戦争部戦記3
お茶は、別に日本人だけの飲み物ではない。
大体が元々は中国原産の飲み物だ。ヨーロッパ人もかなり昔から茶を中国から輸入していたし、イギリス人なんぞは紅茶が無ければ朝が始まらないらしい。
だから、アングロサクソンが茶を啜っていても少しもおかしいことはない。筈だ。
しかしながら、俺的には炬燵に座って湯飲みから日本茶を啜るというのはどうしても純和風文化だと思える訳で、やはり白人がそれをやっているとどうしようもないほどの違和感を覚えざるを得ない。
しかもその白人のガキ、ジョンは非の打ち所の無い姿勢で正座し、きちんと両手で湯飲みを持ってズズズ、と音を立てて茶を啜っている。やばいくらい似合わないね。
俺はあらぬ方向を向いて何度目かの溜息を吐いた。
「ムサシ、そうあからさまに嫌がらないで下さいよ。あなたと僕の仲ではありませんか」
「どういう仲だ」
「一緒に死線を潜り抜けた仲間でしょう?仲良くしましょうよ」
アホか。
せめておまえが二度と俺の前に現れなければ、追憶の中でいつしか美化されてそういう同志的感情が生じなかったとも限らないがね。
「僕としてもあなたの意志は尊重したい所だったのですが、これも仕事でして。いや、宮仕えの辛い所です」
おまえさんの勤め先とやらには並々ならぬ興味をそそられるよ。何しろ、初夏の事件の時には頼みもしないのに、車一台分の傭兵料が入金されていたからな。残高照会した時には心臓が止まるかと思ったぞ。
しかし、俺が今現在気にするべきは、こいつの勤め先よりも、もっと身近なことだ。
「どうして俺の所に来るんだ?おまえの目的はいつだって小笠原 麗子なんじゃないのか?」
そう、ここは俺の部屋だった。
冬も終わろうかというある日曜日、麗子の呼び出しがないことを良い事にまったりしていた俺はこいつの来訪をお袋に告げられたのだった。
「外人よ外人!あんた外人に友達なんているの?」
お袋が興奮して叫んだ瞬間、俺には事態が理解出来てしまった。何しろ俺には外人の知りあいは片手に余る程しかおらず、その中で俺の家まで知っている奴といえば、ジョンしかいないからである。
そして、まさかジョンが茶飲み話をしに来たなどということはまず有り得ず、また、かなりの高確率で厄介事を持ち込んできたであろう事は明白で、嬉々としてお茶を差し入れに来たお袋にそんなことせんでもいいという訳にもいかず、にこやかに茶を啜っているジョンを見ながら溜息を吐くより他に仕方が無い。ふぅ。
「そうです。僕の仕事はレディ・ジェネラルの保護です。今回も」
「おまえは小笠原 麗子専属か?」
「そういう訳ではありませんが、彼女絡みの仕事がかなりのウエートを占めていることは否定しませんよ」
「小笠原 麗子の瞳の虹彩紋はもう、核ミサイルの鍵には使えないんだろう?今度は何なんだ?」
ジョンはクスリと笑った。なんだ気持ち悪い。
「今回は内緒は無しにしますよ。最初にあなたに全て明かしておきます。それだけあなたを信用しているのだと思って頂きたい」
「嘘つけ」
俺は決め付けた。
「どうせ、厄介事を押し付けようと企んでいるんだろう」
「御明察。仕方が無いんですよ。あなたにしか出来ない仕事でして」
ああ、聞きたくない。どうせ俺には拒否権は無いんだろう?聞いちまったら今回も鉄砲絡みの事件に巻き込まれるのに違いない。
しかし、俺の想像力など貧困なものだった。湯飲みに残ったお茶を飲み干してから意味ありげに口を開いたジョンの話を聞いて、
俺は文字通り絶句した。
もうすぐ俺は高校2年生になる。
ということは、俺が戦争部の、いやさ小笠原 麗子の存在を知ってしまってから丸一年が経とうとしているということである。
世の中には知らない方が良い事が幾つもあって、戦争部と小笠原 麗子の存在はどう考えてもそれに含まれるような気がする。まぁ、知ってしまった以上は仕方が無い。その場合は成るべく速やかに忘却してしまい、そっちの方を見ない様にして過ごすのがベストだろう。俺みたいにどっぷり巻き込まれている場合?諦めて朱に染まるしかないだろうよ。
この所、小笠原 麗子は実にご機嫌だった。
それというのもこの冬、ある騒動を経て彼女は「厄介事に無理矢理首を突っ込んで、騒動を大きくする」という発想を得ていたのだ。
麗子は「悩み事を解決します」というポスターを作り、そこら中に貼り付けた挙げ句、朝のホームルーム前、全学年全教室に逐一乗込んで「面白そうな事があったらなんでもあたし達(当然俺も無理矢理同行させられた)に教えなさい!」という演説をぶった。
この結果、俺は(何故か俺だけが)生徒指導室に呼び出されてこっぴどく怒られた。生活指導教諭曰く「おまえが止めないで誰が止めるんだ!」という訳だが、俺にだって止められないのだという主張は一応は認められたようで、それ以上のお咎めはなかった。
麗子の演説は、学校中でそれなりに話題となり、どうも戦争部は探偵部でもあるらしいというやや不正確な認識を持たれたらしい。数日後、ぽつぽつと依頼人が部室を訪れたのには本当に驚いた。
しかし、その依頼内容たるや「猫を探して欲しい」だの「彼氏の様子がおかしいので探って欲しいだの」およそ麗子が期待しているような華々しい事件とは縁が無さそうなものばかりだった。俺は、世の中の私立探偵とやらはこういうつまらん仕事で食ってるんだろうな、と同情した。
しかし、小笠原 麗子は信じられない事に、実に愛想良く依頼を引き受けた。
彼女がボランティア精神に目覚めるなど、真夏に雪が降るより有り得ない事だ。俺は少なからず警戒してはいたのだが、この女のやる事はいつも俺の予想を平然と越えてみせる。
猫探し。
ブービートラップを応用した猫用の罠を依頼者の家周辺にこれでもかというほど仕掛け、13匹の猫、3匹の犬、おっさん一人を巻き込んだ挙げ句、無事目的の猫もひっ捕らえる事に成功。引掻かれたり噛まれたりで、網から猫や犬を出してやるのが大変だった。おっさんは言うまでもない。
素行調査。
いきなり依頼者の彼氏とやらを逮捕して、部室で拷問。もっとも、天井から吊るして、麗子が拷問のプランを話し始めた所で全て(自分の浮気)を白状してしまったので未遂に終わった。無実でなくて何よりだ。
こんな感じで、目的のためなら手段を選ばない、犯罪的な手法を用いた捜査のおかげで、依頼は尽く解決。もっとも、それが好評に結びついたかどうかは別問題だが。
つまり、麗子はそれがどんなくだらない依頼であっても、それを自分が楽しめるように話を大きくしてしまうのである。一度などは「没収された音楽プレーヤーを取り戻して欲しい」という依頼を受けて、職員室に催涙ガスを噴霧しようとしやがった。流石にそれは俺が死にもの狂いで止め、麗子が教師の気を逸らしている内に俺がこっそり盗み出すという、まだしも穏当な手段に変更させたが。
とにかく、麗子は法律というものを些か以上に軽視するというか無視する傾向が強く、巻き込まれている俺としては彼女の暴走に巻き込まれて新聞ネタに成らない様に努力しなければ成らず、結果的に犯罪行為に手を貸す事となり、最早俺は被害者だとばかりもいっていられない事は明白でちょっとブルーだ。
反対に麗子はご機嫌だ。流石に鉄砲ネタこそ無いが、暴走族が夜中うるさいなどという依頼を受ければ、暴走族を誘導して分散させた挙げ句、ブービートラップ及びモデルガンで襲撃するなどということもあった。サバイバルゲームなどよりも確かに実戦的だということはいえる。なにしろ麗子は暴れられさえすればご機嫌なのだ。
しかし、これ以上この事態を放置すれば、ここは法治国家の日本であるから、流石にその内に本気でまずい事態になるだろうな。麗子の暴走をどうやって止めようかと頭を悩ませていたそのタイミングで、名無しのジョンが俺の家にやってきたのである。
俺の家に来た次の日、部室を訪れたジョンを見て麗子は文字通り欣喜雀躍した。
ジョンの登場は即ち鉄砲絡みの厄介事の到来であることは、俺と麗子の共通認識だ。しかしながらその受け止め方は180度異なるが。
「ジョン!ずいぶんと久しぶりね!なにやってたのよ!」
ジョンの小さな身体を抱きしめ、金髪頭をグリグリと撫でながら麗子は叫んだ。
「さ、座って座って!何?今度は。テロリスト?国際犯罪組織?それともスパイ?」
「残念ながら、その何れでもありません。レディ・ジェネラル」
ジョンはその美少年顔に人当たりの良さそうな微笑を浮かべた。
「じゃぁ、暗殺?人殺しはやった事無いけど…」
「惜しい、その逆ですよ」
ジョンの言葉に麗子は眉を寄せた。
「逆?」
「そうです。今度あなたがたにやって頂きたいのは、とある要人を護衛する事です」
ジョンは微笑を湛えたまま話し始めた。
中東の辺りにあるとある王国の王子とやらが日本を訪問し、よりにもよってこの辺りを観光してみたいと言い出したのだという。なんでも、日本の中でも中途半端に田舎である場所が見たかったのだとのこと。
この王子とやらがまったくとんでも無い野郎で、なんでもごつい男の護衛は「むさいから」という理由で拒否。女性のSPを所望したのだという。東京辺りならそれでも何とかなったが、この片田舎では女性のSPなど居はしない。そこで、麗子に白羽の矢が立ったという訳らしい。
俺は密かに溜息を吐いた。
俺は事前にジョンから真実を聞いており、この時ジョンが語ったことが嘘八百だと承知していた。それにしてもあまりにも有り勝ちで粗雑な嘘では無いか。何で日本に来た要人の警護をジョン達が担当しているのか?何で警察官でもない麗子が指名されねばならんのか?吐くならもう少し整合性のある嘘を吐いてくれ。麗子が疑ったらどうするんだ。
しかし、物事がドンパチに関わる事となると、途端に盲目的になってしまうのが麗子という女なのだ。鉄砲が撃てさえすれば理由などは何でもいいのだ。この時も彼女は「要人警護」というところで思考がストップしてしまったらしい。
「ねぇねぇ、そいつ、どんな奴等に狙われてるの?」
「そうですね、中東ですから、宗教的対立組織とか」
「王族だから、対立している別の王族とか、貴族とかいう線もあるわよね」
「そうですね、身の代金目的の誘拐犯なんかもいるかもしれません」
「単なる愉快犯的なテロリストもいるかもしれないわねぇ」
…麗子はとにかく、護衛する相手が危険に晒されていればいる程、自分が暴れられるチャンスが増えると考えているようである。おいおい、要人警護ってのは、最終的にそいつが無事でなければ成功とは言えないんだぞ?麗子に護衛などされたら、逆に巻き込まれて危険に晒されそうな気がする。
とにかく麗子は実にご機嫌となり、その要人とやらがこの週末にやってくる事を聞くと、こぶしで力強く胸を叩いた。
「あたしに任せておきなさい!」
出来れば任せたくないが、任せない訳にはいかないのだ。今回の場合。
そいつは、こげ茶色の髪を持つ、なかなかの美男子だった。
すらりとした長身を、品の良いチェックのシャツとベージュのスラックスで包み、鈍行電車から優雅に降り立ったそいつを一目見て、俺は本能的な反感を覚えた。男なら、美男子などという人種を目にすれば必ず敵意を覚えるべきだろう。
年の頃は俺と同じくらい。中東のプリンスと聞いて無意識に想像してしまったような白いマントもお付きの召し使いもない。そもそも中東辺りの人間というのは、顔の彫りが深い事を除けば日本人に紛れてしまえる程度の違いしかない。そいつもごく自然に周囲に溶け込んでいた。
そこに、一人の女性が近付く。
クリーム色のセーターとジーンズという、どこにでも居そうな高校生といった感じの、小柄で長髪の女性。その実態はけして普通の高校生ではないのだが。颯爽とした足取りでホームを歩き、男の前で彼女はきれいなお辞儀をした。
小笠原 麗子はなかなか上出来な営業スマイルを眼鏡の向こうに浮かべていた。
男は満面の笑みを浮かべて右手を差し出す。二人は何事かを話しながら握手を交した。多分使っている言語は英語なのだろうね。聞いても解りはしないだろう。
なんだか腹立たしい。
『何をぶつくさ言ってるんです?ぼんやりして二人を見失わないで下さいよ?』
右耳に差し込んだイヤホンからジョンの声が聞こえた。
言われないでも分かってるよ。俺は歩道橋の上から二人を見下ろしていた。ジョンとその仲間達も、違った位置から二人を監視しているはずだ。
あの美男子がVIPであるのは本当だ。そして、SPに間近からガードされるのが嫌いだというのも。そのため、こんな風に遠巻きに護衛する事になったのであるという。そもそも、彼が日本に入国した事自体が極秘のお忍びである。日本政府や警察は何も知らされていない。故にジョン達がガードする羽目になった。まぁ、それにはもう一つ理由があるのだが。
アフマド・サリファンとかいう名前のその若様を連れて、麗子は先に立って歩き始める。彼女はこいつを観光案内してやることになっていた。このど田舎のどこを観光させればいいのやら。しかし麗子はさっさと歩き始め、アフマドも好奇心一杯といった風情で後に続く。仕方無く俺も二人を尾行し始めた。
このくそど田舎の寂れきった町を徒歩で観光しても、面白い事など何もあるまい。俺がそういうと、ジョンは意外にもまじめな顔で反論した。
「そんなことはありません。日本の風景というのは、それだけで外国人から見れば独特で興味深いものなのですよ。建物の立ち並び方、狭い道路、田畑の様子や遠い山影を見るだけで十分エキゾチックです」
そういうもんかね。
「レディ・ジェネラルはアメリカにいらっしゃった事があるくらいだから、何を見れば外国人が喜ぶかは解るでしょう」
ということで、このお忍び観光のルートは、全て麗子に一任されていた。ただし、バイクや車の使用は禁止。そうでないと俺達が追っ駆けられないからな。
俺は、寂れきった商店街の方に歩いて行く二人の背中を見ながら、何とはなく溜息を吐いた。
俺の出番はもう少し先の予定だ。
この町は、本気で何も無い町だ。市役所が作ったこの町の観光案内を見ると、製作者が苦心惨澹した痕跡がよく分かる。どうでも良い旧家や神社はもとより、一般家屋の庭先に立っている樹齢何百年かのケヤキか何かまで記してあるのだ。俺が外国人を案内してやれ、などという依頼を受けたなら悩んでしまう事だろう。
しかし麗子は別に悩んでいる風も無く、アフマドと楽しそうに談笑しながら歩いて行く。
時折、立ち止まってアフマドがなにか言い、麗子がそれに答えている。指差す先にあるのは何の変哲も無い看板や、傾いたような古い家屋である。そんなもん見て何が楽しいのか、アフマドは真剣な顔をして頷いたり、大仰に驚いたりする。外国人の考えていることはよく分からんね。
俺は二人から50mほど離れた後方をぶらぶらと歩いていた。この辺は俺の庭みたいなものだ。最近ではすっかり寂れてしまった商店街だが、俺が小学生の頃はこの辺の文房具屋やおもちゃ屋にチャリンコぶっとばしては良く来たものなのである。なので、離れた位置からも麗子達が何を見ているのかが分かる訳だ。
二人の行く先も想像がつく。そっちの方には陸橋を渡った先に公園があるのだ。この辺ではツツジと桜の名所として知られているが、どちらも季節にはちょっと早い。桜の季節ならともかく、あんな公園に外国人を連れていって喜ぶのだろうか?
それにしても、俺は遠目で二人を観察しながら、自分の立場が馬鹿馬鹿しくなった。このまま商店街にある馴染みの本屋にでも入ってしまおうかとも思う。俺はそれでも別に困らないし。困るのはジョン達の方なのだ。
だがしかし、俺は角を曲がった二人を見失わない様に足を速めた。
困らないが、このまま二人を放置する事はいろんな意味で出来ないのだ。いや、世界平和とか、国際関係とかそういう意味で。
陸橋の頂点で、二人は何やら話し込んでいた。街の様子や遠い山の説明をしているのだろう。アフマドは背が高く、麗子は背が低い。麗子の肩にアフマドの手が回されるのを見て俺の目は半眼になる。麗子はするりと身を躱すと、先に立って歩き始めた。何とはなく安心する。
案の定、桜のつぼみはまだ固かった。公園の中は、人通りも閑散としている。麗子はしかし、桜やツツジを指差して二言三言説明しただけで、さっさと公園から出て来てしまった。公園の入り口で二人を見張っていた俺は、慌てて身を隠す。そのすぐ横を、仲よさげに(英語で)談笑する二人が通り過ぎた。
なんか腹立たしい。
二人は自動販売機でジュースを買い、それを飲みながら歩いて行く。警察署を指差して麗子が何かを言うと、アフマドが何やら爆笑した。何を言ったのやら。そのまま警察署の横を通り過ぎて、こざっぱりとした住宅街の横を抜ける。
こっちの方に何かあったかな、そう考えていると、麗子は一件の建物を指差した。
ラーメン屋だ。そういえばゆっくり歩いてきたせいで、時間は既に昼飯時になっていたのだった。
麗子達が入っていってから、頃合いを見計らって俺も店に入る。おお、暖かい。まだ早春であるから、そぞろ歩きをするにはまだ肌寒さを感じずにはいられなかったのだ。
アフマドはそれこそ好奇心の固まりになったかのように、店にあるあらゆる物を指差しては麗子に説明を求めている。なるほど、外国人というのはこういう所にこそ面白味を感じる物らしい。確かに俺だって、外国の食い物屋に行ったら、見るもの全てが珍しく感じられる事だろう。
俺は野菜ラーメンを注文しながらやや安心した。アフマドは麗子流の観光案内をなかなか楽しんでいるらしい。こいつがつまらなそうな様子を見せようものなら、麗子の方が不機嫌になり、それなら無理矢理にでも面白くしてやると言って暴走を始めてしまうかもしれないからな。その意味では良かった。
しかし上手く猫を被る物だ。ここまで、麗子はかなり控えめな女学生として振る舞っている。もっとも麗子は、通常モードの際には実に上品な振る舞いを見せるものなのだ。問題なのは戦闘モードに切り替わった時である。
と、イヤホンからジョンの声が聞こえた。
『注意して下さい。始めましたよ』
俺は顔を突っ込んでいたラーメンどんぶりから思わず顔を上げた。
アフマドが麗子の髪を触りながら何事か語り掛けている。麗子の方はきょとんとした顔をしているが。
まさかラーメン屋で始めるとはな。俺は正直、意表を突かれた。油の匂い立ち込めるラーメン屋というのは、女を口説くのにとても相応しいとは思えない。まぁ、そういうのは日本人の勝手な思い込みなのかも知れないが。
そうなのだ。このアフマドという男は、有名な女たらしなのである。
美人と見れば誰彼無く口説き始めるというどうしようもない奴なのだ。中東の王子だというのに宗教的タブーは一切気にしない。しかし一夫多妻という都合のいい所は宗教に準じている由で、国にはこの若さで2人の妻がいるのだという。おいおい。
なんだか情熱的にアピールするアフマドだが、麗子の方はその内馬鹿馬鹿しくなったのかラーメンの続きに戻る。アフマドの方も麗子の反応が無いことが解ると、大仰に嘆いてからどんぶりをフォークで掻き回し始めた。そういえばここのラーメンはとんこつ出汁じゃなかったか?
ほっと一安心だ。俺の任務の一つは、アフマドが麗子を口説き始めたら警戒する事なのである。何を警戒するのかと言えば、アフマドのしつこさに麗子が切れて暴れ出さない様に警戒するわけだ。
まったく馬鹿馬鹿しい。
しかし、実際そう口にした俺に向かって、ジョンは苦笑しながらもこう言った。
「そういう馬鹿馬鹿しいことが理由で起こる国際紛争や戦争は後を立たないのも事実ですよ。あなたの肩に世界平和が掛かっていると思ってがんばって下さい」
ようするにアフマドの機嫌を大きく損ねると、世界平和に何らかの影響があるということらしい。
ならば始めから麗子をアフマドに近付けなければいい訳なのだが…。
そもそも、麗子をSP兼観光案内に付ける事は、アフマド側からの要請によるものなのだという。それを聞いた時、俺は開いた口が塞がらなかった。
「どういうことなんだ?」
「アフマド・サリファン殿下はですね、数年前アメリカに留学していた事があるのですよ」
嫌な予感がするな。まさかその先で見掛けた麗子に一目ぼれしたとか、そういうベタなパターンじゃないだろうな。
「そのまさかですよ。殿下は国に帰られてからもレディ・ジェネラルのことが忘れられず、調べさせたのだそうです。しかし彼女の方は日本に帰って来てしまい、なかなか消息が掴めない。諦め掛けていた先日、ようやくこちらに居ると解って、それで飛んで来たと。まぁ、そういうわけです」
女たらしの割に一途な所もあるんだな。
「呑気な事を言っている場合ではありません。殿下は本気らしいのですよ。なんとしてもレディ・ジェネラルを口説き落として国に連れ帰ると言っているそうです。第一夫人の地位を用意するとまで言ってるんです」
ほほう。
「あ、事態の深刻さがよく分かっていませんね?アフマド殿下の国は産油国でありパイプラインの中継拠点でもあるのですよ。石油メジャーと手を組んで世界中の原油価格に影響を及ぼす事が出来るんです」
そりゃスゴイ。
「彼が本気になればレディ・ジェネラルが望むほとんどあらゆる事を贈る事が出来るでしょう。そうですね、彼女がそう望むなら、彼女が本気で戦える戦争を一つ引き起こすくらいの事はやってのけるでしょう」
…。
「そこまで行かなくても、警察が気に入らないと彼女が漏らせば警視庁を爆破し、政府に対する批判でも漏らせば国会議事堂が焼き討ちされるかもしれません。彼にはそれくらいの力があるのですよ」
…そんなのを相手にして俺にどうしろと?
「レディ・ジェネラルがあの若様に誑かされないようにして下さい。ああ、逆に派手に振られても困るんですが。怒った若様が切れて何をしでかすか分かりませんからね」
「どうしたらそんなことが可能なんだ?」
ジョンはなんだか引っ掛かる微笑を浮かべた。なんだその変な目は。
「あなたがレディ・ジェネラルの恋人だという事にします」
…。
「聞こえてますか」
「俺の耳が正常なら、そんな言語が耳に入る筈も無い」
「いやいや、正常のようで慶賀の至りです。大丈夫です。別に本当に恋人同士になれなどという野暮は申しませんよ」
当たり前だ。
「つまりですね、若様がレディ・ジェネラルを誑かしそうになったらあなたが二人の前に登場して叫ぶ訳です『俺の女に手を出すな!』とね」
…。
「もしくはレディ・ジェネラルが若様に肘鉄を食らわしそうになった時にですね、あなたが登場して『すまない、彼女は僕の…』」
「待て!」
俺は頭痛を感じて頭を押さえた。…本気で言ってるのか?
「オオマジです。あなたほどこの役目が相応しい人はおりますまい」
おまえがやれ。
「それこそ本気ですか?説得力がありませんよ」
「じゃぁ、どっかからいい男をスカウトしてこいよ。俺はごめんだ!」
ジョンはフフ、と笑った。
「あなたに選択の余地があるとお思いですか?」
…これだ。
「あなたがお思いになっている以上に事は重大なのです。世界平和のためにここは一つ一肌脱いで頂きたい」
要請の形を借りた強制のくせに、ジョンは深々と頭を下げてみせた。
という訳で、俺は気乗りがしないままアフマドと麗子を尾行している訳なのだ。
このまま何事も無く二人の観光が進み、恙無く終了してくれないものか。俺は恐らく空しいのであろう希望を抱いた。
何しろ、1960年代の恋愛ドラマそこのけの臭いシーンを演出するのが俺の役目だというのだから、足取りが重くなるのも無理はないだろう。しかも恐らく人前で。出来る限り人気の無い所でやって欲しいものだが、ラーメン屋でいきなり口説き始めるくらいだから期待は薄いな。
二人はラーメン屋を出て住宅街を歩いて行く。比較的最近に再開発された地域であり、新し目な西洋風?住宅が立ち並んでいる。それでもアフマドは興味津々といった風情だ。麗子の歓心を買う為の演技なのかとも思うが、どうもそうは見えない。
特にそこにある県立高校の横を通った時にはずいぶん長い間立ち止まっていろいろ話をしている様だった。
楽しいげな二人。まぁ、この二人はいい。背の高いハンサムなアフマドと麗子が立ち話する様は絵にならない事も無い。
だが俺は?用も無いのに、しかも住宅地の真ん中で身体を電柱の影に潜めるようにして、多少寒さに震えながら二人の方を盗み見ている俺は、怪しい人度数80%以上じゃないか?警察に通報されない事を祈るばかりだ。
俺の願いが通じたのか、二人は動き出した。次に入ったのは大き目な電器店だ。…観光になるのか?
しかしそんな危惧は無用だった。アフマドはパソコン、マッサージチェア、果ては温便座にまで旺盛な好奇心を発揮し、麗子と呼び寄せられた店員を質問攻めにした挙げ句、二時間後、何も買わずに店を後にした。俺はその間中用も無いまま店の中をうろうろし、店員の冷たい視線に耐えねばならなかった。
それからも麗子式観光案内は続き、町中の畑を勝手に耕してみせたり、庭先の柿を勝手にもいでみせたり(共に犯罪です)しながら、二人は次第に町外れの神社へと向っているようであった。
そうだな、この辺ではもっとも観光名所っぽい場所といえばこの神社になるだろう。なかなか立派な神社で、山門か何かが重要文化財に指定されている筈だ。ただし、全国的な知名度を誇るほどではない。
うっそうとした杉林で包まれた小高い丘の上に建つ神社である。その杉の木も一本一本が大層太く、かなりの歴史があるのであろうことを感じさせる。朱色に塗られた立派な鳥居。その周りはきれいに掃き清められ、その向こうにかなり急な石段が続く。
石段の上にある門が重要文化財の山門であるらしい。なるほど、神社の建物にしては鮮やかに彩色されたそれは華やかである。
白い石灯篭の間を抜けるとやや広めな境内に出る。祭りや年始にくればそれなりに混雑しているここも、今はほとんど人などいない。俺は山門の影から様子を窺った。
二人は賽銭も入れずに拝殿のしめ縄をガラガラと振回した後、本殿の奥を覗き込み、それから何やら話しながら引き返してきた。
あ…。俺はようやく出番が訪れたことを悟った。
境内の中央で、俄然アフマドが麗子に迫り出したのである。身振り手振りを交えて熱烈に何かをアピールしている。切れ切れに聞こえてくる言葉の意味は分からなくても、奴が何を口走っているかは明白だった。
麗子の方はと言えば、最初は困惑しているようだった。苦笑を作り手を振っている。つまり、事を冗談で済ませようとしたのであろう。しかし、アフマドにはその気が無かった。彼女の手を握り、熱烈に、心情を込めて麗子に愛をアピールしている。なんだか中東というよりはラテン的なノリのような気がするな。よくは知らないが。
その内、一応はアフマドに何やら答えていた麗子が、沈黙した。まずい傾向だ。ほら、猫をかまい過ぎるとその内無反応になる、あの感じだ。その内、切れて暴れ出す。
限界だ。俺は観念した。
麗子の目尻は次第に釣り上がっていった。本来彼女は恋愛には比較的鷹揚で、かつては告白してきた男子全てと一応デートした事さえあった(全員彼女の暴走タンデムで心に傷を負わされた)。しかし、この時はアフマドの何かがすこぶる気に食わなかったらしい。そして遂に、麗子はやおらアフマドの手を振り解き、奴に決然と向き直った。そして、勢い良く口を開こうとした。
「麗子!」
俺は山門の陰から姿を現した。可能な限り平静を装って。
その瞬間の麗子の表情は忘れ難い。突き破ろうとした壁が実は立体映像でした、というような感じで、つまりは拍子抜けを絵に描いたような表情だった。
麗子は、俺やジョンが自分たちを尾行していることを知っていた。故に俺がここにいる事に驚いてはいない筈である。驚きの原因は俺が姿を現した事と、俺の呼びかけが「麗子先輩」ではなく「麗子」と呼び捨てだった事だろう。俺は本意ではないが更に彼女を驚かせる事にした。真っ直ぐと麗子に歩み寄ると、彼女の腰に手を回して自分の方に引き寄せたのだ。小さな麗子の身体がはっきりと硬直する。
「こんな所で会えるとは偶然以外の何物でも無いね。こちらの方は誰かな?」
棒読みであるのは勘弁して欲しい。俺は役者ではないからな。アフマドは日本語を解さない筈で、俺の三文芝居でもどうにか誤魔化せるだろうという計算だ。
アフマドは突然の俺の登場に驚きの目を見張っている。そりゃそうだろう。俺の出現はあまりにも脈絡を無視して唐突だったからな。まさか俺が出番を待って延々二人を付け回していたとは思いもすまい。
アフマドも驚いたが、最も驚いていたのは小笠原 麗子その人だった。なんだか常に無いくらい狼狽している。おいおい、頼むよ。この芝居の正否は麗子のアドリブ能力に掛かってるんだからな。
「この人は誰なんだい麗子?紹介してくれよ」
俺は言い、アフマドに笑顔を見せた。反射的にアフマドもぎこちない笑顔を返す。男二人が作り笑いを向け合う不気味な光景。その間に麗子はようやく自失から立ち直ったようだった。俺はこっそり麗子に囁いた。
「任務のためです。話を合わせるように」
やがて、完全に現在の状況を理解したのだろう。一瞬顔色を真っ赤にして俺を睨み付け、憤懣を込めてこっそり俺の足を踏みつけた。激痛が走ったが、俺は辛うじて堪える。
アフマドが何事かを言った。内容はさっきの俺の台詞とほぼ同じであろう。麗子は半眼で俺を睨み付け、それから何故かいい事を思い付いたとばかりに目を輝かせて何かを言った。
なんだ?なんて言った?なんか今「フィアンセ」なんていう単語が聞こえたが…。
「この人はあたしの婚約者です、って言ったのよ」
麗子は歯を見せて意地悪く笑うと、俺の左腕を抱え込んだ。更に何かをアフマドに向けて言い、わざわざそれを日本語訳してみせた。
「私はこの人と高校を卒業したら結婚します。ですから私はあなたのプロポーズは受けられません、って言ったのよ。これでいいんでしょ?」
…おいおい、いや、もう少しなんかこう…。
「さぁ、マイダーリン?仕事の邪魔だからあっちへ行ってちょうだい。もう後は大丈夫だから」
麗子は俺の頬に軽くキスしてみせると、俺の背中を少々乱暴に押しやった。…まぁ、いいや。これで目的は達成された訳だから、俺の仕事は終了だ。後々麗子からのし返しが恐いが、それは後でのお楽しみだな。俺はむしろ安らかな気持ちで二人に手を振り、そのまま歩み去ろうとした
と、アフマドが何かを言い、俺の方に早足で歩み寄ってきた。なんだ?と思っていると、奴は右腕を伸ばしてくる。
「始めまして、アフマド・サリファンです、って」
麗子が通訳する。どうやら握手を求めているらしい、とようやく理解する。そのでかい手を握ると、奴はかなり強い力で握り返してきた。何かを言う。
「麗子に婚約者がいるとは知らなかった。あなたは本当に彼女を愛しているのですか?…って言ってる」
…訳し終わった麗子はあらぬ方向を向いた。俺も困った。しかし、ここで否定しては全て台無しだ。俺は自棄になってやや大きな声で言った。
「イエス、オフコース!」
アフマドはそれを聞くと、ゆっくりした動作でもう片方の手を伸ばし、俺の肩を掴んだ。
「それを聞いて安心しました。…アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」
その瞬間アフマドの瞳が、なんだか嫌な感じで冷たく輝いた。
麗子はブリブリ怒っていた。
「あれじゃぁ、護衛じゃなくてお守りじゃないの!」
という訳である。まったくその通りだ。麗子が望んだ暗殺団の襲撃など無く、あの後は実に恙無くアフマドと麗子は観光をこなし、アフマドは電車に乗って東京方面へと帰っていった。
一体何しに来たのやら。中東から遥々麗子を捜し求めて追い掛けてきたという割りには意外に簡単に諦めてくれたものだ。俺はこの時はそう考えて大仰にほっとした。事が大事にならずに済んで何よりだった。
ジョンは無事にミッションが済んだせいで上機嫌だった。
「あなたもなかなか芝居がお上手だ。才能がありますよ」
ふざけるな。あんな恥ずかしい真似は二度とごめんだぞ。もう脅されてもすかされても断る。
大体、あんなことをしたおかげで、俺はあの後麗子から、やはり予想通りに仕返しを食ったのだった。
「あら~、マイダーリン、お・は・よ・う!」
と朝の学校、校門近くで大きな声が上がる方向を見てみれば、サメのような目つきをした麗子が表情とは裏腹な言葉を俺に投げつけていた。
「あらら?逃げるのマイダーリン?先日あんなに熱烈に愛を語らった仲なのに!」
勘弁してくれ!周りの生徒達はどよめき、俺の周囲からはさっと友人達が消えた。麗子は恐ろしい勢いで俺に向って歩み寄ると、俺の襟首を掴んで、馬鹿力を発揮して引き寄せた。眼鏡越しながら間近から極めて危険な色をした視線が真っ直ぐ俺に向けて射込まれてくる。
「だから!あれは!ジョンの奴に依頼されてですね…」
麗子は今にも噛み付きそうな程剣呑な表情を見せていたが、やがてぼっそっと言った。
「馬鹿!」
そして俺を投げ捨てるように俺を解放し、何だか凱旋将軍を思わせるような足取りで去っていった。
俺はというと、それからというものクラスの奴に冷やかされるわ、学校中で後ろ指を差されるわ、終いには職員室に呼び出されて事情を聞かれるわで散々な目に合わされたわけだ。
「それにしても」
部室である。麗子と俺、そしてジョンがいた。
「一体何しにこんな田舎まで何しに来たのかしら、あいつ」
「どんなお話をなさったのですか?」
ジョンはリラックスした表情だった。すっかり一仕事終えた開放感に浸ってやがる。おいおい、今回一番大変だったのはこの俺だぞ?
「そうねぇ、ごく当たり前の外人らしい質問が多かったわね。どの家も紙と木で作られているってのは本当か?とか、芸者はこの街にはいないのか?とかね」
「随分お気に入られていたみたいじゃないですか」
「そうねぇ。いきなり熱烈にプロポーズを始めるんだから、びっくりしたわ。自分についてくれば宮殿を一個建ててやる、とか言ってたっけ」
俺は知らん顔で視線を宙に遊ばせた。
「あたしが、そんなものはいらない!って言ったら、じゃぁ、何が欲しい?宝石か?ヨットか?なんて言うから、あたしはもう、頭にきて…」
まぁ、麗子が本当に欲しがるのはそんなものではあるまいよ。流石に中東の若様には洞察出来無かったか。普通は出来ないだろうなぁ。なんで俺には分かってしまうのだろうか。
「まぁ、レディ・ジェネラルがお嫁に行かなくて何よりでした」
「ま、ね。少なくともあんなぺらぺら良く喋る軟派な男の嫁になってやる気は無いわね」
そこで麗子は何故か俺の事を睨み付け、ふん!とそっぽを向いた。未だ怒っているらしい。ジョンから「お二人にトラブルがあるようなら、ムサシにフォローしてくれるようにと頼んでおいたのですよ」と、やや不正確な事情を明かされた麗子は、この任務が自分に一任されていなかった事を知っておかんむりなのだった。
「あんな普通の観光案内ならあたしじゃなくても良かったじゃない!骨折り損の草臥れ儲けよ!」
などと叫んでいる。確かに何かが起こるかと期待した割りには何も起こらなかったせいで、麗子の欲求不満度数はうなぎ上りらしい。上手いガス抜きを考えなければ、妙な方向に暴発しかねない。そのガス抜きを考えるのはどうやら俺の役目だった。
ま、何も鉄砲的な事件が何も起こらなかったのはよかったよ。あんな事に加えて鉄砲沙汰まで起こったら俺の手に余り過ぎる所だったからな。
「…」
俺は少しリラックスしてしまったので、ジョンが意味ありげな目つきで俺の方を盗み見ているのに気が付かなかった。
俺が「おかしいな」と気が付いたのは大分後の事だったが、異変はこの日の帰り道から起こっていた。
まず、帰ろうと昇降口を出た所だった。
ふっと、何か黒いものが目の前を過ぎった。あん?なんだ?
途端、足元で衝撃音が炸裂して、脛に何かが当たった。いてぇ!
俺は苦痛に顔を歪めつつ、音がした辺りを見た。
…なんだこれ?俺は最初、それが何であるのか分からなかった。なんか、土くれが飛び散っている。良く見ると、それはどうやら元は鉢植えだったものであるようだった。
俺は頭上を見上げた。この学校は4階建てで、つまり俺の上には階ごとに三つの窓がある。そして、三階の窓が開いていた。この状況から推測される事実は、その開いた窓から植木鉢が落下し、俺に危うく当たる所だった、ということだろう。
窓には誰もいなかった。植木鉢が自分で窓から飛び出す訳はないから、誰かが手を滑らせて落したに違いないのだが。
俺は別段疑問にも思わず、壊れた植木鉢を跨いで帰路についた。片付けてやる義理まではないだろう。
まぁ、これなんかは実に古典的な手段だった。
「おい」
俺はサメのような目つきをしながらジョンを問い詰めた。
「どういう事なのか説明してもらおうか」
「おや。大歓迎ではありませんか。僕を待っていたとしか思えませんねその態度は」
ああ、待っていたとも。待っていたともさ。
なぜなら今俺が陥っている状況に、もっともらしい解説をしてくれそうな奴はおまえくらいのものだろうからな。
つまり、俺はこの時、ジョンを頼りにするしかないほどせっぱ詰まって追いつめられていた訳である。
ここは俺の部屋だ。ジョンはついさっき、この間と同じように何の前触れも無く現れたのである。
「一体何が起こったのですか」
「とぼけるな。知ってるんだろう」
「いやいや、どうでしょう」
俺は歯ぎしりをしそうになった。
「おい!俺は今、冗談を言ってるほど余裕がねぇんだ!一体どういうことなんだか教えてもらおうか」
ジョンはやや苦笑気味の表情でホールドアップする。
「分かりました。何から始めましょうか?」
「俺は、命を狙われている」
そう、これは冗談では済まされない事態だった。
始めは、偶然だと思ったのである。自転車で帰宅途中、大型トラックがスリップして危うく俺を引っ掛けそうになった。まぁ、たまにはそういうこともあるだろう。
今度は登校中、いきなり道端の杉の木が倒れてきた。…まぁ、たまには希にそういう事もあるだろう。
学校で、教室移動の最中、突然渡り廊下の窓ガラスが割れて砲丸が飛び込んできた。…砲丸が三階まで飛ぶなんてことは滅多に無いだろうが、無いともいえないかも知れん。
コンビニで立ち読みをしていたら、大型トラックが店に突っ込んできた。…しかも無人。…有り得ないとは言えないかもしれないな。
町を歩いていたら、いきなり電線が切れて、俺の目の前に落ちてきた。…東京電力なにやってんねん!
帰宅途中、道の真ん中にワイヤーが張ってあって、俺は危うく首が飛ぶ所だった。…。
…流石にいい加減気が付くぞおい!
不幸のネタをかき集め、運命論や宿命論を総動員したって、これほどの不運が一斉に襲い掛かって来るなど有り得ないだろう。しかも、次第に酷くなる。最後の奴なんて遂にあからさまになってきているし。
「はっきり言おう。俺には心当たりがある」
「おや、じゃぁ、僕に聞かなくてもいいのではありませんか?」
「い~や、俺のは唯の推測だ。おまえが来たということは、何か事実を掴んだということだろう。聞かせてもらおうか」
「では、まずあなたの推測から聞かせて下さいよ」
あくまでもすっとぼけるつもりなら、こいつはわざわざ家まで来たりはすまい。俺をからかってやがるのである。ふざけんな、と思いつつも俺は声を押し殺しながら言う。
「小笠原 麗子がらみだ。それは間違い無い」
「そこは外し様がありませんね」
しれっとした顔でジョンが言う。ますます俺は声を低めた。
「変な事が起こり始めた時期、これを考えれば、まず、あのアラブの若様がらみなのではないかということも想像が付く」
今度は、ジョンは朗らかに笑うだけで返事をしなかった。
「結論としては、あのアラブの若様が俺と小笠原 麗子のことを誤解して…」
「婚約者であるあなたを殺せばレディ・ジェネラルが自分に靡くのではないか、と考えた」
今度は俺が沈黙した。
「なるほど見事な推理ですね。さすがムサシ」
ジョンは両手を広げて俺を賞賛した。
「しかし、若干詰めが甘い。あの若様はそんなに甘い人物ではありません」
…どういうことなんだ。
「あなたを殺してしまう気なら簡単なんです。それこそ回りくどいことをしないでバン!」
ジョンは指で銃の形を作り、俺の胸に擬した。
「でお終いです。しかしこれはちょとリスクが高いでしょう。日本では殺人はそれなりに犯罪ですし、目立ちます。なにより、あなたが殺されたらレディ・ジェネラルが切れてしまうかもしれませんし」
…
「では、どうするか?あなたを少しずつ追いつめます。するとあなたは事情を洞察し、恐怖に囚われ、自分が命を狙われるのはレディ・ジェネラルと関係を持っているからだと考える…」
「そして俺は命を守るために自ら小笠原 麗子と関係を絶つ、というシナリオか」
「御名答」
「それで、あの若様はそろそろ頃合いだから脅かしてこい、とおまえに言った訳か」
ジョンは珍しく驚いたような表情を見せた。
「よく分かりましたね。その通りですよ」
俺は溜息を吐いた。
「しかし、おまえの考えは違う」
「すばらしい」
ジョンは今度こそ本気で俺を賞賛したようだった。
「そこまでお分かりなら話が早いです。そう。我々としては、レディ・ジェネラルがあの若様に中東に連れ去られては困る訳です」
「何故困る。いったい今度はどんな理由なんだ?」
「それは言えません。兎に角、あなたと我々の利害は一致している訳です。力をお貸し願いたい」
利害が一致しているとは限らんだろうが。危険な目に合わされている俺としては、この際あの若様に麗子を押し付けて、厄介払いしてもいいと思っているんだがな。
「嘘はいけませんね」
決め付けて、ジョンは俺の言葉を待たずに先を続けた。
「我々はあなたを当てにしているんですよ。今現在、実は状況はちょっと微妙な事に成っているんです」
?何がだ?
「あの若様は自分の立場がお分かりではない、ということです」
微笑みのジョンにしては珍しく、困ったような顔を浮かべてジョンは言った。
「あの方は今、某温泉観光ホテルに滞在中なんです。あれからずっと。あんなVIPが碌な護衛も連れずに外国に長期滞在してご覧なさい。命が幾つあっても足りませんよ」
というと?もしかして…。
「そうです。彼はあなたを嬲っている間に、本物のテロリストにロックオンされてしまっている訳です」
因果応報だな。
「呑気な事を言っている場合ではありませんよ。あの方が日本国内で殺されたら、日本は本当に困るんですから」
「で?俺にどうしろと?」
「レディ・ジェネラルと一緒に彼を護衛して頂きたい。今度は本気で」
…。おいおい。人の事を弄んだ相手を護衛しろっていうのか?
「お気持ちは分かりますが、あなたにしか出来ない事なのですよ」
俺は沈黙した。答えは決まっているが、言いたくなかったのだ。
というのは、ジョンがあえて言わない事が洞察できてしまったからだ。
俺がもし協力しない、と言えば、あの若様は俺を本気で殺しに掛かるだろう、ということである。
ジョンが帰って、あの若様に告げる。
「どうもレディ・ジェネラルを諦めるつもはなさそうです」
あの若様は堪忍袋の尾を切らし、穏当な(?)方法を諦め、俺を強制排除する。ジョンとしてはそれであの若様が帰国する気になってくれるなら、それでも構わないと考える事だろう。
またか、また俺には選択の余地は無いのか。俺は心の中で慨嘆した。
「わかった。やる」
「そう言って下さると思っていました」
ジョンは俺の手を取ってブンブンと振り、満面の笑みを浮かべた。
「その代り」
俺は逆に不機嫌そのものだ。
「おまえらも俺を狙うのを止めてもらおう」
ジョンの動きが止まった。
「なんのことです?」
「とぼけるな。お忍びで、碌な護衛も連れずに来日したあの若様に、俺を狙うなどということは出来る筈が無いだろう?あいつから依頼を受けたおまえらがやったに決まっている」
どう考えてもプロの仕業だったしな。
ジョンは俺の手を放し、一歩飛び退くと、芝居掛かった仕種で大きく一礼してみせた。
その温泉ホテルは地上8階建て。なかなか立派な建物だった。しかし、良く見ればかなオンボロだ。あまり高級とは言い難い。
おいおい、中東の金持ちの若様じゃなかったのか?
「馬鹿ねぇ、こういう建物の方が情緒があっていいんじゃないの!」
麗子がバイクから荷物を降ろしながら言う。そういうもんかね。外国人の考えることはよく分からん。俺達はあの若様が滞在しているというホテルにやってきたのだった。久しぶりの麗子とのタンデム、しかも長距離。いや、生きてるってすばらしい。
フロントでチェックインし、俺達は自分たちが泊まる部屋へと向った。
若様が泊まっている部屋は、流石にこのホテルの一番いい部屋で、その同じフロアにある一般向け8畳間に俺達は泊まるのである。
…二人一緒に温泉旅館?それを聞いた時、俺はたじろいだが、麗子はまるで頓着しなかった。
彼女はその時既に「あの若様が今度こそテロリストに狙われているらしい」ということをジョンに知らされており、頭の中はドンパチの事で一杯だったのである。
「すばらしいわ!」
麗子は躍り上がりながら叫んだものだった。
「今度こそ敵が来るのね!ほんとね!来なかったら怒るわよ!」
「保証しますよ。レディジェネラル」
保証されてしまった。
「あの若様の国の、宗教的急進派が雇った、本物のテロリストです。人数は3人。既に入国を確認しています」
ジョンは微笑を崩さずにとんでもない事を言った。おいおい、そんなん、俺達にどうにか出来るのか?
「もちろん、我々の組織も護衛します。しかし、ホテルの内部までは手におえません。目立ちますしね。ですから、ホテルの中での護衛をお願いします」
「心得たわ!」
麗子は叫び、今にも駆け出しそうになった。
「いえいえ、そんなに急ぐ事はありません」
ジョンの声に急制動を掛けられた麗子はつんのめる。不審げな麗子にジョンが説明する。
「テロリストは大概、人ごみにまぎれてやってきます。つまり、ホテルが混む時です。ですから週末に行って頂きます」
ということで、俺達は土曜日にホテルまでやってきた訳だ。麗子の弾む心を反映して、細い峠道を平均時速100kmで。ああ、生きてるってすばらしい。
ホテルのロビーにはそれなりに人がいた。なるほど、外国人の姿もちらほら見える。これならテロリストも紛れ易かろう。ということは、既にテロリストが潜入していても容易には分からないということだ。俺は気を引き締めた。
俺達が泊まる部屋はホテルの裏の川が見下ろせる、なかなかいい部屋だった。俺は暴走タンデムで足がへろへろになっていたので、荷物を投げ出すと畳に身体を転がした。
「情けないわね!しっかりしなさいよ!」
ジーンズに濃紺のトレーナー、それとデニムのジャケットという、早春にしてはえらいこと軽装な麗子が仁王立ちで叫んだ。彼女はゴルフバッグを部屋の隅に置いた。もちろん、その中身はゴルフクラブなどではない。
「お二人でゴルフですか?」
お茶を出しながら仲居が言う。なんか気になる目つきだ。
「そうですわ、泊りがけで」
「お若いですが、御夫婦なの?」
ああ、なるほど。俺達の関係を疑っているのか。無理も無い。どう見ても高校生くらいにしか見えない男女が二人だけで温泉旅館に同宿していたら、これは駆け落ちか何かだと誤解されてもおかしくない。
「ええ。そうですわ」
猫かぶりモード全開の麗子がにこやかにとんでもないことを言った。あまりにも自信満々なので、仲居も信じてしまったようだ。
「いいわねぇ。まだ新婚さんでしょう」
「今年の一月に式を挙げたばかりですの」
俺はぼろが出ない様にそっぽを向いて黙っていた。
仲居が出てゆくと、麗子は勢い良く立ち上がった。
「さ、お風呂行ってこよ!」
あん?おいおい。俺たちはここに遊びに来たわけじゃないんだぞ。アラブの若様に挨拶に行かなくていいのか?
「いいのよ!あたしはあいつになるべく会いたくない!あんたが挨拶しておきなさい!あたしはお風呂に敵がいないか見てくるから!」
そう言うと麗子は洗面所で浴衣に着替え「あんたはここで警戒してなさい!」と言って部屋を後にした。
なんとまぁ・・・。一応コルトガバメントは帯に引っ掛けて行った様だったが・・・。
仕方なく俺は部屋を出て、若様の宿泊している部屋に向かった。
こんな田舎ホテルの最高級などたかが知れている。なにしろワンフロア全面じゃないんだからな。それでもその部屋は20畳くらいあるずいぶん広い部屋だった。調度品も豪華だったし。まぁ、別にここに泊まりたいとは思わないが。
アラブの若様。アフマドだったっけ?彼はそのにやけハンサム面に教科書通りの笑みを浮かべつつ俺を出迎えた。部屋には彼一人だったが、なんというか、テーブルの上に散らかっている菓子や、缶ビールの缶。グラスやウィスキーのビン。クラッカーの中身と思しきカラーテープ。そこここに落ちている女性物の化粧品や、下着。その他もろもろが、彼がこの部屋でおくってきた生活のカラーを感じさせて、純真な田舎高校生の俺はくらっと来た。
こいつはなんと、片言ながら日本語をしゃべって見せた。滞在中におぼえてしまった由で、それが本当ならこいつは語学の天才だ。
「アナタガクル、オモワナカッタ」
彼は両手を広げた。
「ワタシノコトヲ、マモッテクレ」
「ふざけるな!」
俺は吐き捨てた。
「俺はお前を守るんじゃない!テロリストをやっつけてやるだけだ!」
「ニホンゴ、ムズカシイ、ネ」
アフマドは苦笑しながら言った。くそ、こいつどこと無くジョンに似てやがる。外人てのはみんなそうなんだろうか。
俺は思わず怒鳴った。
「麗子は渡さん!テロリストが逮捕されたら、とっとと帰れ!」
ここでアフマドはなぜか眉を潜めた。そして意味深な言葉を発した。
「ワカッタ。アナタ、テロリスト、ヤッツケル、ワタシ、カエル。ヤクソク」
俺は意外さを禁じえず、アフマドの顔を見返した。彼は笑ってはいなかった。嫌な感じの、冷たい表情を浮かべていた。奴はボソッと言った。
「ヤクソク。イイナ。アナタ」
顔から、浴衣の裾から覗く足の甲まで良い感じに桃色にして風呂から帰ってきた麗子は、残念そうに言った。
「風呂にはいないみたいね」
少なくとも女湯にはいないだろうよ。アフマドは女湯には入らないだろうからな。
俺が著しく不機嫌なのを見て、麗子は不審に思ったようだった。
「なによ、そんなに風呂に入りたかった?いいわよ?今度はあたしが警戒しているから、行ってきなさいよ」
もちろん、俺の不機嫌の理由はそんなことではなかった。俺は麗子の肩を掴んだ。
「いいか!良く聞け!」
俺の強い口調に麗子は少し怯んだ様だった。あごを引き、上目遣いに俺を見上げる。
「油断するな!戦いはもう始まっている。一瞬の油断が命取りになるぞ!」
「そんなことあなたに言われなくても分かっているわよ」
「分かっていない!」
俺は口から飛び出しそうになる真実を押さえ込むのに必死だった。だからそんなことをしたのだろう。
思わず麗子を抱きしめたのだ。
「麗子!」
後から思い出すと、月面宙返りをしながら七転八倒したくなるような瞬間だが、この時俺は大マジだったのだ。だからこそ余計にみっともないわけだが。
麗子は一瞬無反応だった。しかしながら、それは彼女がこの上なく驚いてしまったからであり、驚きというものはそのうち覚める物と相場が決まっている。
「き・・・」
俺の腕の中で麗子の身体が一瞬沈み、
「きゃぁああああああ!」
次の瞬間俺の身体は天井に向かって50cmほど移動していた。
麗子のジャンピングストレートアッパーブローに吹き飛ばされながら、麗子の悲鳴が意外に平凡であったことに俺は新鮮な驚きを覚えていた。
俺は、狙撃手である。スナイパーだ。麗子と何度かサバイバルゲームをこなす中で、いつの間にか麗子が前衛、俺が後衛という役割分担が出来ていたのだ。麗子が、その才能も無い者に自分の背中を守らせるわけが無いから、俺にはスナイパーの才能が有るということなのだろう。
少しも嬉しくは無いがね。
俺はアサルトライフルを構えながら鼻をすすった。寒い。
ここは、ホテルの別館の屋上である。ここからは20mくらい先にアフマドの泊まっている部屋と、そこへ至る廊下、エレベーターの入り口が視界に入る。つまり、アフマドの部屋に入ろうとする人間は全て把握出来るということだ。もしもテロリストがアフマドの部屋に強行突入するようなことがあれば丸見えとなるであろう。
今回、俺のライフルに入っているのは実弾だった。これは、スタン弾ではガラスや壁が撃ち抜けないからである。まさかこの寒空に窓を全て開け放しておくわけにも行くまい。
「大丈夫、貫通力の高い小口径の弾丸にしておきましたから、当たってもそうそう人は死にませんよ」
と、ジョンはにこやかに保証したが、あてになどなるまい。
しかし俺はその銃を黙って受け取った。それを使わなければ作戦が成り立たなかったからだ。出来れば人に当てたくは無いが、もしも必要とあらば撃つしかない。俺は暗澹たる気分で溜息を吐いた。
何故に俺がこんな苦労をせねばならんのか。俺は高校進学前は鉄砲の「て」の字も知らん田舎の学生で、もちろん高校卒業、いやいや、人生の終わりに至るまで、ライフルだのグレネードランチャーだのとは無縁の生活を送って行く筈であった。それがなぜだか戦争部などという非常識極まりない部活と非常識を体現したかのような部長のおかげで、今こうして冷たく獰猛な鉄の塊を抱きかかえながら「敵」が現われるのを待っている。
ちなみに、麗子は俺たちの部屋の中で警戒中だった。廊下やアフマドの部屋の周りには麗子お得意のブービートラップがわんさと仕掛けてある。アフマドには部屋から出ないように厳命しておいた。
俺はライフルを目線の高さに掲げた。始まるな。ここからは、一瞬たりとも気が抜けない。
スナイパーに必要な資質は、何よりもまず冷静さである。何が起こっても冷静さを失わず、冷酷に目標を打ち抜く。心に火をつけてはいけない。凪いだ水面のように心を鎮める。
アフマドの部屋は最上階だが、その1階下のエレベーターのドアが開き、浴衣を着た独りの男性が出てきた。それ自体はまったく異常ではない。しかし、その男性の動きに違和感を覚える。ああ、やっぱり。その男性の陰に隠れて、黒い服を着た男がエレベーターから出てきたのだ。そのまま二人は重なるように奥の部屋、アフマドの部屋の真下の部屋の方へと歩いて行く。
おそらく、浴衣の男は一般人だろう。脅されて協力させられているのだ。アフマドの部屋の真下に入り、そこに爆弾でも仕掛ける気なのだろうか?俺は装着している無線機のインカムに呟く。
「対象1、7F」
マイクを小さく叩くコンコンという音が返ってくる。
まだ俺は撃たない。撃てばこちらの位置を知られてしまう。
黒い服の男は浴衣の男の影に隠れながら廊下を進み、部屋の前に来るとドアノブを掴み・・・、バチンと跳ねる様に身体を仰け反らせると床に崩れ落ちた。それを見て浴衣の男が肝を潰して逃げ出す。
当然、下の部屋は押さえてあったのである。テロリストを警戒する以上これは当たり前だ。下の部屋のドアには電流を使ったブービートラップが仕掛けてある。ドアノブを掴んだ男は感電したはずだ。
一丁上がりか?テロリストは三名という話であったから後二人ということになる。
俺は一瞬も油断していなかったが、それでもその瞬間には驚いた。
感電して倒れたテロリストからいきなり閃光が炸裂したのだ。同時に轟音。熱波。吹き飛んだガラスが俺のいる別館にぶつかって更に小さく砕ける。
・・・自爆テロか・・・。初めて見た。まぁ、当たり前だが。くそ、足が震えてきた。今度のテロリストは超マジもんだということがこの瞬間証明されたのだ。目的のためなら、自分の身が砕け散ることも厭わない連中。俺は歯を食いしばって銃を構えた。俺にも覚悟がいるようだ。
「何の音!」
麗子が無線機の向こうで叫んでいる。下の階で起こった爆発なのでよく状況がわかっていないのだろう。俺は答えなかった。その暇が無かったからだ。今度は最上階、つまりアフマドと麗子のいる階のエレベーターのドアが開いたのだ。
俺は銃口をエレベーターに向けて、凍りついた。?人が乗っていない?
次の瞬間、再び閃光と爆音。エレベーターが吹っ飛んだ。俺は唖然とした。ここまで派手にやってくるとは予想外であった。目立たないようにわざわざ一般人が多くいる時を選んでやってきたテロリストにしては、行動が派手過ぎる。
俺は舌打ちした。ジョンの言うことは一つも信じてはいけないのだった。
エレベーターが吹っ飛んだのであるから、テロリストは階段からくる、と俺は考えたのだが、それはやはり素人考えだったようだ。一瞬俺が硬直したことに、二人のテロリストは屋上に現われたのだ。俺の視線の先、本館の屋上。
なるほど、下の階の動きはあくまで陽動というわけだ。二人は無駄の無い動作でロープを何かに引っ掛け、躊躇無い動きで屋上の淵から飛び降りた。垂直降下して窓からアフマドの部屋に侵入するつもりなのだ。
その時、煙で充満した廊下を何か素早いものが駆けるのが見えた。それは一気にアフマドの部屋方向へ接近すると、半端に割れた廊下の窓ガラスをぶち割った。
テロリストが反射的にそちらに銃口を向ける。しかし、窓からは何も出ていない。
いや、出ている。それは噴出す煙に隠れてはいたが、俺からは辛うじて目視出来た。拳銃だ。
拳銃を持った手だけが窓の外に出たのである。その拳銃が閃光を放つ。
見てもいないのに良く当たるものだ。打ち出された弾丸は過たずテロリストに命中したようだった。ロープの先でテロリストの一人が大きく揺れる。
もちろん連中も黙ってはいない。持っていた自動小銃が盛大に弾をばら撒き、窓ガラスと壁を粉砕する。そして、一人は遂にアフマドの部屋のガラスを蹴破り、部屋の中飛び込んだ。
途端、それまで暗かった部屋の中に明かりが満ちた。アフマドの奴が点けたのだろう。抜け目の無い奴。離れた場所からスコープを覗き込んでいた俺でも目がくらんだ程だから、暗視ゴーグルをしていたテロリストはたまるまい。まだ壁面にいる奴も、部屋に侵入した奴も一瞬動きを止める。
その一瞬、アフマドの部屋のドアが蝶番ごと吹き飛ばされ、小さな人影が転がり込んできた。そいつはドロップキックでドアを粉砕した勢いそのままにスライディングし、持っていたアサルトライフルを連射する。
部屋の中にいたテロリストが吹っ飛び、壁にぶつかり動かなくなる。まだ壁面にいる奴はあわてて自動小銃を構えた。
俺はひゅっと息を切ると、引き金を絞った。
テロリストの自動小銃があらぬ方向に跳ねる。次の瞬間、部屋の中からの乱射に晒され、そいつは蜘蛛のようにぶら下がったまま動かなくなった。
アフマドの部屋の中で小笠原 麗子が立ち上がり、俺に向かって笑顔を見せながら親指を立てて見せた。
馬鹿!そんな場合じゃ無い!俺はインカムに向かって叫んだ。
「伏せろ!爆発する!」
と、次の瞬間、どこからとも無くアフマドが現われて、麗子を小脇に抱きかかえると、意外なほど俊敏にして無駄の無い動きで隣室に消えた。
途端に視界一杯に真っ赤な炎が吹き上がる。俺は反射的に伏せた。
轟音が沸き起こり、さっきの数倍の爆風と熱波が襲ってくる。アフマドの部屋は溶鉱炉のようになっていた。
「麗子!」
俺は炎に向かって絶叫した。
さて、種明かしの時間だ。俺はジョンに向かって湯飲みを押しやった。
三度、俺の部屋である。ジョンはもはや慣れた様子で俺の部屋のコタツに正座して座っていた。こいつ、実は日本人じゃないのか?コタツが似合いすぎるぞ。
「アフマドは帰ったのか?」
「ええ、昨日。あなたにもよろしくとの事でしたよ」
あほか。よろしく二度と会いたくないわい。
「ふふふ、その方がよろしいでしょう」
まぁ、一応、その、奴には感謝していることがあるのはある。あの大爆発の中、麗子が助かったのは、奴が麗子を抱きかかえて部屋の内風呂の中に飛び込んだからだ。奴はおかげで背中に火傷を負ったのだった。
「愛しい人を命がけで守る。言葉では言えてもなかなか実行できるものではありませんよね」
俺は論評を避けた。
しばらく二人して沈黙したままお茶をすする。珍しくジョンが根負けして俺に問いかけた。
「・・・どうしました?聞きたい事があるのではないんですか?」
聞きたいことだと?そうじゃない。俺がしたいのは確認だ。
「ほう?」
「まず、あのテロリストだ。連中の狙いはアフマドじゃないな?」
「おや、じゃぁなんだったんです?」
「麗子だ」
というより、麗子とアフマドの両方だったのではないか?
「根拠は?」
テロリストが襲撃してきたタイミングだ。連中は、アフマドが一人でのうのうとしていたタイミングで、いつでも襲撃が掛けられたはずだ。しかし、そうしなかった。麗子(と俺)が合流したタイミングで襲ってきたのは、連中のターゲットが麗子とアフマドのセットだったことを意味しないか?
ジョンはあっさり認めた。
「そうですよ。ムサシ。正解です。テロリストどもはレディ・ジェネラルを主に狙っていました。殿下はついでです」
やはりそうか。
「殿下とレディ・ジェネラルを両方ガードするには、あのホテルで一緒にいてくださるのがベストだったのですよ」
・・・なにしろ派手なテロリストだったからな。あんなのと街中でドンパチするようなことになったら大変なことになる。
あのひなびた温泉ホテルででさえ大変な騒ぎになったのだ。もっとも、あの爆発のおかげといってはなんだが、テロリストの存在は覆い隠され、単なるガス爆発ということになったらしいが。
それにしても、中東の自爆テロリストが麗子にいったい何の用があるっていうんだ?
「あなたはどうしてだと思います?ムサシ」
「さぁな。ただ、話の流れからすると理由はアフマドが知っていそうだな」
というより、アフマドと同じ理由でテロリストも麗子を狙っていたんだろうよ。
ジョンはまたクスクス笑いをした。
「さすがムサシ。いいところを突いています。殿下がレディ・ジェネラルに拘るのは、単に彼女に惚れたから、というだけではないのですよ」
・・・また、何かふざけた理由があるのか?
「殿下の国のある有名占い師が『彼女と結婚すれば、その子供は新しい預言者になれる』と言ったらしいのですよ」
預言者?
「イスラム教では、あの開祖ムハンマドが最後の預言者とされています。その後継者になれるということでしょうね」
ははぁ、なるほど。俺は納得した。ムハンマドの後継者となれば、全イスラム教世界の指導者になれるということではないか。それは権力を求める者にとっては魅力的過ぎる誘惑だろう。預言者の父となればそいつにも絶大な権力と権威が生まれるであろうから。
同時に、イスラム原理主義者にとっては、教義では最後にして最高の預言者であるところのムハンマドに後継預言者が生まれることなど、容認出来ないことでもあったのであろう。
「また、なんでそんな怪しい占い師の言うことを本気にするのかね」
「ムサシ、あなたの常識で世界を推し量ってはいけません。世に中にはいろいろな常識があるものなのですよ」
知ってるよ。俺は麗子と出会った瞬間からそれを教えられっぱなしだ。
じゃぁ、次に行こうか。アフマドはいつから偽者と入れ替わった?
ジョンを驚かすというのはなかなか容易なことではない。つまり俺は珍しくそれに成功したわけだった。
「偽者ですって?」
「顔形はそっくりだったがな。ホテルにいたあいつ、あれは絶対本物じゃない。根拠は無いんだが」
ジョンはクスクス笑い始め、次第に肩が震えだし、遂には仰向けに顔を上げて哄笑した。
「お見事です。ムサシ!まさかそこまで見抜かれているとは思いませんでしたよ!」
俺は鼻で笑った。
「推理としては単純だ。まず、あいつはバリバリのVIPなんだろう?そいつにテロリストの襲撃が迫っているのに、放置しておくはずが無い」
とっとと安全のために、どこかの警備厳重な大使館か何かに収容してしまえばいいのだ。それを、何を好き好んであんなボロホテルに放置しておくものか。
「殺されたら国際情勢に関わってくるような重要人物は、テロリストに対する餌にするには高価すぎるだろう」
「なるほどね」
「もう一つ。最後のあれだ」
麗子を助けたあいつの動き。あれはどう考えてもおぼっちゃまの動きじゃなかったな。
「つまり、俺と麗子、それと偽のアフマドは、テロリストを呼び寄せるための餌だったわけだな」
俺は迂闊にもあの偽のアフマドに対面してからその事に気がついたのだった。
まったく冗談じゃない。俺と麗子は始めからあの自爆テロリストを排除するためだけにあのホテルに送り込まれたのだ。まんまとおびき出されたテロリストこそいい面の皮だ。
「そのとおりですよ。本物の殿下は本国に送り返しましたとも。あなたたちがホテルに行くのを週末まで遅れさせていた間にね。摩り替えたのです」
ならその時点でそのことがテロリストの耳に入るようにしておけば、襲撃は無かったんじゃないのか?
「レディ・ジェネラルが残っているでしょう。あいつらがあなたの学校に襲撃を掛けてきても良かったのですか?」
・・・なら、麗子も、ついでに俺も偽者と摩り替えてくれればよかったのだ。
いや、すまん。それは出来ない相談だったな。俺はともかく、麗子がそんなことを承知するはずが無いのだった。
「おかげさまで、テロリストを他に犠牲を出すことも無く排除することができました。あなたには感謝しますよ」
目の前で人間が吹っ飛ぶのを見せられて、俺がどんな気分になったかお前に分かるか?俺の常識はその瞬間また崩壊したんだ。どうしてくれる。
「そう、そこです」
珍しくジョンは眉をしかめて見せた。
「レディ・ジェネラルも今回、それについてはショックを受けているようです。僕も迂闊でした。まさか日本国内で自爆までやるとは思わなかったものですから」
俺は深く溜息を吐く。
さてと、とジョンが腰を浮かせた。
「僕はこれでお暇しましょう。ムサシ、またいずれ・・・」
「まて」
俺は呼び止めたくも無かったがジョンを呼び止めた。
「もう一つ聞いておきたい」
「なんでしょう?」
「どうやってアフマドを諦めさせた」
あれほど麗子に拘り、俺を脅迫までしていたアフマドがあっさり諦め、帰国したのは何故だ。麗子と結ばれて息子を預言者にする野望はもういいのか?
ジョンは腕を組んで唸った。
「言わなきゃいけませんか?」
「言え」
「では言いましょう。僕が彼にこう報告したのですよ『レディ・ジェネラルはすでにムサシと結ばれて、処女じゃない』とね」
は?
「あの手の予言は、対象の処女性を極めて重視する事が多いのです。処女じゃなくなれば、予言の効力が失われるようですね。殿下はそれを聞いて急激にレディ・ジェネラルへの興味を失い、帰国に同意した、というわけです」
・・・なんかもう、言うべき言葉も無い。しかし、ジョンは意味ありげに笑った。
「というわけで、例の予言はまだ生きています。大丈夫。レディ・ジェネラルが操を守っていることは保証いたしますよ。あなたとレディ・ジェネラルの子供は・・・」
俺は座布団を投げつけてジョンを黙らせた。
「もうくるな!」
「それは難しいですね」
久々に演習場から見下ろす関東平野は相変わらず絶景だった。新緑にはまだ間があるから、山々は灰色に、地面は黒く見える。初春の日差しに街が点滅して輝き、薄い雲が地平線をぼやかしていた。
崖のぼりで軽く汗をかいたので、風が冷たく心地よい。
麗子は、いつもならすぐさま嬉々として射撃練習を始めるはずなのに、なぜか崖の端に立って風景を眺め続けている。黒髪が翼のように風に靡き、完全武装の戦闘服姿。眼鏡が光っているので表情は良く分からない。
俺は深々と溜息を吐く。
麗子は、あのテロリストとの戦闘以来、特にこれまで変わった様子は見せなかった。平時には部室でしゃっきりとした姿勢で読書に励み、生徒からつまらない依頼があれば、これを話三倍に拡大解釈して大事にしたのち解決した。
そうして、雪も解けただろうということで三月最終週の週末、俺たちは久しぶりに演習やってきたのであった。
俺は胡坐をかいて麗子を見上げていた。彼女は俺の視線に気がついてはいるのだろうが、無視している。しかし、俺には分かっていた。故に俺は決心して声を掛けた。
「麗子」
麗子は少し驚いて俺を見下ろした。
「もうやめるか?戦争部」
眼鏡の向こうで大きな瞳に動揺が走った。
俺は気がついていた。彼女が迷っていることに。
麗子は、危険をこよなく愛する危なすぎる女だが、それは自らを危険に晒すことを愛するのであって、他人を傷つけることを愛するわけではないのだった。戦闘を熱望するのも、自らに向かって飛んでくる銃弾を望むのであって、自らの銃弾が敵を打ち倒すことを望んでいるわけではないのだ。この辺りの微妙に矛盾した気持ちは本人にも良く分かってはいないだろう。サディスティックなところが無いわけではないからな。
この期に及んで、自分が放った銃弾が人を殺してしまう可能性に思い至ったのだとすれば、鈍いというより他に言い様が無いが、その辺をジョンがこれまで巧みに気が付かせなかったのかもしれない。実際に目の前で人間が吹っ飛んで、体感的な意味で認識したのかも知れなかった。
世の中には人殺しを快楽だと感じる人間もいて、そうでなくても必要に迫られて他人を殺めなければならない者がいる。そういう連中に言わせれば麗子や俺が感じた衝撃はお話にならないほどどうでもいいことかもしれないが、素直に衝撃を受け、悩めた方がどちらかといえば正しい人間らしいのではないか。
麗子もやはり平和な国の平和な学生の一人なのだ。その彼女が密かに悩み苦しんでいたことを責めるつもりも、いつもの勢いはどうしたなどと嘲笑するつもりも無い。
むしろ、微笑ましく、好ましいと思う。
麗子は厳しい表情で俺のことを睨んでいたが、やがて、きっぱりと言った。
「やめないわ!」
「そうか」
理由は聞かなかった。麗子がやめないなら、俺もやめるわけにはいかないようだ。そのうち本当に他人を撃ち殺さなければならない時が来て、その時には後悔するかも知れないが、その時も多分麗子と一緒だろう。なら、その時二人で後悔すればいいのではないか。
「さぁ!射撃練習を始めるわよ!たゆまぬ訓練が強い兵士を作るんだからね!」
麗子はそう叫ぶと、俺を立ち上がらせるために右手を差し出した。俺は苦笑してその手を掴んだ。
あとがき
戦争部戦記三弾です。私的には短編はキャラクターを描き切れなくて得意ではないのですが、これはまぁまぁ上手く行った気がします。どうでしょう?麗子先輩は相変わらず動いてくれるので楽でいいです(笑)。
実は戦闘シーンに往生しました。なにしろ、ムサシくんがまるで活躍していません。もう少し活躍させたかったのですが、そうするとどうしても彼がテロリストを殺してしまう展開になりそうだったので、断念しました。
物語的にはここで終わっても綺麗に終わるかという気もしますが、多分まだ続きます。他の長編の合間に息抜きに書くという形になりそうですが。
早く読みたい!という方は続編希望カウンターを回していただけると、作者のエネルギーが充填されて早くなるかもしれないのでよろしくです。
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