第8話

 キャロルは後世、それほど好戦的な皇帝であったとは言われない方である。


 むしろ、父ガイア帝の方が、一騎打ちにおいて挑まれれば拒まなかったという逸話が有名である分、好戦的だったと思われているようだ。


 しかし実は、反乱鎮圧のためにキャロルが生涯に親征した回数は、十二回とガイアのそれよりも多い。これはキャロルが事実上初代皇帝であり、多難な時代を統治したためではあるが、キャロルの意外に激しい気性を物語るエピソードだと言えよう。


 新緑玉王国軍の反乱に対し、キャロルが親征することに対しては若干の反対意見が聞かれた。


「皇帝がいちいち反乱鎮圧に出向いては帝国の鼎の軽重が問われはしないか」


 というのである。しかし、キャロルはこれを一蹴した。


「反乱に対し、断固たる姿勢を示すには、皇帝自らが剣を振るうのが一番であろう」


 彼は治世を通じてこの考え方を通した。故に今回彼が親征を決めたのは、反乱首謀者の中にチェルナがいたからではないということが言える。しかしながら、彼が自ら戦闘指揮をも行うと宣言したことに、チェルナの存在が影響していたかどうかは分からない。むしろ影響していたと考える方が自然であろう。


キャロルはティティス大陸郡へ向かう前に、戦略的条件を整えなければならなかった。以前のプロト大陸群の反乱時とは違って、彼が不在の間に首都で政務を行う者が必要だったのである。ティティスの反乱が他の大陸群に飛び火する可能性がある以上、いざとなれば皇帝の大権を代行しなければならないという重大な役目であった。ちなみに、この時、キャロルは養父アロルドに復帰してもらおうとは露ほども考えなかった。養父アロルドは妻の死以来、すっかり老け込み、政務に復帰出来るような状態では無かったのである。


 キャロルが皇帝代行に任じたのは、閣僚の中でも若手のエネルギー省大臣オージ・アクロンであった。小太りでいまいち風格に欠けると評価されることが多い男である。オージはキャロルに執務室まで呼びつけられ、いきなり大命を言い渡されて、これ以上ないくらい取り乱した。


「とととと、とぉんでもない!」


 彼は本当に飛び上がってみせた。


「とてもとてもとても!私のような若輩にして非才の身にはそのような大任、とても不可能でございます。どうかご勘弁を」


「駄目だ」


 キャロルはにべもなく言い切った。


「な、なぜですか!」


「この役目はそなたにしか出来ないからだ」


 オージは目を白黒させるばかりだ。キャロルは説明した。


「そなた以外の、年長の者をこの役目に任じたとしよう。すると、同輩の者は面白からぬ思いを抱くであろう。その点そなたであれば、他の者よりも一回り以上年少。妬まれることはあるまい。むしろ他の者からの補助が期待できよう」


「しかし・・・」


「嫌か、嫌であれば今すぐ荷物をまとめて田舎に帰るがよい。いざという時に国家を背負う覚悟のない者を大臣に任じたのは余の不明であった」


「陛下・・・」


「・・・頼む。オージ」


 オージの表情が改まった。


「分かりました。陛下がそこまでおっしゃるなら、非才を承知でお引き受けいたします」


「ありがとう、オージ。これで余も憂いなくティティスへ向かう事が出来る」


 オージに公務代行を命じたことについては、エスパーナが首を傾げた。


「いくらなんでも、もう少し年嵩の、そう、ヘレナちゃんの親父さんくらいの方に命ずるべきじゃないのか?」


「それができれば苦労しないんだよ」


 キャロルは眉をしかめた。というのは、ヘレナの父であるファビオスの世代。つまり、聖戦帝国創立以来の大臣たちは、誰も皇帝の代行を勤めたがらなかったからである。彼らは初代皇帝ガイアの死とキャロルの即位に際して、皇帝キャロルへの絶対の忠誠と、それ以外にただ一人自分たちの上に立つものとして、摂政であるアロルドを置くこと、これを固く誓い合っていたのである。この盟約は彼らの中ではまだ生きているらしく、たとえそれが臨時の事であっても、同僚の中から抜きん出ることは一切しようとはしなかったのである。


 ただしこれは同時にキャロルの決めたことであればどんなことにでも従うということでもある。彼が決めた代行人事に対して異を唱えるようなこともしないだろう。


 エスパーナは頭を掻いた。彼は今回キャロルと同行せず、クレタでオージの補佐とキャロルへ首都の状況を伝える連絡ルートの確保を担う事になっていた。ちなみに、彼はこの次にキャロルが親征する時から、生涯に渡って十回も皇帝代行を務めることになるのだが、それはまた別の話である。


 今回、キャロルはティティス反乱を鎮めるために、聖戦帝国軍の総力をあげることにしていた。ベラグールにいる聖戦帝国艦隊の中から、超弩級戦艦四十隻を筆頭になんと三百隻を動員する予定だったのである。聖戦帝国艦隊一千隻、その四分の一以上を動員するというのだ。


 迅速で徹底した鎮圧。プロト大陸群の反乱においてチェルナが主張したことであった。キャロルは今回、これを忠実に実行するつもりであった。




 リュート・ミヘルナを名乗る女性。


 歴史的な正確を期そうとすると、この様に記述するしかなくなる。なぜならば、聖戦帝国の公式記録では、緑玉王国最後の女王リュート親王はとっくの昔に病死しており、もはやこの世にはおらず、かといってチェルナ・リュートはこのリュート・ミヘルナとは別人であることになっているからである。しかしながら、いちそんな記述をしていたのでは煩雑すぎるので、ここでは彼女のことをチェルナと記述することにする。


 新緑玉王国軍の反乱の、特に初期においてチェルナが果たした役割については諸説あってはっきりしない。積極的に係わり、ロークシティア攻略の際に姿を見せたのも彼女自身の発想だったという説もあれば、モラムの言いなりであったという説もある。


 しかしながら確実なことがひとつだけある。彼女はこの時既に、新緑玉王国軍の中で中心人物の一人であったということである。


 新緑玉王国軍はもともと聖戦帝国ティティス方面軍であり、つまりプロの軍人集団である。しかも、彼らの多くは決起以前からモラムと深く付き合っていた。その中に、皇帝の秘書であったとはいえ、軍事についてはど素人のチェルナが紛れ込んでも何も出来まい、とモラムあたりはふんでいたのである。ところが、チェルナは初めて彼らの前に颯爽と現れた瞬間から彼らを自分のペースに巻き込み始めた。


「よろしくね」


 死んだはずのリュート親王を名乗る者が現れるというので緊張して待ち構えていた新緑玉王国軍幹部たちに、チェルナは軽く言った。まったく気負いがないその態度に、新緑玉王国軍幹部たちは逆に好感を抱いたという。


 チェルナは一流の政治家である。政治家に必要な資質はいくつもあるが、その中で最も重要な資質を上げるとすればそれは人格的吸引力、いわゆるカリスマ性であるといえよう。


 人に嫌われ易い人間は政治家にはなれない。人間は感情によって制御される生き物だ。その理屈がいくら正しくとも、感情が拒否すれば受け入れられない。逆に言えば、感情が許すのならば、多少の理不尽は受け入れられる。人間のこの不合理性を考慮せずに政治は行えない。理屈抜きで信用したくなる。無意識に信頼してしまう。そういう天性の人格的吸引力を持った人物こそ政治家にふさわしい。そして、チェルナはそれを持っていた。彼女が口を開けば誰もが耳を傾け、彼女の頼みは誰も断れなかった。


 そういう彼女であるから、新緑玉王国軍におい地歩を固めるのも早かった。あっという間に幹部たちと意気投合し、すっかり一味に収まってしまった。


 チェルナは積極的な戦略を推進した。ロークシティア入城後、艦隊を出撃させ、ティティス大陸群全土を制圧しようと主張したのは彼女だった。


「しかし、まだ時期尚早ではありませんか?帝国と交渉して完全独立を果たしてからでもいいのではありませんか?」


 新緑玉王国軍の構想では、電撃的にロークシティアを陥れた後、帝国政府に交渉を申し入れ、帝国の総主権を認めた上での独立を認めさせることになっていたのだ。ティティス方面軍を無傷で吸収した新緑玉王国軍であれば、プロトの反乱での様に一気に押し潰すのは難しい。帝国が止む無くでも交渉を受け入れる可能性は十分にあった。しかし、チェルナは首を振った 。


「帝国はそんなに甘く無いわよ。一大陸群の独立なんて絶対に容認しないわ。帝国との決戦は不回避だと考えるべきよ」


「ならば、ロークシティアに戦力を集中させておいた方がいいのではないか?」


「それでは行動の選択肢を限定してしまう事になるでしょう?戦場も帝国に選ばせてしまうことになる」


「ロークシティアに拠って戦うのではいけないのですか?」


「外からの援軍が期待出来ない状況で篭城してどうするのよ。私たちはティティス大陸群の独立を目指しているんでしょう?それには一戦して帝国軍を叩いて、こちらの実力を見せ付けてから交渉を持ちかける必要があると思うのよ」


 新緑玉王国軍の幹部たちは思わず唸った。チェルナの意見に一理を認めたのである。チェルナは続けた。


「かつて私の父、ヤスターシェ・ニクロムは、聖戦帝国軍を二度までも破ったわ。その貴重な先例を踏襲しない手は無いと思うの」


 チェルナはあえてヤスターシェのことを父と言い切った。彼女はこの時本気で自分はリュート親王だと信じていた。あるいは信じようとしていたのであろう。少なくともこの時既に、モラムを含む新緑玉王国軍の幹部たちは、自分たちの前にいるこの女性が、かのミヘルナとヤスターシェの子であることを疑わなくなっていた。




 キャロルは降臨暦四七八八年一月、早くもクレタを旗艦イリアスⅡで出発した。反乱勃発から僅か三ヶ月しかたっていない。そこから全速力でベラグール要塞へ向かう。クレタからベラグールまでは通常航海で一ヶ月掛かる。その行程をイリアスⅡは二十日に短縮した。


 キャロルは、兵は神速を尊ぶことを知っていた。ベラグール到着前に艦隊の編成を決めておき、ベラグール到着後、翌日には艦隊を率いて要塞を後にしたのである。これには新緑玉王国軍は完全に測を裏切られた。帝国が襲来するまで早くとも半年掛かると見ていたのである。その前にティティス大陸群の支配権を既成事実化し、帝国に交渉を持ちかける、そういうつもりでいたのだ。まさかキャロルがこれほどまでに迅速な対応をとるとは。チェルナでさえ驚いたほどである。


 臨時編成された帝国艦隊は超弩級戦艦四十隻という圧倒的な戦力であった。これも新緑玉王国軍の予測を遥かに上回るものである。この戦力をまともに打ち破ることは非常に難しいと言わざるを得なかった。


 新緑玉王国軍の幹部たちは動揺した。自分たちの予測が甘かったことを悟ったのである。


 モラムでさえ動揺した。彼はキャロルを知らなかった。柔和なイメージと、二代目の皇帝の一般的イメージに惑わされていたというしかない。キャロルの実像を知っていたのはチェルナだけであったのである。チェルナは動揺著しい新緑玉王国軍幹部を叱咤した。


「十分予測範囲内の事よ。何を驚いているの!」


 しかし、チェルナは実際のところ、自分もかなり動揺してもいたのである。キャロルが自ら軍を率いてやってくるとは思っていなかったのだ。このままでは彼と軍を率いて決戦することになってしまうではないか。その覚悟を持って新緑玉王国軍に身を投じたつもりではあったのだが、それが最も実現して欲しくない予測であったことも事実であった。


 しかし、チェルナはその動揺をおくびにも見せなかった。


「決戦は望むところよ!華々しい勝利であればあるほど、帝国にこっちの要求をのませ易くなるんだからね!」


 自信満々なチェルナの様子に、新緑玉王国軍幹部たちは勇気付けられ、動揺は辛うじて収まったようであった。自分でさえ信じていないことを、相手に納得させるくらいの説得力、これも政治家に必要な資質の一つであろう。


 しかしキャロルは、出撃前の閣議から一つのことを明確にしていた。


「反乱軍とはいかなる取引も行わぬ」


 つまり、新緑玉王国軍が既に非公式に求めている交渉には応じないということであった。


「しかし、陛下。反乱軍と決戦すれば、帝国軍も大きな損害を蒙るでしょう。これを避けるには反乱軍が何を要求してくるのか位は聞いてもよいのではありませぬか?」


 閣僚の一人が唱えた消極意見に、キャロルははっきり首を振った。


「奴等が要求してくることなど見え透いている。決戦回避を餌に、ティティスの分離独立を釣り上げる気であろうよ」


 キャロルは新緑玉王国軍、特にモラムの構想をかなり正確に洞察していた。キャロルはモラムという男をほとんど知らなかったが、モラムの決起に至るまでの行動から彼の本質を相当なレベルで把握していたのである。人の本質を僅かな手掛かりから掴んでしまうというのは、キャロルの特技のようなものであった。


「ティティス独立など許さぬ。ティティスは聖戦帝国が多くの血で購った約束の地だ。いかなる犠牲を払ってでも奪還する。皆もその覚悟でいるように」


 大臣たちはどよめいた。キャロルの断固たる姿勢は、第二次ティティス遠征を多くの反対を押し切って強行した父ガイアを思わせたからだ。キャロルの性格がガイアに似ていると言われることは少ない。そもそもガイアは非常に掴み所の無い性格をしていたのである。しかし、敵に対する苛烈な態度は共通していたと言って良いだろう。


「反乱軍は、交戦前に降伏しなかった者は全て殲滅する。交戦後の降伏は認めぬ」




 聖戦帝国軍はベラグール要塞進発後、十五日を経ずしてティティス大陸群に到着した。ベラグール要塞は緑玉王国が建造しただけにティティス大陸群に最も近い。それでもその進攻速度は非常に速かった。


 新緑玉王国軍、というよりチェルナは構想の変更を余儀なくされた。モラムを始め、他の新緑玉王国軍幹部たちは、状況の激変に戸惑うばかりだったのである。


 チェルナの当初の構想は、かつてニクロム・ヤスターシェが聖戦帝国軍を迎え撃った方法を参考に、帝国軍をティティス大陸群内部に深く引きずり込み、補給ラインを霍乱、帝国軍が混乱したところで撃つつもりであったのである。しかしこれは、帝国軍のあまりにも迅速な対応で挫折を余儀なくされた。この戦略を実現するには、ティティス大陸群全土を完全に制圧する必要があったのだが、その時間を得られなかったのである。


 帝国軍が用意した戦力はあまりにも強大であった。これと正面切って戦うことは無謀と言うしかない。つまり、海上や大平原に艦隊を展開させ、大会戦を行うことは出来ないということである。


 チェルナは考えた。選択肢の一つとしては、四大宝玉時代に難攻不落の城塞都市として名をはせたロークシティアに篭城することが考えられた。しかし、外部からの援軍や補給が確保出来ないまま、百万を超える人口を抱えた都市に立て篭もるのは、得策とは言えなかった。


 今回、新緑玉王国軍に唯一帝国軍よりも有利な点があるとすれば、戦場の選択が出来るということであろう。それも帝国軍の急速な進攻によって選択肢は狭められているが、残されたこの優位を生かさない手は無かった。


 チェルナは新緑玉王国軍の全艦隊にロークシティアからの出撃を命じた。




 モラム・マイルデン。彼の名は、聖戦帝国史上二番目に大きな反乱の首謀者として歴史に残る。しかし、決起して以降、彼は急速に新緑玉王国軍内部での存在感を薄れさせてゆくこととなった。これは偏にチェルナの存在感が増したゆえなのであるが、彼が指導者というよりは策謀家であったということも原因として上げられよう。特に戦略家としては凡将の域を出なかった。


 そのため、新緑玉王国軍の幹部たちが聖戦帝国軍の急速な動きに動揺している時に適切な対応策を提示して指導力を発揮することが出来ず、それが出来たチェルナに組織運営の主導権を譲り渡すこととなってしまった。しかし彼はその事に大きな不満を抱くようなことはなかった。むしろ、チェルナの見識に感嘆し、積極的に彼女の補佐に回った。彼はNO.2としては非常に優秀であった。彼は決起前、チェルナに「王になりたい」と言ったが、それは果たして本心だったのだろうか。彼は自分に指導者としての才能は無いと自覚していたようなのだが。


とにかく新緑玉王国軍司令部はこの時期、チェルナを頂点として指揮系統が統一出来ていたのである。


 モラムはチェルナがロークシティア進発を言い出した際に疑問を呈した。


「ロークシティアを放棄するのですか?」


 チェルナは首を横に振った。


「いいえ。守備軍は置いて行くわ。ここは堅城だから帝国軍に攻められても容易には落ちないでしょう」


「なるほど、帝国軍をロークシティアに引きつけるのですな」


「そう。帝国軍も面子に賭けてロークシティアは放置できないはず。ここを攻撃するなり封鎖するなりしてくれれば、敵の戦力を分散することが出来るわ」


 その上でチェルナはロークシティアからそう遠くない、アガルステア海という内海へ艦隊を展開させることにした。


「海ですか」


 幹部の一人が唸った。


「何か?」


「海では、遮蔽物がありませぬ。その、優勢な敵と対するにはいささか不利ではないかと・・・」


 優勢な敵と対決するには、奇策が必要となるだろう。海上ではそれが弄し難いという意見である。


 しかしチェルナは首を振った。


「考えがあるの。ここは私に任せてくれない?」


「分かりました。殿下がそうおっしゃるなら」


 その男はそう一礼した。それを見ながらチェルナは不思議な気分を抱いていた。


 いつの間にか、殿下と呼ばれることに違和感を覚えなくなっていたのである。自分がリュート親王、ミヘルナの子であると確信出来た訳ではない。


 そうではなく、この新緑玉王国軍の連中、自分を信じてくれる彼らのためであれば、一生リュート親王を演じ続けても良い。そういう思いである。しかし同時に、それでは彼らを欺いていることになるのではないかという不安も抱く。自分は、彼らのために何が出来るだろう。何が出来ただろう。


 彼女はその自問を生涯持ち続ける運命にある。




 ロークシティア近郊まで進出した帝国艦隊は、選択を迫られた。まずは城門を閉ざしたままのロークシティアを制圧するか、とりあえずロークシティアを置いてアガルステアの新緑玉王国軍艦隊を追撃するか。


「ロークシティアを放置するわけにも行きますまい」


 ロードリック・ノエル大将が唸った。ロークシティアはティティス大陸群の要である。ここの解放は極端な話、新緑玉王国軍の殲滅よりも優先されることであった。しかしキャロルは首を振った。


「いや、このまま反乱軍を追撃する」


 居並ぶ帝国軍の幹部は驚いた。


「いや、お気持ちは分かりますが、ロークシティアはティティスの流通経済の中心であります。ここを失えばティティス経済が壊死してしまいます」


「さよう、それに反乱軍はロークシティアを放棄したわけではありませぬ。後方を扼される恐れもあります」


 だがキャロルは聞き入れなかった。


「ロークシティアはティティスの要だ。であるが故に、攻囲して封鎖すれば流通ルートが麻痺することとなろう。帝国軍が攻囲しなければ、反乱軍も門を閉ざすことはすまい」


 将軍たちは虚をつかれたような表情になった。


「後背を扼される可能性はあるが、ロークシティアに反乱軍は数隻の艦艇しか残しておらぬ。危険性は低い」


 キャロルの分析は的確なものであった。それなりに経験豊かな将軍たちもただ頷くばかりである。


「もう一つ。反乱軍艦隊を一戦して覆滅すれば、ロークシティアの反乱軍は降伏するしかあるまい。反乱軍の根は艦隊の方なのだ。故に余はロークシティアは置いて艦隊の方を追撃させるべきだと考える」


「陛下の慧眼、恐れ入りました」


 頭を下げるロードリック大将に無表情な頷きを与えると、キャロルは面白くもなさそうに命じた。


「ロークシティアには一文を通告せよ。余はロークシティア市民の罪を問わぬ。開城すれば寛大な措置を約束する、と」




 アガルステア海というのは、ティティス大陸群のモガム大陸とキース大陸の間に存在する内海である。特にキース大陸側には非常に複雑な海岸線を有しており、新緑玉王国軍はその海岸線近くに布陣した。


 帝国軍が案に相違してロークシティアに目もくれずに追撃して来たことは、新緑玉王国軍に衝撃を与えた。帝国軍が全軍を挙げてロークシティアを攻囲すれば、その後背を襲うことも出来たのである。そこまでいかなくても、ロークシティア封鎖に幾分かの戦力を割いてくれれば、艦隊決戦がいくらかでも有利になるはずだった。それが、一兵もロークシティアに差し向けないとは。


「・・・キャロルかな」


 チェルナはキャロルのことを侮ったつもりはなかった。彼の政治的センスはかなり優れていたし、幼少時から自分が皇帝であるという自覚を持って生きてきただけあって、あの歳にしては老練とも思える判断力の持ち主であると認めてもいた。


 しかし、公平に考えて、彼が自分以上に優れた政治家、戦略家であるとも考えていなかったのである。その彼が自分の発想の裏をかいてくるとは。


 だが、彼は艦隊をごく無造作にアガルステア海に進出させてきた。自軍の戦力的優位を信じているのだろう。チェルナの勝機は、帝国艦隊のその自信を突き崩すことで生まれるのだ。


「戦力の優位が、必ずしも戦略的優勢じゃないのよ。キャロル」




 降臨暦四七八八年三月、ついに両軍は目視距離にお互いを認めた。


 アガルステア海のキース大陸側。高度は三百メートルである。


 そのキース大陸の海岸線は複雑である上、高度一千メートル程度の山がいくつかあった。新緑玉王国軍艦隊はそれらを背景にして布陣していた。


 チェルナの意図は、おそらく複雑な地形を利用することにあるのだろう。キャロルは旗艦イリアスⅡ艦橋、司令官席に腰掛けたまま思案していた。その横には、着慣れないし似合わない軍服を着てヘレナが立っていた。彼女は私設秘書であって、軍務には同行出来ない筈なのだが、彼女が強く望んで、キャロルも許可したのである。しかし、彼女は無言のまま緊張感の中でただ立っているだけであった。


 キャロルは、この時点での帝国軍の圧倒的優位を信じていた。戦力的に圧倒的優位に立っているだけではなく、戦略アドバンテージを常に握り続けている。特にその迅速な行動は反乱軍の行動の選択肢を狭めたであろう。如何にチェルナが智謀百出とは言え、その限定された選択肢の中から優勢な帝国軍を撃ち破る詭計を見出せたとは思えない。キャロルはヘレナに辛うじて聞こえるくらいの声で呟いた。


「でも、チェルナはきっと諦めないな。あれは、そういう人だ・・・」


 キャロルは苦笑したようだった。




 いわゆる「アガルステア会戦」は、晴天、視界良好の状態で始まった。互いの距離が五万メートルに狭まったと同時に両軍の指揮官、つまりキャロルとチェルナが同時に号令を発した。


「撃てぇ!」


 両軍の戦艦の、天を睨む矛にも似た主砲が轟音と共に火柱を吹き上げた。両軍合わせて百発を超える巨大な砲弾が天を舞い、交錯する。空気が軋む音がして、次の瞬間衝撃波が空間を震わせた。


 この初弾で、チェルナが乗る新緑玉王国軍艦隊旗艦「エルマニア」は直撃弾を蒙った。彼女は旗艦を最前列に配していたのである。


 衝撃と爆音、一斉に警告ブザーが赤いランプと共に鳴り響いた。低い響きが床を震わせ、焦げ臭い匂いが甲板から艦橋まで吹き上がってくる。


「艦首に直撃!」


 観測員が叫ぶ声。艦橋の誰もが血の逆流するような恐怖に震えたその時、チェルナは腕組みをしたまま正面を見据えていた。微動だにしなかった。聖戦帝国軍将官用軍服を身にまとい、黒髪を爆風に靡かせながら。そして、周囲を叱咤するように床を踏み鳴らすと右腕を打ち振った。


「ひるむな!全艦隊、前進しつつ敵先頭艦に向けて主砲正射!」


 炎に照らし出されるその姿の凛々しさに、新緑玉王国軍の幹部たちは落ち着きを取り戻した。彼らはこの時確信した。この女性こそ自分たちの王であると。


 新緑玉王国軍艦隊は、密集隊形のまま前進した。キャロルは眉をひそめた。これでは正面からただ撃ち合っているだけではないか。彼はチェルナが何かをた企んでいるであろうことを疑っていなかった。彼女が、無策でのこのこと優勢な敵前に現れるはずが無い。


 しかし、その彼の思い込みこそがチェルナの付け目だったのである。


 新緑玉王国軍艦隊は帝国艦隊の砲撃を物ともせずに突進した。そんなことが出来たのも、そもそも帝国艦隊の砲撃が、新緑玉王国軍艦隊が何か変則的な動きをするのではないかということを警戒して腰が引けていたからである。その隙を突いて新緑玉王国軍艦隊は帝国艦隊に肉薄した。接近戦の方が艦数差による攻撃力の差を少なくすることが出来る。そしてチェルナはこの時、近接戦闘向けの艦列を組んでいた。帝国艦隊正面は大きな打撃を受けたようであった。


 キャロルは渋面を作った。ロードリック大将に声を掛ける。


「どう思うか」


「先手を取られたのはいたし方ありませぬ。ですが、わが方の戦力であればまだまだ挽回の余地はあるかと」


「そうだな。右翼ケネル中将に連絡。前進して反乱軍の後背へ回り込めと」


 新緑玉王国軍の退路を断って、包囲殲滅するつもりである。彼我の戦力差を鑑みれば、これは常識的な戦術であった。


 猛将として名高いケネル中将は勇躍、戦艦八隻を中核とした分艦隊を前進させた。


 ところが、ケネル中将の艦隊が、新緑玉王国軍艦隊の左翼を回り込もうとした時、意外な事態が起こる。


「右翼に発光信号!」


「何?」


 ケネル中将は思わず大きな声を出してしまった。右翼にはキース大陸があるだけの筈である。


「反乱軍と連絡を取り合っているようです!」


「さては、伏兵か?」


 新緑玉王国軍が密かに戦力を分散して、キース大陸の複雑な海岸線に隠している。十分あり得る話しであった。というより、その方が、新緑玉王国軍の無謀とも見える突撃の意味が理解出来るのである。このまま前進すれば、最悪、敵に挟撃される恐れもあるだろう。ケネル中将は迷った。


 彼はチェルナのことを知っていた。先のプロト大陸群の反乱の時、戦闘前の会議でチェルナにやり込められた経験があったのである。腹立たしい女だったが、実際彼女の作戦のよろしきを得て、聖戦帝国軍は反乱軍に快勝している。油断ならない相手であった。


 彼女ならきっと、兵を伏せることぐらいはする。ケネル中将はそう見切った。


「よし、ではその伏兵をまず片付けてやる!」


 彼は艦隊をキース大陸方面へと回頭させた。


 キャロルは驚愕した。


「なぜだ!なぜケネルは動かぬ!」


「伏兵を発見したので、先にこれを殲滅するとのことです!」


「馬鹿な!」


 伏兵などいよう筈が無いのである。


 帝国軍は、事前に新緑玉王国軍の戦力を調べ上げていた。その結果、ロークシティアに残してきた数艦以外の艦艇は全てこの戦場に出ていることが分かっていた。未確認の兵力がいる可能性は非常に低く、いたとしても戦局を左右できるほどの戦力では有り得まい。


 新緑玉王国軍が何かを企んでいるに違いない。そういう思い込みがケネル中将に幻の戦力を見せたのであった。チェルナは発光信号一つでケネル中将を釣り上げたのでる。


 帝国艦隊は既にケネル中将が新緑玉王国軍の後背に回り込む事を前提として包囲陣形を築きつつあった。しかし、ケネル中将の「寄り道」のおかげで包囲陣形は完成しなかった。帝国艦隊はただ艦列を無様に広げてしまったのである。


「今!」


 チェルナの狙いはこの瞬間にあった。


 新緑玉王国軍艦隊は単縦列隊形のまま急進した。薄く広がった帝国艦隊はこれを押し留める事が出来ない。突破を許してしまう。


「まずい」


 キャロルは思わず呟いた。新緑玉王国軍艦隊はそのまま帝国艦隊左翼の後背に回り込み、逆に半包囲陣形を形成。有利な位置から猛砲撃を始めたのである。その帝国艦隊左翼にはキャロルの乗る旗艦イリアスⅡを含んでいた。


 帝国艦隊は旗艦の危機に慌てふためいた。特に自らの判断ミスでこの事態を招いたケネル中将は焦った。案の定、彼が艦隊を侵入させた入り江には、敵艦隊などいなかったからである。


「くそう!謀られた!急ぎ戻るぞ!」


 ところがそうはいかなかった。艦を回頭させたケネル中将が見たものは、入り江の入り口を埋め尽くす浮遊機雷だったからである。当然チェルナの仕業であった。チェルナは地上部隊を海岸に潜ませていたのだ。艦隊を攻撃することは出来ないが、偽の発光信号を送ったり、機雷の敷設したりするぐらいは出来る。


 これでケネル中将率いる艦隊はしばらく足止めを余儀なくされることとなった。帝国軍は戦力を分断されてしまったわけである。


 キャロルは天を仰いだ。まさかこの様な戦術があろうとは。海上での艦隊決戦では地上軍の出番は無い。その常識をチェルナは鮮やかに覆してみせたのであった。


「いや、違うな」


 戦術の常識に、運用出来ない兵力つまり「遊兵」を作らないというのがある。チェルナは、地上部隊を遊兵とせず、持てる兵力を最大限に運用しただけであった。つまり、彼女の作戦の方が戦術の常道だとも言えるのだ。帝国軍、つまりキャロルの方に大兵力を背景とした油断があったのである。


 ケネル中将の艦隊を切り離されてしまったことで、帝国軍の兵力的優位は大きく後退した。しかも陣形を乱されてもいる。新緑玉王国軍に勝機が生まれたのであった。


「撃て!撃て!!」


 チェルナは叫んだ。彼女の視界の先には帝国艦隊総旗艦「イリアスⅡ」がいる。


 旗艦を沈めれば帝国艦隊の混乱は更に大きくなり、遂には撤退を余儀なくされるであろう。そうすれば新緑玉王国軍はこの会戦に勝利したこととなる。大兵力差を覆して帝国軍に勝利したとなれば、新緑玉王国軍の強さは満天下に鳴り響き、逆に帝国は動揺する。他の大陸群の反帝国勢力も刺激されるだろう。帝国の動揺を抑えるためには、帝国も新緑玉王国軍との交渉に応じざるを得なくなるであろう。


 つまりこの会戦、ひいては新緑玉王国軍の勝利のためには、イリアスⅡを撃沈するのがもっとも効率が良い方法なのである。チェルナはこの時、それにキャロルが乗っていることはまったく考慮しなかった。


 旗艦イリアスⅡは集中砲火を受けた。防御力場が過負荷に虹色に輝き、至近弾が炸裂して閃光が艦の周囲を彩る。艦は大きく動揺し、艦橋にいる歴戦の司令部の面々も流石に顔色を失った。


 一人キャロルだけが平然としていた。


 キャロルは、自分に向けて敵意と共に砲弾を浴びせてくる軍の首領がチェルナであることを、十分に認識していた。旗艦を集中して撃沈してしまうこと、それが戦略戦術的に有効であり、彼女なら私情を廃してそれを採るだろうことも。故にキャロルは慌てなかった。十分に予測範囲内の出来事ならば落ち着いていることが出来る。


 キャロルは粘り強い男であった。不利な態勢に陥っても事態を投げることはけして無い。彼はこの時も冷たい視線で事態を観察していた。そして、傍らのロードリック大将に言う。


「フォルス中将に連絡艇を出してくれ。旗艦に構わず、敵艦隊の後背に回りこむように」


 フォルス中将は新緑玉王国軍艦隊によって分断された帝国艦隊右翼の指揮を任されていた。旗艦と分断されて、どう行動したものか迷っているだろう。


「よろしいのですか?」


「同時に全艦隊に発光信号でフォルス中将が敵後背に回り込むまでがんばれと伝えよ」


「敵にも傍受されますが?」


「構わない」


 挟撃される危険性があると分かれば敵の動揺を誘うことが出来る。そうでなくても新緑玉王国軍に対応を強いることが出来よう。


「こちらは強引に回頭しよう」


「?敵前での回頭には危険が伴いますが?」


「そう、そうやって隙を見せれば、敵はこっちをあくまでも攻撃し続けるか、後輩に回りこむフォルス中将に対応するか迷うだろう」


「なるほど」


 ロードリック大将は頷いたが、内心ではそれが危険な賭けであることを知ってもいた。フォルス中将が完全に敵の後背に回りこんで帝国軍による包囲網が完成する前に、敵の攻撃でこちらが大損害を蒙ってしまえば元も子もないのである。ましてや敵は旗艦に攻撃を集中してきているのだ。


 だが、キャロルは右手を振って命じた。


「よし、回頭を命ぜよ。敵の攻撃に耐え切れば勝ちだ」




 一斉に現在位置で回頭を始めた帝国艦隊本隊を見て、チェルナは仰天した。それはあまりにも無謀な行動だったからである。艦は回頭中、姿勢が不安定になるため、射撃精度が非常に悪くなる。つまり砲撃戦闘がほぼ不可能になるのだ。敵を後背に抱えたまま砲撃戦闘不能状態にわざわざ陥るなど、無謀を通り越して自殺行為だと言うべきだろう。


 新緑玉王国軍の幹部達は色めき立った。


「なんという好機!今、総攻撃を加えれば勝利は疑いありません!」


「こちらの攻撃に慌てたのでしょう。なんと無様な!」


 口々に言ってチェルナに総攻撃の命令を促す。しかし、チェルナは咄嗟に判断を下しかねた。


 あまりにも無謀、自殺行為。そんな行動を帝国軍がとるだろうか?


 実戦経験が浅いキャロルがパニックを起こしたとしても、周囲の実戦経験豊富な将軍たちが止めるだろう。ましてや将軍たちがパニックを起こすことなど考えられなかった。であれば、この一見無謀な行動は帝国軍の正気の意思の元に行われたものであるということである。


 どのような意図が考えられるだろうか。考え得るのはこの回頭が偽装だということだろう。こちらに突入を誘い、誘い込んだところで罠に嵌める。


 しかし、この状況でどのような罠があるというのか。チェルナには分からなかった。しかし、迷っている時間はいずれにせよ無いのである。


「よし!敵が何を企んでいようとかまわないわ!全艦隊突入!イリアスⅡを撃沈する!」


 チェルナがこの時、チェルナが慎重に判断して艦隊を突入させず、遠距離砲撃に徹していても新緑玉王国軍に勝利が転がり込んだかもしれない。結果的にだがこのチェルナの号令が、この会戦の勝敗を決定付ける判断となってしまうのである。


 新緑玉王国軍艦隊は猛然と砲撃しつつ前進してきた。


「敵、殺到してきます!」


 観測員の叫びにイリアスⅡの艦橋は緊張した。だが、キャロルは頷いただけである。隙を見せたのだから敵がこれを好機と見て攻撃してくるのは当たり前のことである。しかしこの時、キャロルが予想していなかったことが幾つか起こったのである。


 聖戦帝国艦隊は敵前で各艦単位で回頭したわけである。回頭後、イリアスⅡを中心とした隊形をとることは伝達されていたが、回頭の方向は各艦に任されていた。このことがあまり見られない不規則な艦隊の動きに繋がり、新緑玉王国艦隊を幻惑したのである。これは砲撃の命中率の低下となって現れた。


 同時に新緑玉王国軍艦隊も前進してしまったために、更に砲撃管制は難しくなった。互いの距離が近くなれば一見砲撃命中率は上がるように見えるが、実際はそれほど単純なものでもない。特に多くの艦が入り乱れる状況では、距離をとっての砲撃の方が照準がつけ易いのである。


 更に、この時チェルナは各艦に、帝国旗艦イリアスⅡを集中砲撃するように命じていた。不規則な動きをする帝国艦隊の中からイリアスⅡだけを狙って攻撃するのは難しかった。しかも接近してしまったため敵味方の艦が射線をふさいでしまう結果となり、イリアスⅡに砲撃を集中することは更に難しくなった。


 これは明らかにチェルナの判断ミスであったろう。攻撃目標をイリアスⅡに限定しないで手近な艦から片っ端から沈めてしまえば良かったのである。戦略的思考の無い、単なる前線指揮官であればそうしたであろう。しかし、チェルナは戦略的側面から帝国艦隊旗艦イリアスⅡの撃沈にこだわり過ぎてしまった。それが結局新緑玉王国軍から勝機を失わせたのである。


 チェルナがそれに気がついた時には、既に遅かった。


 高い錬度を誇る帝国艦隊は、猛砲撃の中迅速に回頭を終了し、新緑玉王国軍艦隊に向かい合った。同時にフォルス中将の右翼艦隊も陣形の再編を完了。新緑玉王国軍艦隊の後方に展開した。帝国艦隊は新緑玉王国軍を完全に包囲した訳である。


「撃てぇ!」


 帝国艦隊の戦艦が一斉に主砲を発射した。圧倒的な敵意が降り注いでくる。その瞬間、チェルナは敗北を悟った。


 新緑玉王国軍旗艦エルマニアの周囲に無数の火柱が立ち上がった。衝撃に艦橋は激震する。


 集中砲火を受けて新緑玉王国軍の艦は次々と撃沈されて行く。前後に挟撃された状態で必死に反撃するものの、それは単なる抵抗でしかなかった。


 チェルナはそれでも諦めなかった。混乱を極める中、旗艦を中心に戦艦を集結させ、敵の一点に砲火を集中させて包囲網の突破を図ったのである


 しかし帝国艦隊の砲撃は熾烈を極め、新緑玉王国艦隊は砲弾を回避するだけで精一杯となる。しかもここでチェルナの詭計に引っ掛かって戦場離脱を余儀なくされていたケネル中将がようやく戦線に復帰する。帝国艦隊の戦力は増強され、包囲網は更に厚くなった。屈辱を挽回すべくケネル中将反乱軍に襲いかかった。


 いまや新緑玉王国艦隊は艦隊の体を成していなかった。各艦単位で必死に回避行動をとるのが精一杯である。帝国艦隊の砲撃は容赦無く、それを確実に撃破していった。




 新緑玉王国軍艦隊旗艦エルマニアも複数の命中弾を蒙っていた。引っ切り無しに至近弾を受け、その度に艦は大きく傾ぎ、震えた。


 硝煙の匂いと、耳が痛いほどのブザー音。味方の損害を伝え続けたオペレーターの声は枯れ、戦況を記した海図はもはや用を失って床に投げ出されている。チェルナはただ、立ち尽くしていた。モラム・マイルデンにはそう見えた。


 失敗か。モラムは思わず苦笑した。彼には信念があった。そして、信念の元に反乱を起こしたのである。であるから、その結果が失敗だったとしても後悔はしなかった。ただ、残念だった。自分にもう少し能力があれば、この様な結果にはならなかったであろうと思うと、無念でもあった。


 さて、チェルナはどうするのだろうか。モラムはチェルナの後姿を見ながら考えた。


 彼女が、もしも命を惜しむならば、帝国軍に降伏するという選択肢があった。チェルナは皇帝の側近で友人でもある。降伏しさえすれば、皇帝キャロルが彼女を許す可能性は十分にあった。


 しかし、皇帝は反乱軍の兵士は一兵まで許さないことを明確にしていた。チェルナが降伏しても許されない可能性も十分にあるのだった。単に降伏するだけではなく、皇帝の情にすがって、命乞いする必要があるだろう。


 だが、チェルナはモラムに向かって振り返って笑った。なんだか妙にサバサバした笑顔だった。


「負けたわね。感想は?」


 モラムは返答に窮した。


「なんとか出来ると思ったけど、甘かった。ごめんね」


「いえ、勝敗は時の運でしょう。・・・殿下は最善を尽くされました」


「ありがとう。それで、どうするの?」


「・・・?どう、とは?」


「どうやって、死にましょうか?」


 モラムは息を呑んだ。


「もう、選択肢はあまり多くはないわよ?このまま撃たれて沈むか、手近な敵に突撃してやられるか、自沈するか」


 チェルナの表情には何の陰りも無かった。瞳には輝きがあり、口元には笑みが浮かぶ。汚れた頬を拭いもせず、額には汗がにじむその姿は生き生きとしていた。鮮烈な美しさ。モラムは唾を飲み込み、そして、恥ずかしいことを言うかのように、小さな声で言ってみた。


「投降する、というのは」


「まさか」


 ふん、とチェルナは軽く笑った。


「キャロルは応じてくれないわ。聞こえないふりをして撃たれてお終い」


 チェルナはふと、窓の外を見た。火災の煙が立ち込め何も見えなかったが、あたかもそこに帝国旗艦イリアスⅡがいるかのように。


「キャロルは、そういう人よ。あれでなかなか容赦が無いの」


「よく、ご存知なのですね」


「そうね。結構本気で好きだったのよ」


 モラムは驚いた。


「皇帝の事を?」


「ええ」


 チェルナはどこか上の空だった。


「好きだった。だから、あいつに負けたんなら、仕方が無い」


 つまりは、そういうことらしかった。モラムは驚き、そして不意に嫉妬めいた感情を覚えた。チェルナを皇帝の元から奪ったつもりで、それでもまだ彼女の心はキャロルの元にあったのだ。それは現実の戦闘に敗北したこと以上に新緑玉王国の敗北であるように感じられたのである。モラムは苦笑した。


「あなたは、リュート親王ではありませんでした」


 モラムの言葉にチェルナが不思議そうな顔をした。


「あなたはやっぱり、リュート親王ではありませんでした。あなたは、チェルナ・リュートそれ以外ではあり得ません」


「そうかもね」


 チェルナの頷きにさしたる意味は無かった。今更そんなことを言っても仕方が無いと思っただけだ。だが、モラムにとってはそれは違った意味をもっていた。


「そうですか」


 細く長いため息。そしてモラムは横にいた一人の兵士にこう、命じた。


「貴官に命ずる。チェルナ・リュート秘書官を皇帝の元に送り届けよ」


 命じられた兵士も戸惑ったが、チェルナの驚きはそれどころではなかった。


「ちょっと、何を言って・・・!」


 モラムは構わず続けた。


「チェルナ・リュート秘書官は我が軍が人質として捕らえていた。しかし、敗勢拭いがたい情勢となってはやむを得ぬ。巻き込むに忍び無いので解放することにした。そう、皇帝に伝えよ」


「モラム!」


 チェルナは叫び、モラムに食って掛かった。


「どういうことなの?この期に及んで私をのけ者にする気なの?」


「あなたが、リュート殿下であれば、このまま運命を共にして頂くのは緑玉王国再興を目指した者にとって名誉なことであります。よろこんで巻き込ませて頂きます。しかし」


 モラムは目を細めた。


「チェルナ秘書官であれば、巻き込むのは逆に我が軍の名折れ。艦が覆る前に退艦して頂かなくては困ります」


「そんな・・・!」


 チェルナは絶句した。それが詭弁であることは明白であったが、なぜ突然モラムがそんなことを言い出したのかが分からなかったのだ。周りの新緑玉王国軍幹部たちもモラムの意図を掴みかねている様だ。モラムは言葉を継いだ。


「チェルナ秘書官。願わくば皇帝に、我が新緑玉王国軍の大義をお伝え下さい」


 このまま新緑玉王国軍が廃滅すれば、新緑玉王国軍は単なる反乱軍として歴史に記録され、誰にも省みられなくなるであろう。しかし、チェルナがキャロルの元に戻れば、あるいはその思想は皇帝に伝えられ、新緑玉王国軍の運命も違った意味を持つことが出来るかもしれない。モラムはそう考えたのであった。少なくとも新緑玉王国軍の幹部たちはそう受け取ったらしかった。彼らの表情に理解の色が浮かんだ。


 チェルナは顔色を失った。とんでもない話だった。短い期間とはいえ共に戦い、死線を越えた「同志」と呼ぶに相応しい仲間たちを見捨てて、自分一人がおめおめと生き残れというのか。キャロルの元に帰り、何食わぬ顔をして生きて行けというのか。そんなこと・・・。


「殿下、生きてください」


 新緑玉王国軍の幹部の一人が言った。更に他の一人が目に涙を浮かべながら言う。


「お元気で、殿下」


「いままでありがとうございます。殿下」


「御幸運を、殿下」


 口々に別れを告げる新緑玉王国軍の幹部たち。チェルナは呆然とした。


「あなたたち・・・!」


 モラムは頷いた。


「さぁ、もう行かれよ。頼んだぞ、少尉」


 この時チェルナを連れて脱出したのはコエドル少尉という若い兵士だった。彼は目に涙を浮かべ、敬礼すると、チェルナを促した。


「嫌よ!モラム!」


 しかしモラムはチェルナに微笑を残して身体を翻した。


「モラム!」


「殿下、こちらへ!」


 コエドル少尉は動こうとしないチェルナの腕を取って強引に引っ張った。


「モラム閣下のお気持ちがお分かりになりませんか!さぁ!」


 チェルナは抗ったが、コエドル少尉はチェルナを抱きかかえる様にしてチェルナを艦橋と甲板を繋ぐエレベーターの方へ導いた。コエドル少尉はこの時チェルナを救出した功で後に昇進を打診されたが、これを辞退して退役。以降の消息は歴史に残っていない。


 エレベーターに押し込まれる寸前、チェルナは叫んだ。


「許さない!許さないわよ!モラム!」




 双眼鏡の向こうに、大きく傾き煙を噴き上げる反乱軍旗艦エルマニアの姿があった。


 イリアスⅡの艦橋から視界に入れることが出来る距離に近付いていた。つまり、最早反乱軍には何の脅威も無くなったということである。既に旗艦以外の反乱軍艦隊は全て撃沈するか、降伏後に拿捕してしまっていた。事実上戦闘は既に終結していたのである。


 反乱軍旗艦だけが残ったのには理由があった。戦闘の帰趨が明らかとなり、エルマニアに数発の命中弾があって行動不能になったところで、ロードリック大将がエルマニアへの攻撃を止めさせたのであった。これは当然、エルマニアに乗っている筈のチェルナを殺さないための配慮であった。


 しかし、エルマニアの様子をしばらく観察していたキャロルは素っ気無く視線を外すと、ごく事務的に言った。


「あの艦は、降伏したのか?」


 帝国軍は一切降伏勧告を行わなかった。あくまで自主的に降伏した艦の降伏を受け入れているに過ぎなかったのである。


「いえ」


「ならば撃沈せよ」


 キャロルの言葉にロードリック大将をはじめとする帝国軍幹部たちが息を呑んだ。しかし、一番強い反応を示したのは彼らではなかった。


「キャロル様!」


 それまで戦闘中一切動きを見せなかった女性、ヘレナが決然と声を上げた。彼女はこの時のために恐ろしい戦場へと勇を振るってやって来ていたのである。


「いけません!あれにはお姉さまが乗っていらっしゃるんですよ!」


 ヘレナはキャロルの袖を掴んでゆすった。


「止めてください!お姉さまを殺す気なんですか!」


 しかし、キャロルは冷たく言った。


「僭越だぞヘレナ。下がっていなさい」


「キャロル様!?」


「何をしている。早く撃沈せよ。そうすればこの戦いは終わる」


 ヘレナは愕然とした。まさかキャロルがここまで聞く耳を持たないとは思わなかったのだ。ヘレナはキャロルの胸に取り縋った。


「だめ、止めてくださいキャロル様!お願いです!」


「撃沈せよ。聞こえないのか?」


「キャロル様!やめて!止めてください!」


 キャロルは最早返事も返さなかった。ただ驚くほど冷たい視線でエルマニアを見据えている。ヘレナは震えた。いろいろなものが、崩れて行く恐怖。そして、悔しさ。


「・・・後悔しますわ。きっと。キャロル様。きっと、後悔する時が来ますわよ」


「そうだね」


 キャロルは恐らく、無意識に呟いた。


 次の瞬間、帝国軍艦隊の集中砲火がエルマニアを火球に変えた。




 信じられない報告が齎されたのは、エルマニアが撃沈されてから数十分後のことであった。


 イリアスⅡ艦橋に現れた人物を見てヘレナは狂喜した。


「お姉さま!」


 それは煤にまみれ髪を振り乱してはいたが、紛れも無く死んだと思い込んでいたチェルナであったのだ。ヘレナは泣きながら彼女に駆け寄り、抱きついた。


「よかった!お姉さま・・・、よかった・・・!」


「ヘレナ・・・」


 チェルナは呟くように言った。ヘレナがここにいることが意外だったのであろう。ヘレナ涙を拭いながらチェルナの全身を確かめる様に見て、あることに気がついた。


「・・・!どうして?どうしてお姉さまが手錠なんてされているのですか?」


 チェルナを艦橋に連行してきた兵士たちは当惑を浮かべた顔を見合わせた。


「失礼じゃありませんか!さ、早く外して下さい!」


 誰もそれに応じようとはしなかった。イリアスⅡの艦橋に硬い沈黙が満ちている。


 チェルナはここに賓客ではなく捕虜として連行されてきたのである。コエドル少尉に無理やり引かれて脱出艇に乗せられたチェルナは程なく帝国軍の艦艇に救助されたのである。彼女はそこで自分の名を名乗った。「自分はチェルナ・リュートである」と。この時、チェルナは「リュート・ミヘルナ」と名乗らなかった。この時彼女は新緑玉王国軍と運命を共に出来なかったショックで呆然としていたのである。それで無意識に本名を名乗ってしまったのだ。


「どうしたのですか?ロードリック将軍、お姉さまのことはあなたもご存知でしょう?早く外させてください」


 ロードリック大将も硬い表情を浮かべて沈黙している。チェルナが反乱軍の脱出艇で反乱軍の士官と共に救出されたことは間違いないことであった。そういう状況であればチェルナを捕虜として扱うしかない。それでもロードリック大将は彼の独断でチェルナを旗艦艦橋にまで連れてこさせていた。


 誰も答えない。ヘレナは石のように沈黙する男たちを見回し、そして最後に彼に向かって訴えた。


「キャロル様!」


 キャロルはチェルナを見ていた。冷たく突き放したような視線。ロードリック大将がヘレナの希望に応じられなかった理由がその冷然とした表情であった。


 チェルナは、キャロルのことを見ることが出来なかった。自分にはもう、彼の友人である資格も敵である資格も無いのだ。どうしておめおめキャロルの前に立てようか。チェルナは俯き、下唇を噛んだ。屈辱よりも情けない気分で一杯だった。


 不意にキャロルの声が聞こえた。


「そこの者」


 チェルナに掛けた声ではなかった。チェルナの後ろに立つコエドル少尉にキャロルは話しかけたのである。


「は・・・」


「彼女の、名は」


 コエドル少尉は眉を顰めた。


「・・・チェルナ・リュート殿です。陛下はご存知でいらっしゃると思っていましたが」


「チェルナなのだな?」


 コエドル少尉は皇帝の意図を掴みかねた。


「そうです」


「リュート親王ではないのだな?」


 ざわめきが走った。チェルナは思わず顔を上げた。コエドル少尉は息を呑んだ。


「どうなのだ」


 問いはコエドル少尉に向けられていたが、キャロルの視線はチェルナに向けられていた。厳しい表情だったが、どこか痛々しい。まるで、泣き出す一歩手前の顔の様であった。


 コエドル少尉は姿勢を正した。彼は皇帝の意図を諒解したのである。そして、モラムから受けた遺命を果たすのはこの時だとも悟った。


「・・・は、チェルナ秘書官は人質として我が軍が捕らえておりましたが、この期に及んでは巻き込むに忍びないというモラム中将のご判断により、小官が陛下の下に送り届けるよう命じられました」


「そうか」


 キャロルは頷き、そして息を大きく吸い込んだ。


「よかった」


 満面の笑みを浮かべる。あまりの表情の変化に、固唾を呑んで見守っていた全員があっけに取られた。


「心配していたんだよ、チェルナ」


 そしてキャロルは両手を広げてチェルナの元に歩み寄り、抱擁した。誰もが唖然とする行動であった。


「よく無事でいてくれた。さぁ、何をしている、早く手錠を外してくれ」


「は?は、あ、た、直ちに」


 戸惑いつつもロードリック大将はチェルナの手錠を外すよう部下に命じる。チェルナは成すがままにされていた。チェルナはまったく状況が読み取れなかった。やさしく彼女を抱き寄せるキャロルの金髪が彼女の右頬に触れていた。耳元でキャロルの妙にはしゃいだ声が言う。


「良かった。反乱軍に誘拐されたと聞いてから、僕は心の休まる時が無かったよ。本当に無事でよかった」


 誘拐?チェルナは目を丸くした。彼は一体何を言っているのか。


「反乱軍は全滅したよ。リュート・ミヘルナを僭称した者も共に死んだらしい。これで全て終わった」


 あ・・・。この瞬間誰もがキャロルの考えを諒解した。


 つまり彼は、チェルナと「リュート・ミヘルナを僭称した者」を別人だったということにしようとしているのである。もしもチェルナが「リュート・ミヘルナを僭称した者」で無いとすれば、チェルナが罪に問われることは無くなるのだ。


 チェルナは愕然とした。それはとんでもない事実の歪曲であったからだ。そしてそれは彼女にとって耐え難いことでもあった。自分の指揮によって敗北した新緑玉王国軍。自分のせいで死んでいった仲間たち。散っていった兵士たち。モラムを初めとする新緑玉王国軍の幹部たちは短い間とはいえ、心通わせあった本当の同志たちであった。その彼らを空しく死なせておきながら、自分は共に死ぬことも出来ず、そして今、彼らとの繋がりまで否定されようとしている。そんなことには耐えられなかった。彼らだけを死なせて、自分一人が何事も無かったかのように生き残るなど、許されないことだと思った。


「わ、私は・・・!」


 チェルナが叫ぼうとした瞬間、彼女の背中に回されていたキャロルの手に力がこもった。キャロルは怪力である。その彼が必死で抱き寄せたのだ。チェルナは一瞬息が詰まった。


「好きだ。チェルナ」


 チェルナは雷に撃たれたようになった。


「君がいなくなって、よく分かった。僕には、君が必要だ」


 痛かった。キャロルは必死でチェルナを抱きしめていた。手が震えていた。


「もう、どこにも行かないでくれ・・・」


 何も言えなかった。チェルナは何も言えなくなってしまった。涙が出てきた。チェルナはキャロルの肩に顔を埋めて泣いた。チェルナが人前で泣いたのは、後にも先にもこれが唯一のこととなったのである。




 キャロルは皇帝の権力を強化し、民意を代表する議会を軽視したと言われている。そのため独善的で我侭な皇帝であるというイメージを持たれ易い。しかし、彼は謙虚で実直でまじめな性格であり、特に権力を私用のために乱用することを事の他嫌った。ちなみに彼が議会の権力を縮小したのは、この後に幾度も起こった議会内の勢力争いが国政の停滞を呼び込んだからで、公平に言っていわば議会側の自業自得の感がある。


 キャロルが権力でもって事実を捻じ曲げたのは、この時チェルナを「リュート・ミヘルナを僭称した人物」と別人であるとしたこれ一回のみである。彼は軍の公式記録をそのようにさせたのみならず、マスコミ各社に圧力を掛けてこの件に関する報道を規制し、従わない雑誌社に対して不敬罪を適用して発禁処分を課すことまでした。このため、少なくとも聖戦帝国が滅びるまではこの件はタブーとされ、まったく語られることが無かった。


 チェルナがこの後、この事について発言することも無かった。彼女に対して新緑玉王国軍関係の質問をすることも当然最大級の禁忌とされたからである。彼女は死ぬまで沈黙を守り続けたが、その心中はどのようであったろうか。


 新緑玉王国軍の反乱はこのような事情により、記録上もほとんど抹殺されてしまっている。モラム・マイルデン以外の幹部の名前がまるで伝わっていないのもその一例だ。反乱終結後に新緑玉王国軍に協力した者たちへの処分や軍への論功行賞も行われたはずなのだが、帝国の公式記録にすらその名簿や処分内容が残されていないという徹底ぶりである。この反乱が「忘れさせられた反乱」という異名を持つのはこのためだ。


 しかし唯一、ロークシティア郊外の墓地にひっそりとモラム・マイルデンの墓がある。これにも反乱については何も記されていないが、墓碑銘に「理想のために戦いし者」とある。この墓は、チェルナが建立したという言い伝えがあり、彼女はロークシティアに来るたびにここを訪れていたとも言う。




 チェルナは、結局キャロルの秘書へと戻った。まるで、何事も無かったかのように。彼女にそれ以外の選択肢は無かったのだ。キャロルが、チェルナが反乱に関与したという事実を黙殺した以上、チェルナには何の処分も課されることも無かった。であれば、彼女はキャロルの秘書に戻らなければ不自然だったのである。


 皇帝府に戻るや否やチェルナは相変わらずの辣腕を発揮した。大臣、官僚たちは安心した。彼らは一部の者を除いて詳しい事情を知らなかったのだから尚更である。反乱によってティティス大陸群の政情は混乱していた。反乱軍として壊滅してしまったティティス方面軍の再建や、反乱軍に協力、賛同した人々への対処など、反乱の後処理は急務であった。チェルナは(皮肉なことに)これに的確な政策を次々と発案したのである。このことによって、チェルナの声望は更に高まり、皇帝府内部での存在感も増した。


 しかしながら、一つだけ変わったことがあった。


 チェルナは、一切キャロルに会わなくなったのである。彼女の執務場所は皇帝秘書室であり、皇帝執務室の前室にあたる。そこに一日中いながら、彼女は皇帝執務室にいるキャロルに会おうとはしなかった。キャロルに用がある時にはヘレナかエスパーナに伝言させ、キャロルが外出のために皇帝秘書室を通る時には下を向いて目線も合わさなかった。


 皇帝府の人々はこの異変に当然気がついていた。同時に彼女から傍若無人な態度や言動が無くなった事もあり、彼女から皇帝の寵が失せたのではないか、という噂が飛び交うこととなったのである。


 キャロルの方からも積極的にチェルナに話し掛けようとしなかったことも事実である。キャロルが何を考えていたのかはいまいち不明だが、とにかく二人は反乱終結以来一切言葉を交わすことが無くなり、それが半年近く続くこととなった。




 冬の朝であった。チェルナは皇帝府に出勤すべく街を歩いていた。彼女の朝は一般的な出勤時間よりも早く、街にほとんど人影は無かった。こげ茶色のロングコートと革のブーツ。俯いた顔は臙脂色のマフラーに半ば埋もれている。白い息が目へ進むと共に後ろへと流れていった。


 チェルナは、多忙だった。自ら、多忙の中に埋もれていた。休日も無く、夜は遅く、こうして朝も誰よりも早く起きて目まぐるしく働く。そうして、紛らわせていた。そうしなければ別の何かに埋もれてしまいそうだったからだ。


 同時に、それは誤魔化す為であった。忙しいから。暇が無いから。だから・・・。


 チェルナは目線を上げた。だれか、いる。


 白い毛皮のコートだった。朝の日差しに毛の先に光が掬い取られるような、柔らかさ。亜麻色の髪に巻かれた二つのレースのリボンも白。それだけではなく、雰囲気もどこか春の日差しめいた白い柔らかさを持っていた。


 ヘレナだった。


 チェルナは数瞬目を細めて彼女を見た後、顔を下に向けた。なんとなく目を合わせ辛かったのだ。最近、チェルナはキャロルだけにではなく、他の誰とも面と向かって会いたがらなかった。いつも俯いて、デスクワークに没頭していたのである。チェルナは俯いたままヘレナの横を行き過ぎかけた。


「お姉さまはずるいです!」


 突然ヘレナが叫ぶ様に言い、朝の路地に高い声が響き渡った。チェルナは立ち止まった。


「いつまでうじうじしているのですか?そして、いつまでキャロル様を待たせるのですか?」


 ようやく、チェルナは顔を上げた。そこに、珍しく眉を吊り上げて真剣な顔で自分を睨むヘレナの顔を見出した。


「キャロル様は、待っていらっしゃるんですよ?お姉さまにお分かりにならない筈は無いと思いますけど?」


 チェルナはヘレナの視線の強さに押されるように、ふいと視線を外してしまった。


「・・・分からないわ」


「嘘です!キャロル様はあの時、意思表示なさったではありませんか。今度はお姉さまの番でしょう?」


 チェルナは自分の吐いた白い息が消えてゆくのを視線で追いながら、呟くように言った。


「知らないわ」


「そうですか!」


 ヘレナが動くのが動くのが視界の端に見えたと思うや否や、チェルナは自分の頬が軽く叩かれるのを感じた。あまりの意外さにチェルナは思わずバランスを崩し、尻餅をついた。顔を上げた先で涙ぐむヘレナが、叫んでいた。


「ならなんで、あの時自殺してしまわなかったのですか?キャロル様に縋って生きて行くつもりがないのなら、どうして!」


「ヘレナ・・・」


 チェルナは咄嗟に立ち上がる事も出来ないまま泣き喚くヘレナを呆然と見上げていた。ヘレナはいまや涙を流しながらチェルナの前に立っていた。


「お姉さまがいなければ私が・・・!でも、お姉さまじゃなければ、駄目なのに!」


 しゃくりあげながら、それでも視線はけしてチェルナから外さない。


「キャロル様には、お姉さまじゃなきゃ駄目なんです!」


「ヘレナ・・・」


 チェルナは、緩慢な動きで膝をついた。まだ、立ち上がることが出来ない。


「・・・どうして?」


「?」


「どうして?あなたも、キャロルのことが・・・。好きなんでしょう?どうして・・・」


 不意に、蹲ったままのチェルナを上から包み込むように、ヘレナがチェルナを抱きしめていた。チェルナの顔はヘレナの毛皮のマフラーに埋もれた。


「そんなの、決まっているじゃないですか!」


 ヘレナの方はチェルナの臙脂色のマフラーに頬を押し当てている。まだ涙は止まらなかったが、表情は柔らかな笑顔になっていた。


「私は、お姉さまのことも大好きなんです!」


「・・・ヘレナ」


 チェルナは一瞬表情を崩しそうになり、ヘレナの肩に顔を押し付けた。


「お姉さま・・・」


 ヘレナもチェルナを抱きしめ返す。が、


「・・・生意気よ・・・」


「は?」


「ヘレナの癖に生意気よ!」


 チェルナはヘレナの両頬を両手でつねって引っ張った。


「いはい!いははは、おねへはまぁ・・・!」


「ヘレナの癖に!」


 ヘレナの間近で、チェルナの顔は涙に濡れてはいたが笑っていた。輝く様な笑顔を浮かべながらヘレナの頬を弄ぶ。


「おねへさま・・・」


 ようやくヘレナの頬を開放すると、チェルナはもう一度へレナを強く抱きしめた。


「ヘレナ、ありがとう・・・!」


 そして、ヘレナを投げ捨てるように解放すると朝日の方角へと勢い良く進み始めた。それはヘレナが一瞬見とれてしまうような、颯爽とした美しさに溢れた姿だった。


「お姉さま!今日キャロル様は、午前中は大学にいらっしゃいます!」


 チェルナは足を止める事は無く、それでも顔を半分振り向かせて頷いた。


 そしてそのまま朝日の中に消えていってしまった。ヘレナはなんだか感無量になって、チェルナが見えなくなってからもその朝日を浴びながらそこへ立ち尽くした。


「いいのか?」


 突然後ろから声が掛かった。エスパーナだった。ヘレナはエスパーナに頼んでここまで連れてきてもらっていたのだった。


「いいんです」


「あいつがあのままなら、君が皇妃になれたかもしれないのに」


「言ったでしょう。私は、キャロル様もチェルナ様も好きなんです。お二人に幸せになってほしいんですよ・・・」


「そういうもんかね」


 ヘレナは振り向いて珍しく底意のありそうな微笑を浮かべた。


「そんなこと言って、エスパーナ様こそチェルナ様がお好きだったんでしょう?私は知っていますわよ」


「まぁ、俺は美人は皆好きだしなぁ」


 エスパーナは苦笑した。


 エスパーナ・ロドリクとヘレナ・ファビオスはこの後、お互いに数々の浮名を流した後に結局結婚し、お互いに浮気と不倫で社交界を賑わせながらもヘレナが七十二歳で先立つまで添い遂げた。なので恐らくはそれなりに幸せな夫婦生活を送ったものと思われる。


もちろん、皇帝夫妻とは生涯無二の友人であり続けた。




 キャロルはどんなに忙しくなっても大学を辞めなかった。彼は結局卒業までに十年を要したのである。一月に一日通学できればいい方だったのだから無理も無い。


 彼は大学内には護衛を伴わないことに拘った。大学内では一人の学生でいることに拘ったのである。もっとも、完全にフリーでいるわけにはいかず、護衛手配担当のエスパーナはキャロルの目に入らない程度のSPを大学内外に配置していたのだが。


 授業を受けてキャロルは校舎の外に出た。なんとなく、ため息をついた。


 以前は、チェルナとエスパーナも在学しており、ヘレナも頻繁に遊びに来ていた。しかし、チェルナとエスパーナは卒業し、ヘレナも来なくなっている。以前常設状態だった中庭のテーブルも今は無い。


 時は移り変わり、戻ることはけして無く、それが物悲しいことも確かにある。戻りたいと思うことが悲しいのではなく、戻れないという事実を確認することが悲しいのだ。だが、その事実を知るからこそ人は前に進むことが出来るのだし、だからその悲しみを知ることは、本当は悪くないことなのだと思う。


 それでも昔を懐かしんで立ち止まりたくなることがある。それは往々にして今が辛い時。変わりたくなかった、変わって欲しくなかったあの時をただ求めるのならば、それは悲しいのではなく恐らくは苦しいのだ。


 キャロルは振り切るように頭を振って、歩き出そうといて、彼女に気がついた。


 冬の硬質な日差しに照らされて艶やかに輝く黒髪が北風に舞っていた。大きく強い輝きを持った瞳がキャロルのことをまっすぐ見据えていた。腕組みをして、立っている。


 久しく見なかった。そんな彼女らしい彼女を。だから思わずキャロルは苦笑して言った。


「・・・おかえり、チェルナ」


「うん」


 チェルナは頷いて、キャロルの方へと大股で歩み寄った。キャロルのことを見上げる瞳には迷いが無かった。頬は少し上気して赤く、紅唇からは熱い息が漏れている。


「私、ここにいるから」


「・・・ああ」


「ずっと、あなたの傍にいるから」


「うん」


 キャロルは微笑した。


「それでいいよ」


 チェルナは少し瞳を潤ませると、表情をほころばせた。


「・・・キャロル。ごめんなさい」


 チェルナはキャロルの胸に顔を埋め、キャロルはチェルナをやさしく抱き寄せた。大学の中庭。枯れた芝の上で二人はしばらくそうしていた。


チェルナは五十歳の若さでキャロルに先立って死ぬことになる。その時、キャロルは一切涙を見せず記者の質問に一言こう答えた。


「チェルナはずっと私の傍にあると約束してくれた。だから、今もきっと傍にいる。だから、悲しくはない」




 降臨暦四七八八年早春。聖戦帝国皇帝キャロルはチェルナ・リュートと正式に結婚した。二年前の婚約会見からチェルナの素性について世界中が騒然となったのだが、どうにか婚姻にまでもっていけたのはチェルナに対する閣僚、官僚の支持が厚かったからである。何度もメディアに気軽に露出したチェルナの人柄が世間に浸透するにつれ、彼女に対する人気が上がり、疑惑を打ち消したということもある。とにかく結婚式の時には全世界が祝福してくれるまでになっていた。


 皇帝夫妻が姿を現すと、皇宮の大庭園を埋め尽くした数万の群集が一斉に歓声を上げた。キャロルはこの日、庭園を開放してクレタの一般市民を招き入れ、飲み物と軽食を振舞ったのだ。皇帝夫妻を一目見ようと、市民は大挙して押し寄せ、庭園は立錐の余地が無いほどだった。見晴台に夫妻が立つと、歓声は地鳴りとなって押し寄せてきた。


「耳が痛い」


「ほら、君も手を振って」


 キャロルに促されて、チェルナはぎこちなく手を振った。群集の迫力に笑顔が引きつる。


「すごい」


「そうだね。みんな祝福してくれてる。うれしいよね」


 キャロルは白い皇帝軍礼服。チェルナはシンプルな白いウェディングドレスである。この日の二人を見た人々は、特にチェルナの美しさを後々までの語り草にしたものである。ただ、本当は流石のチェルナも緊張と慣れない儀式、そして初めて皇妃として振舞わなければならないというプレッシャーが重なって一杯いっぱいになっていたのである。だから余裕があったのはキャロルの方だった。彼はこういう儀式事には慣れていたのだ。


 だから、それに気がついたのは周囲を眺める余裕があったキャロルの方だった。いや、そうでなくてもやはりキャロルでなければ気が付けなかったのかもしれないが。


 群集に笑顔を向けながら視線を流していたキャロルの目は、ある人影を捉えた瞬間見開かれた。


 キャロルは硬直した。


 挨拶を求める人々の相手に苦労していたチェルナは初め気がつかなかった。キャロルが一歩踏み出し、そして見晴台の手摺に駆け寄るに至ってようやく気がついた。


「どうしたの?キャロル?」


 しかし、キャロルは視線を一点に向けたまま動かない。目は見開かれ、額に汗が滲んでいる。それでようやくチェルナも彼の様子が異常であることに気がついた。


「どうしたっていうのよ?」


 キャロルの傍に駆け寄り、キャロルが睨むように見ている方に目をやる。しかしそこにはやはり群集がただ揺れているだけだった。しかし、キャロルの様子は尋常ではない。チェルナは目を凝らした。


 ふと、光が見えた気がした。いや、あれは・・・。


 不意に、キャロルが動いた。


 手摺を乗り越えて三メートルほどを飛び降りたのである。そして群集の中に着地すると突然現れた皇帝に仰天する人々を掻き分けるように走り出す。


 驚いたのはチェルナも同様だった。


「ちょっと!キャロル!」


 チェルナも続いて手摺を飛び越えようとして、自分がドレス姿であることに気がつく。躊躇した。


「でも!」


 キャロルを一人にしてはおけなかった。一瞬見えたあれは・・・。結局チェルナはドレスの裾を押さえながら手摺を乗り越えた。


 キャロルは走った。彼が本気を出して走れば世の中でついて来られる者はいないだろう。しかしこの時は群集の只中であったし、彼がやってきたことを誤解した人々は口々に祝福の言葉を上げながら握手を求めてくる。思うように前に進まない。心だけが逸る。


 あれは、あれはもしかして。キャロルが目にしたのは、一人の男性だった。輝くような金髪の。そう、キャロルと瓜二つの色合いをした髪の色。キャロルには思い当たる人物が一人いたのである。


 ようやく、目的の場所に到着した。しかし、いない。血相を変えた皇帝の様子に、群集も何事かとざわめき出した。


 ふと、視界の端に光がよぎった。キャロルは顔を上げる。金髪が人影に消えようとしていた。


「まて!」


 キャロルは再びそちらへ駆け出した。


 あなたは、もしかして。キャロルは金髪の男性を追い求めた。しかし、どうしても追いつかない。群集の影に、見え隠れするのだが、どうしても手が届かない。


「まってくれ!」


 もしも、あなたがあの人であるのならば、一目顔が見たい。今更、何を話したいわけでも、何を聞きたいわけでもない。ただ、見たかった。


「ガイア・ラリオス!」


 それは初めて呼んだ、父の名であったかもしれない。


 しかし、追いつかない。最後の一瞬、切れ長の緑玉色の瞳が見えた気がした。そして、男は消え失せるように見えなくなった。キャロルは追うのを止めた。


 チェルナがようやく追いついてきた。群集に適当に答えながら、キャロルを気遣う。


「・・・どうだった・・・?」


 キャロルは顔を上げた。頬に汗が流れていたが、さっぱりしたような表情だった。笑う。


「分からなかった。仕方が無いよ」


 そして不安そうな表情を浮かべるチェルナの元に歩み寄り、その肩を優しく抱いた。


「戻ろう。エスパーナたちが心配しているよ」


 キャロルは群集に片手を挙げて応えながら、チェルナと二人で歩き始めた。




 聖戦帝国二代皇帝キャロル一世。彼の治世は七十年以上に及び、彼の築き上げた帝国の基盤が世界に五百年の平安を生み出した。兎角批判されることが多い皇帝であるが、その業績を思う時、やはり彼は名君であったと評価すべきなのではないかと思う。





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