり現れるアルマちゃんは、なんでも目撃する家政婦の才能があるよ……王族だけど……」

「そ、そうなのかい……?」

 顔を赤らめたまま、アルマがよくわかってない様子で困惑したようにこてんと首を傾げた。

 朔也、どう考えてもそのネタはこちらの人間には通じないだろう……だがまあ、ちょっとわかる。ただし、目撃するものが尽く勘違いだが。

 考えながら、俺はひたすら妹成分を補充するべくユマにぐりぐりと頬ずりしている。そんな俺の様子を見て、こそこそとアルマは朔也へと顔を寄せた。

「朔也。ええと、その……翼は、ユマをどうしたいんだい」

「あー、ユマちゃんは、優愛ちゃんっていう翼の妹ちゃんに似ててね……翼、優愛ちゃん大好きだから……」

「じゃあ妹さんに似てる人がいると、いつもあんな事に……?」

「ごめんね……昔からちょいちょいあるんだよ……妹に似てるって言って、猫とかぬいぐるみとか見て我を失ってることが……」

「それは……すごいね……」

「今回は、ちょっと会ってない時間が長かったのと、ユマちゃんが優愛ちゃんにすごい似てたから特別酷いんだよ……少ししたら落ち着くと思うから……」

「そうだったんだね……頑張れ、ユマ……」

 小声で交わされる呆れの混じった話に少しむっとするが、まあ大体事実であるためあまり文句も言えない。それにそんなことより妹充だ。と、生温かい視線を受けながら天使を満喫することしばらく。

「で、アルマ。後始末とかいうのはもういいのか? あの男はどうしたんだ?」

 そうして妹成分ゲージが回復して満足した俺は、ようやく顔を上げてアルマへと水を向けた。もっとも、少々くたびれた様子のユマはまだぐったりと俺の腕の中に収まったままではあるが。

「うわっ、なんか突然普通になって話を始めた」

「何言ってんだ、俺はずっと普通だろ」

 なぜか引いた顔をする朔也に軽く抗議して、アルマへと視線を投げる。アルマはぼんやりとしていたようで、焦ったように口を開いた。

「え、ええっとね、後始末は終わったよ。メイド達と片付けたから、意外と早く終わったんだ。避難したメイドの子達全員の安全も確認したし、問題ないよ」

 アルマの言葉に、男との戦闘後に見た部屋の惨状を思い出す。あちこちにガラスが飛び散っていたのもひどかったが、たしか風によって調度類が飛ばされて大変なことになっていたはずだ。それを片付け、安否確認までするなんて相当の仕事量だったろう。いくら真っ白に燃え尽きていたからといって、手伝えなかったのがつくづく申し訳ない。

 そして、あの部屋の調度類は華奢な細工の施された物が多かったことを思うと、被害総額を考えるのがものすごく恐ろしい。大体男のせいだが、もしかしてうっかり俺も何か壊していたりしないだろうか……できるだけ、知らずに生きていきたい。

 罪悪感と金銭的な恐怖にこっそり寒気を覚える俺に、アルマは真剣な顔をして続ける。

「あと、あの方だけどね。一応拘束はしているけども、まだ意識は戻ってないんだ。起きたら話を聞こうと思うよ」

「そうか……まあ、思いっきり殴ってたもんな……」

 最後の朔也による無慈悲な一撃を思い出し、俺は思わず遠い目をしてしまう。不意打ちで惨い勢いの打撃をくらったのだから、気を失ったままだというのも仕方のないことだろう。憐憫の情を抱かずにはいられない。

「襲ってきた向こうの自業自得だよ! ボク悪くないもん!」

「それもそうなんだけどな……ふああ……」

 発言に抗議して朔也が膨らませた頬を片手で適当に潰しながら、俺は大きくあくびを零す。戦闘での疲労と、妹成分の充足からここにきて一気に眠気の波がきていたのだ。さっきのティータイムで適度に腹が満たされた、というのもあるかもしれない。

 ちらりと窓の外を眺めればすっかり日が傾いていて、部屋も薄暗くなってきていた。おそらくまだ夕方といったところだろうが、気がつけば途端にまぶたが重くなる。そしてそれは朔也も同じだったようで、口に手を当ててくあと小さくあくびをしていた。

「今日は疲れたねえ……ボクもう眠いや」

「だよなあ……怒涛の展開だったからな……さすがにもう限界が……」

 目を擦りながらぼやく俺達に、アルマはくすくすと笑って扉へと向かう。

「寝るなら、朔也が使えるように隣にもう一部屋用意しようか。ちょっと待ってて、すぐに用意するから」

「ま……待ってくださいっす……! オレがやるっすから……、アルマ様は休んでてくださいっすー!」

 朔也に笑いかけながら部屋を出るアルマの姿を、いつの間に復活したユマが慌てて俺の腕から抜け出てぱたぱたと追いかける。主に雑用をさせるわけにはいかない、といったところだろうか。なるほど、小さくても立派な執事である。

 一瞬、腕の中に閉じ込めていた柔らかな熱を失った寂しさが襲うが、追うことなく諦めユマの背を見送る。ユマにも仕事がある以上、ずっと抱えている訳にはいかないのだ。非常に残念ではあるが、仕方がない。

 すぐに気を取り直して、俺はぼすりとベッドへと座り込んだ。ふかふかの布団の感触になんだか気が抜けて、再びあくびが漏れる。今にもベッドへと倒れたくなるような、重たい眠気が全身に纏わり付くのがわかった。少しずつ瞼が重く、持ち上げるのが難しくなっていく。

「うおりゃー!」

 忍び寄る眠気に負けそうになってついうと、と船を漕ぎ始めたその瞬間、突然そんな雄叫びをあげて勢い良く朔也がどーんと、ベッドへと豪快に身を投げる。朔也が飛び込んだ衝撃で一瞬体が浮いて、不測の感覚に俺は思わず小さく悲鳴を上げてしまう。

「わっ⁉」

 ぱちりとなんとか自由を取り戻した瞼を持ち上げてベッドへと視線をやれば、もそもそと朔也が布団の中に潜り込んでいくところだった。その姿に俺は慌てて布団の端を掴んで、朔也を妨害する。

「こら、朔也は隣の部屋だろ。おとなしく待ってろよ!」

「やだー! 翼離してよー!」

 ぐいと強く引けば、朔也もひしと布団にしがみついて抗議の声を上げた。しかしこればかりは譲れない。

 だって今いるベッドは俺が来たときに寝ていたところなのだ。俺のベッドだと思うのが当然だろう。なのになぜ、朔也が当り前のような顔をして占領しようとしているのか。

 大方、ベッドをもう一つ用意してもらうのすら待てないくらい眠いということなのだろうとは思う。だがしかし、眠いのはこちらも同じだ。暴力的なまでの眠気がすぐ間近に来ているのに、寛容にはなれない。

 それでも俺はもともとは朔也のベッドが用意できるまでは、寝ないで待っていてやろうと思っていたのだ。そんな思いを無下にして、無情にも人のベッドを強奪しようというのはさすがにあんまりであろう。

「ほら起きろ! ここは俺のベッドだ!」

 すったもんだの攻防の末にべりと布団を朔也から剥ぎ取れば、むすりとした朔也と視線が合う。

「もー、翼のけち! 別にいいじゃん!」

「けちじゃない。朔也こそ、先に寝ようとするなんてずるいだろ。しかも俺のベッドなのに」

「そんな区別しなくてもいいと思うんだけど……もー仕方ないなあ……」

 人のベッドを奪って寝ようなんて、と憤慨する俺に、朔也は不服そうな顔をしながらこちらへとすっと手を伸ばした。起き上がるのかと思いきや、しかし朔也は手を差し出したような格好のまま微動だにしない。

 手を引いて起こせということだろうか。そう解釈した俺は、面倒だと思いつつも朔也のの手をとる。と、同時にぐいと手を強く引かれた。

「う、わっ⁉」

 バランスを崩してベッドへぼふんと倒れ込めば、くすくすと満足げな朔也の笑い声が真横から溢れる。遊ばれたのだと気がついて、声の方へと俺は朔也へとじとりとした視線を投げた。

「お前なあ……」

 しかし不満げな俺の様子が愉快で堪らないのか、朔也はにこにこと心底楽しそうな笑みを浮かべている。朔也の表情になんだか毒気が抜けて、俺は大きく諦めのため息をつく。なんだかんだ言って、疲れているのだ。これ以上騒ぐ気力はもう無い。

 脱力した途端、再び抗い難いような眠気が襲ってきて瞼が重たくなっていた。朔也をまだ追い出せていないというのに、そもそもアルマ達がベッドの用意をしてくれているというのに、体は勝手に眠りへと落ちようとする。

 温かな水底に沈んでいくように、意識がじわりじわりと滲んでいくのがわかる。隣にいる朔也も同じようで、眼前でだんだんと大きな瞳が緩く細められていく。

「……ねえ、このまま一緒に寝ちゃおうか。昔みたいに」

 朔也が握ったままの手をきゅっと握って、眠気に溶けた声で囁く。その言葉に、俺の脳裏で幼い頃の記憶がぶわりと鮮やかに蘇った。幾度も繰り返した、こんな風に疲れ切って相手の家で眠ってしまった時のことを。それは懐かしくて、くすぐったいような思い出だった。

「まあ……それも、悪くないか……」

 だから、ついそんな風に思ってしまって。そうして、俺の意識はついにどぷりと眠りの海へと飲み込まれたのだった。



「うぐっ……」

 突然襲った衝撃と体を打ち付ける鈍い痛みに、俺がうめき声をあげて再び目を覚ましたのは薄闇の中。ベッドの真横の、冷たい床の上でだった。ぼんやりとした頭で痛む体を起こしてベッドの上をじとりと見やれば、大の字になってすぴすぴと心地よさそうに寝息を立てる朔也の姿がある。どうやら俺は朔也にベッドから蹴り落とされたらしい。

「そういえば、朔也は寝相が悪いんだった……」

 朔也の寝相の悪さは昔からで、思えば毎度こうやって起こされていたような気がする。一緒に寝るなんて久々過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。眠気に負けて寝てしまった昨日の自分が憎い。

 窓へと視線を投げれば、すでに空は白んできていた。おそらく夜明けあたりの時間だろう。

 普段ならば確実に二度寝を決めているのだが、昨日早く寝たからかそれとも今の衝撃でか、目はすっかり覚めてしまっていた。朔也を押しのけて寝なおして再び蹴落とされるのも嫌だったため、俺はのそりと立ち上がる。途端、胸元に感じる重みに、思わずため息がこぼれた。

 異世界に拉致され女の身体になったのが夢で、起きたらいつも通りの何でもない日常に戻っていないかと無意識のうちに淡い期待を抱いていたのに気付かされたのだ。そして同時に、この胸元の重みで一気に現実を突きつけられた。ため息も漏れるというものだ。往生際が悪いと自分でも思うが、慣れた生活から突然知らない所へ拉致されたのだからこれくらいは許してほしい。第一ここ優愛いないし。

 あくびを噛み殺しながら可愛い妹の姿を思い浮かべて、俺はひとり頬を緩める。昨日はユマに妹成分を補充させてもらったが、あくまで疑似妹だ。このまま長い間真・妹成分を補充できなければいずれ死に至ってしまう。死因、妹不足だけはなんとか避けなければ。ノー優愛、ノーライフ。俺は本気だ。

 優愛の事を考えていたらなんだかテンションが上がってきたので、壁にあった鏡で適当にちょいちょいと身なりを整えて俺は廊下へと出た。部屋にいて朔也の寝息を延々と聞いていたって暇だし、少しばかり城の中を探索してみようと思ったのだ。朝食前の軽い運動くらいの気軽さだった。だがしかし。

「ものの見事に迷った」

 うろつき始めて二十分ほどたった頃だろうか。俺は明らかに現在地点を見失っていた。

 好奇心の赴くままに見つけた階段を上ったり、むやみに曲がってみたりしたのが悪いのだと思うのだが、いまさら何を言っても後の祭りである。まさか二十分で迷子になるなんて。ちょっとゲームのマップみたいではしゃいでしまったのが悔やまれる。本当にゲームのマップなら画面右端に表示されるが、当然そんなものはない。現実は方向音痴に厳しい。ここはどこだろう。

 運悪く辺りにはメイドもいないようで、恥を忍んで場所を聞くこともできない。このまま、誰かが探しに来るのを待つしかないんだろうか。途方に暮れた思いでとぼとぼと廊下を進むと、ふと何処かから話し声が聞こえたような気がした。

「……誰かいるのか?」

 足を止めて再び耳をすませれば、微かではあるがたしかに人の声だ。俺はほっとして藁にすがるような思いで、声の方へと歩き出す。そうしてだんだんと近づくにつれ、聞こえてくる声に覚えがあることに気がついた。アルマの声だ。

 誰かに話しかけているようなのに、相手の声が聞こえてこない事に俺は首を傾げた。相手の声が異様に小さいのだろうか、不思議に思いながらようやく声のする部屋へとたどり着く。

「父上、母上」

 そっと密やかに呼びかける声。けれど応える声はない。ある訳がないのだ。やたらと細かな細工が施された大きな扉の前で、ようやく俺は相手の声が聞こえない理由を知って思わず立ち尽くしてしまった。

「二人が眠ってしまって、私はずっと暗闇の中にいるみたいだった。毎日毎日、被害の報告だけが届いて、どうしていいかわからなくてただ耐えることしかできなかった。このまま私達も皆みたいに眠ってしまって、明日にも世界は終わってしまうのかもしれないと怯えてた」

 ぽつぽつと眠る両親へと語りかけるアルマに、昨日食堂で聞いたこの世界の現状を思い出す。滅亡へと、急速に追い詰められていく毎日。打つ手もなく、残されたアルマ達はどれほど辛かっただろう。その心情を改めて聞いて、ぐっと喉が詰まるような思いがした。

「でも昨日、聖女様がきたんだ。ずっとおとぎ話だと思ってた、聖女様が本当にきたんだよ」

 そうして、少し弾んだ声で自分達を話題に上げられて俺はどきりとする。

「サクヤとツバサっていうんだけど、その二人が昨日この城を守ってくれた。不思議な力で、慣れてないのに必死になって戦ってくれた。それを見て、私はあの二人ならきっとこの世界を救えると思ったんだ。無理強いはするつもり無いけど、それでも。なんて、まだちゃんと引き受けてもらってないのに思ってしまうのは、少し勝手かな」

 苦笑混じりの言葉を聞きながら、俺はすっと自分の右手首に視線を落とした。昨日の戦いははっきり言ってとんだ素人で、どちらかといえば情けなくて全然頼りないものだっただろう。俺に至ってはなかなか動けずに、アルマに助けてもらってようやく動けたくらいだ。聖女とはこんなものかと、失望されてもおかしくなかったはずだ。

 なのに俺達を信じてくれているアルマに、俺はなんだかじんとしてしまう。それはずっと聞いてきた『聖女様』への信頼もあるかもしれない。そうだったとしても、俺は確かに嬉しかったのだ。

「この国を、終わらせたりなんかしない。この世界を、奪わせたりなんかしない。絶対に、元の平和を取り戻してみせるから。だから、待ってて」

 アルマは最後に静かな、真っ直ぐな声で両親へ告げて、椅子から立ち上がったようだった。椅子を引く音のすぐ後に聞こえてきた足音に、ぱっと慌てて俺は近くの柱の影へと隠れる。故意ではなかったとはいえ、立ち聞きしてしまったのだ。顔を合わせられるわけがない。

 息を殺してキィと蝶番が僅かに軋む音を聞いて、すぐに響いてきた足音が遠ざかっていくのを待つ。だいぶ遠くなったと思って恐る恐る顔を覗かせれば、ちょうど長い廊下の向こうにアルマの背中が消えるところだった。

「盗み聞きは良くないと思うっすよ」

「わっ⁉」

 なんとなくぼんやりとアルマの背を見送っているとふいに横から声が上がり、俺は驚いて思わずビクリとしてしまう。ばっと声の方へと視線を投げれば、いつの間にかユマが立っていた。昨日はおろしていた髪を、今日はちょこんと後ろに一つにまとめている。朝からやはりとても可愛い。こんなに可愛いのに、なぜ俺はいることに気がつかったのか。

「いつからいたんだ?」

「ツバサ様がここにふらふらやってきて、扉の前で立ち止まったあたりからっす」

「つまり最初からじゃねえか」

 一連の自分の行動を見られていたのだと知って、若干の気まずさを覚えながら俺はユマの頭を撫でる。さらさらの髪が、指に心地よい。

「ん、髪型変えても駄目なんすね……まあ、いいっすけど……」

 困った顔をしつつもユマは俺の手を退けることなく、おとなしく撫でられてくれる。妹成分の補充に付き合わせて悪いなと思うが、こうも愛でることを許されてしまうとやめられなくなってしまいそうだ。優愛だって最近は構いすぎると、やんわりと諌めてくるというのに……構える時間が惜しいので、それを教えるのはやめておこう。

「ユマは、何してたんだ? 仕事か?」

 頬を緩ませながら問うと、ユマはこくりと頷く。

「朝の見回りと警備っす。って言っても、オレ一人だし異常がないかの確認くらいしかできないっすけど」

「えっ、一人でやってるのか?」

 慣れているだろうとは思うが、城はユマ一人で廻るにはあまりにも広い。普通は幾人かで手分けしてやるものではないのか。警備というならば尚更だ。

「もしかして、ユマはものすごく強いとか……?」

「いや、アルマ様には当然のこと、メイド達にすら負けるレベルっす。おそらく現在この城最弱はオレだと思うっすよ。将来性を見てほしいっす」

 恐る恐る零した問は、けれど悲しい目をしたユマにあっさりと否定された。ならばなぜ、ユマが一人で見回りをしているのか。不思議に思って首を傾げた俺に、ユマはそっとため息を零して答えをくれる。

「人がいないんすよ。みんな眠らされてしまったんす。多くの騎士は国境や、王都の警護に向かって、男の使用人は陛下の視察に同行して。城に残っているのは、門番が数名とオレみたいな子供、あとはメイドだけなんっす」

 確かに言われてみれば、ここに来てからユマとアルマ以外の男を見た記憶がない。そのことが、どれほど異常で大変な事態なのか。ようやく気がついた俺の背筋にぞっと寒気が走った。

 ユマはアルマが去っていった廊下へ、見えなくなった背中を追うように視線を投げる。

「アルマ様は、すごい方っす。被害を最小限に食い止めようと、国中の情報をまとめて指示をして。それだけでも大変なのに、手が足りてないからって俺達使用人の手伝いまでするんす。本当は、陛下と王妃様が眠ってしまって、辛いはずなのにずっと明るく振る舞ってるんすよ」

 俺達と大して変わらない年齢のはずである、アルマの背負うものを思った。国なんて、一介の高校生が想像もできないような、押しつぶされてしまいそうなほど、重たいものを。

 ユマが真っ直ぐにこちらへと向き直る。大きな黒曜石の瞳は、真剣な光を灯していた。

「世界を救って、なんてオレには言えないっす。そんな大変で、命懸けのことを強制はできないっす。でも、どうかアルマ様を悲しませないでほしいんす。もしそんなことしたら、オレはツバサ様を許さないっすよ」

 告げられたのは、目の前の少女めいた少年の口から放たれたとは思えないほどに、強い意思。それはユマが、いやきっとこの城にいる全員が、アルマを慕っているのだろうと知るには十分すぎるほどの思いだった。

「わかってる。俺達だって、アルマを悲しませたくは無いよ」

「……はい」

 笑ってユマの肩をぽんと軽く叩けば、ユマはほっとしたように表情を緩める。直後、はっとしたように窓から空を見て、ユマは慌てて俺の手をとった。

「うっわ、大変っす!」

 ふいに訪れた小さな手の温かさに俺が和んでいると、ユマはぐいと手を引いて廊下を早足で歩き出す。

「もう朝食の時間になるっすよ! ツバサ様、食堂に行くっす! たぶんもうサクヤ様も来てるっすから!」

「お、おう」

 あまりの唐突さに一瞬戸惑ったが、そういえば俺は迷っていたのだった。思い直してこれ幸いと、ユマにぐいぐいと手を引かれるがままついていく。

 優愛にも前はよくこうやって手を引かれたっけ、と微笑ましい気持ちになっていると、意外にも食堂へとすぐについてしまった。思っていたよりも近くにいたのかもしれない。とはいえ急ぎ足であちこちを曲がったり階段を上下したので、道程は全然覚えていないが。

「それじゃ、オレは手伝いの方に行くんで、ツバサ様は食堂へ! すぐ朝メシ持ってくるっすからー!」

「じゃあ、また後でなー」

 言いながらぱたぱたと小走りで去ったユマの背を、俺は軽く手を振って見送る。俺と話し込んでいたせいで、仕事に遅刻しそうになっているのだろう。悪いことをしてしまった。あんなに急いで、転ばなければいいが。

 罪悪感と心配とがない混ぜになった複雑な気持ちで、俺は目の前の扉をキィと押し開く。

 再び訪れた食堂は、昨日の戦闘の名残で少し様相を変えていた。部屋には大きなテーブル以外の調度品がなくなり、破れた窓は応急措置的に大きな板で塞がれている。そのせいで全体的に薄暗く、がらんとした印象を受けた。

「おはよー、翼。また方向音痴なのに、調子に乗ってうろついたあげく迷子にでもなってたのー?」

「うぐっ……!」

 と、すでにテーブルについていた朔也が俺を出迎え、明るく的確に急所を抉ってきた。さすが長年の付き合いは伊達ではない。俺の状況を正確に把握してやがる。

「ボクを放って一人で行くからだよ! 起きたら翼がいなかった時のボクの気持ちわかる? 昨日の夜のことは全部夢だったんじゃないかって、そう思って……寂しかったんだから……っ」

「昨日は夕方から寝てたんだから、夜に何かあったとしたら夢だろ。あと寂しかったも何も、大の字で俺をベッドから蹴り落としたのは朔也だからな…………さてはアルマに勘違いさせて遊んでるな?」

 露骨な演技でわっと涙ぐむ朔也を軽くあしらって、昨日と同じ席についていたアルマへと視線を投げればやはり想像通り。顔を真っ赤にして慌てていた。

「べ、別に勘違いなんてしてないよ。ただその、手を繋いで一緒に寝てるし、サクヤはいい夜だったとか言うし……昨夜はお楽しみでしたねとかそんなこと思ってないよ……!」

 ………思ってたよりもがっつり勘違いしてた。いくらなんでも勘違い力が高すぎないか。アルマに俺はどういう人間に見えてるんだ。

 アルマからの自分の人物評に疑問を持ちながら、朔也の隣へと腰を下ろしてアルマへと向き直る。真っ赤になった顔を押さえてなんとか火照りを鎮めようと苦心するアルマは、俺達と何も変わらなかった。ちょっとイケメンなだけの、普通の青年だ。終わりかけた世界を背負っているなんて、嘘みたいに。

 俺はゆっくりと大きく息を吸って、口を開く。

「朔也、『タイム』は終わりだ。…………いいだろ?」

 唐突な一言のはずだった。けれど朔也は俺の言葉に一瞬だけ目を見開いて、それからふわりと柔らかに微笑んだ。

「もちろん。まあ、選択肢は無かったようなものだけどね。それでも、翼がそうすることを選んだのなら。ボクはその選択には価値があると思うよ」

 長年の付き合いは、弱点だけでなく俺の考えもきちんと完璧に読み取らせたらしい。

 昨日、男が襲撃してくる前にとった『タイム』。長かったそのモラトリアムを終わらせて、俺達はどちらからともなくアルマへと手を差し出す。状況に流されたからでも、他に選択肢がないからでもなく、俺達の意思でそれを選ぶ。

「ボク達は、絶対的な救世主なんかじゃない。戦うのなんて素人も同然だし、正直得意じゃないよ。それでも、ボク達にしかできないことがあって、それで誰かを救えるなら。ボク達は、戦いたいと思うんだ」

「俺達に任せろなんて、大げさなことは言えない。もしかしたら、挑んでも勝てないかもしれない。だけど、アルマが、ユマが、この世界の皆が困ってるなら。それを何とかするために、俺達は戦うよ」

 最初、俺達の行動に未だ赤らんだままの顔をきょとんとさせていたアルマは、俺達が言葉を紡ぐにつれてくしゃりと顔を歪め泣き出しそうな顔で笑った。

「……大変なことを頼んでしまって、ごめん。本当に、ありがとう……っ」

 声を震わせて、アルマは両手をそれぞれ俺と朔也の手へとそっと重ねる。受け止めたその手は、思っていたよりも細くて、少しだけひんやりとしていた。

「ずっと、一人で戦ってたんだよね。頑張ったね」

「これからは、俺達も一緒に戦うから。だから、もうそんなに気を張らなくたっていいんだぞ」

 朔也と二人でそう言ってきゅっと繋いだ手を握れば、それがきっかけとなったようにアルマのエメラルドの瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れだす。

 きっとずっと、堪えていたんだろう。両親まで眠ってしまった絶望的な状況で、だけど慕ってくれるみんなに弱いところなんて見せられなくて。

「ごめ、少しだけ……少し……け、少しだけだか……ら」

「いいよ、アルマちゃん。すっきりするまで泣いたっていいんだよ」

 嗚咽を漏らして俯き肩を震わせるアルマの頭を、朔也がすっと手をのばして撫でた。ゆっくりと幼子をあやすような手つきに、さらに溢れた涙がテーブルを濡らしていく。

 そうして静かに泣き続けるアルマの姿を朔也と二人で見守りながら、俺は改めてこの世界を救いたいと、そう思った。



「待たせてごめん、もう大丈夫。恥ずかしいところを見せてしまったね」

 少ししてようやく顔を上げたアルマが、赤くなった目を擦りながら照れたように笑った。落ち着いたアルマの様子に、俺達はほっとしてようやく握ったままだった手を離す。

「いや、別にそんなことないぞ。気にするなよ」

 こんな状況になったら誰だって、泣きたくもなるだろう。思わずフォローする俺に、朔也も笑って頷いた。

「そうそう。それに恥ずかしいところなら翼の方が断然見せてるし! 全裸とかパンモロとか!」

「それは言うなよ! 泣くぞ! 恥も外聞もなく泣くぞ!」

 思わぬタイミングできた精神攻撃に、昨日の惨事を思い出して俺は涙ぐむ。パンモロはともかく、全裸はどう考えても朔也のせいだというのに、こんなイジり方をするなんてあんまりだ。

「翼の勇姿は後世に語り継いでくね……主に優愛ちゃんに」

「お前それやったら、本気で生まれてきたことを後悔させるからな」

 更にとんでもないことをのたまいだした朔也の肩を、俺はがしりと掴んで低い声で脅す。優愛にあんな痴態を知られたら死ぬしかない。

「えーどうしよっかなー?」

「おい、ほんとにやめろよ。おい、聞け」

 にやにやと笑って茶化す朔也のがくがくと必死になって揺さぶっていると、くすくすとアルマの笑い声が聞こえた。

「二人の会話は飽きないね。いつまでも聞いていたいよ」

「まあね、ボクと翼は最強コンビだから! お茶の間を賑わせる時がくるのも、時間の問題だよね!」

「いや、俺達超一般人だし、漫才もやってないからな?」

「そうだったね……じゃあ、デビューはいつにする?」

「別にそんな予定ないだろ! 思いつきで適当言うな!」

 俺達の会話に再びアルマが笑う。楽しそうなアルマの様子に、場が和んだ時だった。

 地響きのような低い音が、結構な大きさでなんの前触れもなく食堂に鳴り響く。そのあまりの唐突さに、びくりとアルマの肩がはねた。

「えっ、なんだろう……?」

 不思議そうに辺りをきょろきょろと辺りを見渡すアルマを見ながら、俺は犯人の肩をがしりと掴んだ。

「朔也、お前なあ……」

「だってしょうがないじゃん……朝ごはんまだなんだもん……おなかすいちゃったよ」

 俺の呆れた視線に犯人……朔也はへにゃと情けない顔をして、自らの腹を押さえる。言われてみれば、俺もだいぶ腹が減っていた。

 そういえば昨夜は眠りこけていて、ちゃんとした夕食を取っていないのではなかったか。朔也の腹の虫が鳴くのも、無理もないというものだ。

 ユマと別れてからだいぶ経つ。すぐに持ってくると言っていた割には、少し遅いかもしれない。

「どうしたんだろう……何かあったのかな」

 アルマも疑問に感じたらしく、不安そうに扉の方へと視線を投げる。と、同時にばんっとその扉が勢い良く開かれた。

「アルマ様アルマ様アルマ様ー! 大変っすよ!」

 大慌てで飛び込んできたのは、ユマだ。ここまで走ってきたのだろう、肩で息をしながらアルマの元へと跪いた。

「どうしたんだい? ほら、落ち着いて」

 泡を食ったようなユマを抱きとめるようにして、アルマはさっと緊張の色を走らせた声で問う。アルマの言葉にユマは何回か大きく息を吸って吐いて、それから怯えたように声を震わせながら口を開いた。

「あ、あの方が……元コトレッタ国王陛下が、ついさっき……お目覚めになられたっす……」

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