四章、崩壊と再生
大樹と時津 茜が知る由もなかったことであるが、この時点で彼らを監視している組織は大小合わせて12にも上った。その中には、世界最大の軍事国家も含まれており、マリたちなどは弱小勢力に含まれてしまうほどだったのだ(ただし『泉』と『鍵』についての研究レベルは群を抜いて高い)。
大樹たちは無意識に世界を変容させ過ぎた。そのことによって生じた時空の歪みは既に世界中の研究者によって探知されるほど大きくなってしまっていたのである。
二人は、自分たちの意識で世界を変えてしまわないように注意しているつもりだった。しかし、彼らは自分たちの能力を過小評価していたといわざるを得ない。彼らの力は、既に「現実を変容させる」というレベルから逸脱し「現実を生じさせる」ことさえ出来る様になっていた。つまり、未来を変えてしまう力を持ち始めたのだ。
こうなると、監視している者たちには何が起こっているのかは分からない。大樹と時津 茜からは接触中、果断無く開扉が起こりっぱなしで、膨大なエネルギーが放出され続けている様が観測されるのだが、それによって現実が変わった様は観測出来ないということになる。
マリたちが恐れた時津 茜の周囲の空間屈曲率の上昇はこれに起因していたのである。彼らが「世界崩壊の危機」と誤解したのも無理は無いのだ。実際問題として、本来起こりうる未来を破壊して未来を作り変えているという意味では、既に世界は崩壊し続けていたのである。
大樹と時津 茜、特に時津 茜の方を軍事目的か何かに利用しようというのが、多くの監視勢力の目的であったが、彼女という『泉』の力はそのような小さなものではなかった。彼女には文字通り、世界を生み出すほどの能力が与えられていたのである。
大樹は、時津 茜の手を握るだけで彼女の全てを理解することが出来た。
一言で表現すれば唯これだけのことだが、実際生じている彼女との感応を言葉で説明するのはほとんど不可能だ。
イメージの洪水が圧縮されて、一瞬で転送され、同時にそのイメージを追体験出来てしまう。そんな感じである。同時に、そのイメージについての意見交換すら行われる気もする。
同じことが時津 茜の方でも起こっているのだろう。二人が接触している時には、お互いを合わせて一人の人物になっているようなものだった。同じことを考え、同じことを感じる。離れている時に起こったこと、感じたことは、接触した際に補完される。
彼らは次第にお互いの境目が不確かになりつつあった。
クラスメート達にとっても、大樹と時津 茜の区別はつき難くなっているらしかった。
大樹を時津 茜だと勘違いして声を掛ける、もしくはその逆というようなことが頻発するようになっていた。これはトキツファンクラブの面々でさえそうだった。
「なんでかな、おまえと時津さんを間違えるなんて時津さんに失礼な話だが…」
飯塚も首を傾げる。
大樹は苦笑した。一体どこまでが自分で、どこからが彼女なのか、彼にはもはや分からなくなっていた。人間は思考する生物である。個人の違いは、思考の違いであろう。大樹と時津茜は、今や接触して同調しなくても、ほとんど同じ思考を持つようになっていた。同じ思考をする人間は、他人とは言えない。分身である。
時津 茜という『泉』の力には本来、重大な制限が合ったはずだった。
まず、大樹以外の『鍵』では開扉が起こらないという制限。
そして、大樹と同じことを考え、望まなければ開扉が起きないという制限である。
この制限は、あまりにも強大な時津 茜という『泉』の力を容易に解放させないためのリミッターのようなものではなかったか。
しかし、今やその制限は全て解き放たれた。大樹と時津 茜は今や完全に同調しており、事実上『扉』は開きっぱなしの状態であると言える。『彼ら』が望めば、そのまま現実は変容する。しかも『彼ら』の力には事実上不可能は無いのである。
「神、だというの?」
「古来、神は全知全能にして絶対なる力を持つと伝えられています。『彼ら』の力にはこの称号が相応しいでしょう」
「何を馬鹿な」
「この世界を破壊することも、そこから再び創造することも思いのままです。全ての神話は、神が世界を創造するところから始まるのではありませんか」
大樹と時津 茜に、自分たちが世界を創造しているという認識は無い。彼らは今でも自分たちがごく普通の高校生であると思っていた。クラスメート達と何一つ違うことの無い、普通の人間。
学校へ通い、授業を受ける。クラスメート達と楽しくおしゃべりをし、たまには学校帰りに遊ぶ。テストで四苦八苦し、イベントではしゃぎ、休日に仲間と街へ繰り出す。
しかし、本人達がどう考えようと、もはや彼らは普通ではないのだった。
それは、冬休みに近い、ある日に起こった。
朝、隣り合わせの席に大樹と時津 茜が腰を下ろすと、クラス中の連中が彼らをとり囲む。もともとは学校のアイドルたる時津 茜を囲んでいたのだが、何時の間にか大樹も一緒に囲まれるようになっていたのである。そのことを誰も不思議に思わなかった。
「ねぇ、茜と大樹君、昨日のドラマ見た?」
「大樹と時津さん、宿題見せてくれない?」
「二人とも、今度の日曜日、映画見に行かない?」
誰もが大樹と時津 茜をセットで扱っていた。どちらかだけに呼び掛けるのは既に不可能に近かったからだ。二人は特に疑問に思うこともなく、呼び掛けられた相手に答えている。
大樹と時津 茜は、外観も近付きつつあった。どちらかと言えば大樹が時津 茜の容姿に似てきている。しかし、このことに気が付いている者すらいない。
冬休みが近い。教室には暖房が炊かれており、窓は白く曇っていた。
大樹は、あるいは時津 茜は雑談の途中、なんとなく手を伸ばしクラスメートの一人に触れた。
その瞬間、一つの破局が訪れた。
ガラスが軋むような音を立てて、そのクラスメートの姿が歪み、次の瞬間掻き消えた。
大樹、あるいは時津 茜はその光景に唖然とする。
「うわ…」
「時空震が!」
「まさか…」
大樹、あるいは時津 茜の目前で、世界は捻じ曲がった。
クラスメート達の姿が次々と消滅し、それどころか二人の足元から暗黒が生まれて急速に広がって行く。二人は思わずお互いの身体を引き寄せ合った。
「なに?」
時津 茜が悲鳴を上げる。
「なんだ?」
大樹が戸惑う。
暗黒は瞬時に二人の視界一杯に広がった。同時に、頭上は白一色に染まる。奇妙に平らな地平線を境に世界は白と黒に分かれている。
そして、静寂が訪れた。
「何だろう、これ」
「何が起こっているの?」
「もしかして」
「もしかして」
「これが世界崩壊ってやつなのかな」
「そうかも…」
大樹、あるいは時津 茜は世界の中心で考え込んだ。
世界崩壊。大分前にマリ達から概念を説明されていたことだが、この瞬間までまったく忘れていた。時空間を隔てる壁が崩壊して起こる、次元の融合。
世界が無くなったのか、それとも、新しい世界が始まったのかは分からないが、とにかくこのままではいられない。
「世界を戻そう」
大樹、もしくは時津 茜が言った。
「私たちには出来るはず。世界を元に戻すと念じればいい」
それは彼らにとっては容易なことであるはずだった。
「世界を私たちの知る姿に…」
彼らがそう考えた瞬間、世界は再び捻じ曲がった。
二人の周りにクラスメートがいる。いつもの光景。いつものざわめき。やがてチャイムが鳴って教師が登壇し、ホームルームが始まった。
大樹と時津 茜はさすがに安堵した。
彼らを監視する者たちは驚愕した。
特に、彼らを未だに単なる「力の強い『泉』と『鍵』」だと考えていた者たちの驚きは深かった。
計測された、巨大な時空震、そして次元の断層。それらから導き出せる答えは一つしかなかった。
彼らが、この世界を創造した。
即ち、世界は「ついさっき」大樹と時津 茜によって生み出されたのである。
二人は、世界を「元に戻した」と考えていた。しかしいったい誰にそれが証明できるだろう。あの瞬間、世界は終わり、彼らによって創造し直されたのではないか。
その想像は監視者たちに恐れを呼び起こした。
世界を破壊し得る存在、そして、世界を創始出来る存在。それはまさしく『神』でしか有り得ない。大樹と時津茜は万能なる『神』なのではないかという疑念が、この時ようやく監視者たちに思い浮かんだのである。
それは想像を絶することであった。『泉』と『鍵』という、いわゆる超常の力を認識し、利用している人々であっても、いや、だからこそ『神』の存在を認める訳にはいかなかったのだ。超常の力は、あくまで制限された力でなければならない。それをコントロールし独占することで利益を得る。そうでなければならないのだ。
大樹と時津 茜の力は到底、人間にコントロールできるレベルのものではなかった。既に彼ら自身にもコントロールしきれなくなりつつあるのだ。
『神』の力の暴走。それはあまりにもおぞましい想像であった。
監視者達。その上位者である組織の長や為政者達は恐怖する。彼らは現実を自在に変容させる力は望んだ。しかし、現実を崩壊することは望まなかった。
しかし、いつ何時、大樹と時津 茜の力が暴走して現実を粉微塵にしてしまうか、二人を含めた誰にも分からなかった。崩壊した世界は、二人によって再構成される。今回は彼らは元の通りに戻すことを望んだ。しかし、二人がふと、違う現実を望めば世界はそれだけで根底から変ってしまう。
存在そのものが消滅する可能性すらある。
それは、それまで世俗の権力のみならず『泉』と『鍵』の力まで使用して、世界の存在そのものを牛耳ってきた者たちにとっては屈辱的なことだった。
彼らは、大樹と時津 茜を『神』だとは認めなかった。人間は強大な力を持つ者に対して恐怖と憎悪を募らせた時、それを『悪魔』と呼称する。
自分たちがおかしな事になりつつある。
大樹と時津 茜が気が付き始めたのは、やはり先日の事件があったからである。世界が溶けるように壊れ、自分達がそれを修復した。その事実は、彼らに自分たちの力の大きさをようやくにして自覚させた。
そして、意識して力を行使しなくても、無意識の内に自分たちが世界に干渉してしまっているのではないかという疑念も持つ。
その疑念に至って二人は恐れを抱いた。自分たちには自分たちにもコントロールできないほどの力があるのだという認識が、恐れを呼び起こしたのだ。
彼らは、お互いの存在が混ざり合うことに喜びを覚えていた。故に他人からどころか、自分たちでもお互いの存在が区別できなくなるように、積極的にお互いを溶け合わせたのである。しかしこのことが、本来まるで違う法則性を持った世界である『泉』の先の世界と現実世界の境を曖昧にしているのではないか。
その事に思い至った大樹と時津 茜は、個々を元の通りに分離しようと試みた。
しかし、それは極めて困難だった。なぜなら、二人は一つの身体に同居したのではなく、存在を混ぜ合わせたのである。もはやどこからどこまでが大樹で、どこからどこまでが時津茜であるかなど判別しようが無くなっていたのだ。
この時に、二人が「自分」という存在ではなく、『泉』と『鍵』、つまりお互いの世界を分離しようと試みたのなら上手くいった可能性がある。『泉』の先の世界と現実世界は本質的に異質であり、融合することは本来無い。つまり、分離は容易なのだ。
しかし、大樹と時津 茜は、そもそも『泉』と『鍵』について無知だった。『泉』は別次元と繋がった穴であり『鍵』はあくまで現次元の存在であるという違いが理解できていなかったのだ。
故に二人は二つの世界の分離に失敗した。これが最後の機会であったのだが。
監視者たちの中で、マリたちの組織だけが異色な存在である。
彼女達だけは『泉』と『鍵』を世俗のことに利用することを目的としていなかった。『泉』と『鍵』の力を研究することで世界の成り立ちを解明しようとしていたのである。彼女たちのそのスタンスが正しかったことは、大樹と時津茜にいち早く注目したことからも推し量れよう。
その彼女たちにとっても、大樹と時津 茜の力は理解の域を絶していた。
しかし、彼女たちが他の監視者たちと違ったのは、大樹と時津 茜が万能の『神』である可能性を認めたことであった。そこから考察をスタートさせることによって、彼女たちは他の監視者たちとは違った結論に辿り着いたのである。
朝、駅のホームで待ち合わせる習慣は変っていなかったが、以前のように胸を高鳴らせてお互いを待つ、ということは無くなっていた。
外見も、ほとんど見分けが付かなくなってしまっている二人。先に待っている一人に、もう一人が近付き、微笑み合う。
手をそっと触れ合うだけで共感が起り、昨日ここで別れてからこの瞬間までのお互いの行動や思索が共有される。触れ合っている間、二人は実質一人の人間になっているのである。
誰しも、お互いを想い合う二人は、なるべく多くのことを共有しようとする。
二人でデートをする。旅行に行く。ペアルックを身に纏う。同じ指輪をする。
結婚して同じ部屋に住むのも、子供を生むのも、二人が出来得る限り同じ事象を共有しようとした行為の結果である。
大樹と時津 茜がほとんど同化してしまったのは、このありふれた恋人達の心理の働きに拠ったのだ。いわば世の恋人達の、究極の理想を体現したのだと言える。
それは、彼らにとって素晴らしいことであった。
まったく違った個性を持ち、違う人生を歩んできた異性の二人が全てを共有するということ。それは自分の人生を単純に言えば倍にすることになる。そして、愛する相手のことをこの上なく深く理解することが出来る。それは、愛を深化させることに繋がった。
こうして電車に乗っている間にも、二人が別々に見ている事象が共有され、それについて思った事が共有される。一人で同じ事を行なうよりも膨大な情報が処理されていた。
その時、それに彼らが気が付いたのはそのせいであったかもしれない。
おかしい。
それは直感であった。何かが違う。
いつもの朝の通学電車。田舎路線の、混雑というにはやや足りないくらいの車内。学生、サラリーマン、OL、あとは旅行者か。なにもおかしくは無い。
二人は、お互い無意識に身を寄せ合いながら、違和感の原因を探る。
そして気が付く。静か過ぎる、と。
誰も会話を交わしていない。いつもは姦しい笑いが聞こえるはずの女子高生グループも、なぜか笑顔を張り付かせたまま沈黙している。
そう、ただの沈黙ではない。不自然な沈黙。あくびの途中で硬直している中年サラリーマン。本を捲る途中で動きが止まっている学生。まるで、時を止められたようなすがたである。
しかし、電車は動いている。時が停まったのは電車の車内、しかも大樹と時津 茜以外の人間だけであるらしい。
二人がそう気が付いた瞬間、不意に二人の視界で閃光が炸裂した。
「あ!」
思わず目を押さえる。視界が失われたそのタイミング、その刹那に全ては起こった。
大樹、もしくは時津 茜は、自分の体が持ち上げられるのを感じた。
そのまま、物凄い力でもう一人の自分から引き離される。握り合っていた手が、意に添わずして引き離された。
「まって!」
もう一人の自分の悲鳴が急速に遠ざかる。
『彼』は恐怖した。『彼女』と引き離されることに。そして、拉致者たちの目的が、自分達を引き離す事自体にあるということを直感して。
『彼』は身を捩って抗ったが、拉致者達は彼を物凄い力で押え込んだまま、電車の外へ引き摺り出す。電車のドアが閉まる音がした。
『彼』と『彼女』は、久しくお互いの名前を呼び合っていなかった。その必要が無かったからである。声に出しての会話自体、ほとんど行なっていない。しかし、この時『彼』は思わず叫んだ。
「茜!」
自分のこの叫びで『彼』は自分が入江 大樹であるということを認識する。
ようやく取り戻し始めた視界に、速度を増して走り去りつつある電車の影が映った。
「茜!くそ!」
彼は自分を拘束している者の姿を見ようとして、唖然とした。
誰もいない。影すらも無い。確かに自分の体は万力で締め付けられたかのように動かないのに。
(『泉』と『鍵』の力か!)
先程の不自然な電車内の様子が頭に浮かぶ。あれも恐らくは拉致者達の『泉』と『鍵』の力なのであろう。
彼は自分の迂闊さに歯噛みした。
大樹と時津 茜は、自分たちの危険性を認識していた。そうであれば、自分たちを監視している連中も同じ事を考えたであろうことに想像が及ぶべきであったのだ。
世界を滅ぼしかねない大樹と時津 茜に、これ以上自由を許す訳にはいかない。監視者達はそう結論したのであろう。
「くそ!そんな勝手な理屈!」
大樹は、動かない体を自由にしようと暴れる。しかし、指先一本動かせない。彼の脳裏に絶望が過ぎったその時。
「『彼に自由を』」
その言葉と共に、いきなり大樹の身体に力が戻る。あまりの急激さに、大樹はもんどりを打って転倒した。
怒りに震えながら振り仰いだ先に、妙に貫禄のある少女、マリが立っていた。
「警告しておいたのに」
大樹は返事をせずに、文字通り飛び上がると、マリの襟首を掴んだ。
「どういうつもりだ!」
「ご挨拶ね、助けてあげたんじゃない」
「そうじゃない!茜をどうする気だ!」
「落ち着きなさい、あたしたちじゃないわよ」
マリはやれやれとでも言いたげに首を振った。
「あなた達が悪いのよ。折角世界を作り出せるほどの力を手に入れたのなら、自分達に都合の良い様に世界を作りかえれば良かったのに、そうしなかった。その力があることだけを見せ付けてしまった。そうであれば、短絡的な連中が恐怖心からあなた達を引き離そうとするのはむしろ当然ね」
大樹は震えた。
喪失の恐怖が彼の体内を満たし始めていた。
走り去った電車を追うことは既に出来ない。そして、拉致者達がそのままのうのうと電車に乗っている訳も無い。彼には、そいつらを追う術が無い。
回転する視界に、大樹は思わず膝をついた。
「なさけないわね、諦めが早すぎるわよ」
その声に大樹は僅かに希望を抱いた。マリ達の組織が自分たちを助けてくれるかもしれない、という希望である。
「無理よ。彼女を拉致した連中は、某超大国の部隊よ。あたし達では相手にならない」
マリは無慈悲に大樹の希望を打ち砕いてから、大樹に顔を近づけた。
「でもね、あなたは、違うわ」
マリは大樹の瞳を覗き込んだ。
彼の瞳は炎の揺らめきに似た彩りを帯びている。それは、そもそもは時津 茜の瞳の色だった。
「あなたはもう、唯の『鍵』じゃない。いえ、もともとそうではなかったのかもしれないけど」
マリはなぜだか沈んだ表情で言った。
「あなたはもう、一人でも世界を変容させることが出来る」
その言葉の意味が大樹に浸透するのを待つ様に間を空け、続ける。
「気が付いているはずよ、あなたはもう自分一人ででも次元の壁を越えて、高次元にアクセスすることが出来る。高次元のエネルギーを使って世界を変えてしまうことが出来る。無論『泉』に触れている時と同じという訳にはいかないとは思うけど」
大樹の表情に落ち着きが戻るのを確認して、マリは立ち上った。
「『泉』を取り戻しなさい。そして、今度こそその力で、世界を造り替えてしまいなさい」
大樹も立ち上った。マリは疲れたように微笑して、歩き去ろうとした。
「待ってくれ」
大樹が呼び止める。
「一つ聞かせてくれ。なぜあんたたちは、俺達を危険視しない?」
他の誰よりも早くから自分たちを監視し、その危険性を十分に認識している筈の彼女たちだった。
時津 茜を拉致した連中と同じ結論に到達したとしても不思議はなかった筈だ。
マリは実にあっさりと言った。
「あなた達に賭けてみたくなったのよ」
意味を図りかねて大樹が沈黙する。マリは振り返りもせずにもう一言だけ言った。
「未来の意味を」
マリが車に戻ると、マツがやや皮肉っぽく言った。
「随分お優しいことですね。まるで母親だ」
「ふん、年齢的には丁度良いけどね」
「これで彼が私たちの思ったように動かなければ世界は破滅しますね」
「その時はあたし達にも認識出来ないでしょうから、別に恐れることもないわ」
「『神』の意志のままに、ということでしょうか」
「あの二人は神ではない、というのがあなたの結論ではなかったの?」
「理論的には。感情は彼らを神だと思いたがっていますよ」
マリは鼻で笑った。
「もうすぐ、30年に渡った研究の結果が出るわね。それだけが唯一つの救い…」
大樹は唐突に思い出していた。
時津 茜と初めて出会った時のこと。彼女を神社の境内で掘り出してしまったあの日のことを。
友人の家で見付けた、思わせぶりな古地図。
そこに書かれていたのは、読めない文字と、紋章と、絵図だった。
時津 茜が納められていた棺にも紋章が描かれていた。
それを思い出していたのである。
なぜ、彼はその地図を見付けたのか。その地図に描かれていたものは何一つ理解できなかったにも関わらず、なぜ時津神社にそれが埋まっていることが分かったのか。
大樹は、一つの仮定を導き出していた。
彼は見付けるべくしてその地図を見付けた。それは、彼が時津 茜を見付けることが、始めから定められていた事だからである。
なぜ、定められていたのか。
世界は、大樹と時津 茜によって「生み出される予定」になっていたからである。
故に、地図や棺には意味はなかったのだ。大樹と時津 茜をただ出会わせるギミックとして地図と棺は存在した。読めない文字、意味不明な紋章。それらは二人を引き合わせるために必要だったというよりは、非現実的な二人の出会いを象徴しているに過ぎないのである。
そう。全ては、大樹と時津 茜の意志のままに。
大樹は戦慄した。全ては、二人がこの世界を作り上げたのだとすれば理解出来るのである。大樹と時津茜は二人で世界を創り上げた。故に二人は出会う。理由はなく、出会う事が定められているが故に出会った。
そうであるならば、大樹は考える。全ては予定調和だということになるのではないか。
二人が出会い、惹かれ合い、心通わせたことは全て自分たちが生み出した予定上で定められた運命だということになる。
それどころか、連れ去られた時津 茜がどうなるかという運命もまた、自分たちが定めている、あるいは定めることになるということではないだろうか。
そこまで考えて、大樹は違う可能性にも辿り着く。
自分たちは、世界を創造することは出来ない、という考えである。
彼らは、いや少なくとも大樹は、この現実世界にしごくまっとうな方法で誕生し、生きてきた。彼は世界の枠内で存在していた。枠からはみ出し始めたのは時津茜と出会ってからである。
時津 茜。そう名付けられた、この世界から外れた存在。
彼女と大樹との出会いは、あらかじめ定められたものであった、というよりは時津 茜がそう望んだからだ、と考える方が自然なのではないだろうか。
なぜなら、大樹には世界を変容させる力はないが、彼女にはあるからである。
時津 茜は、現実世界に出現する時に、自分の力を現実世界に顕現させるために大樹という『鍵』を望み、その結果あの古地図と棺を生み出したのではないだろうか。
時津 茜と名付けられた、違う次元からやってきた人格にはその様な記憶は無い(大樹と時津 茜がシンクロしている時にはあらゆる記憶を共有していた)。大樹は、時津 茜というよりは、彼女に繋がる別の次元に『鍵』として選ばれたのである。
『それ』が望んだ故に二人は出会い、時津 茜として現出した意志を通じて、二人は世界を変容させるのではないか。
で、あるならば、自分が成すべき事は『世界』に望まれていることは一体何なのだろうか。
大樹は、時津 茜を失いたくなかった。
それは、単に恋人を喪失するという事以上に、自分の分身の喪失であり、あらゆる可能性の喪失を意味した。
彼女を取り戻す。大樹はそう願う。いや、そう望む。
大樹の望みは、彼の望みであり、同時にこの世界の望みでもある。
既に、その身の中で『鍵』と『泉』を合一しつつある彼が望めば、現実はその様に変容する筈だ。
大樹は、線路の彼方に厳しい視線を飛ばしながら、そう望もうとした。
「空間屈曲率上昇!」
マツの報告にマリはやや寂しげに首を振った。
「それでは、不正解なのよ」
そう、それでは不正解だ。大樹はそれに気が付いた。
時津 茜という自分の分身を取り戻す。
大樹がそう望み、そう世界を変えてしまうことは容易い。
しかしその望みは『世界』の意志に沿わないのではないだろうか。
『世界』がそう望んだが故に、大樹と時津 茜は引き離された。『世界』はなぜ、大樹と時津 茜が共にあることを望まなかったのだろうか。
大樹と、時津 茜が完全に一つになればどうなるか。先日起こった様に、世界は無に帰する。本質的に違う原理で存在する二つの『世界』を一つにすることは、新たな世界を創り出すことを意味するからだ。
大樹が現実を改変してまで時津 茜を取り戻せば、二人は今度こそまったき同一になり、世界は崩壊する。そこから大樹と時津 茜による世界の再生、創造が始まる。
大樹と時津 茜に与えられたのはそういう力だった。
世界を滅ぼし、一から作り直してでも時津 茜と一つに成ることを望むのか。
大樹に突きつけられた問いはつまりそういうことだった。
それは、一人で負うには重要すぎる選択であると言えた。
大樹は迷った。そして、問い掛ける。
「君はどうしたい?茜?」
「そう、それが、正解」
大樹が問い掛けた瞬間、空間が捲れ上がるように変容した。
成層圏と宇宙の境のように清冽で静かな空間が生まれ、急速に拡大して大樹の視界の彼方まで広がって行く。
大樹は、自分の身体が赤く発光するのを感じた。
存在が空間に溶け出す。
大樹はそして、自分が『世界』と同一な物であることを自覚した。
同時に、巨大な存在がすぐ近くにあることも感じる。
「茜…」
いや、それは既に時津 茜ではなかった。時津 茜と同一である『世界』。その存在であった。
しかし、それはやはり時津 茜であった。
大樹は、ようやく理解する。
一見、この状況は先日の世界崩壊と同じことであるように見える。しかし、一つの点で違う。
大樹はまず何よりも先に自分の『世界』と融合した。前回は二つの『世界』が大樹と時津 茜という『意志』を持たずに融合してしまったのだ。
まず『世界』と一つになり、それから時津 茜と合一する。
それが、二つのまったく違った『世界』を溶け合わせる唯一つの方法だったのである。
その触媒となるのは、二人の愛。
本来まったく違った性質を持つ、他人の男女という存在が一つに成るために使われるの愛という感情が『世界』を溶け合わせるために必要だったのである。
大樹が、一方的に時津 茜を望んだのでは駄目だ。大樹の問い掛けが切っ掛けになったのはそのためだ。二人が共に望まなければ、それは生まれない。
「大樹」
「茜」
「どうするの?」
「どうしたいの?」
二人は語り合う。
既に『世界』は二人の内にある。『世界』を崩壊させることの恐怖、造り替えることへのためらいは既に無い。
大樹は手を伸ばす。もちろん、肉体的にではなく感覚的に。すぐそこに時津 茜がいる。
望むなら、今にも融合出来るだろう。
彼女と出会って以来、そのことをずっと望んできたはずだった。
しかし、大樹には躊躇いがあった。
何故躊躇うのか。
そして、同じ様な躊躇いが時津 茜にも見てとれた。
「『一つ』になったらどうなるの?」
「消えてしまうの?あの、消えてしまった転校生のように」
「元には戻せないの?」
「『一つ』になったら、まったく違う物に変ってしまうのだもの。元に戻しても、それは違う世界よ」
「僕は、君と『一つ』になりたい」
「あたしも、あなたと『一つ』になりたい」
子を生すように。
それは恋人達の、当然の求め。
しかし、大樹と時津 茜は躊躇する。
その究極の願いが成就した時、大樹と時津 茜は世界を消滅させ、創世を行なう存在となる。
「それは、あたしたちなの?」
「それは、僕たちなのだろうか」
入江 大樹という人間、時津 茜という人間にそんな事が出来る筈も無い。世界を融合させた瞬間、大樹と時津 茜という人格は消滅して、彼らもまた新しい何者かに生まれ変ってしまうのだろう。
それは、自分と、相手を失ってしまうことなのではないだろうか。
そう、それが二人に躊躇を生んでいた。
なぜ『泉』と『鍵』が存在するのか。
研究者の多くはそのことにあまり注意を払わなかった。彼らにとってはその超常の力の原理を説き明かすし、利用法を調査することの方が優先されたからである。
なぜ存在するのか。泉が繋がっている別次元とは何か。何故次元を繋ぐ壁に穴が空くなどということが起こるのか。
マリ達はある仮説を立てた。
『世界』は、初めは点であった。それがビッグバンと同時に急激に膨張を始める。同時に、他の『世界』も膨張を始める。そして、膨張した世界が隣り合った世界と接触する。始めは少し、それはやがて押し合うように膨張し合う。遂には、シャボン玉がそうなるように、融合して一つの大きな世界に成る。
『世界』はそうして様々な世界と融合しながら膨張を続けている。
『泉』と『鍵』は、世界同士が融合しようとしている兆しである。それがマリ達の仮説だ。『泉』は『向こう側』から『鍵』は『こちら側』から働きかけ、世界が上手く溶け合うように準備をする。そして、最終的には大樹と時津茜のような『世界』の代弁者が現れ、世界がスムーズに融合するように導く。
そのような事前準備が行なわれる理由は、一つに成った衝撃で『世界』が両方弾け飛んでしまう危険があるからである。つまり、マリ達のような『鍵』たちは『泉』の力を行使することによって『向こう側』の要素を『こちら側』に引き込むという行為で、二つの『世界』の違いを中和することで、知らず知らずの内に『世界』の融合に協力させられていたのである。
この仮説に則って言えば、大樹と時津 茜ですら『世界』の生み出した道具であるということになる。マリ達が彼らを『神』ではないとしたのはこのためだ。
しかし、この仮説には一つの弱点がある。
それは『世界』が融合する最終段階で、大樹と時津 茜の『意志』に全てが託される、ということである。彼らの『意志』が『世界』の『意志』と相反した場合、世界はやはり融合出来ない、もしくは二つとも崩壊、消滅してしまうのではないか。
大樹と時津 茜は、お互いが消えてしまうことを恐れた。
故に、世界を融合させることを躊躇した。
しかし、同時に理解もする。
自分たちが行なわなくても、既に『世界』と『世界』を隔てる壁は限界なのだということを。無自覚に、コントロール不能の状態で『世界』を融合させては、『世界』はバランスを失い、他の多くの『世界』を巻き込んで消滅するだろう。
『世界』の『意志』として、それは容認できない事であった。それに、そんな事態が起これば、大樹と時津茜もただでは済むまい。彼らとて『世界』の中の存在であるのだから。
二人は、触れ合いながら迷っていた。
二人の出会いが運命であるのは間違い無い。地図や棺、紋章は、それ自体には何の意味も無い。ただ、二人をどうしても出会わせるために、大樹を時津茜の元へ導くために存在したのだ。
二人に負わされた役目のためには『意志ある者』である必要がある。大樹が時津 茜に辿り着くように導くために『世界』の総意と言えるようなものが、様々なギミックを用意したのも事実だろう。
しかし、それだけでは足りないのだ。
大樹と時津 茜は恋に落ちなければならないのだ。お互いを求めない二人では『世界』を導く事は出来ない。しかし、それを『世界』は強制する事は出来ない。意味が無いからだ。
大樹と時津 茜を出会わせた後『世界』は二人の選択を待つ。その選択の中には二人の愛が成就せず『世界』が崩壊する可能性が多分に含まれていたのである。
大樹が言う。
「始めよう」
「いいの?」
「どのみち、このままではいられないよ。それならば、選ぶ事は自分たちが選んだ方が良い」
『見る』ということに意味はないのだろうが、大樹は目をこらして時津 茜を見ようとした。彼女が、浮かんでいるのが見える。燐光を放ちながら、緩やかに回転する美しい肢体。大樹は思わず笑った。
「なに?」
「僕たちの恋愛は出鱈目だね」
「?」
「人間的に考えるとさ」
「ああ、そうね。普通じゃないかもね」
時津 茜も笑った。
「次は、普通の恋愛をしよう。普通に出会ってさ、普通に愛し合おう」
「そうね、それも楽しいはずよね」
二人は笑い合いながら虚空に螺旋を描きながら踊る。
「一つに成ろう。それは僕らが望んでいた事なのだから」
「溶け合うように。重なるように。それこそがあたし達の…」
二人の影から光が生じ、そして、全てが分解した。
朝の通勤通学ラッシュ、というものがあるらしい。
しかも、同じ日本。距離にして百キロメートルも離れていない日本国の首都では、人間をすし詰めにした列車が毎朝二分間隔で、引っ切り無しに走っているのだそうだ。
実物を見た事が無いのだから、いまいち信じられない。
入江 大樹は寒さで赤くなった鼻を擦った。
彼が通学に使っている路線では、通勤通学時間帯であろうとも、座れないほど込み合うことなどまず無い。座れないことが無い訳ではないが、それはBOX席で赤の他人と対面で同席したくないなどという贅沢を言った場合か、降り口が階段に近い車両に乗っていた時に限られる。
発車間隔は、最も詰まっている時で二十分間隔。真昼の一番開いている時なら一時間に一本となる。
これでも、東京まで新幹線で通勤している人もいるくらい、実は首都圏に近い。それでもこれだけの差が在るのだから、思ったより日本は広いのかもしれない。
大樹はその日、いつもよりも一本早い電車を待っていた。いつもは遅刻ぎりぎりの列車に乗るのだが、英語の宿題プリントを学校に忘れてしまい、それを早出して片付けるつもりだったのである。
見事に一面、霜で真っ白になった殺風景な駅のホーム。大樹はいつも電車を待つ位置に立った。吐く息が白い。ブレザーの上にコート、首にはマフラー、腹と背中にはカイロを忍ばせる。それでも足指の感覚が次第に薄れて行くような寒さである
雪が降るかもしれないな。大樹はマフラーに顔を埋めながら考えた。十二月であるから、もう雪が降ってもおかしくはない時期である。雪が降ったら、原チャリは使えないな。どうやって駅まで来ようか。雪が降って無邪気に喜べる時代はとっくに過ぎ、大樹にはウインタースポーツの心得が無い。
上り電車がやってくる方向を見る。線路はただただ真っ直ぐに伸び、最終的には消失点を向えて見えなくなる。線路を敷設した際の状況が忍ばれるような光景だ。その頃、この辺りは地平線の果てまで田んぼだったのだろう。まだ電車のライトは見えてこない。
大樹は視線を戻し、そして今度は反対方向へ向けた。
その動作自体に、何の意味も無かった。高校入学以来既に八ヵ月間、ほぼ毎日のように目にしている朝の駅だ。ただ、いつもより一つ早い電車なので、いつもより薄暗く、そしてホームで電車を待っている人も少ない。それが少し目新しかっただけだ。
だから、その時彼女を目にしたのは偶然に過ぎない。
ああ、同じ学校の生徒だ。
彼女が纏っている新船学院高等部指定のコートで、大樹は彼女が通っている学校を知った。初めて見る娘だった。
赤いマフラーだ。彼女の首に巻かれたマフラーの色が白い風景の中で鮮やかに浮かび上がっている。それに半ば埋もれるように、輪郭が風景に溶け込むほど白い頬。ただ単に後ろに流された、漆黒の長い髪。そして、こちらを見ている、瞳。
いつに間にか、大樹は彼女を見詰めてしまっていた。視線が吸い寄せられるのを止めることが出来ない。彼女の瞳。こちらを見ているその黒い瞳をひたすら見詰める。
麗凛とした顔立ちの少女。真っ直ぐ通った鼻筋と、意志の強そうな眉。マフラーに半ば隠れた薔薇色の唇からは白く染まった吐息が立ち上っている。
彼女も大樹を見ている。凍り付いた駅のホーム、五十メートル程の間隔を空けて、二人は見詰め合った。
電車が入って来た。ということは、随分長い間見詰め合っていたということである。風が舞って、彼女の髪を踊らせた。
大樹は、衝動的に彼女の方に歩き出しそうになった。
その時、彼女の姿が白く滲んだ。大樹は思わず視線を曇り空に飛ばした。雪だ。
降り出した雪は電車に煽られて複雑な螺旋を描いていた。大樹は一瞬それに目を奪われ、我に返って視線を少女に戻す。
瞬く間に強く降り出した雪のベールの向こう、辛うじて彼女が電車に乗り込む後ろ姿が見えた。
大樹も慌てて、電車に乗り込む。ドアが閉まり、電車は規則正しく揺れながら動き出した。
誰もいないホームに雪が舞うのが見えた。
新しい物語が、始まる。
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