二章 ふたりは聖女さま

 部屋中に散ったガラスが、あちらこちらでキラキラと陽光を受けて光を返す。遮るものを失った窓枠からはふわりと場違いなほどに柔らかな風が吹き込んで、その場にいる者の頬を撫でた。

 吹き込む風の先、広がる華やかなバルコニーの上。何もない青い空の中に、男はいた。

「カプレーゼの心臓、いただきに参った」

 低く笑う男の背でばさりと大きく羽ばたくのは、蝙蝠のような大きな黒い羽だ。俺達とたいして変わらない身体の作りの中で、その羽の存在だけが男を異質なものにし、俺にまざまざと非現実を突きつけている。

 今まで『別の世界』、と言われても正直実感がなかったように思う。なんとなく違う場所にいるのだろうと思うだけで、どこか今まで自分がいた場所と地続きになっているのだろうという気すらしていた。

 けれど、そうではなかったのだ。

「ぼうっとしてたらすぐに終わるぞ、いいのかね」

 つまらなさそうに男が言って、赤い瞳が煌めく。途端、立っていられないような強い風が男を中心に巻き起こって、俺と朔也は思わず身を低くして衝撃に耐えた。

「く……あッ!」

 しかし、窓の近くにいたアルマは防御が間に合わなかったらしい。

 細身の体はいともたやすく吹き飛ばされ、ガラスの破片と共に俺達の側にある壁へと叩きつけられた。だんっと響いた大きな音が、アルマの受けた衝撃を物語っている。

「アルマちゃん!」

「アルマ!」

 慌てて駆け寄れば、ガラスで切れたのかあちこちから血が滲んでいた。幸い深い傷は無いようだが、打ち付けた痛みにアルマは僅かな呻きを上げる。

「おい、しっかりしろ。大丈夫か」

「ああ、なんとか……」

 倒れた体をなんとか抱き起こすと、アルマは弱々しい返事を返してぐっと眉を寄せた。緑の視線が射抜くのは、今も悠然とバルコニーの上に浮かぶ男だ。

「どうして、あの方がこんなことを……」

「あの方? あいつを知ってるのか」

 信じられない、とでもいうように零された言葉に、俺と朔也は驚いて目を瞠る。アルマはこくりと頷いた。

「ああ、あの方はコトレッタの国王だ。新しい王を名乗るものがいる今、あの方はもう国王ではないのかもしれないが……」

 なるほど、以前の王であれば各国の王家の間で交流があったのだろう。だから、アルマは男を知っていたのだ。

 辛そうに壁に寄り掛かりながら、アルマは続ける。

「とにかく、あの方はなんでも事務的だった。変化を望まず、ただ淡々と国を維持していたはずなんだ。なのにこんなことをするなんて、以前とあまりにも違いすぎる……一体、何が……」

「呑気に話すのはいいが、今そんな事をしているべきでは無いのではないかな?」

 狼狽えるアルマの声を遮り、男が少し苛立ったような声を上げる。

 はっとして振り返れば、再び男の瞳が赤く光り、男の周囲をごうっと大きな旋風が取り巻いているのが見えた。先程よりも格段に威力のありそうな風は、当たればきっとただでは済まないだろう。

 そう思った瞬間、俺はアルマを守るように立ち上がり男の方へと歩き出していた。

「ツバサ……⁉」

「何もないよりはマシだろ」

 驚いたように呼ぶアルマに、俺は少し振り返って苦笑を返す。

 衝撃を防ぎ切ることはできないと、自分では何も対抗できないのだとわかっていた。それでも、飛んでくるガラス片から守る事はできるかもしれない。僅かでも威力を殺すことはできるかもしれない。そう思えば、立ち上がらずにはいられなかったのだ。

「翼にばっかりいいかっこさせるのもね。いいよ、ボクも付き合う」

 笑いながら朔也も立ち上がり、駆け寄ってくる。そうして俺に身を寄せて立ち止まらせると、自らの左手首の痣をぐいと差し出した。

「とりあえず、これ試してからね。一発逆転ホームラン、あるかもでしょ?」

 言われて、俺も自身の右手首へと視線を落とす。そういえば、男の登場で有耶無耶になってしまっていたがさっきまでこの話をしていたのだった。

 セカイから赤く刻まれたこの力の他に、現状手段は無いだろう。少なくとも、何もしないで盾になるよりはマシなはずだ。

 ちらと視線をやって男の様子を伺うと、男も俺達の様子に気がついたらしく、ニヤリと唇を三日月形へと歪めた。

「ほう、何かと思えば伝説の聖女か。いいだろう。その力、見せてもらおうじゃないか」

 何が楽しいのか弾んだ声でそう言って、男はぴたりと動きを止める。まとっていた風さえ霧散させ、腕を組んでこちらを傍観する構えを見せた。

「……何が狙いだ」

 俺達が何かをするとわかっているならば、その前に手を下してしまおうと考えるのが普通だろう。油断させて隙を突くつもりではないか。

 じりじりとした思いで俺が問うが、男は笑みを崩さない。

「なあに、獲物が抵抗しない狩りはつまらないというだけの話だ。続けたまえ」

 男の言葉を信じるには状況が悪すぎるが、疑って何もしなければしなかったで結果は同じである。向こうが待つと言うならば、今は信じてやるしかないだろう。

「まあ、こういう時は攻撃しないのがセオリーではあるよね」

「そういう話で済ませていいのか、これは……」

 漫画やアニメのお約束を持ち出した、あっけらかんとした朔也の一言に脱力する。大人しく待ってる相手も相手だが、朔也も朔也でなぜそんな理由で納得してしまうのか。

 呆れたような思いを振り切り、俺は再び己の右手を眼前へとぐっと持ち上げた。

「まあいい。……で、これはどうやって使うんだ」

 まじまじと見つめても手首にある赤い輪は、やはりやたらとくっきりとした痣にしか見えない。押しても痛くはないし、擦ってもただの皮膚で何の変化もない。これが力だと言われてもどうすれば良いのか。

 首を傾げる俺に、朔也は再び思い出すようにあさっての方向へと視線をやる。

「ええっとね、確か……まず、痣のある方の手を掲げるでしょ」

「おう」

 言われた通り、俺は眺めていた右手をすっと上へ持ち上げる。顔の横辺りで挙げていると朔也にもっとと言われ、まるで天を突くようにまっすぐ上へと挙げさせられた。

 小学校の頃にやらされた選手宣誓のようで、なんだか少し恥ずかしい。

「それから、手首をくるってしてみて」

「こうか?」

 何も考えることなく、挙げたままの手をくるりと裏返す。と、手首の痣の辺りがじわりと熱くなり、次の瞬間にはセカイに痛みを与えられた時と同じ、赤く光る輪が手首に嵌まるように出現していた。

「おお……」

「順調だよ、翼!」

 自分の手によって起きた超常現象に感動を覚えている俺を確認して、朔也は満足げに頷く。よくわからないが、どうやらうまくいっているようだ。

「それで、まっすぐに手を下ろしてみて」

 朔也の指示通りそろそろと手を下ろすと、輪がぐんっと大きくなった。そのまま、頭の上から足元までを下ろす手の動きにあわせて通過する。

「う、わ……!」

 赤い輪が通過した後に全身が暖かい淡い光に包まれ、そして――光が弾け飛んだ。服ごと。

「……へ?」

 一瞬、自分の身に何が起きたのか理解できなかった俺は固まり、すとんと視線を下に落とす。

 視界に映るのは、いつもモザイクの向こうにあるはずの圧倒的な肌色だ。ふわり、と吹き込む風を全身で感じる。

「わーお、せくしー」

 一拍置いて、朔也の呑気なコメントが聞こえた瞬間。ボンッと音がしそうなほどの勢いで自身の顔へ熱が集まり、耐え難いほどの羞恥が襲ってきた。

「あああああアアアアアア――――――ッ⁉」

 喉が裂けんばかりの絶叫をあげ、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。体育座りのような姿勢をとった結果、自分の足へと胸を押し付けることになってしまい、柔らかな感触にまた動揺する。

 しかし、だからといって姿勢を崩すこともできない。動けばまたモザイク規制必須なものが露出してしまう。

「なんだよこれえ……ッ!」

 とんでもないレベルの混乱と羞恥に若干涙目になりながら、俺はキッと朔也を睨み上げる。すると、朔也は見慣れたいつもの悪戯が成功した時の満面の笑みを浮かべていて。

 瞬間、全てを悟った俺はしゃがみ込んだまま、朔也の足をがしりと掴んで思いきり爪を立てた。

「さーくーやーさーん?」

「いたたたたた、痛い痛い痛い!」

「ふざけていい時と悪い時っていうのがあってな?」

 悲鳴をあげて逃げようとする朔也を俺は両手で捕らえ、ギリギリと爪を食い込ませていく。

 ついいつものいたずら癖が出たのだろうが、さすがに今は駄目である。何が悲しくて絶体絶命の局面の最中に、突然ストリップする痴女にならなくてはいけないのか。

 苛立ちを込めて手の圧力を強めていけば、とうとう朔也から涙声が降ってきた。

「ごめんなさい、待ってまだ終わりじゃないから! あともう一工程あるからあ! ここで止めたのは意図的だけど力の使い方としては嘘じゃないからあ!」

 朔也の必死の弁明に、俺はいまだ自身に残る苛立ちをぐっと飲み込んでようやく掴んでいた足を開放してやる。

「本当だな?」

「本当だよう……」

「服は?」

「たしかこれが終わったら『力』用の服になるはず……『力』を使い終わったら戻るって……」

 俺がじとりと睨めば、ぐすぐすと涙声で朔也は呻く。それから滲んだ涙を拭いながら、朔也はすっと周囲を指差した。

「光が周りに飛んでるでしょ。あれの中で、くるって一回転すればおしまいのはず……」

 言われて周りを見ると、確かに先程はじけ飛んだ光がまるで蛍のように周囲をふわふわと漂っていた。つまりこのまま回れば力が使えるらしい。しかし。

「なあ……それってしゃがんだままだと駄目なやつか?」

「まあ、素早く回ってって言ってたから。しゃがんだままだと難しいかもね」

 恐る恐る投げかけた問は、立ち直った朔也に無情にもさくりと切り捨てられてしまう。

 今この状態で立ち上がって一回転と言う事は、つまり再び隠すものが何もない、モザイク待ったなしの状態になるということである。なんということだ、この場の倫理は死んだのか。

「年頃の男子高校生になんて無慈悲な要求をするんだ……モザイクの向こうにはまだ夢だけ見ていたい年頃だろ……」

「いいからさっさとやっちゃいなよー。ぱっとやればすぐだってきっと」

 ぼやく俺を適当そうに朔也がせっつく。元はといえば、今の事態は朔也のせいであるというのにあんまりな態度ではないだろうか。

「それとボク気がついたんだけど、全裸よりシャツ一枚着てたほうが好きだな」

 さらに、人を倫理的に酷い有様にしておいて真顔でふざけた事を重ねて言い出す始末。気持ちは分からないでもないが、現在全裸という当事者でなかったらの話である。

「お前なあ!」

「ほらほら、このまま何もしなかったら全裸のままだよー。いいのー?」

 抗議を遮るように言われて、俺は続けようとしていた文句をぐっと喉につまらせる。

 確かにここまできてしまったなら、もうあとはやるしかないのだ。いつまでもうずくまっていてはきっと男もしびれを切らすだろうし、一糸まとわぬ姿のまま戦いに臨むわけにはいかないのだから。

「ああもう、わかったよ! やればいいんだろ、やれば!」

 あまりの羞恥と理不尽に涙目になりながら、俺はヤケになって勢い良く立ち上がる。ちくしょう、朔也あとで覚えてろよ!

 心の中で幼馴染への報復を誓いながら視線は自分の身体を見ないように必死に前に固定し、すかさずぐるりと右足を軸に一回転を決める。と、回転に巻き込まれるようにはじけ飛んだ光が再び集まり、俺へとまとわりついた。

「うわ……っ」

 光によって身体がようやく隠された安堵と、未知の体験による戸惑いとがない混ぜになった声をあげる俺の目の前で、光はふわりと服の形をとる。やがてすっと光は力を失い、気がつけば俺はピンク色のワンピースを身にまとって立っていた。

 いや、ワンピースというのは少し語弊があるかもしれない。なぜならば俺が着ているものはあちらこちらにリボンやフリルがあしらわれ、スカートは短く、全体的にポップで……そう、なんというか。

「日曜朝の魔法少女っぽい……!」

 堪らず零せば、疑惑は確信に変わる。

 だってどう見てもあれだ。妹が日曜日の度に起きるなりテレビに駆け寄って見ている、女児向けアニメのコスチュームの系統だ。ものすごくコスプレ感がある。

 衣服という文明の象徴を手に入れた喜びはあるが、これはこれで恥ずかしいのではないだろうか。というか、聖女って話だったのにいいのか魔法少女で。

 不安になってちらとアルマを振り返れば、アルマはものすごくキラキラとした瞳で俺を見ていた。

「すごい……これが伝説の聖女……!」

 その上感極まったように呟いていたので、再び前を向いて俺はやりきれないような思いでこっそり頭を抱える。

「いいのかよ……! 言い伝えなのにこんなにポップでいいのかよ……!」

 聖女というからには、なんというかもう少し威厳のあるようなものを想像していたのだ。だがしかし、蓋を開けてみれば魔法少女。しかも中身は男である。

 人様の伝承に対してなんだが、本当に世界を救うものがそれでいいのか。魔法少女(男)とかよくわからないものに救われていいのか。

 俺がカルチャーショックに苦悩していると、カッと視界の端で何かが光った。今度はなんだと顔をあげると、いつの間にか俺と同じような水色の服装になっていた朔也が立っていて、俺は目を見開いた。

「えっ、お前今やったの? 早くないか?」

 一連の羞恥にまみれた苦労を、なぜ朔也は一瞬にして終えているのか。動揺する俺を朔也はきょとんとした顔で見て、それからにっこりとなんの曇りもない笑みを浮かべる。

「ああ、さっきの一気にやれば光に包まれてる間に全部終わるんだよ」

 さらりと放たれたとんでもない言葉に、俺は気がつけば流れるような動きで朔也の腹を殴っていた。

「うぐおっ……! 翼、拳が重いよ……!」

 低い呻き声をあげて崩れ落ちる朔也へ、俺は遅れてやってきた爆発的な感情にわなわなと震える。自然、詰問する声も大きくなるというものだ。

 涙目で絶叫するように、俺は勢い良く朔也に掴みかかった。

「お前な! 俺がどれだけ恥ずかしかったと思って!」

「いやー説明するにもやりながらの方がわかりやすくていいかなって……」

 適当な事をいいながらあさっての方向へうろりと視線を泳がせる朔也の肩を掴み、まっすぐ俺へと向き直らせる。逃げさせる気などあるわけがない。

「正直に言え!」

「力の動作確認と、困った翼が見たいがためにやりました! ごめん! でも後悔はしてないよ!」

 勢いに負けたのかあっさりと吐いた朔也に、俺は強く頷く。

「よろしい! 歯を食いしばれ!」

「へぅッ!」

 宣言と同時に炸裂させた平手は、パーンとまるでクラッカーが弾けたような軽快な音を立てて、朔也の頬を張り飛ばした。平手であるのは幼馴染としてのせめてもの情けである。

「うう……痛い……」

 冗談みたいにくっきりと赤い紅葉を刻んだ頬を押さえてぼやく朔也を見て、俺はようやく溜飲を下げる。さすがに今回のはやり過ぎなのだから、これくらいのことはさせてもらわねばならない。

「痛くしたんだ、当然だろ。この件はこれで終わりな。閑話休題。ほら、コスプレしてどうやって戦うのか早く言え」

 少しスッキリした気持ちで区切るように続きを促せば、朔也はすねたように頰を膨らませた。

「コスプレっていわないでよ。ロマンがない……。魔法少女だよ、魔法少女! 変身だよ! すごいじゃん!」

「まあすごいとは思うけどな……魔法少女だろ……」

 自身の身に超常現象が起きたのだ。興奮するのもわかる。

 だが、魔法少女なのだ。いくら今は女の体になっているからといって、俺は男子高校生だ。そんな自分がこんなひらひらふわふわの服を着せられて、はしゃげるはずがない。普段から可愛い服を好んで着ている朔也とは違うのだ。

 朔也の膨らんだ頰を潰してため息をつく俺に、朔也は不満げにスカートの裾を持ち上げてくるりと回った。

「こんなに可愛いのにー。あ。ほら、翼。パンツも女の子のになって――」

「って、見せるな!」

 はしゃいだまま、あろうことかスカートを更にまくり上げて、中を示そうとし始める朔也の手を俺は慌ててはたき落とす。

 何が悲しくて魔法少女の格好をした元男に下着を見せつけられるという、混沌極まりないことをしなくてはならないのだ。

 こいつに羞恥心というものは無いのかとか、自分のスカートの下もまさかとか色々思うことが無いでもないが、いちいち突っ込んでいたらキリがないのでそれらはすべて黙殺する事にする。

「で、どうやって戦うんだよ」

「ああ、それはね。想像すればいいんだって」

「想像? 何をだ?」

 あまりに端的な説明に首を傾げると、朔也はんーと考え込みながら手を上へと伸ばした。すると一拍のあと、突然朔也の掌に淡く青く光る杖のような物が出現する。

「うおっ」

「おー、実際にやってみるとこんな感じなんだねー」

 驚く俺の前で朔也はなるほど、と頷きながら現われた杖をまじまじと見つめた。朔也の手の中にある杖へと恐る恐る手を伸ばして触れてみれば、ほのかに温かいつるりとした確かな感触が返る。

「どうやって出したんだよ、これ」

「だから、想像したんだよ。敵と戦うのに、どんな武器がいいかっていうのを思い浮かべたの。力は想像次第で使い方が変わるんだって。限度はあるらしいけどね。ボクはゲームとかでも魔法使いが好きだから、杖を想像してみたんだ。そしたら出た」

「想像次第って、武器って言われてもなあ……」

 至極当たり前のことを言うようなあっけらかんとした朔也の答えに戸惑いながら、俺も真似て上へと手を伸ばす。武器と聞いて、やはりぱっと浮かぶのは剣だろうか。

 そう考え、頭にゲームかなにかで見たような剣の姿を思い浮かべた途端。ぱっと、掲げた掌に淡く赤い光をまとった剣が現われた。

「わっ」

 慌ててしっかりと柄を握れば、こちらも先程の杖と同じくほのかに温かいつるりとした確かな感触が返る。剣というには割と軽く、まるでプラスチックのおもちゃを持っているようだ。こんなので本当に戦えるのだろうか。

 不安になってためつ眇めつ剣を眺めていると、朔也にぐいと脇を突かれる。

「翼、さすがにそろそろ待たせるの悪いんじゃない……? ボクちょっと申し訳なくなってきたんだけど……」

 何かと思えば耳元に顔を寄せてこそこそと囁かれ、顔をあげるとそこには待つといった体勢のまま、じっと微動だにしていない男の姿があった。

「ま、待ってる……! めちゃくちゃ待ってる……!」

 そういえば、今は襲来してきた敵の目の前であったのだ。男が律儀にずっと黙って待っているものだから、羞恥やら驚愕やらですっかり存在が意識から消し飛んでしまっていた。

 忘れておいてなんだが、もう少しこまめに存在をアピールして欲しい。

 なんとなく気まずい思いをごまかすようにそれぞれ今しがた出したばかりの武器を手に、俺と朔也は改めて男に向き直る。

「その、待たせたな?」

「ええっと、覚悟してね?」

 一応、意気込みとしてそんな事を言ってはみたもののどうにもしまらない。待たせたなに関しては本当になという感じだし、今更覚悟も何もあったものではない。

 それなのに男はギラリと再び瞳を赤く光らせ、くっくっくと低い笑い声を漏らした。

「ほう、相談は終わりか。ならば来るがよい。伝説の聖女など所詮まやかしであるのだと、思い知らせてくれるわ!」

「お前実は良い奴だろ!」

 長時間待たされたことなど微塵も感じさせない男の態度に、敵であることを疑いそうになってしまう。

 事実窓は割られているし、アルマは後ろで壁に寄りかかっているのだから敵でない訳はないのだが、それにしては態度が真面目すぎやしないか。

 思わず突っ込んでしまった俺に男は一瞬面食らったような顔をして、すぐに取り直すように哄笑した。

「さすが聖女といったところか、甘いな。ならば我輩が本当に良い奴か、その身でもって確かめるがいい!」

 言葉と同時に、ごうっと音を立てて男の周囲に勢い良く風が巻き上がる。先程アルマを吹き飛ばしたものよりも、威力が強そうに見える攻撃を目前にして俺はさっと我に返ってしまった。

 自身に起きた外見の変化から、力は確かに手に入れたらしい。けれど、それは本当に脅威に立ち向かえる程のものなのだろうか。

 だって手にあるのはおもちゃみたいな軽さの、よくわからない光る剣だけだ。こんなものであんなに強そうなものに立ち向かえるのだろうか。

 アルマを守るために立ち上がった時は必死で、考える暇もなかった恐怖。皮肉なことに対抗する力を手に入れたことによって、それがいやに身に迫って感じられてしまう。

「くらえ!」

 うろたえた一瞬。その僅かな、けれど確実な隙に、男は風の塊をこちらへと勢い良く放った。

 一直線に、俺を目指してやってくるのに、俺は剣を構えることすらできなかった。

「翼!」

 衝撃を覚悟して身を固くした俺の眼前に、朔也が滑り込む。そうして突き出した杖の先へ壁のようなガラスのようなものが出現して、風を阻んだ。バンッと激しい音がして、壁は風を打ち消した。

「くっ……」

 低く声を漏らし息を切らしながら朔也が杖を下ろせば、ふっと壁はかき消える。振り返った朔也は珍しく必死で、俺が無事だとわかるとほっとしたような顔を見せた。

「翼、大丈夫?」

「ああ……お前、今のどうやって」

 使い方など、朔也だって先程の想像次第ということまでしか聞いていないはずだ。なのになぜ、力をあっさりと使いこなしているのか。どうなるかもわからないのに、危険の前に迷いなく飛び出せるのか。

 動揺する俺に、朔也はへらりと笑う。

「わかんない、翼を助けなきゃって思ったら身体が動いてたんだ」

 朔也は頭でごちゃごちゃと考え、動けなかった自分とはあまりにも対照的だった。そして同時にどちらがこの場において、正しいかなんて火を見るよりも明らかなものだった。

 動かなければ、何のためにこんな格好までしてここに立っている。何のために、ここに連れてこられたのか。わかっているのに、俺は手の中の力を信じることができない。こんな自分が朔也と同じようにできるわけがないと、そう思ってしまう。

 焦燥に腹の底を焦がしながらも動けない俺を朔也はじっと見つめて、それからそっと柔らかく微笑んだ。

「大丈夫、翼はここにいて。アルマちゃんを守ってあげて。ボクがさくっとあんな奴倒してあげるから。カッコいいとこ、ボクが全部もらっちゃうもんね!」

 冗談めいた調子でウインクして、朔也は男のいる方へと駆け出していく。朔也の行動に、迷いは一片だって無くて。

「待て、朔也!」

 遠くなる幼馴染の背に手を伸ばし、引き留めようと声を張り上げたが朔也は振り返らない。真っ直ぐに男の元へと、窓枠からバルコニーへと飛び出した。

「せいやああああああああッ!」

 吼える朔也の周囲に光の矢が何本も現れ、杖を振り下ろす動きと共に男へと勢い良く放たれる。男を四方八方から射抜くと思われた攻撃は、しかし男の眼が赤く光った次の瞬間強く吹いた風にかき消された。

「あ……ッ!」

「朔也!」

 矢を消した余波を受け、空にいた朔也は衝撃を流すこともできずに後方へと吹き飛ばされる。

 思わず叫んだ俺に、地面から跳ね起きた朔也はちらと視線を投げて首を横に振った。視線で大丈夫だと、来るなと言って杖を掲げ、再び光の矢を出現させる。

「一人で我輩に敵うと思っているのか? なめられたものだ」

「やってみなくちゃ、わかんないでしょ!」

 啖呵と共に矢が再び男を襲うが、それもまた風にかき消された。と、思った次の瞬間。朔也は即座に壁を出現させ、今度は風を防ぐ。

「くっ………まだまだあッ!」

 攻撃を殺しきったと同時に杖を掲げ、光の矢を出現させ間髪入れることなく放った。

「ぐうっ………!」

 光の矢は風がやみ、無防備な状態になった男へと何本も立て続けに打ち込まれる。光の矢は男を貫きこそしなかったが、ダメージを与えることができたらしい。男の堪えるような、低い呻き声が上がる。

「やった⁉」

 目の前の光景に朔也は息を切らしながら笑みを浮かべたが、男もまたにやりと唇を歪めた。

「ほう、言うだけのことはあるようだな。ならば、我輩もそれに応えねばなるまい」

 男が手を伸ばし何かを呟いたと思うと瞳がちかと赤く瞬いて、朔也を中心に風が巻き起こる。みるみるうちに風は小さな竜巻へと成長して、朔也を飲み込んだ。

「うわっ!」

 咄嗟に周囲に壁を張り巡らせ、防御した朔也に男は楽しそうに声を上げる。

「どうだ、手も足も出るまい」

 絶え間なくぶつかる風に壁を解くこともできず、杖を掲げ続ける朔也の表情に焦りの色が混ざっていく。

「はっ、どこまで耐えられるかな?」

「くっ……」

 堪えるように呻く朔也へと、男は嘲笑を浮かべた。男が狙っているのは消耗戦だ。その証拠に、朔也を守る壁は風に嬲られるたびに少しずつ小さくなっていっている。

 このままではきっと、朔也は壁を失い男の攻撃をもろに受けることになるだろう。

 そうなったときに朔也がどうなるかが容易に想像できてしまって、俺は思わず俯いて地面を睨みつけた。

 朔也が痛めつけられるのは嫌なのに、俺の足はやはり動かない。どころか二人の激しい攻撃の応酬に、震えさえしている。

 当然だ、今日まで殴り合いの喧嘩ですらしたことがなかったのだから。運動部に入ってもいない、体育はむしろ苦手というような争いとは無縁の生活だったのだ。

 けれど、それが言い訳であることはわかっていた。朔也も同じだからだ。なのに朔也は俺と違って、迷うことなく動いた。訳のわからない、信頼できないような力を片手に立ち向かった。本当は俺も、同じ事ができなくてはならないはずなのに。

 動けない自分が悔しくて情けなくて堪らないのに、足は地面に根が張ったように動かなくて、がたがたと震えて今にも崩れ落ちてしまいそうで。堪らなくなってぎゅっと目を閉じた。

「ツバサ」

 そっと背後から伸びたアルマの手が俺の両肩へとかかる。その僅かな重みにはっとして目を開き振り向けば、さらりと頰をアルマの髪が掠めて予想外に近い距離に動揺する。

「なっ……、アルマ?」

「前を見て。サクヤが戦っているところから目を逸らさないで」

 さっきまで立ち上がるのさえ辛そうにしていたくせに、声は揺らぐことなく静かであまりにも真っ直ぐに響いた。諭すような声色に臆病を指摘されているように思えて、俺はびくりと肩を強張らせる。

「サクヤはきっとこの世界のためにってよりも、ツバサのために戦っていると思うから。それなのに、肝心のツバサが目を逸らしたら駄目だろう」

「……っ」

 けして怒るでもたしなめるでもない、むしろ当然のことのように囁くアルマの言葉が、怯え固まった俺の心をざくりと突き刺した。

 わかっている。わかっているのだ。俺と同じく争いとは無縁の生活を送ってきた朔也がどうして未知の力をもって、得体の知れない相手に立ち向かっていったのか。それは朔也が適応能力があるだけじゃない。臆病な幼馴染を守るためだと、わかっているのに。

 開いた目の前では、朔也が相変わらず防御で必死に男を食い止めている。こちらを、俺を守るように細い背を向けて立っている。朔也の隣に並びたいと、一緒に戦いたいと思うのに、どうしてこの体は動いてくれないのだろう。

 ぎゅっと痛いほどに握りしめた手の中に、握り慣れない剣の存在を強く意識する。と、握った手にすっとアルマの手が重ねられた。

「……聖女の力のことはわからないし、救ってもらう立場の私が言うことじゃないのだろうけど。でも私にも少しだけ、剣の心得があるんだ。色々教わったけど、その中で最初に教わったのはね」

 アルマは力の入った俺の拳を僅かに緩ませ、両手を引いて剣を握らせる。そうして真っ直ぐに、男へと向けて剣が構えられた。バルコニーで二人が戦う、その場へと。

「守りたいものがあるなら躊躇うな、ってこと。確かに、傷つくのは怖いし、争いも怖い。それでも、何もしないまま、大切なものを失う方がきっともっと怖いから」

 言われて、朔也を見た。俺のために、慣れない争いに立ち向かった、お調子もので、俺の困った顔を見るのが何より好きな、無鉄砲で優しい幼馴染を。

 何もしないまま朔也が傷つくところを見るなんて、ましてや失うなんて、そんなのは嫌だった。

「私は、君達を信じているよ」

 アルマにとんっと背を押され、よろめくように一歩足が前に出る。張り付いたようだったのが、嘘みたいにあっけなく。

 踏み出してみれば、一歩また一歩と足は動き、やがて俺は床を蹴るようにして走り出していた。体が嘘みたいに軽く、まるで風を切るように一気に駆け抜ける。

「朔也!」

 幼馴染の名を呼びながら窓枠から飛び出せば、ふわりと想像以上に体が高く舞い上がって、竜巻ごと朔也を飛び越え男の頭上へと躍り出た。

「翼⁉」

 朔也の驚く声を背に、俺はぐっと両手に持った剣を思い切り振りかぶる。ばっと上を向いた男がこちらを見上げ、両の目が見開かれていく。

 ぽかんと呆けたような顔面目掛けて、勢いよく剣を振り下ろそうとした瞬間。

「おい、お前見えてるぞ」

 なんの感慨もなくぽつりと男が零したひと言に、俺は瞬間ぴしりと固まって。直後に男の視線の先がスカートの中であることに気がつき――カッと頬へと熱が集まるのがわかった。

「見るなあああああアアアアアア――――ッ!」

「ふゴァッ‼」

 涙目で羞恥の絶叫とともに振り下ろした剣の腹が、音速もかくやという速度で男の顔面へと沈む。ドゴォッと鈍い音が上がり、男がバルコニーへと叩きつけられた。

「ううっ……俺自身すら見てないのに見られた……しっかり見られた……」

 息を切らしながら涙目で必死にスカートを押さえ、俺はすとんと着地する。

 スカートの中が見えるかどうかなんて、完全に意識の外だったのだ。当たり前だ、そんなの生まれてこの方意識したことなど無かったのだから。

 男に一撃を入れられたことに喜びはあるものの、スカートの中を見られた精神的ダメージの方が大きい。しかも、見た男に冷静に指摘されたのがさらに辛かった。羞恥で死ねるなら今かと思うくらいだ。

「翼!」

「うわっ」

 呻いていると、背後から呼び声と共に朔也に抱きつかれた。男が倒れたことによって、竜巻から解放されたらしい。特に目立った外傷も無いようで、俺はそっと安堵に息をつく。

「翼ありがとおおお……ボクさすがにもうだめかと思ってえええええ…………」

「ひっつくなよ……一人で戦わせてごめんな」

 泣きつく朔也を引き剥がしながら謝る俺に、朔也はむっと少し拗ねたように唇を尖らせた。

「ボクがやりたいからやったの。一人で倒せると思ったのに、結局翼においしいところ持ってかれちゃったよ」

「いや、おいしかったか……?」

 朔也の言葉に先程の自身の醜態を思い出して俺が首を傾げれば、朔也はにやにやと笑う。

「後ろから飛び出しての一撃、カッコよかったよー。……まあ、パンチラっていうよりパンモロだったけど」

「お前もしっかり見てんじゃねえか……!」

 位置的に仕方のない事とはいえ、朔也にまで見られていたと思うと再び顔が熱くなる。

 ぶり返した羞恥から八つ当たり気味に抗議しようと朔也をぎっと睨みつけると、朔也にすっと人差し指で唇を押さえられた。

「遊ぶのは後でにしよ。まだおいしいところ、残ってたみたいだから」

 笑みのままぽつりと呟いて、朔也は真っ直ぐに俺の背後を見つめていた。その視線を追えば、倒れていた男がよろけながらも身を起こすのが目に入る。

「お、まえ……!」

 顔に剣がめり込むほどの強烈な一撃をくらって、それでもなお立ち上がるのか。

 驚きに声を詰まらせた俺に、男はにやりと笑みを浮かべた。

「今のは、いい攻撃だった……だがしかし、この程度で我輩を満足させられたと思うな――」

「えいっ」

「ウゴフッ」

 かいしんのいちげき。

 そんなひと言が頭をよぎる一撃だった。男がよろよろと立ち上がりながら俺へ向けて話している間に、こそこそと背後に回った朔也が振るった杖が勢いよく男の脳天を捉えたのだ。

 今度こそ意識を失ったのかぐしゃりと地面に沈んだ男を前に、俺は信じられないものを見たような気持ちで幼馴染を見る。

「お前……こういう時は攻撃しちゃだめだろ……」

 しかも男と戦う前にそう言ってたのは、朔也であったのに。男はあの時、きちんとこちらを待ってくれていたのに。 

 じとりとした俺の視線に、朔也はぐっと親指を立てた。

「勝てば官軍!」

「聖女が言う言葉じゃねえ!」

 あんまりな言い草に頭を抱えると、へらへらと朔也が笑う。

「まあいいじゃん、勝ったんだし」

 言いながら視線を落とした朔也につられ、視線を落とす。と、床にはぐったりと力なく倒れる男の姿があった。完全に意識を失っているようだ。

 力ない男の姿に、ようやく終わったのかという実感が湧いた。

「そうか、勝ったのか……」

「うん、勝ったんだよ」

 思わずぽつりと呟いた言葉に、朔也が頷く。

 途端なんだか体の力が抜けて、俺はがくりとその場にへたり込んだ。剣が握りしめていた手から零れ落ち、すっと姿を消す。

「よかったあ……」

「疲れたねえ……」

 心の底から吐き出したため息に、朔也も隣にぺたりと座り込んで大きく息をつく。初めての喧嘩、初めての暴力。なんだか気の抜けた幕引きとはいえ、それがようやく終わったのだ。気が抜けても仕方がない。

「おーい、二人とも大丈夫かーい?」

 そうして俺達は完全に燃え尽きた抜け殻のようになって青い空を見上げ、アルマがこちらに向かってくるのをぼんやりと待っていた。

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