二章、『泉』と『鍵』
いつもより一本早い電車に乗るには、いつもより二十分、早起きする必要があった。
そろそろ春から初夏に季節は移ろうとしている。今はいいが、冬は寒いだろうな、と、大樹は思った。バイクを自転車置き場に停め、改札口へと急ぐ。
戦後すぐに建てられたというおんぼろ駅舎。この時間には駅員もまだいない。無人の改札を足早に潜ると、左右を探した。
「大樹君!」
その声はホームに入ってすぐのベンチから聞こえた。すらっとしたシルエットが立ち上がる。
時津 茜が朝日を浴びながら、朝日に負けないような笑顔を見せていた。
「ああ、分かったよ、友情なんてそんなもんだ、ああちきしょう」
今日から一本早い電車で学校へ通うことにする、と電話で伝えた時、飯塚はやけっぱちな声で言ったものだ。彼には悪いが、時津 茜に「大樹君と一緒に学校へ通いたい」と言われて断ることが出来る男がどこにいようか。
大樹は笑顔で応え、時津 茜の傍へと歩み寄った。
時津 茜の家である時津神社の方が、大樹の家がある駅近郊の住宅地よりも駅から遠い。彼女は毎朝、義母に車で送られて駅まで来る。本来なら大樹のほうが先に駅に来ることが出来るのであったが、義母に見られたくないという時津 茜への配慮から、大樹は発車時間ぎりぎりに駅に来る約束になっていた。程なくアナウンスが電車の到着を告げる。
「今日も座れるといいんだけどね」
大樹の手をしっかり握りながら時津 茜が微笑む。黒髪が入ってくる電車に煽られて、軽く舞った。大樹はその瞬間彼女と触れ合っている手を基点に、暖かいような、しびれるような波動が生じるのを感じる。
彼女とこうしていると、たまに感じるその感覚。素晴らしい快感を伴うその感じこそ、いわゆる恋の快感なのだろう、と大樹は解釈していた。
電車に乗り込むと、ボックス席が一つたまたま空いていた。二人は対面に座る。
時津 茜はサイドバッグから小さな銀色の水筒を引っ張り出した。ねじって蓋を取り、中身を注ぎ込む。
「はい」
ただの麦茶である。しかしながら、時津 茜が手ずから注いでくれた麦茶でもある。ファンクラブの連中ならば飲み干すのに1日掛けるかもしれない。大樹もありがたく受け取って、ゆっくり飲み干す。
その様子を満足そうに眺めていた時津 茜も、飲み終わった大樹からカップを受け取り、自分も一杯注いで飲む。
「一時間目はリーダーだっけ?」
「そうよ。ちゃんと予習してきた?」
「予習なんて初めからしたこと無いよ」
「えばるとこじゃないわよそれ。予習はやっとけば授業の理解も早いし、内容を覚えるのも楽なのよ?」
「そうかもね」
大樹は気の無い返事をした。成績がクラスでもトップクラスの時津 茜と、真ん中からちょっと下くらいの大樹とでは勉強に対する取り組み方と熱意が違うのは当然だ。
「そういえば、昨日の野球見た?」
「見た!勝ったね!」
時津 茜が興奮気味に言う。
「原田の逆転ホームラン!すごかったわよね!河野も最後はきっちり締めたし!」
「1回に点を取られたときはどうなるかと思ったけど」
「生野は立ち上がりは良くないから」
二人は共通して、とある在京球団のファンなのである。大樹にとっては意外なことに、時津 茜は熱烈なファンで、試合は欠かさずチェックしていた。
実は大樹は当初、どの球団が好きか?と聞かれれば、しいて言えばこの球団、という程度のファンでしかなかった。そもそも、中学生くらいから野球をほとんど見なくなっていた彼だった。サッカーの方が好きだったのだ。
しかし、好きな球団の名を聞かれて、その球団の名を上げた時の時津 茜がものすごく喜んだことから、最近では毎日試合をチェックするようにしていた。
困ったことに、二人は趣味の交錯点が余りにも少なかった。
大樹は基本的にはインドア派で、スポーツはほとんどせず、たまに釣りに行くくらい。ゲーム(特にRPG)が唯一の趣味と言っても良かった。TVで見るのはバラエティばかり。
一方、時津 茜は週一回スイミングスクールに通い、ジョギング、テニス、スキーが趣味という活動派であった。運動部に入部しないのは養父母の意向とのこと。TVゲームはほとんどしたことが無く、見るTVはニュースやトレンディドラマ。
この結果として、二人は見事に話が合わず、苦慮した結果ようやく発見した共通項が、好きなプロ野球チームだったのだ。
大樹としては、時津 茜のことを知るにつけ、余りにも自分と違う彼女が、よくもまぁ自分などを好きになってくれたものだと不思議な気分になるのだった。
電車が学校最寄の駅に到着すると、二人はホームに降り立った。一本遅い電車だと、ホームに下りるなり駆け出さないとバス停で大変な混雑に巻き込まれるのだったが、この電車ではそんなことをしなくても大丈夫である。
改札を潜る頃に、どちらからともなく握り合っていた手を離す。たまに、このあたりから学校の生活指導教諭が生徒たちの行動を見張っている可能性があるからであった。彼らの学校は数年前まで男女の教室が分かれていたほど、時代錯誤なまでに男女交際にうるさい。公衆の面前で手を繋いでいるだけで不純異性交遊よわばりされるかもしれなかったのだ。
大樹の両親は極めてその辺りには無頓着なのであったが、時津 茜の養父母はかなり神経質なのだという。彼女は養父母に対し過剰なまでに気を使っていた。それは自分を引き取り、育ててくれた彼らに対して絶大な感謝の念を抱いているからである。養父母に無用な心配を掛けることはまったくしたがらなかった。
朝の新船学院行きのバス停は、紺色一色に染まる。特にこの時間帯はほとんど学院の生徒しか乗らない。一本遅い電車で来ると、まごまごしていると遅刻してしまうために、我先に乗り込む生徒たちでバス停は殺人的混雑の様相を呈するのであったが、今の時間は幾分ましだ。素直に並べば普通に乗れる。
席が一つだけ空いていたので、時津 茜を座らせ、大樹はその横で彼女を守るように立つ。
県都一の大通りをバスは進む。この時間はまだあらゆる店が閉まっているし、サラリーマンたちも通勤途上だ。バスから見える通りの左右は閑散としている。無用に、車だけが混雑していた。
「あ、あれ、犬かしら?」
「ん?ああ、ほんとだ」
歩道に犬らしき影が走り抜けた。
「何だろう?コーギーみたいに見えたけど」
時津 茜は大樹の方を振り仰いだ。
「大樹君、犬は好き?」
「家に雑種を飼ってるよ。でも、俺は猫の方が好きだな」
「え~、猫なんて寝てるだけよ。家に一匹いるんだけど、おもしろくもなんとも無いわ。犬なら一緒に走って遊べるじゃない」
「一緒に走ったりしたら、引っ張りまわされて大変だよ」
「む~」
二人はこういうところでさえも既に話が合わない。ただ、時津 茜はそういうところも楽しんでいるようである。大樹は、たとえ相手が愛しい時津 茜であろうと、安易に話を合わせたり、嘘を付いてまで同調したりしようとしない。彼女は大樹のそういうところが好きらしかった。
バスを降り、朝だけ開いている北門から学校内に入る。
「新船学院」は全国有数の巨大校である。同じ敷地内に幼稚園から短大まであり、総人数は1万人。特に高等部は総勢5千人にも及ぶ。朝、校内のあらゆるところを同じ制服を着た生徒たち(男女の違いはズボンかスカートかだけだ)が埋め尽くす様は壮観というか異様な光景だった。
大樹と時津 茜のクラスが入っている校舎は北門のすぐ近くの古い建物だった。3階の教室に入るなり時津 茜が大きな声で言う。
「おはよう!」
「おはよう茜!」
「よ、今日も仲いいね二人とも!」
「あかね~!リーダーの宿題みせて~!」
かしましい声で女生徒が応える。一応大樹も挨拶をし、時津 茜と隣り合わせの席に座った。途端に、時津 茜の周りに女生徒が群がり寄る。
仕方が無い。大樹は苦笑する。何しろ、時津 茜はこのクラスのみならず、この学年の男女から信奉されている「女神トキツ」である。彼が独り占めできるものではなかった。大樹は席を立って清水の席へと歩いていった。
「よう」
「しっしっ!一人だけ幸せになって恥じないような裏切り者は来るな」
「おまえも早く幸せになれるように祈っててやるよ。それより『ドラゴンウイングⅡ』のアギラの島のダンジョンでさぁ…」
「どう?」
「今回の効果範囲は限定的でした。時空震はマグニチュード6から7のレベルしかし…」
「何?」
「事象原則に関係なく時空改変が起こるようなのです」
「なにそれ?」
「例えば、木や紙は燃やせるけど、コンクリートや鉄は燃やせないというようなものです」
「鉄は溶けるかもしれないけどね」
「あの『鍵』と『泉』が起こす時空改変にはそういう常識が通用しないらしいのです」
「…物理法則を捻じ曲げるってこと?」
「もっとひどいですね。今回の開扉を例に取ると、そこにいた筈の人間たちが『無かったこと』になっています。普通の『鍵』と『泉』ではそこまでのことは出来ないでしょう?」
「そうね、同じことをするにしても『その連中をどこかに飛ばす』ことくらいしか出来ないわね」
「『無かったこと』にされてしまった人間がどうなってしまったのかは分かりませんが、もしかすると存在ごと消されてしまっている可能性もあります」
「いなくなって、それでも誰にも気が付かれない?」
「そうです。我々は、時空改変を観測して、そこで何が起こったのかが分かる訳ですが、それ以外の人々、そばで見ていた者達にもまったく違和感を生じさせない消滅です。それどころか、因果のあった人々にさえ気が付かれないように改変されてしまうわけです」
「とんでもない力ね・・・。『鍵』にも『泉』にも自覚は無いようだけど」
「こっちとしても、開扉条件がもう少し絞り込めないと、手の出しようがありませんが」
「下手すると薮蛇になりそうだしね。分かった。継続観察」
「了解」
放課後、大樹と時津 茜は駅行きのバスを途中下車し、アーケード街へと向かった。
一応、この街で最も賑わっている繁華街のはずであったが、数年前から郊外のショッピングセンターに客を取られ、寂れつつある。それでも人通りは結構多く、賑やかだ。
「次はあっち!」
大樹は時津 茜に手を引かれるまま、アーケード街をさまよった。大樹の方はここにあまり用は無いのである。たまにゲームやCDを探しに寄るくらいか。しかし、時津 茜の方は、よくもまぁそう用事があるものだ、と思わせるほど、片っ端から店に顔を出してゆく。
携帯電話売り場で新機種を弄り回し、アクセサリー店で歓声を上げ、手芸店で毛糸を買い込み、古本屋で文庫本を立ち読み、スポーツショップでスニーカーを物色する。彼女はむやみやたらに楽しそうで、それを見ている大樹の方もそれはそれで楽しくはあった。
彼女のショッピングというより商店観光(あまり買わないからだ)が終わると、今度は大樹の主導でゲームセンターへ行く。時津 茜は優等生だけにゲームセンターになどほとんど入った事も無かった。逆に大樹の方はゲームがほぼ唯一の趣味である。
最初のうちは何が楽しいのかと首を傾げがちだった時津 茜であったが、その内お気に入りのゲームを発見した。いわゆる格闘ゲームである。最初に大樹と対戦した時に、手も無く捻られたのがよほど悔しかったのか、それ以来何度となく大樹に対戦をせがむ様になっていた。
「あ~!やられた!む~、大樹君、もう一回!」
「いーけど、何度やっても同じだよ」
「そんなことないよ!」
むきになった彼女もかなり可愛い。一度だけ、手加減して負けてあげたことがあるのだが、その時は時津 茜が目じりを吊り上げて怒った。それ以来手加減なしで、大樹が連戦連勝である。どうも時津 茜は、それはそれで嬉しいようだ。
バーガーショップで買い食いしながらアーケード街を抜ける。信号待ちをしながら、どちらとも無く手を握り合う。お互い、大分自然に相手の手を求められるようになってきた。
交差点の角に映画館の看板があった。映画のポスターを見ながら今度、時津 茜を映画に誘ってみよう、と大樹は考える。
すると、横合いからいきなり声を掛けられた。
「キャンペーンやってます!いかがですか?」
押し付けられるままに受け取ったそのチラシは、交差点に近いところにある映画館の割引切符だった。時津 茜も同じチラシに目を落としている。
「大樹君」
「時津さん」
二人は同時に声を掛け合う。
時津 茜が微笑みながら譲る。
「今週の土曜、映画行こうか?」
「これ?」
時津 茜はチラシを軽く揺らす。
「別にそれじゃなくてもいいけど」
「ううん、わたし、これ見たかったの」
「そう、じゃぁ、そうしようか」
「うん」
時津 茜は大げさなほど首を縦に振り、弾ける様な笑顔を見せた。
「驚きましたね、映画館がいきなり出来てしまいましたよ」
「誰も気が付かないのかしら」
「『鍵』と『泉』を含めて誰も気が付いていませんね。そういうことになってしまったようです」
「正気じゃないわね」
バスに乗り、駅に入る。
ホームに降りると、二人は並んでベンチに腰を下ろして電車を待った。自然と、お互いの肩を押し付けあう姿勢になる。
無言で、電車を待つ。
お互いの肩の暖かさが心地よい。なんとなく二人は無言で、しばらくそうしていた。
なんとなく、大樹は幸せを感じていた。ずっとこうしていたい、などと、考えた。
その瞬間、辺りのざわめきや電車の音が消える。しかし、二人は気が付かない。互いの鼓動のみに耳を澄まし、お互いのことだけを思う。
長い、長い、静寂と沈黙。
告白から、まだ一月と経ってはいない。しかし、その間に二人はずいぶん仲良くなった。知らなかったお互いのこともずいぶん知り合えた。そして、不分明なところもあった自分の気持ちも、確固としたものになっていたのである。
大樹は、時津 茜を愛していた。
時津 茜も大樹のことを愛していた。
そしてそれをお互いが認め合っていた。
幸福なことだ。満足感と共に大樹は思う。
「・・・電車、遅いね」
ぽつりと時津 茜が呟いた。そういえば、大樹が思った瞬間に時が動き出した。
電車のライトが向かってくるのが視界の端に入ってきた。
「今度は時間停止ですか」
「あたしたちも止められていたわけ?」
「そうです」
「普通の時空改変ではありえない規模の時間停止です」
「もはや計測装置では計りえないレベルの時空震が発生しました」
「むちゃくちゃになってきたわね」
既に、初夏だ。もう一週間もすると夏服に着替えることになる。日はずいぶんと長くなっていた。ホームに降り立った時、視界の端にはまだ夕焼けの名残が残っていた。
線路を渡る歩道橋の階段を上る。二人は無言だ。どうしても無言になってしまう。
歩道橋の中央で、二人は足を止めた。
「…じゃぁ」
「…うん」
歩道橋の中央で別れる、というのが二人で決めた約束事だった。迎えに来ている時津 茜の義母に、二人一緒でいるところを見られないための配慮である。
別に、永久の別れではないのだ。それどころか、12時間もすればまたこの駅で再会出来る。しかし、何故だかいつも感傷的になってしまうのだった。
握った手を離したくない。大樹と時津 茜は数秒、互いに逡巡した。
しかし、どうしてもその瞬間は毎日訪れる。
時津 茜が、ふっと、離れる。彼女の小指が、大樹の人差し指に一瞬絡んで、離れた。
「じゃぁ、また明日…」
軽く手を振った後は、迷いを振り切るように、振り返ることなく歩き、曲がって階段を下りてゆく。大樹はしばらく立ち止まったままだった。
最後まで時津 茜が触れていた左手の人差し指を、そっと握りこんだ。
「大体分かってきましたよ」
「本当?」
「ええ、普通の『鍵』と『泉』のように『鍵』の一方的な働き掛けでは同期が起こらず、開扉しないんです」
「どういうこと?」
「つまりですね『鍵』と『泉』の心理がシンクロした瞬間、同期が発生し、開扉するわけです」
「『鍵』と『泉』が同じことを望んだ瞬間にだけ開扉するってこと?ずいぶん面倒な仕組みになっているのね」
「『鍵』はともかく、特殊な『泉』であることは間違いありません」
「この半月の間に『泉』周辺の歪は明らかに拡大しています」
「あれだけ大きな時空震を連続で起こせばそうもなるか…」
「既に我々以外の組織もこの『泉』には注目しています。まごまごしていると先を越される可能性も…」
「…『鍵』に接触してみましょう。釘を刺しておく必要がありそうだから」
「了解」
大樹の家は、いわゆる新興住宅地の一角にあった。バイクを降りた彼を、女性の声が呼び止めた。
「こんばんは」
振り向いた大樹の視線の先に、一人の女性が立っていた。
女性というより少女に見えた。
年のころは十歳くらい。髪の毛を派手な金髪にし、それをダブルテールに結っている。やや険のあるきらいはあるが、顔の造作はそれほど悪くない。
服装は奇異だった。こげ茶色のスーツに身を纏っているのだ。小柄な格好に実に不釣合いに見えた。
彼女は迷い無く歩を進め、大樹の前に立った。
「直接には初めましてね、入江 大樹君」
大樹は目を瞬かせた。いったい何だ?
「迷子か?」
「くだらないジョークね」
少女は腰に手をあてて鼻で笑って見せた。子供にしてはふてぶてしい態度だ。
「こんなところで長話をする気は無いわ。『あたしに付いて来なさい』」
少女がそういった瞬間、大樹の四肢は自由を失った。
「なに?」
「『余計なことは言わなくていい』」
今度は声が出なくなる。
「!?」
少女は自分の言葉が起こした効果を確認すると、にんまり笑い、律動的に踵を返すと歩き始めた。大樹の足が強制的に動かされ、彼女の後を追う。
彼女の行く先に一台のワンボックスカーが止まっていた。後部スライドドアが内側から開く。少女がまた言った。
「『乗って』」
抵抗の余地も無い。大樹は両手両足を何者かにまるでおもちゃの人形のように動かされて、車の中に入らされた。
外観は単なる商用ワンボックスであったが、中身は実に妙な車であった。様々なモニターやメーターが車内壁面を埋め尽くしている。中には三人の先客がいて、それぞれの表情で大樹を迎えた。
「『しばらくじっとしていなさい』」
大樹は座席の一つに座らされた。少女は助手席に乗り込む。彼女が運転席を促すと、車は特に急ぐ様子も無く動き出した。
拉致された?大樹は余りの混乱に真っ白になってしまった頭の中からようやくその思考を拾い上げた。何のために?というか、俺はどうして少女の言うことに逆らえなかったのか?というか、一体どこへ連れて行く気なのだろうか。
「安心しなさい、とって食いはしないから」
少女の声に車内の大樹を除いた連中は笑声を上げた。
車は、田んぼの真ん中にある農協の倉庫の駐車場で停まった。
「『もういいわよ』」
その瞬間、大樹の身体は全ての自由を回復した。もっとも、車の中に閉じ込められているという状況ではおとなしくしているよりほかは無いわけだが。
大樹はあらためて車内に座る連中を見回した。
一人は先ほどの少女。運転席にいるのは壮年の男性で、クラシックな口ひげを生やしていた。大樹の隣にいるのは髪を真っ赤に染めた20歳前後の若者。大樹の後ろの席にはやや太った中年の女性が座っている。
見事なまでに統一感の無い面々だった。年関係から言えば親子兄弟でもおかしくは無かったが、それは確認するまでも無くあり得ないと断言出来てしまう。
そして、彼らの態度から、この連中のリーダーはやはり最初に大樹を良く分からない力でもって拉致した、この少女だと大樹は判断した。
「俺をどうするつもりだ」
「別に、どうもしないわよ」
すでに拉致された時点でどうにかされているのではないかと思うのだが。
「あなたに、幾つか教えておきたいことがあるのよ。あと、忠告」
少女は良く分からないことを言った。
「なんだって?」
「『鍵』と『泉』について、あなたに教えてあげます」
「???」
「まず、別の次元と繋がっている時空を越えた穴、それが『泉』」
「・・・」
「そして、その『泉』から力を引き出して使うことが出来る能力者、それが『鍵』」
「・・・・・・・」
「何か質問は?」
「・・・・・・・・・」
「マリ、それではあまりに唐突過ぎるでしょう」
運転席の口ひげ紳士が苦笑しながら言った。
「他に言い様が無いじゃない。そうね。言うより見たほうが易しいわ」
少女、マリと呼ばれた彼女は、なにやら手品じみた手つきで右の指先に何かを摘み上げた。
指輪だ。
「これが『泉』」
そして、マリは彼女自身を指差した。
「そしてあたしが『鍵』」
これでも、大樹にはあまりにも唐突過ぎた。
「あたしは、この『泉』を通じて、別次元の力を使うことが出来る。例えば・・・」
マリは左手を大樹の方に突き出した。
「『灯れ』」
その手の平の上に炎が灯った。一瞬で消える。
「こんなことが出来る」
彼女のその行為は大樹に何の感銘も呼ばなかったようだ。彼は混乱の極みにあり、マリの言ったことは半分も理解出来ていない。今の炎も、この手品にどういう意味があるのか、位にしか思っていないのである。マリはただでさえ険しい眉の角度を更に急角度にし、諦めた。
「マツ、後は頼むわ」
赤毛の青年が苦笑しながら頷いた。
その後、大樹はマツという青年の懇切丁寧な説明によって、どうにか幾つかのことを理解した。
1、今現在我々が生活しているものとはまったく別の世界(彼は別次元と表現した)が存在する。
2、そこは、我々が知っているあらゆる事象、物理法則が通用しない世界である。
3、普通、そこは我々の世界とはまったく関わり無く存在しており、行くことも来ることも出来ない。
4、しかし、何かの拍子に繋がってしまうこともあるようだ。
5、それが『泉』と呼ばれる。要するに次元同士を繋ぐ穴である。
6、この穴が『泉』と呼ばれるのは、そこから別次元のエネルギーが漏れてくるからである。
7、しかしながら普通、この穴は『扉』によって塞がれている。
8、この『扉』を開く能力を持っているのが『鍵』と呼ばれる人々である。
9、彼らはまったくランダムに生まれる。大体、300万人に一人くらいの割合だ。
10、 『鍵』は『扉』を開き『泉』が繋がっている次元に応じた様々な力を使うことが出来る。
「・・・」
なるほど、さっきのマリとやらがやったことは手品ではないのだ、と言いたいらしい。
「・・・」
分かった。言いたいことは何とか理解した。それが誇大妄想だろうが空想だろうが、あるいは幻想だろうが妄想だろうが幻覚だろうがどうでも良いが、どうもこの連中が本気でそう考えていることは確かだ。
「・・・」
問題は、それが大樹に何の関わりがあるのか?ということなのだが。それを質問するのはちょっと憚られた。
いやな予感がしたからだ。
「分かった?」
マリが小さな身体を助手席から乗り出させた。
「…なんとか」
「そんで、あんたもその『鍵』なのよ」
マリはあっさり言ってのけた。
「は?」
「だから、あんたも『鍵』なの!」
再び彼女の眉は激しく吊り上った。そんな彼女をマツがなだめる。
「ええと、入江君?そうなのだ。君は300万分の1に当選したわけなのだよ。おめでとう」
「そうよ!この日本に40人くらいしかいない『鍵』の一人なのよ!もっと喜びなさい!」
喜ぶところなのか?
「まぁもっとも、実のところ『鍵』はそれだけなら単なる人間となんら変わりは無い。何の力も無いんだよ。一生自分が『鍵』であることに気がつかずに終わる者も多い」
「俺もさっきまではその予定だった」
「そう、『鍵』はそれほど重要ではない。問題は『泉』の方でね」
そこでなぜかマツは溜息を吐いた。
「これは本当に貴重なのだ。今現在、世界中で確認されている『泉』は千個に満たない。全ての『鍵』につき一つの『泉』が割り振られている訳ではないようでね」
「その貴重な一つがこれってわけ!」
マリが得意気に指輪を見せつけた。なんの変哲も無い、ただのプラチナリングに見えた。
「形態も、引き出せる能力も様々でね。古来より魔法の道具や聖地と呼ばれた場所などは大抵『泉』だ。しかも、ある時を境にいきなり力が失われたりもする」
運転席の口ひげの男性が付け加える。
「古来より『泉』を巡って多くの争いが起こってきた。まったく愚かな事だ」
「それだけ『泉』の力を『鍵』が引き出した時の能力がすごいということなんだがね。なにせ強力な『泉』を使えば、物理法則をかなりのレベルで逸脱出来る」
魔法みたいなものか。大樹はRPGゲームマニアだったので、そう置き換えれば簡単に理解することが出来た。要するにウイザードと魔法の道具の関係だ。ただし、理解は出来ても納得までにはまだ幾つかの疑問が残っていた。
「それで?それが俺とどういう関係になるんだ?俺が『鍵』だというのはいいとして『泉』がなければ何の力も無いんだろう?俺はそんな便利な道具なんて持っていないぞ?」
マリたちは顔を見合わせた。大樹の後ろに座る中年女性が言う。
「あなたの身近にあるのです」
「あたしたちは数年前、この辺りに生じた時空の歪みから『泉』の存在を検出した。それ以来その『泉』を監視していたの。あなたはたまたまその『泉』の近くにいた。それだけ」
マリの口調も慎重なものに変わっていた。マツも畏怖の念も露に言う。
「とんでもない『泉』でね。形態、パワー、存在するだけで発生する時空の歪みなど全てが桁違いだ」
そんなものが自分の近くにあったとは、大樹はすこし驚いた。
「一体それは・・・」
「『泉』は普通、物体や場所に生ずる。これは、互いの時空の位相変異バランスからして当然と思われていたのだが・・・」
マツは少し言い難そうに口ごもった。
「生き物、しかも人間の形態で現われるなどというのは、前例が無いのだ」
「人間?」
大樹の頬から血の気が引く。まさか。
「ああ、さっしがいいわね」
マリがややほっとしたように言う。告知する方としては、相手がさっしてくれた方が言い易いのは言うまでも無い。
大樹がそれを察することが出来たのは、その人が彼にとっていろいろな意味で特別な存在だったからである。そして、六年前のあの異常な出会い。彼の周りにいる人々、ほとんど例外なく極ありふれた凡人たちの中で、唯一冠絶して輝く、その女性。心当たるとすれば、彼女しかいない。
「そう、あの娘が『泉』なのです」
時津 茜。
「おはよう!」
時津 茜は今日も元気で、可愛かった。
「おはよう…」
大樹が応じると、時津 茜は怪訝な顔をした。
「どうしたの?元気ない」
「そうかな?」
「うん。またゲームするのに徹夜したとか?」
「うん…、まぁ、ね」
彼女は、更に不審度をアップさせた表情を浮かべながら、大樹の手を取ろうとした。
「あ…!」
思わず大樹はその手を振り払った。驚く時津 茜。振り払ってしまってから大樹は慌てる。
「ごめん!」
「え?うん、ねぇ、どうしたの?ちょっと変だよ、大樹君」
もう一度おずおずと彼女が伸ばした手を、今度は大樹の方から握る。ややほっとしたように時津 茜は微笑んだ。
大樹の頭の中を昨日、マリが言ったことがフラッシュバックした。
「あなたが『鍵』彼女が『泉』。あなたたちが皮膚接触しながら何かを念じると、開扉が起こって現実が変容する」
ホームに風と音を連れて電車が入ってきた。
「普通、『鍵』の考えたことがそのまま変容に繋がるものなの。でも、普通の『泉』と違って彼女には意識がある。その結果、あなたと彼女の望みが一致した時にのみ、開扉が起こる」
空気音がしてドアが開く。時津 茜が大樹の手を引いて、電車に乗り込んだ。
「あなたと彼女が無意識に望んだこと、そうね、このところ毎朝電車で座れたことが不思議じゃなかった?あれはあなたたちが無意識に『座席が空いていて座れるといい』と考えて現実を変容させた結果なの。具体的にはそこに座っていたはずの人を消失させたわけ」
時津 茜は左右を見回した。
「嘘だと思うなら明日、電車に乗り込む前に『座れなくてもいい』と念じてみなさい」
時津 茜が失望の呟きを発した。
「あれ?今日は席、空いてないや。なんか、久しぶり。まぁ、たまにはいいよね」
「…どうして俺にそんなことを教えるんだ?」
大樹は慎重に言った。
「あなたがあの『泉』にもっとも近い場所にいる『鍵』だからよ」
金髪を揺らしながらマリが首を振った。
「あなたたちは無自覚に扉を開き過ぎる。あまり大規模に現実を変容させ過ぎると、空間が歪んでしまうわ」
「…あんたたちは何者なんだ?」
「『鍵』の互助組織みたいなものよ」
「この世界には『鍵』と『泉』の能力を利用しようとしている国や権力者がいてね、そいつらから『鍵』と『泉』を保護することを目的とした組織だ」
運転席の口ひげの男が言う。
「特に、君の彼女はでかい『泉』だ。数年前の出現から、我々は彼女と彼女の周辺を監視していた」
「監視?」
大樹は思わず顔を赤くした。今日この様に簡単に拉致されたことを考えると、確かに自分たちは厳重に監視されていたのだろう。
「悪く思わないでくれたまえ、彼女と君を守るためだ」
「思うね」
大樹は憮然とした。自分と時津 茜のじゃれ合いを見られ続けていたというのは、恥ずかしいというよりははっきり言って不快だったのだ。
「分かってないわね。危険なのよ?あんたはともかく彼女は貴重な『泉』よ。どんな手を使ってでも入手したいと思う奴がいてもおかしくない」
「あんたたちの言っていることが真実だという証拠は?」
マリは口ひげと顔を見合わせた。
「まぁ、いいわ。その内信じるしかなくなるから」
その日の登校中、時津 茜はずっと不満そうであった。大樹がなんだか上の空だったからである。
大樹にしてみれば、マリたちに監視されていると宣言されれば今までのように時津 茜といちゃつく気にもなれないのであったが、それだけではない。マリたちの言ったことがやはり気になっていたのだ。
誇大妄想、妙てけれんなSFファンタジー読み過ぎという感じのトンデモ空想電波話。で済ませたいようなマリたちの話なのであったが、大樹にはそれで済ませることが出来なかった。
それはやはり、時津 茜との異常な出会いに原因がある。大樹はこのことをマリたちには話さなかった。マリたちをそこまで信用出来なかったからであるが、このこととマリたちの話を結びつけた瞬間に、マリたちの電波話を信じるしかなくなることを恐れたのだ。
大樹は、時津 茜が唯の人間ではないということを信じることが出来てしまうのだ。
六年前の出会い。
そして、初めて触れ合った時の、あの感覚。あれこそが現実を変容させた感覚というものなのではないだろうか。
大樹は震えた。そう。マリたちの話を彼は笑い飛ばすことが出来ないでいる。既に彼はその話を信じ始めてしまっていたのだ。
懊悩する大樹を、時津 茜が口を尖らせて睨んでいる。
「『泉』の周囲で空間屈曲率が上昇しています」
「現実を変容させたいと思っている?」
「というより、単に現状に不満なのでしょうね」
「我侭なお嬢様だこと」
「しかし、放置しておくと何が起こるか分かりませんが…」
「下手に手を出すと逆効果になりかねないわ。様子を見ましょう」
「転校生?」
教室に入った大樹と時津 茜が目にしたのは、転校生が来るという噂で持ちきりになっている同級生たちであった。
珍しいこともあるものだ。とは大樹も思った。なにしろ時期が変だ。もうすぐ6月という中途半端な時期。しかも2年生のだ。そもそも、高校にも転校という制度があるのだな。
しかし、今の大樹はその程度のことに構っていられるほどの精神的余裕が無いのであった。時津 茜も興奮して話しかけてくる女生徒に興味のなさそうな返答をしつつ、大樹の方に不機嫌そうな視線を飛ばしている。
大樹は、学校に到着した頃に時津 茜の不機嫌に気が付いていた。まずいことだった。彼女と付き合い出してから、彼女がこれほどあからさまに不快そうな表情をしているのを初めて見たのである。
時津 茜が何か悪いことをした訳ではないのだ。後で謝っておかねばならないだろう。
担任が教室に入ってきた。なるほど、真新しい制服に身を包んだ男子生徒が一緒である。
人当たりの良さそうな、なかなかハンサムな男子生徒であった。大樹はその程度の感想で済ませたのだが、女子たちはもう少し良い感想を抱いたようだった。嬌声が上がる。
担任の紹介と、本人からの自己紹介があり、転校生は急遽付け足された最後尾の席に案内された。
ホームルームが終わると、大樹と時津 茜以外の連中は一斉に転校生の席を取り囲む。
大樹が行かなかったのは頭の中がマリたちの話と時津 茜の不機嫌への対処法で一杯になっていたからであり、時津 茜が行かなかったのは、どうも大樹を睨むのに忙しいからのようだった。大樹は冷や汗をかいた。視線で謝意を伝えても彼女は頷かない。何を怒っているのか、大樹は途方に暮れた。
と、大樹が気配を感じて振り向くと、転校生が横に立っていた。
「すみません、職員室まで案内していただけませんか?」
人当たりの良さそうな笑顔を見せながら言う。
なんで俺に頼むんだ?お前を取り囲んでいた連中の誰かに頼めよ。とは言えず、大樹は生返事をしながらも立ち上がった。転校生に愛想良くしてやるのは義務みたいなものだ。
並んで廊下に出る。そこで、転校生が囁いた。
「僕も『鍵』なんですよ」
大樹は思わず足を止めた。振り向くと相変わらずニコニコ笑っている転校生がいる。
「少し話しをしませんか?」
「…迂闊でしたね」
「間違いありません。『鍵』ですな」
「どこの組織の者かは分かりませんが…、危険です。あの『泉』を使われたら何が起こるか分かりません」
「…様子を見ましょう」
「マリ?」
「あたしの勘よ。あの『泉』は相当なじゃじゃ馬よ。開扉条件も複雑だし、あちらさんの思い通りにはいかないと思うの」
「なるほど」
「観測を強化して。あの新しい『鍵』が『泉』に接触を試みた時に何か分かるかもしれない」
大樹と転校生は男子トイレの中で対峙した。ホームルーム明けの休み時間なので、時間は余り無い。大樹は単刀直入に尋ねた。
「何者なんだ、お前は」
「『鍵』ですよ。あなたと同じね」
「マリやマツと同じ組織なのか?」
「おや、もう連中と知り合ったのですか?残念ながら違います」
転校生は笑顔のまま目を細めた。
「僕は僕の組織に命じられまして、あの『泉』の調査に来たのです」
「調査?」
「前代未聞の『泉』です。接触して、何が起こるか観測します」
「何をする気だ!」
大樹は思わず転校生に声を荒げて詰め寄った。
「どうも致しません。あの『泉』にちょっと触れさせていただければそれで十分です。危険はありません」
転校生は両手をホールドアップしながら言う。
「一応、あなたに話を通しておこうと思いましてね。あの『泉』に関してはあなたに優先権があるはずなので」
大樹は腹を立てた。
「彼女を物みたいに言うな」
「これは失礼を」
チャイムが鳴った。
「あなたにも有益な実験になるはずですよ。まぁ、見ていてください」
大樹が、転校生のことを止めなかったのは、やはり多少は興味があったからだった。
マリたちに何を言われても、自分たちが現実を変容させているなどという自覚が持てなかったのである。転校生の実験とやらで確かな何かが分かるかもしれないと期待したのだ。
それは、昼休みの出来事だった。
相変わらず不機嫌な時津 茜。それでも大樹のために作ってきた弁当を渡し、それを大樹が美味そうに食べているのを見て、幾分かは機嫌を直したようだった。
その、時津 茜の背後から、転校生がさりげなく近付いてきた。大樹に目配せをする。大樹は気が付かないふりをした。
転校生は時津 茜の後ろを通り過ぎる振りをしながら、何気なく、右手を伸ばし時津 茜の頭に、触れた。
刹那の出来事だった。
「・・・」
大樹には、何が起こったのか良く分からなかった。
何かが起こったことだけは確かだった。そう。何かが起こった。強烈な違和感がそれを教える。
大樹は吐き気さえ覚えながら必死に現実を把握しようとする。
何もおかしいところは無いのに、おかしい。おかしいはずだ。
「どうしたの?」
時津 茜が呆然としている大樹に不審気な声を掛ける。彼女に、何もおかしいところはない。教室を見回す。何もおかしいところはない。
おかしいところは、何も無い。しかし、強烈な喪失感がある。何かが無くなった。誰かがいなくなった。いや…。
「何?」
「いや…、なんでもない」
大樹は違和感を消し切れないまま、弁当の続きに戻った。
「…多分、吸い込まれたのでしょう」
「人間の存在を因果ごと消滅させてしまったということ?」
「計測結果から類推するとそういうことになりますが、何しろどこの誰が消されてしまったのかはもはや知る術がありません」
「なんてことかしら、注視していたというのに、何故注視していたのか分からなくなるなんて」
「唯の人間が触れても何も起こったことはありませんから、触れたのは唯の人間ではなかったのかもしれません」
「『鍵』だった?」
「おそらく。『泉』の解析を試みたのかもしれません」
「あの泉は『鍵』を選ぶのかも知れませんな」
帰りの時間までには、時津 茜はすっかり機嫌を直していた。大樹のやや露骨なご機嫌取りが功を奏したのであろうか。二人は並んで教室の後ろのドアへ向かった。
級友達に挨拶しながら時津 茜がドアに手を掛ける。
そこで、大樹はふと、あるものに気が付いた。
「…?」
机である。なぜか不自然な位置に置かれている机。
入り口近くの最後尾に不自然に付け足された机。
「なんだ、これ?なんでこんなところに…」
ズキン…。
大樹は鋭痛を覚えて頭を押さえた。
なんだ、この、机、誰が座っていた?
『僕も…』
ズキン…。
『…接触して…』
『…あの泉に…危険は…』
記憶には無い不思議な光景がフラッシュバックする。記憶には無い、人当たりの良さそうな男子の顔。
『…有益な実験…』
「大樹君?」
一度は教室を出て行った時津 茜が、ついて来ない大樹を不審に思って戻ってきた。大樹が呆然と見詰める余った机を彼女も見る。
「なにこれ?誰の机?」
時津 茜は首を傾げた。周囲の女子生徒もそういえばという感じで同様に首を傾けた。
「転校生でも来るの?」
その言葉に、前触れも無く映像の奔流が走り抜ける。思い出した、というより、蘇った。
そう。大樹はその瞬間、あの時起こったことを理解したのである。
「ああ…」
刹那を境に「消滅してしまった」転校生。
「あああ…」
『鍵』『泉』実験、消滅。
「わああああ!」
大樹は絶叫して、頭を掻き毟った。
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