一章・1、 惑星ホーマー

「あー疲れた」


俺がドアを開けると、暗い部屋の奥であいつが体を起こす気配がした。


「グレッグおかえり!おなかすいた!早くご飯作ってよ!」


・・・第一声がそれか。俺は苦笑した。同時に、発言内容に問題はあるが誰かが迎えてくれる家に帰ってくるというのは悪くないものだな、とも思う。


アニスはそれを見て首を傾げた。


「何がおかしいの?ねぇ、それよりご飯ごはん!」


赤い瞳と白い髪。部屋が暗いのはアルピノである彼女は日光に弱いからだ。なら電灯を点ければいいのであるが、昼間から電灯など使われたら、電気代が堪らない。部屋が暗いと眠くなるようで、アニスはこの所寝てばかりいるらしい。羨ましい話である。


「早く!ごはん!」


やれやれ。俺が手に持っていたビニール袋を持ち上げると、アニスは大きな瞳をキラキラと輝かせた。




惑星ホーマーという。人口十億というから帝国内でもかなりの大都市惑星であると言えるだろう。俺とアニスは幾つかの惑星を巡ったのち、ここに流れ着いていた。


ここに腰を落ちつける事にしたのは、ホーマーが大都市星で、ここなら仕事も多かろうと考えた事と、やはり人口が多ければ、どうも有名人であるらしい皇妹アニスも目立たなくなるだろうと考えたからだった。大都市の人間は他人には無関心な事が多いのだ。


本来、俺は一カ所に留まるのはあまり好きでは無い。しかしながら、アニスを連れて旅を続けるということが非現実的であることに、俺は早々に気がついていた。


何しろアニスはこう見えても皇帝の妹であり、本物のお姫様である。これはつまり、一般常識ゼロ、生活力ゼロであることを意味した。端的な例で言えば、紙幣の単位や種類も知らない。日雇い労働させるなど論外だ。


それに、体質の問題もある。俺は知らなかったのだが、アルピノというのは紫外線に対する耐性がまったく無いのだという。日光を浴びると皮膚はただれてしまうし、紫外線が目に入れば失明の危険もある。つまり特別な薬で皮下に色素を定期的に定着させなければ外出もままならないのであり、更にその薬は俺の貨幣価値的には大変に高価な代物であった。


これでは、良くて安宿、悪くすれば野宿というような風来坊生活は不可能である。


俺たちはホーマーの安アパートに部屋を借り、俺は樹脂製品工場に職を求め、新生活を始めた。


まったく不思議でもなんでも無いことだったが、アニスには一般的生活スキルは皆無だった。


料理、洗濯、掃除。どれもまるで出来ない。一度お湯を沸かさせようとしたら、単にそれだけのことで部屋の中は水浸しになった。これでは覚えさせようという気も無くなる。こうも世間知らずでは勤めに出すわけにも行かない。つまり、アニスは共同生活を送る相手としては甚だしく不適当なのである。有り体に言って、お荷物の役立たずだ。


しかもと言ってはなんだが、彼女をいわゆる性的慰めにするわけにもいかなかった。当たり前だ。未婚の皇帝の妹を「傷物」にしたら、流石のシオスも怒るだろう。わかりゃしない?俺は「監視などしない」という彼の言葉など少しも信じてはいなかった。壁に耳ありだ。


正直に告白すれば、健康な若い男性として間近に寝息が聞こえる状態で女に手を出せないというのは、それなりに辛いことではあった。まぁ、そういう夜はこっそり抜け出して女を買いに出掛けることにしていたが。


つまり、あらゆる意味でアニスは役に立たないのであった。俺は彼女の分の家事もやらねばならず、まったくもってなぜに俺がそんなことをせねばならんのかと日々ボヤきが止まらないこととなった。


何度も言うが、アニスは本物のお姫様であり、つまり他人に奉仕されて当然という状況で育ってきたのである。なので俺が、俺だって慣れてはいない家事に四苦八苦していても意に介さなかった。彼女は自分が何も出来ない存在であることを十分に自覚していたが、その事を恥じても気に病んでもいなかったのである。


彼女が役に立ったことなどほとんどないが、あるとすれば彼女が幾ばくかの宝石を持参していたことであろう。これは彼女にしては上出来な行動と言うべきであった。これを現金に替えたおかげで、俺たちはアパートに住めたし、最低限の家具を揃える事が出来たのである。


惑星ホーマーは、俺の故郷やラルフたちがアジトにしていた惑星とは比べ物にならないほどの大都市惑星であった。アパートの窓からは林立する煙突がビルの谷間に見える。建物は密集して立っており、道は狭く、その上には蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされている。いついかなる時も数え切れない程の人々が路上を行き交い、昼も夜も様々な音響が飛び交って静寂が街を覆う事もない。


俺は大都市に定住したのは初めてであった。要するに田舎者だったのである。なので初めは戸惑う事ばかりだった。何でまた誰も彼も早足で歩くのか。皆むっつり押し黙っているのか。肩がぶつかっても謝らないのはなぜか、などなど。


しかし、そんな事にもすぐ慣れた。仕事は生産ラインで、二交代勤務。かなりきつい仕事だったがこれにもすぐ順応出来た。


一人でなかった事が、なかんずくアニスを守ってやらなければならなかったことが、しっかりしなければならないという自覚に繋がり、それが状況順応能力を高めてくれた事は否定出来ないと言っておく。全然感謝する気にはならないが。


アニスは不思議な質で、暇であることが全く苦にならないらしかった。真っ暗な部屋に一人残され、やることといえばテレビを見ることぐらいしかないという、俺にしてみれば耐え難いと思われるような生活にも全く不満を漏らさなかったのである。


仕事は忙しく、また俺には炊事技術もほとんど無かったため、食事は殆どコンビニ弁当かレトルトであった。しかしアニスはそれについても何も言わなかった。最初は、物珍しさ故の事かと思ったのだが、これが数ヶ月続いても変わらない。いつでも満足そうに微笑んでいるだけだった。


アニスのそういう所は、慣れない生活でストレスがたまりがちな俺にとってはありがたかった。これがアニスの方も不平不満に耐えかねるような状況であったなら、二人の生活は早々に崩壊を余儀無くされたことであろう。


些細な問題は絶えず生じたが、とりあえず俺たちの奇妙な共同生活は始まり、それから数ヶ月が経とうとしていた。




「明日、どこかに出掛けるか?」


俺がそう言うと、アニスは一心不乱に食べていた持ち帰りの牛丼から顔を上げた。赤い目をぱちくりとさせる。


「出掛ける?」


俺たちのアパートは1K。布団を二組敷くにはコタツを片付けなければならない程度の広さだった。なので面倒な時は一つの布団に同衾した。家具はタンスと食器棚が一つずつ。二人ともインテリアには冷淡な質だったので、非常に殺風景な部屋になってしまった。何しろ、コタツの下に敷くカーペットすらしばらく無かったくらいだ。


「ああ。休みだし。久しぶりに、な」


アニスは嬉しそうに笑った。


「いいの?疲れてないの?」


「大分、仕事にも慣れたからな。お前もたまには外に出たいだろう?」


「別に。あたしは前からそんなに外出しなかったから」


そう言いながら顔からは笑顔が消えない。それはそうだろう。皇宮ならともかく、こんな狭苦しい部屋に居ずっぱりで退屈しない訳がないのである。流石の俺も、彼女をこんな部屋に置き去りにしている事には多少、罪悪感めいたものを覚えてはいた。俺の方は仕事仲間などと飲みに行くなどしてそれなりに遊んでいたから尚更だった。


もっとも、アニスがそれについて恨み言を言うような事は無かった。せいぜい帰りが遅くなると、腹減ったコールが三倍うるさくなるくらいのものだ。別に退屈していないと言うのも本音のようであり、彼女のその辺の感覚は未だに俺には理解出来ない部分がある。


「何処へ行きたい?」


試しに聞いてみる。アニスはホーマーのことはあまり知らないわけで、具体的な場所は答えようが無いはずだった。何か、漠然とこんな所に行きたいというような希望があればと思ったのだ。まぁ、こういう質問をすると彼女は「どこでもいいよ」と言うのが常だったのだが。


しかし、この時は違った。


アニスはふと顔を上げ、虚空を見据えた。表情が冷え、俺は彼女がいきなりどこか全然知らない場所に行ってしまったかのような錯覚を覚える。


またか。俺は溜め息を吐く。アニスはたまにこういう風な、俺には理解できない挙動をとる。その度に俺は、何だか置いてけぼりを食ったような疎外感に近いような感覚に襲われるのだった。


「・・・花・・・」


ようやく帰ってきたらしい。アニスは囁くような声で言った。


「花が綺麗な所、いろんな花が咲いていて、暖かい所、に行きたい」


?なんだそりゃ?


今は、ホーマーの北半球は冬だ。その証拠に、コタツからはみ出した背中が寒い。ホーマーの冬は厳しい。花は皆枯れているだろう。そもそも、大都市であるこの辺には、花がたくさん咲いているような所は花屋くらいのものである。


そう言いかけてふと気がつく。ああ、あそこはどうだろう。仕事仲間が話していた場所だが、あそこならアニスの希望に添うのではないか?


「分かった。じゃあそうしよう」


アニスはその瞬間、かすむような笑みを浮かべた。




そこは要するに植物園であった。


ホーマー市民の憩いの場所として有名であるらしい。野球場一つ分くらいの大温室の中に様々な植物が植えられている。幾つかのエリアに分かれており、俺たちはその内の一つ「ノースエリア」へ向かった。そこが花の盛りだと聞いたからだ。


「うわぁ!」


薬を飲んで青目金髪になっているアニスが感嘆の声を上げた。両手を広げて花の下に進み出る。


藤の花がこぼれる様に咲き誇っていた。アニスの頭上から花の房が幾つも垂れ下がり、あたかも彼女の周りに薄紫色の雲が浮かんでいるかの様にも見える。温室のガラス越しに差し込む日差しは季節を数ヶ月先取りしたかのように暖かい。白いセーターとロングスカート。それにブーツという、如何にもお嬢様然とした格好をしたアニスは、藤の花を見上げながら小走りに進んで行く。絵になるな。俺は密かに感心した。


散歩にはもってこいな場所だ。特にアニスを連れて歩くには。なぜなら、ここは人通りがそれ程多く無い。


俺は、アニスの正体がラルフたちにあっさり見抜かれたことを忘れてはいなかった。俺が考えるよりもアニスは有名人であるらしいのだ。髪と瞳の色を変えた程度では、分かる人には分かってしまうらしい。


俺はアパートに入る際にはアニスを「アリス・オルレアン」と名乗らせ、俺の妹だということにした。これについてアニスは不満を表明した。


「どう見ても似てないじゃない!」


確かにその通りだか、他に適当な関係も思い浮かばなかったのである。


アニスが容易に外出出来ない体質であるというのは、その意味ではありがたかった。後は、今回の様に外出する先で、余り人目に付かない様に気をつければ良い。


この植物園はうってつけだ。アニスが気に入るなら休みの度に散歩に来るのも悪くない。


そんな事を考えてしまって、苦笑いをする。


何だか所帯じみた考えだな、と思ったのだ。


俺は女性と同棲したのは初めてであり、要は色々と気を使っていたわけである。その代わりと言っては何だが、段々アニスが皇妹であり帝国の筆頭巫女という事は余り気にならなくなっていた。アニスは、いつもは気取らない、いたって普通の女の子であったのである。


アニスは実に楽しそうだった。時折花に触れては輝く様に顔を綻ばせる。その度に、何やら花の名前やその花についての逸話を語ってくれる。俺には全く理解出来なかったが。


連れて来て良かった。俺はのどかな気分でそう思った。そういう気分を抱けると、俺自身も癒されるようなのだ。それは何だか気恥ずかしいような幸福感を覚える事だった。今まで感じたことがない様な感情だ。アニスがいてくれて良かった、とまで思う。


もっとも、そんなみっともない事は、アニスには言えなかったのだが。




と、その時、一人の男が横路から現れた。それが丁度アニスの真横だったので俺は思わず警戒したのだが、その男は特にアニスを気に止めるでもなく、彼女の横をすり抜けて俺の方へ向かってゆっくり歩いて来た。


赤毛の、流麗な印象を受ける男だった。琥珀色をした物憂げな瞳。背は俺より頭一つ高い。ラルフやシオスと同じくらいだ。


俺は殆ど本能的に、その男に警戒心を抱いた。


どこか挙動がおかしかったというわけでも無い。そいつは外観通りの優雅な物腰で、フラフラと歩いて来るだけだ。


単に直感。そう、かつて戦場で、折り重なって倒れている敵の死体の中に違和感を覚え、反射的にそこへ銃弾をぶち込んだ時の、あの違和感に似ている。その時はそこに敵が潜んでいたのだった。


俺は自分の右手が無意識に、ポケットに潜ませた拳銃を弄っているのに気がついた。


危ない危ない。こんな公共の場所でいきなり人を撃ち殺したりすれば、少なく見積もっても逮捕確実。刑務所に逆戻りだ。


「何してるのー?グレッグ!」


アニスが大きく手を振りながら俺を呼んだ。俺は彼女に曖昧な返事をし、かなり警戒しながらその男とすれ違った。すれ違おうとした。


「あのお嬢さんは」


突然その男が口を開いた


「あなたの恋人ですか?」


喉を鳴らすようなしゃべりかただった。思わず振り向いたそこで、男は微笑未満の表情で俺を見ていた。俺はとっさには反応しかねた。声が出るまでにたっぷり十秒位、俺はそいつと視線を合わせてしまった。


「・・・だったらどうした」


声が硬くなったのはやむを得ないだろう。


「いや、なら残念ですね。えらい美人だと思ったのですが。人のモノでは仕方がありません」


なんだ。俺は拍子抜けした。ただのナンパ野郎か。しかしそれならば一体こいつのどこが俺の危険警報に反応したのだろうか?俺の勘ものどかな日常の中で鈍ったのであろうか。


そのナンパ野郎は、こっちの方を見ているアニスに手を振りながら、のんびりとした口調を変えずに、言った。


「美人は世界の宝ですよねぇ。うん。だから、仕方がない」


「何が仕方がないんだ?」


「もうすぐここは爆発します」


・・・なに?


あまりにもさり気なく言いやがったので、俺は危うく聞き流してしまうところだった。


ナンパ野郎の様子はまるで変わらなかった。掴み所がない微笑のような表情。だが、口から出る言葉はいちいち尋常ではない。


「早く逃げた方がいいでしょう。結構盛大な爆発が起こる筈ですから」


「・・・なんでお前がそんな事を知ってるんだ?」


「そりゃもちろん、私たちが爆弾を仕掛けたからですよ」


ナンパ野郎は事も無げに言いやがった。


「いわゆる爆弾テロという奴ですよ。私は反対したんですけどね」


「それで?なんでそれを俺に言う?」


「あなたは兎も角」


奴は腹立たしいセリフを吐きながらアニスに向けた目を細めた。


「あんな美人が死んでしまうのは、如何にも勿体無い。だからですよ」


俺は呆れ果てた。


「俺が警察に駆け込んで、テロを通報したらどうするんだ」


「別に、それならそれで仕方がありませんね。こんなテロに、美女と引き換えにするほどの価値はありませんよ」


・・・かつて俺は、ラルフのことを「人を食った奴だ」と思ったものだが、こいつに比べれば序の口である。次元が違う。しかしながら俺は、こいつが冗談や嘘を言っているのではないということを、感じた。理屈ではなく、これも直感だった。


 ならば、ぐずぐすしている暇はない訳だ。


「分かった。忠告に感謝する」


奴はゆるりと頭を下げた。


「あの美女によろしくとお伝え下さい」


俺は返事もせず、走り出していた。


いきなり手を掴んで走り出した俺に、アニスは目を白黒してみせた。


「なに?どうしたの?」


「説明は後だ。走れ!」


俺たちは不審がる人々の間をすり抜けて出口へと急いだ。俺は「爆弾テロだ」と叫んだりはしなかった。何故なら俺自身があの男の言葉に対して半信半疑のままでいたからだ。


ようやく植物園の入り口へ近くへと到達したその時だった。背筋を戦慄が駆け抜け、俺はその瞬間アニスを胸に抱え込み、地面に身体を投げ出すようにして伏せた。


ほぼ同時に、鼓膜が破れかねないような轟音が連鎖し、オレンジ色の閃光が視界を塞ぐ。ガラスのドームが割れる乾いた音。悲鳴。土煙。俺の下でアニスが何事か叫ぶのが聞こえた。


俺は毒づいた。


「馬鹿が!」


半分はテロリストに。もう半分はあの男の言葉と自分の勘を信じ切れなかった自分の甘さに対して。


爆発がある程度収まってから、俺達は立ち上がった。


「結構盛大な爆発」とあの男は言いやがった訳だが、その言葉に偽りは無かった。


爆発は数カ所で同時に起きたらしい。爆風で木々は無残に倒れ吹き飛び、頭上を覆っていたガラスドームは半壊し、残った部分も蜘蛛の巣状に走った亀裂で白く濁って見える。視界は濛々と上がる土煙で霞んでいた。


鳴り響く耳鳴り。しかしその言葉は辛うじて聞き取れた。


「このことだったんだ」


アニスの呟きである。俺は聞き咎めた。


「おい。そりゃ、どういう意味だ?」


アニスは飛び上がるようにして驚いた。慌てて手を顔の前で振る。


「う、ううん!何でもない。何でもないよ!」


・・・まぁ、いい。


俺は体に付いた土埃を払った。あ~あ、一張羅が台無しだ。


「血が」


気がつくとアニスが俺のことを見上げていた。

「血が出てるよ」


ん?あぁ、そういえば頬にから血が滲んでいるようだ。伏せた時に擦りむいたか、爆風で飛んできたもので切ったか。


「じっとして」


アニスがハンカチを取り出し、俺の血を拭おうとしている。


「大丈夫だ、こんくらい」


「いいから!」


眉をしかめて真剣な表情を浮かべるアニスを見てしまえば、無理に拒む訳にもいかず、俺はさせるに任せた。


「・・・ごめんね」


「何でお前が謝る事がある。別にお前のせいじゃないだろ」


「うん・・・」


 口篭るアニス。


しょげているアニスを見ながら、俺は何となく理解していた。どうせ、アニスの予知能力に関わりがあることなのだろう。


俺は彼女に予知能力があることを既に疑ってはいなかった。何度かそういうことを感じさせる行動をアニスがとっていたからだ。しかしながらそれが実際、役に立つのかどうかについては大いに懐疑的だった。なぜなら、現実に役立った事が一度もなかったからだ。彼女と生活するようになって結構経つのだが、彼女の能力のおかげで災難が回避出来た事など一度も無い。


俺が一度そう言うと、アニスはえらいことむくれた。


「私は傍観者だから」


その時アニスはそう言った。


見渡せば、植物園の中は大変な惨状だった。何人もの人々が倒れており、中には血を流している者もある。しかしながら、死んでいる人や命に係わる様な傷を負った者は無いようだった。これは、植物園があまりにも広すぎた事と、爆弾が植物園を破壊するためのもので、人を殺傷するためのものでは無かったからだろう。


長居は無用だな。官憲に拘束されるような事があれば面倒な事になる。俺は前科(冤罪だが)持ちだから、疑り深い公安警察にでも捕まれば念入りに取り調べられてしまうかもしれん。それに、アニスの素性がばれるのもまた避けたい。


俺はアニスの手を引いてガラス片を跨ぎつつ植物園から立ち去った。




何日か後の、晩の出来事だった。


俺とアニスがコタツで鍋をつついていると、ドアを叩く音がした。


非常に珍しい事であった。俺は職場の連中に部屋を教えてはいなかったし、近所付き合いも全く無かった。来客などこれが初めての事であったかも知れない。嫌な予感がした。俺はコタツから立ち上がりドアノブに手を掛けながら問うた。


「はい?」


「警察の者です」


嫌な予感的中。俺は無言で慨嘆した。


相手が警察なら開けない訳にもいくまい。俺は仕方無く鍵を開けた。幸いアニスはたまたま先程買い物に行った時に飲んだ薬がまだ効いている。見られても不都合は無い姿だ。


「何の用でしょう・・・」

と、言いつつドアノブを捻る。


その瞬間、ドアが反対側から押され、俺は仰向けにひっくり返った。開いたドアからは何者かが侵入してくる。


俺は倒れた勢いを利用して後転し、一挙動で拳銃を抜いて、侵入者に向けた。


「三つ間違いがありますねぇ」


ゴロゴロした声。銃口の先で赤毛の若者がだらしなく両手を挙げていた。


「まず、相手が本当に警察なのかどうか、ちゃんと確認しなければいけません。手帳を出させるなり、警察署に連絡するなりして」


琥珀色の瞳に昼間と同じ様な、笑っているのかどうなのか微妙な表情が浮かんでいる。


「もう一つ。相手が本当に警察だったなら、拳銃を向けた時点で有罪確定です。それどころか、いきなり撃ち殺されても文句は言えません」


そいつはこの間会った、ナンパ野郎のように見えるテロリストの一味だった。


「最後の一つは、私の事を覚えていなかった事です。これはいけません」


「なにがだ!」


俺は腹を立てた。しかし奴はそれに気がつかないかのごとく、あくまでノンビリと言った。


「私は命の恩人でしょう。忘れるとは何事ですか」


別に忘れていたわけじゃ無いが。しかし流石に声だけで判定するには親交が不足しているだろうよ。


「それは兎も角ですね」


そいつはしれっとした顔で言った。


「早速で申し訳ありませんが、恩を返して頂きたい」


俺は額を抑えた。


「・・・一体、どういう論理の飛躍なんだ?」


「つまりですね」


「いや待て、その前に、なんで俺たちの部屋を知っているのかを教えろ」


「あぁ、その理由は簡単です。さっきスーパーで見掛けて、後をつけたのです」


・・・なる程、分かり易過ぎる理由だ。


「それでですね。申し訳ありませんが、しばらく匿って頂きたいのですよ」


あぁ、本格的に頭痛がしてきた。


「一体、何に追われているの?」


好奇心で青色の瞳を丸くしながらアニスが言うと、男は満面の笑みをその端正な顔に浮かべた。飛び付く様に、アニスににじり寄り、彼女の手をひしと握った。


「おお!よく聞いて下さいました美しいお嬢さん!」


奴はアニスの手に頬ずりしながら嘆いてみせる。


「ひどい話だと思いませんかお嬢さん!私は先日、身に覚えの無い罪で逮捕されまして」


アニスは更に目を丸くしている。今度は驚きと当惑で。そりゃそうだろう。皇帝の妹に対してセクハラを敢行するような奴がそれほど多くいたとは思えん。


「あの横暴な官憲はこのか弱い私に向かって言うわけですよ!『本当の事を言わないと拷問してやるぞ』なんて恐ろしいことを!これじゃあ、私が震え上がって、洗いざらい白状してしまったとしても無理はありませんよねぇ!」


アニスはかなり引きながら、それでも好奇心に負けて更に問い掛けてしまっていた。


「な、何を白状したの?」


馬鹿男は大喜びで更にアニスに身を摺り寄せると、芝居掛かった大仰なポーズで言った。


「私がいた反帝国組織についてですよ!」


こいつ、まさか拷問が恐ろしくて、警察に仲間を売りやがったのか?


「それで私は無事解放された訳ですが、酷いのですよお嬢さん。仲間たちは私の無事を喜ぶどころか、私の事を裏切り者と罵るのです!」


「・・・なぁ。お前の組織とやらはどうなってた?」


「なにやら警察の襲撃を受け、仲間も大勢逮捕されたとか。痛ましい事です」


何を他人ごとの様に言ってやがる。仲間たちが逮捕されて、こいつが釈放されているという事実は、こいつが警察とそういう司法取引をしたということを如実に物語るではないか。


「そ、それは災難だったね」


アニスが奴から身を離そうもがきながら言うと、この馬鹿は逆にアニスに抱き付きながら大袈裟に慨嘆した。


「分かって下さいましたか!いや~、世の中が皆あなたのように聡明であったなら、世界から争い事は無くなるでしょうに!」


馬鹿の手がアニスの尻に伸びた。


「わひゃう!」


俺はおもむろに二人に近付くと、馬鹿の顔面に容赦無く蹴りを入れた。


「おぉう!」


仰向けに倒れた馬鹿を更に、がしがしと踏みつける。


「何を、こら、止めて、うぐ、いや、げへ・・・」


奴の悲鳴が完全に沈黙するまで蹴り続けて、ようやく俺は安心した。さわやかに汗を拭う。


「ふう・・・」


「・・・ちょっと酷いかも」


完全に失神した馬鹿を転がして、部屋の隅に寄せ、その上に新聞紙や雑誌、ゴミ袋を無造作に積み上げる。


それから、俺たちは鍋の続きに戻った。


程なく、再びドアを叩く音がした。今度は激しい音だ。


俺は仕方無くドアを開いた。


「はいよ?」


表れたのは二人の男だった。


「ここに、ふざけた男が来なかったか!」


ふざけた男。あの馬鹿にぴったりのフレーズだ。


「なんだ、そりゃ?」


「にやけた顔の男だ!来たのか、来なかったのか!」


「何の話だ?兎に角、ここには俺と妹しかいないよ」


俺の横から部屋の中を覗き込んだ一人が言った。


「おい、女がいる」


「むっ、本当だ。じゃあここにはいないな」


「そうだな。女がいるのに、奴が口説いていないなんて有り得ないからな」


・・・酷い言われようだな。自業自得なんだろうが。


「分かった!いないならいい。邪魔したな!」


男たちは勝手に納得して、隣りの部屋へと向かったようだった。コタツに戻って鍋の白身魚を分解している内に騒ぎはだんだんと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


「うう、酷いではありませんか」


ふざけた男は自分の上に積み上げられた荷物を押しのけつつ言った。


馬鹿では無いようだ。ちゃんと俺の些か乱暴な意図を了解して、ほとぼりがさめるまでジッとしていたのだから。


「もうちょっと、何とかやりようは無かったのですか?」


ふざけた男はちゃっかりコタツに足を突っ込みつつ言った。アニスが慌てて俺の方に身を避ける。


「対処してやっただけでもありがたいと思え」


「まぁ、それは兎も角、私の箸はどこですか?」


俺はため息を吐いた。


「アニス、割り箸をくれてやれ」


「ありがとうございます」


ふざけた男は鼻血がこびりついた顔でニヤリと笑った。




 ふざけた男はカール・シンと名乗った。


「是非、カールとお呼び下さい」


若干腫れた顔で爽やかに笑ってみせる。癖がある髪は耳を半ば覆う程度に長く、琥珀色の目は少し垂れてはいるものの切れ長で、鼻は高すぎるきらいはあるが形は悪くない。各パーツの配置はそこそこ整っている。要するに十人並みよりは多少上位の容姿だと言えた。


シンは、遠慮無く鍋に手を伸ばしつつ言った。


「いや、助かりました。いつの世も渡る世間は鬼ばかりとは限りませんね。あなたがたのような心優しき人々がいらっしゃる・・・」


「おい」


俺は放っておけば際限なく続きそうなシンの台詞を遮った。


「なんでしょう」


「お前のいたその組織とやらはなんだ。民主何とか革命組織か何かか」


「いえいえ、そんな大層なものではありませんよ。言うなれば互助会のようなものです」


「ゴジョカイ?」


「助け合い組織というような意味ですよ」


シンは煮すぎて縮んでしまったホタテを口に放り込んでから説明を始めた。


「えーとですね、元々はこの惑星ホーマーに新規に移民してきた人々の権利を守るための組合のようなものだったのですよ。ホーマーは新規移民に厳しいですからねぇ」


 そうなのか?俺もバリバリの新規移民の筈だが、特に他の惑星よりも厳しいとは感じなかったな。


「ホーマーでは市民権を公布されるには、この地で十五年以上定住する必要があるのですよ。それまでは移民として政治的権利がまったく保障されません。裁判を受ける際にも控訴権も無いですし、懲役以上の罪を受けると惑星から強制退去になります」


 ・・・え?それって、普通じゃないのか?俺がそう言うと、シンは驚いたようだった。


「普通ではありませんよ。明確に帝国憲法に違反しているではありませんか」


「そうよグレッグ。帝国憲法では市民権は国民固有の権利だし、裁判における控訴権は最高裁判所にまでの控訴を認めているわ」


 ふ~ん、そうなのか?俺はかなり多くの惑星を渡り歩いてきたが、どこででも入星前に行われる説明ではそんなもんだった気がする。良くは覚えていないのだが。もっとひどい惑星になると、市民権は子供の世代にまで至らねば公布されなかったり、裁判を受ける権利そのものが保証されていなかったりした。そもそも、俺も逮捕されたことがあるから分かるのだが、裁判そのものがひどいものであったし。


「ふむ、ではやはり、この移民問題はホーマーだけの問題ではないのですね」


 そもそも、市民権が国民固有の権利であるというのは初めて聞いたな。俺がそう言うとアニスは眉を顰めた。


「うん・・・。でもね、難しいのよ。帝国では各惑星にかなりの自治権を与えているから」


 銀河帝国中央政府は、惑星表面でのほぼ全ての事柄を惑星自治政府に委任している。自治政府は帝国に対して納税し、有事の場合には軍事力(またはその代わりの臨時税)を提供するだけだ。これは帝国が現在でも拡大を続けており、その開拓活動のほぼ全てが民間の手に委ねられていることに由来している。自前の資金で開拓した惑星を帝国に編入させる見返りに、開拓者による、ほぼ完全な自治を認めたのである。このため、帝国憲法で謳われた様々な権利、義務は有名無実化した。自治政府が認めなければそれらの物は享受出来なくなったのだ。


 この結果、特に開拓されたばかりの辺境星系においていわゆる移民問題が起こることとなった。俺が兵士時代に戦ったカルスヴェールなどのように、惑星を実効支配している企業等が自治権を盾に、移民を集めて人権を侵害するようなやり方で酷使するということが起こるようになったのである。


 帝国政府はこの問題に対してほとんど無力だった。帝国政府が惑星自治政府(場合によっては幾多の星系にまたがる反独立国であることもあった)に求めたのは、納税と必要以上の軍備の禁止に過ぎず、後は各星系への航路管理権を帝国公社が独占することによって、帝国は辛うじて星系国家の体を成していたのである。惑星表面の出来事にまで干渉すれば、自治政府、ひいては巨大企業連合体や大貴族の反発を招くことは必至であり、それは下手をすれば帝国の崩壊を呼び込みかねなかったのだ。


「そこでですね、我々は考えました。帝国が我々を守ってくれないのであれば、自分の身は自分で守るしかないと」


 世の中を動かしているのは所詮、数の論理である。これは民主主義国家だろうが専制君主国家だろうが関係が無い。つまり、世の中を動かすには、同じ意見を持った大勢の人間が集まって、声を大にして世間に訴えなければならない。


「そこで我々は虐げられた移民たちの声を集めて、その力を結集し、自治政府、ひいては帝国中央政府に状況の改善を訴えようと考えたのです!」


 と、いうのがシンの言い分らしかった。


「それで?」


 俺は白菜をポン酢に浸してご飯と一緒に掻き込んだ。


「どうなった」


「それがですねぇ」


 流石にシンががっかりした様子もあらわに言う。


「組合員は数千人集まったのですが、結局自治政府は我々を正統な交渉相手とは認めてくれなかったのですよ。それどころか、不法な組織活動を行ったとして解散を通告してくる始末でして」


 それはそうだろうな。世の中、数が力であるというのはシンの言うとおりである。であればこそ、十億人中の数千人ではまったく話にならない。せめて数十万人という数が集まらなくては、声が力を持つことは難しいだろう。


「で、結局、やけを起こしたその組合とやらは、こうなれば実力行使だとばかりにテロリズムに走った訳か」


「その通りです。私は反対したんですがねぇ」


 実にありがちな展開である。


 世の中のいわゆるテロ組織が、初めからテロを目的とした集団であった例は少ない。多くの場合、当初は真っ当な組織であり、平和的対話で対抗勢力から求めるものを獲得しようとしていたはずである。


 ところが、これが強大な相手方から無視され、あまつさえ弾圧されるに至ると、彼等は遂に自らの要求を相手に呑ませる為、実力行使に及ぶ。これがテロリズムだ。


 テロリズムが拡大し、遂には内戦と呼ぶに相応しい規模ともなれば、相手方は遂にこちらの要求を呑むか、それでなくても真剣な顔で交渉のテーブルにつく事を余儀なくされる。そうなればそのテロリズムは見事目的を達成したことになる。これが、テロリズムが目指す究極の目標であり、実際こうした過程を経て行われた革命などの例は数々ある。


 だがしかし、テロリズムは多くの場合、単なるテロリズムで終わってしまうのが普通である。テロリズムは本来、テロリストが自らの力を誇示しするために行われるものだ。テロの実績をもって相手を脅迫するために行われるのでなければ、テロリズムに政治的意味はまったく無くなる。


 ところが、彼我の勢力に大きな開きがある場合これが出来ない。テロ行為を誇示すれば、相手からの報復を呼び込んでしまうからである。報復で組織が壊滅してしまうようでは本末転倒であるというべきだろう。つまり、テロが政治的効果を持つための前提条件としてテロを行う時点で、報復に耐えうるだけの勢力を既に持っている必要があるということなのだ。


 しかしながら悲しいかな、テロリズムを行うような組織というのはそもそも弱小である場合が多い。つまりそういう組織が行うテロ行為は政治的意味の持ち得ないテロのためのテロに堕する運命にあるのだ。そんなものをいくら行っても、世論の反感を呼び、組織の寿命を縮めるだけである。


「あなたの言うとおりですよグレッグ」


 シンがなれなれしく同意する。


「故に私は反対したのです。地道に組合員を増やしてゆくのが結局は目標達成への近道だと。しかし、同志たちには分かってもらえませんでした」


 人間というのは短絡的な生き物だからな。しかも、運動家というのは地道な活動よりも華々しくて過激な活動の方を好むものだ。その方が組織の宣伝にもなるという発想なのだろうが。


「おまえらのような、非合法認定を受けた組織が宣伝なんかしたら弾圧されるに決まっているだろうに」


 しかも、政治的意味合いの無い市民憩いの植物園を爆破するなどという最悪のテロだ。これではホーマーの住民に、移民は危険な人々であると宣伝しているようなもので、本来の目標には逆効果であろう。


「ですねぇ」


「で、お前はこれ以上の愚行を止めるために、官憲を呼び込んでわざと組織を壊滅させたというわけか」


 アニスが箸を咥えたまま目を丸くした。


 シンは一瞬目を細めて声もなく笑ったが、案外あっさり頷いた。


「そうです。よくお分かりで」


「あの時も、わざわざ爆破前の植物園に行って、死人が出ないように、危険地帯にいた連中に避難を促していたんだろう」


 植物園のテロで死者が出なかったのはおそらく偶然ではない。こいつ(とおそらくはその仲間)が様々な方法でテロを妨害して、被害を最小限に留めたのであろう。もちろん、組織の評判が最悪レベルに失墜するのを防ぐためだ。無辜の市民に死者でも出ようものなら、世論が沸騰して下手すると移民排斥運動が起きてしまうかも知れなかったからである。


 そして、警察に密告して幹部を逮捕させ、その後にシンたちが組織を掌握して作りかえる。そういう計画だろう。本当に食えない奴だ。


「で?上手くいったのか?」


「まぁ、こうして追われていますからね、半分成功で半分失敗というところですよ。仕方がありません」


 シンは味噌汁の残りを掻き込むと、頭を下げた。


「いや、ご馳走様でした。美味かったですよ。お嬢さん」


「ううん、作ったのはあたしじゃなくてグレッグよ」


「いやいや、あなたがいればこそ味が引き立ったのですよ。今度是非お礼にお食事でも・・・」


 俺は無言で拳を振りかぶった。


「いやいや、冗談ですよグレッグ」


 そういうのは冗談とは言わん。


「さて、そろそろほとぼりも冷めたことでしょうし、お暇しますよ。いやいや、このご恩はきっと忘れません。いずれ必ずお礼は致します。出世払いで」


「いらん。二度と来るなよ」


「いやいやいや、きっとまたお会いしましょう。特にお嬢さん・・・」


 俺は振り上げたままだった拳を遠慮無く振り下ろした。




 こうして俺はカール・シンと関わってしまった。のちに俺は何度も思ったものだ。こいつ関わらなければ、俺はもしかしてあのホーマーのアパートの狭い一室でアニスと小市民的な生活を一生続けることが出来たのではないかと。しかしそうはならなかった。なぜか。たぶん運命とかいう意地の悪い何者かが、俺を厄介事に巻き込む気満々だったからであろう。そうとしか考えられない。


 ある夏の夜のことであった。俺は屋外で起こる音で目が覚めた。俺の右腕に頭を載せているアニスが身じろぎする。俺は彼女を起こさないように気を使いながら耳を澄ました。


 まさかな。こんなところであの音が聞こえるはずもない。


 聞き慣れた。聞き慣れてしまった音。聞き慣れて、しかもそれに過敏に反応出来るようでなければ生き残れなかった音・・・。一般市民ならまず聞くことは無いだろう。ましてや、こんな平和な大都市の最中では。


 鉄のパイプを叩くような音。長い残響を伴う、乾いた音。そんな音が再びかすかに聞こえて、俺は思わず飛び起きた。俺の腕から転げ落ちたアニスの頭が鈍い音を立てる。


「あう!」


 アニスが完全寝ぼけモードでTシャツ姿の半身を起こした。


「なんなんら~」


「シッ!」


 俺はアニスの口を俺の手で塞ぐと、更に状況を把握しようと全身を緊張させた。アニスも俺の緊張が伝わったのか、すぐに表情が引き締まる。


 あ、また。遠い銃声。そして、叫び声。


「アニス。着替えろ」


 俺達は二人とも、上はTシャツ。下は下着という格好だった。俺は急いでジーンズを履き、アニスも紺色チェックのロングスカートを身につける。靴も履いた。そして明かりを落とし、部屋の隅に二人で身を潜めた。


 考え過ぎだとは思わなかった。銃というのは相手に対して害意がなければ向けられることはない。ましてや、発砲されるはずもない。銃声が聞こえたということは、他者に対して殺傷の意思を持った何者かがこの近辺にいるということを意味するのだ。


 俺とアニスは息を潜めて外の様子を窺った。果たして、その音は次第に近付いてくるように感じられた。


「アニス。俺はちょっと様子を探ってくる。お前はここで待ってろ」


 しかし、アニスは俺の腕を掴んで首を振った。


「あたしも行く!」


 駄目だ、と言い掛けて、俺は躊躇した。確かにアニスを一人残すのと、俺の目の届く範囲に置いておくのとどちらが安全なのか、微妙なところだった。とにかく状況が全く掴めないのだ。


「分かった。気をつけろよ」


「うん!」


 アニスは赤い眼を細めて笑った。


 深夜である。俺達はアパートの鉄製の階段を下りた。


 状況が掴めない時には、選択肢を増やすことが重要である。この場合、一見ベストの選択は、部屋の中で身を潜めて状況が変化するのを待つことに見えるであろう。しかしながら、これは必ずしも正しいとは言い切れない。


 なぜなら、部屋の中に居続けて状況が悪い方に変化した場合、取れる選択肢を限定してしまうことになるからだ。例えばいきなりアパートが火事になってしまえば、部屋から逃げられずにそのままデッドエンドということも十分考えられる。


 まず、行動の自由を確保する。そして状況を正確に把握し、ベストの行動を選択する。戦場ではこのシンプルな行動原理を徹底しなければ長生き出来なかった。


 俺達は十分警戒を払いながら暗い路地を進んだ。正直に言えば、この時点のベストに近い選択肢は、銃声が聞こえてくる方の反対側へ全力で逃亡することだったろう。しかし、それをやるには既に危険な物音は接近し過ぎていた。ならばいつでも逃亡出来るように退路を確保しつつ、状況を確認すべきだった。


 間違いなく銃声だった。しかも、自動小銃による連射音まで混じっている。すでに怒号や悲鳴も混じり、ついでに言えばパトカーのサイレンも遠く聞こえ始めていた。ただ事でないことは明らかだった。


 突然、俺達が身を隠していた路地に人影が飛び込んできた。俺は反射的に拳銃を向け、全く躊躇なく引き金を引く。そいつはのけぞるように弾けて壁に叩きつけられた。


 む・・・。まだ若い男であった。ジーンズにTシャツという貧乏くさい格好をしている。しかしその片手には拳銃が握られていた。まだ息があるようだ。俺は再び銃を向けた。


「まってグレッグ!」


 アニスが俺の腕を押えた。


「殺すことはないでしょう?もう動けないじゃない」


「甘いよアニス。敵は殺さなければ殺される」


「敵だと決まったわけでは無いでしょう?」


「自分以外の人間は、みんな敵だ」


 アニスは一瞬絶句した。


「・・・私も?」


 さぁ、どうだろう。俺は何も言わずに彼女を眺めた。白い髪と赤い瞳の女性は下唇を噛むような表情で俺の事を見ていた。俺達はそのまましばらく見詰め合ったが、結局お互いそれ以上何も言わなかった。それどころではなかったからだ。俺達は失神したらしい男を放置して移動した。


 どう考えても、市街戦の音だった。一人二人が撃ち合っている音ではない。少なくとも十人単位の人間たちが、互いに敵意を交わし銃弾を放ち合っている。俺とアニスの周囲は既に戦場だった。


 連中は、周囲を巻き込むことに何の考慮も払っていないようだった。実際、手榴弾で壁面を吹き飛ばされたビルや、燃え始めた建物もある。敵味方入り乱れての乱戦のようであるし、そうなれば味方で無いものは敵と認識しているであろうから、通行人だろうが物音に飛び出してきた市民だろうが一溜まりもなく巻き込まれて撃ち殺されるであろう。


 まさかこんなところで市街戦に巻き込まれようとは思ってもみなかった。カルスヴェールの戦場が嫌でもまざまざと思い出される。興奮と、恐怖と、そして麻痺。俺は銃の残弾を確認すると物陰からその先を窺った。


 そこに、シンがいた。


 間違いなくあのふざけた男だった。あののんびりした男が流石に何事か叫んで、自動小銃をぶっ放している。彼の周囲には数人の若者がいて、同じ方向に銃口を向けていた。どうも、この連中がこの市街戦の一方の当事者であるらしかった。


 漠然と状況が掴めた。奴らが相手をしているのは、官憲ではないらしい。ということは、おそらくシンたちの相手は例の組織とやらの旧幹部たちなのであろう。要は内部抗争だ。迷惑な話である。


 さて、どうするか。俺は思案した。


 見た感じ、シンたちの大将はどうも間違いなくシンのようである。人数はシンの周りを囲む数人と、周囲で応戦している十人ほど。


 これに対して相手は火線から判断するに二十人ほどと見えた。ほぼ互角の勢力だ。


 どちらも俺達に気が付いた様子はない。


 いっそ、シンの事を撃ってしまおうか。俺は考えた。こういう互角の戦いの時は、大将を失った方が指揮系統の崩壊を招きいれ、瓦解、敗北するものである。シンを失えばシン派はあっという間に壊滅するであろう。俺としては早く市街戦が終わってくれて身の安全が確保され、ついでに言えば明日の仕事に備えて安らかに就寝できれば後はどうでもいいのである。


 だがしかし、ここでシンを撃つのは考えものだった。感傷の問題ではない。俺が潜んでいる場所はシンがいる場所に程近い。つまり、シン派の真っただ中なのである。シンを撃てば、当然シン派の連中からの報復を招き入れるわけで、こんな逃げ場のない場所で集中砲火を受けるのは御免こうむりたい。


 ではどうするか・・・。


 不意に、俺の背後で何かが動いた。


 ぎょっとした。俺が潜んでいたのは細い路地だった。後ろは袋小路。つまり、背後から襲われる心配がない場所の筈だった。そう、俺の背後には、アニスしかいない筈である。


 その他でも無いアニスだった。


 街灯の光を浴びて銀色に輝く長い髪が舞う。スカートがふわりとなびいた。


「おい・・・!」


 絶句した。彼女はまるで夢遊病患者のように、路地から大通りへ、つまり銃弾の飛び交う戦場へと歩み出たのである。


 途端に彼女に火線が集中した。足もとのアスファルトが金属音とともに弾け飛び、数発が彼女のスカートを貫通するのが見えた。


 俺は我を忘れた。路地から飛び出すとアニスの腰にタックルをかまし、そのまま彼女を抱えあげて通りを突っ切ると、道の反対側の路地に飛び込んだ。直前で足がもつれ、路地には転がり込む形になった。


 体を起こそうとすると、銃口が鼻先にあった。そう、その路地は、シンとその数人の仲間がいた場所だったのだ。俺は無言で両手を上げる。馬鹿な事をしたものだった。こんなことをしてしまっては、あっさり撃ち殺されても文句は言えない。だがそうはならなかった。


「おや?」


 シンが俺のことに気が付いたのだ。


「グレッグではありませんか。奇遇ですね。実に」


 戦闘中にしては呑気な声色だった。


「なんです、こいつらは?」


 シンの仲間の一人が言った。


「ああ、この間匿ってくれた、協力者の方ですよ。どうしたんですこんな夜に」


 それから、俺が抱え込んでいるアニス。どうも気を失っているらしい彼女に眼をやる。


「・・・?アニスさんですか?なんか髪の色が・・・」


 あ、そういえば、こいつの前で不用意にアニスの名を呼んでしまった気がする。そして、今のこの髪の色。まずいと思ったのだが、シンは意味ありげに笑っただけでこの時は何も言わなかった。それどころではなかったからだろう。


「ちょうど良かった。グレッグ。ちょっと立て込んでいましてね。協力してくれると有りがたいのですが」


 ・・・この状況では嫌とは言えないだろう。俺は舌打ちをした。


「それはいいんだがな」


「?何か?」


「後のことは考えているんだろうな?」


 シンは怪訝そうに眉を顰めた。


「どういうことですか?」


「もう警察だか軍隊だかが近くまで来ているぞ。敵を破った後の退路は考えてあるのか?」


「さて、そんな余裕はなかったので」


 だろうと思ったよ。俺は無言で天を仰ぎ、しばらく思案した。一つの案が思い浮かぶ。・・・仕方がない。俺と、アニスが生き残るためだ。


「俺の考えを聞く気があるか?」


「内容によりますね」


「勝つ方法だ」


「教えてください」


 即答しやがった。にへら笑いを浮かべたままであったが。


 シンの仲間たちは不信感を隠しきれないような顔をしていた。それはそうだろう。いきなり飛び込んできた揚句に何を言い出すのか、と思ったとしても無理はない。


 しかしシンは素直に聞く気になっている。なるほど、こいつらに支持されるだけの器量はあるようだ。ただのふざけた男ではない道理である。


 俺はシンの目を正面から見据えると、自分の案を手早く説明し始めた。




 市街戦で勝利するために元も肝心なことは、敵味方の行動をコントロールすることである。これはどんな戦場でもそうだが、複雑に入り組み、遮蔽物も多く、戦況の把握がより掴み難い市街戦では特に重要な要素となるのだ。大乱戦に陥ることを出来るだけ避けなければ、戦闘は果ての無い消耗戦となり、勝敗すら定かでないということになってしまう。


 更に推し進めて行けば、市街戦の勝者には常に、敵味方の行動をコントロールし得た者がなるということになる。特に今回の場合、既に警察だか軍隊だかが接近中である。戦闘が長引けば敵味方一緒くたにして逮捕されるか殲滅されるか。つまり、早々に勝敗を決して逃げ出さなければならないのである。それには特に敵の行動をこちらの思惑通りに、正確にコントロールしなければならなかった。


 そのためにはまず味方の(シンたち)の行動の自由を確保しなければならない。


 今現在、俺たちがいるのは雑居ビルが林立する街中である。主たる戦場はその中を通る大通り。双方はそこに繋がる路地に身を隠しつつ撃ち合っている。ここでもっとも避けなければならないことは、敵味方が細い路地に分散してしまうことだ。味方の統制が取れなくなるし、敵の状況も掴むことが出来なくなる。そのために俺はまずシンたちを後退させ、既に分散しかかっていた戦力を集結させた。戦力などと言うと大層だが、実際には僅か二十名ほどだ。聞くところによると敵方も同じくらいであるらしい。


 そして、そのまま更に大通りを後退した。それを見て敵は前進する。こちらが集結したのを見て、敵も戦力を集中した。


 戦術の常道としては、敵の戦力は分散していることが望ましいのであるが、この時俺は敵をあえて集結させたのだった。分散している敵を確固撃破するのには時間が足りなかったのである。敵を集めて一網打尽にするほか無かったのだ。


 こちらが徐々に後退するとそれに釣られて敵は次第に前進してきた。俺はここで一つの計略を用いた。


 後退する際に、数人を路地の奥に残し、潜ませたのである。要するに伏兵だ。敵が目の前を行き過ぎても絶対に姿を現さないようにと厳命する。


 そして俺は後退しつつ敵をある場所へと誘導した。この辺りは既に数ヶ月住んだいわば俺の地元である。地の利はあった。


 そこは鉄道の駅であった。ただし、既に終電の時間を過ぎており人影は無い。高架型の駅で、線路を跨ぐ様にそれほど大きくは無い駅舎がある。俺たちは素早く後退しつつその駅の中へと入っていった。


 駅舎は線路を跨いでいるのだから、駅を素通りすれば反対側へと抜けられる訳である。線路は高い金網で囲まれており、容易に入る事が出来ない。つまり、駅の反対側に抜け出せば敵の追撃を振り切って遁走する事が可能だ。


 敵はそう考えたのであろう。慌てて、やや不用意に駅の中に侵入してしまった。それがこちらの狙いだったのである。


 敵が完全に駅に侵入してから、路地に潜ませていた連中が急進して後方から銃撃を加える。同時に俺たちも反転し、一気に攻撃を加えたのだ。敵は駅舎という狭い場所で、前後から挟撃されることになったのである。


 敵は後方からの攻撃を想定していなかった。完全に浮き足立ったそこへ、狙い済ました俺たちの銃撃が襲う。駅の改札前のホールには遮蔽物もほとんど無い。


 戦闘は激しいがごく短い時間で終わった。硝煙と血の臭いが立ちこめる中で、敵は全滅したのである。後で聞いたところによると、彼等はシンの組織の旧幹部勢力の最後の戦力であるとのことであった。結果的に俺はシンの組織掌握の手助けをしたことになったわけである。




 俺はアニスを背負ったまま部屋へと帰った。


 シンは別れ際に満面の笑顔で俺の手を両手で握り、振り回した。


「いやぁ、助かりました!グレッグ!あなたは戦術の天才です!」


 俺は渋い顔をしたまま返事をしなかった。


「いや、お世辞ではありませんよ。いずれこのお礼は必ずさせて頂きます。アニスさんとも・・・」


 気を失ったままのアニスを一瞥してニヤッと笑い、


「いろいろお話がしたいですし」


 ・・・そう言い残して連中は去っていった。警察のサイレンが間近にまで接近してきており、のんびり話をしているような状況ではなかったのである。俺もぼんやりしている訳には行かず、アニスを背負って走らなければならなかった。


 アニスを布団に寝かせて、改めて彼女の身体を調べる。奇跡的に、彼女の身体には傷一つ無いようだった。俺は安堵を押し殺し切れずに大きな溜息を吐いた。


 しばらくして、アニスが目を覚ました。スイッチが入った電気人形のように、いきなりカクンと半身を起こす。


「・・・終わったの?」


 俺は台所に立って、水をコップに注ぎ、アニスに差し出した。彼女はそれを受け取ると、ゆっくりと飲み干した。


 俺は何か言ってやろうとし、アニスの表情を見、諦めた。なんだか、ものすごく嬉しそうな顔だったからだ。こんな顔の人間を叱り付けても意味は無い。アニスはニコニコしながらコップをまるで宝石であるかのように両手で包んでいた。


 俺はそれを取り上げて、自分の分の水を汲むべく台所に戻った。




 私は有頂天になっていました。


 自分の前で未来がどんどん組み上がる様が見えるのです。それは甘美的なことでした。グレッグとシンが出会い、新たな断片が揃い、未来が形を成して、時代が動き出して行く。


 自分が歴史の一ページに立ち会っているという興奮。私はそれに夢中になっていました。


 もっと見たい。その欲求の前には、自分のこと。そしてグレッグとの生活などどうでも良いことだと、この時は本当に思っていました。


 懐かしい、ホーマーのあの部屋。二人で文字通り寄り添って暮らしたあの部屋が、実はかけがえの無いものであったことに気がついたのは、そこに二度と帰れなくなってしまった、ずっと後のことになるのです。


 その時には、既に全ては遅すぎたのですが。






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