三章、交感

 時津 茜は教室に入った瞬間立ち尽くした。


 教室の入り口方向から教卓方向を見る。左側の窓際2番目の机。そこに男子生徒が座っていた。


「そんな…」


 入江 大樹である。


「なんで…」


 時津 茜は思わず足を早めた。


「大樹君!」


 大樹は振り向かない。時津 茜は彼の横に立った。咄嗟に掛ける言葉を失う。


 大樹は時津 茜を見上げることもしない。あえて視線を黒板方向に固定しているような雰囲気がある。時津 茜は心臓が波打つような気分がした。


「…具合は?もう大丈夫なの?」


 ようやく振り絞った声は、掠れた。


 大樹は、昨日まで3日、学校を休んでいたのだ。


 都合4日前の放課後、帰る直前、教室を出ようとしていた時、大樹は突如絶叫し、そのまま昏倒した。彼は保健室に運び込まれ、2時間に渡って目を覚まさなかったのである。大事をとってその日は担任の教師が車で家まで送って行った。


 その日以来、3日。彼は体調不良を理由に学校を休んでいたのだった。その間、時津 茜には連絡一つなかった。時津 茜は携帯電話を持っており、大樹もその番号を知っている。連絡を取ろうと思えば簡単に出来た筈だ。


 倒れた日に、既におかしくはあった。時津 茜はもちろん気を失っていた大樹から一秒たりとも離れることなく看病し、目を覚ました瞬間にも彼の傍にいた。しかし、無事を喜ぶ時津 茜に対し、大樹は一種形容しがたい表情を見せた。そして、何が起こったのかを尋ねる時津 茜の言葉に一切返事をしてくれなかったのである。


 そして今日、大樹は学校に出てきた。一人で。


 時津 茜といつも待ち合わせていた電車に乗らずに、先に一人で学校に来てしまっていたのである。それは時津 茜にとって十分不審と不安を感じさせる行為だと言えた。


 時津 茜の声に、大樹は固い声で返事を返した。


「ああ、心配掛けて済まない」


 しかし、時津 茜の方を見ようともしない。


 時津 茜の背中に戦慄が走りぬけた。彼女の信じていた大事なことが崩れ落ちてしまうような感覚。信じられなかった。信じたくない。


 まだ、きっと具合が悪いだけなのだ。きっと早く来たのもそのせい。もう少し元気になれば、すぐ元の大樹君になるに違いない。


 時津 茜は必死にそう思い込もうとした。




「『泉』周辺の空間屈曲率が急上昇しています」


「まずいですな。なにかしら物理的な影響が出るかも分かりません」


「開扉無しで?」


「通常、開扉しなければ別次元のエネルギーは『泉』を通過しません。しかし、あの『泉』は特殊かつ強力な『泉』です。もしかしたら何かの拍子に暴走してしまうかもしれません」


「暴走?」


「暴走、よりは決壊の方が分かりやすいかと」




 時津茜は恐れていた。大樹を失う事を恐れたのだ。


彼女は、自分の氏素性を知らない。覚えていないのだ。推定年齢10歳くらいで保護され、時津神社宮司に引き取られた。それから、僅か6年。彼女にある人生はそれが事実上の全てだった。


養父母は心配性なくらいに優しく、彼女に自分が拾い子であるという思いを抱かせないほどだった。学校に通い、交友関係を広げ、彼女は新たに「時津茜」という人物と社会を新に築き上げた。


しかし、彼女は時折、莫大な喪失感に襲われるのだ。


6年前以前の自分。一切思い出せないそこに、一体何が有ったのだろうか。


それを思うとたまらなくなるのだ。友人達が何気無く話す幼少時の思い出。そのころ流行した遊び、歌。そんな誰しも当たり前に持っている記憶が、彼女には無い。


しかし、それはもう諦めるしかないものだった。時津 茜は、自分の記憶が絶対に戻らないであろう事を、何故か確信していた。


彼女は代わりに、今ある自分と自分の周りを大事にするようになっていた。この一時を、一瞬を大事に大事に積み重ね、失った時の代わりにしようとしたのだ。


時津茜が優等生であるのはそのためだった。彼女は何事にも尋常ではないほど真剣に取り組むのだ。今、この時を本当に大事なものであると思うが故に。


反面、彼女は失う事を恐れるあまり、八方美人を演じることにもなった。そう、女神の如く万人に等しい微笑を振り撒き続けてきたのだった。出来た友人、それ以外の自分に関係がある人々を失いたくない。嫌われたくない。だから、彼女は全ての人を嫌わず、差別せず、そして、逆に言えば心の底から愛する事も無かった。失った瞬間の喪失感を恐れるがあまり、愛する事を無意識に避けてきたのだ。


その彼女にとって、初めての特別が、入江大樹だった。


それは、まったくコントロール出来ない感情だった。一目見た瞬間から、彼のことが頭から離れなくなった。ごく平凡に思える容姿。印象に残る事が特にあった訳でもない彼の姿をただ見掛けただけで、彼女は恋に落ちた。


いや、恋だと理解していた訳ではない。単純に異常に気になる存在が現れたという感覚があるだけの事であって、それにぴったり来る言葉を探したら「恋」になっただけの事だった。あるいはもっと違った表現があるのかもしれない。


2年生になり、隣り合わせの席になった。それは、安っぽい言葉を使えば、運命的な物を感じさせずにはいられない出来事だった。同時に彼女はやはり恐れた。「特別」を感じる事を恐れ、大樹と普通のクラスメートの関係を保とうとしたのだ。それは、上手くいきつつあった。


しかし、あの瞬間。何の気なしに触れ合った指先から、彼女の世界が変容した。


それは、凄まじい感覚だった。あの瞬間、彼女は自分の事がより深く理解出来たような気がしたのだ。6年前からしかない、底の浅い自分の記憶よりも更に奥底の部分。自分という人間の本当の部分に手で触れたような、そんな感覚。


手を伸ばせば、届く。そこにそれは有るのだ。彼女はそれが理解出来た。「扉を開くのに必要な鍵」それが、入江大樹だということも、彼女は理解した。


それは同時に恐怖を呼び起こした。本当の自分。6年間大事に積み重ねてきた「自分という人間」ではない本当の自分を見付けるということは、今現在ここに在る「時津茜」という自分を否定してしまうような気がしたのだ。彼女は大樹との接触を避けた。


だが、時津神社での邂逅は、彼女から嘘を剥ぎ取った。そう。彼女は押さえる事が出来なかった。大樹の事がどうしようもなく気になる自分の気持ち。大樹と関わればきっと明らかになると確信出来る、本当の自分を知りたいという気持ち。それが結局は彼女を突き動かした。


その「大事な鍵」が失われようとしている。彼女が何よりも恐れた新たなる喪失が起ころうとしている。時津茜にとってそれは許容出来ない事だった。


彼女は、強く念じた。


失いたくない。そのためには、あらゆる犠牲を厭わないと。




大樹は恐れていた。彼は今更ながらに気が付いたのだ。


自分が何かとてつもない、非現実的な事象に巻き込まれつつあることに。


消えてしまった転校生。彼がなぜ消えてしまったのか。彼には分かったのだ。そう、彼は実験だと言った。それは多分、時津茜という『泉』がどこに繋がっているのかを調べるための実験だったはずだ。そして彼は失敗し、呑み込まれた。どこか違う次元へと。


 大樹はこれまでに何度と無く彼女に触れた。しかしながら、彼は『泉』の中に吸い込まれてしまうようなことは無かった。マリたちの話では幾度も『泉』の『扉』を開けたらしいのに。あの転校生に出来ないことが自分には出来たのだ。何故か。


 それは、大樹もまた特別な『鍵』だということではないのだろうか。


 大樹にはそれを裏付ける記憶もあった。そう、あの6年前の記憶。時津 茜を掘り出したのは、いや、多分この世の中に出現させたのは、大樹自身だったのだ。


 出来過ぎた偶然には、必然性を疑うのが当然だ。たまたま発見した宝の地図。たまたま掘り起こした少女、たまたま隣に座っていた少女、そしてたまたまその少女があの棺桶の少女で、『泉』で、自分は『鍵』。これは全て偶然なのか?


 偶然だと強弁することは簡単だ。しかし、必然性を疑えば全てが一つの道筋に繋がるのだ。その最後のピースが消えた転校生だった。


 あれは、おそらく拒絶反応だ。時津 茜はあの転校生が自分の扉を開扉することを無意識に拒否したのだ。なぜ、拒否したのか。


 そう、時津 茜を開くことが出来る『鍵』はおそらく大樹だけなのだ。なぜなら時津 茜をこの世に現出させたのは他ならぬ大樹であるからだ。大樹だけが時津 茜の『鍵』であるからこそ、大樹は彼女を掘り起こし、再会し、そして扉を開いたのである。


 大樹は恐れた。単に300万人に一人の『鍵』というのであれば、彼はさして希少性のある「特別」ではない。気に入らなければ幾らでも他に押し付けることが出来る。しかし、マリや転校生が「特殊な」と強調するほどの『泉』である時津 茜を唯一、開扉出来る『鍵』ともなれば、それは生半可な「特別」ではなくなるだろう。


 大樹は自分が知っている以外の自分を恐れ、それによって今まで信じていた現実が変容することを恐れた。そして、それをもたらす者としての時津 茜を、恐れた。




 ホームルームが終了した。


 一緒に帰ることを積極的に拒否する訳でもなかったが、大樹はあえて時津 茜を無視するかのように立ち上がった。無言で、時津 茜も立ち上がる。


 教室内の注目が一気に集中した。この日の朝から彼らの様子がおかしいことはもはや周知であり、その動向を気にしない者は一人としていなかった。女子生徒のほとんどは大樹の態度に憤慨している様子を見せており、男子生徒に至っては大樹に対して殺意の篭った視線さえ向けていた。ただし、本人たちは各々の理由でそれどころではなかったのでまるで気が付いてはいなかったが。


 いつもと同じ帰り道だ。門から出て、バス停へ向かう。以前なら並んで歩くところを、大樹が前、時津 茜が少し遅れて続く。


 大樹の思考は千路に乱れていた。大樹は、時津 茜のことが嫌いになった訳では無かったのである。ただ、これ以上彼女と関わると、なにかとんでもない事に巻き込まれそうな気がして恐ろしかっただけなのだ。故に、彼はこの時彼女に対して意図的に冷たい態度をとっていたという訳ではない。単に彼女が恐ろしくて怖がっていただけのことだ。


 しかし、そんなことは時津 茜には分からない。大樹がいきなり冷たい態度を見せるようになった。その事実だけがある。


 彼女が短気な少女であれば、この大樹の意味不明な態度に激怒し、彼を詰るか、彼を振って去ってゆくかするに違いない。しかし、あいにく時津 茜は我慢強く、そして大樹のことが本当に好きだった。彼を失うという恐怖に苛まれながら、ただ彼の後ろに続く。


 バスの停留所は学院の生徒で溢れていた。生徒会役員の当番の誘導に従い、順にバスに乗り込む。あいにく座ることは出来ずに、二人は並んでつり革に掴まった。時津 茜が、こっそり大樹のことを見上げる。


 大樹は窓の外に視線を固定している。時津 茜は溜息を吐いた。彼の考えていることが分からない。先日までは思いを重ねていたと感じていたのに。


 と、その時バスが大きく揺れた。


 あ、と思った時には、時津 茜は大樹にぶつかっていた。


「あ」


 大樹の声が聞こえた。彼の手が、彼女の肩を咄嗟に押さえて転倒を防いだ。


 優しい手だった。時津 茜は大樹を振り仰ぐ。


 今日、初めて視線が合った。


 ごく自然に時津 茜を心配する表情。彼女の知っている、よく知っている大樹の表情だった。


 その表情を見てしまって、時津 茜の中で何かが溢れ出した。




 眩しくない光が、目の前で炸裂した。と、大樹には感じられた。


 その瞬間、音が消え、あらゆる物が消え、地面の感触さえ消失する。


 ただ、時津 茜の姿のみが目の前にある。


 大樹が肩を掴む姿勢で向き合う二人。その時はまるで意識していなかったが、二人は一糸纏わぬ姿同士としてお互いに知覚されていた。


 視線が絡み合い、大樹は時津 茜の瞳、内部に炎の篭った黒い宝石であるかのような彼女の瞳の奥をまともに覗き込んでしまう。


 それはまるで頭の中が直結したかのようであった。


 奔流の様に、大樹の頭の中に「時津 茜」が流れ込んでくる。彼女という存在。それがいろいろな波長を放つ光と音を伴って大樹の中に流れ込んでくる。


 苦痛はなく、逆に何か不思議な開放感が大樹を包んだ。


 その快感に身を委ねる。


「・・・!」


 その時大樹は、彼という存在のどこかで、何かが「開く」のを感じた。


 何かが開き、そして、その向こうから光が差してくる。


 その強烈な光は瞬く間に視界を真っ白に染めてゆく。まぶしい。大樹は思わず目を閉じ・・・。




 唐突に戻った。


 いつもの通学バス。大樹は時津 茜の肩を押さえた姿勢で立っていた。彼女の服装はもちろんブレザーの制服。


 大樹は思わず生唾を飲み込んだ。


 今、確実に何かが起こった。これまでとは違った何かが。一体何が起こったのか。大樹には知る術が無い。


 時津 茜も呆然としている。大樹を見上げ、震える声を発した。


「ね、ねえ、大樹君、今・・・」


 大樹は答えず、無言で彼女の肩から手を離すと、再び窓の外に視線を向けた。つり革に掴まった手が、小刻みに震えている。




「何が起こったのか、前例が無いので推測になります」


 マツは難しい顔をしながら言った。


「大規模な開扉が生じたことは確かなようです」


 マリは常日頃から険しい眉をむやみに逆立てながら黙って聞いている。


「しかし、そこから溢れたエネルギーは『鍵』に吸収されてしまったようなのです」


「なんだそれは」


「つまりですね『鍵』側で逆開扉のようなことが起きたと考えられます」


 髭の男コウジは黙ってしまった。


「『鍵』に扉があるなど聞いたことないわね」


 平凡な中年女性といった風貌のエリも理解不能というような表情を見せている。


 この面々、マリ、マツ、コウジ、エリは全員『鍵』だった。全員が『泉』を持ち、各々開扉を何度も行い、その感覚と効果を熟知していた。彼等はその経験と研究によって『泉』と『鍵』によって起こる現実変容のメカニズムをかなりのレベルで解析出来るようになっていたのである。彼等の車に積まれた様々な計測装置はその成果だった。


 その彼等にとって、時津 茜という『泉』そして、入江 大樹という『鍵』は、今までの研究を台無しにし兼ねないほどイレギュラーな存在だと言えた。


「つまり、あの『鍵』はただの『鍵』ではないと?」


「おそらくは。ただ、それが初めからそうだったのか、それとも『泉』によって変えられてしまったのかは分かりませんが」


「それにしても、不思議な話ね」


 エリが首を傾げる。


「『鍵』にエネルギーが吸収されてしまったということは、あの『鍵』も別の次元に通じているということなのかしら」


「通常『鍵』は『泉』を開くことが出来るという以外はまったく普通の人間と変わらないはずです。あの『鍵』もデータを見る限りは他の『鍵』と変わらないように思えるのですが」


「いずれにしろ」


 マリがツインテールを揺らしながら頭を振った。


「あの『泉』と『鍵』が何をしでかすかに注意を払う必要があるわ。あの力は常軌を逸している。あたしの勘だけど、なにかとんでもないことが起こりそうな気がしているの…。」




 大樹と時津 茜は電車を降りた。


 殺風景な、田舎駅のホーム。二人は降りてから、しばらく、待った。


 他の人々がホームから連絡橋を渡り、改札口へと消えてゆくのを並んで立ちながら、待つ。


 若葉が萌ゆる、初夏。空気は霞み、日差しは柔らかい。


 バスの中から延々と続く沈黙。大樹はもとより、時津 茜の方もまるで言語能力を喪失したかのように沈黙している。何かを言いたげな、焦燥感を感じさせる沈黙ではなく、完全なる沈黙だった。


 ホームから誰もいなくなると、二人はお互いに向き合った。


 静謐な表情だった。お互いに、お互いをそう思って見た。


 大樹は、時津 茜のその表情を見て、彼女から告白されたあの時に感じたような、諦めに近いような気持ちを覚えた。


 時津 茜は、大樹の表情を見て、自分の想いが間違っていないという確信を得た。


 大樹は、認めた。時津 茜と自分はただの人間ではないらしい。


 自分と彼女は、現実を変容させることが出来るらしい。


 それが事実であると、認めた。


 時津 茜は、安堵していた。


 大樹は、自分のことが嫌いになってしまったわけではない。そう確信できた。


 彼女にとってはそれで十分だった。


 その上で、大樹が何かを恐れていることも分かった。そしてそれが、先程バスの中で起こった、いや、最初に大樹と触れ合った時から断続的に感じていた、あの不思議な感覚に関係していることも理解したのである。


 大樹は何かを知っている。そしてそれが恐れを呼んでいる。それが分かった。


 しかし、それは時津 茜にとって重要なことではなかったのである。彼女にとって、重要なのは大樹が自分を嫌ってはいないという事実であった。彼が自分を嫌わなければ、自分は彼を失わないで済む。彼を失わなければ、自分はなんだって出来る。その自信が、彼女の表情に落ち着きを与えていた。


 大樹が観念したのは、時津 茜のその想いが分かってしまったからである。彼女の表情を見てそれが分かった。彼女は、自分たちに何かとんでもない秘密が隠されていたとしても、意にも介すまい。そんなことは自分たちにとって重要ではない、というだろう。


 大樹にはそれが分かった。故に、彼もある種の答えを出すことを強いられた。


 彼女と別れて、現実に復帰するか。


 それとも、彼女を選んで現実から乖離するかである。


 まだ、今なら選ぶことが出来るかもしれない。彼女と離れ、ただの人間として暮らす。時津 茜という特殊な『泉』と離れて暮らせば、ただの『鍵』である自分が一人で現実を変えてしまうことは無いだろう。


 時津 茜を選んだなら。大樹と彼女はある役割を果たさなければならなくなる。


 それは「現実を変容させる得る者」としての役割である。


 自分たちは『泉』と『鍵』として、現実を「変容させなければならない」だろう。


 大樹はそのことをこの時、おぼろげながら感じていた。確信を得るには彼の知っていることは余りに少なかったのだが。


 大樹は逡巡した。時津 茜は目の前で微笑んでいる。


 長い髪。麗しい白い輪郭。桜色の唇。そして光を浴びて輝く、大きな二つの瞳。


 結局、大樹は、人間として、男として、答えを選んだ。大樹は『鍵』である前に一人の少年であり、時津 茜は『泉』である前に一人の少女だった。マリや消えてしまった転校生には違う意見があったろうが。


 大樹は、そっと時津 茜の頬に手をやった。


「ごめん…。茜…」


 初めて名前を呼んだ。時津 茜の手が、大樹の手を包むように握り、自分の頬から離れないようにする。


「ん…、分かってる。分かってるよ大樹…」


 しかし、静かに閉じた両目から、一滴の涙が流れ落ち、彼女の安堵を表す。


 大樹はもう一方手も彼女の頬にやった。


「…ねぇ、茜?」


「ん?」


「君に、教えておかなければならないことがあるんだ」


 大樹は、静かに自分の顔を時津 茜の方に近づけてゆく。


「僕は、君を知っていた。ずっと前。そう、6年前から…」


「え…」


「僕が君を探し当て、君をこの世に掘り起こした。でもきっと、それは君が僕のことを呼んだからだと、思う」


 時津 茜の瞳。揺れ動く炎のような輝きを内包する黒い瞳が至近から大樹を見詰め、問う。


「よく分からないよね。ごめん、もうそんなことはどうだっていいんだ…」


 大樹は、更に顔を近づける。囁くように言う。


「茜、目を閉じて」


 その言葉が何を意味するのかを知って、時津 茜は頬を染めた。そして、ことさらゆっくり目を閉じる。


「『あなたのことが知りたい』と、強く念じるんだ」


 そして、大樹は自分を縛っていた最後の鎖を解き放つ。それは、平凡で平和な現実に別れを告げる行為だった。


「きっと、それで分かる…」


 大樹は最後の一瞬、自分も瞳を閉じ、強く念じた。『時津 茜のことをもっと知りたい』


 時津 茜の唇に大樹の唇が、接した。




 それは、ただ温かな世界だった。


 単純に満たされた感覚があり、お互いの温もりがあった。触れ合った唇、手、頬。そこから温かさが広がって、いつの間にかその温かさが互いを結びつけ、溶かしあった。


 二人はいつの間にか互いに浸透し、一つになる。


 その中で何かが開く。


 何かがあふれ出し、一つになった二人を包み込んだ。




 目を開けた時、そこには時津 茜の潤んだ瞳があった。


「ずるいよ、大樹」


 彼女はいきなり大樹の頬に手をやって、その頬を軽く摘んだ。


「わたし、初めてのキスにはいろいろ想像していたことがあったのに!」


「なに?」


 時津 茜は言葉を捜すように唸っていたが、結局わけが分からなくなってもう一方の手でも大樹の頬を抓った。


「こんなのってないわ!こんな初キス、全然思い出に残らないじゃない!」


 言っている意味が分かった。確かに、今二人はキスを交わしたのであったが、それ以上のことがその瞬間に起きたせいで、初キスという時津 茜的な大イベントが埋没してしまったのだ。


「ごめんごめん」


 大樹は微笑んだ。


「じゃぁ、もう一回」


「いやよ、ムードもなにもあったものじゃないわ!」


 時津 茜は大樹を押しやって身を翻し、踊るように二歩、三歩と歩を進める。


 その表情は澄み切った青空のように晴れやかだった。


 彼女には分かったのだ。知識としてではなく、感覚として。自分たちが、現実を変容させ得る存在であるということが。


 そう、自分と大樹が望めば、文字通りなんだって出来る。そのことが分かった。


 不思議と、戸惑いや恐怖はなかった。それは、大樹が既に恐れを克服したからなのであろう。大樹から流れ込んできた膨大なイメージ。そこにはもはや恐怖の色はなかった。


 大樹は選んだのだ。時津 茜と共にあることを。その上で求めた。時津 茜に、全てを知ることを。全てを知って「現実を変容する者」として共にあることを。


 時津 茜は、大樹に求められたことを自体を幸福に感じ、自分の力に戸惑いを感じ、しかしながら大樹が迷いながらも自分に真実を明かしたことについて、至上の喜びを感じていた。


「大樹!」


 時津 茜は叫んだ。


「わたし、幸せよ!」


「知ってるよ」


 大樹の方も、時津 茜から膨大な情報を受け取っていた。彼女の強い思いを自分の全存在で受け止めて、彼は眩暈さえ覚えた。これほど愛される資格が自分にはあるのだろうかと戸惑いさえする。


 しかし、彼が幸福を覚えていないと言ったら嘘になる。いや、彼女に真実を明かし、そして彼女がそれを受け止めて迷いを見せない今、大樹の心は軽くなっていた。そして時津 茜とより強く結びついたことを誇らしくさえ思う。




 大樹が自宅前でバイクを停めると、奇妙に貫禄のある少女、マリが待っていた。


「ちょっと来なさい!」


 先日のような強制力のある言霊では無かった。しかし、大樹は素直に従う。停まっていたワゴン車に乗り込むと先日と同じメンバーが大樹を出迎えた。


 マリは車に乗り込むなり性急に声を上げた。


「一体どういうつもりなの?」


「何が?」


「とぼけないで!『泉』に何かしたでしょう!」


「俺にそんな大それたことが出来ると思うのか?」


 大樹は自分が正直に思ったことを言っている。嘘ではない。別に口止めされた覚えも無いのだから、時津 茜に『泉』と『鍵』の力について伝えたことをマリたちに責められる謂れも無い。しかし、マツは渋い顔をして言った。


「入江君、ちょっとまずいことになっているのですよ」


 それは大樹には意外な台詞であった。彼はなんとなく一番重大な問題は片がついたと安堵していたところだったからだ。


「あなたの『泉』の周囲で、空間屈曲率がどんどん上昇しているのですよ」


 口ひげの男、コウジが言う。


「空間…、なんだって?」


「要するに、次元同士を隔てる壁ですね、これが歪んでいるのです」


「『泉』周辺では普通に空間屈曲が起こる。この歪みを観測して我々は『泉』を探すわけなのだが・・・」


「今までこれほど大きな歪みは観測されたことが無いのよ」


 口々に言われても、大樹にはよく分からないことばかりである。


「ああ、もう、にぶいわね!」


 マリが癇癪を起こした。


「いい、次元同士を隔てる壁が破れてしまいそうだ!って言ってるの!」


 それでも大樹にはマリたちの抱いている危機感が理解出来ない。


「それが?」


「いい?次元と次元の間には物理法則から物質の構成までまったく共通性が無いのよ?これが混ぜ合わさるようなことがあったら、何が起こると思う?互いに拒絶反応が起こって、カタストロフが起こるでしょうよ!」


「カタストロフ?」


「大破壊とでもいった意味ですよ。世界崩壊でもいいでしょうか」


 ようやく大樹にも理解出来た。しばし呆然とする。


「なんだってそんな…」


「始めは、あの『泉』の感情の高ぶりやストレスが空間屈曲を起こしているように見えたのですが…」


 マツが頭を抱える。


「先程、あなたと『泉』の間に大規模な開扉が起こってから、突然屈曲率が急上昇しだしたのです。しかし『泉』の様子を見るにつけ、ストレスがあるようには感じられない」


 大樹はやや顔を赤くした。見られているだろうとは思っていたのでショックは無いが、恥ずかしくて不快であることは変わらない。しかし、彼らは彼の感情に頓着している場合ではないようだ。


「いったいあなた『泉』に何をしでかしたの?」


「いや、彼女に『泉』と『鍵』について伝えただけだ。イメージで…」


 大樹も戸惑っている。別れ際の時津 茜の様子にはまったくおかしなところは無かったからだ。それどころか幸福そのものといったような笑顔を見せていた。


「それだけなの?じゃぁ、なぜこんなことになっているのよ!」


「俺が知るものか!」


「入江君」


 コウジが言った。


「このままでは世界が崩壊してしまうのだよ。何とかしなければならん」


「俺に何をしろというんだ」


「それが分かれば苦労は無い訳だ。しかし、一つだけ世界崩壊を防ぐために考えられる方法がある」


 大樹はいやな予感を覚えた。


「あの『泉』を消去してしまうことだ」


 大樹の背中に氷解が滑り落ちた。車内に重い沈黙が満ちる。


 空気が固形化してきしみ音が立つような時間が流れ、ようやく大樹は口を開いた。


「…そんなことをしたら、俺があんたらを許さん」


「分かっている、我々もそんなことはしたくない。逆効果ということもある」


「しかし、短絡的にそう考える組織がいてもおかしくない、ということは分かっておいて欲しい」


 マツが付け加える。


「…俺は何をすればいい?」


「あんたは、あの『泉』を守りなさい。余計な刺激を与えたらその瞬間に次元壁が崩壊するかもしれないから」


 それなら大樹に否やあろう筈が無い。大樹は頷いた。




「彼は信じたでしょうか」


「そうね。いまいち信じてはいない様子だったけど」


 マリは頭を掻いた。


「いきなり世界崩壊なんて言われて信じる方がおかしいわ」


「しかし、猶予はあまりありません。我々と同様の観測結果を得れば、短絡的に『泉』を消去しようと動き出す組織があってもおかしくはありません」


「空間屈曲の理由は本当に分からないの?」


「そもそも『泉』はこの次元にとってイレギュラーな存在です。その存在は時空に歪みを発生させます。それが空間屈曲率で表せられるわけなのですが、これは『泉』が出現してから力を失うまで、普通はほとんど変動しないものなのです」


「それが今回は大きく変動していると」


「『泉』が出現してから『鍵』と出会うまではまったく安定していました。それが『鍵』と接触してから徐々に増大し、今回の開扉でいきなり3倍か4倍に達しました」


「今回の開扉が何か特別だった?」


「異常な開扉であったことは間違いないところです。なにしろ、エネルギー波はものすごいものが観測されたのに、時空震はごく僅か。そして、現実改変はまるで起こらず、それに伴うひずみもありませんでした」


「目的のはっきりしない開扉?」


「そうです。現実改変を目的としない開扉だと言えます」


 マリは考え込んだ。


「通常、開扉は『鍵』が現実を変えたいと念じると発生します。その効果範囲は限定的なものです」


「そうね、漠然とした条件付けでは開扉は起こらないわ」


 例えば、目の前のものを動かそうとすると「それをどこまで移動させる」とまで念じなければならないのだ。漠然と「どこかに吹っ飛ばす」では条件付けが足りない。しかも『泉』の能力に応じて起こせる現実改変には限界がある。


例えば、マリは『泉』の力によって自分の身体的成長を止めているが、不死ではない。それが彼女の『泉』の力の限界であるからだ。


「ところが、あの『泉』の力はどうも無制限に近く、故に条件付けも無制限のようです」


 『泉』は、今世界がある3次元よりも更に上にあると思われる次元と繋がる穴である。そこを伝って漏れてくる高次元由来のエネルギーを使うと、高次元では普通のこと、しかし3次元では奇跡のような力が使える。それが『泉』の理屈だ。それゆえ『泉』が繋がっている次元が高次元であればあるほど大きな現実改変を起こすことが出来る。


 物理法則はおろか、因果律までを平然と改変する、あの時津 茜という『泉』は一体どのくらい高い次元と繋がっているのだろうか。そんな高次元と繋がっていた『泉』は他に例が無い。ましてや、意思を持ち『鍵』を選ぶ『泉』など前例が無いのだ。


「前回と今回、無意味な開扉で放出されたエネルギーは『鍵』に吸収されてしまったらしいのですが、それを説明できる理論が一つだけあります」


「なに?」


「『泉』と『鍵』が完全に一体化していたという可能性です。つまり、『泉』から生じたエネルギーは、一体化していた『鍵』を通してまた『泉』に吸い込まれたというわけです」


 マリは考え込んだ。なにしろ、前例が無いのであるから何もかもが仮説にしかならない。


「とりあえず、出来る事からやるより仕方が無いようね。『泉』の空間屈曲を観測しつつ『泉』を保護する。ついでに『鍵』の方も保護対象に」


「分かりました」




 大樹は、マリたちの話を聞いても、まったく深刻にはならなかった。


 彼にとって重要なことはもう済んでいたのである。つまり、時津 茜に真実を明かすこと。その上でお互いの気持ちを確かめること。


 それが終わった今、彼の心はすっかり軽くなっていた。


 往々にして恋人たちは、お互いの間に起こる事柄以外のことを些事だと判断してしまいがちなものである。大樹と時津 茜にとって、この時一番重要なことは、お互いが真実を知ってもなお、お互いが共にあるということだったのだ。それ以外のことは些細なことであった。それがたとえ世界崩壊に繋がることであろうとも。


 そして、大樹も時津 茜も既にこの時お互い確信していたことがあったのだ。


「二人が心から望めば、出来ないことなど無い」


 これも恋人たちが陥りやすい錯覚であろうが、この認識を共有している以上、自分たちを遮るものは何一つ無い、という開放感に似た感覚を二人は持っていたのだ。しかも、この二人の場合それは完全な事実でもあった。


 告白の日以来、大樹と時津 茜の関係は完全に修復され、学校中のトキツファンの面々を落胆させた。


 しかし、全てが同じであるという訳ではなかった。大樹からは時津 茜に対して時折見せていた遠慮や恐れが完全に消え、実に自然な態度で彼女に接するようになった。時津 茜の方も、大樹に対して自分の好意を必死にアピールするような部分が消えていた。長い付き合いの恋人同士、あるいは夫婦であるかのような雰囲気すら漂わせるようになっていたのだ。


 この結果、二人を取り巻くクラスメートの態度も変わった。


 トキツファンクラブは彼氏である大樹にお構いなく活動を始め、逆に大樹をファンクラブに加えようとまでした。確かに彼を味方につければファンクラブとしては何かと便利ではあろう。女子生徒もあからさまに大樹を邪魔者扱いし始める。「学校の外でなんぼでもいちゃつけるんだから、学校の中では時津さんは俺たちにくれ」とは飯塚の言だ。つまり、それまで大樹と時津 茜の間にあった微妙な緊張感が無くなった事により、二人の関係はクラスメートたちに完全に受け入れられたのだ。そのせいで逆に遠慮がなくなったのである。


 大樹と時津 茜は、言葉を交わすことが極端に少なくなっていた。


 二人で帰る道も、土日にデートする時にも、ほとんど会話は交わさない。必要が無いのだ。


 握り合った手、組んだ腕を通して、お互いの全てを交感する。言葉などよりもずっと多くのことが分かり合える。こんなことが出来るなら言葉は不要になるだろう。


 時津 茜も大樹を通して、自分が空間屈曲とやらを起こしているということを知った。しかし、彼女自身には何の自覚も無いのだった。


 そもそも、彼女は自分が『泉』という存在であるという自覚からしてなかった。大樹が漠然とだが自分が『鍵』であると認識できたのとその辺りが異なる。これは性格から来るものか、性別的な問題なのかは分からない。とにかく彼女は、自分に不思議な力があるということにあまり疑問を抱かなかったのだ。


 もちろん、実際に現実改変を起こすことが出来るということは確認した。大樹と簡単な実験を行ったのだ。


 ある交差点でふざけ半分に、替わったばかりの赤信号に向けて、


「青になれ!」


 と二人で念じてみたのだ。


 当然、一瞬で青信号に変わった。時津 茜が驚いたのは、周りの人々はその異常な出来事にまったく疑問を抱いた様子がなかったということだった。


 その時以来、二人は現実改変の力を振るうのを止めていた。あまり改変し過ぎると時空が歪む(意味はよく分からなかったが)というマリの忠告を受け入れたのだ。二人が接触している時は常にシンクロ状態であるようなものだったから、二人でいる時に現実に介入してしまうようなことを考えないようにすればそれで済んだ。


 時津 茜は『泉』の力を便利であるとは感じていた。何しろ、大樹と強く分かりあえる。しかし、それ以上のことは何も感じなかった。別に自分の力に恐れをなすこともなかったのである。大樹といれば何だって出来る。これは完全なる事実であるが、例え自分たちに不思議な力がなかったとしても、彼女はそう確信することに躊躇しなかったであろう。


 彼女にとってもやはり重要なのは大樹と全てを共有しているという、この満足すべき状況であったのだ。それ以外のことは、それが世界崩壊という大問題であろうとも、些細な出来事としか感じられなかったのである。


 二人の認識がこの程度であったからには、彼らが彼らを観察している者たちが抱いた深刻な危機感を理解することなど不可能なことであったのだ。






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