第6話

「間に合わないのよ!」


 チェルナはデスクを叩き、キャロルは目を丸くした。


「どうしよう!忘れてたわ!どうしたらいい?っていうか、何とかしなさい!」


 珍しく本気で焦っているらしいチェルナ。キャロルはとりあえず椅子に座りなおした。


「どうしたんだ一体?」


「だから!間に合わないのよ!忘れてたのよ!」


「間に合わないって・・・。そんなに緊急を要するような案件があったかい?」


 ここはキャロルの執務室であった。チェルナは突如、ドアを蹴破るようにして飛び込んでくるなり、叫んだのだった。


 キャロルはデスクの上に積んであった書類を手に取った。


「例の予算案はこの間通したろう?後は航路省の人事だっけ?でもあれはまだ先の話だし・・・」


「そんなの関係ないわよ!」


 チェルナは再び叫び、キャロルは思わず身体を引いた。


「卒論よ!」


「は?」


「知らないの?大学の卒業論文よ!」


 それくらいはキャロルも知っている。問題はそれの何が間に合わないのかということなのだが。


「この馬鹿!」


 と、場合によっては不敬罪確定の台詞を吐き捨てる。


「あたしの卒業論文よ!」


 ・・・ああ、そうか。ようやくキャロルも理解した。そういえばキャロルより三年早くエブリス大学に入学したチェルナは順調に行けばそろそろ卒業なのだった。


 まてよ?キャロルはここまで思い出して気が付いた。


「まさか」


「そうよ!」


 チェルナは鬼気迫る表情でキャロルに顔を近づけた。


「書いてないの!一ページも!」


「・・・一ページも?」


「そう!」


 キャロルはデスクの隅にあるカレンダーを手に取る。


「・・・締め切りは?」


「来月末!」


 もう後一月ちょいしかない。キャロルは天井を見上げつつ少し考える。


「・・・どうするの?」


「だからどうしよう!ってさっきから言ってるんじゃないの!」


 チェルナはキャロルの首を絞めにかかった。




「ということで、あたしの卒論のテーマは『クレタの地政学的特長と紫玉王国』に決定します!というか、した!」


 なるほど、とキャロルは頷いたが、そうで無かった者もいる。エスパーナ・ロドリクとエレナ・ファビオスである。エスパーナは眉を顰め、エトナは小鳥のように首を傾げている。


 チェルナはキャロルの執務室の前の間、この前「秘書官室」と正式に名が与えられたそこに三人を集め、叫んだのだった。彼女は興奮すると声が大きくなるのでどうしても叫ぶという表現になる。


 無駄だろうとは思いつつ、エスパーナは一応声を上げてみることにしたようだった。


「それで、それが俺たちに何の関係が・・・」


「手伝いなさい!」


 案の定の返答が返ってきた。


「あたし一人じゃどうやっても間に合わないのよ!どうせあんたたちは暇でしょう!手伝いなさい!」


「いや、暇じゃねぇし」


 エスパーナは呟いた。これは本当で、彼はキャロルの護衛や移動などの手配を主に行っているのであるが、これらはキャロルが何かしら政務を行っている以上引っ切り無しに生ずる業務であるのだ。これに加えてエスパーナも学生であるからには学問に勤しまなければならない。そしてやはり学生らしく遊びもこなさなければならないわけで、彼はなかなか多忙であるといっても良いのであった。


 しかし、そんなことに頓着しないのがチェルナのチェルナたる所以であるのだった。


「暇が無いなら作りなさい!」


 エスパーナもチェルナとの付き合いは既に長い。彼は諦めて沈黙した。エレナが口を開く。


「あたしもですかぁ?」


 彼女はこのメンバーの中で唯一エブリス大学の学生ではない。


「勉強のことはお役に立てないと思いますけど」


「資料集め、お茶汲み、肩もみ!いつもやっていることをやればいいのよ!」


「ああ、それなら任せてくださいお姉さま」


 エレナはほっとしたような表情を見せた。実際彼女はその範囲であれば十分に有能なのだった。


「それにしても」


 キャロルが呟く。相変わらず彼はチェルナの手伝いをすることに何の疑問も持っていないようである。


「いったいどういうテーマなんだい?地勢学的特長?」


「紫玉王国は世界の中央と呼ばれるクレタを押さえていながら、なぜ天下統一が出来なかったか、というようなテーマよ」


 紫玉王国は四大宝玉王国の一つである。


 黄金帝国十九代皇帝アーノルド三世の末子、プレンターニュが建国した。クレタは言うまでもなく黄金帝国の首都である。いわゆる「大崩壊」時、末子であったプレンターニュがクレタとネサイエス大陸群を受け継げたのは、末弟であった彼を兄たちが可愛がっていた証左だとされる。


 ネサイエス大陸群は現在でもそうだが、全世界の穀物生産の七割を一手に引き受ける「世界の食料庫」であった。人口も多く、しかも「世界の首都」を押さえた紫玉王国の国力は四大宝玉王国の中でも最高とされたものである。しかしながら、その紫玉王国は結局、天下統一どころかネサイエス大陸群を統一することすら出来ずに終わった。紫玉王国は降臨歴四七五六年、当時の聖戦軍によってクレタを陥れられ、滅亡してしまっている。


「なるほど」


 キャロルはあっさり納得したが、エスパーナはふと気がついた。


「チェルナ、あんた確かどっちかと言えば理系じゃなかったか?なんで歴史科目の論文を書く?」


「仕方ないじゃない!今からどうやって実験データなんかを集めるのよ!」


 確かに。彼女が本来専攻している数学、科学などの論文は普通二年掛かりくらいで地道な実験と研究を繰り返しながら仕上げるものなのだ。エブリス大学には、卒業論文を仕上げるためだけに数年も余計に在学し続ける学生もいた。大体が、一月やそこらで卒論をでっち上げようというのが無茶なのだ。


「それに、そっち方面じゃあんたたちは役に立たないでしょうが!」


 本末転倒と言うべきだろう。確かに、キャロルもエスパーナもどちらかと言えば文系だが。


「兎に角!これから一ヶ月!全てに優先してあたしの卒論を手伝うこと!決定!」


 ということは、国政よりも優先せよということなのである。




 エブリス大学の図書館は、その蔵書の質、量共に世界一であると言って過言ではない。


 人三人分くらいの高さの本棚がぎっしり詰め込まれた内部はまるで迷路である。古い本から発する独特な臭い。本を傷めないために日光が差し込まない造りになっているため、明かりは所々にぶら下がっている電球があるのみだ。薄暗い。


 キャロルとチェルナはここに資料を漁りに来ていた。詳しく言えば、チェルナが資料を探し、キャロルが持つ係りである。チェルナは次々と分厚い本を見つけ出しては、キャロルが既に抱えている本の上に積んでゆく。


「ずいぶん使うんだね」


 キャロルは目を白黒させている。彼の腕の中には既に軽く三十冊を超える分厚い本の山が出来ている。彼も本はかなり読むほうだが、それにしてもこんな多量の本をたった一月で読み切ることは出来ないだろう。


 ところが、チェルナは涼しい顔で言い切った。


「読みゃしないわよ」


「は?」


 思わず間抜けな声を上げてしまうキャロル。


「じゃぁ、これは何に使うの?」


「箔をつけるのよ」


 とまぁ、わけの分からないことを言い出した。詳しく説明すればこういうことである。


 学生の論文というのは、所詮どうしても読んだ本の抜書きにならざるを得ない。しかしながら、一冊丸々引用してしまえば、それは正に唯の丸写しで盗作になってしまう。故に学生は出来るだけ多くの書籍からいろいろな部分を抜き出してきて再構築し、論文に仕上げるわけである。この時、参考にし引用する文章が多ければ多いほど、論文の独自性(?)は高まるわけである。もちろんいろんな論を参考にすれば、それだけ取捨選択や統合が難しくなるのだが。


 そういうわけで、卒業論文につける参考文献一覧というのは、その論文を評価する際に重要になってくるのである。つまり、ぶっちゃけて言えば参考文献がずら~っと並んでいる論文というのは、それだけでなんだかすごい。というのがチェルナの言い分なのであった。


「もちろん、全然目を通していなきゃばれちゃうから、ざっとは目を通すけどね。隅々まで目を通す必要なんて無し!」


 なるほど、そういうものか。と迂闊にもキャロルは納得してしまったのだが、後に彼も卒論を書く段になってそんなに簡単な話ではないことに気が付くことになる。なにしろ、卒論の評価をする教授というのは、もちろんその分野の専門家である。その分野の専門書などあらかた読みつくして当然と言う人種だ。その彼等に、流し読みした程度の知識で立ち向かうなど、無謀以外の何者でもない。


 しかしチェルナにとっては、そんなことは朝飯前らしかった。彼女に言わせれば、要するにその一瞬だけ教授をだまくらかせればそれで良いのであって、何年もの評価に耐えるような論文を書く必要は無いのだということらしい。もちろんそれはその通りだろうが、常人にはそれがそもそも簡単ではないのだ。


「それにしても、なんで卒論のテーマをあれにしたの?その、ネサイエス大陸郡の地政学的特長だっけ?」


「ん~、前に少し考えたことがあったのよ。それと、地元だから資料が集めやすいだろうなって。それだけよ」


 確かにエブリス大学はネサイエス大陸郡にあるだけに紫玉王国の資料は揃え易かった。


「キャロル、あんたはどう思う?紫玉王国はなんで天下統一が果たせなかったのかしら?」


 キャロルは本を抱えたまま唸った。


 紫玉王国が天下統一を果たせなかった理由は、一般的には紫玉王国がその歴史を通じて政争に悩まされたからだと言われる。元黄金帝国首都であっただけに古くからの貴族や領主などが深く根を張っており、それが国王の意向に逆らった結果、王国の力を結集することが出来なかったのだと。


「でも、それは理由の一つでしかないと思うの。例えば、もしも強力な指導力を発揮する国王が生まれて、国内を完全に統一していれば、紫玉王国は天下を統一できたのかしら?私は出来なかったと思うのよね」


「どうして」


「それがネサイエス大陸群、クレタの地政学的な欠点だと思うのよ・・・」


 チェルナは本を取り出すためによじ登った脚立の上で思索にふけり始めてしまったらしかった。


「ネサイエス大陸郡は黄金帝国建国当時から世界最大の穀物生産地で、世界の胃袋を制していたのよね。黄金帝国が天下統一を果たすことが出来たのはその特徴が原動力になったわけよ。でも、紫玉王国は同じ地域を押さえていながら、同じことが出来なかった・・・。ということは、黄金帝国が崩壊したのも同じ理由によるわけで・・・」


「あれ?」


 チェルナにつられるようにして考え込んでいたキャロルが思わず声を上げる。


「でも、聖戦帝国が天下を統一できたのは、ネサイエス大陸郡を最初に押さえたからじゃなかったかい?」


「そう、そこよ!」


 チェルナはキャロルに指を突きつけた。


「紫玉王国に出来なかったことが、聖戦帝国には出来たわけよ!なんで!どうして!」


「分からないよ」


「皇帝のくせに!なんで分からないのよ!」


「そんな無茶な」


 キャロルはホールドアップしたが、チェルナは更に言う。


「聖戦帝国は当初、紫玉王国よりも遥かに弱体な国家だったはず。それがどうしてネサイエスの地政学的欠点を乗り越えて天下統一に辿り付けたのか!それが導き出せればこれは立派な論文になるわよ!よし!燃えてきた!」


 握りこぶしを振り上げるチェルナを見ながら、キャロルは手を上げた姿勢のまま思わず微笑んでいた。




 チェルナの有能さはキャロルだって知っていた。彼女はキャロルの秘書だったから、毎日間近でその仕事ぶりを見ている。皇帝府の業務を実質的に統括するその仕事ぶりにはいつも感心させられていた。


 しかしながら、その彼女の常の仕事ぶりなど、実は彼女にとっては全然本気ではなかったのだということを、キャロルは思い知らされることになる。


 チェルナの論文のテーマ『クレタの地政学的特長と紫玉王国』だが、これは複合テーマとも言うべきものであった。つまり、クレタ、ひいてはネサイエス大陸郡の地政学的特長と紫玉王国の歴史を相互に参照しながら、互いがどのように影響し合って形成されたかを考えねばならない。つまり、調べ考えることが単純テーマの三倍以上になるのである。それに気が付いて、実はキャロルの方が青くなったのであるが、チェルナのほうはまるで歯牙にもかけなかった。


 彼女はまず、大学から借り出した本を皇帝府の一室に運び込ませた。なんとなればあまりに量が多すぎてチェルナの下宿には入り切らなかったからである。彼女はその部屋にこもると、三日に渡って出てこなかった。食事はヘレナに届けさせ、たまに便所に出てくる他はひたすら資料を読み、抜書きを作っていたのである。


 恐ろしいことに三日後には全ての資料を、彼女いわく「流し読み」し終わったらしい。それからもう一度キャロルを連れて大学の図書館へ。流石に前回の半分ほどだったがそれでも膨大な本を借り出し、それを読み込むためにもう一昼夜。


 そしてようやく部屋から出てくると、とんでもない量の抜書きの束をキャロルたちの前に積んで見せた。麗貌が台無しのぼさぼさ髪に腫れぼったい目。彼女は端的に言った。


「読みなさい」


 キャロルとエスパーナは顔を見合わせた。


「あたしはこれから一日寝ます。その間に読んでおきなさい」


 そう言い残すと、彼女は身の回りの世話をさせる為だろう、エレナを連れて部屋を出て行った。キャロルとエスパーナは恐る恐るチェルナの作った資料の「抜書き」を手に取った。


「おいおい」


 それは、専門書一冊に匹敵するような分量であった。


「今度は俺たちが徹夜だな」


 エスパーナはため息を吐いた。


 キャロルたちが資料をどうにか読み終えた頃に、すっきりとした顔のチェルナが戻ってくる。いつもはただ後に流すだけの長い黒髪を、頭の後で大きな三つ編みにしていた。それが彼女の戦闘体制なのだという。


「では、始めるわよ!」


 チェルナとエスパーナは徹夜とあまりにも密度の高い資料を読み込んだせいで朦朧としている頭を抱えたまま、なんとか頷いた。




 チェルナの論文の構成はこうである。


1.クレタの成立ち。


2.クレタの地政学的特長。


3.黄金帝国とクレタ。


4.紫玉王国とクレタ。


5.クレタの地政学が紫玉王国に与えた影響。


6.聖戦帝国とクレタ。


7.総論。


 チェルナは黒板にそれを書き出すと言った。


「この内、1、2はエスパーナ任せます」


「おいおい」


 エスパーナが両手を広げて抗議する。


「俺が書くのか?それじゃぁお前の論文にならんだろう」


「大丈夫よ!最後にあたしが目を通して全部修正するから。あんたに任せるところは単に資料を整理して並べれば良いだけの場所だし」


 チェルナは事も無げに言った。確かに、資料の抜書きは既に出来ているのだから、それを整理して並べ替えるだけではある。


「キャロルは3、4をやんなさい。あたしは残りを考えるから」


 キャロルは唸った。


「それはいいんだけどチェルナ。論文全体の流れというか、結論が分からないと、まとめ方の方向性が決められないよ」


「そうだなぁ。おまえの考えるクレタの地政学的な利点と欠点くらいは聞かせてもらえないと」


 エスパーナの言葉にチェルナは目を丸くした。


「あんた、あれ読んでもわかんなかった?」


「分かるか!そもそもクレタの地政学的特長ってなんだよ!」


 チェルナは自分で作った抜書きを捲りつつ言った。


「クレタはもともと不毛の湿地帯で、それを黄金帝国初代皇帝クレタが開墾したのが歴史の始まりだということは知っているわよね」


「ああ」


「黄金帝国は最初、ごくごく小さな勢力に過ぎなかったの。それが、クレタ盆地の開墾に成功して有力な穀倉地帯を手に入れた。周辺の有力な国は当然、それを手に入れたいと願った。それで、軍を派遣してきたわけだけど、黄金帝国はそれを全て撃退した」


 チェルナはちらっと顔を上げてキャロルを見た。キャロルはそれでチェルナの意を読み取る。


「クレタが天嶮の要害だったからだろう」


「そう。周囲を三千メートル級の山に囲まれたクレタ盆地には、当時の戦艦は侵入できなかったのよ。つまり、クレタは非常に防衛向きの地域であるということが言えるわね」


 チェルナは指でテーブルをリズミカルに叩きながら思考を整理しているようだ。


「クレタは当時、大規模な穀倉地帯で優れた防衛力も持っていた。つまり、当時の黄金帝国はクレタ盆地の中で完結した国家だったわけよ」


 チェルナの漆黒の瞳がきらきらと輝いている。チェルナはこう見えて知的遊戯としての学問が好きなのである。


「しかしそれが、クレタの地政学的限界だったのね。高山に囲まれているということは、外部に発展し難いということなのよ。黄金帝国初代皇帝クレタは当然それを知っていた」


「ああ」


 キャロルが頷く。


「それで、分都アルスクか・・・」


「そう。黄金帝国は最初期の段階で、安全なクレタ盆地の外に分都アルスクを確保したのよ。皇帝クレタはそこに移り、天下統一が終わるまでクレタに帰らなかったといわれているの」


 クレタ盆地の直ぐ外に今ではそれほど大きな町だとは言えないアルスクという街がある。もともとここは、黄金帝国がクレタ盆地の外へと膨張を始める段階で設置した軍事拠点であった。


「つまり、クレタという街は防衛拠点としては優れていた反面、対外侵攻拠点としては不向きなのね。あたしはこれがクレタの地政学的欠点であり、紫玉王国が最有力であったネサイエス大陸郡を押さえていながら天下統一が果たせなかった原因だと考えているの」


「なるほどね。じゃあ、聖戦帝国が首都をクレタに置いていながら天下統一を果たしえたのは・・・」


「対外遠征拠点としてベラグール要塞を確保していたからでしょうね。つまり、黄金帝国のアルスクを同じ役目を果たしたわけよ」


 ベラグール要塞はネサイエス大陸郡とティティス大陸郡とのほぼ中間にある。そこからならすべての大陸郡へ迅速に軍を派遣することが出来るのだ。


「さ、これで大体分かったでしょう!そんな感じで纏めなさい!あたしは纏めるだけじゃなくちょっと頭を使わないといけないんだから邪魔しないでね!」


 チェルナ的には、資料の整理程度では頭を使う内に入らないらしい。キャロルはチェルナ作成の資料の抜書きを見ながらため息を吐いた。




 チェルナが卒論に掛かり切りになっていようが、どうしようが、聖戦帝国の国政は粛々と運営されて行く訳である。キャロルは皇帝であったから、流石にチェルナの卒論ばかりにかまけているわけには行かない。


しかしチェルナは遠慮会釈無く政務を放擲した。流石の彼女でも突貫工事の卒論作成と政策秘書業務を両立することは不可能だったからである。彼女に言わせれば、自分の本職は学生なのだから、どちらを優先すべきかは自明の事だということになるのだ。


しかしながらこれは困ったことなのであった。


彼女は今やキャロル、いや、聖戦帝国皇帝府にとって欠くべからざる人物になりおおせていたからである。


何しろチェルナはキャロルのスケジュール調整や資料作成などのみならず、皇帝府全体を実質的に統括していると言っても過言ではなかったからである。帝国議会で成立した法案を施行に移す段階で、具体的にどこの官公庁に実行させるのかを決めるのは皇帝府の重要な仕事の一つだが、チェルナはこれをほとんど一人で担当していたのだ。官公庁を有機的に連結し、決定した政策をスムーズに実行に移す彼女の手腕は一流で、今や皇帝府の閣僚ですら彼女に頼り切っていたのだった。


既に、皇帝府の全体像を把握している人物はチェルナ一人であったのである。その彼女がいきなり抜けてしまったのだ。皇帝府は大混乱になった。困り果てた官僚や閣僚秘書たちはキャロルの所に相談に行った訳だが、既にしてキャロルからしてチェルナが居ないお陰で職務が全く滞っていた。彼にもどうにもならなかったのだ。


チェルナは一応、皇帝府宮殿にいることはいたのである。ただし、一室に籠もり切りであったが。


一度、それを聞きつけた官僚の一人が、質問のためにヘレナの制止を振り切って入室したのだが、ほうほうの体で逃げ帰った。キャロルが様子を見ようと部屋を訪ねると、珍しく真剣な顔をしたヘレナに止められた。


「止めた方がいいですわキャロル様。噛みつかれても知りませんよぉ」


彼女はチェルナと違った意味で冗談が通じないタイプである。本当に噛みつかれたことがあるのかも知れない。


キャロルが恐る恐る覗き込んだそこは狭い部屋で、有るものと言えば事務机が一つのみ。それには堆く本や紙の束が積まれており、その間には数本の栄養ドリンクの瓶が立っていた。そして彼女は、一心不乱に紙に何かを書き付けていた。


頭の後ろで大きな三つ編みにしっかり纏めた髪には常の艶がない。真剣極まりない視線を発する瞳も充血して濁っている。少なく見積もっても、美人度数四割減という感じであった。余り人には見せたく無いような姿だ。


チェルナはキャロルに気がつくと顔を上げた。肌にも張りが無く、そもそも生気がない。キャロルは思わず声を掛けた。


「大丈夫かい?チェルナ」


しかしチェルナはそれには答えず、胡乱な目つきでキャロルを見詰めたまま、ただ手を彼の方に出した。


「?」


「出来たんでしょ。貸して。チェックするから」


「・・・いや、まだなんだけど・・・」


チェルナの表情はその瞬間に沸騰した。


「じゃあ何しに来たのよ!早くあんたの分仕上げて持ってきなさい!」


何か口答えしようものなら物が飛んできそうな気配だった。キャロルは慌てて退散した。


「大丈夫ですかキャロル様」


キャロルは頷いたが、表情は不安げだ。


「ヘレナ。チェルナはいつからあんななんだ」


「もう二週間はあの部屋に入りきりですわ。大丈夫でしょうか、お姉さま」


心配ではあったが、どうしようも無い。


「ヘレナ。チェルナを、気をつけて見てやってくれ」


キャロルの言葉にヘレナは可憐な顔を綻ばせた。


「お任せください!」


しかし案じた通り、チェルナが倒れたという連絡がキャロルに届いたのはその三日後のことであった。




チェルナの熱は三十九度にもなり、彼女は担ぎ込まれた皇帝府の一室で昏々と眠り続けた。


後に分かったことであるが、チェルナはそれ程身体が丈夫な質ではなかったのである。これは後年、特に子供を産んでから表面化し、それからは彼女の病臥がしばしば国民を心配させるようになったのだが。


チェルナがようやく目を覚ました時、枕元にはキャロルがいた。


チェルナはぼんやりした頭で考えた。なんでキャロルがいるんだろう。


キャロルは彼女を見ておらず、視線は手に持った文庫本に落ちていた。柔和な顔立ちには特に憔悴や疲れの色は見えず、チェルナにはそれが何となくしゃくに障った。


額に冷たい感触がある。濡れタオルが載せてあるのだ。キャロルが載せてくれたのだろうか。少し絞り足りないわね。チェルナはそう評価した。


まだ身体は動かない。またやっちゃったみたいね。チェルナは溜息を吐いた。無理をし続けると、精神より先に身体の方が保たなくなるのが彼女の常だった。子供の頃からそれで何度か倒れては孤児院の院長に「身体が一番大事なのよ。身体を労りなさい」と諭されたものだったのだが。


だって、仕方がないじゃない。今は亡き院長の幻影に向かって唇を尖らせる。


私は、頑張るしかないんだから。


何も持っていない私。他の連中とは、スタートラインからして遅れをとっている私は、その分人の何倍も努力しなければならなかったのだ。それが例え無茶な頑張りだったとしても、そうしなければ、自分は思う通りに生きて行く事が出来なかったのだ。


チェルナは、言い訳したくなかったのである。自分は孤児だから、親に捨てられたから、そんな事で人生に後ろを見せたくなかったのである。


誰も助けてはくれないし、誰も守ってはくれない。確かに孤児院の院長をはじめ、バイト先のマスター、行きつけの商店街の人々など色々お世話になった人々はいたが、そういう人々も、究極的な意味では自分を助けて、守ってはくれない。無償の愛を注ぎ続けてくれる、肉親のようには。


「起きたのかい?」


突然キャロルの声が降ってきて、チェルナは現実に引き戻された。


キャロルは微笑を浮かべていた。何となくそれも癪に障る。


「何であんたがいるのよ」


怒鳴ろうとしたのだが、声に力が入らない。我ながら情け無い声になってしまって、チェルナは悔しい思いをした。


キャロルは安堵の微笑を浮かべていた。彼は、時間のある限りはチェルナの看病に来ていたのである。とは言っても、多忙な彼のことであるから、一日に一回来られるかどうかというところだ。チェルナが寝込んで五日目であるから、彼がいるときに彼女が目を覚ましたのは良い偶然だったということになる。


「全然目を覚まさないから、心配したよ。医者はただの疲労と寝不足だって言うんだけどね」


キャロルはごく自然な所作でチェルナの額に乗っていたタオルを取り、代わりに自分の手を置いた。チェルナは動けなかった。


「うん、熱は引いたね。もう大丈夫だろう。今日一日は寝ていなよ」


チェルナは何となく首を竦める様に頷いた。


ドアの外から声が掛かる。


「陛下、そろそろ」


「うん」


キャロルは立ち上がって柔らかく微笑した。


「締め切り期日まで後少し。明日から頑張ろう」


言うとキャロルは特に未練無さそうにチェルナの額から手を引き、立ち上がった。


「キャロル」


つい声が出てしまった。チェルナはそのまま素直に言った。


「ありがとう」


キャロルは軽く頷いただけで、真っ直ぐ部屋を出て行った。


チェルナは天井を見上げ何となく長い溜め息を吐くと。タオルを額に乗せ直して、目を閉じた。




聖戦軍(聖戦帝国の前身)がネサイエス大陸群に侵攻したのは、降臨歴四七五六年のことである。当時の聖戦軍参謀総長クシー・ルシメオスが、侵攻地にネサイエス大陸群を選んだのは、単なる気紛れなどが理由では無論なかった。


当時、ネサイエス大陸群の過半を征していた紫玉王国は世界最強の国家だと言われていた。世界の食料のほとんどを生産するネサイエス大陸群は、世界で最も豊かな大陸群であり、当然そこで最大の国家である紫玉王国は世界最強の国家だと思われていたのだった。


しかし、クシーはそれが単なる思い込みであることを看破していたのである。


結論から言えば、紫玉王国は豊か過ぎたのである。豊かな国家は必ず保守的になる。紫玉王国の場合、それは対外政策が消極的になることとなって表面化した。


現状の国土を維持し、他国からの侵攻を撃退する事に特化するなら、軍事力は相当削減することが出来る。しかも、紫玉王国ではその隣国からの侵攻自体が百年近く起こっていなかった。そのため紫玉王国の軍事力はその国家規模に不釣り合いなほど小規模化してしまっていたのである。


更に悪いことに、この二年前、紫玉王国は聖戦軍が占拠したばかりだったベラグール要塞を攻略すべく艦隊を派遣し、大損害を被って撃退されていたのであった。一部軍人の野心から発したこの軍事行動の失敗により、戦力が大幅に低下してしまったのみならず、軍の発言力も低下。これが聖戦帝国侵攻時、紫玉王国軍が効率的な対応を取れなくなったことの遠因になってしまう。


クシー・ルシメオスは超弩級戦艦二十二隻を中核とした聖戦軍艦隊で、一気に紫玉王国首都クレタを突いた。これも常識外れの作戦だと言えよう。聖戦軍の過小な戦力では、国境から徐々に領域を広げて行くような方法はそもそも不可能だったということもあるが、戦力の集中と高速運用を突き詰めたクシーのこの作戦が効果的であったことは、歴史が証明することになる。


アリシアン会戦、タターマル会戦の二つの戦いを一気に勝ち抜いた聖戦軍は、黄金帝国時代から難攻不落の代名詞であった「世界の王冠」クレタ攻略に取り掛かった。そして、大方の予想に反してこれを半月で陥落させてしまうのである。


黄金帝国時代、クレタが難攻不落を誇ったのは、クレタが標高三千メートルクラスの高山に囲まれており、当時の戦艦では越えることが出来なかった事と、クレタ盆地が穀倉地帯であり、盆地内部に立てこもる事態となっても食料が自給出来たからである。ところが、時代は既に変わっていたのだ。ビートル機関の発達は三千メートル以上の高々度航行を可能にしていたし、クレタの人口増加と都市化は、食料自給を不可能にしていたのである。


クレタが陥れられると、紫玉王国は一気に崩壊してしまった。中央集権国家の欠点である。特に紫玉王国にはその傾向が強かった。まさかクレタが陥落するとは夢にも思っていなかったのであろう。聖戦軍はこの後、一年を費やしてネサイエス大陸群を制圧。そして聖戦帝国が誕生するのだ。




チェルナはネサイエス大陸群及びクレタの地政学的な欠点をこう分析する。


「ネサイエス大陸群は他の三大大陸群が形作るトライアングルからやや離れた位置にある。この為、他の大陸群から一気に艦隊を派遣するのはやや困難であった。この為、黄金帝国の天下統一戦役時にはまず外交的侵攻によってティティス大陸群に橋頭堡を確保し、それから他の大陸群に侵攻するという手間を掛けざるを得なかった。この特徴がネサイエス大陸群の各国、特に紫玉王国に内向性と閉鎖的気質を醸成し、それが四大宝玉時代を通じた紫玉王国の消極性に繋がっている。また、首都クレタは山間の盆地にあり、非常に閉鎖性が高かった。紫玉王国王がクレタを出て王国内部を広く行幸したという例はほとんど無い。紫玉王国歴代王はクレタを統治し得れば王国全体を統治し得ると考えたいたのだ。それは必ずしも間違いではなかったが、それも紫玉王国の外向的な発展を、結局は阻害したと言えよう。しかも、あらゆる権力がクレタに集中していたがためにクレタの陥落が即、紫玉王国の崩壊に繋がりかねないという危険性も抱えることにもなった」


チェルナはそれを踏まえた上で、国力的にも戦力的にも比較にならないほど弱小であったはずの聖戦軍が紫玉王国に勝利できた理由についてこう述べている、


「紫玉王国はネサイエス大陸群及びクレタの、防衛向きであるという特徴に頼り、軍事力を限界以上に削減してしまった。巧みな外交政策でネサイエス大陸群内部を安定させたこともこの傾向を助長した。一方、聖戦軍はネサイエスに程近いベラグール要塞(元々、緑玉王国がネサイエス大陸群侵攻を想定して建造した)を根拠地としており、ネサイエス大陸群の地政学的な防衛利点を無効化出来た。この事とクシー・ルシメオスの果断な判断が結びついた時、聖戦軍に勝利への道が開けたのだった」


 聖戦帝国はネサイエス大陸群を制覇しただけでは満足せず、天下統一に乗り出し、遂にはそれに成功するわけである。


「聖戦帝国にはベラグール要塞という侵攻のための橋頭堡がすでにあった。これとネサイエス大陸群が本来持っていた潜在的国力が結びつけば、天下統一は十分に可能であったと言える。また、聖戦帝国の実質首都は天下統一戦役当時、本来軍事拠点であったベラグール要塞であった。皇帝ガイア以下、聖戦帝国首脳は戦争に継ぐ戦争によりほとんどクレタに帰る暇も無かったからだ。故に聖戦帝国は紫玉王国が陥った、首都クレタの地政学的特長が呼び込む閉鎖性、内向性から逃れる事が出来たと考えられる。実際、天下統一最終局面で緑玉王国にベラグール要塞を奪還された際、クレタの帝国議会は停戦論を強固に叫び、戦役は危うく頓挫してしまうところであったのだ。これなどはクレタが地政学的に持っている閉鎖性、内向性の発露であると言えよう」


 チェルナはこの論文の総論で、現在の聖戦帝国がクレタ及びネサイエス大陸群の地政学的欠点に縛られてしまう危険性に触れ、こう警告している。


「帝国が首都を置く場所はクレタ以外あり得ないという考え方は危険である。黄金帝国時代にはクレタからでも帝国を統治出来たかもしれないが、既に黄金帝国末期、首都での皇帝後継を巡る争いによって地方監視の目が緩んだことが大崩壊を呼び込んでいる。黄金帝国建国時より現在は人口も三倍近くになっている。特にティティス大陸群の人口増は著しい。クレタという本質的に閉鎖的な街を首都にすることにより、帝国全土へ目が行き届かないような事態が起これば、帝国は黄金帝国よりも遥かにあっさりと崩壊するであろう」




 チェルナの論文は、やや論の展開が強引だという欠点はあるものの、その鋭い分析と論理の独自性が高い評価を受けることになる。結局彼女はこの論文が決め手となり、エブリス大学首席卒業の栄誉を受けたのだった。


 後年、キャロルはティティスのロークシティアも聖戦帝国の首都とする決定をした。二つの首都を半年毎に移動しながら帝国を統治することにしたのである。これなどはチェルナの思想をそのまま具現化したものだと言えよう。




 チェルナは上機嫌だった。彼女の卒論は何とか提出期限に間に合ったのである。これで余程のことがない限り彼女の卒業は確定的だ。


彼女の上機嫌には切実な理由もある。もしも今回卒業を逃してしまうと、後一年分の学費は自分で払うはめになるところだったのだ。彼女の学費免除は今年で期限が切れてしまうところだったのである。彼女の経済状態では、エブリス大学のかなり高額な学費は払えない。つまり、大学を辞めなければならないところだったのだ。


論文を提出した帰り、キャロルとチェルナは大学のキャンパスを歩いていた。ニコニコと楽しげなチェルナはキャロルの少し先を踊るように歩いている。オレンジ色のロングスカートと山吹色のセーター。クリーム色の長いマフラーの端が彼女の気持ちを現すかのように跳ねた。


まだ春と呼ぶには早い。温暖なクレタでも朝夕には吐く息が白くなる。その硬質な空気の中に、それでもやはり真冬よりは柔らかくなった日差しが光の粒を散らしている。そんな中を行くチェルナは、キャロルには一足早く訪れた春の使者のようにも見えた。


春が来ればチェルナは卒業する。エブリス大学から、二人が出会ったこの場所から居なくなってしまう訳だ。


チェルナがまた歩を早め、二三歩キャロルから離れた。キャロルは思わずあっと声を上げた。


「なに?」


チェルナが首だけひねって振り向く。彼女の長い黒髪が光を反射しつつ舞った。


キャロルは少し迷って、それから、言った。


「大学を卒業したらどうするの?」


チェルナはキョトンとした。


「なんで?」


「いや・・・」


言いよどむキャロルに眉をひそめながらも、チェルナは彼の質問に答えるために何事か考え始めた。


「そうねぇ。どうしようか迷ってるのよ。大学に残れって言ってくれる教授もいてね」


 不意に、キャロルが足を止めた。チェルナはまたキャロルから二三歩離れてしまう。つんのめるようにして停止するチェルナ。


「なんなのよ」


 濃緑色ハーフコート。足元は白いスニーカー。チェルナがいつもそのセンスを批判して止まない、野暮ったい格好。キャロルはいまいち外観に気を使いたがら無いのである。


 まだ新緑には早く、キャンパスの並木には葉がすっかり無かった。格子模様に落ちる枝の影。その中に包まれるようにして、キャロルはぽつんと立っている。チェルナは思わず身体ごとキャロルの方に向き直った。


 キャロルはチェルナのほうを見ていた。いつものように微笑を浮かべてはいたが、その笑顔はどこかいつもとは違っているような気がした。なんだか儚いような、脆い様な、そんな笑顔だった。チェルナは、そんなキャロルを見たのは初めてだった。


 キャロルは白い息と共に言葉を吐いた。


「卒業しても・・・」


 少し風が吹いてキャロルの前髪が揺れた。


「僕のことを助けてくれる、よね?」


 木の枝が揺れて、影が複雑に絡み合い、キャロルの輪郭を不鮮明にする。その中で、キャロルはチェルナのことを見ていた。


 チェルナは戸惑った。戸惑いながら、自分でも何に惑っているのか分からなくて、それでまた混乱する。キャロルの微笑を見ていると、なぜか自分の体温が上昇するような気がする。そして・・・。


 チェルナは、卒業してからのことなど決めてはいなかった。彼女はいつも今を生きるのに全力であった。というか、考える余裕など無かったのである。だからキャロルにいきなり問われても答えられるものではなかった。


 しかし、この時のキャロルは少し変だった。もしもここで否と答えれば、どこかへ行ってしまって二度と会えなくなるような、そんな雰囲気を漂わせていた。


 考えてみれば、キャロルは皇帝である。その彼と、チェルナが気軽に会えてしまっているというのは、実は相当に異常なことなのである。もしも卒業後、チェルナが一般企業に就職すれば、チェルナとキャロルの縁は切れてしまうだろう。キャロルは今現在すでに多忙で、チェルナだって就職すれば、性格的にそれに対して全力で取り組んで他を省みなくなるはずで、そうすれば二人はまったく接点を失うことになる。


 当たり前のように二人が並んでいるという今現在は、実は確固たる現実ではなく、脆くて儚い偶然の中に浮かんでいるに過ぎないのだ。エブリス大学に入学し、出会ったという偶然。たまたま気が合ったという偶然。そんな偶然が均衡して今の二人を支えている。


 もし、チェルナがエブリス大学を卒業してしまえば、その偶然の一つが失われることとなるわけだ。それは、二人が少し離れてしまうことを意味しないだろうか。そして、放って置けばどんどん離れていってしまうのではないだろうか。


 チェルナはキャロルを見詰めた。どこか心細いような、そんな笑顔。


 自分も、今もしかしたらあんな顔をしているのかもしれない。彼女はそう思った。


 以前から、チェルナは漠然と感じていたのだ。自分は、彼と少しどこかが似ていると。同じく親がいないとか、年齢が同じだとかそういう表面的な部分以上に、どこか根本的な部分に共通点がある。


だから、そう、なんとなく気になるのだ。放って置けなくなる。


 チェルナは頭を軽く振った。それで自分の頭の中からもやもやしたものを追い出すと、大股で跳ねるような歩調でキャロルの目の前にまで近付いた。


「分かったわよ。あんたの秘書を続けてあげる。別に他にやりたいこともないからね」


 キャロルは微笑んだ。それがさっきまでとは明らかに異なる暖かさを持っていることに、チェルナは安心した。




 キャロルの養母、前摂政アロルド・ケドネスの妻ソフィア・コルネリアが倒れたのは、降臨歴四七八五年の五月のことである。病状は急速に悪化し、六月にはほぼ危篤状態となった。


 ソフィアはこの年、六十二歳であった。聖戦軍創立時のメンバーの一人であり、一時はクシー・ルシメオスの副官を務めていたこともある。アロルドと結婚してからは政治軍事の第一戦から退き、特にキャロルの養母となってからは彼の養育に全てを注いでいた。


 キャロルは、ソフィアが倒れてからというものの明らかに常の落ち着きを失った。何しろ彼にとっては実の母以上に母である女性なのだ。あまりに狼狽ぶりがひどいので、チェルナは閣僚や官僚と諮ってしばらくキャロルを政務から外して看病に専念出来るようにした。いても役に立たない、と断じた訳である。これは冷たいようだが、混乱した状態のまま政務において間違った判断を下されては帝国全体が混乱してしまう以上やむを得ない措置であった。


そのかわり、チェルナはヘレナをキャロルの元に行かせた。ソフィアとキャロルの世話をさせ、同時にキャロルの様子を報告させるためである。もちろん、キャロルが一人では心細いだろうという気遣いもあった。


「ヘレナ、キャロルを助けてあげて」


 ヘレナは大きな瞳を細めて、誇らしげな笑顔を見せた。


「お任せ下さい!お姉さま!」


 へんな娘だな、とチェルナは自分のことを棚にあげて思うことがある。ヘレナは政府高官であるファビオス・ベルナーの娘であり、チェルナの偏見からすれば、もっと高飛車で傲慢な娘であっても良いはずだ。しかしヘレナは、無邪気ではあるものの、まったく裏表が無い素直な娘であった。他人に奉仕することに喜びを感じる質らしく、キャロルは兎も角、明らかに身分が低いはずの(聖戦帝国に身分制度は無いのだが)チェルナにも嬉々として尽くしてくれる。


 今やチェルナにとって数少ない友人の一人であり、いつの間にか彼女にとって最も信頼出来る他人の一人となっていた。でなければこんな時に、傷心のキャロルを見守るという役目を任せるはずも無い。


 チェルナは報告を受けていたのである。ソフィアの病状。その、見通しを。多分、キャロルは大きなダメージを受けるだろう。


「しばらく帰ってこないかもよ。あいつ」


 ヘレナが行き、一人減った秘書室。チェルナとエスパーナの二人だけがいた。エスパーナの、警備や移動の手配等の仕事はキャロルがいない以上当面無くなり、彼はとりあえずチェルナの仕事を手伝っていた。そのエスパーナに珍しくチェルナは話しかけた。エスパーナは慣れない書類整理に細い眉を顰めながら、顔は向けずに声だけで答えた。


「お前は行かなくていいのか?」


 チェルナはデスクに額を付ける様な格好をした。仕事がさっきから手につかないのだ。


「・・・行っても仕方がないじゃない」


「キャロルを慰めてやる役目はお前の仕事だろう?」


 む・・・。チェルナは自分の意思に反して赤くなる顔を隠すように腕で囲った。


「なんでよ!」


「ヘレナちゃんじゃ荷が重いよ。キャロルはあれで繊細なんだ」


 エスパーナの癖に分かったようなことを。チェルナはテーブルに突っ伏した姿勢のまま小声で毒づいた。しかし、大きな声を出さなかったことが、図星を突かれたことを表していた。


 キャロルは悲しむだろう。悩むだろう。苦しむだろう。もしかしたら絶望してしまうかもしれない。彼にとって、二度目の母親の喪失となるのだから。彼を、慰めてやる必要があるのではないだろうか。


 しかし、彼女は行くことが出来なかった。


 キャロルが抜けた皇帝府を支えるには、チェルナの手腕が不可欠であったからだ。皇帝の周辺に何が起ころうとも、聖戦帝国は泰然と存在し続け、皇帝府は帝国の行政府としてその運営を営々と続けなければならない。キャロルを皇帝としての責務から解放してやるには、誰かが当面その代わりを務めなければならず、それが出来るのもチェルナだけだったのである。


 当然だが、閣僚、官僚は無能ではない。特に当時の閣僚はヘレナの父ファビオスのように、未だに聖戦帝国創立時からの功臣である者も多く、キャロルの代わりとして功績といい威厳といい、適当な人材には不自由しないはずだった。しかしながら、大臣たちは何れも自ら進んでその役を務めようとはしなかったのである。これは、彼等が幼いキャロルを皇帝として擁立しようと決めた時からの不文律のようなものであったらしい。キャロルの代わりを務めることが出来るのは唯一、摂政アロルドあるのみという訳である。しかしながらこの時、当然、アロルドは妻の看病に掛かり切りになっているわけだ。仕方が無くチェルナは、表向きはキャロルの言葉を伝えるという形で、キャロルの代わりを務めることにした。本来であれば、これは閣僚官僚の反発を呼ぶ筈のことであったのだが、この時チェルナは既に皇帝府内部で相当な信頼を得ており、逆に彼女がその役を務めてくれることを歓迎する意見さえ聞かれた。余談だが、この時チェルナが結果的に「皇帝の言葉を秘書が代弁する」という前例を作ったことが、帝国末期に皇帝秘書室が権力を壟断することの根拠となってしまうのである。


 そして、チェルナにはそれ以外にも行けない理由があった。


もしも行ってしまえば、自分は聞きたくなってしまうだろう。


 ソフィアが、何を知っているのか、知っているのかどうかを。


 チェルナは、ソフィアと初めて会った時の彼女の狼狽振りを覚えていた。初対面のチェルナを見て、ソフィアは愕然としていた。あの反応は明らかにおかしかった。そして呟いた、あの名前。


「ミヘルナ様・・・」


 チェルナが、その存在を知ってから、心のどこかで自分の母なのではないかと疑い続けている女性。ソフィアは確かにその名前を呼んだ。


 あの人は、何かを知っている。チェルナはあれから何度と無く暁の宮に足を運び、ソフィアと差し向かいでお茶を飲む程、彼女とは親しくなった。しかし、あれからソフィアはミヘルナの名を一度も口にすることは無かった。明らかにその話題を避けているそぶりが見られ、チェルナの方もそれをあえて口にすることは憚られたのである。


 本音を言えば、チェルナもソフィアの傍に駆けつけたかった。ソフィアは良い女性であったし、歳は離れていたが友人と言っても良い関係を結ぶ事が出来ていた。キャロルの侍女になる際にも彼女に口利きしてもらったものなのだ。そして、彼女はキャロルの養母だった。会って、最後の別れを言いたい。


 しかし、会えば自分はきっと問い詰めてしまうだろう。


「あなたは、何を知っているのか!」


 と。


 しかし、死に行く彼女にそんなことをしたくは無い。彼女は苦しむだろう。傷心のキャロルに、苦しむソフィアの顔など見せたくなかった。


 だから、行かない。そう決めた。しかし、そんな心理状態で仕事など手につくはずも無かったのだ。そんなチェルナを見ながら、エスパーナは苦笑した。この暴走馬鹿女でも人並みに、葛藤に苦しむ事があるらしいな。


 その時、ドアが開いた。思わずチェルナは顔を上げた・・・。




 ソフィアは小柄な女性で、大きなベッドに横たわるとその中に埋もれてしまうように見えた。すっかり白くなった髪。顔には深くしわが刻まれている。まだそんなに老け込むほどの年齢ではないはずなのだが、皇帝の養母というのはやはりそれだけの重責だったのだろう。キャロルは彼女の手を取りながら、そう理解していた。


 キャロルは既に覚悟を決めていた。医師からの説明で、ソフィアの病状が回復不能であるほど進んでしまっていることを知ってしまったからだ。しかし、それでも一縷の望みを掛けて必死の看病を続ける。母を失うと聞いて、奇跡に訴えてでも運命を捻じ曲げたいと願わない子がどこにあるだろうか。


 しかし、日増しにふくよかだった頬が削げ、蒼白な顔に時折苦痛の表情を浮かべるソフィアを見ていると、早く彼女を苦しみから解放してやりたいという矛盾した思いも浮かぶ。


 失う。自分は本当に、今度こそ本当に母を失ってしまう。キャロルの頭の中をその想いが巡っていた。


 実の母である、クシー・ルシメオスのことは何一つ覚えていない。何しろ、満一歳と少しまでしかクシーはキャロルの傍にはいなかったからだ。しかも記録によれば、彼女はキャロルを出産してすぐに半年以上、彼を置いてティティス大陸群に遠征し、緑玉王国との最終決戦に臨んでいる。つまり、合計すればほんの数ヶ月しか彼の元にいなかったということになるのだ。そんな相手に母親であるという感情を抱けと言われても無理というものだ。


 それに比べてソフィアは、キャロルの養母になってから二十年もの間、ずっと傍にいてくれたのだ。笑顔で、時には怒り顔で。未だ若かったころのソフィアは活発でありながらかなりのドジで、彼女が何かをやらかす度にアロルドと一緒にキャロルも笑い転げたものだった。


「キャロル?」


 思わず顔を上げた。ソフィアが目を覚ましてキャロルのことを見上げていたのだった。


「あ・・・」


 思わず強く彼女の手を握り締めてしまったらしい。


「痛かった?ごめん」


「いいのよ。キャロル。それよりも涙をお拭きなさい」


 そう言われてキャロルは自分が泣いている事に気がついた。ソフィアに心配を掛けまいと、ずっと堪えていた涙であったのに。


 キャロルは右腕で涙を拭った。一度溢れ出せば、それは止め処なく流れ続け、容易には止まらなかった。


 ソフィアはそんなキャロルを見上げながら、弱々しくも優しく微笑んでいたが、やがて、そっと呟いた。


「・・・私に、何か聞きたい事があるのではなくて?」


 キャロルは愕然とした。


「・・・良いのですよ。分かっています。もう私は長くありません。あなたに、何もかも伝えておきたいから」


 キャロルは未だ涙が止まり切らない目でソフィアを見詰めた。自分の母。そして同時に、全てを知っているはずの女性の姿を。


 図星であった。キャロルはソフィアに聞きたい事があった。それはある時から延々と抱き続けていた疑問。そう、自分の両親。ガイア・ラリオスとクシー・ルシメオスのことであった。


 ・・・二人は、生きているのではないですか?


 キャロルはそう問いたかったのである。


 聖戦帝国初代皇帝、偉大なる剣舞帝ガイアとその妻クシーはまったく同時に、降臨歴四七六四年四月、謎の病死を遂げている。病名は公表されず、死亡時間も漠然としてした。そのため、その死には根強い異説が幾つも存在し、その中に、彼等はアロルドを初めとする聖戦帝国幹部に放逐されたのだという説があったのだ。


 キャロルはその説を目にした瞬間から、二人が実は生きているのではないかという根拠のない思いに取り付かれ、頭から消し去る事が出来ずにいたのだ。


ソフィアとアロルドならば事実を知っている筈であった。しかし、キャロルはそれを二人に問うことが出来なかった。


二人はキャロルに、惜しみない愛を注ぎ続けてくれている。その彼らに、本当の両親の事を尋ねる事は、侮辱ではないかと思えたのだ。


更に、ガイアとクシーはアロルドに放逐されたのだという噂を忘れるわけにはいかない。アロルドたちにこの事を尋ねるというのは、アロルドを疑っていると告げるようなものであったのだ。


キャロルは葛藤のはざまで沈黙した。ソフィアはそんなキャロルを見ながら、全てを洞察したかのように、微笑んだ。


「あなたが、ガイア様とクシー様の事を知りたいと欲するのは、自然な事ですよ。キャロル。あの方たちは、あなたの本当のご両親なのですから」


ソフィアはキャロルの手を、自分から強く握った。


「私は、あなたを欺いてきました」


ソフィアのやつれた顔に苦悩の色が浮かぶ。


「私はその報いを受けるのです。だけど・・・」


「おかあさん!」


キャロルの声は悲鳴のようだった。


「何を、欺いたと言うのですか!」


キャロルはソフィアの手を両手で包んだ。


「あなたが、いつ僕を欺いたというのですか・・・」


「キャロル・・・」


「僕は知っています。おかあさんが僕の事を、本当に愛して下さっていることを。僕の事を、何より大事に思って下さっていることを」


キャロルは背中を丸め嗚咽していた。


「僕はその事を知っています。それで・・・、十分です」


ソフィアは、細い手を伸ばしてキャロルの背中を撫でた。


「ありがとうキャロル」



 ソフィアの瞳から、涙が一滴流れた。


ソフィアが死んだのはそれから僅か数時間後の事であった。


最期は安らかであった。それだけが、キャロルの心を僅かだけ慰めた。


ソフィア・コルネリア。彼女は結局、何も語らずに死に、彼女だけが知っていた歴史の真実の幾つかはこの時、永久に失われてしまうことになる。


キャロルはふらつく足で、すすり泣きと嗚咽に満ちたソフィアの寝室を出た。


喪失感、そんな言葉では計り知れないような、暗黒色の何物かが彼の心を鷲掴みにし、激しく揺さぶっていた。


自分は、もう何処へも行かれない。そんな気がした。母を失った自分は、もはや戻る場所を失った。帰る場所を失った者は、何処へも行くことは出来ないのだ。


キャロルは両手で顔を覆った。視界まで暗くなる。彼は何も見えない状態で、そのまま数歩歩いた。


「危ないわよ、キャロル」


柔らかい感触が彼を押し止めた。


顔を上げたそこに、チェルナの漆黒の瞳があった。


「何をふらふらしているの。しっかりなさい、キャロル!」


キャロルはチェルナに言った。


「チェルナ。おかあさんが、死んだんだ」


「知っているわ」


チェルナは、ヘレナからソフィアが危篤であるという知らせを受け駆け付けたのだが、間に合わなかったのである。


キャロルの心の中から、行き場を失っていた激情が不意に溢れ出した。


「知っているだって?何を知っているって言うんだ?おかあさんは、おかあさんは・・・!」


ぱん!


乾いた音が耳の中に入って来て初めて、キャロルは自分の頬を張られたのだと気がついた。勿論、目の前に立ち、右手を思い切り良く振り切っているチェルナの仕業である。


「目を覚ましなさい!キャロル」


頬を叩かれるなど、それこそソフィアからも受けた事がないような仕打ちであった。流石のキャロルが呆然とする。


チェルナはキャロルの両頬を両手で挟み、鼻が触れ合う近さから彼の瞳に自分の視線を射込んだ。キャロルは、チェルナの瞳が涙で光っている事に気がついた。


「いい?キャロル?」


声も僅かに震えているようだった。


「あなたは皇帝なのよ?帝国は、あなたがいなけれは、一瞬だって存在出来ない。あなたがお母さまの死を悲しむのは勝手だけど、その間、帝国はどうなるの?自分が死んだせいで帝国が揺らぐようなことがあったら、ソフィア様は一体どう思うと思うの?」


 チェルナは更に顔を近づける。


「強くなりなさい、キャロル。ソフィア様もきっと、そう望んでいる」


 静かに、チェルナは自分の唇をキャロルのそれに合わせた。


 顔を離すと、チェルナはキャロルの顔を改めて観察し、それから不意に身体を翻して、歩き去って行った。




 降臨歴四七八五年八月。ソフィアの葬儀が行われた。


 とはいっても、前摂政の妻にして皇帝の養母のものにしては実に簡素な葬儀であった。参列者は故人と親しかった者に限定され、彼女がこよなく愛した暁の宮の一室で行われた別れの儀式に集まった者は。キャロルを始めとして僅かに五十名程であった。


 チェルナも参列していた。というより、彼女はこの葬儀を実質的に取り仕切っていたのである。キャロルが喪主であるので、彼の秘書としては当然の職務であったのだが。


 参列者は当然だがほとんど政財界のVIPであったので、移動や警備、マスコミ対策などの手配が必要だった。それ以外にも様々な雑用があったが、そんな程度はチェルナには児戯にも等しい仕業だと言えた。それでも、チェルナはこの時、やる事がある事がありがたかったのである。


 花の中に沈むソフィアの姿を見ると、色々な感情で身体が内側から張り裂けそうになったからだ。死ぬ前に、もう一度親しく話したかった。あの、やさしい笑顔を見ておきたかった。そして・・・。


 黒い弔衣を身に纏い、チェルナは歩き出した。しっかりしなければ。キャロルはソフィアの死去当日に比べればまだましとはいえ、未だに呆然とした状態だ。自分が、支えてやらなければ。


「失礼」


 不意に、声を掛けられた。チェルナが振り返ったその先で、一人の男性が彼女を見下ろしていた。


 相当な長身である。肩幅も広く、胸も厚い。そして、彼は軍礼服を着ていた。つまり、軍人だ。


「チェルナ・リュート秘書官ですか?」


 濃い目の金髪が顔の半分を隠してしまうほど長かった。細い目もその中から辛うじて覗いている様な状態だ。鼻筋は整っており、顔の造型自体はそれほど悪くない。


「そうだけど」


 チェルナは眉を顰めた。


「そうですか、あなたが・・・」


 なんか、いけ好かない奴だ。チェルナはその男にそういう第一印象を持った。特に理由は無い。しかしその男はなぜだか感嘆の面持ちでチェルナをじろじろと眺めている。


「なに?私は忙しいの。用があるなら早く言いなさい!」


 男は苦笑しながら深々と頭を下げた。


「失礼いたしました。私は、モラム・マイルデン少将という者です。初めてお目に掛かります」


 ?なんで帝国軍少将が、たかが皇帝秘書に対してこんなに謙った物言いをするのだろうか?チェルナは疑問に首を捻ったのだが、次の瞬間、彼の言葉に全身が硬直してしまうことになる。


「リュート・ミヘルナ親王殿下・・・」


 モラム少将の唯でさえ細い目が一層細まった。


 チェルナは、動けなかった。顔面を蒼白にして、モラムの顔を凝視している。彼の口が開き、そこから新たな言葉が生ずるのを期待しているのか、それとも恐れているのか。どちらなのか彼女自身にも分からなかった。


 僅かに数秒。しかし、チェルナの感覚では永遠に等しいくらいの時間、二人は奇妙な緊張をはらんだまま見詰めあった。


 やがて、モラムが改めて深々と頭を下げた。


「・・・今日は、ご挨拶まで。それでは、またいずれ」


 彼は顔を上げると同時に機敏な動作で回れ右をし、早足で歩いて曲がり角へと消えていった。


 足が、震えていた。


「・・・待って・・・」


 声が、出なかった。そもそも、既にモラムの姿は見えない。


「待って・・・」


 渦巻く視界。滴り落ちる汗。チェルナは震えが止まらない肩を両手で抱いた。


「待って!」





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