第4話「謎の青年ジューク」

 そして明くる日。

 日もだいぶ昇ってはいたが、まだ昼になるには少し早い時間だった。

 だがマリーは朝早くからどこかに出かけてしまっていた。

「一人で消えちゃわないでくださいよ」

 マリーは人指し指をシモラーシャの顔の前で左右にふりふり念を押した。

「ちょっと頼み物を取りに行ってきますんで、絶対どこにも行かないでくださいね」

 そう言うと彼は宿を出たのである。

 あまりしつこいもんで、彼女は本当に出発してしまおうかと思ったが、如何せんマリーはターニャを味方につけてしまっていた。

「マリーさん。まかしとき。このあたしがどこにも行かないように見張っといてやるからさ。安心して行ってきな」

 ターニャはその豊かすぎる胸をどんっと叩いて大見得を切ったのである。

 そしてしばらくののち───

 シモラーシャは暇そうに二階の窓から通りを眺めていた。

 これからだんだんと日中が過ぎていけばいくほど、通りは暑くなっていくだろう。

 通りは整然と並ぶ石畳に覆われていて砂煙とかは上がらないが、ギラつく太陽に照らしだされて石はもっと熱くなるに違いない。今でも二階から顔を出す彼女のもとにムンムンと熱気が立ち上ってくるようだ。

「あーあ。ちょっと散歩してくるだけだからって言っても女将さん信じてくんないんだもんなあ。いやんなっちゃう」

 彼女はボーッとしながら下を見ていた。

(大した距離はないよなあ)

 肘をついて彼女はぼんやり考えた。

(これならあたしでも飛び降りれそうなんだけど。どしよっかなあ。うーん……)

 彼女は意味もなく振り返り、そして再び下を見下ろした。そしておもむろに立ち上がった。窓枠に手をかける。

「エイッ」

 次の瞬間、彼女の白く細い身体は空を切って下へと降りていった。それは見ていて気持ち良いくらい颯爽としていた。

 しかし路面に着いた途端、行き交う人々の非難するようなざわめきがあがった。そのためターニャが表に出てきてしまい、彼女はあっと言う間に見つかってしまった。まあ見つからないほうがおかしいのだが。彼女は脱兎の如く走りだした。

「こらあ、シモラーシャ!」

 ターニャが拳を振り上げながら怒鳴った。

「女将さん、安心してよー」

 後ろも振り向かずにシモラーシャは右手だけを振って見せた。

「ちょおっと散歩だけしてくるからさ!」

「まあったく……」

 ターニャは大きく溜め息をついた。すでにシモラーシャは通りを曲がって消えてしまっていた。

「まあ、大丈夫か。剣も持たずに出発してしまうってこたあないだろうよ」

 彼女は頭を振り振り踵を返して店に入っていった。

 さて、まんまと脱出に成功した彼女は大いに満足そうだった。大きな伸びをしながら道を歩いている。

 確かに彼女は既に出発しようとは思っていなかった。とにかくジッとして待っているのが性に合わなかっただけなのである。

 あまりいい思い出のない町ではあったが、それは魔法の塔でのことであって、実は結構この町を彼女は気に入っていたのだ。

 あそこの角を曲がれば噴水のある広場で、よく入って騒いで怒られたよなあと思い出しながら曲がっていくと、やはりその噴水はまだそこにあった。

「やー、なっつかしーなあ」

 彼女は歓声を上げながら走り寄った。

 石垣を丸く積み上げて作られた小さな泉の真ん中には、同じように石を削って作られた水の妖精アクエリンが両手を広げている。その両手から四方へ水がほとばしり、涼しげな虹をつくっていた。

 シモラーシャは石垣に腰掛けると手を伸ばし、どんなに暑くてもぬるくならない噴水の四散する水で手を濡らした。彼女の表情は子供に戻ったかのように無邪気であった。

 そしてその時、その姿を建物の物陰から見つめる一つの人影があった。

「………」

 暗く陽がささない場所に隠れているため、男なのか女なのか定かではない。

 すると、その人物はいきなりダッと走り出た。一直線に彼女目がけて走っている。

 普段なら、いち早く殺気で気づくシモラーシャである。それが、殺気を感じないのか、それとも本当に無防備なのかわからないが、彼女はその人物がぶつかってくるまで気がつかなかった。

 ───ドンッ!

「きゃあっ!」

 シモラーシャはもんどりうって引っ繰り返り、あろうことかそのまま噴水の池の中に顔から落ちてしまった。

 ぶつかってきた人物は男だった。その辺にごろごろしていそうな小汚い浮浪者風の男である。一瞬彼女が水の中に落ちたのを見て怯んだが、踵を返して逃げようとした。

 その手にはサイフが握られていた。

 シモラーシャはびしょびしょになった恰好で立ち上がった。叫びながら両手をその男に向けて翳すシモラーシャ。

「このシモラーシャ・デイビス様の懐をねらうなんざ、ふてえやろーだ」

 両手の先の空間がゆらりと揺れる。

「覚悟しな!」

 男はもう少しで角を曲がりきろうとしていた。その時、男に向かってシモラーシャは気合の声を上げた。

「ハッ!」

 それと同時に彼女の翳した手から目に見えぬ波動のような物が発せられた。

 霊気である。

 ───ドンッ!

「うそだろお!」

 鈍い音とともに男は吹っ飛んだ。信じられないといった風に目は見開かれている。手からすべり落ちるシモラーシャの大切なサイフ。シモラーシャは急いで池から這い出ると、サイフに向かってダッシュしていった。男は引っ繰り返っていたが、呻き声を上げながらよろよろと立ち上がり逃げていく。

「あっこのやろ!」

 物凄い形相で振り返るシモラーシャ。

「逃げんなよなあ。あたしの服の弁償どーしてくれんのよお」

 まったく───人さまの懐を狙う奴が服の弁償なぞできようはずがないではないか。無茶苦茶言うシモラーシャであった。

「あーあ、びしょびしょ……」

 彼女はまるで雑巾を絞るようにしてマントの水を切った。

「シモラーシャ・デイビスだぞ」

「ああ、あれが悪名高い……」

「でも魔法剣士だろ。剣がないのに霊気を出してたぞ」

「ばっか! 知らないのか。上級剣士は剣がなくてもあれっくらいの霊気は素手でも出せるんだぜ」

「おお、おそろしや。おそろしや」

 今の椿事(ちんじ)を見ていた広場の人々は、遠巻きにシモラーシャを見つめ、ささめいていた。

 それが聞こえているのかいないのか、彼女はおもむろに歩きはじめる。

「くっそ…宿に帰るか……」

 それから暫くして、通りをシモラーシャは物凄く不機嫌な顔つきで歩いていた。

 大体が彼女の衣服は水着のようになっているので肌が露出している。だから濡れてもそうでなくてもあまり変わらない。だが、そこはやはり女の子であったので彼女はどうにもこうにも我慢がならなかったのだ。

 それというのも彼女の身に纏っている紫のマントは、彼女にとって大事なマントであったから。この不思議な色合いの淡い紫のマントは魔法の塔を卒業した者だけが身に着けられる物だった。

 彼女は卒業を待たずして飛び出してしまったので、本来ならこのマントは身に着けることは出来ないはずである。それでは何故彼女は手に入れることが出来たのか。間違っても他人からぶんどったわけではない、念のため。

 実は塔を追い出される時、彼女がただ一人尊敬していた老師オード自らが彼女に授けたマントだったのだ。

「シモラーシャよ。お前の霊力はシモン・ドルチェ様以来の絶大な物じゃ。ワシはもうお前に教えることもない。皆が認めんでもお前はもう卒業してもよい実力じゃ。だからこのマントを授ける。このマントは遙か昔、ワシが現役だった頃に身に着けていた物じゃ。慣習に従い真新しいマントは授けられんが、このワシのマントを身に着けて正義と平和のため魔族と戦ってくれ」

 彼女は感激して涙を流し───たりはしなかったが、このマントに誓いを立てた。

 必ず世界の魔族をこの手で一掃すると。両親の仇としてもさることながら、敬愛する老師オードの期待に添うためにも。

 マントは色も不思議な色だったが、素材も不思議だった。一体何の布を使って織られているのかが誰にも判らないのだ。滑らかな肌触りが何かの動物の皮のようでもあるが、決して切れることもない。が、しかし水にはまるで布と同じように濡れてジャブジャブと丸洗いすることも出来るのだ。

 一説によると甘い香りで有名な淡い紫の花ラベンダーの精霊が、その花の精気を結晶化して丹念に織り上げた布で仕上げた物だと言われてもいる。そう言われればこのマントは嗅ぐとラベンダーのような甘く芳しい香りがする。

 そして今、彼女のマントはぐっしょりと濡れて重くなっていた。なんとも気分の悪そうな面持ちで彼女は歩いていた。

 そんな彼女の少し前を一人のスラリとした背の高い人物が、ゆっくりと歩いていた。辺りを見聞するかのような歩きである。その人物は淡い銀色の髪を腰までふわりと垂らしていた。服装を見る限りでは男のようだ。

 日中はとても暑い。通りを行く人々は汗をふきふき忙しそうに歩いていた。

 この暑さを紛らわすため、店先で下働きの子が水を撒いている。だが、彼の周りだけがひんやり涼しそうに見えているのはなぜだろう。

「あっ!」

 その彼に撒いていた水がうっかりかかりそうになった。彼は瞬間その水を避けて立ち止まり、後ろに身を引いた。そこへ、少し早歩きでマントを気にしながら前を向かずに歩いていたシモラーシャ。

 ───ドンッ!

 お約束通り見事にぶつかる。

「いったぁぁぁ───いっ!」

 彼女は頭のてっぺんできつく結んだ輝く金の髪を振り乱した。

 その場に尻餅をついた彼女の表情は、まさに踏んだりけったりだーといわんばかりだ。それから彼女は、その形のよいお尻をさすりさすり立ち上がった。

「何なのよー。あったまくるー。気いつけてよねー」

 彼女はワアワアとわめいてはいたが、未だにマントは大丈夫かしらと後ろを気にしている。

「まったくう、後ろもちゃあんと見て歩いてよね」

 お前もちゃんと前見て歩けよなといわれても仕方ないとは思うのだが───そこがシモラーシャらしいと言ったところか。

「どうも申し訳ありません」

 随分、気品のある涼やかないらえが返ってきた。シモラーシャの目がおやっとなった。自分とぶつかった相手の顔を見ようと顔を上げる。

「本当にすみませんでした。お怪我はありませんでしたか」

「!」

 シモラーシャ・デイビスのつり上がったその目が、これまでにないほど大きく見開かれた。

 彼女の目には女のように美しい顔が映っていた。

 銀の前髪を長く顎まで垂らし、顔の右半分を何故か隠してはいたが、唯一出ているその左目は黒檀色で煙るように潤んだ瞳だった。唇はまるで女性が紅をさしているかのようにピンク色をしている。ほっそりとした肢体は誰かに守られるのが当たり前といった感じだ。

 歳の頃はシモラーシャと同じくらいらしいのだが、注意して見ると何故か老齢を感じさせる。それほど、何だか歳に似合わず落ちついて幻想めいているからだろう。

(王子様!)

 シモラーシャにはまさしく彼がキラキラと星をバックに背負った王子様に見えていた。花でないところが彼女らしい。

(ああ!)

 シモラーシャの心は歓喜していた。

(この人こそあたしの理想の王子様よ。神様、感謝します)

 彼女は今この場で跪いて天にも祈りたい気分になった。

「あの……本当に大丈夫でしょうか。手当てが必要なのでは……?」

 彼は様々に表情を変える彼女を心配して声をかけた。シモラーシャはハッとすると顔を元に戻した。

(いかん、いかん)

 彼女はパンパンと自分の顔を叩いた。

(馬鹿面を見せてしまった。第一印象が大切だというのに)

 彼女は自分が一番気に入っている極上の微笑みを浮かべた。

「いーえ!」

 そして、身体の線がよく見えるようにズズイッと胸を張って見せた。

「どこも怪我はありませんっ」

 どうひいき目に見ても全く媚びているようには見えない。何か間違っていると思わないのか、シモラーシャ・デイビスよ───それも仕方ないだろう。彼女は今まで他人に媚びるということが全くといっていいほどなかったからだ。

 魔法の塔にいた時から、いやそれ以前からでも人に頭を下げたことがない。自分が正しいと決め込んだら、たとえそれが誰一人正しいと認めなくても自分の考えを押し通す。それでもひとたび自分が間違っていると気づくと、誠心誠意謝り倒す。それが魔法剣士シモラーシャ・デイビスという人物の人間性だった。

「それは良かった、安心しました」

 だが彼はそんな彼女の態度にも全く動じることなく静かに答えた。

「本当に申し訳ありませんでした」

 そして深々と頭を下げた。気持ちがいいくらい潔い態度だった。

「ちょ、ちょっと頭を上げてくださいよ。悪いのはあたしなんだから」

 シモラーシャは慌てた。

「いや、その……参ったなあ」

 シモラーシャは決まり悪そうに頭をかく。と、その顔がパッと輝いた。

「そ、そうだ!」

 どうやらまたしても良からぬことを考えついたらしい。

「お詫びにあたしに奢らせてよ」

 彼は顔を上げてシモラーシャの顔をジッと見つめた。

「ほら、あそこにある飯屋、この町で一番美味いんだよ」

「そんなことをしてもらうわけにはいきません」

 彼は美しい顔に似合わず何故か無表情だった。シモラーシャは、ちょっと笑ってくれないかな、などと思いながら更に誘った。

「あたしがぶつかってったんだから、あたしに奢らせて。女に恥かかせないでよ」

 こらこら、そういう言い方はマズイと思うぞシモラーシャ・デイビス───

「有り難うございます。それではお言葉に甘えて御馳走になりましょう」

 すると意外にも彼はあっさりと申し出を受けた。ニッコリと微笑んでいる。先程までの無表情が嘘のようだ。

「やった!」

 ガッツポーズを見せるシモラーシャであった。


 それから二人は『煙草と煙亭』に入っていった。

「漸く帰ってきたかい。この鉄砲玉!」

 入ってきたシモラーシャにターニャは辛辣な声を上げた。しかし、シモラーシャと一緒にいる人物を見て、おやっという表情を見せた。

「ごめん、女将さん」

 シモラーシャは徹底してしおらしくするつもりらしい。

「さっきさ、そこんとこでこの人に失礼なことしちゃってさ。お詫びに御飯食べてもらおうと思うんだ。御馳走出してくんないかなあ」

「ああ、いいともさ」

 ターニャも心得たもので、すぐさま反応した。彼に笑いかけると言った。

「あんた、ここらでは見かけない顔だねえ。旅行者かい?」

「はい、ジュークと言います。お世話になります」

 彼は実に爽やかに微笑むと頭を下げた。

「やだよ、ここは飯を食べさせるとこだ。そんなに改まらなくてもいいんだよ」

 ターニャはこんなに綺麗な人物に笑いかけてもらって、久々に有頂天になったようだ。

「さあ、ジューク…っていったっけ。あっ、ジュークって呼んでいいでしょ」

 シモラーシャは椅子を勧めながらそう言った。

「勿論です」

 そう言うと彼は実に優雅に椅子に座った。その姿は背筋がピンッと張って、どこぞの王侯貴族のようだった。シモラシーャは思わポーッとなって見とれている。

「ちょっと、シモラーシャ」

 そんな彼女の恰好が、あまりにひどいのに気づいたターニャが言った。

「あんたの恰好ったらなんだい。殿方の前に出れたもんじゃないねえ。ずぶ濡れじゃないか。着替えてきな。ジュークさんのお相手はあたしがしとくからさ」

「えっえ────っ」

 ぶうぶうのシモラーシャにメっと睨みをきかせるターニャ。

「さっさと行ってきな」

 彼女は後ろ髪引かれる思いで、しぶしぶ二階に上がっていった。

 それからしばらくして、彼女はマントを外し、替えの服を着ると───もちろん今まで着ていたものと同じものだ。なんてったってかさばらないのがこの服のいいとこか───階下に下りてきた。

 既にジュークの前には特製の肉団子汁、彩りのよい野菜サラダ、橙色をした冷たいカボチャスープ、小麦粉を水でこねて発酵させてふっくらと焼き上げたパン、そして様々なフルーツがズラリと所狭しと並べられていた。

「さあさあ、シモラーシャも一緒にお上がりよ。マリーさんはまだ帰って来ないねえ。シモラーシャに全部平らげられちまうっていうのにさ」

「女将さん、やめてよ。あたしそんなに食い意地張ってないわよ。人さまが聞いたらなんて思うことか。変なこと言わないでちょおだいな」

 それを聞いたターニャはカンラカラと大笑いし、彼女の背中をバシンとぶっ叩いた。

「なにしおらしいこと言ってんだい。ほんとのことだろーが」

 彼女は、笑いながら向こうへ行ってしまった。なぜならどんどんお客が入店してきたからである。

 シモラーシャはバツの悪そうな顔をしながらも、ジュークの前にある椅子に腰掛けた。

 彼は彼女にニッコリ微笑んだ。丁度カボチャスープをスプーンですくい、口に運ぶところだった。彼はそれを口に入れ、飲み込むとますます微笑を深くした。

「とてもおいしいです。これは温かくてもいいかもしれませんね」

「うん、そうね。でもあたしはこの冷たいスープが大好き」

 彼女は表情が輝いていた。ターニャが言った通り、彼女は食べることがとても大好きであったのだ。

 このカボチャはゆでるととても甘くなり、特にここら辺りではスープとしてよく飲まれていた。赤や緑や黄色など原色の鮮やかなサラダも特製の香辛料がかかっており、これはけっこう辛い。だが、シモラーシャは甘いものも辛いものも大好きだった。性格がはっきりしているからか、味覚も特にハッキリしたものを好む傾向にあったのだ。

 それに土地柄、甘いものは甘い、辛いものは辛いと極端な方が人々に受け入れられやすいのも、何も彼女に限ったことではなかったのである。

 ジュークはいたくスープが気に入ったらしく、おかわりを申し出ていた。

「そういえば、あたしまだ自己紹介してなかったわよね」

 シモラーシャは肉団子汁の肉団子を口に放り込むと言った。食べながら喋るのは行儀悪いと思うのだが。

「あたしシモラーシャ・デイビス。魔法剣士を生業としているの。あなたはどこから来たの?」

「とても遠いところから旅して来ました。ある御方に逢うために」

 ジュークはスプーンを持つ手を止め、一瞬遠い眼差しで宙空を見つめた。

 シモラーシャはドキリとした。それは神の創りたもうた芸術作品のように儚げで幻想めいている表情だった。手に持たれたスプーンがそれを損なっているが───

「へ、へえ。名前は何と言う人なの?」

「お名前もお顔も私は知らないのです」

 ジュークは首を振った。

「そんな、名前も顔も判らなくてどうやって探すのよ」

 シモラーシャは呆れ顔でそう言った。

 彼はそんなシモラーシャに頷いて見せるとスプーンを置いた。

「それが、魔法の塔の老師様にお逢いすれば判るはずなのです。それで私ははるばる、ここアクアまでやって来たのですが……」

 彼はそう言ってから少し顔を曇らせた。

「魔法の塔には紹介がないと入れないと聞いたものでして、どうしようかと考えあぐねておりました」

「それならシモラーシャちゃんが、ご紹介して差し上げればいいんじゃないですかあ」

「マリー!」

 いつの間にか、テーブルの傍らにマリーが立っていた。

「?」

 シモラーシャは怪訝そうに眉を寄せた。何故ならマリーがいつもと違うような気がしたからだ。

「あっ」

 シモラーシャは小さく叫んだ。

「何ですか、シモラーシャちゃん」

 マリーは訝しそうに言った。

「ううん、何でもない」

 彼女はブンブンと首を振った。

(マントが違う)

 そう、今朝ここを出る時は、あの例によって例の如くはっでーな豹柄のマントを纏っていたマリーであった。だが今のマリーはグレーのごく普通のマントを纏っている。

(めっずらしー)

 シモラーシャは繁々とマリーの出で立ちを見つめた。

「初めまして。僕は吟遊詩人のマリー。魔法剣士シモラーシャ・デイビスの将来の夫となる身です。以後お見知り置きを」

 彼は片手を前に出し優雅にお辞儀した。しかし、多少なりともおどけているのは否めない。

「くぅおらぁぁぁぁ──!」

 途端にシモラーシャの大声が上がった。

「大ぼら吹くのもいいかげんにしなさいよお。いつそんな約束したっ!」

 物凄い形相で立ち上がるシモラーシャ。舌を出して横向くマリー。

 さすがのジュークも少々呆気に取られて見つめている。その視線を感じてマリーは彼にニッコリして見せた。

「あー、すみませんねえ。こちら、座ってもよろしいですか?」

「どうぞ」

 すでに元の物静かなジュークに戻っている。まだ傍らでギャウギャウと叫んでいるシモラーシャを尻目に、マリーはサラリと上品に座った。

「こらあ、マリー。話は終わってないわよお」

「シモラーシャちゃん、みっともないじゃない。ほらほら、皆さん見てますよ」

 彼女はハッと我に返って辺りを見回した。店にいる客たちがあっけに取られて彼女たちを見つめていた。

(あー、いかんいかん)

 シモラーシャは顔を赤くすると、コホンと咳払いをひとつした。

(またやってしまったよお。ジュークに下品な女だと思われたかも……)

 彼女はシュンとしてマリーの隣にスゴスゴ座った。そうしてからチラリとジュークに視線を走らせるのを忘れなかった。

 ジュークは彼女の視線に気づき、憎らしいほどの美しい微笑みを向けた。シモラーシャはホッと胸を撫で下ろす。

 マリーのほうはというと、自分の斜め前に座っているこの静かな青年を先程からジーッと見つめていた。

 それからおもむろにシモラーシャに顔を向けると言った。

「それでどうするんです」

「へ?」

「へ? じゃありませんよ。こちらの方に紹介して差し上げるんでしょ」

 マリーはやれやれといった風だ。

「ええー、でもお。あたしい、あんましさあ、あそこにはあ……」

 彼女は、たとえジュークの頼みだとしてもあまり気乗りがしないようだった。


 それより一日前の日の事だった。

 アクアよりそんなに離れていない、そこは森の奥の小さな村だった。村は夕げの支度に忙しかった。女たちは台所で、子供たちは母親の手伝いに、男たちは一日の仕事の疲れをと、それぞれが家庭の団欒というやつを満喫していた。

 そんな平和な時間───

 空気が動いた。風が流れる。いつもと違うその風に人々は手を止めた。

彼らは魔族の徘徊する地からそう遠くない場所に住んでいた。だからちょっとの異変でも敏感に感じ取る能力が備わっていたのかもしれない。そうでなければ即ち死を意味するから。

 人々は直ぐさま家々の扉を固く閉じた。木で出来た粗末なものだったが、丸裸でいるよりは少しは安心できる。

 ───ザザッ!

 筋骨逞しい青年が、どこからともなく現れた。彼は村の入口に仁王立ちした。

 その手には大ぶりの剣が握られている。それは銀色に輝いていた。どうやら魔法剣士らしい。さすが、魔族の徘徊する土地にある村だけあって準備は万端なのだ。

 彼は険しい顔つきでジッと前方を睨み据えていた。アーモンド色のその瞳は、何も見逃さないとでも言いたげに鋭く光っている。

 そんな彼の頬に、髪に風がまとわりつく。しかし、その風でも彼の髪を乱すことは出来なかった。ごわごわと見るからに硬そうな髪である。短く刈り込んであり、男らしい。シモラーシャ好みの美青年とは言いがたいが、なかなかのいい男っぷりだ。

 その彼の目が不快そうに歪められた。何かを捉えたようである。キラリと光る。そこへ一陣の突風が吹き荒れた。

「!」

 ハッと気づいた時にはすでに女が二人出現していた。何もない空中からその二人は染み出るように現れた。

 彼の目は、驚愕もあらわに大きく見開かれた。だがそれも一瞬のことである。直ぐさまキリッと表情を元に戻すと、彼は大きな声を張り上げて誰何(すいか)した。

「何者だ!」

 女たちは男の持つ剣と同じくらいの大剣を握り締めていた。彼の声に顔を見合せニヤニヤしている。妙に癇に触る笑いだった。

「何を笑っている。答えろっ!」

 すると右側に立つ、髪の短いボーイッシュな小柄な女がスッと足を前に出した。

「ここはカランの村だな」

 女の口調は確認ではなく、判っていてわざと問いかけているようだった。

「それがどうした」

 彼がそう言うと、もう一人のおかっぱ頭の女も前に出た。

「見たところお前は魔法剣士だな」

 豊満な身体を惜しげもなく誇示するかのように胸を張っている。男は両手で大剣を握りしめ、身体の前で構えて見せた。

「そうとも!」

 今や彼の霊力に呼応して眩いばかりの輝きになっていた。

「オレは魔法の塔を史上最も優秀な成績で卒業した魔法剣士ドーラだ」

「ほう。最も優秀な剣士とな」

 カラスの濡れ羽色のようなおかっぱを揺らし、女は面白いことを聞いたとでも言いたげな表情を見せた。

 短髪の女はキャラキャラと笑いながら、馬鹿にしたように手をひらひらさせた。

「最強の魔法剣士ってシモラーシャ・デイビスのことじゃあないの?」

「うるさいっ!」

 怒鳴るドーラ。

「あいつは中退したから、最強の剣士はこのオレなんだっ!」

 ドーラは侮辱されて顔が真っ赤になった。クスクス笑い続ける女たち。

「じゃあ、あたしたちも最強の魔法剣士に敬意を表しなければね」

「!」

 女たちも剣を携えていた。彼女たちはおもむろに剣を構えた。彼は訝しそうに眉をひそめた。ドーラのように構えられる大剣───徐々に輝き始める。

「なんと……」

 彼とまったく同じように輝く大剣。

「お前たちも魔法剣士なのかっ」

 彼には信じられなかった。魔法剣士は正義の味方のはずだ。彼は今までそう信じて生きてきた。あの極悪非道だと噂され恐れられているシモラーシャだって、殺生は魔族かイーヴル教徒だけだ。魔族はともかくとして、イーヴル教徒は人間である。

 剣士はやむおえぬ場合以外は決してイーヴル教徒は殺さない。だが、シモラーシャは命乞いするイーヴル教徒でさえ、一刀のもとに切り捨てるということだ。それも誉められたことではないが、善良な村人を襲うよりはましだろう。

 彼は前方の女たちをよく見ようと目を薄めた。魔族ではないようだ。それではイーヴル教徒だろうか。しかし多少の霊力を持つ者はいるだろうが、彼はイーヴル教徒でこれだけ立派に剣を輝かせる者がいるとは聞いたことがなかった。

(こいつらは邪剣士か)

 彼は思った。

(魔法の使い手が呪われた邪教に足を突っ込むとは……うぬぬぬ、許せん)

 ドーラの正義に燃える心が爆発した。

「おのれ、邪教徒!」

 彼は剣を振り翳しながらダッとばかりに切り込んだ。

 ───カッシーン!

「ああっ!」

 ドーラの剣が大きく宙に舞った。あの短髪の女が、相変わらずニヤニヤした顔でドーラの魂消た表情を見ていた。恐ろしく速かった。彼にはこの女の手元が全く見えなかった。

「呆れた! こんなんが魔法の塔きっての手練だってーの?」

 短髪の女の横で豊満な胸を揺らしながら女が笑う。直ぐ前で短髪の女が剣を構えなおしながら、またしてもクスクス笑った。

(全く癇に触る女たちだぜ)

 ドーラはといえば、自分の身の危険そっちのけで呑気に舌打ちしている。

 その時!

「死にな」

 女がザッとばかりに剣を振り降ろした。

「ウッ…!」

 彼は必死にその場から飛びすさったが、今一歩遅れたらしく左腕を刃が掠めた。

「ちっ、し損じた」

 女の顔から余裕の表情が消えた。

「クソオ。これでもくらえ」

 女は剣を左手に持ち替えた。

 右手の掌をドーラに向かって翳す。

「だめっ」

 慌てておかっぱ頭の女が叫んだ。

「リリス! だめよ、その力は……」

「とめないで、リリン」

 恐いくらい真面目な表情だ。

「この一撃をかわすなんて。私の誇りに傷をつけたこいつが許せない」


 偉大なる気高き汝よ

 我に汝の力を与え給へ

 吹き荒れよ

 吹き荒べよ

 その強大な風でもって

 全てのものどもに

 滅びの風雲を

 及ぼさんことを


 ──ヒュウゥゥゥゥゥ───

 何か禍々しい微風が彼女の掌から巻き起こり始めている。

「剣士のくせに呪文を唱えている…?」

 ドーラは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。

 瘴気の風が吹き荒れかけていた。リリスという女の呪文によってそれは生じようとしている。ドーラはじりじりと後ずさりをし始めた。これはとんでもないことになりそうだ、と彼の勘が教えていた。

「くらえっ!」

 リリスは勢いをつけて、瘴気の風をドーラめがけてぶつけた。

「わっ……」

 これはもうだめだ、と観念してドーラは目をつぶった。だがいつまでたっても風にまかれない。ドーラは不思議に思って、ゆっくりと目を開けた。

「?」

 彼の前に誰かが立っていた。さっきまで誰もいなかったはずである。いきなりわいて出たとしかいいようがない。

「そうはいきませんよ」

 そいつは黒いマントを纏って、フードを目深に降ろしているため顔は見えなかった。

「誰だ!」

 リリスは驚愕とともに怒鳴った。

「なぜ、瘴気の風をくらって生きてる?」

 どうやらフードの人物が、ドーラのかわりに瘴気の風を浴びたらしい。

「なぜ? どうして……」

 ドーラは呆然としてそうつぶやいた。すると───

 フードの下でクスクスと笑う声がした。

「お嬢さん方、私を甘く見てもらっちゃあ困りますね」

「何ですってぇ?」

 リリスは凄い形相で吠えた。

「おやおや、可愛い顔が台無しですよ」

 男は両手を前に突き出し左右に振った。

「この方は私が頂いて行きます。あなた方に殺されてしまっては、ちょいと困りますのでね」

 男はチラリと後ろを振り返った。

 ドーラは急な展開についていけず、呆然としていた。左腕からは少しづつだが血が流れている。

「その代わり後は好きなだけ…ど、お、ぞ……」

「あっこら、待てっ!」

 男は身を翻すとドーラをマントで包み、その場から消え去った。後には呆然とした表情で二人が消えた場所を見つめる女二人が残された。

 いち早く正気に戻ったのは豊満な身体の持ち主リリンだった。

「リリス!」

 彼女は相棒のもとへと走り寄った。剣を構えたまま未だ呆然としていたリリスはハッとした。構えていた剣を降ろす。

「一体何だったの、今の男」

 駆け寄る相棒に聞くともなしに質問する。

「そんな事、判るわけないでしょ」

 リリンは怒ったようにそう言った。

「それよりリリス。早いとこお仕事してしまおうよ。ドドス様にお仕置きされるよ」

「そうだった。一人逃がしちまったのは痛いけど……」

 リリスはもう一度、二人が消えた場所を見つめながらそう言った。

「黙っとけば判りゃしないって。あのフードの男のことも黙っとこ」

 リリンがリリスに身体を寄せて、彼女の耳に囁いた。

「そーだよね。一人でも逃がしたなんて知れたら……」

 そう言いながらリリスはブルブルッと身体を震わせた。

「さあ!」

 リリスは赤い巻き毛を振り上げた。短髪とはいえ振り上げるだけの量はある。

「そうと決まったら盛大に、そしてど派手にやろう」

「愛しのカスタム様の御為に!」

 二人はダッと走りだした。大剣を構えて一直線に村めがけて。この後村に何が起こったのか、想像しなくても判るだろう。ああ、可哀想な村人たち。


 一方、助けられたカランの村の魔法剣士ドーラは、例のフードの男と一緒にとある場所に現れた。

 ───ドサッ!

 乱暴に投げ出されるドーラ。

「イテテテテ……」

 それに比べてフードの男は厭味なくらい優雅に着地した。その時、フードの下から銀色に輝く一房の長い髪がハラリと落ちた。それは定規で引かれたように真っ直ぐな、まるで針金のような髪だった。

(男のくせになげー髪)

 助けられた恩も忘れて、ドーラは頭の隅でチラッと思った。そして彼は無意識に自分の頭をさわった。殺伐とした経験をしたばかりの彼にしては、変に愛嬌のある顔つきをしている。それがドーラという人物の人間性か。

 男はフードを取る気はないらしい。見えている髪の毛も気にする風でもなしに、ドーラに向かって冷たく言い放った。

「私は助けたくてあなたを助けた訳ではないことを覚えておいてください」

「何だとお」

 助けてもらっておいて怒れる立場ではないはずなのだが、男の言い方はドーラの頭にカチンときた。

「上等じゃねえか。誰が助けてくれと言った。余計なことしやがって」

「フン。野蛮人が利いた風な口を……」

 男はクルリと背を向けると、スタスタと歩き始めた。

「おい! どこに行く」

 男の足がピタッと止まった。

「いいですか。それ以上私に話しかけないでくださいよ」

「何ぃ?」

 男は振り返らずに言った。

「あなたが死んだら悲しむ人のためにしたことですから。忘れてください。でも、あまりしつこいといくら気の長い私でもどうするか判りませんからね」

 そして再び歩き出そうとした。

「しかし、一つだけ質問させてくれ!」

 ドーラの生意気な声が消えた。男はおやっとした雰囲気で足を止め、振り返った。

「あいつらは一体何だったんだ。村の人たちは大丈夫だろうか」

「………」

 ドーラが顔に似合わず不安そうな表情を見せたので、フードの男は少し心を動かされたらしい。

「……村人たちは恐らく、一人残らず殺されたでしょうね」

「何だとお?」

 途端にドーラの正義感が戻ってきた。

「オレを助けたんなら、他の皆も助けてくれたってっ……」

「馬鹿なことを言わないでください!」

 ドーラの言葉を鋭く遮った。

「さっきも言ったはずです。あなたを助けたのはある人のため。他の連中など知ったことではありません」

「ググ……」

 ドーラはグッと握り拳を震えさせた。

「私はあなたのように正義の味方ではありませんので、悪しからず」

 男はそう言い捨てるとバッと身を翻し、自分の足で立ち去っていった。今度は空間移動なしでだ。

「ウォォォォォ───!!」

 残されたドーラは思いっきり拳を地面に叩きつけた。もちろん傷ついていない方の腕でだ。そして叫んだ。

「あいつらは一体何者なんだぁぁぁぁ────!!」

 彼の叫びは虚しくジャングルに消えていった。

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