第7話

 最近、チェルナの様子がおかしい。キャロルがそれに気がついたのは、ソフィアの葬儀が終わり、公務に復帰してしばらくしてからだった。


 チェルナは、仕事中を始めると周りの声が聞こえなくなるくらい没頭するのが常だった。難しい事案に取り掛かっている時に余計な事を言えば、それこそ噛み付かれかねない程だ。


 その彼女が、仕事中にも関わらずなんだかボーっとして天井を見上げていたり、メモ用紙に落書きをしたりしている。ふらっと席を離れてしまうこともあった。まるでエスパーナのような集中力の無さだった。


 実際、仕事の効率も悪くなっているようだった。チェルナは既に皇帝府のスケジュール調整や業務配分を一手に引き受ける皇帝の第一秘書である。彼女の業務が滞ると、皇帝府の業務、ひいては帝国の運営にも支障が生ずる。キャロルは皇帝であるから皇帝府の業務は最終的に彼の場所に回ってくる。だから分かるのだ。


 キャロルは心配した。チェルナの様子がおかしくなったのは、どうやらソフィアの葬儀が終わってからのことであるようだったからだ。チェルナはソフィアと親しかった。もしかしたらソフィアを失った事が精神的な痛手になっているのかもしれないと思ったのである。


 ソフィアのことを思い出すとキャロルとて胸に痛みが走る。しかし、そんな状態でも他人に気を使うのがキャロルの性格というものなのである。キャロルはチェルナを執務室に呼んだ。


「なに?」


 キャロルのデスクの前に立ったチェルナは明らかに憔悴していた。顔色も悪く、髪もぼさぼさだ。そして、もう一つ気になる事があった。


 目を合わさないのだ。何となくあらぬ方向を向いているのである。チェルナはどんな時でも他人の目を見ずに話すようなことなど無かったはずだ。


「なに?忙しいんだから、早く」


 声にも張りが無い。キャロルは彼女の顔をしばらく見詰め、言った。


「チェルナ。少し、休んだほうがいい」


 チェルナは息を呑んだようだった。


「疲れているんだろう?少し休養して、英気を養うといい」


「な、何を言ってるの!」


 チェルナはデスクに手を突いた。しかし、それ以上言葉が続かない。常であれば驚異的な説得力で相手を圧倒するチェルナの弁舌であるのに。キャロルは自分のことを睨んで見せながらもその実、どこか心あらずなチェルナに向って、噛んで含めるように言った。


「そんな状態で業務を続けたら、その内とんでもないミスを犯すよ。そんなことは許されない。君にも分かるだろう?」


 チェルナは下唇を噛んだ。そう。ソフィアが病臥した時、動転したキャロルを同じ理由で政務から外したのはチェルナだったのである。


「・・・皮肉なの?」


 キャロルはむしろ驚いた。チェルナの瞳を見詰める。チェルナは目を逸らした。


「・・・ごめん」


 チェルナは謝り、キャロルは頷いた。


「・・・お言葉に甘えさせてもらうわ。ちょっと、休む。すぐになんとかするから」


 キャロルは頷きながらも内心、チェルナが自分の言葉を素直に聞き入れた事を意外に思っていた。いつもの彼女であれば、こんなことを言われれば激しく反発し、それこそ高熱があろうが大怪我をしていようが、ぶっ倒れるまで無理してでも業務を続けたであろう。キャロルが眉を顰めたのは、チェルナがそんな自分の状態を恐らくは認識出来ていないことであった。我を失っているのだ。


 背を向けたチェルナの背中はなんだか痛々しく、小さく見えた。




 チェルナの休職はちょっとしたニュースとなった。何しろ、既に巨大な権力を握っていた皇帝の第一秘書であり、これは非公式にだが皇帝キャロルのガールフレンドと目されているチェルナが突如理由も無く無期限の休みをとったのである。様々な憶測が乱れ飛ぶのは当然だった。


 チェルナが業務から抜けた穴を誰が埋めるのかも大問題であったが、これはすぐに解決した。キャロル本人と皇帝第二秘書エスパーナ・ロドリクがチェルナの業務を分け合うことにしたのである。エスパーナは先に少しチェルナの事を手伝ったことがあったのだ。以前チェルナがいなかったころは、自分一人で業務を抱え込んでしまいパンク寸前になってしまったキャロルであったが、チェルナの仕事を間近で見、その要領を掴んだ今はではその懸念は無かった。無論キャロルの業務は倍増し、エスパーナも「デートの暇もねぇ!」と嘆く羽目になったわけだが、それでもチェルナの穴はどうにか埋めることが出来たのである。


 しかしながら、チェルナの事務処理能力は二人掛りでなんとかカバー出来ても、既に皇帝府全体から頼られるまでになっていた、チェルナの優秀な判断力を失ったことはどうにもフォロー出来なかった。もちろん、キャロルもエスパーナもそれなりに優秀な判断能力の持ち主である。しかしながらチェルナは、政治的な判断に関してほとんど天才といっても良い能力の持ち主であったのだ。なにしろ後世、政治家として歴史上五指に含まれると評価されることになる女性なのだ。


 政治というのは、信用である。民衆が為政者を信用していてこそ国政の運営はスムーズに行われる。民衆が政治に対して疑いの目を向けていれば、為政者がどんなに良い政策を実行しても無駄なのである。


 では、為政者が民衆から信用を獲得するにはどうすればよいのか。いくつか要素はあるが、もっとも重要なのは、ミスを犯さないことだ。為政者が目に見えるミスを犯さなければ、民衆は為政者を信用出来る。逆に言えば、為政者が細かなミスを連発すれば、民衆は為政者を信用出来なくなるということだ。そうなれば重要な政策が信用されなくなり、百年の計も民衆の反対にあって頓挫の憂き目を見ることになる。


 ミスとは何か。些細なことである。例えば発言。どうでも良い様な失言が為政者の命取りとなることは良くあることだ。なぜか。民衆は政治のことなど良くわからないが、失言ならば理解出来るからだ。民衆は為政者の政策よりもその人柄に自らの身命を託す。つまり失言からその人柄を慮られることが問題となるのである。


 同様の理由で、民衆に分かりやすい判断ミスは為政者にとって致命的なダメージとなり易い。逆に言えば民衆に分かり易い得点さえ獲得しておけば何もしなくてもその為政者は高い評価を得ることが出来るわけだ。歴史上、こんな良い政治を行ったのにどうして失脚してしまったのかと疑問に思ってしまうような為政者は数多い。そういう政治家は往々にしてそうような、いわば民衆へのアピールが下手だったのである。


 民衆へ媚を売ることまでする必要は無いのである。ミスさえ犯さなければ、民衆は自然と為政者を信用するようになるのだ。政治とはそういう小さな信用の積み重ねであり、だからこそ為政者は自分の行動と判断に細心の注意を払う必要があるのだ。


 チェルナはそのようなことを本能的に理解していた。これは彼女がバリバリの平民階級であったからであろう。自分自身はもちろん、キャロルに対しても民衆に非難され易いミスを犯させないよう細心の注意を払っていたのである。ところが、キャロルとエスパーナはこのことが良く理解出来ていなかった。彼らはいわばおぼっちゃんたちであり、民衆の空気を読むのがやはりどうしても下手だったのであろう。


 数種類の嗜好品に課した臨時物品税の期限が切れる時期が来て、その延長が議会で議論された。その税は主にティティス大陸郡の緑化事業に使われていたのだが、このことが議論の対象となった。つまり、全国民から徴収した税を、一つの大陸郡のためのみに供するのはいかがなものかというのである。


 ティティスの緑化事業が非常に重要な事であるのは当然であった。ティティス大陸群が完全に砂漠に埋もれてしまえば人類が居住出来得る大陸群が一つ無くなってしまうのである。そもそもその臨時税は緑化事業の財源確保のために創出した税であった。故にキャロルは、臨時税の使い道を変更する必要を一切認めなかった。


 しかし、キャロルはここで一つの誤りを犯す。彼は議会でこう言った。


「もしもこの税がティティス緑化のために供されぬのなら、そもそも期間延長など考える必要が無いではないか」


 この発言が問題となる。つまり、ティティス緑化が本当に必要なのか?という議論を呼び起こしてしまったのだ。このような問題の常として、マスコミはその事業の必要性ではなく、不必要性の方を声高に叫びがちである。その方が大衆の共感を呼び易いからなのだが、今回もそれが起こる。こうなると必要性を叫ぶ皇帝府と、不要論を主張するマスコミ及び反対派の議員という構図が出来上がり、議論は泥沼化した。


 本来であればこれは無用な議論なのであった。ティティス大陸群の緑化事業は、規模の大小は兎も角として絶対に必要な事業なのであった。それを行うには予算が必要で、それを賄うには何らかの税金が必要なのである。キャロルは既に終わっていなければならない議論を無用に呼び起こしたのである。


 チェルナであれば、臨時税の使い方になど初めから拘らなかったであろう。必要なのは財源であって、その金がどこから出たかではないのだ。臨時税の使い道にクレームが出たなら、納得したふりをして一般財源化してしまい、その代わりこの事態に乗じてティティス緑化事業を通常予算に計上出来る恒久事業にしてしまったであろう。そもそも、この税が臨時税になったのは、当時の聖戦帝国の予算ではティティス緑化のための財源が確保出来ず、新税を儲けることにしたものの世論への言い訳のために、臨時税にせざるを得なかったという事情があるのだ。そのせいで、国家の重要事業の一つであるはずのティティス緑化事業が年度予算編成事業のままでいる。税の一般財源化に乗じて緑化事業が恒久事業化出来るのなら、それは災いが転じて益となるといえるのだった。


 しかし、緑化事業そのものについての議論が始まってしまえば、これは緑化事業へのあら捜しにならざるを得ない。もちろん、完璧な事業などこの世に存在しない。そして、公共事業は往々にして迂遠で、無駄が多いように見えるものである。マスコミはそのような面のみをほじりだし、あたかもティティス緑化事業全体が不要であるかのような論調を作り出す。


 マスコミを信じてしまった世論。その世論に迎合する議員たちには、キャロルたちが叫ぶティティス大陸群の緑化事業を縮小するわけにはいかないという、長期的視野に立った声は最早届かない。臨時税の廃止と緑化事業の見直しにまで意見が過激化した彼等の前に議論はまったく停滞し、臨時税の期限切れが近づいてしまう。


 仕方なくキャロルは議会で採決を行い、皇帝派の議員のみで強行採決によって臨時税延長を決めてしまったのである。これはチェルナならば絶対にやらないことであった。政治的に絶対正しいことでも、世論には納得してもらえないことがある。チェルナが弁えていた政治的常識を、キャロルが理解していなかったということなのだろう。世論はキャロルに対する失望を隠さなかった。この失望を取り戻すために積み上げなければならない政治的信用の数を思えば、これは大きな失点と言わなければならなかった。


 世論の反発があまりにも大きいことにキャロルはたじろいだ。そして同時にチェルナの知られざる苦労も知ったのである。


 キャロルは皇帝である。聖戦帝国では皇帝は終身の地位であり、それだけに皇帝への不満や失望は帝国へのそれへと直結し易い。つまり、キャロルは不用意に失点を重ねることは許されない立場だったのだ。チェルナはそれが分かっていたからキャロル自らが影響力を振るう場合には、世論を完全に味方につけられるように政略を展開した。つまり、議会の政治家連中には皇帝の威でもってごりを押しても、世論、つまり一般市民には同じ事をすることは無かったのである。世論さえ味方にしておけば、政治家連中がどんなに不満を持っていても恐れるに足らない。しかし一度世論の支持を失えば、どんな真っ当な政策も反発を呼ばないでは済まない。チェルナは常に、キャロルが世論の支持を受けられるように注意していた。チェルナは世論というものの力を完全に理解していたのであろう。キャロルは世論から轟々たる非難を浴びて初めて、チェルナのそうした心配りを知った。


 キャロルは自分の失敗を悔い、同時にチェルナの存在の大きさを今更ながらに実感していた。




 チェルナは、キャロルに暇を出されてからというもの、夜間に以前からやっている居酒屋のウェイトレスをする他は、学生時代から住み続ける旧市街の下宿に引きこもっていた。キャロルが、政治的なミスを犯して窮地に陥っていることは知っていたが、なんら能動的な行動は起こさなかった。


 彼女は生涯で初めての混乱状態にあったのである。彼女はこれまでの人生、常に自分の意思で道を切り開き、困難も乗り越えてきた。その彼女が、初めて待っていた。これから起こることを予感しながらも、何もせず、あるいは何も出来ずにただ待っていたのである。もしかしたら、期待していたのかもしれないのだが。


 その日、チェルナは昼過ぎまでベッドに埋もれるように寝て、それから居酒屋へと向った。裏通りにある小さな居酒屋。彼女がネサイエス大陸郡にやってきてからもう十年に渡って働き続けている店である。最近では大学の卒論書きで余裕が無くなったり、卒業してからは皇帝府の仕事が忙しさを増し、来られない日も多くなっていたのだが、それでも行ける日にはなるべく行くようにしていた。マスターの方も喜んで迎えてくれる。代わりも雇わないようだ。そもそもウェイトレスが必要なほど繁盛している店では無いのである。


 衣装に着替えて仕事を始める。店に来る連中はほとんどが常連客で占められていた。つまりチェルナとは顔なじみである。なじみの酔客と軽口を叩き合うと、ほっとする。


 しかし、夜半を過ぎた時、その時はやってきた。


 店の入り口が開き、一人の客が店内に入ってきた。背が高い。黒いコートとやはり黒い山高帽を被っている。その客を見てチェルナは硬直した。


 その客は店の奥のテーブルに静かに腰を下ろした。当然、給仕であるチェルナは注文を受けに行かなければならない。しかし、チェルナはためらった。


 だが、かなりの逡巡の後、チェルナはその客に近づいて行った。震える手で、水の入ったコップをテーブルに置く。


「・・・ご注文は?」


 帽子のつばに半ば隠れた口が笑う形に歪んだのが見えた。


「殿下」


 チェルナは顔を引きつらせた。


「その表情から察するに、覚えていて頂けたようですね」


 男は引っ掛かるような声で小さく笑い、視線を上げた。灰色の細い瞳。モラム・マイルデン少将だった。彼は観察するようにチェルナの事を眺め、頷いた。


「なるほど、うすうすは気付いておいでだったようですな。ご自分の生まれに」


「な、何のことよ」


「大きな声を出されないように。ことを荒立てるつもりは無いのですよ。今は未だ」


 モラムの言葉にチェルナは素直に口を噤んでしまった。


 モラムは頷き、チェルナに椅子を勧めた。チェルナはそれに従った。客と話し込むこと自体は珍しいことではなかったのである。ただ、モラムは常連客ではなかったし周囲の客から明らかに浮いていたので、周りの客は物珍しそうに二人の様子を伺っていたのだが。


「あなたの居場所を突き止めるのに、ずいぶん苦労しました。ティティスの孤児院にいて下されば苦労は無かったのですが」


 モラムのその言葉で、彼が相当なレベルで自分のことを調べてきたのだということをチェルナは理解した。


「いろいろ探し回った挙句に、見つけたのが皇宮とは。運命というのは時に喜劇と化しますね」


「モラム・マイルデン少将」


 チェルナはモラムの言葉を遮るように言った。


「降臨暦四七五〇年ティティス大陸郡ロークシティア生まれ。士官学校卒業の席次は四番。先のプロト大陸郡の反乱の功績によって、同期では最も早く少将に昇進」


 モラムの細い目が更に細まった。


「調べたのですか」


「そうよ」


「では、知っている事はそれだけではありませんね」


 チェルナは少し迷った後に言った。


「家系は緑玉王国の貴族。特に父は緑玉王国軍中将で、第二次エイケルディア会戦で戦死しているわね」


 聖戦帝国と緑玉王国の最終決戦であった第二次エイケルディア会戦は一進一退の激戦であった。両軍とも全軍の三割を失うという大損害を出し、最終的にも会戦の勝敗はどちらともいえないものとなったほどである。ただ、ヤスターシェ・ニクロムを戦いの途中で暗殺されてしまった緑玉王国が撤退を余儀なくされた為に、戦略的には緑玉王国が敗北したことにはなっているのだが。


 モラムの父マイルデンは、緑玉王国軍中将としてこれに出征。聖戦帝国の熾烈な攻撃によって戦場で倒れたのである。その時モラムは十三歳であった。


「そうです。私の父はヤスターシェ元帥が暗殺された後、撤退中に聖戦帝国軍の攻撃を受けて死んだそうです」


「そう・・・。それで?あなたはその父の敵をとるために緑玉王国の再興を目指しているとでも言いたいわけ?」


 チェルナとしてはここでいきなり核心に切り込んでみたつもりだった。緑玉王国最後の女王ミヘルナの子を捜し出し、それを旗印にして緑玉王国を再興する。なるほど、緑玉王国は聖戦帝国に最後まで抵抗した国家であり、エイケルディア会戦の事情から、未だにヤスターシェが暗殺されなければ勝っていたと考えている遺臣も多いと聞く。そこにヤスターシェとミヘルナの子供が登場して緑玉王国復活を叫べば、旗下に馳せ参ずる者も多かろう。


 しかし、モラムはあっさりと首を振った。


「違います」


 チェルナの表情を見て、モラムは苦笑して言いなおした。


「いえ、全てが違うわけではありません。確かに私は緑玉王国復活を目指していますが、それは父の敵のためではないからです」


 帝国軍少将が謀反の計画を口に出すなど尋常なことではない。これだけでも彼は十分に反逆の罪に問われよう。しかし、彼は涼しい顔をして言葉を続けた。


「私は、世界が統一されている現状を憂いているのですよ」


「なぜ?天下統一によって世界は平和になったじゃない?」


 相当一般的でない感性の持ち主であるチェルナも、流石に天下統一とそれによって齎された平和に対して疑問を持ったことは無かった。久しぶりに到来した平和は、世界に繁栄を齎しつつあり、それを享受する人々に幸福を与えつつもある。


 しかし、この男は首を振った。


「そんなものは見せ掛けだけです」


 モラムは手のひらを広げて、順番に指を折った。


「滅ぼされた国家の旧臣による遺恨。発展する中央から取り残された地方の慨嘆。縮小しつつある軍需産業の怨嗟、退役を余儀なくされた老兵の不満。世界には天下統一が齎した不均衡が至る所に生じています。それはいわば火種です。聖戦帝国は身中にいつ炎を上げるか分からない火種を抱え込んでいると言えるのですよ」


 モラムの言っていることはチェルナにも分からないことではなかった。


 天下統一はいわば社会の大変革であった。しかもそれは十年にも満たない、ほんの僅かの期間で行われたことであったのだ。


 改革は、必ず歪を伴う。それが急激であればあるほど歪は大きくなるのは言うまでもないことだ。聖戦帝国が天下を統一してから未だ二十年あまり。世界中に歪は散在している。それが多くの人々に不満を覚えさせていることは、チェルナも政治家として忘れることが許されない要素であった。


「その火種は、聖戦帝国が世界を統一して唯一の国家として存在している以上、消す事は出来ないでしょう。そしてそれは、いつか帝国を内側から焼いてしまう。そうした時、それが天下の人民に対してどれくらいの災厄を齎すか、考えて事がありますか?」


 モラムが言わんとしている事がなんとなくチェルナにも分かってきた。


 かつて、世界を統一していた黄金帝国。それが後継者争いで分裂したいわゆる大崩壊。その際に生じたのは天下未曾有の大混乱であった。世界の各所で沸きあがった戦乱に巻き込まれて、全人口の二割が数年の内に失われ、経済は完全に崩壊してしまった。四大宝玉王国が成立して、天下がどうにか均衡を見るまでその混乱は続いたのである。


 モラムはそれが再現されることを恐れているのだった。


「でも」


 チェルナは首を傾げた。


「それはある程度仕方が無いことではない?大崩壊以前、世界は黄金帝国によって人類史上かつて無いほどの繁栄を享受していたのよ。大崩壊時の混乱が世界に災厄を招いたからといって、天下統一自体に罪があるというのは暴論じゃないかしら」


 モラムは細い目を更に細めて微笑した。


「如何にも政治家らしい感じ方ですね殿下」


 チェルナは殿下と言わたことに眉を顰めた。


「変革は歪を生みます。それゆえ、人は必ず変革を恐れます。それが特に著しいのは政治家です。故に政治家は現状を肯定したがるのです」


「私が変革を恐れているとでも?」


「そうです」


 キャロルにさえ「君の意見は過激すぎる」と苦笑されることさえあるチェルナが保守的だというなら、モラムの論はどれほど革命的なのだろうか。チェルナが興味を示したことがわかったのだろうか、モラムは一度唇を歪めた後、口を開いた。


「帝国の天下統一は時期尚早だった、というのが私の考えです」


「?」


「帝国は、天下統一を急ぎすぎたのですよ。そのために歪が生じた。それを是正するには、天下が統一されている現状を改善する必要があるでしょう」


「改善?」


「つまり、再び天下を分裂させる」


 流石のチェルナが絶句した。唖然としたのである。


「天下が分裂すれば、帝国に対する不満は形を成すでしょう。つまり、内に抱え込んだものではなくなるのです。そうなれば最早それは脅威ではありません」


 現在帝国で生まれている様々な歪が恐ろしいのは、それがなかなか表面化しないからである。それはまるで病原菌のように世界に蔓延し、あるとき突如として噴出する。しかしながらそれを常に目に見えるところに置き続ける事が出来るなら、それは単なる問題でしかない。


 そのために一番簡単な方法は、歪に形を与えることである。この場合は、帝国に対抗する国家を作る。そうすれば帝国は相手の国家の中に自らの中にある歪を見出すことが出来るだろう。人間は誰しも自らの問題には気がつき難いが、他人のそれにはよく気がつくことが出来るからだ。相手を参考にする。もしくは反面教師にすることが出来れば、問題解決の助けになるはずだ。


「それだけではありません。帝国に敵が出来れば、帝国に不満を抱く者たちはそこに集まるでしょう。身中に巣食われるよりはその方が余程対処が容易であるのは言うまでもありません」


「・・・」


「そのような過程を抱いた後に、天下が統一されれば歪の少ない健全な帝国が出来る筈です。私はそのために緑玉王国の復興を目指しているのですよ」


 チェルナは考え込んだ。モラムの考えは確かにチェルナにさえ想定外のものであったからである。そしてその考え方に一理を認めないわけにはいかないものであったのだ。しかし・・・。


「詭弁ね」


 チェルナは振り捨てるように言った。


「本音を言いなさい。あなたはその小ざかしい理屈の向こうに何を隠しているの?そして私に何を要求するつもり?」


 モラムは声もなく笑った。


「流石は殿下」


「その殿下ってのを止めなさい!」


 モラムは足を組みなおした。


「私の考えに嘘はありませんよ。しかし、確かにそれだけが全てではありませんが」


 チェルナはモラムを直視したまま動かなかった。モラムは少し表情を改めた。


「私も王になりたいのですよ」


 チェルナは少し安心した。その方がよほど理解し易い動機であったからだ。チェルナの表情の変化を見てモラムが苦笑した。


「もっとも、私にはその資格がありませんが」


「なぜ?」


「私は緑玉王国貴族の子として生まれ、聖戦帝国の軍人となった者です。そんな私が緑玉王国の王となっても誰も納得いたしますまい」


「正統性がないと?」


「そうです。そしてその正当性をお持ちなのは、現在全天下でお二人だけ。前女王ミヘルナ様と」


 モラムはチェルナの方に左手の人差し指を振った。


「あなたです。故にあなたを担ぎ出すしかないのですよ」


 チェルナは押し黙った。


「ここは一つ、私の理想と野望のためにご協力いただきたい。単刀直入に言えば、まぁ、そういうことです」


「・・・なぜ、私には、その、正当性があると?」


 モラムは肩をすくめた。


「リュート・ミヘルナ殿下が病死と偽られて密かに落ち延びられたという話は一時期ティティスでは広く唱えられた話だったのですよ。それと、ミヘルナ様と瓜二つの少女がいるという噂。手掛りはそれだけでした」


 モラムはその噂を辿ってチェルナがいた孤児院にたどり着いたのだが、既にそこは廃院になった後だった。


「苦労しましたよ。あなたがこの街におられるらしいと分かったのは最近です。そして、同時に皇帝陛下の第一秘書がミヘルナ様の生き写しだという噂も聞こえてきたではありませんか」


「じゃぁ・・・」


 ミヘルナは落胆も露に呟いた。


「証拠は無いのね」


「そういうことになりますな。しかし・・・」


 モラムはチェルナの顔を改めて見て感嘆した。


「そのお顔を間近で見れば、どこの誰も疑わないと思いますが。本当に似ていらっしゃる」


 しかし、それではミヘルナが自分の母であると証明することが出来ないのだ。チェルナは密かに抱いてきた期待が打ち砕かれたことにがっかりし、同時に腹を立てた。


「他人の空似ということもあるでしょう?顔が似ているだけで王様になれるなら、あなたが顔を整形でもして摩り替わればいいじゃない!」


「なるほどそれは名案ですね」


 モラムは低い声で笑った。


「しかし、あなたには顔だけではなく状況証拠も揃っていらっしゃる。ロークシティア出身のリュート親王と同年の孤児。これだけの要素があれば私が整形などするよりもはるかに手っ取り早く世間を納得させることが出来るでしょう」


「それはあなたの都合でしょう?私がそれに付き合わなければならない義務は無いわね」


 チェルナは半ば席を立ち掛けた。


「そうでしょうか?」


 モラムの口調にチェルナは動きを止めた。


「なに?」


「あなたは、皇帝の秘書で満足なのですか?」


 再度聞き返そうとしてチェルナはなぜか口篭った。


「私には分かります。あなたは皇帝の秘書、表立たない日陰者で満足出来るようなお方ではない。そう、自分で思う存分権力を奮って国を動かしてみたいと思っていらっしゃるはずです」


 そんなこと、と笑い飛ばそうとしてチェルナは失敗する。心のどこかから何か黒いものが染み出し、浸食してくるような感覚。


「つまり、あなたも王に成りたいのではないですか?だから私を待っていらっしゃった。私が、あなたの出自を証明してくれるのを待っていた。そうではありませんか?」


 チェルナは立ち上がってテーブルを強く突いた。


「帰って!」


 店中の視線がチェルナに集中する。モラムは肩をすくめ、帽子を被った。


「分かりました。仰せのままに。ですが、すぐに又会うことに成ると思いますよ。殿下」


「帰りなさい!」


 チェルナはテーブルの水を取り、モラムに向ってぶっ掛けた。




 モラム・マイルデンがいつから聖戦帝国からの独立を企てていたのかは、定かではない。しかし、彼がチェルナに会いに来たこの時、既に彼の計画は相当な段階にまで進んでいたはずである。


 モラムの思想は、天下統一国家というのは不健全なものである、ということであった。


 世界に単一の思想など無く、統一された国家によって一つの考え方を強制されるなど、非人間的なことだというのである。


 全体主義国家でもなければ思想の強制などありえないというかもしれない。しかしながら本来国家と言うのは、基本的な思想を同じくする人間の集団であるのだ。それゆえ、違った思想の持ち主は排除される。例えば、大概の国家では殺人は重罪である。これだけでもそれは「殺人をしたいという思想」を排除することになるわけで、突き詰めれば国家の違いは、国土民族の違い以前に、思想の違いであると言い切る事が出来よう。


 天下を統一した国家では、思想の多様性が生まれなくなる。無論、聖戦帝国では思想統制は行われておらず、極端な話、反国家思想でさえ考えているだけならまったく罪に問われることはない。しかしながら、それでもやはりその国家にはその国家の国民にしか生まれない思想というものがあり、それを生まれる前に摘み取っている事実が天下統一国家の罪なのである。


 国家が細分し、互いに争い競っている時代の方が多様な思想が花開く。逆に大国に長きの平和が訪れると、思想は硬直化し、退廃する。モラムはそれを恐れていたのである。


 そのためには、聖戦帝国が天下を平らげている現状を変える必要がある。四つの大陸群の内一つを分離独立させる。そうすれば、世界が硬直化して、人類の活力が失われることは防ぐことが出来る。それがモラムの説いた主張だった。


 モラムは、聖戦帝国を打倒しようとは考えなかった。彼も平和の到来が貴重であり、平和を維持することには異論が無かったのだ。ただしそれは、国家が複数存在した状態で、国家間に緊張感を維持した状態でなければならない。モラムは、理想的には緑玉王国と聖戦帝国が決戦せず講和を結ぶべきだったと考えていた。


 聖戦帝国の宗主権を認めた状態で緑玉王国が存続し続けることは、平和を維持しながら人類世界の停滞を防ぐために有効な方法だったであろう。モラムはそう考えさらに思想を推し進めた。ならば、今からでも遅くは無い。未だにティティス大陸群では、緑玉王国への信望と懐旧の念が強いから、緑玉王国が復活すればティティス人民はそれを支持するだろう。


 問題なのは、モラムのこの主張が、彼が説いて回った聖戦軍内部でかなり広く受け入れられたということである。


 聖戦軍はこの時期、天下統一戦役を終え、縮小期にあった。キャロルの努力によって聖戦軍の規模縮小は進められ、老兵を中心にリストラが進んでいた。これに対する不満はやはり軍内部にあったのである。


 そもそも聖戦軍はその設立当初から、さまざまな地域から剣士(傭兵)たちを集めて兵士とした。そして天下統一戦役の過程では征服した国家の軍隊を吸収して規模を拡大していったのである。そのため、軍内部には出身地や出身階級による多くの派閥が存在していたのだった。このため軍内部の意思統一が難しかったのである。天下統一という大目標にまい進していたころであればよかった。しかし、天下統一が成り、しかも皇帝によって軍縮が推し進められている現状は、軍内部が分裂する可能性は十分にあったのである。モラムはそれにつけこんだのだ。


 これにはキャロルが二代目の皇帝であり、この時期いまだに軍で強い勢力を持っていた、天下統一戦役を経験した老兵たちにとっては共に苦楽を共にした皇帝ではないということも影響している。老兵にとってキャロルは、天下統一後に生まれた(実際にキャロルが生まれたのは天下統一の僅かに前だが)子供であるに過ぎず、戦場も知らぬお坊ちゃんなのであった。その彼が軍に対して強権を揮ったことに対する反発は、根が深いものがあったのだ。


 モラムは密かに軍内部で勢力を浸透させていった。彼の思想に賛同したものが多かったというよりは軍内部に皇帝への不満が蓄積されていたということなのだろう。不満分子にとって、導く者の思想はさして問題ではない。不満の捌け口に方向性を与えてくれさえすれば良いのだ。悪い事に、チェルナの卒論騒ぎ、ソフィアの病臥と死去、そしてその後のチェルナの休暇と、チェルナが政務に集中出来ない時期が続いていた。鋭敏な政治感覚を持っているチェルナであれば、軍内部の不穏な動きに気付くことが出来たかもしれないのだが。


 政府軍による軍事クーデターが成功する確率は、非常に高い。なぜなら、政府軍というのは国家最大の武装機関であり、これが暴走した場合、国家はこれを掣肘することが難しいからである。そのため、最高権力者は軍から絶対の忠誠を取り付けている必要がある。


 それが出来ないのであれば、軍のコントロールが容易になるように軍組織を改変するしかない。軍の独立性を低め、将校の権限を制限する。しかしこれは事変への即応性を低め、軍の弱体化に繋がる諸刃の剣となる。広い全世界に迅速に兵力を派遣、展開しなければならない聖戦軍にとって、軍にある程度の独立性を持たせることは止むを得ないことであった。その聖戦帝国で軍の皇帝に対する忠誠心が低下すれば、即ち軍事クーデターの危険性を抱え込むことになるのであった。


 しかもモラムの構想は、聖戦帝国中央を掌握することではなく、ティティス大陸郡のみを帝国から切り離すことであった。そのため彼の工作はティティス方面軍を中心に行われた。そのため、聖戦軍中央ではモラムの企みを掴むことができなかったのである。




 チェルナの下宿は旧市街の、旧市街らしくオレンジ色をした屋根を持つ建物の四階にある。


 キャロルは久しぶりにそこを訪れていた。チェルナに会うためである。


 チェルナとは、彼女に休むよう言ったあの日以来、一月ほど会っていなかった。彼女の方からはその後何の連絡も無い。キャロルの方も政務が忙しく、心配はしていたが連絡出来ないでいたのである。すると先日、ヘレナがキャロルの執務室に押し掛け、珍しく怒った様に言ったのである。


「キャロル様!何を考えていらっしゃるのですか!」


 キャロルが驚いていると、ヘレナはキャロルのデスクをその華奢な手でバンバンと叩いた。


「なんでお姉様を迎えに行かないんですか!」


「迎えって・・・」


 キャロルは困惑した。


「チェルナには休んでもらっているんだよ。疲れているようだったし。連絡が無いってことは、きっとまだ・・・」


「何を言ってるんですか!」


 控えめなヘレナがキャロルの言葉を遮り、食って掛かるなど前代未聞のことであった。


「お姉様はキャロル様を待っていらっしゃるんですよ!」


「そんなこと・・・。どうしてそう思うんだ?」


 ヘレナは大きな瞳を丸くしてキャロルを見詰めた。首を左右に振る。


「兎に角、キャロル様が迎えに行かないと、お姉様は永久に戻って来ませんわ。それでもいいのですか?」


「良くは無いけど・・・」


「スケジュールはエスパーナ様に頼んで何とかしますわ。すぐに行って下さい。すぐに!」


 ・・・というわけでキャロルは訳も分からず、ヘレナに追い立てられる様にチェルナの下宿へとやって来たのだった。


 キャロルとてチェルナの事を心配しなかったわけではない。その内、時間のある時にでも様子を見に行こうとくらいは思っていた。しかしながら、ヘレナがあれ程までに焦燥するほど急ぐことでもないとも思っていたのである。故に、今一納得出来ない思いを抱いたままでいた。


 皇帝として政務に全面的に携わるようになって、キャロルはニュース番組などに毎日の様に登場するようになっていた。ここまで顔が知れ渡ってしまえば以前のように身一つで街中をうろつくわけには最早いかない。防弾装備付きの大型車に乗り、SP数人に周囲を固められなければ外出できないのである。そんな状態でチェルナの下宿を騒がせたらチェルナも迷惑なのではないか?キャロルはそんな心配もした。


 SPを入口に待たせ、薄暗い階段を登る。チェルナの下宿は最上階、屋根裏にあたる場所にあった。扉をノックすると小さい声で返事がある。キャロルは名のった。


「僕だよ。キャロルだ。入ってもいい?」


 すると、意外な返事が返ってきた。


「・・・帰って」


 キャロルも流石に驚いた。


「どうしたの?どこか具合でも悪いのかい?」


 小さなくぐもった声。チェルナらしからぬ声が答えた。


「・・・会いたくない」


 キャロルは呆然とした。


「一体どうしたの?何かあったの?」


「何も無いわ。ただ、会いたくない。あなたに」


「そんな・・・」


 思わずキャロルはドアノブに手を掛けてしまった。鍵の掛かっていなかった扉はそれだけで内側に開かれる。


 広くも無い部屋。昼だというのにカーテンが閉められており、薄暗い。本棚から溢れる様に床に積み上げられた本。一つあるテーブルの上には酒瓶が置ききれないほど林立している。壁際の小さなベッド。その上で、毛布を頭から被った姿勢で部屋の主がうずくまっていた。


「チェルナ・・・」


「キャロル・・・」


 チェルナの瞳は睡眠不足か、酒精のためか、あるいはその両方によって充血していた。力の無い視線。それがしばしキャロルの視線と絡み合い、すぐに外れた。


「帰って・・・」


「帰れないよ。どうしたの?みんな心配してる」


 チェルナは俯いた。痛々しいまでに無気力な姿だった。キャロルはそんなチェルナを見たことが無かったし、見たくも無かった。


「君がいないと、困るんだ。君がいないおかげで皇帝府のスケジュールは滞るし、官僚たちは何をやって良いかわからないでいる。早く帰ってきてくれないか?」


「・・・」


 チェルナは返事をしない。キャロルは少し焦れた。


「もう戻ってこないつもりなの?」


「・・・そうだったら、どうする?」


 キャロルは言葉を失って立ち尽くした。チェルナの台詞とは到底思えなかった。


 チェルナと出会って数年。キャロルはいつも彼女に引っ張られ、振り回されてきたのである。別に、不快ではなかった。意に沿わぬことに唯々諾々と従うほど、キャロルは軟弱でも意志薄弱でも無い。いつも輝くような笑顔でキャロルを導いてきたチェルナ。しかしその彼女がこんな風に情けない姿でいることは、キャロルにとってなんだか裏切られた様に思えることであった。こんなチェルナはチェルナではない。こんな彼女には、まったく魅力を感じない。キャロルはつまり、失望したのであった。


「分かった。もういい」


 キャロルの台詞にチェルナは一瞬肩を震わせた。


「戻ってくる気になるまで、休んでいるといい。邪魔をして悪かったね」


 キャロルは優しく言ったつもりであったのだが、それはチェルナには言い捨てられた言葉のように聞こえた。キャロルは基本的には優しい男であったが、相手が常に彼に対して遠慮をするという状況で育った環境のために、意外にも他人に対して容赦が無いのであった。


 チェルナは混乱していたのである。それが分かれば、チェルナが導いてくれる者を欲していることが分かったはずだ。そう、今度はキャロルがチェルナを導く番だったのである。しかし、キャロルにはそれが理解出来なかった。彼を責めるのは酷であろう。彼にはそういう本音で人間関係を築き上げなければ分からない経験が圧倒的に不足していた。あるいは、チェルナが弱音を吐いてキャロルに助けを求めれば分かったのかもしれないが、チェルナはやはりそういう女ではなかったのである。


 結局この瞬間が、歴史上重要な分岐点となってしまうのだが、当人たちには無論そんな自覚は無い。ただ、出会って以来接近する一方だった二人の間に、この瞬間深い溝が刻まれてしまったことは自覚していた。キャロルはチェルナに失望したが、チェルナにもそれが伝わってしまったのだ。それはチェルナの退路を断つことになった。




 モラム・マイルデンが決起にあたってチェルナを必要とした理由は二つある。


 第一に、何よりも彼女が旧緑玉王国最後の女王ミヘルナの娘であり、緑玉王家の正当な後継者であることだ(確たる証拠は無いが)。モラムの旗印が緑玉王国再興である以上、モラム自身が大将であるよりもチェルナを担いだ方が自然なのである。その方が緑玉王国旧臣の支持も集めやすいであろう。本来であれば、ミヘルナを担いだ方が効果的であろうが、聖戦帝国の強い監視下にあるミヘルナに接触することは困難であったし、要請に応じてくれるとも到底思えなかったのだ。


 もう一つの理由は、チェルナが皇帝の第一秘書であり、いわばキャロルの側近中の側近だったということが上げられる。皇帝府内部に隠然たる勢力を誇っているチェルナを引き込めれば、それは皇帝の側近でさえ加わっているといういわば「箔」となるわけだ。更に言えばチェルナが引き抜かれれば皇帝府は混乱するだろうし、逆に反乱軍は皇帝府内部の詳しい事情を手にすることが出来るのである。


 モラムは急がなかった。彼は集めた情報と少ない接触から、チェルナの性格をある意味チェルナ本人よりも正確に見抜いていた。彼女の秘めた願望も。


 チェルナは、誰かが「あなたはミヘルナ女王の子、リュート王女です」と言ってくれるのを待っていたのだ。それが事実であるか否かは問題ではない。孤児であるかどうかに係らず、人は自分の出自の保証を求めるものだ。自分の先祖がどこの誰であったか、生まれた場所はどこなのか、それが分かって初めて人は人生の基盤を持つことが出来る。孤児であるチェルナがなおさらそれを求めるのは当然だ。モラムはそれを求めるとおりの形で与えてやればよかったのである。


 そして、チェルナは政治家として、あまりにも有能過ぎた。有能な政治家は強い権力を求めるものである。自分の才能を存分に振るいたいと欲するからである。その究極の夢は、国家を一から立ち上げることであろう。政治家の本懐とも言うべきその機会が目の前に投げ出されれば、それは立ちがたい誘惑であるに違いない。


 この二つの「餌」があれば、必ずチェルナは釣り上げることが出来る。モラムはそう確信していた。チェルナの性格上、強く要請するよりも迷わせた後に自ら判断させたほうが効果的であろう。モラムはそこまで読んだ。


 しかしてチェルナのバイト先への最初の訪問から一月後、今度はチェルナの下宿を訪れたモラムを、チェルナの決意を秘めた瞳が迎えた。キャロルが同じように訪問した、その四日後のことである。


「あなたの計画に乗りましょう」


 キャロルが来た時には迷いと疲労に曇っていた瞳は、すっかり元の輝きを取り戻していた。


「ただし、条件があります」


「何なりと」


 モラムは密かにほくそ笑んでいた。何もかも計画通りだった。釣り上げてしまえば、あとは彼女を担いで挙兵するだけである。


 しかし、彼の誤算が一つだけあった。彼はチェルナを、少しだけ侮っていたのである。彼も策士だけに自分の才能に自信があった。才能に自信を持つ者は、他人を侮り易い。チェルナは、ただ大人しく担がれているようなお姫様ではなかったのだ。


「まず、私をあくまで『リュート・ミヘルナ』として扱うこと。私は今この時からチェルナ・リュートの名を捨てます。私とチェルナ・リュートは別人です。いいですね」


 これは、キャロルへの気遣いだった。彼の第一秘書であるチェルナが反乱軍に加わったとなれば、彼は政治的に窮地に立たされるだろう。それを避けるための処置だった。しかしこれによって、モラムが目論んだ「反乱軍に皇帝の第一秘書が加わった」という宣伝文句が使えないということになる。


「もう一つ。私にあなたと同格の指揮権を与えなさい」


「?同格でよろしいので?」


「ええ。同格です」


 モラムは思わず唸った。


 モラムはチェルナを名目の反乱軍総大将に据えるつもりでいた。最高司令官でも女王でも何でも良いが、兎に角彼女を最高位に置き、その下に幹部会を設置して自分はそこで実質的な権力を握るつもりだったのである。


「私は、王にはなりません。あなたの、反乱軍?あくまでそこに一個人として参加する。そういう条件でなければこの話は無かったことにしましょう」


「しかし、それでは・・・」


「緑玉王家の血を引く者が最高幹部の一人にいれば、宣伝効果は十分でしょう?それとも何?私が王にならなければ何か不都合なことでもあるの?」


 ある組織で、一段上に最高権力者が座ると、そこに周辺の目は集中するものである。賞賛もそして批判も。モラムの構想ではチェルナをそういう立場に据えておいて、自分はその影で自由に動くつもりであったのである。しかし、そんなことは口には出せない。


「・・・分かりました」


「それと、もう一つ」


 チェルナの表情に迷いは無かった。彼女は、進み出せばもはや後ろは振り返らないタイプである。この時チェルナは、本気でキャロルから決別するつもりでいたのだ。


「全ての情報を包み隠さず私に提供しなさい。まず最初に、反乱軍の現況。構成人員と位置、装備、それとタイムスケジュール」


 モラムは今度こそ絶句した。情報多く有する者が、その組織の実権を握る者なのである。現在、モラムの反乱組織で全ての情報を握っていたのはモラム一人と言って良かった。彼はそれを統制し、小出しにすることで組織をコントロールしていたのである。チェルナはその情報をよこせという。それはつまり彼女が本気で反乱軍を掌握しようとしていることを意味した。


 モラムは彼女がこうも思い切り良く皇帝側から決別しようとは思っていなかったのである。もっと女性らしくキャロルになよなよとした未練を残すと思っていたのだ。これはある意味モラムが女性のことを良く理解していなかったことを意味する。本当は決心さえしてしまえば女性の方が潔いものなのである。


 モラムはたじろいだ。流石に皇帝の第一秘書として辣腕を振るっているだけのことはあるようだ。しかしながら、チェルナを担ぎ出す事がモラムの計画にとって不可欠の構成要素であることも間違いないことなのであった。


「了解いたしました」


 結局モラムは深々と頭を下げた。




 モラム・マイルデンがティティス大陸群で軍事クーデターを起こしたのは、降臨歴四七八七年十一月のことであった。


 その戦略は実に意外なものであった。


 軍事クーデターは、いかに軍事、政治の中心を迅速に押さえられるかに成否が掛かっている。そのため、通常は首都(この場合はティティス分都ロークシティア)で挙兵し、一気に政軍の中枢を掌握するのが普通である。


 ところが、モラムはロークシティアからやや離れた、コルーニュ鎮守府で挙兵したのであった。


 理由は、モラムの以前の任地がここであり、彼の同志が多かったことと、ロークシティアの次に配備された艦隊の数が多かったことである。モラムの挙兵はあっさり成功し、全ての艦隊がモラム軍の手に落ちた。


 この時点でのモラム軍は兵数三万八千。艦隊は超弩級戦艦十隻を筆頭として三十隻である。軍の規模としてはかなりのものであるが、この時ロークシティアには十七万の兵と二十隻の戦艦を初めとする百隻近い艦隊がいたのだ。つまりモラム軍の兵力では軍勢を率いてロークシティアを攻略することも難しいのである。


 しかし、モラム軍は堂々とした陣形を組んでロークシティアに向けて進撃を始めた。これも軍事クーデターとしては異例の展開であろう。聖戦帝国ティティス方面軍司令部は至急ベラグール要塞の聖戦軍艦隊司令部に援軍を要請すると共に、ロークシティアから艦隊を出撃させた。三倍以上の戦力比があれば、十分に鎮圧可能であるとふんだのであろう。


 両軍はオクルールという都市の跡地付近で対峙した。人類が未だティティス大陸群のみに居住していた時代の大都市が放棄され、すっかり荒れ果ててしまった場所である。高層ビルが倒壊し砂漠に埋もれつつある。


 聖戦軍艦隊は主砲射程に入る直前に通信を繋ぎ、降伏勧告を行った。すると、意外なことにモラム艦隊から返信があったのである。しかしその内容は尋常ならざるものであった。


「我々は、緑玉王国艦隊だ。汝等に降伏を勧告する」


 聖戦軍は驚愕した。そして、続いて送られてきた通信が更に混乱を大きくする。


「我が艦隊には女王ミヘルナ陛下の御子、リュート親王がいらっしゃる。我が艦隊に弓引く者は、緑玉王家に敵する者と心得よ」


 そして一隻の戦艦が進み出る。マストに緑玉王国の国旗をはためかせたその艦の甲板に、緑玉王国王家の正装である濃緑色の重衣で立つ人影があった。


 その姿を見た者は息が止まるような思いを味わうことになる。そう、その姿は緑玉王国最後の女王、ミヘルナ一世若き日の姿に見えたのだ。


 すると、聖戦帝国艦隊の艦船が次々と機関を停止してマストに白旗を揚げ始めたのである。聖戦帝国艦隊司令部は愕然とした。


 実は、聖戦帝国ティティス方面軍のほとんどは、緑玉王国が降伏した際にそのまま聖戦帝国に引き継がれた緑玉王国軍なのである。もちろん司令部は刷新されていたが、兵卒、下士官などは未だにそのほとんどが旧緑玉王国軍の人員のままなのであった。


 そんな兵たちの前に、若き日のミヘルナそのままの姿をしたチェルナが現れたのだ。彼らは反射的に緑玉王国時代を思い出し、戦闘を拒否したのである。


 半数以上の艦が降伏してしまった聖戦帝国艦隊は戦闘能力を喪失、撤退を余儀なくされた。モラム軍(この瞬間から「新緑玉王国軍」と呼ばれることになる)は戦わずして勝利し、しかも新たな戦力の確保にも成功したのである。しかも、リュート親王登場の衝撃はこの戦場だけで終わらなかったのである。


 聖戦帝国艦隊には多くの従軍記者が同乗していた。その彼らがチェルナの姿をカメラで捉え特ダネとして持ち帰ったのである。その写真が掲載された新聞、雑誌が発刊された瞬間、ロークシティアに激震が走ることとなった。


 ロークシティアは緑玉王国の首都であった都市である。聖戦帝国の分都となって二十年が過ぎていたとはいえ、緑玉王国の昔を懐かしむ住人は数多かった。聖戦帝国との決戦で、勝ちかかった戦いの勝利を盗まれたと感じ、聖戦帝国に併合されたことに釈然としない思いを抱いてもいたのである。


 そこに、死んだと思われていたリュート親王が帰還したのである。覆い隠されていた親緑玉王国、反聖戦帝国感情は一気に表面化、沸騰した。


「緑玉王国万歳!聖戦帝国は出て行け!」


 そう叫ぶ市民が街頭に溢れ、デモは暴徒となって緑玉城、現在の聖戦帝国ティティス政庁へと押し寄せた。ティティス大陸群執政官、サンダー・エウケスは事態の急迫を鑑み、政庁職員と関係者を連れて残った艦隊でロークシティアを脱出した。彼はこの判断の迅速さとこの際にミヘルナを連れて脱出したことを後に大変高く評価されることになる。


 こうして新緑玉王国軍の前にロークシティアの城門は開かれたのであった。




「新緑玉王国軍、リュート親王を擁してティティス分都ロークシティアを陥れたり」


そのニュースに全世界が驚愕した。


 今や新緑玉王国軍は戦艦二十二隻を筆頭に艦船百五十隻以上、兵員三十万という大戦力となっていた。それが市民の歓呼の声に迎えられて難攻不落の要塞都市ロークシティアに入城したのだ。ティティス大陸群各地でこれに呼応して旧緑玉王国の残党たちが蜂起しつつあるという情報も届く。まるでティティス大陸群全体が帝国に反旗を翻したかのようであった。


 聖戦帝国はこの事態に全帝国に戒厳令を発令。警察等治安組織を終日警戒態勢とした。そして聖戦軍に総動員を掛ける。聖戦帝国艦隊司令部があるベラグール要塞では全艦隊が出撃体制に入った。


 首都クレタでは議会が戦時立法を皇帝に許可した。これを受けて皇帝府は対ティティス反乱追加予算を決める。その額は兆の単位に及んだ。そして反乱討伐軍総司令官に皇帝自らが就任すると発表したのである




「キャロル様!」


 会議を終えて廊下に出たところでキャロルは呼び止められた。厳しい顔をして振り返ったそこに、ヘレナ・ファビオスの白いふわふわとした姿があった。しかし、その顔色は青ざめ、胸の前に握った手は震えている。キャロルは彼女を促して歩き出した。


 窓の無い一室に入る。それまでキャロルは口を開かず、ヘレナも黙っていた。しかし、部屋に入り、周囲に憚る必要がなくなると、ヘレナは堰を切ったように叫んだ。ほとんど泣き叫ぶように。


「本当にお姉さまと戦うつもりなんですか!?」


 ヘレナを見詰めるキャロルの表情は、ヘレナがかつて見たことが無いほどに厳しく、そして無表情だった。その感情を感じさせない表情は彼の父、聖戦帝国初代皇帝ガイアを思わせた。


 立ちはだかる氷の壁を感じながら、それでもヘレナは勇気を振り絞った。


「止めてください!お二人が戦うなんて、そんな悲しいことないじゃないですか!」


 ヘレナはキャロルの腕に縋りついた。


「お姉さまはわたしが説得します。ですから・・・」


「無理だ」


 キャロルは一言で言い捨てた。


「もう、戦うしかない。それに、反乱軍のリュート親王がチェルナであると決まったわけじゃない」


 しかし、それはキャロル自身が信じていないことであった。チェルナは一月前から行方不明になっていたのである。それに、あれほどミヘルナに似ている女性がこの世に二人といるとは思えない。


「でも・・・」


 ヘレナは言葉を失って俯いた。その彼女をキャロルは優しく抱き寄せた。


「チェルナは、僕との決戦を望んでいる。それに応えるのも、友情だろう」


 その言葉に、ヘレナは身体を少し震わせた。


「友情・・・、ですか・・・」


「友情だ」


 キャロルは言った。それは彼の悔恨を示す言葉であったかもしれない。先にチェルナの下宿を訪ねた時の事が思い出される。あの時、彼女との間に感じた溝、あれが知らぬ間に広がってここまでの亀裂となってしまったのだろうか。そうでなければ、キャロルはチェルナのことをもう少し違った言葉で表現出来たかもしれないのに。


 彼女と戦う。それは、非現実的な想像であって、実感が無い。しかしながら、その時は既に間近に迫り、避け様が無い。戦いたくは無いとも、思えない。ただ、想像もつかない現実。しかしキャロルは皇帝として、逃げる事が許されなかった。単に指揮官としてもチェルナが優秀であることは以前のプロト大陸の反乱でよく分かっている。その彼女と軍略の優劣を競うことを考えただけでも緊張を余儀なくされるが、それはどこか彼女とゲームをする前に感じる高揚感に似ていた。悲壮感はまったく無い。つまりはまだキャロルは呆然としていたのであろう。


 ただ、一つのことだけが強く思われる。


 ヘレナは、キャロルに抱かれながら、その実彼が自分の傍にいないことを感じもして、少し寂しかった。キャロルの意識はここにはいないその人と強く結び付けられている。しかしそれが分かってヘレナは少し安心もしたのだった。


「大丈夫だよ、ヘレナ。必ず、チェルナは連れて戻る」


 その言葉が必ず現実になることを信じる事が出来たのだから。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る