女神トキツ

宮前葵

一章、ボーイ・ミーツ・ガール

その地図は、友人の家にある、大谷石で出来た倉の中で見付けた。


農家には大概、こういう倉があるものだ。特にそいつの家が豪農であるとか、由緒正しい庄屋であるという訳では無かった。ほとんど農機具置場となっているそこは、子供の頃からその友人と、入江大樹の遊び場だったのだ。


その時、どうやってそれを見付けたのかは良く覚えていない。


かくれんぼだか鬼ごっこだかをやっていて、潜りこんだ棚の下に落ちていたような気がする。


なにしろ、小学5年生の時だ。それが何であるのか、すぐには分からなかった。


複雑な紋章やへんてこな文字。そして、それだけはなぜかよく理解出来た、絵図。


子供心に、これは宝の地図だ、と興奮した。短絡的な発想であるが、まぁ、子供であったのだからいたしかたない。


大樹はそれをポケットに隠し、家へと持ち帰った。泥棒であるが、その時は不思議と悪い事をしたとは思わなかった。


子供であったから、もっと小さい頃から何度も立ち入り、隅々まで知っていたはずのその場所に、そんな怪しげな地図がわざとらしく落ちていたのか、ということは疑問に思えなかった。


次の週末に、自転車にスコップを縛り付けて、大樹は地図の示す場所へと向った。


読めもしなかった文字。不可思議な紋章。しかし、場所を示す粗雑な絵図だけは、なぜか理解出来た。それは、自分の家から十kmほど離れた場所にある神社で、毎年初参りに来ている場所だった。


確か、秋の一日だった。神社のある山の麓に自転車を停め、参道とは名ばかりの砂利道を、スコップを担ぎつつ登る。


掘るべき場所はすぐ分かった。神社の奥殿の更に奥。しめ縄が回してある大きなヒノキの木。その下だった。


神社とは言っても、田舎神社だ。人目を気にする必要はなかった。厚く積もった枯葉を除け、そんなに固くも無い地面をガシガシと掘る。


冬に近い秋だというのに額に汗が吹き出したが、興奮していたので気にもならなかった。


一mほど掘り下げるのに一時間以上掛かったはずだ。そこに、何か大きな、大きな箱が埋まっていた。


今であれば、それが何であるかはすぐ分かったはずだ。


しかし、当時の大樹には分からない。本当に何かが出た事に興奮し、必死にその周囲を掘り起こす。


更に二時間は費やしたであろう。いつしか日差しは傾き、辺りは薄暗くなりつつあった。


出て来たのは、長方形の箱であった。


人一人が、すっぽり収まるくらいの箱。


泥で汚れてはいるが、それは白木で造られているようだった。まったく飾り気の無い、ただの木の箱。


しかし、一個所だけに模様が描いてあった。地図に描かれていた、妙な紋章。


大樹には、それこそがこれが宝の箱であることの証明である様に思えた。


大樹は、白木の蓋を開けようと試みた。


それは、釘を打っている訳でも接着剤で閉じられている訳でも無い様であった。


動かすと、動いた。


中に土を落さない様に、慎重に慎重に蓋をずらす。中に光りが差し込む程度にずらし終えると、大樹は興奮に充血した眼差しで、中を覗き込んだ。


反射的に、大樹は飛び退いた。


何かがいた。


何かがあった、ではなく、いた。大樹は我が目を疑った。


大樹は、勇を振るって、もう一度箱の中を覗き込む。


そこにいたのは、少女だった。


見目麗しい少女。身体の左右に流された髪と、閉じられた瞼を飾る長い睫の色は漆黒。滑らかな頬、細い肩、胸の上で組まれた手は純白。


裸で横たわる少女。年の頃は大樹と同じくらいだろうか。大樹にはそれしか分からなかった。と、いうよりは、それくらいしか観察出来なかった。


棺桶だ!僕は棺桶を掘り起こして開けてしまったのだ!


大樹はもはや耐える事が出来ず、自分で掘った穴から飛び出し、何もかもを放擲して逃げ出した。暗い参道を蹴躓きながら駆け下り、自転車を全力疾走させて家へと逃げ帰り、布団を頭から被って震えた。スコップは、現場に置き去りにしたままだった。


大樹は恐れた。埋葬された棺桶を掘り起こすというのは罰当たりな事であるし、それ以上にばれたら警察に捕まるのではないかと恐れたのだ。


神社の境内、そこは墓地でもなんでもない。そんなところに、まるで生きているかのような少女が埋められていた。そのことの異常さには気が付かなかった。余裕が無かったからである。


しかし、大樹の恐れたような事態は一向に訪れなかった。


新聞も、TVも、そのことには何も触れなかった。学校で話題になることも、ましてや警察が大樹の家のドアを叩くような事も無かった。


その年の大晦日、初参りに家族で行く事になり、大樹は嫌がったのだが無理矢理、例の神社に連れて行かれた。


闇の中、この時ばかりは煌煌と明かりの点された参道を登り、人々で賑わう境内へと入る。


好奇心か、それとも恐れか、あるいは予感からか、大樹は家族から離れて、あの木の下へと近付いていった。


そこには、何も無かった。


穴も、棺桶も、少女も。それどころか掘り起こした形跡すらない。地面には薄っすら苔さえ生えている。大樹は呆然とした。


夢だったのだろうか。いや、それは有り得ない。あの記憶はとても夢オチで片付けられるような生易しい感触ではなかった。


ふと、予感を感じて、大樹は太い杉の木の裏に回る。境内の明かりの影になっているそこに、


一本のスコップが立て掛けられていた。




その春、高校二年生になった入江 大樹は、初めてその教室に入る前に、軽く深呼吸した。


クラス替えに伴い、級友達は完全にシャッフルされてしまっている。誰と同じクラスになり、誰と別れたのか、まったく分からない。このクラスで上手くやっていけるのだろうか、嫌な奴はいないだろうか、逆に、もしかして彼女が出来たりしないだろうか。そんな軽い興奮を伴う緊張を胸に、引き戸に手を掛ける。


あの、小学五年生のある日の出来事は、彼にとって既に記憶の片隅にしか無くなっていた。忘れるにはあまりに異常な出来事であったが、鮮明に思い出すにはあまりに昔の出来事であったのだ。特にこの瞬間、彼の思考は一片もその事を考えてはいなかったと断言出来る。


そっとドアを開けると、既に登校し、着席していた面々が一斉に振り向いた。


心臓が早鐘を打った様に鳴る。


彼が何をしでかしたという訳ではない。座っている生徒達も、大樹と同じ様な不安を抱えているのだ。何人か、大樹の友人が手を振る。彼らもあからさまにほっとしたような表情を浮かべていた。大樹も手を振り返す。とりあえず気心の知れた友人と同じクラスになれた事は、この一年を過ごす上での好材料だと言えた。


机の右隅に、出席番号順と思しき順番で名前を書いた付箋が貼ってある。大体の見当をつけて(入江なので大概最初の方なのだ)自分の席を探す。見付けた空席の鞄掛けに鞄を引っ掛け、椅子に腰を下ろした。


何があった訳ではない。何気無く、ただ教室内をさりげなく見回すつもりで、大樹は首を横に向けた。


そして凍り付いた。


「彼女」が、いた。


一瞬でそれが分かった。六年も前の記憶が怒涛の如く蘇り、押し寄せてきた。


ブレザーで包まれた細い肩に掛かる、漆黒の長い髪。滑らかな輪郭。真っ直ぐな鼻梁と、透き通るような唇。そして、長い睫。あの日の記憶そのままの姿だった。


一つだけ、あの時見る事が出来なかったもの。


切れ長の目の中にある、大きな瞳。始めは黒に見えた。しかし、視線を交錯する内、その中に燃える炎ような、金とも緋色ともつかない輝きが潜んでいるのを見えてくる。


形容し難い輝きを放つ双眸が大樹を捕らえている。吸い込まれそうな、あるいは燃え上がりそうな感覚に襲われながら、大樹は震えていた。


始めに直感し、視線を合わせながら確信していた。そう、彼女はあの時、自分が掘り起こしたあの少女だった。この非人間的に美しい少女と、大樹は確かにあの時出会っていた。そう、出会っていた筈だ。


少女は、大樹と視線を合わせたまま微笑した。魅力的な、いや、蠱惑的な笑顔だ。大樹の顔が無意識に赤くなった。


「初めまして」


少女が清涼な声で事実と違う事を言った。そして、微笑を含んだまま名乗る。


「私の名前は時津…、時津 茜…」




しどろもどろになっての自己紹介を返した後は、別に何ということもなかった。


時津 茜はあっさり大樹から視線を外し、自分の後ろに座っている女生徒と話し始めた。大樹も、正面に向き直る。程無くして、これから一年間の担任教師が教室に入って来て、ホームルームが始まった。


しかし、大樹は教師の自己紹介など耳に入らないくらいの混乱状態にあった。


直感は、時津 茜があの時の少女であると告げていた。しかし、理性がそれを打ち消す。


有り得ない事であった。


棺桶の中に裸で横たわっていた少女。年の頃は当時十歳だった大樹と同年代に見えた。しかるに、今現在彼の横に座り、真剣な顔で担任の話に耳を傾けている彼女は、今の大樹と同年代に見える。つまり、成長しているのだ。


当たり前ではある。人間誰しも年と共に成長する。子供であれば尚更だ。但しそれは、あの時の彼女が生きていたら、という前提での話である。


棺桶の中に押し込められ、地中深く埋められながら生きているなどという事が有り得るのだろうか。埋められてから大樹が掘り起こすまでの時間が短かった?いや、何か決定的な違和感がある。


あの地図。大樹が友人宅の倉で見付けた、あの後おっかなくなって燃やして捨ててしまった。あの妙な紙切れ。


しかし、今でも鮮明に思い出せるあの、絵図や、紋章や、読めない字が書かれていたあの紙は、それなりに古びた和紙だったのだ。だからこそ当時の大樹がそれを宝の地図と誤解したのである。そして、あの棺桶には、確かに紙に描かれていた同じ紋章があった。あの地図は間違いなく、少女が埋められている場所を示したものだったのだ。


何か、得体の知れない戦慄が大樹の背筋を走りぬけた。その源は、彼の隣りに何食わぬ顔をして座っている。




大樹と同じクラスになった友人の一人は、大樹と同じ地元から共に電車でこの高校まで通っている男で、名を飯塚智也といった。いつも朗らかに笑っているような男である。その彼が大樹のところにやって来て、その肩を叩いた。


「よ、どうしたんだ?帰らねぇのか?」


この日は、ホームルームが終わると校庭で始業式があり、教科書の配布や使う教室の説明やらが午前中一杯あって、お昼で終わりなのだった。


大樹が気が付くと、教室には彼と飯塚しかいなかった。要するに大樹はこの日一日、放心しっぱなしだったのである。


大樹は眉間を揉みながら飯塚に生返事を返すと、自分の隣りの席を指差した。


「誰だか知ってるか?」


飯塚は怪訝な表情を返した。その席の机の角、名前の表記してある付箋を眇め見る。そして、ようやく得心が行ったように手を叩く。


「ああ、時津か」


飯塚は変な風に笑った。


「いきなり目を付けたか。意外に目ざといなおまえ」


「知ってるのか?」


「ああ、一年の時同じクラスだったからな」


「何者だ、あれ」


大樹の質問に飯塚は眉を顰めた。


「おいおい、一年三組の女神に向ってあれはないだろう?」


「女神だと?」


「そうさ、容姿端麗、品行方正、性格良好、学業優秀、運動抜群。三組男子、八割の心を奪い去った女神トキツとはこの娘の事さ」


飯塚は大袈裟な身振りで時津 茜の座席を指し示した。しかし、大樹が固まったように反応を示さないのを見てずっこける。


「おいおい、おまえも見たんじゃないのか?ブロマイド一枚300円のあの笑顔を」


確かに見た。男であればその心が蕩かされなければ嘘だというような、完全無欠の笑顔。しかし大樹は見たのだ。微笑どころか表情一つ無い、美しくも無機質な、幼かった彼女の、多分死体。


「彼女、一体どこに住んでるんだ?」


「おいおい、ストーカーでもするつもりか?止めとけって洒落にならないぜ」


「いいから教えろ」


「うちらの町の隣りだよ。ほら、時津神社、あそこの宮司の娘だってさ」


「!」


大樹は硬直した。そう、時津神社。あの神社の名前、あれからも毎年初参りに行っているあの神社は、確かに時津神社という名前だったのだ。


「巫女さんだよ巫女さん!なぁ、見てみたいと思わないか彼女の巫女さん姿!」


などと叫ぶ飯塚を無視して、大樹は身体を震わせた。


やはり、夢ではなかったのだ。彼女は確かにあそこにいた。大樹が掘り出した後どうなったのかは分からないが、あの神社の宮司の娘ということになり、再び大樹の前に現れたのだった。


これが何を意味するのか、それとも何事でもないのか。大樹にはまったく見当も付かなかった。何事か時津茜について熱く語り始めている飯塚を無視して、彼はただ、恐れた。




「接触は確認。皮膚接触はなかった模様」


「開扉は確認されず」


「エネルギー波、時空震共に観測されず」




時津 茜がただ者では無い事は、程なく明らかになった。


どういう風にただ者では無いのかというと、それはもうあらゆる意味でただ者では無いのだった。


まず、べらぼうな美人である。こんなど田舎県に住んでいなければスカウトが放って置かないだろうと思えるような、彼女を見てから雑誌などのグラビアを見るとがっかりしてしまうような、それくらいの美人であった。顔だけではない。派手さは無いが流麗でしなやかな曲線。細い足、たおやかな手指。ことに男子生徒を悩殺したのは、黒髪をかきあげた時に覗く白いうなじだった。


中間テスト前だったので、学業優秀についてははっきりしなかったが、運動能力が抜群である事は、体育の授業恒例の体力測定で明白となる。大樹がわき目で見ているだけでも文句無くすごかった。何しろ、百m走では男子の基準記録を突破し、ハンドボール投擲測定では男子の最高記録に匹敵する飛距離を記録したのだ。聞けばこんな能力を持ちながらも帰宅部なのだという。勿体無い話だ。


これほどのスーパーウーマンであれば他人から嫉妬されても不思議はない所であるが、彼女は人望も高かった。性格が良い事の証明であろう。彼女の行く所常に女子の輪が出来、かしましい笑いが絶えなかった。


学年が始まって僅か一ヶ月で、時津 茜は男子からも女子からも慕われ、憧れられる、「二年一組の女神トキツ」に成りおおせた。その事については大樹もまるで不思議には思わない。さもありなん、と思うだけである。


大樹は、この一ヶ月ばかり、時津 茜のことを慎重に観察していた。その結果、二つの確信を得た。


まず、この時津 茜はやはりあの時の棺桶少女である、ということ。


そして、にも関わらず、彼女にまったくおかしな部分がないということ。彼女は、まったく普通の人間であるように見えた。


この二つの確信が大樹の混乱に拍車を掛けた。そして、時津 茜は、彼の事を覚えている様子も無かったのである。隣の席に座っているにも関わらず、二人は挨拶以外の会話を交わした事も無い。これは、大樹が彼女に話し掛けなかった事もあるが、彼女の回りを常に何人かの女生徒が取り囲んでいたからでもある。


ただ、彼女のファンクラブがどうたらと騒ぐ、飯塚以下の友人達に同調する気にこそならなかったが、一時の恐怖感は大分薄れつつあった。彼女はごく普通(というにはあまりに存在感があり過ぎたが)の女子高生に見えたし、もしかしてあの時の棺桶少女だったとしても、あれはあれで何か特殊な家庭の事情という奴だったのかもしれないと、無理矢理納得出来なくも無かったからだ。違和感は消しきれなかったが。


こうして、平穏に一ヶ月が経過した。大樹の人生において、それが最後の平和であった事を、彼は後に知る事になる。




それは、別になんでもない事の筈だった。


英語の授業、大樹は退屈を紛わせるために、シャーペンを指の間で回していた。


その時、教師が黒板に板書するのに気を取られたせいか、シャーペンが指から弾かれて、教室の床に落ちた。


シャーペンは転がり、隣りの女生徒の足元で止まった。


慌てて床に手を伸ばしたその先で、白い指が、優雅な程の動作でシャーペンを拾い上げる。


繊細な顔に微笑を浮かべながら、時津 茜がシャーペンを差し出していた。


「ありがとう」か、それとも「どうも」か、何か言ったはずだが、覚えていない。その後の衝撃はそれほど強烈だった。大樹は無意味に照れながら手を伸ばし、シャーペンを取ろうとして、偶然彼女の指先に、触れた。


「!」


触れ合った指先から、世界が広がった。


感覚的には何かが炸裂するような、それでいて音も波動も感じない。瞬時に何かが広がって、古い世界を覆い尽くす。


大樹はその瞬間、世界の全てを認識したような、錯覚に陥った。


真っ白な、それとも星空か、蒼穹か、草原か、あるいは漆黒の闇か。


何もかもが大樹の中に流れ込んで来た。苦しくはなく、ただ圧倒的な情報量に晒されて戸惑う。世界の大きさ、あるいは小ささに。


そして何より、少女の存在が七色の輝きに似た鮮烈さで認識される。その彼女の輝きが大きくなり、大樹の全てを包み込もうとした瞬間、


唐突に終わった。


…それは、一瞬の出来事であった。


大樹は呆然として、手を伸ばす先にいる女生徒を見詰めた。


彼女も、唖然としている。口を軽く開き、もともと大きな目を最大限に見開き、大樹を見詰めている。


指先は、もう離れていた。




「皮膚接触しました!」


「開扉を確認」


「時空震を検知!マグニチュードは推定2から3!」


「影響は予測範囲内!具体的な変容は確認されず」


「観察対象の危険レベルを3から4にアップ!」




二人は、見詰め合ったまま硬直した。


胸の鼓動が、止まなかった。


その現象の不可思議さを思うより、その現象の意味する所を考えるより、まず何よりもその現象のもたらした感覚が二人を縛っていた。


それは、快感であった。


今までに経験した事の無い快感が、あの瞬間二人の全てを満たしていたのだ。


そしてお互いに、相手もその快感を共有したであろうことを直感していた。


(みた?)


(かんじた?)


(うん)


(わかる)


(もういちど)


(もういちど…)


止まっていた手が、震えながら互いを求めて動きだそうとする。


その刹那、


「なにやってんだ?おまえら」


突然掛けられた声が二人を現世に引き戻す。


英語教師が教壇の上から呆れ顔で二人を見下ろしていた。


「ラブシーンは余所でやらんか、恥ずかしい」


「!」


二人は同時に、飛び退くように席に戻る。教室中が笑いに包まれた。




「一体何をやってたんだ?」


授業明けの休み時間に、大樹は飯塚や石井、清水といった友人達に廊下に引っ張り出され、尋問を受けていた。


大樹の方は放心したままだ。


「…何をやっているように、見えた?」


「はぁ?」


身長180cmの大男、石井が呆れたような声を上げた。


「何って、いきなり授業中に時津さんと見詰め合ったまま動かなくなったんじゃないか。手をふれあってさ」


と、これは長髪に眼鏡の清水である。


「どれくらい?」


「三分くらいかなぁ」


「おい、どういうことだ?時津さんには興味が無かったんじゃないのか?抜け駆けすると、俺達ファンクラブが黙っちゃいないぞ」


飯塚が大樹の頭を小突く。


そんなんじゃない…。大樹は言おうとして飯塚の方を向いたのだが、結局何も言わずに彼の頭を小突き返した。


あれは、何だったのだろう。


その瞬間の詳しい記憶は、どんどん曖昧になって行くようだ。丁度、夢を見た時のように、具体的な事象は思い浮かべられなくなり、逆に強烈なイメージだけが残る。


だが、あれは夢ではない。


おそらく、時津 茜も同じ様な思いでいるはずだ。




大樹の通う「新船学院」は、とある県庁所在地であるところの地方都市、その外れの方にあり、そこから駅までバスで20分掛かる。大樹は、同じ色の制服で埋め尽くされたバスに揺られて、県で最も大きな駅へと向った。


ターミナルでバスを降り、階段を上る。ターミナルと駅、駅ビルとデパートを繋ぐ広い橋の上で、どちらへ向うか一瞬迷った。


今日は寄り道する気分じゃないな。いつも一緒に帰っている飯塚とは「用事がある」と言って学校で別れていた。


駅に向って歩き出す。そして、駅の入り口に立っている時津 茜に出くわしたのである。


昨日であれば単なる偶然だと思ったかもしれない。しかし、今日、この時に彼女と行き会ったとなれば、必然性を感じるのが当たり前だと言えよう。大樹の姿を見て、時津茜は寄りか掛かっていた柱から背中を離した。


制服である紺色のブレザー、同色のスカート。女生徒からは「古い」と両断されてしまうオーソドックスなデザインも、着る人が着ればこんなに華やかになるものなのだ。大樹はどうでも良い感想を頭に思い浮かべ、軽く頭を振った。考えなければならない事はそんな事ではない。


 何故、自分を待っていたのか。疑問にも思わなかった。予感ではない。単純に、彼女の姿が目に入った瞬間「ああ、やっぱり」と思ったのだった。彼女は立ち止まったままだったので、大樹の方から近付いて行く。


「…やあ」


 などと間抜けな声を掛ける。彼女の背は、大樹の鼻くらいだ。少し見下ろす姿勢になる。


 時津 茜は大樹を軽く見上げながら、微笑んだ。


 眩暈がするような笑顔だった。


「同じ、電車なの」


「え?」


「一緒に帰りましょう」


 彼女はそうとだけ言うと、黒髪を靡かせて踵を返した。


 数瞬の逡巡の後、大樹は彼女の後を追って駅の構内へと入った。




「『鍵』と『泉』が接触しました」


「警戒せよ」




 この時間の電車は混むが、この時はたまたま座ることが出来た。ボックス席に対面で座り、大樹と時津 茜はひたすら無言だった。


 大樹が無言だったのは、こういう状況に慣れていなかったからであり、時津 茜が無言だったのは何か重要なことを考えていたからであろう。


 大樹の正面で、時津 茜が窓の外に目をやっている。清透な姿は正に一幅の絵のようで、気が付くと彼女の顔を見詰めてしまいそうになる。瞳が、以前感じたような不思議な色合いに輝くのが見えた。


 時間にして約三十分。飯塚以下ファンクラブの面々が見たら羨ましさで悶絶しそうな時は、特に会話もないままあっさり終わりを告げ、五個目の駅で大樹は席を立った。


「この駅なんだ」


 ようやく声が出たのが最後の瞬間だったというのが我ながら情けない。


 すると、時津 茜も席を立つ。


「わたしも、この駅なの」


 そうであろうとは思っていたが。二人は並んで、その田舎駅のホームに降り立った。


 いつもはもっとホームを渡る階段に近い所に乗るのに、今日は流石に動揺していたのだろう、階段口からはるか離れた、ホームの外れの方に降りてしまった。


 屋根も無い、コンクリート打ちっぱなしの素っ気無いホーム。夕焼けというにはまだ早いが、やや傾いた日差しが駅の向こうに立つ小学校の校舎の隙間から差し込んできていた。


 大樹が歩き出そうとして、


「まって」


 時津 茜に引き止められた。


 彼女が大樹を見上げている。何事かの決意を秘めた眼差しで。瞳の中に、燃える液体が内包されているかのような輝きが揺れる。


 映画なんかのシチュエーションとしては、ここでヒロインからの告白があるもんだよな。大樹は呆然と考えた。現実感が無い。いろいろな意味で。


 時津 茜は一歩進み出て大樹を仰け反らせると、むしろ詰問に近い口調で言った。


「もう一度やってみましょう」


「何?」


「あの時のあれよ!あなたも感じたんでしょう?」


 目つきがきつくなっている。


「あの瞬間、そう、なんだかすごいことが起きたわよね?一瞬で何が起こったのか分からなかった。だから、もう一度!」


 ずい、と詰め寄る。


「いや、あの、それはいいんだけど・・・」


「なに?あなたもしかして何も感じなかったの?ほんとに?」


「いや、そんなことは無いんだけど」


「じゃぁ、何?」


 時津 茜の目じりと眉は険悪と言って良いほど吊り上り、間近から大樹を睨んでいた。


(この娘、こんな性格だったっけ?)


 大樹は戸惑いながらも降参の意思を示すべく両手を挙げた。


「わかった!わかったから」


 時津 茜は髪が跳ね上がるほど大きく頷いた。


 向かい合わせに、少し離れて立つ。


 何とはなしに、指の関節をほぐしながら正面に立つ美少女を見る。


 時津 茜は緊張も露に唇を噛んでいたが、やがて決然と顔を上げた。


「やりましょう!」




「『鍵』と『泉』が皮膚接触を行う模様!」


「警戒!」




 時津 茜が右手を水平に伸ばす。躊躇無く、真っ直ぐに伸ばされた手。


 そんな姿勢すら美しい彼女の、その手の平に向けて、大樹は自分の左手を伸ばして行く。


 何が起こるか分からない。おっかなびっくり、手のひら同士を合わせるために、手を伸ばす。


 時津 茜の白い手の平を見ていた視線を、ふと、彼女の顔に向ける。そこには見たこともないくらい怖い顔をした時津 茜がいた。


「!」


 反射的に肘が伸び、二つの手の平が合わさった。




「接触!」




 瞬間、思わず目を瞑ってしまった。


 しばらくそのままでいた。瞼の中の暗闇に閉じこもり、あらゆることから隠れる。


しかし、何も起こらなかった。


 昼間に感じた衝撃も、快感も、何一つ感じられなかった。


 それを理解して、大樹はそっと目を開いた。


 向かいでは、やはり同じように、恐々瞼を開く時津 茜がいた。


 二人は向かい合って手の平を合わせるという、傍から見ると間抜けな格好で、思わず見詰め合った。


「ぷ!」


 最初に笑い出したのは時津 茜だった。口を大きく開けて、仰け反って爆笑している。思わず大樹も笑い出した。


 何も起こらなかったのが残念だったのか、それとも逆に安堵したのか、二人とも滅多に無いくらい大笑いする。


 どちらからとも無く手の平を離す。


「ご、ごめんごめん。何かわたしの勘違いだったみたい」


 しゃがみこんで笑いを何とか収めながら、時津 茜が言った。


「いや、僕の方こそ」


 笑い過ぎて出てきた涙を拭いて、大樹が応える。


「面白かったよ」


「そーね!」


 時津 茜は大樹を見上げながら、特上の笑顔爆弾を炸裂させた。それを見て大樹の心臓がドクンと跳ねる。


 もしかして、自分はもの凄いチャンスに恵まれているんではないのか?この、クラス一の超美少女と二人きり。そして、なんだか知らないが共感しあえている。告白するならこれほどの機会は二度と訪れないかも知れない。


 などと一瞬大樹が考えた瞬間、時津 茜は飛び上がるように立ち上がって、そのまま階段に向かって駆け出した。


「じゃぁね!また明日―!」


 出遅れた大樹は手を上げて何事か唸るのが精一杯だった。




「時空震確認されず!」


「開扉が見られませんでした」


「ふむ、やはり通常の『泉』とは開扉の条件が違うようね」




 その日以来、入江 大樹と時津 茜の親密度がぐーんとアップしたのかというと、それは全然そんなことはなかった。


 それどころか、その逆であった。


 次の日、登校した大樹が隣に座る時津 茜におはようの挨拶をすると、彼女は生返事をして顔も向けなかった。以前ならにっこり笑って挨拶を交わしてくれたというのに。


 大樹は不審に思いながら、時津 茜の漆黒の後ろ頭を見つつ着席した。


 それからというもの、時津 茜は大樹に隔意有り気な態度を示し続けた。あからさまに大樹に視線を向けない。物が落ちても拾ってくれない。行動的には他愛もないことだったが、誰に対しても平等に優しい彼女にしては、それは如何にも不可思議なことに感じられた。


しかし、それはそれで別に何ということも無いはずだった。大樹と時津 茜は以前からさして親密だったわけでもない。彼女の、微妙な隔意は大樹が感じているだけで、彼らの周りのクラスメートは誰一人気が付いていないだろう。大樹とて、以前なら気が付かなかった可能性すらある。


 しかし、大樹は気が付いた。そして、そのことが非常に気になっていた。


 なぜかといえば、大樹が時津 茜のことを非常に気にしていたからである。つまり、有体に言って彼女を女性として意識し出したということだ。


 飯塚あたりに言わせれば「今更かよ!」と笑われるところであろうが、大樹には大樹の事情があったのだ。何しろ彼女は、六年前に自分が地面から掘り起こした棺桶の中で死んでいた少女のはずである。高校で再会した彼女が如何に魅力的だったとはいえ、恋愛対象になり得なかったのも無理は無い。


 それがこの期に及んで気になりだしてしまった。大樹にしてみれば、一体どうしたのかと自分の内面を問い詰めたくもなるのだった。


 それにしても、大樹は横目で時津 茜の姿を追いながら思う。いったい俺が何をしでかしたというのか。あの時の、あの無邪気なまでの親密さはどこへ行ってしまったのか。


 時津 茜はクラスメートたちとにこやかに接する一方、大樹の方には顔も向けなかった。もちろん、声も掛けてこない。それはそれでいいのだが、極稀に視線が交錯すると、なんだか不機嫌そうな顔で大樹のことを睨み、あからさまにソッポを向くのだった。


 気になりだした少女からの無体な扱いに、大樹は少なからず意気消沈した。


 そのまま数日が過ぎ、学校はゴールデンウィークの休みを迎えた。




 時津神社に行ってみようと思ったのは、単に暇だったからに過ぎない。


 というわけではもちろん無い。


 ゴールデンウィーク明けにある中間テストの成績を願掛けに行く。


 わけでももちろん無い。


 境内で瞑想するため。


 そんな趣味はそもそも無い。


 大樹はバイクのアクセルを開けながらいろいろと自分をごまかす理屈を考え、結局諦めた。


 そう、自分は時津 茜に会いたいのだ。


 しかしながら、それでもあえて言い訳すれば、別段会いたくてたまらないという訳でもなかったのである。大樹は時津 茜のことが気にはなっていたが、寝ても覚めても忘れられない、というほどに恋している訳ではなかったからだ。無いはずだった。故に、やることも無く漫画を読みながらごろごろしている内に、唐突に時津神社に行って時津 茜がいるかどうか見てみよう、と思い立った時、意外な発想に自分の方が驚いたものだった。


 小学生の時は自転車で三十分位掛かったものだが、高校生の今は原チャリだ。十分も掛からず、参道の下に着く。


 おそらく、彼女の家というは参道の出口の下、道路を渡った反対側にある農家だろう。農家兼宮司なのだ。


 一瞬、そちらの家を覗こうかとも考えたが、身体は自然と参道へと向いていた。


 両側を貧弱なヒノキ林で挟まれた参道を登る。毎年正月に来ているので勝手知ったると言ってもよいような砂利道。勾配はそれほどきつくも無い。


 一分も掛からずに境内へと到着する。


 高い杉の木で囲まれた境内。本殿と拝殿、使っているのは見たことが無い、古い神楽殿。倉庫。それしかない。大昔はかなり栄えた由緒ある神社であり、本殿、拝殿はなかなか立派だ。軒先には昔の絵馬が数多く掛かっているが、半数は色が褪せて読めなくなっている。


 誰もいない。ここに人がいるのは正月だけだ。大樹にしてからが、ほとんど正月にしか来たことが無い。唯一の例外が、六年前のあの時だった。


 想像もつかないほど静かな空間だった。鳥の声さえ聞こえない。風は木々に遮られて届かず、ただ春の日差しだけが木々の隙間から境内に差し込む。自分の掃く息と、歩く時に発する自分の足音だけがやけに大きく響いた。


 そして、大樹は自分の目的を発見した。


 神楽殿の裏側。陽光が燦燦と降り注ぐ軒下に、少女が座っていた。


 飯塚がいないのが残念だ。大樹は親友のために思ってやった。


 時津 茜は、飯塚御希望の巫女衣装だったのだ。白い小袖に赤袴。なるほど、神性の象徴たる清楚な衣装は、まさに彼女の印象にぴったりで、実際、非日常的な衣服であるにもかかわらず、まるで違和感が無いほど似合っている。


 壁に背中を預け、居眠りをしているようだ。麗らかな春の日差しに柔らかそうな頬が照らされている。黒髪が巫女服の肩から腰に掛けて流れ、白い服に強いアクセントを加えていた。


 余りにも無防備なその姿に、大樹は思わずくすりと笑った。


 と、それだけで時津 茜は目を覚ました。


 薄く目を開け、不審気に声のした方向へ視線を飛ばす。そこには呑気な顔をした少年がポケットに手を突っ込んだ姿勢で立っていた。


 その正体に気が付いてから、時津 茜は改めて飛び起きた。


「た、大樹君!」


 彼女は思わず彼の名前を叫んだ。


 少年の方は苦笑しながらポケットから片手だけを出した。


「やぁ」


「な、な、な、なんでこんな所にいるの?」


 時津 茜は体中をわさわさ触って服を整えた。自分が巫女服に身を纏っているのに気が付き、更に焦る。


「あ、あのね、この服は」


「似合ってるよ」


 大樹はお世辞だとも思わずそう言った。時津 茜の顔が真っ赤に染まる。


「お、お義父さんが、着なさいって言うのよ。だから着てるの!」


「いいんじゃないか?」


「朝のお神酒の準備と境内の掃除はわたしの仕事なの。その時はこの格好をしなさいって!わたしが好きで着ているわけじゃないのよ」


 何をそんなに必死になって言い訳をしているのか。大樹は訝しんだ。時津 茜は赤くなった顔を俯けながら最後にぼそぼそと言った。


「・・・だから、学校では言わないで。恥ずかしいから・・・」


 大樹はまた苦笑した。飯塚には悪いがそう言われては仕方が無い。


「分かったよ。内緒にする」


 時津 茜は大樹の顔をしばし見詰め、溜息を吐いた。


「なんだよ、信用出来ない?」


「そうじゃないけど・・・」


 彼女的には、この彼にこの格好を見られてしまったことで既にショックだったのだ。


時津 茜は神楽殿から飛び降りた。足元がスニーカーなのは御愛敬だ。


まだ恥ずかしいのか俯きながら、それでも上目遣いで大樹のことを睨みながら近付く。


「何しに来たのよ」


「ご挨拶だな。散歩だよ。別に意味はない」


と嘘を吐いてみる。


今日は最初に彼女の無防備な姿を見てしまったせいか、いつもより彼女に対して優位に立っている感じがする。何しろ彼女はカリスマ的な所のある美人であるし、大樹にとってはいろいろな意味で特別な女性であったので、常に気後れを感じていたのだ。


同じ様な思いを時津 茜も感じているようだった。どことなく不満気に大樹を睨んでいる。


「昼間にちゃんと来た事が無かったんだよ。近いのに。こうしてみると、結構立派だな」


「そうよ、ここは馬の神様を祭っているの。昔は馬が交通機関の中心だったでしょう?だから戦前はかなり遠くからも参拝客が来ていたって話よ」


語る口調が誇らしげだ。


「お祭りもやっていたのよ。わたし達が生まれる前に止めちゃったみたいだけど」


「それは、知らなかった」


大樹の返事に大いに満足したのか、時津 茜は大樹を連れて、神社の由来や、かつては参道がもっとずっと先の街道の方から始まっていた事や、掛かっている絵馬の由来などを延々と説明し始めた。


大樹には別に歴史趣味はなかったが、巫女服を着た美人にこうして神社を案内してもらえるなどということはめったにある事とは思われず、それはそれで楽しい時間を過ごした。


そして、最後に時津 茜が大樹を連れて来たのは、大きな杉の木の下だった。


「そんで、ここが、わたしが六年前に拾われた場所」


大樹は即頭部をぶん殴られたかのような衝撃に、思わずよろめいた。


そう、そこは自分が六年前に少女を掘り当てた現場であったのだ。そこで彼女が拾われたのだという。拾われた?


「そう。ここにね、何だか素っ裸で寝ていたんだって。お義母さんが見付けたの」


起された時、既に記憶は無かった。自分がどこの誰で、どうしてこんな所に寝ていたのかも分からなかったのである。


「お義母さんがわたしを見付けた時、夕焼けが美しくわたしの事を茜色に染めていたんだって。だから、わたしの名前は、時津 茜」


大樹は立ち尽くした。衝撃の原因が次第に明らかになってくる。


やはり、夢ではなかったのだ。


彼女は確かにここにいて、自分によって掘り出されたのだ。


 あの時、大樹は少女を見た。


 確かに一糸纏わぬ姿で彼女はいた。時津 茜の証言はそれと一致する。


 そして、時も六年前の秋…。


 偶然というにはあまりにも出来すぎた一致ではないか。


 戦慄が改めて全身を駆け巡る。


 このことは一体何を意味しているのだろうか。


 六年の時を経ての再会。


 あの時、指先から広がった衝撃。


 今日、この時の邂逅。


 これらも全て偶然なのだろうか?それとも…。


呆然としている大樹を見て、時津 茜は何かを誤解したようだった。


「そんなに大した話じゃないのよ。クラスの女子は、わたしが養子だってことなんか、みんな知っている事だし」


「いや…」


大樹は一瞬、全てを明かそうか、と迷った。君を地面から掘り起こしたのはこの俺なのだ、と。


言えたものではない。妄想僻のある変な男と思われるのが落ちだ。なにしろ、生々しく鮮明な記憶の残っている大樹にしてからが、自分のことをそう疑ってしまうくらいなのだ。


時津 茜は何事かを苦悩している大樹の事を微妙な表情で眺めていたが、やがて明るく笑いながら言った。


「さ、これで家の神社の案内は終わり!感想は?」


「…面白かった」


「なによそれ!テレビのへたくそコメンテーターでももう少しましな感想を喋るわよ」


「ありがとう」


時津 茜は不意を突かれたように目を丸くし、やがて頬を染めて照れ笑いを浮かべた。


二人は並んで参道を降りていった。その途中、時津 茜がぽつりと言った。


「わたし、入江君のこと知ってたんだよ」


「いつから?」


この質問には大樹の巨大な緊張が隠されていたのだが、時津 茜は気が付かなかった。


「高校生になって、電車通学になった時よ。わたしは一本早い電車だけど、寝坊して何度か次の電車に乗った事があるの。その時『あ、同じ学校の生徒だ』って」


大樹と飯塚はいつもぎりぎりの電車で行くのだ。


「飯塚君とは同じクラスだったから知ってたんだけど、もう一人は誰なんだろうって、ずっと思ってた。だから、四月の始業式の時、すぐに分かったわ」


時津 茜はそこでちらっと、大樹のことを振り仰いだ。


「…そう」


大樹の気の無い返事に、時津 茜はがっかりしたような溜息を吐く。


参道の出口で二人は別れた。原チャリに跨る大樹に時津 茜が軽く手を振った。


「じゃあ、ね。入江君」


「大樹でいいよ」


真っ赤になって手を振り上げる時津 茜から逃れるように、大樹はアクセルを捻った。




「『泉』周辺で時空屈曲率が上昇している模様。注意されたし」


「どういうことか」


「時空間を変容させたいと『泉』が考えているということではないでしょうか」


「と、いうことは?」


「接触と同時に大規模な時空改変が生ずる可能性があると・・・」




連休明け、時津 茜は変身していた。


ぼんやり座っていた大樹の耳元で大声が炸裂する。


「おはよう!大樹君!」


思わず前につんのめりそうになる大樹。抗議の声を上げようと振り返ったそこに、ヒマワリのような笑顔を浮かべている美少女の姿があった。


時津 茜がなぜか素晴らしい笑顔を放ちながら大樹の事を見下ろしている。


「おはよう!」


「お、おはよう」


彼女は、大樹が返事をするのを満足そうに確認すると、自分の席に腰を下ろした。


 いつもであれば、周りの女生徒友達と談笑を始めるはずの彼女であったが、今日は違った。大樹の方に顔を向けたまま動かない。その表情は如何にも楽しげで、満足気で、何が楽しいのかニコニコ笑いっぱなしである。


大樹が気が付くと、周囲のクラスメートが唖然として二人に注目していた。その内、女子からは驚愕の波動が、男子からは更に大きな驚愕と嫉視が感じられるような気がしたが、これは大樹の思い込みかもしれない。


一体どういうことか。大樹の胸の鼓動は我知らず高まった。


ゴールデンウィーク、彼女の巫女姿を見た報復で俺をからかっているのか?それとも、飯塚たちにばらさない様に態度で念押ししているとか?そんなことをしなくても、人に言う気は元よりないのだが…。


大樹は考えたのだが、時津 茜の変身は朝だけに留まらなかったのである。


昼休み、購買部へパンでも買いに行こうかと立ち上り掛けた大樹を、時津 茜が引き止めた。


「お弁当、作ってきたんだけど、食べる?」


大樹は立ち尽くし、周囲にはどよめきが湧き起こった。時津 茜は、といえば、少し頬を赤くしてはいるものの、別に照れた様子もなく弁当箱を二つ取り出し、大き目の片一方を大樹に押し付けた。


「食べるよね」


 時津 茜の秀麗な顔に現われている表情は、不安、であった。断られることを恐れている、もしくは、自分の行為が彼の反発を呼ぶのではないか、と恐れている。そういう表情だった。そういった表情を浮かべる彼女は実に儚げで、大樹はいろいろな意味で動揺した。


大樹は周囲に、今度こそは紛れも無い殺気を感じた。ファンクラブでオークションを開けば百万円くらいにはなりそうな、時津茜の手作り(かどうかは判然としないが)弁当である。食べないなどと言えば男どもにくびり殺されるかも知れん。


大樹が恐る恐る弁当箱を開き、箸をつけるのを慎重に観察していた時津 茜は、彼がシュウマイを口に入れるのを見てようやく満足げに微笑み、自分の弁当に取り掛かり始めた。


大樹が気が付けば、二人の周囲五mから人気が消えていた。その代わりに、その外側からクラスメートや、他のクラスの連中までが駆けつけて、二人を注目しているようだった。


緊張の余り、美味いかどうかなど分からなかったが、食い終わると大樹は弁当箱を返しながら、時津茜に美味かった旨を伝えた。


「ごめんね、ほとんど冷凍食品なの」


時津 茜はあっさりと真相を暴露した。


「でも、その内ちゃんとした料理も出来るようになるからね」


と、控えめに微笑んだ。大樹の緊張を突き抜けて、もうどうでもいい、などと思わせてしまうような笑顔だった。


陶然としそうになる大樹の後頭部に何かが当たった。


振り向くと、飯塚以下、自称トキツファンクラブの面々がこの上ない程険悪な顔をして彼を手招きしていた。




「どーいうことなのか説明してもらおうか」


「何も」


ばっくれた訳ではない。大樹にも何が何だか分かっていなかったのである。


「…連休に何かあったのか?」


石井が愛敬のある顔に真剣そうな表情を貼り付けつつ言う。


何も…。と答えようとして、大樹は思い留まった。清水が目を光らせる。


「何かあったんだな!」


「言え!」


「でなきゃ、俺達の時津さんが、おまえみたいな十人並みに弁当なんて作ってくるか!」


「何か時津さんの弱みでも握ったんだろう!」


そんな馬鹿な、と言おうとしてまた口篭もる。時津 茜から巫女服を着ていた事を口止めされていた事を思い起こしたのだ。確かにこの連中に教えたりしたら、週末にでも盗撮行為に及びかねない。


しかし、口篭もった事は有罪の証であると判断した飯塚達は、いよいよ尋問の必要ありと認めたようだ。険悪な表情をしてにじり寄る。大樹が生命の危機を感じたその時、


「大樹君」


涼やかな声が掛かった。時津 茜が教室の入り口から体半分のぞかせて、こっちを見ている。大樹は廊下に連出されてファンクラブの面々に締め上げられていた訳だが、彼女の姿を見て彼らはいきなり直立不動の姿勢をとって大樹から離れた。


「何してるの?こっちで話そうよ」


と笑う。大樹は思わず頷いて、ファンクラブの面々から離れた。


「みんな、あんまり大樹君をいじめないでね」


時津 茜は片目を瞑り、飯塚、石井、清水は直立不動のまま「はい!」と返事をさせられていた。




その日の帰り、当たり前のように時津 茜が言った。


「一緒に帰りましょう」


断る理由は無論無く、大樹は彼女と肩を並べて下校する事となった。クラスメートたちは唖然と、もしくは敵意と嫉妬の視線も露に、この不釣合いな(と大樹は思っている)カップルを見送る。


この日一日、大樹は徹底的に困惑させられていた。


連休前のあの素っ気無い態度から、百八十度転換したこの態度はどういうことなのだろう。大樹は朴念仁と言っても良いような、有り体に言って恋愛未経験者であったのだが、今日の時津茜の行為があからさまな好意を意味する事が分からないほどボケてはいなかった。


しかしながらそのことで困惑は更に深まる。彼は確かに、連休前から時津 茜に対して密かな好意を抱くようになってはいた。連休中、特に用事も無いのに時津神社を訪れたのは、彼女の姿を見たいと思ったからだと認めても良い。しかしながら、それはどこまでも一方的な好意であったはずだ。時津 茜に対して、何らかのアプローチを仕掛けた事も、意志表示をしたことも、まだ無いはずだ。


 校舎からバス停まで、二人は並んで歩いた。


時津 茜は無意味に楽しそうな表情を保ったまま、彼の横を歩いている。そういう表情をしている時の彼女は、全身から発光しているかのような美しさであり、そういう顔を見ていると疑問などどうでも良いように思えてきてしまう。気が付けば、道行く人々が思わず振り返っている。大樹は誇ってもよいのか、気後れするべきなのか微妙な心境に陥った。


 新船学院の生徒で満杯に膨れたバスに立ったまま揺られ、駅へ降り立つ。


「ちょっと寄り道して行きましょう」


 という時津 茜に誘われるまま、駅ビルのデパートへと向かった。


 他愛も無い会話を交わした。今日の授業の話。それから派生した間近に迫る中間テストの話。先生の評判。友人たちの話…。ほぼ一方的に時津 茜が話し掛け、大樹はなんとかそれに答えるという状況だった。


 本屋、CDショップ、ちょっとジーンズショップをひやかし、ゲームセンターでエアホッケーをした。


 まったく、一体何をやっているのだろう。大樹は思った。


 楽しくないのかといえばまったくそんなことは無く、時津 茜が横にいてケラケラと笑っているだけで無性に楽しいのであったが、彼女の方はいったいどう思っているのだろうか。もっともてる奴であれば、もっとうまく彼女をリードすることが出来るのだろうか。ぐるぐる回る思考が考えられるのはそんなところだった。


 いい加減行くところが無くなって、二人は駅ビルを出た。


 前を歩く時津 茜は、不意に、進む方向を変えた。真っ直ぐ行けば改札口なのに、曲がって、駅の東口へと向かう連絡橋へと向かったのだ。戸惑う大樹を置き去りにして、さっさと歩いて行く。大樹はやや慌てて彼女の後を追った。


 良く分からないロックを腰の引けた声で歌っているストリートミュージシャンを横目に連絡橋を渡り、駅の東口へと降り立った。東口は再開発地区で、大樹はあまり来た事が無い。時刻は夕暮れに近い。オレンジ色の日差しが時津 茜の黒髪に反射した瞬間、大樹は一瞬だけ六年前のあの少女を思い出した。


 降りたところはちょっとした広場になっており、そこにあるベンチの一つに、時津 茜は腰を下ろした。その横に、一体何を表現したのか良く分からない石像が立っている。


 なんとなく、大樹は時津 茜の正面に立った。


「疲れた」


 時津 茜は俯きつつ、ぼそっと言った。


「慣れないことをするとダメね。わたし、こういうことしたことないから」


 何を言い出すのか。駅に上がる人、降りてくる人で広場にはひっきりなしに人が往来していた。ざわめきと車の行き交う音でかなり喧しい。大樹は彼女の声を良く聞こうと身体を屈める。


 突然、時津 茜が顔を上げた。その意外な近さにどきっとする。


「どう思った?大樹君」


「…どうって?」


「わたしが、何を考えているのか?って思ってたでしょう?」


 図星だった。


「わたし、別に、冗談や気まぐれでこんなことしてるんじゃないよ、その・・・」


 時津 茜はまたやや俯き小さな声で付け加えた。


「本気だから」


 何が本気なのか、とは、流石に聞かなかった。今日一日の彼女の様子を目にして、そんな言葉を返してしまう奴は馬にでも食われてしまえばいい。大樹はそれでも数秒、枯れ木にでもなったかのように沈黙し、ようやく言った。


「どうして、今日、突然?」


「突然じゃない」


 時津 茜は俯いたまま、自棄になったように言う。


「最初に見た時からずっと!今年隣の席に座って、すごく!その・・・」


「…君には嫌われてるのかと思ってたよ」


「怖かったのよ…。あの時、あなたに触れて、わたしすごく気持ちよかったの。あんなこと初めてだった。わたしにとってあなたはきっと特別な人なんだって、あの時気が付いた。でも、それで何かが変わってしまう気がして、怖かった・・・」


 大樹は時津 茜の髪の光沢に目を奪われながら聞く。


「でも、連休中、あなたが来てくれて、神社であなたと話して、確信したの。わたしは、あなたが、好きだって」


 時津 茜は顔を上げなかった。しかし大樹は、彼女が自分のターンを終えたことを悟った。


 大樹は我知らず嘆息した。それに反応して時津 茜の肩が少し動くのが見える。


 大樹は諦めた。


 色々気になることや不可解なことを解明すること、言い訳を作って彼女の想いから逃げることを、諦めた。


 自分の気持ちをごまかす事も、もう出来そうに無かった。


 大樹は何か気の効いた言葉は無いものかと探したが、結局思い付かずに、誤解しようの無いほど簡潔明瞭な答えを、発した。


「僕も君のことが好きだ。分かっているとは思うけどね」


 大樹は彼女の耳元に口を寄せて囁いた。


 時津 茜はなかなか顔を上げなかった。その方が大樹にとっても都合がいい。おそらく首筋まで赤くなっていた顔を見られずに済むからだ。


 顔を上げた時、意外なことに時津 茜は笑ってはいなかった。


 不安そうな顔をしていた。心細いような、恐れるような表情を浮かべながら、大樹のことを見る。


「本当?」


「…俺の方こそ君にそう聞きたいところだよ」


 大樹は苦笑した。


 大樹の笑顔を見て、ようやく時津 茜の表情が綻び始めた。


 それは、程なく大輪の花顔負けの笑顔となった。


「証拠を見せて」


 意外なことを言った。


「証拠?」


「うん」


 大樹はまた顔が熱くなるのを感じた。彼女が何を要求しているのか、気が付いたのだ。


「今、ここでかい?」


「うん」


 大樹は躊躇したが、時津 茜はお構い無しだ。さっさと目を閉じる。


 追い詰められた大樹は、周囲を見回し、そして更に戸惑いつつ、時津 茜に恐る恐る顔を近づける。しかし、最後の一瞬で勇気が尽きた。


 大樹は時津 茜の額に一瞬、唇を押し付けた。


 その瞬間、以前初めて手を触れた時のような、そしてその何倍もの快感と衝撃が二人の体内を走り抜けた。


 その瞬間、世界が変容する。




「時空震発生!」


「規模測定不能!」


「空間変相確認!効果範囲不明!」


「時空改変規模が把握出来ません!」


「レッドアラート!」




「…意気地なし」


「そう言わないでくれよ、精一杯頑張ったんだから」


 時津 茜も大樹も真っ赤な顔をしているお互いを見ていた。


「まぁ、いいわ。お楽しみは後にとっておくから」


「勘弁してくれよ」


 大樹は時津 茜の差し伸べた手を取り、彼女を起こしてやる。


「さ、帰ろう」


「うん。…あれ?」


 時津 茜はふと、周囲を見回した。


「どうしたの?」


「いきなり人がいなくなっちゃったわね?」


 大樹も気が付いた。広場、連絡橋に上がる階段、歩道など、先ほどまであれほど混雑していたこのあたり一帯から人が消えていた。不思議と、静まり返っている。


「珍しいこともあるものね」


「まぁ、あんまり人に見られたくなかったからよかったよ」


 二人は少し見詰めあい、手を握り合って連絡橋へ上がる階段へと歩き始めた。




「…やはり、あの『泉』は唯の『泉』では無いわね」


「開扉条件に制限があるようですが」


「『鍵』との交感に関係がありそうだけど・・・」


「データが不足していて、今の時点ではなんとも言えませんが」


「いずれにしろ、あの『泉』がとんでもないところに繋がっているのは確実ね。『鍵』はどうなのかしら」


「何れにしろ普通と違って『鍵』の思念がそのまま時空改変に繋がる訳では無いようです」


「フム…。引き続き観察とデータ収集を続行」


「ハ!」





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