第4話

ティティスに寄ってみよう。


キャロルがそう思い立ったのは、艦隊がベラグール要塞に入港し、戦後の論功行賞が一通り済んだ頃だった。


ヘレナの入れてくれたお茶を飲み、デスクに積み上がった書類を気持ちが良いくらいのスピードで片づけているチェルナを眺めながら、ふと、ティティスはロークシティアにいる老婦人のことを思い出したのだ。


ミヘルナ・ロイ・イシリオ。緑玉王国最後の女王。現在は緑玉城の地上庭園の隅にある館でひっそりと暮らしている。


その面差しがあまりにチェルナに似ていたのを思い出し、チェルナがミヘルナ元女王に非常な興味を持っていた事も思い出した。彼女は現代史を専攻している。その関係で生ける歴史とも言うべきミヘルナに興味があるのだろう。そう考えている内に、数年前に会った時には良く聞く事が出来なかった父ガイアのことをあらためて尋ねるのも悪くないかな、と思ったのである。


チェルナにそのことを話してみると、予想外に強い反応が返ってきた。


「会いたい!」


彼女は飛び上がるようにして立ち上がった。


「会いたい!会わせてくれるの?」


食い入るような視線がキャロルに向けられている。キャロルはややあっけに取られながらも頷く。チェルナはぽっかり口を開けて、糸が切れたように腰を下ろした。心が遊離してしまったような表情だ。


ヘレナも立ち上がって手を挙げた。


「はい!あたしも会ってみたいです!教科書に出ているような人ですもん!」


「いいよ、一緒に行こう。ミヘルナ様が会ってくれるかどうかは分からないけどね」


キャロルはチェルナの方を盗み見る。彼女は書類に視線を伏せながら、彼女を知る者なら信じられないような、深刻そのものの表情を浮かべていた。手は、まったく動いていない。


なんだ?キャロルは訝った。


チェルナとミヘルナには何か関係があるのか?単に顔が似ている、という事以外に。




キャロルがティティスに寄る事にしたのは単なる気まぐれだが、政治的に全く意味が無い行為だとも言えない。


聖戦帝国にとって、四つある中でもっとも重要な大陸群は、無限の穀物生産地であり全世界の食料庫たるネサイエス大陸群であった。故に首都をクレタに置いている訳だ。


そして、その次に重視しているのが、他ならぬティティス大陸群なのである。


ティティス大陸群は人類発祥の大陸群である。降臨暦一九〇〇年代に至るまで、人類はこの大陸群のみに生活していた。


一八〇〇年代から始まった人口爆発は人類を存亡の危機に追いやった。ティティスは徹底的に開発し尽くされ、瞬く間に砂漠化が進んだ。ティティス大陸群は現在でもその七割が砂漠である。食糧自給率が低いのはこのためだ。


危機感を覚えた人類は、全ての国家を統合した「人類議会」を設立。同時に外海へ探索隊を派遣した。


しかし当時の、内燃機関による水上船で、百万キロメートルにも及ぶ大陸群間を渡る事は不可能であった。位置も分かっていなかったのだ。探索隊の派遣は即ち遭難の連続となる。


絶望的な状況下、一つの奇跡が起こる。ビートル・パナム博士による、重力制御及び発電装置、通称ビートル機関の発明である。このシステムによって人類は事実上無限のエネルギーを手に入れる事が出来、初めて距離の壁を突破する事が出来たのだった。


ネサイエス、イアナーサ、プロトと大陸群が発見され、移住が進んだ。当時ティティスの砂漠化は尚も進行中で、ほとんどの人口が特にネサイエスに流出したといわれる。その混乱の中で、文化、歴史、科学技術はティティスに置き去りにされた。


人口の流出がある程度収まった後、ティティスは残された設備や技術を活かして工業大陸群として再起する。黄金帝国成立直前には世界の工業製品のほとんどを生産するようになっていた。黄金帝国時代には帝国の保護を受けて流通も活性化。四大宝玉時代を経て、現在では人口も大幅な増加に転じている。


「ティティスは世界の工場」とは黄金帝国初代皇帝クレタ・ササリージュの言った言葉だが、現在でもそれはそのまま当てはまる。航海技術が発達し、ティティスを起点にした航路が整備されて以来、ティティスは流通経済の拠点ともなって、近年その重要性を急速に増しているところだった。


ティティスは全土が完全な直轄地であるという特殊事情もある。これは、四大宝玉時代末期、緑玉王国がティティス統一を果たしたからである。しかし、聖戦帝国に最後まで抵抗した緑玉王国のお膝元でもあり、聖戦帝国に対する忠誠心は四大陸群中もっとも低いといわれる。プロトでの反乱を制圧した直後というこのタイミングで、皇帝自らがティティスに行幸するというのは、反皇帝勢力を威圧するという政治的な意味合いがあるのだった。




ベラグール要塞からティティスまでは二十日ほどの航海だった。イリアスⅡ単艦でのゆっくりした船旅だ。


航海中、チェルナは普段と変らなく振る舞おうと勤めているようだったが、キャロルからは彼女の精神が安定を欠いているのが丸見えだった。憂鬱を極めていたかと思えば急にはしゃぎ出したり、書類仕事に没頭しているかと思えば、突然、機銃を撃たせてくれとごねたりしている。そう言えばティティス、しかも旧緑玉王国首都ロークシティアはチェルナの生まれ故郷なのだな。キャロルはチェルナを連れてこなかった方が良かったかもしれないと思い始めていた。もっとも、そんなことをすれば彼女はまた密航に踏み切っただろうが。


ロークシティアに接近すると、まず最初に尖塔の先が見える。


緑玉城主塔である。高さ三百数十メートルに及ぶ巨大な翡翠色の三角錐。世界最大の建築物であり、ロークシティアの象徴たる存在でもある。


ロークシティアは四七八三年時点で人口約二百万人。この二百年後には三倍に達して世界最大の都市に成長する事になるが、この時点でも既に世界第二位の都市だった。


この街を特徴付けるのは、特に旧市街に立ち並ぶ巨大なビル群である。三角州に造られたという立地上の条件のために市域が制限され、それを補うために高層建築が建てられたのだ。幾度も洪水に見舞われた街でもあり、ビル同士を空中回廊で蜘蛛の巣のように繋いでもいる。


現在では放水道の建設によって、街の中を流れるナス河の水量も激減。洪水の危険性も減ったため、街は河を越えてどんどん広がり出している。ティティス大陸群の人口は六億と言われているが、大陸群のほとんどが砂漠化しているため人口が居住可能な僅かな地域に集中する傾向がある。近年、特にロークシティアの人口増は著しい。


ティティス中央港はロークシティア湾にある。近年珍しくなりつつある水上港だ。イリアスⅡが着水してかつての水上船のように水に浮かぶと、強い潮の香りが艦橋まで吹き込んできた。


岸壁に近付くと異様な光景が見えた。岸壁が真っ黒になって蠢いているのだ。


人である。人が岸壁を埋め尽くしているのだった。


「行こう」


キャロルは艦橋に残る艦長以下イリアスⅡ艦橋要員に敬礼すると、席を立った。護衛武官、侍従を従えて艦橋の階段を降りる。チェルナとヘレナも戸惑いつつ後に続く。


キャロルが上甲板に現われ、岸壁を見下ろす位置に立つと、群集からどよめきが沸き上がり、轟然たる叫びが誰からとも無く上がった。


「皇帝陛下万歳!」


「帝国に栄光あれ!」


音声は具体的な空気の振動となってチェルナの全身を震わせた。彼女は思わずキャロルをまじまじと見詰めた。金髪を潮風になびかせ、白い聖戦軍総帥服を纏い、優しく微笑して手を振るキャロル。彼に向けて何万という群集が歓呼の声を上げている。


あの、大学ではいつも「のほほん」と座っているキャロル。数学が苦手で、問題集を前に頭を抱えているキャロル。アルバイトに駆り出され、苦笑しながら荷物運びに精を出すキャロル。それと比べて…、


「あまり変らなく見えるんだけどね」


「そんなことはありませんわ!」


ヘレナの大きな瞳に無用に星が飛び交っていた。


「素敵ですわキャロル様!ますます惚れ直しました!」


「そうかなぁ」


いつでも気負い無く、変らないのがあいつのいい所なのではないか。反乱鎮圧の時はなんだかそれが珍しく気負っているように見えて、それがチェルナには気になったのだ。心配してやったと言ってもいい。戦争が終わってからはいつものキャロルに戻っていた。それはチェルナにとっても安心出来る、望ましい事だった。もしもあのままキャロルが変ってしまい、大学に出てこないような事にでもなれば、必然的にヘレナも大学に来なくなって、チェルナが飯をたかる相手がいなくなってしまうところだったから。


キャロルはまだ手を振っている。大変だな。皇帝も。裏で散々大変な仕事をして、戦争では胃の痛い思いを散々味わって、人に恨まれ、挙げ句に無責任な賞賛の対象になり、それでも笑って手を振らなければならないのか。自分には出来そうも無い。


チェルナには知る由もなかったことであるが、彼女はこの五年後、キャロルと共にこれに数倍する歓呼の声を浴びる事になる。




緑玉城までの沿道にも群集が鈴なりになっていた。なぜか紙ふぶきが舞い散り、旗を振る者や横断幕を掲げる者までいる。


「ティティスは反帝国感情が強いと聞いていたが、すごい歓迎だな」


「陛下、それは数年前までの話でございますよ」


キャロルの疑問に答えたのは、リムジンの後部座席に同席したティティス大陸群執政官、サンダー・エウケスである。初老のかなり太った男で、頭髪がかなり後退していることもあって、やや威厳が足りないという評価を受ける。しかし、実直な政務には定評がある男だ。


彼が言うには、聖戦帝国の統治が始まり、ネサイエス大陸群との連絡航路が確定すると、ティティス大陸群の悩みの種だった食料輸入が飛躍的に安定し、価格も大幅に下がったのだという。更に、プロト大陸群との航路も確定してからは、工業原料の価格も大幅に下がっていた。工業大陸群ティティスにとってはこの上ないほどの追い風となり、景気も急上昇したのだ。


「その結果、ティティスの帝国、皇帝陛下に対する感情は急速に良化しております」


「なるほど」


サンダーと話しながら、キャロルは一つ気になる事があった。


サンダーがしきりに、キャロルの隣りに座っているチェルナの事を気にするのである。なにしろ内火艇からキャロルたちが降り立った時、非礼にもサンダーはキャロルではなくチェルナに注目し、愕然と動けなくなっていたのである。それはキャロルが声を掛けるまで続き、我に返ったサンダーは汗まみれになって恐縮するという失態を演じた。


今も皇帝と話すという状況でありながら、時折彼の視線は泳いでチェルナに向かった。チェルナははっきり言って人目を引く事この上ない美人であり、プロト反乱討伐中にも若い将軍の中にはしきりにチェルナ(とへレナ)と話したがる者がいたほどだ。


しかし、サンダーの様子はそれとはどうも違った。余りにも気になるようなので、遂にキャロルは言った。


「どうしたサンダー。我が秘書に何かおかしいところでもあるのか?」


サンダーは電撃に鞭打たれたかのように飛び上がった。再び全身から汗を流して恐縮する。


「いえ!そ、そういう訳ではございませぬ!ただ…」


「ただ?」


沈黙したサンダーを促す。


「その、ミヘルナ様に余りにも似ていらして、その…」


キャロルは思い出した。サンダー・エウケスは年齢的には初老だが、実は若い頃から聖戦帝国に使えていた生え抜きではないのである。


彼は緑玉王国において内務省次官を勤めた経験がある緑玉王国の旧臣なのだ。つまり、緑玉王国元女王ミヘルナの間近に使えた事がある人物なのである。聖戦帝国は緑玉王国を降伏させた際、次官以下の官僚はそのまま留任させ、聖戦帝国ティティス政庁に取込んだ。サンダーはそこから頭角を現し、遂に執政官まで上り詰めたのだ。


「そんなに似ているか」


「それはもう!似ているどころか…」


サンダーは何故かチェルナを見て首を竦めた。


ミヘルナ女王に生き写しのチェルナを見て、まるでミヘルナ女王の前で跪いた若い頃に戻されたような錯覚を覚えているのだろう。


チェルナは、特に表情を変えはしなかった。彼女は車に乗ってからというもの明らかに緊張しており、表情も固い。じっと、自分の膝を見詰めながら何事か考え込んでいるようだ。


「ミヘルナ様はお元気なのか?」


「はい、ご壮健です」


サンダーは月に一度ほどミヘルナを表敬訪問している。これは、ミヘルナに対する国民の人気が現在でも非常に高いためである。彼女を冷遇していないというアピールだ。同じ理由により、今回キャロルはあらゆる用事をさて置いて、このままミヘルナの所に向う事になっていた。


キャロルが前回ミヘルナと会ったのはもう十年も前のことになる。彼が十歳の時だ。


まだまだ子供であった彼だが、当時から歴史に興味があったので、ミヘルナが既に歴史上の人物である事は知っていた。そのため、最初に握手した時は緊張の余り膝が震えたことを覚えている。


父、ガイア・ラリオスがかつて緑玉王国騎士団に所属しており、その頃ミヘルナと会った事があるという話をした。「その頃の面影がある」とミヘルナは嬉しそうに語ったのだが、キャロルはその当時、ガイアに似ていると言われることを殊の外嫌っていたので、その話はそこで終わっていた。


今なら、もう少し冷静に父の話が出来るかも知れない。キャロルは沿道の人々に時折手を振ってみせながら考えていた。幼少の頃より「ガイア様のように」とか、「ガイア様はこうだった」とか、「さすがはガイア様の御子」などと言われ、彼は一時期、記憶にも無い父に対して随分反発したものだったのだ。そっくりだといわれる金髪すら嫌って、丸坊主にした事さえある。


今は、まだ、わだかまりは消えてはいない。それには人に言えない理由があるのだが、それでも皇帝として政務にも携わり、人々の前で皇帝として振る舞う中で、僅かながら父に共感出来る部分を見付け始めてもいた。


そして、父はどういう人間だったのだろう、という興味も生まれ始めていた。


ガイア・ラリオス。聖戦帝国初代皇帝。氷結した百合の花のような美貌を持つ、無口な男性。享年僅か三十二歳で死んでしまったので、その姿は永遠に若いままだ。非常に優れた剣士であり、戦術家としてもまずまずな手腕を持っていたと言われるが反面、戦略家、政治家としてはまったく役に立たなかったとも言われる。聖戦帝国建国の功の大半は、彼の妻クシー・ルシメオスと現在の摂政アロルドの働きによるものであり、ガイアはただの飾りであったという酷評もある。


キャロルが知りたいのはその様な、学べばすぐ分かるような外面的なことではなかった。ガイアがどのような人間であったのか。どのような考えを持っていたのか。そして…。


ミヘルナなら答えの一部を持っているはずだった。




緑玉城は、間近でみるとそれがどんな大きさでどのような形をしているのかが分からなくなるほど巨大だロークシティア出身であるチェルナであったが、緑玉城の宮城内部に入ったのはこれが初めてだった。門を潜り、庭園内を数百メートル進んだ所に、緑玉城主塔への入り口がある。


変形三角錐の頂点は全く見えず、ただ単純に緑色をした高い壁が天に聳え立っているようにしか見えない。一見するとその辺りに立っている高層ビルと変わらなくすら見えてしまう。正面入り口の、一気に三十台以上は利用できそうな車止めで車を降りる。


 緑玉城は現在、聖戦帝国のティティス政庁として使われている。主塔の内部に官公庁が全て入っているのだ。車を降りたキャロルを政庁の全職員二千人あまりが拍手で出迎えた。手を上げて答えるキャロル。


 キャロルは主塔の内部には入らず、そのまま庭園へと出た。


 クレタの皇宮に付随する庭園に比べ、緑玉城の地上庭園はごく狭い。緑玉城の本来の庭園は王宮として使われていた主塔上層階の空中庭園にある。地上庭園は申し訳程度の飾りでしかないのだ。


 実際、キャロル、チェルナ、ヘレナの三人と、護衛武官五人は庭園内をわずか三百メートルほど歩いただけで目的の館に辿りついた。


 小さな館であった。館と言うのもおこがましいくらいだ。何の変哲も無い二階屋。屋根はこげ茶色の瓦葺で、一階には大きなテラスがあった。もともとは地上庭園を管理していた庭師が住んでいたもので、それを少しだけ改装したのだ。


 地上庭園内部を巡っている水掘に程近い。館の周囲は若草色の芝生で覆われ、堀の際には柳の木が並んで涼しげに枝を揺らしている。堀の向こうには緑玉城の主塔が圧倒的な姿を見せ付けていた。


 敷地に入る場所で護衛武官を待たせると、三人は館の玄関へと向かった。


 呼び鈴を鳴らすと、老メイドが扉を開けた。キャロルの顔を見ると心得たように慇懃に頭を下げる。そして、チェルナの顔を見て一瞬驚愕の表情を浮かべた。しかし、すぐに立ち直り、もう一度頭を下げ、言った。


「ミヘルナ様は今、釣りをなさっております。お連れ致しますので、中でお持ちください」


「ああ、いいよ。私が自分で伺おう」


 キャロルはメイドを手で制すと、踵を返して水掘の方へと向かった。


 場所はすぐ分かった。水色の大きなパラソルが水辺に立っていたからだ。


 彼女はパラソルの下で椅子に腰掛け、浮いている赤い棒浮きをじっと眺めていた。キャロルたちが近付いてくるのに気が付くと、ゆっくりと振り向いた。


 漆黒の瞳に柔らかな表情が浮かぶ。若い頃よりもまろみを帯びた輪郭。顔に浮かぶ数本の皺と半白になった髪が年齢を感じさせたが、それでも彼女は十分に美しかった。


「ごめんなさいね、もうそんな時間だったの?全然気が付かなかった」


ミヘルナ・ロイ・イシリオ。緑玉王国最後の王。聖戦帝国によって退位させられた彼女は、緑玉城主塔に住み続けても良いという帝国の勧めを固辞、この小さな館に隠棲していたのだ。


ティティス風の服を着ている。袖口が大きく、幅広の帯を締める服だ。裾は長い。彼女は立ち上がるとゆっくりと一礼し、キャロル、チェルナ、ヘレナの順に目をやった。


「お久しぶりね、キャロル。始めまして。お嬢さん方」


「ご壮健で何よりです」


「ふふ、まだそんな言葉が似合う年でも無いのだけど」


彼女は四七八三年時点で五二歳である。


「さぁ、中へ。お茶の用意はさせてあるの」


 ミヘルナは釣竿を何の未練も無いように持ち上げた。キャロルが見ると、浮きの下、糸の先端には何も付いていないようだった。キャロルの視線に気が付いたのだろう。ミヘルナは悪戯っぽく笑った。


「ヤスターシェの真似よ。あの人、考え事をする時にはよくこうしていたの。浮きを見ていると集中出来るのだと言ってね」


 彼女はもう一度三人に等分に笑顔を見せると、館に向けてゆっくり歩き出した。その姿をみてキャロルは少し違和感を覚えた。何だろう…。


 すぐに分かった。サンダーや、さっきの老メイド。ミヘルナに近い者たちはチェルナを見るとミヘルナとあまりに似ているので必ず驚愕した。分からないでもない。キャロルも、実際二人を同時に目前に置いて見て、あまりにも似過ぎている事に気味の悪さを覚えたほどだったのだ。


 しかし、ミヘルナはチェルナのことを見ても眉一つ動かさなかった。


 自分を鏡で写し取ったような他人を見れば誰だって驚くと思う。しかし、ミヘルナはまるでチェルナのことが見えてもいないかのように振舞った。逆に不自然に思える。


 チェルナはというと、いつもの闊達さ、傍若無人さをどこかに置き捨てたような、硬直した表情で、縛り付ける様な視線をミヘルナの後姿に注いでいた。顔色も真っ青だ。彼女の様子も明らかに不自然だろう。


 首をかしげながら、キャロルはミヘルナの後を追った。




 館の居間は、狭くはあったが良く片付けられ、そこここに置かれた観葉植物が瑞々しさを演出し、大きな窓から差し込む日差しがまぶしい程だった。ミヘルナとキャロル、チェルナとヘレナの四人は籐椅子でガラステーブルを囲んで座った。すぐに冷たいお茶が置かれる。


「片付いていないのは許して頂戴ね」


 ミヘルナは微笑みながら言った。


「この年になるとね、あまり片付いた部屋は落ち着かないものなの」


「僕も片付きすぎた部屋は落ち着きません」


「じゃぁ、ガイアと同じね。ルームメイトだったヒューマリオがよくこぼしていたわ」


「ヒューマリオ・ナスティ元帥ですか?」


 緑玉王国最後の陸軍総司令だった男である。


「そう。ガイアとヒューマリオは、私が八歳の時、護衛武官として私に付けられたの」


「それは…。初耳です」


 キャロルはかなり驚いた。


 ガイア・ラリオス八歳、ヒューマリオ・ナスティ十二歳の時である。当時、緑玉王国の第一王女だったミヘルナ・ロイ・イシリオは大人の護衛武官を嫌がるようになっていた。そこで、騎士の子弟から年齢の近い者が集められ、そして選び出されたのがガイアとヒューマリオだったのである。


 選抜基準は当然腕が立つことであったが、容姿が良い事も条件の一つだったのだという。


「不細工な男に四六時中くっ付かれていたら、息が詰まるわ」


 ミヘルナの言葉にヘレナだけが面白そうに笑った。


 八歳のガイア・ラリオス。その姿は正に神像か妖精の様であった。十分美少年だったヒューマリオが霞んで見えたくらいである。ミヘルナは初対面の時思わず、作り物ではないのかと彼の頬をつねってしまったのだそうだ。


 ミヘルナとガイア、ヒューマリオの三人はそれから六年間、ほとんど離れることなく過ごした。学校も共に通い、旅行にも一緒に行った。護衛武官と姫君と言うよりは仲の良い兄妹の様な関係となり、様々なことを一緒にやったものだった。


「ガイアはその頃からほとんどしゃべらない子でね、初めは意志の疎通に苦労したわ」


「どんな子供だったのですか?」


「寝てばかりいたわ」


 これにはキャロルも苦笑した。「ガイア帝の居眠り」といえば非常に有名であったからだ。議会議事の最中に寝てしまうなど序の口で、式典の最中、パレードのオープンカーの車内で寝ていることさえあった。


 子供の頃も同じだ。学校の授業中の居眠りは当然。それどころか、散歩の最中にも、ちょっと目を離すと座り込んで寝てしまうのである。これでは護衛の役には立たないと役目を外されそうになったこともあった。


 ガイアの強さはまだ子供であったその当時から伝説的なものがあった。何しろ、大人の騎士、緑玉王国の近衛騎士であるから選りすぐりの騎士である、その彼らを向こうに回して勝ってしまうのだ。ガイアとヒューマリオに稽古をつけるはずだった騎士が逆にガイアに打ち倒されるのを、ミヘルナは何度も見た。


「特異体質でね。筋力が人の三倍はあるの。大人を片腕で持ち上げて投げてしまうのだもの」


「それも私と同じですよ」


 これにはミヘルナのほうが目を丸くした。試しにテーブルを片腕で持ち上げて見せると、彼女はゆっくり拍手をしながら笑った。


「遺伝するのね。素晴らしいわ。あなたも剣を学べばガイアくらい強くなれるかもよ」


「皇帝が剣技に優れていても自慢になりません」


「それもそうね」


 ヘレナが律儀に手を上げてから発言した。


「でも、ガイア様は放浪の剣士だったって聞きました。どうして緑玉王国を出られたのですか?」


 ミヘルナの表情にほんの少し、陰りが過ぎった。


「あの人が、北天士に勝ってしまったのよ」


 北天士とは、世界最高の剣士の称号である。


 四大大陸群を代表するという意味が込められた東・西・南・北の天士。そもそもは黄金帝国時代に開かれていた剣術大会で上位者に送られた称号であるが、四大宝玉時代にそれが一人歩きを始め、その時代最強の剣士に与えられる称号となったのである。


 一騎打ちで勝った者がその称号を引き継ぐという決まりで、有名な剣士が代々名を連ねた。その中の一人、北天士アーレル・ケストナーは緑玉王国近衛騎士団の顧問を務めていた。その彼がガイア・ラリオスの噂を聞きつけ、手合わせを望んだのだ。


 ガイアは、アーレルの顔を直視しながら彼の言葉を聞いていたが、コクリと頷いて言った。


『真剣でなら』


 北天士の位を賭けての一騎打ちなら、という意味である。


「仰天したわ。アーレル・ケストナーの強さは私も聞いていてね、ヒューマリオも、いくらなんでも敵わないって言ったの。私は必死に止めたわ。でも…、聞き入れてくれなかった」


 一騎打ちは地上庭園の一角で行われた。国王イシリオ三世ほか、大臣や貴族、もちろんミヘルナとヒューマリオもが見守る中で、その歴史的対決の幕が切って落とされる。ガイア・ラリオス時に十四歳。アーレル・ケストナーは三十一歳であった。


 戦場も知らぬ小僧っ子が何をぬかす、という態度だったアーレル・ケストナーの余裕は、ガイアの最初の一刀を受けた瞬間に消し飛ぶ。続けざまに豪剣を浴びて、彼は大きく後退した。


 しかし、アーレルも流石である。体勢を整えると反撃に出た。剣が何本もの首を持つ蛇のようにうねり、続けざまの突きがガイアを襲った。さすがのガイアが交わし損ねて、肩口から鮮血が飛び散る。ミヘルナは悲鳴を上げた。


 しかしガイアは表情一つ変えず、剣の雨の中に分け入る様に一歩踏み込んだ。信じ難い力で剣を跳ね飛ばされてアーレルが唖然とする。ガイアの斬撃をアーレルは手傷を負いつつも辛うじて交わした。


 息つく間もない攻防の応酬は果て無く続くかと思われた。しかし、やがて優劣がはっきりする。無尽蔵の体力を持つかに見えるガイアに比べ、アーレルの方に疲れが目立つようになったのだ。傷を負う回数もアーレルのほうが多くなった。


 遂に、アーレルは隠しておいた最後の手段を使った。懐に潜ませた短剣を至近距離から投げつけたのだ。ガイアは大きく身を捻ってこれを交わす。ここぞとアーレルの剣が振り上げられる。


 ガイアの足がひらめく。不十分な姿勢から片腕で振られようとしたアーレルの剣。その腕の肘の部分をガイアの足が蹴り上げた。


 アーレルが絶叫する。その右腕は不自然に折れ曲がり、彼は膝を落とし、蹲った。そこにガイアが剣を突きつける。


 ガイアの勝ちだった。


「もう夢中で手を叩いて、ガイアに飛びついたわ。本当に…すごかった…」


 天士は国家に属さない、というのが当時いつの間にか出来た不文律であった。しかし、アーレル・ケストナーが騎士団顧問だったように、どの天士も大抵はそのような形で国家の保護下にあるのが普通だったのである。当然、ガイアもそうなるだろうと思われた。しかし・・・。


「次の日の朝、もうあの人はいなかったわ。黙って。私に何も言わずに出て行ってしまったの」


 ルームメイトだったヒューマリオには『剣士になる』と言い残して言ったのだという。


「あの人と、六年も一緒にいたわ。でも、何を考えているのかは遂に最後までさっぱり分からなかったわね」


 ミヘルナとガイアが再会するのはその九年後。聖戦軍によるベラグール要塞占領に伴う聖戦軍と緑玉王国の会談、降臨暦四七五四年の「エイケルディア会談」が行われた時まで待たなければならなかった。


「私が知っているガイアはそういうガイアだったわ」


「…そうですか…」


 ミヘルナはあえて言わなかったが、彼女とガイアの物語には第二幕がある。


 緑玉王国は降臨暦四七六〇年、聖戦帝国からベラグール要塞を奪還することに成功した。エイケルディア会談で結ばれた不可侵条約はその前年で効力が切れていたのだ。この瞬間、ミヘルナとガイアは敵同士になったのである


 翌、四七六一年今度は聖戦帝国が緑玉王国本土に侵攻する。激闘の末、四七六三年ついに聖戦帝国が緑玉王国を下して天下統一を果たす。


 この時、緑玉王国の降伏交渉において、ミヘルナとガイアは再び会っている。勝者と敗者として。ヒューマリオ・ナスティはこの交渉の始まる直前、降伏に反対した軍の不満分子を引き連れ聖戦帝国軍中枢に特攻を掛け、壮烈な戦死を遂げていた…。


 今は、既にガイア・ラリオスもいない。変転する運命に翻弄された歴史の生き証人は、静かに微笑みながら湯飲みを口に運んでいた。


 その時、それまでずっと黙ったままだったチェルナが決然と顔を上げ、言った。


「お伺いしたいことがあります!」


「なにかしら?」


「お子様のことです!」


 何を言い出すのか。キャロルはチェルナを止めようとした。しかし、表情を見てしまって口を開くことが出来なくなる。チェルナの顔色は蒼白で、唇は戦慄いていた。ミヘルナを見る目は真剣そのもので、まるでそれが何か恐ろしいものであるかのような彩を帯びていた。普通ではない。


「リュート・ミヘルナ親王がどんな御子だったのかを教えていただきたいのです!」


 ミヘルナは微笑を崩さないままチェルナを見返した。


「リュートのことを?」


「はい!」


「…かわいそうなあの子については…、教えて上げられるようなことはそんなにないのだけど…」


「ぜひ!おねがいします!」


 ミヘルナは微笑を崩さぬまま椅子に深く座り直した。


「私と、ヤスターシェの唯一の娘、リュートは四七六三年一月に生まれて、十五月にウイルス性の風邪を拗らせて死んだ。…そのことは知っている?」


「はい」


 チェルナは生真面目に頷いた。


「黒い髪と黒い瞳。まだ目鼻立ちははっきりしなかったけど、ヤスターシェは私に似ていると言ってくれたわ…」


 ミヘルナの唯一の子供、リュート・ミヘルナ親王は、聖戦帝国と緑玉王国が決戦の時を迎えようとしていた、まさにその時誕生した。ちなみにキャロルもまったく同じ月に生まれている。


 世が世であれば。無事に成長しさえすれば、緑玉王国の次代国王となったであろう娘。その運命は実に哀れであった。


 その年の十二月、緑玉王国は聖戦帝国に対し無条件降伏。降伏後の混乱の中、その年の最後の月に、リュート・ミヘルナは一歳にも満たない生涯を閉じるのである。


 唐突な死。そのため、聖戦帝国が将来の禍根の芽を摘み取るために殺害したのだという噂が当時から根強く流れていた。


「いいえ、それは無いわね。私が看病して、最期を看取りましたから」


 ミヘルナは微笑を保ったまま言った。


 チェルナは、それを聞いて下唇を噛んだ。しばらくうつむいた後、ようやく決心がついたのだろう。ミヘルナに質量さえ感じさせるような視線を注ぎつつ口を開く。


「生きている、という噂を聞いたことがあるのですが」


 キャロルは仰天した。なんということを言い出すのか。今ミヘルナが確かに看取ったと言ったばかりではないか。


 そもそも、幼くして亡くした我が子のことを口の端に乗せるだけで、ミヘルナは辛い思いをしているはずだ。キャロルが彼女の立場なら、それは出来れば思い出したくも無い悲しい記憶であると思う。それを無遠慮にほじくり返すのは最大の失礼であろう。


 しかし、チェルナの態度は、この質問に何か重要なものを賭けているというような、鬼気迫るものを感じさせた。


 ミヘルナは変わらなかった。微笑を、張り付かせたかのように変えることが無い。その表情のままゆっくり首を振った。


「有り得ません」


 その返事を聞いてチェルナの中で緊張の糸が切れたようだ。急に表情が緩み、乗り出していた体を椅子に深く沈める。なんだか呆然としているように見えた。


 唐突に気がついた。


 キャロルはもう一度チェルナとミヘルナを交互に見る。そう、他人であるとは信じられないほど似ているのだ。


まるで、親子のように。


 チェルナは、自分がリュート親王ではないかと疑っていたのだ。


 考えてみればそれも当然の疑惑だと思えた。何しろ、チェルナの生年はキャロルと同じだ。つまり、リュート親王と同じ四七六三年なのである。そして、チェルナのフルネームは、チェルナ・リュート。そう、リュート親王の名前が彼女のアンダーネームなのである。


 瓜二つの女性の娘の名が自分のアンダーネームで、その子が自分と同い年。しかも亡くなっていて、自分はその子が亡くなった年に施設に預けられている。


 偶然と言うには整いすぎた状況証拠であると言えた。


 チェルナは当然そう考えたのだ。彼女は本来ならこう叫びたかったことだろう「あなたは私のお母さんではないですか?」と。


 しかし、ミヘルナが「リュート親王は死んだ」と言い切る以上、その疑惑は完全に否定されてしまう。なにしろ、親であり、その最期の時を看取ったミヘルナの言葉なのだ。これを覆すには客観的な証拠を突きつけるしかないのだが、そんなものは当然存在しない。


 ミヘルナは微笑したまま湯飲みに口をつけた。


 その表情は先程からまったく変わらない。柔和な微笑。


 その表情はそれから他に色々な話をする間もまるで変わることは無かった。


 夕焼けが窓ガラスを染め始めた頃にキャロルは辞去することにした。ミヘルナはキャロルの手を握った。


「またおいでなさい。それまでにガイアのことをもう少し思い出しておくから」


「今度はぜひ、国王としての心構えなどを教えてください」


「ご冗談を皇帝陛下。あなたは既に立派な君主ですよ」


 そして、ミヘルナはキャロルの横に立つ女性二人に向き直った。


 まず、ヘレナの手を取る。


「あなたが入れてくれたお茶はとてもおいしかったわ。今度は一緒にケーキでも焼きましょうか」


「本当ですか!ぜひお願いします!ね、キャロル様!また連れてきて下さいね!」


 そして、ミヘルナはチェルナを見た。


 チェルナは軽く顔を伏せていた。ミヘルナと目を合わさない。ミヘルナは構わずチェルナの手を取り、言った。


「またおいでなさい。私のかわいい娘たち」


 チェルナは思わず顔を上げた。ミヘルナの微笑がそこにあった。先程からまるで変わらない、優しい微笑。


 二人はしばらく見詰め合った。


 唐突に、チェルナの瞳から涙が一筋流れ落ちた。見開いた黒い瞳から流れた涙に夕焼けの色が反射する。


 ミヘルナは微笑んだまま無言だった。




 ミヘルナの子、リュート・ミヘルナが、チェルナ・リュートであったのかどうか。歴史上、非常に有名なミステリーである。


 歴史小説などでは、二人が同一人物であったことは既に規定の事実であるとみなされているが、実はどこにも証明された根拠が無い。多くの人が思い込んでいるほど確実な歴史的事実ではないのである。


 ミヘルナとチェルナが初めて会った時の別れの科白「私のかわいい娘たち」は、国王が臣民に親愛の情を示す際に良く使う表現であり、これをもってミヘルナが事実を告白したとするのは早計だ。チェルナとミヘルナはこの後、数回会っているが、結局一度もこの話題について触れないで終わっている。


 しかし、否定のしようが無いほど二人の容姿は似ている。どう甘く見積もっても限りなく疑わしいのだ。真相は闇の中なのだが、結局、後世ほとんどの人がミヘルナとチェルナを生き別れた親子だと認識している。ある歴史家は皮肉気にこう記した「遺伝形質が歴史的陰謀を台無しにした稀有な一例」。


 チェルナは後年この件について質問を受ける度、微笑んでこう答えていた。


「親の顔をまったく思い出せないのだからなんとも言いようが無いわね」




 緑玉城の空中庭園は、主がいなくなってからもしっかりと管理を続けられていた。その内一般公開することが検討されていたためだが、やがて、キャロルの決定により、緑玉城の王宮区画は聖戦帝国皇帝の夏の離宮とされる。以来皇帝は一年の半分をここで過ごす決まりとなった。


 庭園のバルコニー。そこにチェルナはいた。


 キャロルは安心した。晩餐会が終わってからチェルナの姿が見えなくなったので、捜していたのだ。チェルナは外灯の淡い光に照らされつつ夜風に黒髪を流している。着ている服は軍服だ。晩餐会にはキャロルの秘書として出席したからである。


 声を掛けると面倒くさそうに振り向き、また外を向いた。眼下には、ロークシティアの街が地上の銀河のごとく燦然と煌いていた。しかし、チェルナが見ているのはそれではないのだろう。もっと手前。地上庭園にある小さな館を見ているはずだ。暗くて見えるはずも無いが。


「風邪引くよ。ネサイエスと違ってティティスは寒いから」


 チェルナは鼻で笑った。


「何言ってんの。あたしはロークシティア出身なのよ。あんたよりもここの気候には詳しいわよ」


「そうか」


 キャロルはチェルナの横に立った。彼も夜景を見ている振りをする。


 既に一三月になっていた。初冬である。吐く息は白く、風は既に切りつけるような冷たさを持っていた。ふと見ると、チェルナは震えていた。当たり前だ。この気温の中、彼女は軍服一枚の姿なのだ。キャロルは自分が着ていたコートをチェルナの肩に掛けた。


 礼も言わずにチェルナはコートの前をつかんで引き寄せた。急に寒さを覚えたのか、歯を鳴らしながら、それでも動こうとはせず視線を闇に向け続けている。白い息が歯の間から立ち昇って夜空に消えてゆく。


「あたしを馬鹿だと思う?」


 突然、チェルナがつぶやいた。


「どうして」


「あんなことを言って。考えたら馬鹿みたいよね。ミヘルナ様がお認めになるはずが無いのよ。あの方はそういう立場におられる方なのだから」


「そうだね」


「あたしはね。別に自分の親が知りたい訳じゃ無いの。もしも自分の親が目の前に現れたら、ぶん殴ってやりたいと思えるような経験も一杯しているし。でもね、でも、やっぱり、自分が確かにこの世に生れ落ちたっていう証拠が、少し欲しい。それだけ…」


 キャロルは、ミヘルナのことを思い出していた。変わらない。変わらな過ぎる微笑。我が子の死を語る際にも動かなかった、表情。


 冷気が肩口から浸透を始めていた。キャロルは自分の腕を擦りながら、つぶやいた。


「僕も、両親が目の前に現れたらぶん殴ってやりたいと思ってる」


「死んでいる人は殴れないでしょ」


「生きている、という噂があるんだ」


「え!」


「死んだ、って言う割には、葬儀の際に遺体を見た人がいない。そもそもおかしいだろ?その前日までぴんしゃんしていたまだ若い二人が、突然病死。しかも二人同時にだ」


 降臨暦四七六四年四月。ガイア帝とその皇妃クシーは突然、病に倒れ、そのまま急死した。享年はガイアが三十二歳、クシーが三十一歳である。


 しかし、この全世界を驚倒させた死去の報にはおかしな点が幾つかある。


 まず、死因の発表が曖昧であったこと。病名は公表されず、ただ病死との発表であったのだ。死亡時刻も曖昧。遺体は公開されず、本人たちの遺志だったという簡素な葬式がそそくさと行われ、同年一三月、キャロルの即位とアロルド・ケドネスの摂政就任が同時に行われた。


 緑玉王国かその他の王国の残党が暗殺したのだとか、アロルドが自分の権力掌握のために暗殺したのだ、はたまた帝国軍が秘密クーデターを起こしたのだなどという説が現在でも囁かれるが、結局真相ははっきりしない。そもそも、聖戦帝国の公式発表では二人は間違いなく病死したと断言されており、それに表立って異論を唱えるだけの状況証拠も整わないのだ。リュート親王の場合と違って、ミステリー自体の存在がそもそも怪しい。


 しかし、キャロルは直感的に、二人は生きているのではないか、と考えていたのだった。


 生きているとすればおかしな話である。全世界の皇帝と皇妃に上り詰めた二人が、どうして人々の前から姿を消さなければならないのか。理由が無い。しかしそれでも、キャロルにはなぜか二人が生きているのではないかという思いが捨て切れないのだ。ガイアとクシーのことを知るにつけ、あの二人がそう簡単に死ぬはずが無いという根拠の無い確信がキャロルの胸には生まれつつあった。


 しかし、そうであるとすれば、キャロルは二人に捨てられたということになる。


 キャロルが感じているガイアに対するわだかまりはここから生まれていた。証拠などは今のところない。ただの思い込みである可能性もある。


「どうして自分を置いて姿を消してしまったのか、が知りたいって訳?」


「ああ」


「連れて行って欲しかった?」


 思わずキャロルはチェルナを見た。彼女の視線がキャロルを見上げていた。


「…どうかな。よく分からない」


 それは、想像もつかないことであった。そもそも、ガイアとクシーのことをまったく覚えていないのだ。代わりに、養父養母の姿が脳裏に思い浮かぶ。優しく厳しく育ててくれた二人。キャロルは彼らのことを愛していたし、自分が幸せであることも自覚していた。人生を別なそれと取り替えたいなどとは思ったこともない。


 キャロルの正直な答えを聞いて、チェルナは雪の中で咲く花のような微笑を浮かべた。


 キャロルの気遣いが嬉しかった。彼はチェルナの思いを和らげるために自分の秘密を明かしてくれたのだろう。チェルナはキャロルの胸に軽く身を寄せた。キャロルの手がその肩にそっと、添えられる。


「帰りましょう、クレタへ。学校、大分休んじゃったから、取り戻すのは大変よ」


「そうだね」


 二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。




 聖戦帝国首都クレタには冬らしい冬が無い。ネサイエス大陸群がそもそも温暖な大陸群であるからだが、地熱が他に比べて高いからだという説もある。高原であるために夏は涼しく、それでいて冬暖かいのである。


 季節的には真冬だと言うのに、歩くキャロルはうっすらと汗をかいていた。皇宮からエブリス大学までは十八キロメートルもの距離がある。如何にキャロルでも遅刻しないように早足で歩けばかなりいい運動になるのだった。


 大学の、素っ気無い門を潜るとなんだか懐かしい気分がした。


 軽く半年振りだ。プロト大陸群の反乱を平定し、ティティスに寄って帰ってきて、更になんやかやと事後処理を済ませた。彼は皇帝であり、皇帝には様々な責務がある。彼はその責務を投げ出したことは一度も無い。後世、彼に批判的な者たちも、彼の責任感の強さと勤勉さを認めない訳にはいかない。だが、同時にキャロルは、必ずエブリス大学に戻る気でもいた。反乱平定を機会に彼の皇帝としての存在感は増し、やらなければならないことも加速度的に増えていた。しかしそれでも、彼はエブリス大学に通うことに拘った。


 何故だろう。キャロルは自分でも思う。


 半年振りに講義を聴いても、さっぱりついていけない。これは苦労しそうだな。キャロルは心の中で苦笑した。養父アロルドと約束した五年で卒業は諦める他なさそうである。


 昼休みの時間になった。キャロルの足は自然と大学の中庭方向を向いた。


 チェルナ、ヘレナとは二ヵ月ほど会っていなかった。クレタに帰還してから、キャロルは二人を私設秘書から解任していたからだ。チェルナは大分ごねたが、こればかりは有無を言わさなかったのである。正直に言うと、チェルナの事務処理能力はキャロルにとっても惜しかった。しかし、キャロルは友人とは友人として対したかったのだ。


 見慣れた白いパラソルがあるのを見て、キャロルはなぜか安心した。


「あ!キャロル様!」


 ヘレナが白いリボンとツインテールを跳ね上げさせて、飛び上がるように立ち上がった。


「お帰りなさい!」


 それはキャロルの心情にぴったり来る言葉だった。


「ささ、おいで下さい!大丈夫ですよ!キャロル様がおられない内にもしっかりお料理の練習をしていましたから!」


「それは楽しみだ」


 キャロルは世辞でなくそう言いながら椅子に腰掛けた。ヘレナが鼻歌を歌いながらバスケットから次々料理を取り出していると、


「おお?キャロルか?」


 振り向くと、エスパーナがわざとらしく驚いていた。


「いつ帰ってきたんだ?まいったな、ヘレナちゃん、俺の分はあるかい?」


「あ、エスパーナさん、大丈夫ですよ、たくさんありますから」


「お前がいない間はお前の分を俺が食ってたのさ。残したら勿体ないし」


 エスパーナはキャロルの隣の椅子に腰掛けた。


「いや~、帰ってきてくれて助かったぜ。なにせお前がいないとあの馬鹿女が暴走しっぱなしでよ、見てくれよこの傷!なんだかしらねぇが後から後から厄介ごとを持ち込みやがってな。ま~、あいつもお前に会えなくて寂しかったんだろうよ。ねぇ、ヘレナちゃん」


 話を振られたヘレナは返事をせず、微笑しながら何故か硬直している。嫌な予感を覚えてエスパーナが振り向こうとすると・・・、


「ウゴ!」


 頭を蹴られてエスパーナがすっ飛ぶ。


「誰が馬鹿女よ!大体、あんたに食わせるヘレナの料理は無いっていつも言ってるでしょ!」


 倒れた椅子を起こしてどっかり腰を下ろすと、チェルナは何故か明後日の方を向きながら言った。


「お帰り」


「ああ、ただいま」


 キャロルは逆に、久しぶりに見るチェルナの横顔を微笑しながら見つめた。


頭を押さえつつ立ち上がったエスパーナが憤然と抗議する。


「なんてことすんだこの野郎!」


「うるさいわよ!食事の時は静かにしなさい!」


「てめぇ!この間人手が足りないからっていうからアルバイトを手伝ってやった恩を忘れやがったのか!」


「何言ってんの!早々にばてて役に立たなかった挙句の果てに逃げ出したくせに!あんたよりヘレナの方が何倍も役に立ったわよ!」


 キャロルはニコニコしながらヘレナが差し出してきたサンドイッチを受け取り、お茶の入ったカップに口をつけた。なんだか急に平和を実感する。


 そうなのだ。こういう時間が平和な時間なのだ。キャロルは思う。皇帝としての責務を懸命にこなすのも、こういう平和な一瞬を守るためだと思えば苦にならない。


 もしも大学に通っておらず、チェルナやヘレナ、エスパーナたちに出会っていなかったらどうだっただろう。自分はもしかしたら何のために皇帝で在るのかを見失っていたかもしれない。そう思える。


 チェルナとエスパーナの微笑ましい掛け合いはまだ続いていた。


「あんたってほんと役立たずよね!あんたに出来る仕事なんてこの世にあるのかしら?あんたの将来が心配だわ!」


「ふん!お前の持ってくるアルバイトが俺にはくだらな過ぎるのさ!もっと高尚で上等なアルバイトを持ってきやがれ!」


「あら、そういうアルバイトなら出来るとでも?」


「ああ、喜んでやってやろうじゃないか」


 あ、馬鹿。


 言い切ってしまった後でエスパーナも自分の失言に気がついたようだ。


 おそるおそるエスパーナはチェルナを見る。余裕たっぷりにカップのお茶を飲み干した後、チェルナは実に幸せそうに、見ようによっては実に嫌な感じで笑った。


「ああ、そう」


「いや、そのな…」


「そこまで懇願されては仕方が無いわね。いいわよ~、ぜひ紹介させて頂こうじゃないの。高尚で上等なアルバイトを」


 エスパーナが脂汗を流しつつ後ずさる。


「安心しなさい!過不足分無いくらい高尚で、申し分ないくらい上等なアルバイトを見つけて来てあげるわ!そうねぇ、一生忘れられない思い出になっちゃうかも知れないくらいの奴がいいわよね!」


 おいおい。


「もちろん、安心して!ヘレナ!キャロル!ちゃんとあんたたちも一緒に出来るように取り計らってあげるわ!」


 誰も頼んだ覚えは無いのだが、チェルナにも頼まれた覚えは無いだろうから言っても無駄であろう。


「わぁ!どんなお仕事なんでしょう!ね、キャロル様楽しみですわね!」


 ヘレナが無邪気に喜ぶ。学習機能が無いのかこの娘は。ヘレナだってチェルナにバイトに引っ張られて行って、ひどい目に合わされたのはこれが最初では無いはずなのだが。


 キャロルは楽しげに微笑していた。何とかしろ、と言おうとしてエスパーナはキャロルを見たのだが、その表情を見て諦めた。ある意味大物過ぎるのだ。この皇帝陛下は。特にチェルナのしでかすことに対しては無制限に寛大になってしまえる性格らしい。


「じゃぁ、そういうことで次の休学日の朝!始業時刻にここに集合!わかったわね!」


 叫ぶチェルナを見ながらエスパーナは諦めの意を込めて嘆息した。




皇帝、キャロル一世。彼は後世、どちらかと言えば強権的で独善的な政治運営を行い、議会を蔑ろにした皇帝としてあまり評判が芳しくない。しかし、初代皇帝ガイアの治世が無いに等しかったことを考えれば、彼が実質的な聖戦帝国初代皇帝なのだ。彼の定めた針路に則って歴史の海に船出した聖戦帝国は、十八代、五百六十四年の長きに渡って続くことになる。





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