一章 崩壊する幻想と目指せ世界平和

「翼? 大丈夫?」

 やや焦ったような柔らかな声と同時に乱暴に揺すられ、俺ははっと目を開けた。けれど眼前にあったのはあの恐ろしいほどに整った子供の顔ではなく、見慣れた幼馴染の顔で俺は思わず安堵のため息を零す。

 良かった、さっきのはやはり夢だったのだ。冷静に考えればそうに決まっているのに、嫌に現実感があったせいで肝が冷えてしまった。

「ねえ、大丈夫? なんかうなされてたみたいだけど」

 そんな俺の様子を見て、不安になったのだろう。少しだけ心配そうにそう言って、二つに結い上げた栗毛色の髪を軽く揺らしながら幼馴染――朔也が覗き込む。

 朔也は正真正銘の男なのだが、その身に纏っているのは女子の制服だ。本人曰く、こっちの方が似合うし可愛いからということらしい。他にもあちらこちら外見に気を使っているようで、ぱっと見はほぼ完全に女子だ。幼い頃からやっているというだけあって、もう板についたものである。何も知らない他校の生徒や新入生が真実を知って、崩れ落ちるのを見るのが日常茶飯事になるくらいだ。

 まあ俺としても本人の言う通り似合っていると思うし、好きにしたらいいと思っているがスカートの丈が短いのだけはいただけない。絶対これ校則違反だろう。

 いつもならばそれに対して小言の一つも口にするのだが、見慣れた姿に思わず気が抜けてしまった。俺は軽く苦笑しながら首を横に振る。

「いや、大丈夫……」

 とそこまで口にして、俺は思わず自分の喉へと手をやってしまった。今の声は本当にこの喉から出たものだっただろうか。本当に?

 疑うような気持ちで小さくあーと再び喉を震わせ、俺はやはりという気持ちで首を傾げる。声が変だ、と思った。聞きなれない、まるで自分の声でないような音がするのだ。

 ゆっくりと指先で喉を擦れば、違和感が頭を掠めた。風邪でも引いたのだろうか。しかし、喉が痛いというわけではない。それに掠れる、というよりもなんだか音が高いのである……まるで、女子のように。

 そこまで考えたところで、ばっと脳裏に子供の最後の一言がフラッシュバックする。

『境界を渡る副作用で性別変わるんでー』

 さらっとついでか何かのように言われたそれ。ありえないはずの言葉が急に存在感を増して、ぞわりと俺の背筋を撫でた。だって、そんな。あれは夢のはずじゃ。

「はは、馬鹿な……そんなわけ」

 乾いた笑いを漏らしながら胸元と下を恐る恐る手で探り――そうして俺は、さあと青ざめた。

「嘘だろお……!」

 そこに生まれてこのかたずっと共に過ごしてきた相棒の姿は無く、代わりにと言わんばかりに胸元にありえないほどの肉が掴める。何度確かめてみても感触は変わらず。これは、これはもしかしなくても。

「女になってる……?」

「なってるよー。ほら、鏡見る?」

 震え声で零した信じたくない無情な事実は、けれどあっさりと朔也に肯定されてしまい俺は思わず呻き声をあげた。というか、なんでお前が俺の体の異変を知ってるんだ。触ったのか。寝てる間に触ったのか。

 あまりの衝撃に打ち震えている俺とは対照的に、朔也の反応は呑気なものだ。他人事だと思ってと少し恨めしく思いながら、はいと気軽に手渡されたピンクの手鏡をこわごわ覗き込む。鏡の中から見返してきたのは、やはり見慣れた自分の顔ではなかった、が。

「なんか……親戚にいそう」

 かといって劇的に別人になっているというわけでもなかった。髪も少し伸びていて、ぱっと見は確かに女に見える。だがあくまで俺がベースになっていて、目が若干大きくなり、骨格が丸く、線が細くなっているのだ。そういう訳で、総評すると『親戚にいそう』になるのである。全く知らない人間の顔になっていなかった事には安堵したが、なんだろうこの残念感は。

 しかし、実際に身体が変化しているのを見ると、あの子供とのやり取りがただの夢だったと断じるのは少々難しい。と、ここにきてようやくきょろりとあたりを観察すれば、そこは今いる天蓋付きのベッドを含めなんだかやけに家具の細工の凝った洋室だった。

 まるで海外の屋敷か何かのようだ。当然、見覚えはない。本当にこの場所があの子供の言っていた別の世界、というものなのだろうか。にわかには信じがたかったが、自身の体の変化と見慣れぬ部屋に『別の世界』というのが嫌に現実味を帯びてくる。試しにポケットに入っていた携帯端末を起動してみるが、当然のように圏外だった。どういう訳か時間すら表示されていないし、もはやただの光る板でしかない。

 と、そこまで考えてはたと思考が止まる。今いる場所が仮に別の世界だとして、それなら何故朔也がいるのだろう。

 不思議に思った瞬間、脳裏で何かが弾けるような感覚がして記憶が奔流のように溢れ出した。あの電車の中にいるときからずっと思い出せなかった、意識を失う前の記憶が鮮やかに蘇る。そうだ、俺は確か。



 一週間分の生ぬるい倦怠感に覆われた金曜日の放課後、俺は緊張と共に校舎裏にぽつんと一つだけ生えている銀杏の木の下に立っていた。

 なかなかの老齢であるその銀杏は、最近肌寒くなってきたせいかすっかり色づいていた。目が覚めるような黄色に染まった葉が散って、絨毯のように地面へと敷き詰められている。殺風景な校舎裏でまるでそこだけが光っているようだった。

 けれどそんな見事な景色よりも俺の意識を奪っているのは、自らが手にしている手紙だ。朝下駄箱の中でこれを見つけてから、俺は今日一日中そわそわとしていたような気がする。

『ずっと、あなたのことを見ていました。大切なあなたに、伝えたいことがあります。今日の放課後、校舎裏の銀杏の下で待っていてください』

 可愛らしい花柄の便箋に丸い筆跡で綴られた短い文章が、赤いハートのシール付きの封筒に入っていたのだ。噂に聞く恋文というものではないか、と思ってしまった俺を誰が責められるだろう。こんな意味ありげな文面、勘違いしてしまったとしても仕方がないはずだ。

 それが、まさか。

「ごっめーん、遅くなっちゃった! 手紙で言ってたことなんだけどさー」

 差出人がそんな能天気な笑みを浮かべて小走りで駆け寄ってくる朔也だなんて、一体誰が予想できただろう。いや、誰にもできはしないはずだ。じゃないと、今日一日名も顔も知らぬ相手に対して、どう返事をしたらいいのかと頭を悩ませていた自分が許せそうにない。

「お前かよ! 紛らわしいわッ!」

「えー紛らわしいってー? なんのことだか、ボクわかんないなー?」

 悔しさと脱力感と怒りとがない混ぜになったような思いで叫べば、朔也はにやにやしながら白々しく嘯く。

「ボク嘘なんか書いてないもーん。幼馴染だからずっと見てるし、翼は大切な親友だし、母さんから今度庭でバーベキューしようって伝えてって言われたしー」

「……筆跡を変えたのは? 無駄なハートのシールは? あの便箋は?」

「可愛い方がいいかなーって。ふふ、翼がっかりしちゃった?」

 心底嬉しそうに笑う朔也に、俺は諦念から大きくため息をついた。肩を落とすを見た朔也は、さらに笑みを深めていっそ幸せそうである。

 朔也は基本的には気のいいやつだが、時折こういった悪戯めいた事をする。なんでも、俺が困ってる姿を見るのが好きなんだとか。どういう事だかよくわからないし正直迷惑だとも思うが、企みが成功したときが一番いい笑顔をするのでなんだかやめろとも言い出せないまま今に至っているのだ。まあ被害者は俺だけで悪戯程度のものが大半だし、大した問題でもない。心は少しダメージを受けるが。

「あー、もう。帰るぞ」

 どっと疲れたような思いで朔也に背を向けた途端、急に足元の感覚がなくなった。そして、ふわりと浮遊感。

「翼ッ!」

 悲鳴のような朔也の叫び声を聞きながら下を見れば、そこは奈落へ続くような漆黒で。なんだこれ、なんで地面に急に穴が。

「ヒッ……!」

 悲鳴さえ凍りついたまま、体は無抵抗に暗闇の中へと飲まれた。一拍遅れて内臓が浮き上がるような不快感が襲い、固まってもがく事すらできない全身を恐怖が支配する。

「翼っ!」

 朔也が必死な表情で名前を呼びながら、俺を追って弾丸のようにこちらへと飛び出すのが見える。勢いをつけて飛び出した朔也の体はあっという間に俺へと近づいて、そして。

「あ」

 ガン、と音がするような脳を揺さぶる激しい膝蹴りを、俺の頭へとぶちかましたのだった。



「……って、俺が寝てたのも、記憶があやふやだったのもお前のせいじゃねえか!」

「うわああん、忘れてたなら都合良かったのにー! 思い出さなくてもいいよー!」

 蘇った記憶に思わず掴みかかれば、朔也は勝手なことを言いながら拘束から逃れようと手足をばたつかせた。人に膝蹴りをかまして意識を刈り取った人間とは思えない発言だ。助けようとしてくれていたのはわかるのだが、さすがにこれはあんまりである。

「全く、お前は……」

 呆れてため息をつきながら朔也を解放し、指先で衝撃を受けたであろう後頭部あたりを擦る。と、確かに鈍い痛みと共に割と大きな瘤を確認できた。これのせいで俺は訳のわからないまま変な空間で子供に甚振られ、今も自身の状況を見失い混乱する羽目になっていたのだ。なんとも間抜けな話である。と、呆れたところで俺は僅かな引っかかりを覚える。

「なあ、朔也。お前はあの子供に会わなかったのか?」

 子供に会ったのは夢の中のような場所だったが、それなら朔也はどうしたのだろう。子供の口ぶりからするに、会わなければ境界というものは越えられないような感じだったが。ここが『別の世界』だとするのならば朔也も会ってなくてはおかしいはずだ。

 不思議に思っての問いは、解放されて一息ついていた朔也によってあっさりと返された。

「子供って……ここのセカイちゃんのことだよね? 会ったよー落下中に」

「落下中に⁉」

 どういう状態だと瞠目する俺に、あっけらかんとした様子で朔也は頷く。

「なんか気失った翼と一緒に暗闇の中に落ちて暫くしてさ、セカイちゃんが降ってきたんだよね。それで同じ速度で隣に並んだと思ったら、自分は別の世界の化身で今困ってるから救ってとか言われてさー。とりあえずいいよーって言ったらなんか腕輪みたいなの着けられて、膜みたいなの通り抜けたらいきなり外で。若干投げ出されるような感じで、ここの屋上についたって感じ」

 朔也はまるでなんでもないことのように軽々と説明するが、想像してみるとだいぶ壮絶だ。そもそも落ちながら会話できるって、そのままあの子供――セカイの言う頓珍漢なことをすぐに信じるって、言うほど簡単にできることじゃないだろう。

 もし同じ状況に自分が置かれていたらと想像して、思わずゾッとする。どう考えても俺には無理で、気絶していて良かったかもしれないとすら思ってしまった。適応能力が高いというかなんというか、朔也のこういうところは少し羨ましい。

「そういえば、お前の体はそのまんまじゃないか? 俺は変わったのになんでだよ」

「やっぱりそう見える……?」

 俺がひとしきり感心して、それからふと浮かんだ疑問を口にすると、朔也はなぜか打って変わって悲しげな声を上げた。なんだろう、なにか言ってはいけないことを言ってしまったような雰囲気だ。

「なにも言わずにちょっと手を貸してよ……」

「お、おう……って、何しようとしてんだ!」

 首を傾げて言われたとおり手を出したところ、それを掴んで自らの胸へと引き寄せようとするので俺は焦って静止しようとする。男のままだろうと女になっていようと、どちらであろうと俺に人の胸をまさぐるような趣味はない。

「いいから!」

 だが朔也にそう押し切られて抵抗も虚しく、結局ぐいと半ば抱きしめられるように俺の掌は朔也の胸元に押し付けられた。が。

「………………どっちだ?」

 熟考の末、零れたのはそんな言葉だった。生地の厚い制服越しということもあるだろうが、あるのかないのかの判断が非常に難しい。僅かに柔らかな感触があるような気もするが、元々朔也は筋肉がないのでだからだといわれたらそれもそうかと納得してしまうレベルである。

「これでも女の子になってるんだ……なってるんだよ……ボクも翼が女の子になったからまさか自分もって確認して初めて気がついたレベル……」

「そ、そうか……」

 悲痛な表情で胸元を押さえる朔也に、なんと言ったらいいのかわからず俺は曖昧な返事を返すことしかできない。

「ほんとに女の子なんだよ! 声も若干高いような気がするし、それに何よりボクのビッグマグナムがないし!」

「いや、さすがにビッグマグナムは盛りすぎだろ」

「翼ひどい! なんだよ、そんなに胸の脂肪が偉いのかばかー!」

「別にそんな話ではって、掴むな! 普通に痛い!」

 冷静に指摘したつもりだったが、なぜか悲しみに暮れる朔也の癇に障ったらしい。若干涙ぐみながらがしりと俺の胸の肉を鷲掴んで喚くものだからたまったものではない。

 俺も男だ。正直、漫画とかで胸を掴まれた女の子が顔を赤くしている描写だとかを見て、淡い夢を抱いていなかったと言えば嘘になる。が、それはやはり幻想だったのだ。

 なんだこれ普通にめっちゃ痛い。冷静に考えてみれば、遠慮もなしに肉を鷲掴まれたらそりゃ痛いだろう。あんっとか言ってられるか。

「ないのもボク好きだけどさー! でもせっかく女の子になるなら、ボクもこれぐらい欲しかったよー! 揉み放題したかったよー!」

「しつこい! 現在進行形で俺の揉んでるくせに何を言う! 痛いんだって、はーなーせー!」

 一部の女子が聞いたら半殺しにされそうなことを言いつつ意地になって人の胸を揉み続ける朔也と、朔也を何とか引きはがそうと必死で抵抗する俺。ぎゃーぎゃーと騒ぎながらそんな不毛な攻防を続けていると、がちゃりと不意に視界の端にあった扉が開く。

「サクヤ。賑やかだけれど、何かあったのかい?」

 言いながらひょいと焦ったような顔を覗かせたのはなんだか小綺麗な格好をした、まるで外国人のような金髪緑眼をした青年だった。……いや、今いる場所が異世界なら、そこにおいて外国人もなにもないのだが。

 ぱっと見、同い年くらいだろうか。少しだけ幼さを残したような顔立ちは整っていて、先ほど見た子供を思い出してまた美形かといたって標準的な顔立ちである俺は内心辟易とする。あれか、世界の化身が美形ってことは、もしかしてこの世界の奴は全員美形ってことなのか。醤油顔といわれるような自分の容姿を取り立てて嫌だと思ったことなどないが、立て続けに美形を見せられると多少卑屈な気持ちにもなってくるというものだ。

 さてそんなイケメン君はというと。なぜか視線をこちらに向けた途端に扉を開けた姿勢のままぴしりと固まって、じわじわとその端正な顔を茹蛸のごとく赤らめていった。

「ご、ごめんっ! そのっ、君たちの邪魔をするつもりはなくってだねっ! ええっと、とにかくごめん! ごゆっくり!」

 そうして彼は一方的にまくし立てて、ばたんと勢いよく扉を閉めてしまった。閉まった扉の向こうからは、ばたばたと走って去っていく音すら聞こえる。一体、今のは何なんだ。

 嵐のような一連の流れに呆気にとられながら、俺は彼が見たであろう己の現状を冷静に見つめなおすことにする。

 俺の胸に顔を寄せ、揉みしだく朔也。押しのけようと朔也の両肩をつかむ自分。揉み合いの末にお互いに乱れた着衣、荒くなった呼吸オン・ザ・ベッド。……うん、なるほど。

「待ってくれ! 違う、これは違うんだ! 頼む、戻ってきてくれ!」

 すべてを把握した次の瞬間には、俺は扉へと向けて全力の絶叫を上げていた。



「わー、なんだかすごい部屋だねー」

 朔也がのんきな声を上げたのは、先程寝ていた部屋によく似た作りをした、天井にキラキラとした立派なシャンデリアが吊ってある広く豪奢な部屋だった。

 まず目を引くのは、中央に置かれた何人座れるのだろうと考えてしまうような大きなテーブルだろう。清潔な眩しいほどの白いテーブルクロスが、なおその存在を際立たせている。さらに部屋のあちらこちらに施されている装飾も、さりげなく置かれている調度品もまるで美術館に置かれているような値の張りそうなものばかりだ。扉から入って正面には壁一面の大きな窓があって、その向こうはまた広いバルコニーになっているらしい。一般市民である朔也が歓声をあげるのも無理のない事だろう。

 けれど、そんな格式高いような空間の中。同じく一般市民であるはずの俺は、やけに柔らかな椅子に沈み込むようにしてぐったりと体を投げ出していた。

「疲れたし胸が痛い……物理的に痛い……」

 慣れない痛みに涙目になりながら胸を擦れば、柔らかな感触が返ってきてなんとなく罪悪感に襲われる。いや、自分の体だから別に触ってもいいんだけども。わかっていても意識に刷り込まれた倫理観というものは、簡単には変わらない。よって俺はいたたまれないような気持ちで、もそもそと自らの手を引っ込めた。

 あれから広い廊下を疾走する青年を追いかけたはいいが、慣れない体で動きにくいわ、服が自分の男子制服のままだったからサイズが合わなくなっててぶかぶかで邪魔だわ、何より胸がもげるかという勢いで揺れてめちゃくちゃ痛いわと酷い目にあったのだ。

 体育の時に走っている女子の胸元を見て、あれはいいものだとのんきに淡い邪な思いを抱いていたのに全力で謝りたくなった。何もよくない。あれめっちゃ痛い。

 ちなみに朔也はその間、俺を指差して腹を抱えるほど爆笑していた。許さん。

 結局片手で胸を押さえながら走って、なんとか青年を捕まえて誤解を解くことができたのだが。初めからこんな有様では先が思いやられる、とセカイに言いつけられた事を思って知らずため息が漏れた。

 ただ助けてくれ、侵入者を排除してくれとだけ言って、きちんとした説明もなく今いる『別の世界』というところに放り出されたため、具体的にどうしたらいいのか何もわからない。わからないが、とにかく何をするにも早くこの体に慣れなくてはならないし、まったく面倒なことになったものだ。

「その、勘違いをして騒いでしまってすまなかったね。起きたばっかりだというのに、迷惑をかけてしまった」

 俺がぐるぐるとそんな事を考える中、申し訳なさそうにまだ僅かに頬を赤らめたままの青年が、窓を背に無駄に大きなテーブルの向こうで口を開く。少し話しただけだが、すぐに弁解を聞き入れてくれたところから見ても青年はだいぶ素直な性格らしい。第一印象で容姿がいいというだけで僻んだのが申し訳ない。

「気にしなくてもいいよー。もー翼はすぐ騒ぐんだから」

 からからと笑って返す朔也は優雅に出された茶などを啜っていて、俺は憎たらしさに体を起こしてぐいと朔也の耳をひく。

「お前が言うなお前が! 第一、朔也がくだらないことで騒ぐから悪いんだろうが」

「いたたた! くだらなくないよ、男子の夢と希望と欲望にまみれた重要なテーマだよー!」

「そんな下心あふれる邪なテーマは海にでも捨ててこい!」

 痛みに悲鳴をあげながらもなお、真っ直ぐな瞳でふざけた主張する朔也を叱りつけていると、青年がくすくすと笑う声が聞こえた。

「仲がいいんだね、君達。姉妹みたいだ」

 まるで幼い子供を見るような温かい目でそう言われ、俺はなんだか恥ずかしくなって慌てて手を離した。が、朔也は逆になぜか胸を張って、自慢げに笑う。

「そう、なんていったってボクらは人生の苦楽を共にしてきた幼馴染だからね! 魂の片割れと言っても過言ではないよ!」

「家が隣なだけだろ。大げさな」

「なんだよー翼つめたーい」

 呆れる俺の言葉に、朔也が不満げに頬を膨らませたので何も考えることなくそれを押して潰す。幼い頃からの様式美だ。

 俺達のやり取りを見てまた青年がくすりと笑い、それからさて、と居住まいを正した。

「名乗るのが遅くなったね。私はアルマ。アルマ・カプレーゼ。名の通り父がこのカプレーゼ国の王なんだ」

 ということは青年――アルマは王子というわけだ。道理でちょくちょく所作に育ちの良さが滲んでいたり、英国の王太子が式典で着るようなあちらこちらに装飾が施された服を着ていたりするわけだ。と、ひとりで俺が納得していると、アルマは傍らに控えていたメイド服を着た女性へと手を上げた。

 同じ服装をした女性の姿をここにくるまでに建物のあちらこちらで見かけたあたり、さすがは王族といったところか。なんて、市民根性の根付いた俺はいちいち感心してしまう。

「サクヤには先に少し話をしていたんだけど、ツバサは起きたばかりでまだ何もわからないだろう。ちょうど昼時だし、食事でもして話をしようか」

 アルマの挙手を合図として女性が扉を開けば、そこからぞろぞろと何人もの人が銀色のワゴンを引いて現れた。金属の無機質な印象は無く、全体に華奢な細工が施されていて、見た目はずいぶん華やかだ。

 脇に立たれ、目の前にことりことりと次々にいくつもの器が並べられる。給仕されることに慣れていない俺は少しだけ戸惑いながら、けれど差し出された未知の料理に興味を惹かれて一際大きな深めの器を覗き込む。

 と同時にふわり、と温かな蒸気と共に鼻先を掠めたのは、どこか懐かしいような食欲をそそる香りだ。系統としてはかつおだしが最も近い香りかもしれない。

 湛えられた黄金色のスープは透き通り、中に白い少し太めの麺のようなものが行儀よく渦を巻いて鎮座している。上に散らされるようにして乗せられた香味野菜が、彩を与えつつもアクセントとなって――

「って、これうどんじゃねーか!」

 俺は思わず叫んでいた。突然の絶叫にびくりとしたアルマには大変申し訳ないが、俺の混乱も察していただきたい。

 眼前に置いてあるこれはうどんだ、どう見てもうどんだ。しかもシンプルながらにとても美味しそうなうどんである。だけど待ってほしい。ここは『別の世界』という話ではなかっただろうか。それなのになぜ、うどんなのか。

「えっ、翼うどん嫌いだったっけ?」

 混乱する俺に対して、同じ衝撃を共有してくれるはずであろう朔也はきょとんとしてすでにうどんを啜っている。どころか小皿から何かの漬物をポリポリと摘まんですらいる。穴に落ちた時といい、本当になんなんだお前の高すぎる適応能力。

「好きとか嫌いとかの問題じゃないわ! ここまで完全西洋の雰囲気できておいて、なんで突然うどんなんだよ! 香川か! ここは香川県だったのか!」

「翼は香川県を何だと思ってるの?」

「いや、うどんが嫌いなわけじゃないんだ。むしろ好きな方なんだ……だから頼む、香川県に密告だけはしないでくれ……!」

「本当に翼は香川県を何だと思ってるの?」

 突然のうどんの登場による混乱に思わず朔也相手に声を荒げていると、驚いたように目を見開いていたアルマが嬉しそうに微笑んだ。

「二人の世界にも似たものがあるんだね。これはカプレーゼ国では主食みたいなもので、サヌキというんだ。この国は平野が多くてコムギがよく採れるから」

「名称がますます香川……俺はまさか香川県のPR時空へときてしまったのではないか……」

「ねえ、翼。翼の中の香川県は闇の組織か何かなの? なんでそんなに執拗に恐れてるの?」

 先ほどの混乱を引きずったままの俺を、朔也がいよいよ心配そうに見つめる。ただしその手は休むことなくうどんを口に運び続けているが。朔也に釣られるように、俺も限りなく箸に近い木製のカトラリーを手にうどんを啜る。……うん。美味い。

 美味しい食べ物というものは不思議なもので、それだけで気分を落ち着かせるような気がする。ずずっとうどんを一息に啜り、ほうと優しい味に思わず息をつく。

 正気を取り戻した俺を見てアルマがさて、とようやく自らもうどんに手を付けた。イケメンはうどんを啜る姿すら絵になる。などとくだらないことを考えながら、俺も一度手を付けたら止まらなくなったうどんを口へと運び続けた。

 そうして、少しの間俺たちはただずずっと時折音を立てながら麺を啜り。やがて全員が食べ終わって満足げなため息をこぼすころ、アルマが再び口を開いた。

「ツバサは今がどんな状況なのか、よくわかってないって話だったよね。それならこの国がどういう国かとか、大まかな説明から始めた方がいいかな?」

「ああ、頼む」

 確認に頷けば、アルマは再びすっと手を上げて近くに立っていた女性に合図する。するとまた幾人かが集まってテーブルの上の空になった器を片付け、入れ替わりに大きな地図のようなものが広げられた。よく見ようと少し前のめりになって朔也と二人、地図を覗き込む。

 地図に載っていたのは一つの大陸だった。少し横に長いような大陸の形が四国に似ている、と思ってしまうのはさっきの香川ショックを引きずっているのかもしれない。

「サクヤにはさっき話したから、同じ内容もあると思うけど。簡単に説明するね」

 そう前置き、そして立ち上がって腕をこちらに伸ばしたアルマの白く細い指がすいと地図上に伸びる。

「この世界……っていうのも慣れない表現なんだけどね。まあ、この世界は細かい島があちらこちらにあって、今いる大陸以外には大きな陸地はないんだ。そして大陸は、全部で四つの国に分かれている」

 説明しながらアルマは国境線で分けられた四つの国のうち、右上の出っ張ったような一番小さな範囲を指差した。それから、桜貝のような淡い色の形のいい爪先でくるりと囲む。

「ここが、今いるところ。私達の国、カプレーゼ国。昔は隣国と小競り合いすることもあったけれど、今はそういったこともなくて穏やかだよ。王都の辺りは賑やかで栄えているけれど、少し行けば自然も豊かで過ごしやすいと思う。サヌキの原料である小麦のほかにも、実から油が採れるオリベの栽培が盛んだ」

 自国を好いているのだろう。アルマはどこか誇らしげにそう言いながら、次はと指が下へ滑る。大陸の右側、中央あたりで止まって指したのはカプレーゼ国よりも少し大きい国だ。

「カプレーゼ国と国境が一番接しているのがトラットリア国。川が多くて自然が豊かな国だ。平野の多い我が国とは違って、こっちは山が多い。ここの国の祭りは有名で、踊り子がたくさん出てきて大層にぎやかになるんだ。スダという果実がよく採れて、焼いた魚に汁を掛けて食べたり酒にしたりするのが人気だ」

 俺達にわかりやすいようにだろうか。先ほどからちょっとした情報を付け加えて説明してくれるので、未知の土地ではあったが想像がしやすかった。気持ちとしては地理の授業を受けている時に近いかもしれない。話を聞いて国を知れば、そこに人が住み文化が築かれているのだと実感できるような気がした。

 ありがたいような気持ちで話を聞いていれば、すいと今度は左側へと指が移る。こちらは少し横長で、先ほどの二国よりも一回りほど大きい。

「それでこっちは、エノテカ国。ここは広いから平地も山も川もあって、特に山は大陸一の高い山セキツがあるんだ。基本的には私達の国と変わらず温暖なんだけど内陸側には高原があって、そこでは雪が降ることもあると聞いたことがある。果樹の栽培が盛んで、ここで採れる果物は美味しいんだよ」

 声を弾ませて説明した後、最後にとアルマは少し改まったように大陸を横に真っ二つにするような国境をゆっくりと辿った。残ったのは一国。

「ここは山になっているんだけど、これがこの大陸の中で一番大きな境。国境であり、種族の境でもある。北半分は今まで説明したような、私達魔法が使えない生き物が住む土地。そして南半分は魔法を使う生き物達の土地で、コトレッタ国という大陸一の大きな国なんだ」

「魔法? いや、そんな非現実的――なッ」

 突然出てきたファンタジーな単語に思わず俺が首を傾げると、朔也にぐいと横腹をやや強く突かれる。不意打ちの痛みに脇腹を擦りながら何かと思い視線をやれば、人差し指でぎゅむと唇を押さえられた。

「屁理屈野郎のリアリストは黙って聞いてなさい。そんなすぐに魔法が実際にあるって言われても受け入れられないのはわかるけどさ。人が説明しているのを疑うのは良くないよ」

「いや、でも魔法って……」

 朔也の叱咤に俺がなおも言い募ると、ついにはべしりと額を叩かれる。

「翼はね、頭固いの! 翼にとっての常識が、世界のどこでも常識なわけないでしょう。郷に入っては郷に従え。人には人の、家には家の、土地には土地の価値観があるんだから。まずは固定観念を捨てて相手の話を聞いて、理解するところから始めなきゃ。いーい、わかった?」

「ぐっ……」

 小さい子供をたしなめるように言われ、図星を刺された俺は呻き声をあげる。確かに俺は今、魔法なんて冗談だろうと思ってしまった。けれど現実には起こりえない不思議なことが立て続けに起きている今、いちいち頭から疑っていては仕方がないというのもわかる。何より、自分のために説明してくれているアルマに対して失礼な態度だった。

「悪かったよ……」

 自らの非を認めて俺が頭を下げると、アルマは気にしていないというように軽く笑う。

「二人のいたところは魔法を使う者がいなかったと聞いてるから、ツバサの反応も無理もないよ。実際この山を挟んだ北と南であまり交流はないから、私達の中でも魔法を見たことがない人は多いからね。かくいう私も、空を飛んだり火や水を思う通りに扱ったりっていう魔法の存在こそ知ってても実際に見たことはないし」

 アルマの説明に、俺はそっと息を吐いた。もし今いる場所でも魔法が常識であり、当然のように日常に溢れているとしたら。適応能力の高い朔也はともかく、頭の固い俺は今よりもひどい混乱に陥っていたに違いなかったからだ。

「交流はないって、あんまり仲が良くないの?」

 一人で安堵している俺をよそに、朔也がアルマにふと気になったというように問いを投げる。と、アルマはうーんと少し考えて緩く首を振った。

「別にそういうわけではなかったんだ。ただ山があるから行き来がしにくいっていう地理的な問題と、向こうの人や生き物はこちらとは寿命も文化も生態も違っているからっていう精神的な問題があってなかなかお互い積極的に交流しようってならないだけで」

「そういうわけではなかった?」

 アルマの言葉がなんだか気になって繰り返す。その言い方では今では違うようではないか。俺の疑問に、アルマはふっと表情を曇らせた。

「それが、今この国が直面している問題なんだ。いや……大げさな言い方になるけど、もしかしたらこの世界の存亡がかかった問題かもしれない」

 世界の存亡。大仰で非現実的にすら思える話に、セカイの姿が頭をよぎる。セカイが言っていたことではと、俺は隣にいた朔也と小さく頷きあった。アルマはそっと、重たげに口を開く。

「わずか一週間前のことだよ。コトレッタ国から、山を越えてエノテカ国に一人の男が入ってきた。その男は自らをコトレッタ国の新しい王だと名乗って、そうして言ったんだ。『この世界のすべてを貰いにきた。宣戦布告する。北側三国、私の大願のための礎になれ』って。その言葉に呆気にとられる人々の前で男が双剣を抜き天へと掲げると、周囲の人や家畜が次々と倒れていったんだそうだ」

「掲げただけで……?」

 想像すると、あまりの異様な光景にぞっとするものがある。穏やかな日々の中、何の心構えもできていなかった人々はきっと成す術もなかっただろう。暴虐といっていいほどの行為だ。

 顔を顰める俺にこくりと頷き、アルマは沈痛な面持ちで言葉を続ける。

「幸い、と言っていいことかどうかわからないが……倒れたもの達はすべて眠っているだけだった。ただ、一向に目覚めない。治療する術も見つからず、さらにはどうすればそれに抵抗できるのか、逃れることができるのかすら誰もわからなかった。そのまま男は次々と同じように村や町を襲い続け、エノテカ国はたった一人の男によって一週間で制圧された。その様子に慌てて防護を固め、戦おうとしていたトラットリア国も結局は成す術がなく数日で落ちた。コトレッタ国から遠いこのカプレーゼ国も、一番守りの固い王都を残してあっけなく陥落してしまった……被害にあった村を視察しに行った父上、母上もそれに巻き込まれて……昨日……」

 だんだんとかすれていく声でそこまで語って、アルマはついに言葉を詰まらせ俯いた。長いまつげが伏せられ、顔に影が落ちる。両親の様子を思い出したのだろう、肩を震わせ痛みに耐えるような様子は悲痛ですらある。

 天災とも思える理不尽さで隣国だけでなく、自国を侵され肉親さえ被害にあっている状況ならば仕方がない反応だろう。むしろ残された王族としてのプレッシャーもあるだろうに、その状況下においてよくぞ取り乱さずにいられたとすら思った。

 憐憫の情に胸を痛めながら、それでもかける言葉がなくて俺達は俯くその様を見守ることしかできない。しばらくアルマは俯いていたが、やがてぐっと顔を上げ俺達へとまっすぐな瞳を向けた。煌めく緑に思わぬ強さで射貫かれて、俺はびくりとする。

「この国には、世界が混沌に飲まれた時。異界から聖女が舞い降り、危機を退けるという伝説がある。今までずっとそんなものはただのおとぎ話だと、作り話なのだと思っていた……でも、今朝屋上で絶望にのまれそうになりながら見上げた空から二人が落ちてきた時、それは本当だったんだって思ったんだ。君達が、この世界の最後の希望なんだって。勝手なことだとはわかっているし、大変なことをさせようとしているのもわかってる。だけど、私は……私は、君達に世界を救ってほしいと思ってるんだ……!」

 必死にまるで縋るように、告げられた言葉は真剣で痛いほどに強く胸に響く。アルマの願いが本当に心からのものであるのがわかるだけに、思わず一も二もなく頷いてしまいたくなった。だが衝動をぐっとこらえ、俺はばっと勢いよくハンドサインの形をとって声を上げる。

「タイム!」

「へっ⁉」

 とっさのことに呆気にとられて固まるアルマをこれ幸いと、俺は朔也の首根っこをぐいとひっつかむ。勢いのまま朔也を部屋の隅に引きずっていき、顔を寄せてこそこそとできるだけ小声を心掛けながら相談を始めた。

「ちょっと待て……もしかして倒さなきゃいけないってのはこの事か? なんか思ってたよりめちゃくちゃ深刻そうなうえに、相手死ぬほど強そうじゃねーか……! 何だよ双剣って、何だよ『大願のための礎となれ』って! 一介の男子高校生がそんな相手に勝てると本気で思ってんの? どうにかできると思ってんの? セカイは馬鹿なの?」

「しかも聖女とか言われてもね……ボクら実際中身男の子なんだけど伝承的にその辺いいのかな……元男の聖女で本当にいいのかな……」

 任せろと言うには心もとなさ過ぎる自身のスペックと問題の大きさに騒ぐ俺に、少し不安そうに朔也も頷く。正直無茶振りもいいとこだ。こんな大変な問題ならば、せめて運動部の奴を拉致すればよかったものを。俺達は悲しいことに二人とも帰宅部のエースなんだぞ。

「どうすんだよこれ……俺達じゃなんもできないぞ……」

 困ってちらと後ろを振り返ってみれば、期待にこちらを見つめるアルマと目が合ってしまう。純粋なその瞳にぐうっと俺は思わず呻き声をあげた。どう考えても断れない雰囲気だし、そもそも世界を滅ぼそうとしてる相手を何とかしなければ元の場所に戻れないという話ではなかっただろうか。やばい、これは詰んだかもしれない。

 このままこ異世界で死ぬのではと想像してさあと青ざめる俺をよそに朔也があ、と突然間の抜けた声を上げた。

「そういえば、ボク達セカイちゃんに力分けてもらったんじゃなかった? これ、どれくらいのものなのかわからないけど、一か八か試してみる?」

 言いながら朔也がぐいと自らの袖をまくり、左手首を差し出してくる。そこにはくっきりと、まるで痣のような見慣れない青い輪が刻まれていた。自らも袖をまくって両手首を確認すれば、右手首にまるで色違いのように赤い輪が刻まれている。

 いつの間にこんなものがと瞠目したが、すぐにセカイによる理不尽な手首への攻撃の際にやられたのだと気付いた。ただの脅迫行為だと思っていたが、一応意味はあったらしい。

 あの時の痛みを思い出して少しげんなりしながら、俺はためつ眇めつ己の右手首を観察する。別に今は痛くもないし、攻撃された時のように光っているわけでもない。だが知らないうちに自分の体に勝手に模様が刻まれているというのはあまりいい気分ではなかった。

「それで、力って言ったってこれはどう使うんだよ。俺は何も聞いてないぞ」

「え、ツバサ聞いてないの? ボクちゃんと聞いたけどなあ」

 少々ふてくされたような気持ちでぼやけば、きょとんとした朔也の返事が返った。まるで当然のことのように返され、俺はばっと慌てて朔也を見る。

「まじか。どうやるんだよ」

 大概セカイも適当である。世界を救うのに重要な事項があるならば、きちんと両者に説明しろというものだ。まあ、あの時説明されたとして、俺が素直に聞いたかという点は棚に上げておく。

「ええっと、確かね――」

 若干思い出すようなそぶりを見せつつ朔也が説明しようとした時。パンッと大きな音がして、メイド達の絹を裂くような甲高い悲鳴が上がった。一瞬遅れて聞こえたのは、ぱらぱらとガラスが降り注ぐ音だ。

「みんな、逃げて!」

「アルマ様、しかし……ッ!」

「いいから、早く!」

 アルマの鋭い声にメイド達が躊躇いながらも窓から離れた扉を目指して走り出し、次々と部屋を飛び出していく。

 騒ぎに反射的に振り返った先ではアルマの背にあった大きな窓が砕け散り、きらきらと陽光を跳ね返すガラスの破片が散乱する中でアルマが呆然と外を見つめて立っていた。大きな緑の瞳を見開き、震える声でアルマが零す。

「そ……んな……まさか……なんで……!」

 アルマの視線を追って外を見て、視界に飛び込んできたものに俺も思わず驚きに目を見開いた。

「なん、だ……あれ……」

 窓の外にいたのはふわりと黒いマントを靡かせた、ガタイのいい黒衣の男だ。青みがかったような黒い髪をオールバックに纏め、きっちりと身なりを整えた姿はどこか役人めいた印象を与える。

 けれど外見よりも目を奪ったのは、背にあったものだった。男の背には蝙蝠のような大きな黒い羽が生えており、それをはためかせながら男は宙へと静止していたのだ。ここまできて、とうとう眼前に突き付けられた非現実。そのあまりの存在感に呆気にとられ呆然とする俺を見て、男はにやりと笑う。

「さあ、終わりを始めようじゃないか」

 男が低い声で放った言葉は使われすぎて安っぽささえあったのに、なぜか酷く重く聞こえた。

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