グミ

古池ねじ

第1話

 残業帰りに近所のコンビニに入ったら、見覚えのある人がいた。背が高い。180センチ以上はある。細身の高そうなスーツを着ている。パックの飲み物を見ている。

 知っている顔だ。そんな気がする。でも誰だかわからない。メディアで見た有名人とか、よく行くお店の人かもしれない、と考えてみるけれど、でも違う。違うと思う。そうじゃない。でも誰だろう。誰。と思っているうちに、その人は500ミリリットルの牛乳を選んで、それから立っている私を見て、小さく眉をひそめた。その眉の動かし方に、あ、となる。これは。

「かえちゃん」

 と、思い出しかけた私に、しゅうくんから声をかけてきた。そうだ。しゅうくんだ。しゅうくん? 本当に?

「しゅうくん」

「うん」

 その「うん」の抑揚にも、覚えがあった。

「しゅうくんの名前ってなんだったっけ」

「本田修一」

 失礼かつ唐突な質問にもちゃんと答える。

「そうか。私は」

「山下楓」

「覚えてるんだ」

「俺はそういうの忘れないから」

 その言い方。昔と同じ。

 背が伸びて、声が低くなって、大人みたいなスーツを着て。でも昨日会ったばっかりみたいな自然さで私を見る。

「何年振りだっけ?」

「十九年」

 質問に答えるときのなんとなく不機嫌に聞こえる言い方も、目を伏せたときのまっすぐな長い睫毛も、いつでも寒そうに色の悪い唇も。ずっと思い出しもしなかったのに、一目見ただけでほこりをかぶっていた記憶が動き出す。十九年。私はずいぶん変わった、と思う。当たり前だ。残業明けのよれよれの髪を耳にかけて、なんとなくスカートのしわを伸ばす。セールのときに980円で買った、制服代わりにしているよれよれの黒いスカート。そういえば小学生のときは、かわいい感じの服ばかり着ていた気がする。一人娘なので。

 しゅうくんは隣の家の男の子で、ご両親が共働きで忙しいのでしょっちゅう家に遊びに来ていた。しゅうくんはたくさんおもちゃを持っていた。外国製のなんかちょっとかっこいいけど壊れやすいミニカーとか、色んなゲーム機とか。別にそんなに好きじゃないものでも、しゅうくんが持っていたら遊びたくなった。しゅうくんはいつだって、私が遊びたいと言えば買ってもらったばかりのものでも貸してくれた。しゅうくんは怒ったりしないし思いがけないことで機嫌を悪くしたりしないので安心だった。私たちはいつも一緒にいた。

「しゅうくん今こっちなの」

 ただそれも十九年前までのことだ。しゅうくんは引っ越してしまったのだった。どんなふうにお別れしたのか覚えていない。なんだかよくわからないうちに行ってしまって、本当に行ってしまったと気づいた時には、もう何もかも遅かった。住所もわからない。当時は気づかなかったけれど、私はぼんやりした子供だったのだろう。

「今というか、引っ越してからはずっと東京。親は今石川だけど」

「なんで? 仕事?」

「母さんの実家だから。のんびりしたいらしい」

「へー」

「かえちゃんは東京?」

 かえちゃん、なんだ。と、私もしゅうくんと呼んでるのに思う。男の人の低い声でそう呼ばれるのは、変な感じだ。

「うん。大学からこっちで一人」

「この近くに住んでるの?」

「うん。しゅうくんは?」

「俺は今日の仕事がこっちなだけ」

「あ、そうなの」

「かえちゃんは残業? 遅いね」

 もう十一時になる。確かに遅い。でも。

「しゅうくんも仕事でしょ?」

 移動時間を考えるとそっちのほうが長く仕事をしているはずだろう。

「俺はいつも遅いもん」

 当然みたいに言う。その顔にも、確かにあまり疲れは見えない。

「何それ」

「かえちゃん病気ばっかしてたから。心配だよ」

 思いがけない心配のされ方で、とっさにうまく返事ができなかった。どちらかと言うと、私は自分のことを丈夫だと思っている。でも思い出してみると私が丈夫になったのは小学校の高学年になってからだ。幼稚園のときにはなにか大きな病気をして結構長いこと入院したし、そのあともしばしばしばしば園や学校を休んでいた。風邪なんかには確かにかかりやすかったかもしれないが、今にして思えば、入院のせいで少し過保護になった両親が少しの熱や不調でも休ませていたのかもしれない。休みの日には体の苦しさよりも、退屈が先に立った。普段は見られないお昼のテレビを好きなチャンネルにして見て、普段は食べさせてもらえないアイスをもらっても、時間が無限にあるように思えて持て余した。昔のことと、一緒に心細さまで思い出してしまう。今ここにいる自分が大人の恰好をした七歳のように感じる。

「……いつの話してるの」

 結局それだけ答えると、しゅうくんは低い位置にある私の顔を覗くように首を曲げた。

「じゃあ、元気なの?」

 うなずく。

「元気だよ。しゅうくんも?」

「俺は元気だよ。皆勤賞だから」

「いつの話なの」

 しゅうくんはちょっとだけ得意そうに笑っていて、私もつられて笑う。

「今の話。俺病気では休まない」

「私も今はあんまり休まないよ」

「そう? でも疲れた顔してる」

 それは自覚があった。

「今の時期忙しいの。普段は定時だから余計にきつく感じてるだけ」

 多分あと一週間もすれば落ち着く。明日は休みで、どうせだからお菓子でも買って帰ろうと思っていた。甘くてつめたくて柔らかいものが恋しかった。小さな透明のカップがたくさん並んだコンビニのスイーツコーナーを物色して、どうせならいろんなのが載っててうんと甘いものが食べたかった。ついでにチルドカップの飲み物。コーヒーか紅茶の甘いやつ。タピオカが入ってるのでもいい。今日はそのぐらいの贅沢は自分に許そうという気持ちでコンビニに入ったのだった。ちょっと自暴自棄な、小さな贅沢。

「疲れてるんだ」

「え……うん。だから甘いもの買おうと思って……」

「甘いもの食べると元気になる?」

「うん」

 へえ。

 しゅうくんは何考えてるのかわかりにくい顔でうなずく。そういえばしゅうくんって、子供のころから甘いもの、あんまり好きじゃなかった。普通に食べるけど、ごはんのほうが好き。お米がすごく好きだった。あとバナナと、牛乳。小脇に抱えたパックに目を留める。

「それ」

「牛乳?」

「そのまま飲むの?」

「ストローはもらうよ」

 笑ってしまう。

「いつもそんなに飲むの?」

「飯のときは水飲むよ。疲れたら牛乳飲む」

「バナナは?」

「コンビニのバナナは高い」

 コンビニじゃなきゃ買うのかな。笑いが収まらないけれど、しゅうくんは気にしていないようだった。

「家までどのぐらい?」

「え……すぐそこだよ。五分ぐらい」

「送っていく」

「え……いいよ」

「危ないから」

 そう言ってる自分も幼馴染とは言え実質初対面みたいなものだし危ないのでは? と頭の中の冷静な部分で考える。牛乳のほかにお菓子か何かを選んでレジに並ぶ後ろ姿は、すらっと背が高いスーツで男の人だ。こうしてみると飾り気はないけど鞄もスーツも靴も高そう。ああいう男の人って、あんまり得意じゃない。仕事ぐらいでしかかかわることもない。ぼーっと苦手な感じの男の人のすらっとした後ろ姿を眺める。

「なんか買う?」

 会計を済ませたしゅうくんに聞かれて、首を振った。なんかもう、いいや、という感じ。自暴自棄気味の欲望はしゅうくんの普通さに気が削がれてしまった。疲れているので早く帰って寝よう。しゅうくんはうなずいて、二人で店を出る。私が半歩だけ先に歩く。

「しゅうくんは帰るの?」

「このあと一旦職場戻って色々確認したら帰る」

「終電大丈夫?」

「タクシーで帰るつもりだった」

「え、近くないんでしょ」

 ありえない発想だ。私なら帰れなかったらファミレスにでも行くしかない。

「タクシーじゃないと帰れないから」

「コンビニでバナナも買わないのに?」

「バナナはコンビニじゃなくても売ってるけど、タクシーの代わりになるものはない。そういうものには金を払うしかない」

「しゅうくん年収いくらなの」

 自分でもぶしつけすぎると思った質問にも、しゅうくんは普通に答えてくれた。私の三倍ぐらいだったので笑ってしまう。

「どうしよう。階層が違う」

 しゅうくんの薄い唇がちいさくとがる。

「それちょっと嫌な言い方だ」

「お金ないほうが嫌でしょう。終電なくてもタクシーに乗れないんだよ」

「確かにそれはそうだね」

 素直だ。半歩だけ先にゆっくり歩く私と、ゆっくりついてきてくれるしゅうくん。それって昔とおんなじだ、と、気づく。

「時間あるときまた会える?」

「え、まあ」

「連絡先教えてくれる?」

「へ、うん」

 こういうことを聞かれた時の常であんまり気乗りしないままアプリのIDを交換する。そうは言っても連絡なんてこないだろうし、また会ったりもしないんだろうな、と思う。

「もうそこだよ。マンション」

「それ?」

「それ」

「結構古い?」

「しゅうくんの階層から見たらそうかもね」

 しゅうくんは黙ってしまって、ちょっと悪かったかなと思う。

「古いけど一応オートロックなの。ここでいいよ」

 エントランスのところで振り返る。しゅうくんはビニール袋をがさがさと漁って、不器用に手を突き出した。

「これあげる」

 なんだと思って受け取ったら、グミだった。薄いパッケージ。幼児向けのアニメのキャラクターが描いてある。

「グミ」

「うん」

 ぶっ、と吹き出してしまう。グミって。深夜じゃなかったら大声で笑っていたところだ。しゅうくんを見上げると、困ったような顔をしていた。

「グミだよ?」

「え、うん……」

 思い出した。昔グミが好きだった。このグミは安いから、学校を休んだ時にはしゅうくんが近所のコンビニで自分のお小遣いで買って持ってきてくれたんだった。引っ越してからは手にする機会もなくて、本当に忘れていた。

 しゅうくんって、何にも変わってないんだな。大人になって、すごい仕事してて、お金いっぱい稼いでても、何にも変わってない。ずっと優しい。あの頃と同じ。

 俯いてグミを見る。にこにこ笑った善良なキャラクター。これをもらうと、本当にうれしかった。一日の不調も、不安も、退屈も、全部帳尻が合って、おつりがくる。しゅうくんが私に会いに来てくれて、しゅうくんが私を気にかけてくれた、という証拠。中の透明のグミのキャラクターのかたちも、ひとつひとつ特別に思えた。

 しゅうくんは私の反応の鈍さをいぶかしむような顔をしている。

「これ好きだったとか、忘れてた」

「本当に?」

「グミとかずっと食べてない」

「……いらない?」

 首を振る。

「もらう」

「それ食べてゆっくり休んで」

「うん」

 言わなくちゃいけないことはたくさんある気がしたけれど、それだけしか言えなかった。なんだか知らないけど、ちょっと泣きそうだった。手の上のグミの袋は軽くてぴかぴかしている。こんなにぴかぴかしたものを、もうずっともらったことがなかった。こんなにぴかぴかしたものがあることも、忘れていた。ざっと十九年ぐらい。

「……しゅうくんって変わらないね」

 誤魔化すようにどうにかそう言うと、しゅうくんは首を傾げた。

「それ、もしかして悪い意味?」

「ううん。誉め言葉。グミ、嬉しい」

「もっと買ったほうがよかったかな。別の味もあったし」

「……それはいらないけど」

「いらないか」

「これで十分だよ」

 私は手のひらで薄いパッケージをくるくるもてあそんで、うれしい、と、もう一度言った。一秒経つごとに、嬉しさが増えていく。

「今日はありがとう。お仕事頑張って」

「うん。おやすみ」

 しゅうくんは片手をあげて、背を向ける。行ってしまう。手に力が入って、グミのパッケージが小さく鳴る。

「しゅうくん」

 足を止めて、振り返ってくれる。

「また遊ぼうね」

 七歳ぐらいの真剣さで、そう言った。私の優しい幼馴染は微笑んで、

「うん。また遊ぼう」

 と七歳ぐらいの真剣さでうなずいた。

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グミ 古池ねじ @satouneji

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