第10話「マリーの正体」
その頃、殿堂内では戦いが始まっていた。
邪剣士はリリスとリリンの二人だけだが、今回はあの神官ドドスも活躍していた。そしておびただしい数のコープスたち。縦横無尽に暴れまわっている。
魔法の塔は、ほとんどが修業中の子供たちで占められていた。師範は僅かしかいないのだ。しかも随分前に現役を退いた剣士ばかりなので、実戦からは遠のいて久しかった。
コープスたちは弱いとはいえ、多勢に無勢だ。切っても切っても押し寄せてくる。きりがなかった。
子供たちも果敢に応戦してはいた。しかし、次々とコープスたちの手にかかって死んでいく───
リリスたちは主に師範たち大人相手に剣を振るっていた。
その剣さばきは冷徹であった。ひとことも喋らずに、彼女たちは剣を振るっていた。心の奥底ではやはり塔に対して恨みが培われていたのだろう。自分たちを受け入れてくれなかった塔の大人たち。今こそ積年の恨みを、といったところか。
容赦なく切り裂いて薙ぎ払う。
彼女たちは、老師オードを切り捨てた時から既に真っ赤に身体を染め上げていた。それが、更に数多くの人間の返り血をその身に纏っている。
その姿だけで見る者を充分怯ませていた。
「でゃあぁぁぁ───っ!」
恐怖で身体を震わせていても健気に立ち向かう元剣士たち。だが、無情にも無残に切り捨てられていく。
一方、神官ドドスは、やはりその姿にお似合いの腐れた根性の持ち主だった。
自分の部下であるリリスたちに汚い仕事をさせ、自分はもっぱら塔の建物の破壊に全力を注いでいたのだ。
偉大なる気高き汝よ
我に汝の力を与え給へ
吹き荒れよ
吹き荒べよ
その強大な風でもって
全てのものどもに
滅びの風雲を
及ばさんことを
風神の力を存分に引き出すための呪文を唱えながら、颶風(ぐふう)を操りその強力な風でもって立ち並ぶ建物をその毒牙にかけていく。
はっきり言って情けない。物言わぬ、そして微動だにせぬそれら建物は、確かにドドスを傷つけることはないであろう。だがその身に強大な風神の力を借り受けておきながら、その行為はあまりにも嘆かわしい。リリスとリリンが毛嫌いするのもこれでは誰が見ても納得出来る気がする。
「何なのよぉぉぉぉ───っ!」
大騒ぎのシモラーシャがゴールデン・ソードを振り回しながら走っている。その後ろを影のように付き従うマリー。彼もレイピアをさばきながら優雅に走り抜けていく。
「何でこんなんばっかなのぉぉぉ───っ!!」
物凄い大騒ぎだ。
「もっときれーな魔族だせぇぇぇぇ───!」
無茶苦茶なことを言うシモラーシャ・デイビスである。
「この大魔法剣士シモラーシャ・デイビスを甘く見んなぁぁぁぁ───!!」
「なんですって!」
コープスの群れの向こうで女の声が上がった。コープスをかき分け、姿を見せる。
「シモラーシャ・デイビスだって?」
短い髪、スレンダーな身体を真っ赤に染め上げたリリス、そして豊満な胸を突き出し黒い髪が鮮血でベットリと濡れたリリンが仁王立ちになった。
「あんたら誰よ!」
シモラーシャが誰何する。
「お初にお目にかかるわ。私はリリス」
「そして私はリリン」
その時、シモラーシャに近づくコープス一匹。彼女はバッと大剣を横に薙いだ。難なく払う。視線はふたりに向けたままだ。
「はあーん……」
シモラーシャは納得したように頷いた。
「あんたたちねえ。カランの村を襲った邪剣士って」
リリスとリリンはクスクスと笑うだけで答えようとしない。
「何がおかしいのよっ」
シモラーシャはカチンときた。
「残虐非道なやり口で村人を皆殺しした冷酷な人間。同じ魔法剣を使っていると思うと反吐が出るわっ!」
「なあーにをいい子ぶってんのよ」
リリスが言い返す。さきほどまでの嘲笑顔ではなく、恐ろしいくらい真面目な顔だ。
「あんたにだけは言われたくないわ。世界最悪の魔法剣士シモラーシャ・デイビスにだけはねっ!」
「ま、それは確かにそおでしょおねえ」
シモラーシャの後ろでボソボソとマリーが呟いた。
「あんだってぇ、なんか言ったあ?」
それを聞きつけた彼女は怒鳴った。顔はリリスたちに向けられたままである。
マリーは両手で口をふさいだ。
「ぬぁんれもうぁりまふぇーん」
『何でもありませーん』と言っているらしい。
いい加減マリーの言葉を訳するのも飽きてきた感じである。
「とぼけるのもいいかげんにしな」
リリスが、吐き捨てるように言った。
「あんただって同じじゃん。女子供関係なく殺してんだからさ」
「イーヴル教徒は一度染まるともう二度と社会復帰は出来ないからね」
なんだそんなことかと、彼女は胸を張って言い切る。
「人は非情だと言うけれど、あたしは慈悲のつもりで殺してあげてんのよ。善良な人間を殺しまくってるあんたたちとは違うわ」
そう。彼女の言う通り、イーヴル教徒は祭司の洗礼を受けることによって、その心も身体も邪神教の虜となってしまうのだ。一旦その洗礼を受けたが最後、もう善良な人間には戻れない。生きている限り、その邪なる縛めから逃れることは出来ないのだ。魔法剣士の霊剣で命を奪ってもらうことによってしか魂の浄化はありえない。だからシモラーシャの言うことも、あながち嘘とも言えないのである。
「ふん、おためごかしな事を言って…胸くそが悪いわ」
リリスがペッと唾を吐いた。
「おやおや……お美しい乙女がはしたないことを」
マリーは頭を振った。
「気に食わない女だわ」
リリスはチッと舌打ちをした。
「とにかく。魔法の塔始まって以来の最強の腕を見せてもらおうじゃないのっ!」
そう叫ぶと彼女はダッと走り、いきなり切り込んできた。
───ガキッ!
大剣を交差させ睨み合うリリスとシモラーシャ。どちらも引くことのできないほど力強い。そこへ音もなく忍び寄るリリン。彼女はシモラーシャの胴体目がけて剣を振るった。
───ドスッ!
「グッ!」
リリンの身体がくの字になって吹っ飛んだ。シモラーシャが彼女の腹を思いきり蹴っ飛ばしたのだ。
「遅い、おそおーい!」
シモラーシャは叫んだ。壁に叩きつけられたリリンにギッと睨みを飛ばす。
「もっと素早く動かなきゃ、あたしは切れないよおっ!」
シモラーシャは再びリリスに向き直った。
「ググ……」
リリスはシモラーシャの物凄い力に押され気味だった。
(なんて力なの……)
その苦しそうな表情を見て、シモラーシャはクスリと笑う。
「あたしが世界最強と言われんのはねえ。ただ霊力が強いだけじゃないのよお」
彼女はフンッとばかりに握り締めていた大剣を押した。
「力も人間業じゃないからなのよっ!」
剣を押したはずみで、リリスから身体を放した。そして力一杯剣を横へ薙ぐ。
───シュッ!
しかしそれは空を切っただけで空振りだった。リリスはいち早くその場を飛びすさっていたからだ。二人は距離を保ち、剣を構えた。
「あんた、やるじゃん」
ニヤリとするシモラーシャ。
「リリスっつったっけ」
「ふん」
リリスはここまでシモラーシャができるとは思っていなかったらしい。意外といった顔をしている。
「あんたもね。さすが世界最強と言われるだけあって強いわ」
リリスはゼイゼイと肩で息をしていた。
それに比べ、シモラーシャは静かに剣を構えている。全く動いていないかのようだ。
「さあ。お遊びはここまでよ」
「お遊びですってぇ?」
シモラーシャの声に蔑みを感じたリリスは憤然とした。
「!」
だが、彼女は信じられないといった風に目を見開いた。いつのまにか憤りが、驚愕に変わる。
シモラーシャの構えたゴールデン・ソードが、輝きを増していく。ますます黄金色に、そして神々しく───リリスは魅入られたようにくぎづけになってしまった。壁に叩きつけられて動けなくなっていたリリンもである。
彼女たちはこんなに素晴らしく輝く大剣を見たことがなかった。それはまるで光の神である善神オムニポウテンスの纏った後光のように、神々しいまでの輝きに満ちていた。
もちろん彼女たちはその光を見たことはないのだが、それほどの神々しさがその輝きには備わっていたのだ。
見つめるふたりの身体が、知らず知らずのうちにガタガタと震えだした。どうしてそうなるのか、彼女たちにはまったく理解できなかった。
ますます強く、そして神々しく輝いていくゴールデン・ソード。そして、もうこれ以上は耐えられないほどの輝きに達した。
その時───
ゴォォォ───
俄に突風が吹き荒れた。あまりの強さにリリスがよろめいた。シモラーシャのゴールデン・ソードの輝きが、一気に途絶える。
「カスタム様!」
リリスとリリンが喜々として叫んだ。
「カスタムですって?」
シモラーシャも、おうむ返しに叫んだ。
───ブァァァァァ───
まるで、彼女の声に呼応するかのように、旋風が一際強く吹き荒れた。
「ああっ?」
次の瞬間、そこには彼が立っていた。お馴染みである爽やかな微笑みを浮かべて。
「あんたが風神カスタムなのお」
シモラーシャは、些か拍子抜けといった感じでカスタムを見つめた。
「僕の名前も有名になったもんだね」
彼は、微笑みをいっそう深くさせると、シモラーシャに向き合った。
(なあーんだ。どんな強面かと思いきや)
彼女は、ふんと鼻で笑った。
「てーんで弱そーなガキじゃん」
小さく呟く。
「お初にお目にかかり光栄に思うよ」
シモラーシャの呟きは、どうやら彼には聞こえなかったらしい。
「えっと、シモラーシャ・デイビスと言ったっけ?」
カスタムは可愛らしく小首を傾げた。その仕種は妙にいとけない。残虐な生贄によって復活した、恐怖の風神とは思えないほど可憐な少年に見える。
(ほんとーにこの子、風神なの?)
シモラーシャは信じられないようだった。
すると、カスタムは何かに気づき、彼女から視線をはずした。彼の視線の先には、リリスがいた。キラキラと目を輝かせて立っている。カスタムの口もとが優しげに動く。
「いい子だ。頑張ってるようだね」
「はいっ!」
リリスは天にものぼるような喜々とした声を上げた。そんな彼女に頷きかけると、彼は不思議そうな顔を見せた。
「あれ? ドドスはどうしたの」
「ドドス様は……」
カスタムの問いかけに答えようとして、リリスは言いかけた。
すると───
「ヒャアッハッハッハァ───っ!!」
ドドスの罵声が聞こえてきた。
姿は見えないが、その声は建物の派手に壊れる音とともに、耳障りなほど辺りに響きわたっている。
───ドッカァァァ───ン!
「ええいっ! ぶっ壊れろぉぉぉ───。魔法の塔の最期だぁぁぁ───!」
バリバリバリィィィ───!
「まだまだぁぁぁ───。オレをバカにしたヤツらへの復讐だぁぁ───!」
ゴォォォォ───!
「ヒャッヒャッァァァ───ヒッヒィ───!!」
ズズズォォォ───ン!
「闇の大神官ドドス様のお通りだぞお!」
リリスは頭を抱えている。カスタムは憮然とした表情を見せた。
「まったく……」
溜め息をつく。
「馬鹿な奴だとは思ってたが、あそこまで激しく馬鹿だとはね」
それを耳にしたマリーが、シモラーシャの後ろで囁くように呟いた。
「まったく、お馬鹿なあなたにはぴったりの神官ですよ……」
幸いにもカスタムには聞こえなかったらしい。
「闇の神官ドドスって、あん時のとんずらこき野郎じゃん」
マリーの呟きが聞こえたシモラーシャは、彼に囁き返した。もちろん顔は前方に向けられたままだが。
「悪いですよお。そんなこと言っちゃあ」
マリーはクスクスと笑った。
「でも、闇のお馬鹿官ドドメ色、なぁーんてとってもお似合いじゃありません?」
「あんた、こおーんな大変な時に何遊んでんのよっ」
シモラーシャは呆れて、思わず後ろを振り返りかけた。
「あなただって!」
マリーの目はさも心外だといわんばかりに見開かれている。
「人のことは言えないじゃないですかあ」
シモラーシャはフンッと鼻を鳴らすと黙り込んだ。そして、前方のカスタムを睨み付ける。
(そう!)
やぶ睨みになっている。
(ずぇーんぶ、こいつが悪い!)
彼女はいっぺんに頭に血が登った。
(ドドスなんぞ神官にするわ、あんな凶悪な女邪剣士まで手下にするわ、マリーが変なこと言うのも……)
だんだん彼女の思考は、見当違いの方向へ向かいだしている。
「ずぇーんぶ、ずぇーんぶ、あんたのせいよぉぉぉぉ───!」
支離滅裂! 目茶苦茶! シモラーシャの頭は理性の臨界点を越えてしまったらしい。
カスタムはシモラーシャの怒鳴り声に、呆気にとられている。彼女は、猛烈に凄味をきかせてカスタムを睨み付けた。
「おお、怖いなあ」
すると彼は大げさに怖がって見せた。
「でも、怒った君もなかなかだね」
彼の言葉の意味するものを、シモラーシャは感じられないほど頭に来ていた。といっても、普段から彼女には言葉の持つ隠微さを理解しているとは言いがたいが。
だが、ここに一人だけ、その言葉に隠された淫欲を感じ取った者がいた。
「………」
マリーは不快そうに眉をひそめた。と同時に彼の瞳の奥が、ゆらりと動いた。琥珀色の瞳が、なぜか一瞬銀色に煌く。
その時、カスタムが何かを捉えたように目を細めた。リリンである。
彼女はシモラーシャに蹴っ飛ばされ、壁に叩きつけられていた。傷ついていた。
それでも、目を輝かせて愛するカスタムを見つめている。その視線を受け止めて、カスタムは再びシモラーシャに向き直った。
「随分可愛がってくれたみたいだね」
心なしか声が楽しげだった。
「僕の花嫁たちをさ」
「花嫁ですってぇ?」
シモラーシャが素っ頓狂な声を上げた。
そんな彼女とは裏腹にポッと頬を染めるリリスとリリン。
シモラーシャは、ぱくぱくと口を動かしている。
「あ、あんたたち!」
声が上擦っている。
「邪神なんかと契るつもりなのっ?」
「邪神なんかとは何よ」
リリスが、罰当たりな奴だといわんばかりに睨んだ。
「その言いぐさは、カスタム様に向かって失礼よ」
「そおですよねえ。何もそこまで言わなくても……」
またしてもマリーが呟く。
「あたしは…あたしは…」
今度は、あまりのことに興奮しているためか、彼の言葉はシモラーシャに聞こえなかったらしい。
「あたしは絶対邪神なんか愛さない!」
彼女は吐き捨てるように叫んだ。
嫌悪感も露にして叫ばれたそれを聞き、なぜかマリーの頬がプーッと膨らんだ。まるで拗ねているかのようだ。そして瞳によぎる侘しさはいったい何だろう。
「オ───ッホッホッホッホッホ!」
突然リリスが高笑いした。カスタムでさえびっくりして彼女を見つめている。
「お子様ね。シモラーシャ・デイビス!」
「あんですってぇ?」
リリスの言葉にシモラーシャは顔を真っ赤にさせて叫んだ。
すると、リリスはシモラーシャにビシッと人指し指を突きつけた。
「人を愛したことのない人間には、この気持ちは絶対わかりっこないわっ!」
リリスはどうだと言わんばかりに胸を張った。親友のそれより随分貧弱ではあったが。
「美しいですねえ。愛を語る女性は」
ウンウンと頷くマリー。さきほど見せた表情はどこへやらといった感じだ。
「あんたは黙ってなさいよ!」
怒鳴りつけるシモラーシャ。
彼女はリリスを睨み付けた。悔しそうにくちびるをかんでいる。その睨みに全く怯むことなく、リリスはますます身体をのけ反らせた。
「この気持ちはねえ、私にとって……」
そして言い放った。
「生まれて初めての初恋なのよっ!」
この言葉に約二名以外は(そうなると残りも二名、ドドスはどこかで暴れているし、まいっか)呆気に取られてしまった。
シモラーシャは、はてなという風に首を傾げている。カスタムはというと、至極満足そうに頷いていた。
「リリス、それはちょっと違う!」
リリンが慌てて叫ぶ。だが、時すでに遅く───
「くっくっくっ……生まれて初めての初恋ですか……」
マリーが笑う。
「初めての恋だから初恋であって……」
可笑しくてたまらないらしい。喋る言葉がともすれば途絶えそうだ。
「二度目の初恋とか三度目の初恋などないんじゃありませんかねえ」
そこにいるすべての者の視線がマリーに集まった。彼の声は、何故だかシーンと静まってしまったその場所に妙に響き渡る。
「なるほど。それもそうね」
シモラーシャは、ようやく納得がいったらしく頷いた。
「二度目からは、ただの恋なんだ」
「どういうことだ?」
カスタムが呟く。
「僕は初恋を二度したぞ……」
全員の視線がカスタムに向けられた。カスタムは考え込むように顎に手をやり首を傾げている。その姿は、妙にいとおしい。
「ぶぁ───っはっはっはっ!」
突然マリーが大爆笑をした。とても上品とは言えない笑い方だった。
「………」
そんなマリーをカスタムはムッとした表情で睨んだ。
「ふ…はぁは、は……」
しつこく笑うマリー。そして、ようやくおさまったらしい。彼は目尻の涙を拭った。
「まったく……」
それでもまだ言葉には笑いが残っている。
「あなたという人はいつまでたってもお馬鹿のままですねえ」
マリーはにっこりと微笑んだ。
「でも僕はそんなあなたが、さほど嫌いではなかったですよ」
「え……?」
カスタムは怪訝そうな顔をした。マリーはニヤリとして見せる。
「あ……?」
カスタムは何事か言おうと、口を開きかけた。
「ぶわっかじゃないのぉぉぉ───!」
すると突然、シモラーシャが叫んだ。
「邪神、邪神ってえ言うけど、そおとおな阿呆じゃん」
彼女は自分の事を棚に上げてキャラキャラと笑った。
「たあーいしたことないのねえ」
「なんだとぉぉぉ!」
カスタムは激怒した。
「僕を侮辱するとは……」
「おうよ!」
シモラーシャはカスタムをねめつけた。
「侮辱して悪いか!」
彼女の瞳が冷たく輝いた。
もともと目の冷めるようなアイス・ブルーの瞳である。それを、燃え盛り煮えたぎる心とは裏腹にますます冷たく輝かせている。
「!」
カスタムは、さっきまで彼女に対して感じていた怒りが急速に冷めていくのを感じた。
彼はその彼女の瞳に魅せられた。見入ってしまうほど美しかった。
静かに怒り狂う彼女。彼の背筋が何故か震えた。彼は驚く。
(この女は一体何なんだ)
姿全体から発せられる一種独特の雰囲気というか、霊気というか、とにかく醸しだされるオーラが普通の人間とは違っているのを彼は感じた。
(!)
そして彼は突然気がついた。
(僕はこのオーラを知っている?)
カスタムはシモラーシャの顔を見つめた。穴が開くほど見つめる。
(そういえば、この顔……)
彼はシモラーシャの顔に見覚えがあるらしい。
(どこかで見た。どこか遠い昔……)
彼はどんどん心の奥深くに踏み込もうとしていた。
その時───
「カスタム様!」
心配そうなリリスの呼び声が、彼を現実に引き戻した。彼は頭を振った。未だ冷やかな目で見つめるシモラーシャに向かい合う。
「気に入ったよ」
カスタムは何事もなかったように髪をかきあげた。その仕種は、なんとも少年らしくない。まるで男を誘う娼婦のようだ。彼は淫欲をちらつかせて、シモラーシャを見つめた。
「まったく……人間にしとくには惜しいね。どうしても君が欲しくなってきたよ」
「なっ……!」
シモラーシャはカッとなって頬を染めた。
「いいねえ。いいねえ」
カスタムはシモラーシャの身体をなめ回すように見つめた。
「怒りの色に染まった君は、冷たく睨むより断然美しい」
「カスタム様……」
彼のその視線を見て、リリスは嫉妬心を燃やした。
「冗談じゃないよっ」
どうやら、シモラーシャの堪忍袋の緒が切れたようだ。
彼女のまわりの空気がビリビリと震える。滾るように放出される力強い霊力。
「お前なんかの言いなりになるもんか!」
彼女は両拳を握り締め叫んだ。
「人間の意地にかけてぇぇぇぇ───!」
ブァァァァ───!
霊力の嵐が吹き荒れる。その逆巻く嵐は、颶風となってカスタムを襲った。
「ム……」
彼は両腕を眼前で交差させた。強烈な風を受け止める。
「ハッ!」
勢いよく広げられるカスタムの両腕。たちまち風は霧散していった。
「あっ!」
シモラーシャは怯んだのか、霊力が一気にしぼんだ。
「どうしたの? 効かないよ」
幼い子に話しかけるようにカスタムは微笑んでいる。
「それっぽっちの力しかないの?」
彼は右手を彼女にかざした。
「じゃあ、今度は僕から君へ贈り物だ」
カスタムは右手を彼女に翳した。
シモラーシャはビクッと後退った。彼女の後ろでマリーの表情が硬くなる。カスタムは面白そうな表情を浮かべた。
「安心してよ。瘴気入りの風なんかじゃないから」
からかうような口調だ。
「そんなことしたら君の身体、使い物にならなくなるからね」
彼はクスクスと楽しそうに笑っている。
「だから……」
金緑から金紫に代わる代わる変色する髪を風になびかせる。
「ちょおっと痛い目にあうだけだからね」
───ブァッ!
彼の言葉が終わるか終わらぬうちに、彼女を旋風が襲った。
「キャァァァァァァ───!」
途端にシモラーシャの身体が鮮血にまみれた。
「シモラーシャ!」
マリーが悲鳴に近い叫びを上げた。
彼が考えていたよりそれは速かったらしい。彼女の顔から、腕から、脚からと無数の切り傷が一瞬のうちに走る。
「思った通りだ」
カスタムの声はうっとりとしていた。血塗られたシモラーシャの身体をねっとりと見つめる。
「君の血は綺麗だね」
「………」
言葉もなく彼女は倒れていった。ゆっくりと、崩れるように───
「シモラーシャ!」
それをマリーが支える。どうやら彼女は気を失っているようだ。マリーの呼ぶ声にも答えようとしない。
「おやおや」
カスタムは肩をすくめた。
「ちょっと瘴気が混じってたかもしれないなあ。塞がらないかもしれないね、その傷」
彼女の傷自体は大したことはなかったが、よく見ると無数の傷口からタラタラと血が流れ続けている。
「シモラーシャさん!」
そこへジュークが漸く辿り着いた。
コープスに阻まれてなかなかここまで来れなかったのだ。相変わらず無傷のままで、身なりも汚れていなかった。
「あっ!」
リリスとリリンは思わず声を上げた。
彼はシモラーシャの姿を見ると、急いで駆け寄った。それを見たカスタムは怪訝な顔を見せた。
「大丈夫ですか?」
跪き、シモラーシャを覗き込むジュークにマリーは悲痛な表情を見せる。
「ジューク、頼む。彼女の傷を……」
ジュークは頷いた。
突然のことに呆然としていたカスタムが、はっと我に返った。
「そうはさせないぞ!」
三人に向かって強風を叩きつける。
「ああっ?」
次の瞬間彼は驚愕した。彼の放った強風が跳ね返されたのだ。
「い、いったい……」
言葉が続かないカスタム。
またしても、輝きがジュークのまわりを取り巻いていた。カスタムの放った禍々しい風は、その輝きに届いた途端に跳ね返されてしまったのだ。
ジュークは静かに両手をマリーに支えられたシモラーシャに翳していた。
「僕の風が人間如きに跳ね返されるとは、信じられない……」
彼は呆然として立っていた。
その間、ジュークは目を閉じシモラーシャの癒しに専念した。それを心配そうに見つめるマリーは彼女の身体を大切そうに支えていた。そして、囁くように言った。
「あの御方に、お仕えするようになった時に……」
その声に、ジュークはうっすらと目を開けた。
「我々は他人を治癒する能力を失ってしまいました……」
ジュークは微かに頷いた。
「彼女を守りきれなくなった時が……」
マリーの表情は子供のように泣きそうだった。
「それが僕は一番怖かった……」
その彼のいとけない表情が一変した。
琥珀の瞳が妙に冴々とし、心なしか色が薄くなってきたようである。風はピタリと止んでしまっていた。それなのに彼の瞳と同じ色の髪が、まるで風に煽られるように何故かフワリと動く。
マリーはシモラーシャをそっとその場に寝かせると、おもむろに立ち上がった。
ゆっくりとカスタムに向き合う。カスタムの方は依然としてショック状態から抜け出せずにいた。
「カスタム様っ」
リリスが叫んだ。
彼はハッと我に返った。そしてマリーの冷たい視線とかち合った。
「彼女を傷つける者を……」
静かにマリーは言う。
「僕は許さない」
彼の口調はとても穏やかなのに、カスタムは背筋にゾクリと冷たいものが走るのを感じた。
「お前は一体何者なんだ?」
知らず震えながらカスタムは問いかける。
「あんなに……」
マリーはクスリと口を歪めた。
「あんなにあの御方から庇って差し上げたのに、もう忘れたのですか」
「え……?」
眉をひそめるカスタム。
「貸しを返してもらえませんかねえ」
「なっ……!」
あまりの驚きで言葉が詰まる。
「お前は……!」
「そうですねえ……」
考え込むように首を傾げるマリー。
「そうだ」
彼は、ぱっと顔を輝かせた。
「僕に殺されるっていうのはどうですか」
「マ……マリ……」
カスタムは口をパクパクさせて、マリーを指さしている。マリーは凄い表情でニヤリと笑った。
「ど…どうし、て…ここに……」
マリーの瞳がますます薄くなっていく。同時にザワザワと髪が伸びだしてきた。
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