第5話
ヤスターシェ・ニクロムという男がいた。
聖戦帝国の天下統一戦役において、最後の最後まで帝国を苦しめた人物である。緑玉王国国王ミヘルナの夫。緑玉王国軍最高司令官であり、緑玉王国政府主席も兼任していた。
中背の体格で、押し出しはあまり強くない。黒髪で、顔の造作はごく平凡。物静かな表情は深い知性を湛えていると言われたが、これには権力者への世辞が幾分か混じっていたであろう。公的な場でも額を隠すようにしたバンダナを外さなかった。額に、大きな傷があったためだといわれている。
彼は降臨暦4763年、聖戦帝国軍との決戦に挑んでいる最中、国内の反動派貴族の放った暗殺者の凶弾に倒れている。
歴史上、彼ほど謎が多い人物も、そうはいない。
生年、出身地からして不祥である。自称を信じれば享年35歳という事になるが、はるかに若く見えたという証言もある。
彼の死後、暇な歴史家が世界中の戸籍名簿を調べ、ヤスターシェの出身地を探った事があるのだが、遂に発見できなかったという逸話もある。当時の常識で考えれば、ニクロムは彼の父の名ということになる。しかし、調査の結果彼と繋がりのあるニクロムという人物は遂に発見されなかった。ヤスターシェ・ニクロムという名はおそらく偽名であろうというのが通説となっている。言葉にはイアナーサなまりがあるとも、ティティスなまりが見られるとも言われ、この方面から彼の出身を追求する事も出来なかった。
歴史上、彼の経歴は唐突に始まる。
降臨暦4752年、緑玉王国では大規模な反乱が勃発していた。食料価格の高騰に対する民衆の不満に、宿敵であったエーテル王国が工作員を送って火を付けたのである。
国境近くの反乱を鎮圧するために中央軍が首都を留守にした隙に、10万の反乱軍が首都ロークシティアを包囲。しかも、その攻囲戦の最中に国王イシリオが死去。首都を守るのは近衛騎士団1万のみ。緑玉王国は存亡の危機に立たされた。
イシリオ王の長女であったミヘルナがこの混乱の中で即位する。この即位は緑玉王国政界の少数派によるクーデターだともいえた。しかし、中央軍を率いていた太政大臣グラズリー・アリルはこれに不満を持ち、言を左右にして首都救援をサボタージュする構えを見せる。
ミヘルナは首都と心中するか、即位を取り消してグラズリーに頭を下げて救援を頼むか、それとも自らの手で首都を解放してみせるか、という非常に難しい選択を迫られる事になった。
ここに、突然登場するのがヤスターシェである。
ミヘルナの自伝によれば、彼は大胆にも彼女の寝室に潜入して、首都解放の策を献じたのだという。ミヘルナはその策を採用。ヤスターシェと近衛騎士団長だったヒューマリオ・ナスティはその作戦を元に反乱軍の撃破に成功。首都を解放した。
独力で首都を解放したミヘルナの権威は強化され、逆にグラズリーの権力は低下する。これが後にグラズリーの反乱へと繋がる訳である。
ヤスターシェ・ニクロムはまた、歴史上の評価が正反対に二分される人物である。
歴史上希に見るほど優れた戦略、戦術家であった事は疑い無い。彼が指揮した七年間、緑玉王国軍は常勝不敗であり続けた。それは、聖戦帝国を相手にしてさえそうであったのである。緑玉王国軍が聖戦帝国軍にエイケルディア会戦で敗れるのは、会戦の終盤にヤスターシェが凶弾で昏倒してからのことである。
政治家としても非常に有能であった。彼の行なった政策の多くが聖戦帝国に受け継がれたほどである。特に、ティティス大陸群とネサイエス大陸群を繋ぐ航路に多大な費用を費やしてまで多くの中継拠点を築き、それを民間に無料で解放した事は、長くティティス大陸群を悩ませていた食糧問題を遂に解決させたとして、現在でも高く評価されている。
しかし、内政政治家としては非常に優れていた反面、外交面では失敗したといわれている。
聖戦軍がベラグール要塞を緑玉王国から奪取した際、奪還戦を行なわず、逆に聖戦軍と不可侵条約を結んで要塞占拠を事実上黙認した。これは、当時緊張が高まりつつあったエーテル王国との対決に集中するために後顧の憂いを断つという意味があった。しかし、この不可侵条約は結果的に聖戦帝国の成長を助けてしまう事になるのである。
紫玉王国、紅玉王国が聖戦帝国によって滅ぼされると、残る青玉王国は緑玉王国に同盟と軍事援助を要請した。しかし、ヤスターシェは緑玉王国には遠征能力が無い事を理由に、これを断った。これにより青玉王国は滅亡。緑玉王国は孤立する事になってしまう。
降臨暦4761年、緑玉王国はベラグール要塞を奪還した。聖戦帝国艦隊の侵攻拠点を奪い、聖戦帝国のティティス侵攻を未然に防ぐ意図があったこの行動も、逆に侵攻を呼び込む事になってしまう。
4762年、ヤスターシェはアテネシア会戦で聖戦帝国軍を打ち破り、聖戦帝国はティティスから撤退した。聖戦帝国議会では停戦論が湧き起こり、一時は多数派を占めたほどである。この時、緑玉王国から何らかの働きかけがあれば、停戦講和が成ったという歴史家は多い。しかし、ヤスターシェは積極的な行動には出ず、結局皇帝ガイアの「第二次聖戦演説」によって第二次ティティス侵攻が決定されてしまうのである。
「悲運の大政治家」という評価がある一方で、「時代の流れを読み切れなかった、所詮は戦争屋」という評価もある。どちらが正しいのか、論争は未だに決着を見ない。
キャロルは多忙だった。
どれくらい忙しかったのかと言えば、三日で五時間しか寝ていないほど多忙だった。
目の下にくまを作った皇帝陛下というのも、歴史上あまり見られないと思う。髪の毛はぼさぼさ。実は風呂にもろくに入っていない。
何がそんなに忙しかったのであろうか。まぁ、一言では言えないほどいろいろな事情が重なった結果だった。
彼は降臨暦4784年に名実共に聖戦帝国の最高権力者になっていた。養父であり、摂政でもあったアロルド・ケドネスが引退してしまったからである。アロルドはこの年64歳。まだまだ引退する年ではない筈だが、痛風の悪化を理由にあっさり引退してしまった。ただし、キャロルの養父であることはそのままだったので、暁の宮にはそのまま住み続けた。キャロルの見る所、彼は確かに痛風もちだったが、以前に比べて病状が酷く悪化したかどうかは疑問であった。彼は以前から政治家からの引退を熱望していたので、病気はたんなる口実に過ぎなかったと思われる。
アロルドが引退したのは、キャロルが一人前になったと判断したからであろう。先のプロト大陸群での反乱の鎮圧と事後処理は世論にも高く評価され、キャロルは帝国国民から「本当の皇帝」として認知されつつあったのだ。
アロルドとキャロルの関係は大変良好だったが、歴史上、政治を実際に取り仕切る摂政と、実力を付けてきた皇帝が対立してしまった例は数多い。本人達にその意図が無くても、その周りが反目しあうようになれば同じ事だった。アロルドの早い引退の決断はそれを防ぐ意味もあったのであろう。まぁ、幸せそうに日がな一日盆栽の世話をしている様子を見ると、単に本人が怠けたかっただけなのではないか?と疑いたくなるキャロルの気持ちも分からないではない。
皇帝の業務は多岐に渡る。聖戦帝国の皇帝とは立法を除いた行政、司法、軍事の三権の長なのである。
行政機関である皇帝府の長として各省庁の官僚を統制して実際の政治を行なう。具体的にキャロルが何をしなければならなかったのかというと、果てしの無い会議、官僚閣僚から果てしの無い説明を受け、それに対していちいち指示を出し、果てしの無い文書の確認、また果てしの無い会議…、という感じで、とにかく果てしが無いのである。
皇帝裁判所は、特に重要な裁判を皇帝自ら裁決するものであったが、これも具体的には何をするのかというと、果てしの無い会議、実際に裁判を行なう判事からの果てしの無い説明を受け、果てしの無い文章の確認、また果てしの無い会議、最後にようやく裁判所で判決を言い渡す、とまぁ、これも果てしが無い。
帝国軍大元帥であるからには、軍関係の仕事もある。これも具体的にはどのようなことをするのかと言えば、やっぱり果てしの無い会議、軍官僚からの果てしの無い説明を受け、果てしの無い文章の確認、たまには演習の立会、閲兵、また果てしの無い会議…。
これに加えて、皇帝は聖戦帝国議会議員でもあるのである。これも何をやるのかと言えば、果てしの無い会議…(以下略)。
政治というのは果てが無いものなのである。
これでは時間がいくらあっても足りない。しかもこれに加えて彼にはエブリス大学での学業も疎かにしなかった。流石に毎日大学に通う事は出来なくなっていたが、それでも出席日数は平均以上の数値を示した。政務の合間を見て真面目に勉強もし、テストの成績もそれなりに優秀だったのだから立派なものだ。
挙げ句に、彼はチェルナが気紛れにもってくるアルバイトもきちんとこなしたのだから恐れ入る。しかも、実質的にはチェルナに搾取されてただ働きだというのに。しかしキャロルに言わせれば、これは僕の気晴らしだということになるのだが。
そんなこんなで、キャロルはそのころ滅茶苦茶に疲れ果てていた。その日も、エブリス大学の教室で思わず居眠りしていた所をチェルナにたたき起こされたのだった。
「なんでそんなにボロボロなのよ」
チェルナはキャロルの首を猫の子のように摘み上げつつ言った。
チェルナ・リュートはこの年21歳である。流れるような黒髪と溌剌と輝く漆黒の瞳。凛とした美貌は凄みを増しているようにすら思える。ただし、中身は変らない。
「まぁ、いろいろとね…」
「ふ~ん」
先日彼女の持ち込んだアルバイト、冷凍食品倉庫の在庫整理で、零下40度の中を右往左往させられたことがキャロルの疲労に一役買っていることなど考えもしないのである。
「あんたがあたしより忙しいとも思えないんだけど、まぁ、いいわ。それより、今夜は手伝ってくれるんでしょう?」
「ああ」
キャロルは短く答えた。彼は今晩、例によってチェルナが毎晩ウェイトレスに出ている居酒屋の模様替えを手伝うという約束をしていたのである。そのために彼はこの早朝に会議を前倒しし、おかげで余計に寝不足だったのだ。
キャロルは気晴らしだと言うが、エスパーナが見る所キャロルの疲労の半分くらいはチェルナにこき使われていることに起因するのではないかと思えるのだが、キャロルは余程都合が合わない時を除いてチェルナの頼みを断らなかった。もっとも、彼は非常に人が良く、他人の頼みは断らない質であり、エスパーナも何度かキャロルに無茶なことを依頼しているので、一概に人のことは言えない。
キャロル・ガイアはこの年21歳。父親譲りの透けるような金髪をこの時はかなり短くしていた。手入れをする気力が無かったからである。彼の風貌は非常に女性的で、父よりも母であるクシー・ルシメオスに似ていた。ただし、目の色はエメラルドグリーンでこれも父譲りであった。
机に突っ伏すキャロルを見て、さすがに良心に咎めたのか、チェルナは少し考え込んでから言った。
「仕方が無いわね。今日の用事が終わったら精の出るものを御馳走してあげるから、元気出しなさい」
キャロルは鈍くうずく頭でやや驚いた。チェルナが他人に御馳走してやるなどと言うとは。もっとも、これを額面通りに信じて良い物か?キャロルは疑ったが、口ではこう言う。
「ありがとう、それならがんばらないとね」
チェルナは満足そうに大きく頷いた。
チェルナが14の時から働いているという居酒屋は、クレタの新市街の中でも古い繁華街の一角にあった。石造りのビルの一階で、小奇麗な店だ。カウンター席が10とテーブルが4つの小さな店で、来る客は大概地元の常連という、アットホームな店である。
マスターは痩せて小柄な非常に善良そうな顔つきをした男であり、実際顔だけではなく非常に善良である。年齢を五つサバ読んで面接に来たチェルナを何も言わずに雇い、今に至るまで雇い続けていることからもその一端が伺えよう。彼は最初にチェルナがキャロルを連れて来た時にはあからさまに肝を潰したものだが、今ではすっかり慣れたらしい。キャロルのことをキャロルの求めに応じて「キャロル君」と呼ぶ。
「すまないねぇキャロル君。どうしても人手が足りなくて。こんな遅くに迷惑じゃなかったかい?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「遠慮無くこき使ってやってよマスター!こいつ、力持ちだから!」
チェルナはキャロルの背中を強く叩いてみせた。
店のカーペットが汚れてしまっていたので、カーペットを張り替えるのである。ここは、昼は食堂でもあるので、営業時間が終わった深夜にしかこのような作業が出来ないらしい。つまり今は深夜だった。キャロルはそれ以前にチェルナに命ぜられて新しいカーペットや接着剤、ゴミ袋や掃除用具などを買い込んできていた。なぜキャロルが買い物に行かされたのかというと、チェルナとマスターは店を開けなければならなかったからだ。
店を休んでやればいいのに、と、キャロルが言うと、チェルナは鼻で笑って言った。
「一日でも店が開かないと、毎日通ってくれる常連さんに悪いじゃない!」
そういうものか、キャロルは納得しかけたのだが、マスター曰く。
「僕は休もうかって言ったら、チェルナ君が反対したんだ。バイト代が減るからじゃないかなぁ」
なるほど。キャロルは納得した。
テーブルを表に担ぎ出し、カーペットを剥がし、掃除をし、新しいカーペットを採寸して切り、接着剤で貼り付けて行く。作業は主にキャロルが行なったが、指揮するのはチェルナだ。彼女は建設現場で何度も働いており、このような内装工事にも詳しかったのである。
「助かるよ、業者に頼むと高くてね」
「まかしといてよマスター!…でも、ただじゃないわよ」
「分かってるって」
マスターが金を出しても実際に作業しているキャロルには一円も入らないだろう。キャロルにもそれは分かっていたが、別に不満も無い。むしろ、カーペットの張り替え作業がなかなか面白く、いい気晴らしになったと喜んでさえいた。もっとも、こんなに深夜まで働いてしまうと、明朝の政務にしわ寄せが来る訳で、結局疲労が増えてしまうわけなのだが。
キャロルはまじめすぎるのである。かつて、黄金帝国の皇帝の中には「予は、政治は好かぬ」と言い残し、後宮から出てこなくなってしまった者もあった。しかし、そんな皇帝の治世でも、世の中は立派に動いていたのである。キャロルがもう少しずぼらであっても世界の誰も気が付かなかったであろう。
そもそも、彼の養父アロルドからしてもう少しいい加減だったものだ。彼は摂政であったから、つまりは幼いキャロルの政務全てを代行しなければならない立場であったのだが、自分がいてもいなくても構わないと判断した事例は平然とすっぽかした。つまらない会議などでは幼児だったキャロルを玉座に据えておいて、自分は平然と趣味の釣りに出掛けてしまうのである。それでも彼は名政治家として現代でも非常に高く評価されている。
もっとも、キャロルは未だ若く、アロルドのような老獪な余裕が無いのは無理からぬ事ではあった。
カーペットの張り替えが終わり、テーブルを再設置し終えたのは明け方であった。マスターとチェルナは多いに満足し、それを見てキャロルも満足した。
さて、数時間後にはまたしても会議が始まる。当然のことながらキャロルは疲労していた。少しでも寝ておかなければ、会議中に居眠りをするという醜態を晒してしまうかもしれない。
「じゃぁ、僕は帰るよ」
「ちょっと、待ちなさい」
帰ろうとしたキャロルの首根っこを引っ掴みつつ、チェルナが妙な笑い方をした。
「約束通り、御馳走してあげるわ!待ってなさい!」
そう言い残すと、チェルナは厨房に消えた。
忘れていた。キャロルは正直に言えば、約束などどうでもいいから、早く帰って寝たかった。今の一時間の睡眠は宝石よりも貴重だと思える。
「そう言えば、営業中からチェルナ君、何か作っていたなぁ。キャロル君にだったのか、あれ」
マスターが訳知り顔で笑いながら言う。
夕方から仕事の合間を見ながらわざわざ自分のために作っていてくれていたと聞けば、キャロルに無下に断るなどという技が出来よう筈も無い。キャロルはカウンターに大人しく座りながら待った。
「何か飲むかい?お礼に奢るよ」
キャロルはお言葉に甘えて(正当な権利ではあろうが)ビールを一杯もらうことにした。肉体労働をして喉が渇いていたからだ。マスターはジョッキにビールを注いで、キャロルの前に押しやった。
キャロルは、酒に強い。それも恐ろしく強い。ほとんど酔わないと言っても良いだろう。そのため逆に普段は酒を嗜まない。これは恐らく母であるクシー・ルシメオスからの遺伝であろう。父ガイア帝は逆に、著しく酒に弱かったからだ。もっとも、クシーは酒豪で、しかも大の酒好きで知られていたが。
随分待たされて、キャロルはその間ビールをジョッキで数杯、水のように空けた。この時、キャロルは自分のアルコール分解能力に自信があったからこそそんな真似をした訳である。
しかし、彼は酔ったことが無かったからこそ知らなかったのである。肉体疲労がアルコールの巡りを早めてしまうことを。
ようやく、チェルナが出てきた。持ってきたのは深皿を一つ。
「さ、食べて!」
それは、形容し難い色をしたシチューらしきものであった。キャロルはたじろいだ。
「なんだい、これ」
「昔、孤児院の院長先生が作ってくれたシチューをあたしがアレンジした物よ!あたしも調子が悪い時、作って食べるの!」
材料の原形が無いくらいに煮込まれている。チェルナも食べているというくらいなのだから、食べても大丈夫なのであろう。キャロルは覚悟を決めて、スプーンを口に入れた。
…美味かった。多分薬草か何かの香りだろう、少しきつい匂いがしたが、それにさえ慣れてしまえば味はかなり良かった。
「ふふん!美味しいでしょう!」
チェルナは胸を張った。
「キャロル君には優しいんだね、チェルナ君は」
マスターが揶揄するような口調で言ったが、チェルナはそれを鼻息で吹き飛ばした。
「当たり前でしょう!キャロルにはまだまだ働いてもらわないといけないんだから!」
キャロルはそんなチェルナを見ながら満足そうに微笑んでいる。彼は皇帝であるくせに、あるいはあるからこそ、些細な、小市民的な出来事に幸福を感じる質であった。彼は質素であり、物質的な欲求に乏しく、そもそも身を焦がすような欲望とは無縁であった。更に言えば彼は楽しいことだけを頭に残せるという幸福な特技も持っており、この時もチェルナの意外な一面が見られたという事に満足し、疲労のこと、朝から始まる会議などのことを瞬間的に忘却していたのだった。
キャロルとチェルナはこの時点ではまだ、恋人同士ではない。本人達にもまったく自覚はなかった。周囲から見ればなかなかに親密な関係に見えるらしいが、キャロルの認識では彼女はあくまで友人であり、チェルナの認識では彼は単にあまりに世間知らずであるので自分が鍛えてやっている、言うなれば弟子、な関係でしかなかったのである。
キャロルは熱いスープを、時間を掛けて食べ終えた。この時、既に事件は始まりつつあったのである。
この時、キャロルはまったく気が付かなかったのだが、そのスープにはチェルナのアレンジで多量のブランデーがぶち込んであったのである。つまり、キャロルはビール+アルコール分過多のスープで、有り体に言って生涯初めて酔っ払いつつあったのだった。もちろん、本人にそんな自覚はない。ああ、なんか身体が軽くなってきた、とチェルナのスープに効果があったことを喜んでいたくらいである。
マスターに挨拶をして店を出ると、夏の朝のぬるい空気がキャロルとチェルナを包み込んだ。空は白み始めている。キャロルはチェルナを送るために彼女と並んで歩き始めた。
最初におかしいと感じ始めたのはチェルナだった。
キャロルは特異体質である。筋肉の出力が通常の五倍くらいあるのである。同時に、反射神経やバランス感覚も人間離れしており、これは父であるガイア帝からの遺伝であるとのことだった。ガイア帝は悪夢のような強さを誇る剣士として知られていたのだ。
その、スポーツ万能などという言葉では括れないような運動神経を有するキャロルが、なんだかふらふらとし、たまに少しの段差で蹴躓いたりするのである。これはおかしい。しかも何かにぶつかるたびに、小さな声ながら悪罵を吐くのである。あの、温厚を絵に描いたようなキャロルがだ。
酔っ払っている?チェルナは新鮮な思いでキャロルを見た。彼女は、既に何度と無くキャロルと酒杯を重ねており、彼が異常に酒に強いことを知っていた。彼女をしてキャロルが酔った姿を初めて見たのである。
チェルナはなんだか嬉しくなった。キャロルはいろいろな意味で浮世離れしており、それはそれでチェルナにとってはもの珍しく、面白いことではあったのだが、時折なんだか非人間的なまでにいい人なので、たまにこういう人間臭い所を見ることが出来ると、ぐっとキャロルが身近に感じられる気がするのだ。
もっと飲ませてみようか、不埒なことを考えたが、流石に自重する。代わりにフラフラする彼の腕を抱えた。
「ほら、しっかりしなさいキャロル!」
キャロルは完全に酩酊状態にあるようだった。
「うん…」
チェルナに意外に重い身体を預けてくる。キャロルの汗の匂いが一瞬意識される。
そういえば、キャロルに全面的に頼られるのは始めてかもしれないな。チェルナは思った。彼におぶってもらったことは既に何度もあるのだったが。
間近で見る、キャロルの顔。目を閉じた、僅かに朱を帯びた端整な顔立ち…。
「ヒュー!」
突然声が掛かって、チェルナは飛び上がりかけた。
「よー、チェルナ!いいねいいね!お熱いことで!」
「珍しいじゃないか、男連れ!」
口笛を交えて揶揄してくるのは、この界隈に夜になると集ってくる若者達である。派手な色合いの服を着、その辺りをつるんで歩き、騒ぐだけの無害な連中だ。チェルナの働いている居酒屋にもたまに来るため、顔見知りだった。
「へぇ、いい男じゃない」
口調は女のようだが男である一人がキャロルを覗き込んで言った。
「ちょっと、駄目よ」
チェルナは慌てた。キャロルは皇帝であり、当たり前だが大変な有名人である。よく顔を見られては正体がばれてしまう可能性があったのだ。
「あら、本当に珍しい。やきもち?」
一斉に周囲で口笛が湧き起こる。チェルナは彼らの間では、意外に身持ちの固い女で通っており、中の何人かは実際に彼女に肘鉄をかまされたことがあるのだった。絶好の復讐の機会だと考えたのである。
「違うわよ!」
チェルナは思わず赤くなった。それを見て、更に周囲ははやし立てる。
と、この時キャロルが目を覚ました。とはいえ、まだまだ半覚醒状態である。
なんだか、自分達の周囲を10人ほどの若者が囲んでいる。それが口々にチェルナに向って何かを言っている。
キャロルはぼやけた頭で危険を認識した。悪者に囲まれている、というような漠然とした認識。チェルナを守らねば、と思った。
キャロルはチェルナから僅かに身体を離した。顔が上がる。
「あら、やっぱりいい男」
先程の女男が言う。
「チェルナはこういう女の子みたいな顔した子が好みなのね、意外だわ」
瞬間、キャロルの体温が上がったことが感じられて、思わずチェルナは彼を見た。キャロルが常に無いほど狂暴な目つきで女男を睨んでいる。まずい!チェルナは本能的に危険を察知した。
キャロルは何を言われてもほとんど怒らない男であったが、一つだけ禁句があるのだった。
「女みたいな顔」
と言われるのを殊のほか嫌っていたのだった。それはチェルナも知っていた。一度そう言ってしまったら、あのキャロルが半日ほど不機嫌な様子を隠さなかったほどなのだ。
彼が普通の状態であれば、単に不機嫌で済むのであろう。しかし、彼は今生涯初めての酩酊状態にあり、しかも周りを囲んだ連中は自分たちに害意を持っていると思い込んでいた。彼の豊かな筈の自制心は常の三分の一以下くらいにまで渇していたのだ。
つまり、彼はこの時、切れてしまったのである。
「なんだと…!」
ただならぬ様子を感じ取り、女男を始めとした若者達が思わず後退する。しかし、どこにでも空気が読めない馬鹿者はいるものだ。一人が揶揄する。
「あれ?どうしたんだい、お嬢ちゃん」
キャロルの、父譲りのグリーンアイが閃光を放った。彼は雄叫びを上げながら愚かな若者に飛び掛かったのである。野生の大型肉食獣もかくやと思われる勢いで。その迫力に若者達は硬直する。その瞬間動き得たのは、キャロル本人を除けば一人だけであった。
「駄目!」
チェルナは振り上げたキャロルの右腕に飛びつき、彼を押さえようとした。
しかし、それはほとんど役に立たなかった。チェルナは自分の足が抵抗無く地面から離れるのを感じる。
「わきゃぁぁぁ!」
チェルナはキャロルの腕に掴まったまま強風下の旗のように振回され、木の葉の様に吹き飛ばされた。
彼女の犠牲は意味の無い物ではなかった。竜巻のように振り上げ、振り下ろされたキャロルの右拳はチェルナの重みで軌道がずれ、愚かな若者から僅かにそれて彼の後ろにある建物の壁に叩き込まれたのだ。
まさに砲弾が着弾したが如き音をたててキャロルの拳は建物の壁を粉砕した。幸いそれは木造モルタルの壁であった。石造りやコンクリートの壁であったならキャロルの方もただでは済まなかったことであろう。粉塵が舞い散り、壁向こうにあったバーの戸棚が吹き飛び、グラスや酒ビンが連鎖的に砕け散る音が響いた。
若者たちは一瞬硬直し、我に返ると振り向きもせずに、一目散に逃げ出した。あまりにも非論理的な光景を目にして声帯の機能が麻痺したのか、声も出さずに。
キャロルの方も我に返った。爆発的な力を発揮して、瞬時にアルコールが飛んでしまったものらしい。
「チェルナ!?」
慌ててチェルナを探す。彼女はすぐに見付かった。
チェルナはキャロルの暴風のような右腕の動きに耐え切れず、天高く舞い上げられ、落下して、道端に積んであった木箱を三つほどぶち壊して停止していたのだ。つまり、砕けた木箱の中に埋もれて失神中だった。
チェルナはこの日初めて、いつもとは逆に、キャロルの方から純粋な意味でひどい目に合わされたのであった。
チェルナ・リュートは基本的に傍若無人であり、唯我独尊であり、傲岸不遜であるのだが、冷たい女ではなかった。ごく希にではあってもボランティア精神に目覚めることがあるらしい。彼女は宣言した。
「あたしが手伝ってあげるわ!」
エブリス大学の中庭。通称「陛下のテーブル」と言われているらしい、芝生に設置された白いパラソルとテーブル。そこにいつもの面々で集まり、昼食をとっている最中のことであった。
ヘレナ・ファビオスは亜麻色のふわふわツインテールを揺らしながら首を傾げた。ちなみに一同が食しているのは彼女が作り、持参した料理である。白いフリルのたくさんついたドレスを着ており、この中では最年少の十九歳だがもっと幼く見える。
フォークを咥えながら眉を顰めているのはエスパーナ・ロドリクである。赤毛を丁寧に撫で付けた、やや軽薄な印象を受ける男だ。実際かなり軟派な男で、年齢は二十四歳。彼はもう一人の方に視線を向けた。その男はエスパーナの見るところ非常に困惑しているようだった。
そのもう一人とは他ならぬキャロルである。彼はチェルナにこの間のことを詫びていたところであった(もちろん、あの日以来顔を合わせるたびに平謝りに謝っている訳だが)。その途中でいきなりチェルナが叫んだのである。困惑して当たり前だった。
「あんた!忙しすぎじゃないの?馬鹿みたい!なんでもかんでも自分でやろうとするから大変なのよ!」
チェルナはキャロルから色々聞いて、彼が如何に無茶なスケジュールを組んでいるのかを知ったのだった。それは他ならぬチェルナが聞いても無茶だと感じるくらいだから、相当に無茶なものだったのだ。その無茶なスケジュールに更に自分の持ち込んだアルバイトや雑用を組み込んでいたと聞けば、なんで断らなかったのかと、実際断られれば腹を立てただろうことを棚に上げて怒る訳である。
そして、導き出した結論が前述の宣言だったのだ。
「またあたしが秘書やったげるわよ!そうすれば大分楽になるでしょ!」
という訳だった。
キャロルの困惑は晴れなかった。以前、とある事情でキャロルはチェルナとヘレナを私設秘書にしたことがあった。しかしあれは緊急避難のようなものであったのだ。確かに、チェルナは大変優れた事務処理能力を発揮し、キャロルの負担はかなり軽減されたものだったのだが…。
「なに?なんか文句あるわけ!」
チェルナが詰め寄る。
「あんたねぇ、人の好意は素直に受けるものよ。安心しなさい、給料はこの間と同じでいいから!」
いつものキャロルなら即座に却下したであろう。しかしながらこの時、キャロルは迷った。確かに今現在のキャロルの多忙は常軌を逸していたし、チェルナが助けてくれればそれは本当に助かるのだった。今現在、彼には公的秘書が数人いるのだが、彼らはどちらかと言えば経験の浅いキャロルの知恵袋代わりという面が強く、キャロルを公務面ではフォローしてくれるものの、スケジュール管理や書類整理、事務処理など私的な部分を補ってはくれなかったのだ。
その部分をチェルナが補ってくれればどれほど助かるか…。
しかし、キャロルはこういうことに関しては極めて頭が固かった。友人であるチェルナを秘書にして公務においても身近に置くようなことは、公私混同だと考えてしまうのである。
「やっぱり、駄目だ」
キャロルは結局きっぱりと拒絶した。
「あ、そう」
案に相違してチェルナはあっさり身を引いた。
「じゃぁ、仕方が無いわね」
などと言って、椅子に座り直しお茶など飲み始める。キャロルはほっと息を吐いた。
…キャロルはチェルナの性格を十分知っていた筈である。彼女は言い出した事を容易に撤回するような女ではないのだ。しかも、障害があれば正面突破に拘らずに迂回するくらいの柔軟性は持ち合わせている。であれば、この後チェルナが取る行動は簡単に予測出来たはずなのだが。
キャロルの皇帝としての執務室は皇帝府宮殿の中にある。黄金帝国時代から皇帝達が政務を行なってきた由緒正しい建物で、キャロルが住んでいる「暁の宮」よりも余程豪壮な建物であった。全世界の行政の中心であることを考えれば当たり前なのだが。
四階建ての宮殿。その二階の一番奥まった部屋。キャロルはこの部屋のことが好きでも嫌いでも無かったが、物心付いた時から彼はかなりの時間をここで過ごしてきた。ここで学校の勉強などをしたのである。アロルドの方針だったらしい。早くから皇帝としての自覚を植え付けるためだったのだろう。二階層吹き抜けの高い天井。部屋の半周はガラス窓であり、その外には広大な庭園が見渡せる。落ち着いた色調で整えられた内装。意外なことに広さは20畳ほどとそれほど広くも無い。
その中に、重厚なマホガニー調で整えられた机がある。それがキャロルの、聖戦帝国皇帝の執務机であった。
キャロルは机に近付こうとして、気が付いた。既に誰かが座っているのである。有りうべからざる事であった。その椅子に座ることが出来るのは世界でただ一人、キャロルだけである筈だったから。
そいつは、キャロルに気が付くと顔を上げ、美しい唇の両端をくっと上げた。
キャロルは思わずのけぞった。
「…チェルナ…」
チェルナである。いったいぜんたい、どうやってこの部屋に潜り込んだのか。一体何をやっていたのか。いやいや、一体何をするつもりなのか…。
キャロルは尋ねようとして、止めた。なんとなく分ってしまったからだ。
「あなたのお養母さまにお願したのよ」
キャロルが尋ねなくても、チェルナの方から暴露し始めた。
「お養母さまから、アロルド様にお願いしてもらって、侍従長に口をきいてもらったわけ」
そして侍従長はチェルナを皇帝付き侍女に任命したという訳である。
なんとまぁ、キャロルは呆れた。侍従長というのは、皇帝とその一族の生活全般及び典礼一切を取り仕切る役職である。政治的な役職ではないが、それだけに広い裁量をまかされている面があるのだった。キャロルの、身の回りの世話をする侍女を雇うことぐらい、キャロルの許可を得なくても出来るのだ。ましてや、キャロルの養父で元摂政のアロルドの紹介とあれば、侍従長が無造作に彼女を採用してしまったとしても彼の責任ではない。
この時の、チェルナの役職は皇帝付き侍女である。後に、チェルナは孤児院出身から侍女になり、キャロルに見初められて皇帝の妃になったということで、シンデレラストーリー的な報道がなされたものであるが、詳しい事情を知ればそれがやや不正確な事実であることが分かるだろう。なにしろ彼女は押し掛け侍女なのである。
それにしても、侍女が皇帝の椅子に座っていていい法はあるまい。
「ごめんごめん。どんな感じかな、と思ってさ!」
チェルナは未練もなさそうに椅子から立ち上がると、胸を張って言った。
「さぁ、キャロル!あたしに仕事をいいつけなさい!」
これほど態度がでかい皇帝付き侍女は、黄金帝国の御代に溯っても空前にして絶後であろう。キャロルは苦笑した。
本来、チェルナの仕事はあくまでキャロルの、身の回りの世話である。部屋の片付け掃除、お茶や食事の配膳、場合によっては着替えの手伝いなどが主な仕事になる。
しかしながら、チェルナ本人も、キャロルの方も彼女にそんなことをやらせようとはまったく考えなかった。彼女はむろん、そういういわゆるメイドとしても優秀であるに違いないが、それよりも秘書として使った方がはるかに有能なのだ。
しかも、これは良いことであるかどうか微妙な所だが、彼女には皇帝に対する遠慮というものが無かった。故に、キャロルの判断に対しても容赦無くダメを出したのである。具体的に言うと、キャロルが無理して行なえば可能だと考えたスケジュールも、チェルナが判断して駄目だと思えば却下してしまうのだ。おかげで、キャロルのスケジュールはあっという間に健全化した。
そしてチェルナはキャロルの所に舞い込んでくる報告や陳情を自分の所で分類して、ほとんどを適当な大臣や官庁に回してしまった。それを聞いてキャロルは慌てた。本来自分がやるべき事を、部下に押し付けたように感じたのだ。
「そこまでやってくれなくてもいい」
キャロルは控えめに苦情を言ったのだが、チェルナは逆に眉を逆立たせて怒った。
「あんたねぇ!部下が暇で上司が死ぬほど忙しい会社にろくなとこはなかったわよ!あんたはデンと座って、部下が何かをやらかしたら黙って責任をとってやればいいの!その方が本当は難しいんだからね!」
大臣や閣僚がやっていることさえ把握しておけるなら、その方が効率も良い。ただし、この場合、部下の手綱をきちんと掴んでいることが前提とはなるだろうが。
チェルナは侍女になって僅か10日ほどで、皇帝府内部を実質的に造り替えてしまった。というよりも、アロルドが摂政をやっていた頃に戻したと言って良いだろう。アロルドはそもそも丸投げ型と批判されるほど自分では何もやらないタイプの政治家だったのだ。
この結果キャロルは適当に暇になり、大学にも普通に通えるようになったのだ。キャロルは目から鱗が落ちる思いだった。自分の仕事はこんなに減ったのに、皇帝府はきちんと機能し、むしろ活性化していたのだった。考えてみれば、今いる閣僚、高級官僚はアロルドが任命したベテラン政治家ばかりなのである。キャロルより余程実務能力に優れている。彼らに任せておいた方がスムーズに政府運営が進むのはむしろ当たり前だったと言えよう。
同時に、チェルナの存在は皇帝府内で加速度的に重みを増した。彼女はとっくに「たかが侍女」では無くなっていたのである。なにしろ既に、彼女の許可が無ければ大臣といえど皇帝に面会出来なくなっていたのだった。彼女はキャロルの執務室の前の間に陣取り、キャロルへの面会、陳情、報告、相談などは全て自分を通すように要求したのである。
大臣や高級官僚達は当初、立腹し、反発した。キャロルに直接苦情を訴えた者もあった。しかし、逆にキャロルの方から正式にその事を頼まれる結果になってしまう。彼らは不審に思ったものだが、すぐに納得した。チェルナがキャロルの侍女(秘書)を始めて程無くして、皇帝府の能率が著しく上がったからである。彼女が優れた政治的バランス感覚で、キャロルに集中し過ぎていた業務を振り分けた結果であることは明らかだった。
こうなると、今度は逆に、大臣や閣僚はチェルナを頼りにするようになった。なぜなら、いまや彼女は、皇帝府全体の業務状況を把握している、唯一の人物であったからである。分からないことはチェルナに聞けば分かる状態になったのだった。キャロルに用が無くてもチェルナの所に訪れる大臣秘書や官僚が絶えることが無い、という状況が生じたのである。
同時に「ありゃ、いったい何者だ?」という疑問が皇帝府内部を席巻することにもなった。
なにしろ、チェルナの正式な役職はあくまで「皇帝付き侍女」である。この中には秘書業務などは含まれておらず、現在彼女が行なっていることは当然越権行為であった。しかし、キャロルは問題にしないばかりか、批判に対して自ら弁護までしている。おまけに、チェルナとキャロルは常に一緒にいて、非常に親しげである。それどころか、チェルナがキャロルを怒鳴り付けたシーンを目にした者も少なからずいた。キャロルとチェルナがただ事ならない関係であることは明らかだった。
えらく態度のでかい、無茶苦茶に美人の、驚くべき程有能で、どうも皇帝とただならぬ関係にある侍女。皇帝府内部でチェルナはそういう風に認識されたのであった。そうなればチェルナの越権行為は誰も問題にしなくなり、彼女の地位は侍女の職をはるかに超越した位置に確定した訳である。
チェルナは超多忙だった。当たり前である。彼女は今やキャロルの秘書というよりは、皇帝府全体の秘書とも言うべき立場にいたのだ。それにプラスして、そろそろ卒業に向けて追い込みに掛かっていた大学の学業、それといつものウェイトレスが重なったのだから、並みの人間なら潰れてしまっただろう。ところが彼女は並みの女性では無かったのである。彼女は何もかもを自分でやろうなどとは露とも考えなかった。立ってる者は親でも使えというのが彼女の行動哲学なのであった。
ある日、執務室にやってきたキャロルは、執務室の前の間に、机が増えているのを目にする。机には当然、人が座っていた。
「あ~、キャロル様!おはようございます!」
と、立ち上ったのはいつも通り白いふわふわドレスに身を包んだツインテール美少女、ヘレナ・ファビオスである。
「よう」
どこか疲れたような感じで手を挙げたのは、他でも無いエスパーナ・ロドリクである。
…二人の姿を見た瞬間に、キャロルは全ての事情が洞察できてしまった。これは、彼が鋭いというよりは、あまりにもありがちな事態であったからだろう。つまりは、チェルナは自分の負担を軽減するために、手近なところを引っ張り込んだのである。
ヘレナは掃除、お茶汲み、電話番、書類整理などを担当。エスパーナは報道対応、警備手配、キャロルが公務で外出する際の移動手段と交通官制の手配などを担当した。チェルナを含めこの三人が、後に正式に設置されることになる「皇帝秘書室」という部署の先駆けとなる。この部署は特に帝国末期に大きな権力を握り、帝国の混乱に拍車を掛けることになるが、それはまだまだ後の話になる。
ヘレナもエスパーナも、まんざらではなさそうだった。
「お姉様だけずるい!って思ってたから、嬉しいです!」
「ま、将来親父の会社を継ぐ時の、いい修行になるだろうよ」
キャロルは、チェルナをここまで重用してしまった手前、この二人を公私混同だから、と採用しない訳にはいかず、仕方無く正式に秘書として受け入れた。さすがに堅物のキャロルにも、友人を政務においても側近にすることの利点が分かり始めてきていたということもある。
側近政治の利点は、主君と側近がもともとお互いに気心の知れた者同士であることによって、意志の疎通が早くなるということである。側近が主君の意志を以心伝心で汲み取ってしまえば、余計な相談や調整が不要になる訳で、その分決済がスピーディになる訳だ。お互いに友人であれば、主君に対して側近が直言し易いということもある。
ただし、側近政治には、ただの馴れ合いになってしまい易いという面や、主君に対するおべんちゃらが上手い人間が出世してしまい易いという面がある。主君が政治に興味を失った場合、側近に大きな権力が集中してしまうという欠点もある。
チェルナはヘレナとエスパーナにいわゆる雑務を押し付けると、いよいよ本腰を入れて政治的秘書業務に取り組み始めた。キャロルの公的秘書を呼びつけ、様々な政治的懸案についての説明を受け、資料を検討し、関係省庁と調整した上で政策を決定。そして場合によっては法案を作り、議会に提出する。つまり、キャロルの政務の内、皇帝府の長としての仕事を代行し始めたのである。キャロルは最後に承認印を押すだけだった。
今度こそキャロルはチェルナに不快感を表明した。皇帝府の長としての政務は、いわば皇帝としての業務の内でもっとも重要なものと言って良かった。それを人任せにしたのでは、皇帝としての義務を果たしていないと言われても仕方が無いではないか。
しかし、チェルナはキャロルの目を覗き込むように言った。
「小さいことを気にしないの!皇帝としてのあんたには、もっと重要な仕事があるでしょう?」
キャロルも今回は簡単には引き下がらなかった。
「政策の決定は一番重要な仕事じゃないか。それ以上に重要な仕事がどこにあるっていうんだ」
チェルナは溜息を吐いてみせた。
「あのね、あたしが決済しているようなことは、どこの誰でも出来ることなのよ。あんたがやろうが、あたしがやろうが、結果が変るようなことじゃ無いの。なら、誰がやったっていいじゃない」
確かに、キャロルはチェルナが決めた政策自体に不満は無かったのである。
「あんたじゃなきゃ出来ないことはあんたがやらなきゃいけないのよ。その時はあたしも助けてあげられない。だから、それ以外のことはあたしや、他の大臣達に任せておきなさい」
キャロルは釈然としない思いでいたが、チェルナの言葉を理解するのに時間はそれほど必要としなかった。
降臨暦4752年。戦艦「イリアス」艦内で「聖戦軍」が結成された。構成員は三百余名。つまり、当時ほとんど海賊船だった、イリアス乗員のみで発足したのであった。この、傭兵集団聖戦軍が後の「聖戦帝国」の萌芽である。
この後、4756年に紫玉王国を降し「世界の首都」クレタにて独立宣言を行なった時をもって聖戦帝国の成立となる。そして天下統一戦役を経て、聖戦帝国は天下統一を果たすのである。
聖戦帝国は、この成立過程上一つの宿亞を抱え込むこととなった。
それは、軍至上主義とも言うべき、何よりも軍優先の国家体制である。
何しろ、政府よりも先に軍が存在した上に、その軍事力が領土を獲得して始めて政府が成立したのが聖戦帝国なのである。しかも、皇帝を始めとして当初の政府首脳は全て軍務兼任。更に、帝国成立からすぐに天下統一戦役に突入したために、政府そのものが戦時体制そのままというような構造だったのである。
皇妃クシーと後の摂政アロルドの尽力によって、立法府である聖戦帝国議会こそ成立したものの、こと軍事に対してはその発言力も弱まらざるを得なかった。その典型的な例が、第二次ティティス大陸群遠征前の議会と軍との攻防である。
第一次ティティス大陸群遠征は、聖戦帝国の惨めな失敗に終わった。帝国軍は多くの艦船と兵員を失い、あろう事か旗艦であり帝国艦隊の象徴でもあったイリアスと、艦隊総司令ラウル・バルダを失うという大損害を被り、ティティス大陸群から叩き出された。これは、聖戦帝国にとって、天下統一戦役における初めての手ひどい敗北(局地戦で敗れたことはあったにせよ)であった。
これを受けて、聖戦帝国議会では停戦論が沸き上がった。当時、聖戦帝国はティティスを除いた三大陸群を制圧していたものの、情勢は不安定であり、長い戦国時代に膿み疲れていた人々は平和を心から願っていた。外征よりも内政の充実に力を注ぐべきである、という意見には、緑玉王国の強固さを見せ付けられた後だけに説得力があったのである。
これに対して軍部は猛反発した。サッカール・ルド大将を始めとした、聖戦軍創設以来の幹部にとって、ラウル・バルダの仇を討たないなど有り得ないことであったのだ。あと大陸群一つとなった天下統一を、目前にしておきながら諦めるということも、これまで戦ってきた軍人にしてみれば考えられないことと感じられた。
こうして議会と軍部の間に対立が起こり、それは第二次ティティス大陸群遠征予算の可否という形で、帝国議会において争われることになった。
当初、停戦派は優勢であった。停戦派はこれ以上の戦役続行が、如何に帝国財政を痛めつけるかを主張し、その根拠も多数示した。これに対し主戦派は、精神論的な主張を繰り返すばかりで説得力に欠けたのである。そのまま議事が進行すれば、予算案は否決され、ティティス侵攻は回避されたかも知れない。しかしここで、その後の歴史を変えてしまったという出来事が起こるのである。
皇帝、ガイア・ラリオスが発言を求めたのである。
驚くべき事であった。彼はこれまで議会で政治的主張を行なったことどころか、発言したことすら無かったのである。「眠り姫」などと揶揄された彼が発言を求めた事自体が異常事態であった。彼は、静かに壇上に立った。
ガイア・ラリオス、この年30歳である。白皙の美貌と、見る者全てが息を呑まずにはいられない、深い緑色の瞳。プラチナブロンド。白い聖戦帝国軍総帥服を身に纏う、細身の剣のような長身。なにより、刀身の輝きのような、見る者に緊張を強いる独特な雰囲気を放っていた。彼はゆっくりと議員たちに語り掛けた。
「戦うことは、忌むべき事だ。故に、戦いは、可能な限り避けるべき物であろう。
しかし同時に、戦いは終わらせなければならない物でもある。
我が帝国は、天下統一を叫んで兵を挙げた。
そして、あまたの国々を滅ぼしてきた。
我々の犠牲も大きかった。多くの民が巻き込まれて命を落した。
そして、ようやく残るは緑玉王国のみという状況に漕ぎ着けたのだ。
ここで戦いを中断することは、天下統一を信じて死んで行った者たちを裏切ることになると同時に、戦いを次の世代に残すということになる。我が子たちに負の遺産を残すということになる。
私が始めたことは、私が終わらせるべきではないか。
我が軍は一度敗れた。しかし、二度と敗れることはないと、ここに各位と国民に約束する。
私に、戦いを続けさせて欲しい」
そしてガイアは深々と頭を下げた。
ほとんど感情を露にしないガイア・ラリオスの、真情の吐露であった。彼はこの時草稿すら手にしていなかったのだ。
この世に言う「第二次聖戦演説」が帝国議会の雰囲気を変えた。
皇帝が主戦派であることを公式に表明したのである。これは、皇帝が軍よりの立場にあることを明確にしたということであった。軍部は勢い付いた。さらに世論はガイアの演説によって一気に主戦派に同調し始める。こうなると、議会においても腰の弱い停戦派は主戦派に転向してしまうことになり、結局予算案は議会を通過。第二次ティティス大陸群侵攻が決定してしまうのである。
侵攻の歴史的な是非は兎も角として、このように聖戦帝国では皇帝(皇帝府)と軍との結びつきは非常に強いものだったのである。その結果、軍と議会との力関係は常に軍が上回ることとなった。
天下統一戦役の時代ならばそれでも良かったのであろう。戦時に軍の勝利が何よりも優先されるのは当然であるからだ。しかしながら、天下統一が既に成り、平和な時代が15年以上続いた現在になってもそれが続いているとなると、様々な問題点が生じてくる。具体的に最大の問題として表れてきたのは、軍の肥大化の問題であった。
聖戦帝国は天下統一戦役の過程で、新しい兵員の確保のために、積極的に「剣士(傭兵)」を正規兵として取り込んだ。これは、ガイア・ラリオス、クシー・ルシメオスが剣士出身であったからという事情のほかに、剣士に難民出身者が多かったという理由もある。天下統一戦役が進むにつれ、国家同士の戦争が減少し結果、剣士が失業してしまう事態となったのだ。これを救済するという意味があったのである。
これ以外にも、占領した国家の軍を聖戦帝国軍に取り込むということもした。占領地域に精通した兵員を手早く確保出来るという理由のほかに、これにもやはり失業対策という側面があったのだった。
帰結として、聖戦帝国艦隊一万隻、聖戦帝国軍一千万人というとんでもない巨大軍が誕生したわけである。これはもちろん史上最大の軍隊であった。
聖戦帝国、つまり全世界の人口が30億人程度であった時代だ。いくらなんでも軍の規模が大き過ぎる。これを縮小しようという議論は、聖戦帝国が天下統一を果たした頃から既に生まれていた。
しかし、これが強固な軍部の反対によってなかなか実現出来ないのである。軍部の言い分としては、大陸群の間が100万キロメートルも離れている以上、各大陸群に軍を常駐せざるを得ず、各大陸軍の広さから割り出せば現状の人員、艦船が適正であるということになるのだった。実際に先年のプロト大陸群での反乱が起こったことで分かるように、世界はけっして平和とはいえないというのだ。
だが、そのプロト大陸群反乱の鎮圧に、聖戦帝国軍の一割以下の戦力しか必要としなかったように、帝国軍はあまりに過大な戦力を保有しているというのが、軍以外ほとんど全ての国民の一致した見解であった。巨大な軍は巨大な予算を消費する。長い戦国時代の傷が癒えないでいる国土を回復させるために、聖戦帝国では予算はいくらあっても足りないという状態が続いていた。その中で、使いもしない戦力の維持に巨大な予算を食いつぶす軍は、金食い虫以外の何者でもなかった。
要するに、この状態を是正する役目が、キャロルに託されたわけである。
摂政であったキャロルの養父アロルドは、この問題を先送りにし続けたのであった。彼はもともと、第二次ティティス遠征反対の急先鋒だったことから分かるように、軍部の姿勢に批判的であった。しかしながら、自分がやむを得ず摂政にならなければならなくなったことから、自分を警戒する軍部の協力を要請するために、軍に対して不干渉の姿勢を表明してきたのだった。彼の立場は摂政であり、やはり正式な皇帝よりも弱かったのだ。軍に対してに限らないが、むやみに強権を振るえば国内に無用な混乱を引き起こしかねなかったのである。
しかし、キャロルは皇帝であった。彼であれば強権を発動することに何の遠慮もいらないはずである。
だがしかし、そんなことを急に言われてもキャロルも困るわけである。
「そうねぇ、艦数二千隻、兵員400万人にはしたいわね」
けろりと言ってのけたチェルナに、キャロルは眩暈を覚えた。
半数以下への削減である。当たり前であるが容易なことではない。というより、ほとんど不可能事であるように思われた。
「どうしたらそんなことが可能になるんだ?」
「そんなことは、あんたが考えなさい!」
チェルナはにべも無い。
「これはあんたにしか出来ないことなのよ。何とかしなさい!」
チェルナはキャロルに指を突きつけ、キャロルは深く考え込んだ。
軍縮が、至急を要する案件であることは疑い無かった。なにしろ、この時代になってさえ、国家予算の実に三割が軍事費に投入され続けていたのである。平和な国家においては、これは異常な数値であった。これを半分に削減するだけで、聖戦帝国を悩ませている財政問題はかなりのレベルで解決する。そうすれば、直轄地はもとより、各地の王国にも支援が行えるだろうし、それは現在起こっている直轄地と各王国との経済格差の是正に繋がるだろう。それは平和を呼ぶのだ。
しかしながら、相手は軍である。聖戦帝国を生み出したという自負も強烈な軍部が、皇帝の命令だからといって、はいそうですかと軍縮に応じるなど考え難いことであった。下手をすれば軍部のクーデターを呼び込みかねない。
キャロルはとりあえず、軍部の資料を集めさせた。これはおそらくこれあるを予期していたのであろうチェルナによって、あっという間に山のように集まった。すると、一つの興味深い事実が明らかになったのである。
軍部では、高齢化が進行中だったのだ。これは当然で、天下統一から既に20年以上が経過しているのである。当時二十歳の兵も今では40歳だ。40歳といえば、兵員としては老兵の部類に入る。キャロルはこれを知ると、官僚閣僚と諮って一つの法案を作り、帝国議会に提出した。「帝国軍55歳定年法」である。
それまで、帝国軍の定年は70歳であった。これを一気に15歳も引き下げようというのだ。キャロルのこの法案には根拠があった。戦国時代当時の多くの国では、軍人の定年は50~55歳だったのである。聖戦帝国軍で定年が引き上げられた理由は、帝国軍が剣士に対する失業対策の側面を持っていたからだった。天下統一戦役当時、既に中年から老境に入った剣士も雇用しなければならなかったのだ。
現在、55歳以上、70歳以下の兵員をカット出来れば、軍は一気にスリム化する。給与はもちろん、装備や食事が必要なくなるのであるから、予算面も大削減できるであろう。
無論のこと、カットする元兵への福祉も忘れるわけにはいかない。年金の支給、医療費の特別控除、退役後の仕事斡旋、単身者への住居割り当てなどを手配することにした。その他細部を皇帝府内部で詰め、キャロルは自信を持って法案を議会に送り出した。
ところが、これが議会で大いに紛糾するのである。
議会にいた軍部寄りの議員たちが一斉に反対したのだった。キャロルにとってこれは誤算だった。議会は反軍部であると思い込んでいたのだ。法案を通した後、軍を説得する事の方が難事であると考えていたのだが、それ以前に躓いてしまったのである。
軍部は天下統一以降、彼らの意見代弁者である元軍人の議員を多数議会に送り込んでいたのであった。彼らは軍需物資納入業者と強く結びついていただけに資金力も豊富で、その勢力は侮り難いものだったのである。
キャロルは困った。皇帝と言えど、帝国議会では一介の議員に過ぎない。そして、聖戦帝国では、議会を通さなければ法律は制定出来ないのである。
悩むキャロルを、チェルナはしばらく放置していたようだった。しかしある日、仕方が無いという風にキャロルの元を訪れ、彼の頭を丸めた書類で叩いた。
「あんたね、若いくせに頭が固すぎるわよ!もっと柔軟に考えなさい、柔軟に!」
キャロルはむっとした。
「悪かったね。僕は不器用なんだよ」
「自慢するところじゃないわよ、それ。仕方が無い。ヒント出したげるから良く聞きなさい」
チェルナは腕組みをしてキャロルを睥睨した。
「あんたは皇帝陛下なのよ?偉いのよ?」
一番それを問題にしていない女がそれを言うのか。
「国民なら、誰だってあんたを怖がってる。あんたの気分を損ねたくない、って思ってるのよ!もちろん、法案に反対している議員もね!」
む・・・。キャロルの瞳に理解と嫌悪の色が浮かんだ。
「脅せって言うのかい?」
「そんな露骨にやるまでも無いでしょうよ」
チェルナの言いたいことは分かった。確かに、それしか方法は無いかもしれない。キャロルは考え込んだ。そんな彼を見ながら、チェルナは首を回しつつ踵を返した。その背中を、キャロルの声が追いかける。
「君も、僕を恐れているのかい?」
「あたしはこの世の何をも恐れたことなんて無いわよ!」
キャロルは議会で演説を行った。これはその要約である。
「法案に反対するという議員たちに問いたい。
卿等は何の故あって我が帝国に害を成そうというのか。
卿等は栄光の帝国軍を老人の集まりにしたいのか。
古来、戦えぬ兵の老害によって機能不全に陥った軍隊は数多い。今法案はそれを防ぎ帝国軍に活力を呼び戻そうという試みであるのに、卿等はこれに反対だという。
これは軍を弱体化するための企てとしか思われぬ。
予は、予の考えたこの法案に反対する者は、そのように企てる者であると考えるであろう。
卿等はそのことをよく考えなければならない」
この演説のポイントは二つあった。まず、この法案はあくまで軍の若返りのための法案である、と強調したこと。これは軍縮政策を強調しないために、軍部寄りの議員でも同調し易い論理であった。
そして、この法案は皇帝たるキャロル自らが考え、推進する法案だと強調したことであった。単なる皇帝府提出の法案ではなく皇帝肝いりのものであることを知らしめたのだ。これにはキャロルが考えていた以上の効果があった。
聖戦帝国では、軍は皇帝直属の機関である。極端な話を言えば、軍は大臣の言うことも、議会の言うことも聞く義務は無く、唯一皇帝の命にのみ伏するものなのだ。その皇帝が出した法案に、あろうことか元軍人で軍部から後援を受けている議員が反対するなど、あってはならないことと考えられたのである。無論、それ以外の議員にとっても皇帝が考えた法案に反対するということには、それなりの覚悟を必要とするだろう。
もちろん、あからさまな人員削減法案であれば、これは皇帝が主導した法案であっても、軍内部からも懸念と反対の声が上がったかもしれない。しかし、この法案はあくまで軍の若返りを図るものだと言われれば、特別反対しなければならない法案でもないという言い訳が出来る。そもそも、軍内部でこの法案に反対なのは、退役を強いられる老兵たちだけなのであった。残る若い兵にとっては定年などまだまだ未来の出来事だ。むしろうるさいだけの老兵がいなくなることを歓迎する者も多かった。
こうして、議会内部及び軍内部での法案反対の声は急速にしぼんでしまう。法案は程なく、賛成多数で可決されたのだった。
軍の定年を早めたことによって、まず初年度に二百万人の兵士が退役した。三年後までには更に百万人の退役者が見込める。新規募兵を抑えれば、退役分の人員が削減になるのだった。チェルナが要求した半数以下までの削減にはまだ遠いが、とりあえず難題だった軍縮の筋道をつけたという事で、キャロルの政治手腕に対する評価は上昇することになる。
なるほど。キャロルは理解したのであった。
「つまり、僕にしか出来ないことって言うのは、皇帝の権威でしか実現できないような政策を実行に移すこと、なんだね」
キャロルの執務室の前の間。キャロルは息抜きの時間にはここに来て、チェルナ、ヘレナ、エスパーナとの会話を楽しむことにしていた。それだけキャロルに余裕が出てきたということなのだろう。
チェルナはヘレナの入れたお茶を飲みながら鼻で笑った。
「ちょっと違うわ。あんたの仕事は、皇帝の名前を出さなきゃ通らないような、無茶な横車を押すことよ」
「なんだそりゃ」
エスパーナが呆れた声を出した。
「キャロルの一声には、一万回の声を枯らした演説よりも大きな影響力があるのよ。それがあれば大概の無茶は通るわ」
「は~、すごいですねぇ!キャロル様!」
エトナが素直に感心する。彼女はまったく政治に疎く、更に言えば興味もないようであった。彼女の喜びは、ひたすらにキャロルとチェルナ(ついでにエスパーナ)に奉仕することにあるようだ。甲斐甲斐しく世話を焼く様は、彼女こそ侍女の名に相応しいと思わせるものだった。
チェルナの言葉に、キャロルは表情を曇らせた。
「・・・あんまり、好きじゃないな。そういうの・・・」
彼は自分が皇帝であることを誇示するのを嫌っていたのだった。
「何言ってるの?今回あんたの演説が無ければ法案は廃案になり、軍の縮小は頓挫し、その結果、国民の生活は苦しくなったでしょうね。それでも良かったの?」
「そうじゃないけど・・・」
「あんたね?政治は結果なの。そして、必要な政策がみんなに歓迎してもらえるなんてことは有り得ないのよ!反対意見の方が多い事だってある。それでもその政策が正しいと信じるなら、いかなる手練手管を用いてでも実現するのが真の政治家というものよ!単にあんたが皇帝であるってだけで話が丸く収まるんだから、こんなに楽な話は無いじゃない」
チェルナは手を伸ばすと皿からクッキーを一掴み取り、口にほおばってバリバリと噛み砕いた。
「伝家の宝刀は抜くためにあるのよ!あんたのつまんない美意識なんてどっかに捨ててきなさい!さ、休憩はお終い!」
というと、チェルナは書類を手に取った。彼女は超多忙なのである。キャロルは苦笑しつつ立ち上がった。
「ま、女王様の言うことにも一理あるわな」
執務室に戻るキャロルにエスパーナが付いて来た。キャロルの部屋でもう少しサボる気だろう。彼はチェルナやキャロルに比べれば数倍は怠け者だった。もっとも、それで彼の業務が滞ったことは無いのだから、比較の対象であるキャロルとチェルナが働きすぎなのだとも言える。
「お前にしてみれば、権威を振りかざすなんてみっともなくて横暴だと思えるのかもしれないが、それってやっぱりお前にしか出来ないことなんだぜ?要は使いどころだよ」
「分かってるよ。だから今回使ったんじゃないか」
「そうかそうか。じゃぁよ、今度またパーティに付き合ってくれよ。やっぱりおまえがいると女の子の食いつきが違うんだ」
キャロルは軽くエスパーナの頭を小突いた。
エスパーナは大げさに仰け反り、笑いながら、前の間に続くドアを振り返った。
「それにしても、いつからあの女、政治家になったのかね?」
「さすがは・・・」
キャロルは言い掛けて、止めた。エスパーナが不審気な顔をする。しかし、キャロルは手を振って会話を打ち切ると、自分の仕事を再開するために執務机に戻った。エスパーナは呆れたように首を振り、仕方なく前の間に戻って行った。
キャロルはこう言い掛けたのだ。
さすがは、あのヤスターシェ・ニクロムの子供だ、と。
チェルナの母親が、緑玉王国最後の女王ミヘルナだとすれば、その夫たるヤスターシェはチェルナの父だということになるのだ。四大宝玉時代屈指の名政治家であったヤスターシェ。その血を受け継いでいるのであれば、チェルナに政治家としてのセンスがあるのは当たり前なのかもしれない。
それを言えば、キャロルの方も聖戦帝国を実質生み出したと言われる、名政治家クシー・ルシメオスの血を引いているのだった。ならばチェルナに負けてはいられないだろう。
キャロルはやや表情を引き締めて書類の確認を始めた。
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