第3話
それは、何気ない日常から始まった。
要するにいつものように芝生に設置された(もはや常設状態だった)パラソル付きテーブルで、食後のお茶を飲みつつヘレナがキャロルに甘えかかり、その度にチェルナにどつかれたりしていた、そんな日の事だった。
平和な日常をことのほか愛するキャロルは満足げに微笑んでいた。日によってはエスパーナも割り込んで、性懲りも無くヘレナにモーションを掛けたり、チェルナと漫才を演じたりしてくれる。
相変わらずチェルナがキャロルをアルバイトに駆り出す事も続いていた。ついでにヘレナとエスパーナまでも巻き込まれる事もよくあることだった。
いろいろな意味で平和な日々が続いていた。レポートやテストに苦しめられることも、大学生にのみ許された特権だと思えば、それを含めて楽しい大学生活をキャロルは送れていたのだ。
この日までは。
バチン!何かが弾けるような音がした。
「なんですかぁ?」
ヘレナが呑気な声を上げる。チェルナも音がした方向を振り仰いだ。
再び同じ音がして、空中に火花が散る。
キャロルの瞳に戦慄が走り抜けた。
「きゃ!」
キャロルはいきなりチェルナとヘレナを抱き寄せると、飛び込むように地に伏せた。テーブルが派手に転倒し、カップや皿が飛び散る。
「きゃー、キャロル様!」
何事か勘違いしたヘレナはキャロルに抱き付いた。しかし、キャロルの表情はチェルナがかつて見た事も無い程真剣で、険しい。肩に回された手が痛いほど強くチェルナを抱き寄せている。
「僕から離れるな!」
殺気立った声でキャロルが言う。チェルナは無意識に頷いた。キャロルはテーブルの陰に伏せながら左右を見回し、
「あの校舎まで走るよ!いいね!」
チェルナが返事をするよりも早く、キャロルは走り出していた。チェルナとヘレナを小脇に抱えて。
瞬間、周囲で火花が続けて弾けた。爆ぜるような音が連発して聴覚を占領する。キャロルが本気で走るとこんなに速いのか、とチェルナが感心する間もなく、キャロル達は校舎の陰に飛び込んだ。その瞬間校舎の角の煉瓦が砕け散る。壁に跳ねたそれが地面にめり込み、焦げ臭い匂いを伝えた。
弾丸だ。チェルナはようやく気が付いた。何者かに狙撃されたのだ。誰をって?もちろんキャロルをに決まっている。
弾着はすぐ止んだ。キャロルはしばらく様子を伺っていたが、やがてほっとしたようにチェルナを解放した。ヘレナはそのままキャロルにしがみ付いていたが。
キャロルから離れて、チェルナは自分が震えている事に気が付いた。心臓が早鐘の様に鳴っている。それはそうだ。彼女は今、生まれて初めて他人に銃で撃たれたのだ。
「い、今のは、何?」
キャロルは、チェルナの方を向かずに答えた。
「狙撃された」
「何で!」
「分からない」
チェルナは信じなかった。
「さっきの火花。あれ、防弾装置が弾丸を弾いた印よね」
キャロルは静かに頷いた。
防弾装置。重力制御装置であるビートルシステムを応用し、ある一定の高速域に達した物体(つまり銃弾)を弾き返す力場を発生させる装置である。この装置の発達が、銃器の無力化を生み、陸上戦闘の風景を中世以前に後退させた。
つまり、キャロルはあらかじめ防弾装置を作動させていたのである。防弾装置の力場は高速で走行する車等にも反応してしまう可能性がある上、人によっては耳鳴りや頭痛を感じる場合もあった。日常生活中に作動させっぱなしにしておくなど普通は有り得ない。
つまり、キャロルは狙撃の可能性を予め察知していたとしか思えないのである。
キャロルはチェルナの疑問をあえて無視することに決めたようだった。
校舎の中に入り、事務室で電話を借り、皇宮から車を呼ぶ。
キャロルは車が到着するまで、ヘレナの頭を時折撫でながら沈黙を守った。
車が来ると、キャロルは二人を車の後部座席に乗せ、自分は乗らずにドアを閉めた。
キャロルは最後までチェルナから視線を逸らし続けた。その横顔は透き通るような無表情。車が動き出し、キャロルの姿が遠ざかる。ヘレナが無邪気に手を振るが、キャロルはただ立ち尽くしていた。
校舎の入り口で佇むキャロルはなんだか小さく見えた。
次の日から、キャロルは大学に姿を表わさなくなった。
聖戦帝国は後世、聖戦連合王国と称されることもある。
聖戦帝国には全国土の八割を占める皇帝直轄領の他に、大小様々な王国が百二十四ヶ国(降臨暦四七八三年時)存在していたのである。これらの王国はまったく独立国と呼んで差し支えないような扱いを受けていた。独自の税制、法律の使用が認められ、これらの国の国民には聖戦帝国法の効力はほとんど及ばないくらいだったのだ(例外的に、皇帝裁判所に訴え出る権利が認められている)。
これは、聖戦帝国が天下統一戦役を進めるにあたり、戦わずに降伏した国は基本的に所領と地位を安堵するという方針を採った事による。聖戦帝国は四大宝玉王国とは徹底的に対決したが、他の国は出来得る限り降伏させ、無用な戦いは避けたのであった。
聖戦帝国は支配下の諸王国に対して非常に寛大であり、税の上納すら求めなかった。諸王国に対して求めたのは次の二点に過ぎない。
・ 軍備の禁止。
・ 民衆の移住を妨げないこと。
降臨暦四七八〇年代、この「民衆の移動を妨げないこと」という項目が政治問題化しつつあった。諸王国から帝国直轄地へ移住する民衆が、年を追うごとに増加の一途を辿るようになっていたからである。
聖戦帝国はかつての黄金帝国に比べ、国民の参政権を大幅に拡大していた。立法府である聖戦帝国議会を設置し、選挙権と被選挙権を十六歳以上の国民全てに認めたのである。これは当時画期的なことであった。聖戦帝国議会を発案、実現させたのはキャロルの実母クシーと養父アロルドである。特にアロルドは第二次ティティス侵攻作戦前に議会において強力な停戦論を展開、皇帝ガイアと対立。結局はガイアの「第二次聖戦演説」によって停戦は実現しなかったものの、皇帝に対抗できる政治システムとしての議会の実力を一躍世界に知らしめた。
これに対して諸王国は旧態依然のままの絶対王政を採用していた。国民に参政権は皆無。国王とその取り巻きである貴族とで全てが決定されるシステム。これは黄金帝国、四大宝玉王国においては当たり前の政治制度であったのだが、間近に開放された政治制度を見せられている各国の国民たちは不満を覚えたのである。
悪いことに安定した帝国政府と強大な帝国軍によって保護された帝国直轄地は四大宝玉時代の痛手から早々に回復。この後百年に渡って続くことになる経済成長を始めつつあった。それに対して諸王国は完全に立ち遅れ、軍備を没収されたために国内の治安も悪化。これがより一層の民衆の流出に繋がり、それが更に諸王国の経済基盤を縮小させるという悪循環が起こったのである。
諸王国は帝国政府に対策を訴えたが、帝国はこれに対し実に冷淡な態度を取った。帝国の方針は、諸王国にはほぼ完全な自治権を与えたのだから、自らの国内は自国で何とかしろ、ということに尽きた。四大宝玉時代からの復興途上である直轄地のことで手一杯で、諸王国のことまで手も予算も回らないという台所事情もある。
こうして、諸王国と聖戦帝国政府の間に対立が起こる。中でもそもそも人口が少なく、それでいて多量な人員を必要とする鉱山関連産業が経済の中心である、プロト大陸群で問題が深刻化した。
プロト大陸群には四大宝玉時代、青玉王国とその他七十八ヶ国が存在したが、降臨暦四七五八年、聖戦軍の侵攻により青玉王国は滅亡する。他の国はあらかた降伏し、四七八三年現在では五十二ヶ国が自治権を守っていた。自治王国の数が最も多かったのがこのプロト大陸群だったのである。これは、四大宝玉時代末期、プロト大陸群は既に経済的に行き詰りつつあり、聖戦帝国に対する抗戦能力を持つ国が少なかったことによる。
聖戦帝国はプロト大陸群の六割の地域を直轄統治したが、これは四つの大陸群の中で最も少ない割合である。
プロト大陸群は、四つの大陸群の中で最も寒冷で山がちであるという特性を持ち、食料自給率は皆無であった。しかし、その地下資源埋蔵量は他の大陸群のそれを合わせたものの数百倍と言われ、この地下資源の開発は世界経済の発展安定のための絶対条件であるとも言われていた。
プロト大陸群発展のために必要なことはそう多くない。つまり、食料を常に安定供給し、人口を安定させること。プロト大陸群は黄金帝国時代以前から頻繁に飢饉に見舞われ、それを嫌って移住者が増えないために人口を増やすことが出来ず、マンパワー不足のためどうしても産業を発展させることが出来ないというジレンマに悩まされ続けてきた。人口が増加、安定すれば継続発展の見込める産業基盤はあるわけだ。爆発的な経済発展の可能性すらある。聖戦帝国はプロト大陸群に対する本格的な投資を決意する。
農業大陸群と通称されるネサイエス大陸群から直通航路を開設。帝国軍が保護するこの航路によって食料品の安定供給が実現した。同時に、工業大陸群であるティティス大陸群との航路も強化。資源と製品の往来を活性化させる。
食糧供給が安定し、開発した資源の売り先さえ決まれば後は心置きなく山を掘り返すだけだ。聖戦帝国直轄地の鉱山は活況を呈したのである。帝国政府の目論みより遥かに早く爆発的経済発展の萌芽が見えつつあった。資源供給先のプロト大陸群の経済発展は、容易にその下の工業大陸群のティティス、流通商業拠点大陸群イアナーサに波及するだろう。プロトの人口が増えれば食料品輸出が増え、ネサイエス大陸群も潤うわけだ。
この好況に取り残されたのがプロト大陸群の諸王国である。聖戦帝国の開設した航路は当たり前だが帝国直轄地同士を結びつけるものであった。つまり、食料の安定供給も、資源の大量輸出体制の確立も、帝国直轄地内でのみの話だったのである。もちろん諸王国にも輸入された食料は分けられたが、直轄地が優先されるのはもちろん、無料供与ではなく有償であった。また、資源輸出航路はまるで使うことが出来ず、今まで通りイアナーサ商人を始めとした流通企業に頼るしかなかった。
勝負にならないのはむしろ当然である。プロト大陸群の諸王国は完全に世界経済から孤立した。
諸王国の国民は先を争うように直轄地へと移住していった。プロト大陸群の民衆はそもそも流動性が強い。土地に固執しないためだ。人口が減れば開発能力が比例して減少するというのが地下資源開発事業というものである。開発能力が減少すればより一層経済が衰退し、それが更なる人口の減少を呼ぶ。
業を煮やした諸王国は遂に民衆の移動を制限するようになった。これは明らかに聖戦帝国との条約違反である。皇帝裁判所に訴え出てきた民衆によってこのことを知った帝国政府は是正を命令。しかし窮迫を極めていた各王国はもはやこれに従う余裕が無かった。
プロト大陸群諸王国の内、二十八ヵ国もが連合して聖戦帝国に対し反旗を翻したのは降臨暦四七八三年春のことである。諸王国は剣士を募集し、戦艦を買い集め、急速に軍備を整えた。
聖戦帝国は即座にプロト大陸群全体に戒厳令を発し、同時にプロト方面軍全軍を総動員体制に置いた。そしてベラグール要塞の聖戦帝国艦隊に出撃準備を命じたのである。
チェルナは待っていた。
「暁の宮」の三重の門。そこから更に離れた街路樹の影である。
「お姉さまぁ、無理ですよう」
ヘレナが袖を引っ張る。
「キャロル様には会えません。お父様に頼んでも無理だったんですから」
「うるさい!」
チェルナはヘレナを黙らせると再び門の方を伺った。
キャロルが大学に現れなくなって一月が経っていた。その間にプロト大陸群での反乱勃発がニュースによって伝えられ、平和だったはずの世界がにわかにきな臭い匂いに包まれつつあった。議会における反乱に対する討伐軍派遣に関する法案は全会一致で可決。皇帝府は反乱に加担した国に対し、全権利の剥奪と討伐を通告。聖戦帝国艦隊は討伐艦隊を編成し、その指揮を皇帝自らが行うと発表した。
そんなことには関係なく、チェルナは腹を立てていた。
なにしろ、あの日以来一言の連絡も無いのである。人をあんな目に合わせておいて、その後何のフォローも無いというのはどういう了見なのか!とっちめてやらなければなるまい。しかし、キャロルに謁見するには大変な手間と時間が掛かる。しかもこのような時勢では一介の学生に対して謁見の許可が下りるとは思えない。
ならば実力行使よ!
というわけで、なぜかヘレナを引き連れてここまでやってきたという訳である。
しばらく待っていると、門が開き、バイクに護衛された二台の車が出てきた。窓ガラスはシールドされ、中は見えない。しかし、あのどちらかにキャロルが乗っているはずだ。
車列は門を出、右に曲がってチェルナたちの方に近づいてきた。
「あ、あ、あの車ですね!キャロル様~!」
ヘレナは道路端に身を乗り出し、手を振ろうとした。
それを見、タイミングを計って、チェルナはヘレナの背中を軽く蹴った。
「あれ?あれぇ?」
ヘレナは車道に数歩進み出てしまう結果となった。先導のバイクの目の前に。
「ぎゃ~!」
「うわ!」
急ブレーキ音が連鎖し、車列は強制停止。
その瞬間車の中から数名の軍服を着た男性が飛び出した。一斉に銃を構えると、座り込むヘレナと仁王立ちのチェルナに突きつける。チェルナは両手を挙げながらも大声で言った。
「キャロルはどこ!」
「チェルナ?」
後ろの方の車のドアが開いて、見慣れた金髪が姿を現した。キャロルだ。なぜだかチェルナはほっとした。
金髪と顔の造作、瞳の色は見慣れていたが、格好は見慣れない。聖戦軍の将官用ジャケットと作りは同じだが、色は純白という聖戦軍総帥服と呼ばれる服を着ている。この服は初代皇帝ガイアが着ていた戦闘服をモチーフに定められた皇帝専用の軍服だ。
始めは驚いていたキャロルだったが、状況を確認すると真剣な顔となってチェルナの方に近づいてきた。とりあえず護衛の者に銃を下げさせ、ヘレナを助け起こす。
「キャロル様~!」
ヘレナはうれしそうにしがみつくがキャロルはちらりとも笑顔を見せない。チェルナの前にやってくるといきなり怒鳴った。
「なんて馬鹿なことをしたんだ!」
キャロルに叱られるというシチュエーションを予想していなかったチェルナは思わず呆然とする。
「こんなことをしたら問答無用で射殺されても文句は言えないんだぞ!」
「な、何よ!」
ようやくチェルナは我に返って反論する。
「あんたがいけないんじゃない!いきなり学校に来なくなって、もうすぐテストも近いのよ!どうすんのよ!」
「僕は今、そんなことをしている場合じゃないんだ。二度とこんなことをしてはいけないよ!いいね!」
キャロルはそういい残すとヘレナを放し、踵を返した。車に乗り込み、走り去る、笑顔で手を振るヘレナ。
車列が次の角を曲がり見えなくなってから、ヘレナはチェルナに向き直った。
「ひっ!」
チェルナは怒りに震えていた。めらめらと怒りの炎が立ち上る様が目に見えるようだ。両こぶしを握り締め、麗貌が凄絶な表情を浮かべている。ヘレナは思わず三歩後退した。
「きゃ~ろ~る~!」
呪いでも掛けるかのような口調でチェルナは宣言した。
「このあたしをコケにするとどういうことになるか!思い知らせてやる!」
聖戦帝国艦隊の拠点であるベラグール要塞は、ネサイエス大陸群から約百万キロメートル離れた外海上にある。
元は、緑玉王国が築いた要塞で、それを降臨暦四七五四年、聖戦軍が奪取。以後四七五六年にネサイエス大陸群を制圧し聖戦帝国が建国されるまで拠点として使われた。
現在では聖戦帝国艦隊の中央基地として使われている。帝国艦隊一万隻、その内実に六千隻がここに駐留しているのだ。聖戦帝国最大の軍事拠点である。
キャロルがベラグール要塞に入城したのは反乱勃発から四月後のことであった。
聖戦帝国艦隊総旗艦「イリアスⅡ」は全長三百五メートル。銀色の流麗な艦体を持つ美しい艦だ。最大射程五万二千メートルに及ぶ主砲十二門を装備している。キャロルを乗せたイリアスⅡはクレタからこのベラグールまでを一ヶ月掛けてやってきていた。
チェルナは舷側窓に顔を押し付けて歓声を上げた。
「あれがベラグール?」
「…ああ」
「大きいのね!」
ベラグール要塞は直径九キロメートル。漆黒の潰れた半球形をしており、それが三百六十度見渡す限り海というエリアに唐突に浮かんでいる。高度は季節によって異なるが百メートル前後。巨大なビートルシステムを五基、並列使用するという荒業でもって浮いている。十ノットという極低速ながら移動も可能である。
「ねえ!デッキに出て見たいわ!行きましょうキャロル!」
キャロルは首を振った。
「約束を忘れたのか?」
「いいじゃん、ここまで来ちゃったんだから!固いこと言いっこ無し!」
キャロルの眉間に本気の怒りが浮きかけるのを見て、チェルナは軽く肩をすくめた。
「わかったわよ。我慢してあげる」
キャロルはため息を吐きつつ首を振った。
ここはイリアスⅡの皇帝専用室である。内装こそ殺風景であったが、軍艦であるにもかかわらず三つも部屋があるスペースであった。本来は当然、キャロルだけが寝起きするスペースであるはずのそこに、何故か余計な二人が紛れ込んでいる。
「ほら、ヘレナも見て御覧なさい!すごいわよ!」
「う~、あたし低血圧なんですよう…ぐ~…」
ヘレナはチェルナにベッドから引き摺り出されつつ寝ていた。ちなみにそのベッドは本来キャロルが使うはずのものだ。二人に占領されてしまったので、キャロルは簡易ベッドを執務室に持ち込んで寝ている。
なんだってこんな事態になってしまったのか。
キャロルがベラグール要塞に向けて進発したのは四月になってすぐのことである。
クレタには大規模港が無い。高山に囲まれた盆地という地形上の制約があるからで、クレタ中央国際港というやや実状から外れた名前を持つ港は、街から三百キロメートル離れた盆地の外にあった。そこまでは普通、シャトルバスか直通電車で行く事になる。
キャロルは専用車で皇宮から港まで向かった。これはテロの危険を鑑みれば当然の処置であろう。一億九千万平方メートルという広大な敷地を持つ港の一角に、聖戦帝国総旗艦イリアスⅡ専用のドックがある。
この港から離れること約百キロメートルの場所に、聖戦帝国近衛軍団クレタ鎮守府がある。イリアスⅡは本来そこに配備されていてもおかしくない。しかし、イリアスⅡは軍事目的以外にも、皇帝が全国に巡行を行う際など多彩な用途で使われる。そのため、聖戦帝国艦隊所属の戦艦としてはただ一隻、どこの軍団にも所属していない独立艦なのであった。
キャロルの専用車がイリアスⅡに横付けされると、舷側に整列していた乗組員が一斉に敬礼し、空砲が鳴り響いた。キャロルはしっかりと答礼すると、イリアスⅡの艦上に降り立った。
イリアスⅡは降臨暦四七六二年のアテネシア会戦において撃沈された、かの戦艦イリアスの後継艦として、四七六九年に建造された。天下統一戦争後に起工された初めての戦艦である。当初から聖戦帝国総旗艦とすべく計画され、通信、情報収集能力に重きを置いた設計がなされている。また、平和な時代の戦艦ということで、その外観が国民に対して与える印象まで考慮されてデザインされた。そのために戦艦とは思えないほど優美な外観を持つ。
余談だが、このイリアスⅡは改装を重ねられながら実に百年間に渡って旗艦の地位を守ることになる。その後に旗艦の地位を引き継いだイリアスⅢ、Ⅳもほぼ完全にイリアスⅡの外観を踏襲した。これはイリアスⅡの人気が非常に高かったためである。
キャロルの居室は司令部区画に隣接している。すぐ側に作戦会議室があった。キャロルは艦橋で艦の発進を見届けた後、居室へ入った。
そして、そこでとんでもないものを見ることになる。
「あ、やっときた!助かった~!」
「あ、キャロル様!お帰りなさい!」
…キャロルは思わず目を疑って瞼を擦った。
「ねぇ!お腹が空いたの!何か食べるものを持ってきてよ!」
「さ、さ、お疲れでしょう?お座り下さい!」
…どうも幻では無いらしい。
「…チェルナ」
「何よ」
「ヘレナ」
「はい?」
「なんで君たちがここにいる」
チェルナは腰に手を当てた姿勢で、むしろ誇らしげに叫んだ。
「忍び込んだに決まってんじゃないの!」
忍び込んだって…。チェルナが自慢げに話した潜入作戦の顛末はこうだ。
まず、戦艦イリアスⅡに補給物資を納入している業者のアルバイトに潜り込む(もちろん偽名で)。まじめに働きながら機会を待ち、隙を見てイリアスⅡ内部に潜伏した。ということらしい。ただし、実際には事が簡単には進まなかったらしく、実はこの時点で何やら騒ぎになっていたらしいことをキャロルは後に知る事となる。
軽く頭痛を覚えてキャロルは頭を押さえた。チェルナの性格を忘れていた訳ではない。しかし、考慮をはらう余裕が無かった事も事実だ。そう、この女は押さえつけようとすればするほど強く反発する、ゼンマイのような女なのだ。先日チェルナ達と会った時、少し言い方が強すぎはしなかったかと気に病んではいたのだが…。
とにかくこのままにしておく訳にはいかない。
「…チェルナ」
「降りないわよ」
「ヘレナ」
「お姉様が降りないんなら、あたしも降りません!」
「そんなことを言ってもね」
説得を始めようとしたキャロルにチェルナは指を突き付けた。
「キャロル、いい?あたし達は密航者なの。犯罪者なのよ!」
自覚があるのか。
「あんたがあたし達を表に突き出したら、あたし達は逮捕されるのよ!どう?それでもあたし達を追い出そうというの?」
チェルナは大袈裟に天を仰いだ。
「なんて薄情な男なの?ひどいわ。酷すぎるわ!ねぇ、ヘレナ!」
「いいえ、キャロル様ならそんな事はなさいませんわよね!あたしは信じてます!」
…確かに、このまま二人を退艦させたら彼女たちは逮捕されなければならない。彼女たちはよりによって聖戦帝国総旗艦に密航し、あまつさえ皇帝の部屋に忍び込んだ重罪人として断罪される。そんな事は当然キャロルも望まなかった。
しかしながらどうしろというのか。チェルナはそんな事はとっくに考慮済みとでも言わんばかりの笑顔を見せた。
「あたし達を秘書にしなさい!」
秘書?
「あんた忙しいんでしょ?それであんたは助けが欲しくなってあたし達に秘書になってくれる様頼んだ。そういうシナリオよ!」
キャロルには秘書などいない。似たような役割をする者として宮廷では侍従が、軍においては従卒が付く事になっている。実際、この艦においても従卒が三名、彼には付けられていた。
「私設秘書ってことで良いじゃない!」
「あ、あたしはキャロル様付きのメイドってことにします!」
なんだか勝手に決め付けて大いに笑う二人はこれで全ての問題が解決したと思っているようだが、世の中そんなに甘くはない。
なにしろキャロルが乗艦した時に二人を伴っていなかった事は厳然とした事実であり、この艦の乗員名簿には当然二人の名前はない。それなのにキャロルがこの二人を秘書だかメイドだかに任命してしまったのでは、いなかったはずの乗員を明確化してしまうことになり、むしろ彼女たちが密航したという事実を認定してしまう事になる。そうなれば彼女たちの罪は逆に免れ得なくなるのだ。
この時キャロルには、自らの強権をもって事実を捻じ曲げ、法律を無視しようという考えは毛頭無い。彼は権力の乱用が信望の失墜に繋がるという考えの信奉者であった。例えばチェルナ達を「始めからいたことにする」などという荒業を使えば、この艦の乗員、司令部の面々がどう考えるか。よりによって聖戦帝国始まって以来の反乱鎮圧に向かう際に、自分の女(事実とは異なるが他人はそう思うだろう)を侍らせるために権力を乱用したと思われるだろう。大袈裟に言えば帝国全軍の士気の低下に繋がりかねない。
かといって、この事態に厳正に対処し、チェルナ達が恨もうが泣き喚こうが強制的に退艦させる、という事が出来ないのがキャロルの弱さである。キャロルは頭を抱えた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
キャロルが顔を上げた時には、二人はゴキブリさながらの動きとスピードでベッドの下に潜り込んでいた。
「何か」
「は、お騒がせして申し訳ありません。実は、密航者がいる可能性があると補給課から連絡がありまして」
「密航者?」
「は、港で女作業員が行方不明とのことで、艦内を捜索中なのであります。お部屋には異常はございませんでしたでしょうか?」
やれやれ。チェルナがえばるほどには完璧な計画ではなかったらしい。当たり前か。
キャロルは少し迷ったが、結局、選択の余地は無かった。
「何も異常は無いよ」
「は、お騒がせして申し訳ありませんでした!」
従卒の気配が遠ざかると、二人がベッドの下から転がり出て、キャロルに抱き付いた。
「えらい!」
「さっすがキャロル様!」
まぁ、いいや。二人に揉みくちゃにされつつ、キャロルはなんだか安心して、微笑した。この時は。
結局キャロルはチェルナとヘレナの存在をどうにか合法化するために、犯罪すれすれというような方法を用いなければならなかった。いや、実際はごまかしようが無いくらいの犯罪行為であるのだが…。
イリアスⅡの艦内ではどうしようもない。艦の乗員数は明確に定められており、ゆるがせに出来ないからである。どうやっても増やすことはできなかった
しかし、ベラグール要塞ならばごまかしようがある。ベラグール要塞の人口は五万人にも及び、民間船による観光客も多い。ということで、キャロルは二人にイリアスⅡ内部にいる時は身を潜めているように厳命する一方、クレタに連絡して侍従にチェルナとヘレナ名義でベラグール要塞行きの観光チケットを購入させた。チェルナとヘレナがベラグール要塞に来たように見せかけるためだ。もちろん、観光船の到着期日はずっと先であるので、チェルナとヘレナがベラグールにいる事は矛盾している。しかし、それくらいの矛盾ならごまかし方は幾らでもある。
そして、ベラグール要塞にイリアスⅡが到着すると、キャロルは二人をこっそり下艦させ、何食わぬ顔をして改めてイリアスⅡに呼び寄せたのである。
キャロルは機嫌良く笑う二人を私設秘書に任命し、ようやく安心した。この瞬間二人は公的な立場を得たわけで、密航はより一層ばれ難くなった訳だ。必要も無い私設秘書を二人も任命した事は司令部の面々やイリアスⅡの乗員から不審がられたが、表立って詰問したり批判したりする者もいなかった。
キャロルはこのような措置をとった後、二人をベラグール要塞に留守番させる気でいた。しかしそんな事を承知するチェルナではない。
「ここまで来て戦場に同行しないなんて、シチューを注文して中の肉を食べないのと同じくらい意味の無いことだわ!」
「戦争なんだ。遊びにいく訳じゃぁないんだぞ」
「知ってるわよ。あたしはあんたの秘書なんだから、給料分の仕事はしないとまずいでしょ!」
「危険があるかもしれないんだ。見物気分で来られたら困る」
「大丈夫よ!自分の身は自分で守るから!」
キャロルはチェルナと噛み合わない会話を続けたが、結局ヘレナの取り成しもあってしぶしぶ同行を承知した。
「お姉様は、あたしもですけど、キャロル様が心配なんです。キャロル様、なんだか無理をなさっているように見えるんですもの…」
キャロルはその言葉を聞いて、憮然とした。自覚があったからである。
キャロルにとって、この反乱鎮圧は最高指揮官としての初陣であった。それ以前、養父アロルドに同行して小規模な反乱の鎮圧や海賊討伐などを行った事はあったが、自分が全てを指揮して戦いに臨むのは始めてだった。しかも、今回は大規模な反乱の鎮圧である。単純に言って彼は緊張していたのだ。
チェルナやヘレナにはその気の張り様が危なっかしく見えるらしい。二人がこれほど無理してキャロルに同行しようとするのは、その彼をフォローしたいという思いからなのだろう。
まぁ、チェルナに限ってはどうもそれだけではなさそうだが。
「すごいわ!モノホンの戦争よ!艦隊決戦よ!今や滅多にお目にかかれない事態よ!」
などと興奮して叫んでいる。まぁ、いいか。本当に戦いが始まればすぐに分かる事だ。
戦争など散文的な、実にくだらないものであるということは。
実は意外でも何でもない事なのだが、チェルナは非常に有能な秘書であった。彼女はエブリス大学始まって以来の俊英であり、アルバイトで事務処理の訓練も重ねていた。キャロルが唖然とするほど手際良く書類を整理し、彼の前には判をつくだけでいい書類が山を成した。
チェルナはこの仕事を楽しんでおり、調子に乗って本来キャロルが決済するべき事項にも口を出し、彼の仕事をどんどん減らしていった。
ヘレナはというと、端から秘書としては役にたたず、また、たとうともせず、キャロルとチェルナのお茶汲み係及び掃除係と化していた。本人はこれで満足しているようだし、実際これはこれで非常に役に立っている。キャロルもチェルナも整理整頓が苦手な性質なのだ。
当初は何だか分からない余計者くらいに思われていた二人は、キャロルの周囲で急速に認知を深め、地歩を固めていった。キャロルとしては喜んでいいのか悪いのか表情も微妙になろうというものだ。
公的な地位があるのだから、キャロルの部屋に居候している訳にはもちろんいかない。二人は相部屋で部屋を与えられ、そこからキャロルの部屋に通う事となった。ただし、寝坊なヘレナはともかくチェルナはほぼ一日キャロルの執務室に入り浸りだ。
確かに二人は役に立った。しかし、キャロルとしては内心忸怩たる思いが無い訳でもない。自分にとってプライベートな友人あるチェルナとヘレナを、やむを得ない事情があったとはいえ公的な秘書などに任命してしまった。人事権の乱用と言われても仕方が無い所業だ。
そういうキャロルをチェルナは笑い飛ばす。
「そんなつまんないこと、誰も気にしないわよ」
「そうかな」
「そうよ。あんたが秘書の一人や二人雇ったからって、それで帝国の国庫が傾くわけじゃぁないでしょう?」
「そんな大きな話じゃないけど…」
彼は自分が皇帝であるという、ただそれだけで与えられた特権や権力を自由に行使する事に対してためらいがあるのだ。彼が皇帝であるのは、父帝ガイアが皇帝であり、単純にその子供であるからという血統上の問題にしか根拠が無い。つまり、全て父から与えられたものなのだ。彼は未だ、何も成し遂げていない。彼が誰からも助けられずに成し遂げた事は、ただ一つエブリス大学に入学したというその一事しかなかった。
「考え過ぎよ。あんた」
皇帝であるというのは、権利では無く義務だと考えるべきだろう。他に誰もやりたがらないので赤子だったキャロルに押し付けられた、途方も無く大変な義務。他に譲りようも無い、彼にしか出来ない義務。その義務を果たすために与えられたのが特権と権力であり、義務を果たさずにそれを振りかざすのは愚者の技というべきだが、キャロルはちゃんと義務であるところは果たしている。ならば特権と権力を行使する事になんら問題はなく、抵抗を感じるのはただの感傷に過ぎない。それよりも特権と権力の行使を躊躇った結果、皇帝としての職務が滞ることの方が国民にとっては直接的な問題となるだろう。
まぁ、チェルナの意見には自己正当化の要素が多分に含まれているので話半分に聞いておくべきだろうが、一理ある事をキャロルは認めた。特に今回、彼は反乱軍鎮圧のために来ている訳であり、彼の判断はどうしても皇帝として強権を発動し、反乱軍をその名において圧殺する事にならざるを得ない。その事に罪悪感や感傷を抱き、それが判断の遅さや緩みに繋がるような事があれば、それは帝国の瑕瑾に繋がるのだ。
聖戦帝国は黄金帝国に比べればかなり民主的な部分がある国家であったが、皇帝が全ての国民の生殺与奪の全権を握る体制であることは変わらない。キャロルは国民を意のままに殺す権利があるのだ。しかしそれはある意味、帝国と皇帝に逆らった者を皇帝の名の下に殺さなければならないという意味でもある。法や国家の名の下にではなく、皇帝が殺すのだ。逃れようの無い責任。その可否はいつか歴史が裁くだろう。皇帝はただそれに耐えるしかない。
キャロルは生まれながらの皇帝であり、皇帝としての義務をごく自然に体得しつつ生きてきた。故にこの度の反乱において自分が求められている役割や、義務も自然に理解していた。そして、もう一つ。彼はこの戦を指揮することによって養父アロルドに代わって遂に聖戦帝国最高指導者の地位に躍り出ることになる。アロルドはこの討伐艦隊に同行していない。キャロルが名実共に最高指揮官なのである。キャロルはそれも十分理解していた。この戦いは自分が聖戦帝国の為政者として相応しいかどうかを、全国民に対して証明する場でもあるのだ。
深刻な顔をして考え込むキャロル。チェルナはそれを見てため息をつき、再び書類仕事に没頭し始めた。
聖戦帝国プロト反乱討伐艦隊は、ベラグール要塞を出発した二ヶ月後、予定通りプロト分都ケーベルブルに到着した。ケーベルブルは四大宝玉時代、青玉王国の首都が置かれたところだ。
聖戦帝国プロト反乱討伐艦隊は、超ド級戦艦二十二隻とその他艦艇数千隻から成っている。イリアスⅡを中心にした輪形陣を組む巨大戦艦部隊が街の上空を圧する様は圧巻で、後々までケーベルブル市民の語り草となったほどであった。
プロト大陸群は極寒の大陸群である。全ての大陸を合わせた陸地面積は他のどの大陸群よりも多いのだが、山がちであることとあまりに寒冷である為に農業生産能力が低く、総人口は五億人程度と最も少ない。北部はほとんど人が住めないほど寒く、特に大都市はルリ大陸南辺に集中している。
諸王国反乱軍が終結したのもその大都市の一つエーデルで、ここは四大宝玉時代から難攻不落の城塞都市として知られた街であった。反乱軍はここに四万の兵力と二十隻の戦艦と共に立てこもった。
「戦艦二十隻だと?」
キャロルは我が耳を疑った。
「信じられん。いったいどこにそのような戦艦があったというのだ!」
聖戦軍による天下統一後、諸王国の武装は悉く没収され、戦艦建造可能な施設も破壊。戦艦と戦艦が建造出来る施設を保有しているのは唯一、聖戦帝国だけであるはずだった。
しかし、そうではなかったのだ。
「おそらく、廃棄されたはずの戦艦の中に、廃棄されていなかった物があったということなのでしょう。海賊や私設警備に使われていたものをかき集めたのだと思われます」
書類上は廃棄され、スクラップになったはずの戦艦を担当者が横流しして、廃却に係る費用と売却費用を着服したのだ。昔からよくある手口である。
「なんということか!至急調査を行って、担当者を処罰しろ!」
イリアスⅡにある作戦会議室。将官以上を招集しての最終作戦会議が行われていた。
大テーブルに五名の将軍たちが着いている。キャロルが一番奥に座り、キャロルから見て右が艦隊司令部、左がプロト方面軍司令部の面々が座っていた。
彼らの後ろにはそれぞれ作戦参謀や副官が座っているので、人数は合計二十名近い。そして、キャロルの後ろには女性が一人立っていた。
チェルナ・リュートである。なぜかキャロルよりも遥かに偉そうな態度で将軍たちを睥睨している。一応、彼女はキャロルの私設秘書であり、彼女がここに立っていること自体は特におかしいことではない。しかし、群青色のジャケットとスカーフ、タイトスカートという、聖戦帝国海軍軍服を着て、なぜか楽しそうに目を輝かせる美女というなんだかマニアックなその姿は、非常に人目を引いた。将軍たちも気になるようで先ほどからちらちらと彼女の方を伺う気配がする。
キャロルはこっそり溜息を吐いた。どうしても作戦会議に出席するという彼女を押し留めることが出来なかった。チェルナは、やりたいことは如何なる妨害があっても必ずやるという、ある意味、賞賛されるべき性格と行動力の持ち主であり、キャロルが強引に拒否してもそれならば潜り込んでやるといって一騒動起こすことは確実であり、ならばでしゃばらない様にという条件を呑ませてキャロルの管理下においた方がまだましだと判断したのだ。
それにしても、戦艦二十隻とは。予想外の事態であった。討伐艦隊は二十二隻。しかも最新鋭戦艦が二十二隻なのであり、中古の旧式戦艦を集めた反乱軍艦隊を数でも質でも上回る。しかし、烏合の衆であると思われた反乱軍が、侮れない戦力を保有していたという事実はキャロルを緊張させた。特に、城塞都市エーデルに拠って二十隻の戦艦で抵抗されるとなると、短期に全てを排除することは非常に難しくなるだろう。
「陛下、エーデルは防戦は容易な都市ですが、補給に難がある場所でもあります。特に此度の反乱軍は急速に数を増したために、補給物資の集積も十分ではないと思われます」
艦隊司令部のロードリック・ノエル中将が言った。黒髪のまだ若い男だ。ちなみに今回、キャロルは討伐艦隊司令部に若手の士官を多数抜擢していた。これはこの戦い以降キャロルが軍を掌握するために、自らの子飼いの将を作りたいと言う意向があったからである。
「持久戦をせよと言うのだな」
「はい。かの天下統一戦役においても我が軍はエーデルへの直接攻撃を避けています。力攻めは下策と申せましょう」
「小官も賛成いたします」
ひげを生やした士官タルタック・バンドウ中将も言った。彼はプロト方面軍司令官で年齢は六十一歳。天下統一戦役を経験した宿将である。今回の反乱では迅速な対応によって、反乱軍の直轄地侵攻を防いでいた。
「他に意見は」
キャロルの言葉に全員が肯定的沈黙で報いた。
確かに、侮れない戦力を持つ軍が立て篭る城塞都市を力攻めするなど、戦略的に下の下と言うべきだろう。補給が容易ではなく物資の集積も不十分であることが分かっているのなら、なにもあえて火中の栗を拾うことも無い。
キャロルは頷き、彼自身も賛成である旨を述べようとした。
その時、
「駄目よそんなの!」
と場違いなほどの大声で叫んだのは他の誰でもない。チェルナだった。
「何考えてんの!駄目よ!」
「チェルナ!」
「持久戦?よく考えなさいよ!そんなの許されないわ!」
「なんだ貴様は!」
激して立ち上がったのは艦隊司令部のケネル・トルエ少将だ。くすんだ赤毛を持つがっしりした体格の男で、年齢はまだ三十代だ。
「誰の許可を得てこの重要会議において発言しておるのか!しかも将官の議論に口を差し挟むとは!言語道断!おい、衛兵、つまみ出せ!」
「あたしはキャロルの秘書よ!」
会議室が凍りついた。チェルナがキャロルを呼び捨てにしたからである。さすがにキャロルも慌てる。どうして慌てるのかというと、諸将が何かを誤解してしまうと恐れたからだ。
「キャロル!あんたもあんたよ!どうして何も言わないの?あんたにだって分かっているでしょう?持久戦なんてやっている暇は無いんだってことが!」
今度はあんたよわばりだ。今度は皇帝への忠誠心厚きタルタック中将が憤然と立ち上がった。
「き、貴様!陛下に対して無礼にも程が…!」
「待て!」
キャロルが制す。真剣な顔となったキャロルがチェルナに向き直る。
「詳しく申してみよ、チェルナ。どうして持久戦をやっている暇が無いのか」
「はぁ?何言ってんの?簡単じゃない!」
チェルナは腰に手を当てて諸将をぐるりと見渡し、まるで大学で学生に講義する教授のような口調で説明を始めた。
「いい?あんたたち、この反乱はこのプロト大陸群だけで起こっているとでも思ってんの?違うでしょ!全世界には反帝国思想を持つ連中がいっぱいいて隙あらば反旗を翻そうと企んでいるのよ。もしもあたしたちがこの反乱を平定するのに手間取ったらどうなると思うの?そいつらが一斉に蜂起するかも知れないじゃない!そうしたら手に負えなくなるわ。とんでも無いことになるわよ!」
将軍たちは唖然としている。チェルナが彼らをもあんたよわばりしたからであるが、彼女の意見に意表を突かれたからでもある。
「だから、ここの反乱はとっとと徹底的に壊滅させて、全国の不満勢力に見せ付けてやる必要があるわけよ!ぐうの音も出ないように!思い知らせてやらなきゃ!」
キャロルは唖然を通り越して呆然とした。
チェルナの言う通りであった。今回の反乱には明確な理由がある。諸王国が直轄地との経済格差と領民の流出に苦しんだためで、たまたま不満が大きかったプロトで問題が顕在化したが、同様の不満はどこの大陸群の諸王国も持っていた。
場合によって反乱が連鎖する可能性は当初から指摘されており、それに備える意味もあって帝国艦隊は半数以上をベラグールに残していた。摂政アロルドが首都を動かないのもその対策の一つである。
しかし、実際に帝国各地で反乱が同時発生した場合、これを平定するには多大な時間と労力を必要とすることになるだろう。それは出来得るなら避けたい事態であった。プロト大陸群における反乱軍を短期的に、徹底的に打ち破って見せることは、帝国各地の不満勢力に対する最も効果的な示威行為となるだろう。
つまり、短期的な戦略ではなく、政略をも含めた長期的戦略の視点で見れば、この反乱の平定は絶対に短期決戦、しかも圧倒的勝利でなければならないのである。
キャロルが驚いたのは、チェルナがそういう世界戦略的な視点でこの反乱を捉え、的確な短期戦略を導き出して見せたことだ。すばらしい戦略的センスであると言えた。
「…どう思うか」
キャロルはたまたま立ち上がっていたタルタック中将に聞いた。
「は…、その、なんと言いましょうか…」
タルタックは背中を反らしてキャロルの後ろに立つチェルナをちらちら見ながら髭を震わせていたが、やがて諦めたように言った。
「確かにその通りであると考えます」
より一層背中を反り返らせるチェルナ。
「しかし、短期決戦で決着を付けると言っても簡単ではないぞ。策はあるのか?」
チェルナにやり込められて悔しいのだろう。ケネル少将が唇の端を曲げながら言った。
あ、なんて事を!チェルナにそんな風に話を振るなんて、自爆行為だ。案の定チェルナの瞳が磨きぬかれたアメジストのように輝いた。
「あるわ!」
その瞬間、作戦会議室内が真っ白になったように思えた。
チェルナが話し終えると、諸将はそれぞれの姿勢で考え込んだ。ロードリックは俯き、タルタックは天を睨み、ケネルは眉間に指を当てている。そしてキャロルは憮然としつつ。
何という事か。それぞれ軍事を専門的に学び、それなりに実績も積んだ将軍達が、ド素人たるチェルナの立てた作戦案を真剣に検討している。それくらいチェルナの作戦案は説得力のあるものだったのだ。
余りにも長く沈黙が続くので、キャロルは仕方なくロードリック中将を指名した。彼は一度顔を手の平で撫で、三十秒以上に渡って沈黙を続けた後、ようやく口を開いた。
「小官は賛同致します」
会議室に驚きが小波のように広がった。
「見事な作戦案です。詭計の観はありますが、実現性も高い」
「どうも」
チェルナが得意げに胸を反らした。
「しかし」
ケネル少将がやや渋い顔で発言する。チェルナのことを認めたくないのだろう。無理も無い。
「敵がそなたの思惑に乗らなかったらどうする?」
「その時はまたその時考えましょう。この作戦は成功すれば万万歳、成功しなくてもその後我が軍は有利になるっていうお得な作戦なのよ!」
確かにその通りだ。キャロルは地図を見ながらチェルナの作戦案を何度もシュミレーションした。
チェルナが言った言葉が自然とリフレインする。
『敵は今、微妙な状態なの。我々を長期戦に引き摺り込みたいと思ってはいるものの、現在の物資補給状態はそれを許さないわ。連中が今何を一番欲しがっていると思う?物資よ!食べ物!長期篭城戦を戦えるだけのね!』
なるほど。チェルナは腹ぺこの専門家だ。その辺りの心理は手に取るように分かるのだろう。見事な心理分析だと言えた。
キャロルは決断した。
「チェルナ秘書官の作戦案を可とする」
作戦会議室にどよめきが興った。しかし、それは必ずしも否定的なものではなかった。少なくとも将軍たちの誰一人として反対の意見を唱えようとはしていない。
興奮したチェルナがキャロル背中を突ついていたが、キャロルはそれに気が付かないふりをした。
「なんて事をしたんだ!」
執務室に戻ったキャロルは部屋に入るなりチェルナを怒鳴りつけた。駆け寄りつつあったヘレナが飛び上がるほどの勢いだ。チェルナはきょとんとしている。
「何を怒ってるの?」
キャロルはチェルナの瞳を覗き込む様にして言った。
「君が立てた作戦で人が死ぬんだぞ?多分何万人も!君にその覚悟があるのか!」
チェルナは虚を衝かれたような表情となった。
「君は政治家でも軍人でもない。その君が何万もの、夥しく無残な人々の死を受け止められるのか!」
戦争を知らない世代の者たちが忘れがちなことがある。
それは、戦勝の栄光の向こう側には多くの敵兵の死が隠されているということである。凱旋将軍への歓呼の叫びの裏側には、必ず敵兵の家族の深い嘆きの歌があるということなのだ。
戦争の勝利とは、より少ない犠牲でより多くの敵を死なせることに他無く、敗北とは敵よりも多くの数の味方を死なせてしまうことである。ベクトルは違うが、戦いの結果には必ず累々とした死が伴うのである。
チェルナの考え出した、優れた作戦案。その結果が勝利、また、敗北であろうとも、そこには無数の死が、無数の人生の消滅が、無数の遺族の悲しみが伴うということなのである。
自分の考え出した作戦が多くの人命を奪い、人生を狂わせる。チェルナにはそんな自覚はまったく無かった。単に知的ゲームとしての戦略理論を弄んだに過ぎない。
キャロルが怒ったのはそのためだった。
指揮官は、どのような結果が起ころうとも自分の行った作戦の結果に責任を取らなければならない。それが兵士の人命を預かる者としての最低限のモラルであろう。勝利すれば賞賛を、敗北すれば悪罵を浴びることを甘受せねばならないのだ。その覚悟のある者だけが兵士を死地へと送り出す資格を持つ。しかし、チェルナにそのような覚悟が在ろうはずも無い。
チェルナは口を開こうとして、果たせず、俯いた。
突然、ヘレナが二人の間に割って入った。
「そんな言い方はありませんわ!お姉様はキャロル様のことを思ってやって下さった事ですのに!」
ヘレナはキャロルの胸を叩くようにしながら喚いた。
「おかしいですわ、キャロル様!チェルナお姉様はキャロル様のお役に立てたのでしょう?ならば最初に賞賛なさるべきではありませんか?それをいきなり叱り付けるなんて!」
「そういう話をしているんじゃないんだヘレナ」
「いいえ!少しはチェルナお姉様のお気持ちもお考え下さい!お姉さまは陛下のことを心配なさって…」
チェルナはヘレナの肩に手を置き、彼女をキャロルから引き剥がした。
「分かったわ」
決然と顔を上げたチェルナ。
「覚悟する!」
「言うだけなら簡単だ」
「負けたら軍法会議にでもなんでも出るわよ!」
「そんな事をする必要は無い」
キャロルの表情は冷たい無表情だ。チェルナの初めて見る、怖い顔。
彼は、チェルナを連れて来てしまったことを後悔していたのだ。
「僕は戦闘中イリアスⅡの艦橋で指揮を執る。君も来い。君が立てた作戦の結果を、余す所無く目に焼き付けるといい」
プロト大陸群における反乱を主導したのは、諸王国の内最大の領地を持つ、モルベヤ王国であった。国王ウオルブは周辺の国々と連係し、プロトに残っていた戦艦を多数かき集め、鉱夫を集めて兵士とした。
そして、帝国分都ケーベルブルへ侵攻したものの、タルタック中将指揮するプロト方面軍の厚い守りに阻まれ、討伐艦隊がやってきた事を知ると慌ててエーデルに逃げ込んだのである。
誤算であった。ウオルブの計画では帝国分都の物資を強奪した後でエーデルに逃げ込む予定だったのである。そして持久戦を展開し、事前に連絡を取り合っていた他の大陸群の諸王国が立ち上がるのを待つ。そうすれば帝国軍はプロトの反乱にだけ集中する事は出来なくなる筈だった。反乱軍はそこに勝機を賭けたのだ。
しかし、現在手元にある物資で長期戦は到底戦えない。しかしながら精鋭揃いの討伐艦隊を寄せ集めの反乱軍が打ち破るなど到底不可能な事である。
討伐艦隊がエーデル近郊に進出すると、反乱に参加した二十八ヵ国の国王たちと軍の司令官を集めた会議が召集された。
エーデルを中心とした地図上に、反乱軍(彼らはもちろん自分たちをこうは呼ばなかった)と討伐艦隊の配置が示される。
戦力差は圧倒的であった。戦艦の数こそ拮抗していたが、その質は比べ物にならない上に、巡洋艦以下の艦艇の差は二倍に及んだ。陸上兵力は展開されていないために推定だったが、揚陸艦の数から五倍近いと算定された。そもそも寄せ集めの兵とは錬度も違う。
しかも、この討伐艦隊は聖戦帝国全軍の、ほんの一部に過ぎない。ちなみに、討伐艦隊の戦力がこれほど少ないのは、反乱勃発時に反乱軍の戦力を過小評価してしまったことによる。短期決戦を狙うのであればこれに数倍する戦力を用意すべきであったのだが。
会議室に集まった諸王国の国王と軍司令官は言葉を失った。自分たちが勝ち目の無い戦いに乗り出してしまったことを嫌と言うほど思い知らされたのである。
「しかし、他に方法は無かった…」
ウオルブは呻いた。このままでは経済的に追い詰められて、結局は王国崩壊の結果を招くことになったであろう。それならばいっそ賭けに出るべし。それが今回の反乱の動機であった。
準備は十分にした。戦力を可能な限り整え、他の大陸群の諸王国にも密使を送り、共闘の約束を取り付けた。しかし、第一段階であったケーベルブル奇襲に失敗し、遂にはエーデルに逼塞することとなったのである。重苦しい沈黙が会議室を飛び交う。
降伏しかないのか?しかし、帝国政府からは降伏を認めない旨の布告が既に出ていた。これは、反乱の連鎖反応を防ぐための措置であろう。降伏しても命の保証は無い。
その時、一人の士官が発言を求めた。
「配置図をご覧下さい」
大テーブルの中央には大きな地図があり、そこに両軍の配置が描かれている。
「ここです」
それは、エーデルから百五十キロメートルほどの距離にあるフヒトという小都市であった。そこに聖戦帝国艦隊の艦船が相当数入港している。
「フヒトは特に戦略的要衝ではありません。なぜそこにこのように艦隊が配備されているのでしょうか」
確かに言われてみれば不思議なことではあった。帝国艦隊のほとんどは既に百キロメートルのラインにまで進出している。
「おそらくこれは、敵の前進基地だと思われます。補給物資集積基地なのです。残された艦艇は防衛隊でしょう」
戦艦三隻を始めとする七十二隻の戦闘艦艇。それがフヒト防衛艦隊というわけだ。
「チャンスではないでしょうか」
その士官は舌なめずりするような口調で言った。
「帝国艦隊が我が艦隊の包囲を意図しているとすれば、ここに長期戦用の膨大な補給物資を集積するでしょう。これを奪うことが出来れば…」
会議室の中にどよめきが広がった。
「可能なのか?」
「現在、帝国艦隊はエーデルを三方向から包囲しつつあります。これに陽動を掛け、フヒトの反対方向におびき寄せた後、残り全軍をもってフヒトを襲撃、物資を奪います」
ウオルブは唸った。起死回生の良策に思えたのだ。敵は油断し、本来もっと後方に集積すべき物資を前線近くに集積したのだろう。
「物資を奪うなど可能なのか?」
「物資はコンテナ船に載せられた状態で集積されているはずです。タグボートがあれば移動出来ます」
討伐艦隊の補給物資を奪えば篭城可能な時間が飛躍的に延びる。逆に討伐艦隊は物資を失ってケーベルブルまでの一時撤退を余儀なくされるであろう。ウオルブが迷った時間はごく少なかった。
「よし、その策を取る!至急詳細を詰めよ!」
敵艦隊が動き出したという報告をイリアスⅡの艦橋で受けた時、キャロルは驚きも喜びも見せなかった。ただ無言で頷いた。
「敵艦隊はアゲラの街を経由してケーベルブルへ向かう構えを見せています」
アゲラはエーデルから見てフヒトの反対方向にある。そこを経由すればケーベルブルまで一日の行程だ。アゲラを落とされると、分都ケーベルブルに対して反乱軍の危険が迫ることになる。つまり、反乱軍がアゲラを攻略する構えを見せたとなれは、帝国軍は否応も無くそれを阻止すべく動かざるを得ないということなのだ。
帝国軍に陽動を掛けようというのなら、アゲラを攻めるのは当然の選択だ。合理的な戦略でもある。ただし、反乱軍の諸兄はこう考えることを忘れているのだ。
「帝国軍はなぜ物資集積基地としてフヒトではなくアゲラを選ばなかったのか?」
「なぜアゲラに防衛部隊が置かれていないのか」
本来ならケーベルブルから連絡が容易なアゲラの方が戦略的価値が高く、補給路も整え易いのだ。当然こちらの方が物資集積拠点とするには向いているのである。
「人は自分の見たい現実しか見ることが出来ない」という古い警句が思い浮かぶ。反乱軍は自分たちが思考を誘導されたことに気が付くことは無いであろう。それこそがチェルナの戦略のもっとも恐るべき点であった。彼らは自分たちで選択したという自信を持ったまま罠に嵌ることになる。
「タルタック中将に連絡。予定通りだと」
キャロルの後ろでチェルナが身じろぎした。
反乱軍の戦略はこうである。まず、全艦隊の半数をアゲラ攻略に向かわせる。これによって帝国艦隊を誘い出す。その隙に残りの半数でもってフヒトを襲わせ、物資を強奪。即座にエーデルに逃げ込む。半数とは言っても戦艦十二隻とその他艦艇である。フヒト守備艦隊は容易に撃破出来るはずだった。
まず、半数の艦隊が夜半密かにエーデルを出撃した。数を誤認させるためのダミー、風船艦を多数伴っている。この艦隊に帝国艦隊が喰らい付かなければ作戦は失敗だ。ウオルブは固唾を呑んで待つ。やがて、帝国艦隊の発行信号が活発化し、艦隊が大慌てで碇を巻き上げる様が偵察部隊によって観測された。
「成功だ!」
報告を受けたウオルブは確信した。彼は即座に残りの艦隊に発進を指令する。戦艦十二隻、巡洋艦三十二隻を主柱とする艦隊が静かに出港した。その性格上輸送艦やタグボートが多く含まれている。艦隊は一路フヒトへと向かった。
フヒトの街は、山岳部にあり城壁にも守られているエーデルとは違い、川沿いの平地に広がっている何の防衛要素もない街である。背の高い建物も無い。そこに帝国艦隊の一部、戦艦三隻及びその他艦艇が七十二隻停泊している。そして、それに数倍する巨大なコンテナ船が集結していた。ほとんど街の上空を覆い尽くさんばかりである。
物資強奪の欲望に燃える反乱軍が街から四十キロメートルのラインに達したのは未明になってからであった。観測員からの報告によってフヒト守備艦隊が迎撃体制を整えていることを知り、ウオルブは奇襲が成らなかった事を悟った。しかし、それは予測していた事態でもある。
「敵艦隊を排除せよ!多少の損害は構うな!時間を重視せよ!それとコンテナにはなるべく傷をつけるな!」
反乱軍艦隊は密集してフヒトに接近する。その時。
「ウオルブ王!」
観測員が思わず叫ぶ。ウオルブは気勢を殺がれて不機嫌となった。
「なんだ!」
「敵艦隊中央をご覧下さい!」
ウオルブは怪訝な顔で双眼鏡を目に当てた。フヒト防衛艦隊の中央、そこに銀色の、戦艦にしては華奢でさえある艦体が見える。彼は息をのんだ。
「まさか、イリアスⅡでは?」
「間違いありません!敵の総旗艦です!」
ウオルブは呆然とした。なぜ、皇帝がこんなところにいるのか?
しかし、彼の部下たちは深く考えなかった。
「王よ!敵の旗艦がいるのです!あれを撃沈すれば我が軍の勝利です!」
「おそらく皇帝を危険に晒さないために後方に残っていたのでしょう!絶好の機会ですぞ!」
そう発破を掛けられて、ウオルブの疑念は吹き飛んだ。
「よし!全艦艇全速前進!敵の旗艦に攻撃を集中せよ!」
「敵、密集体系で本艦を目指して前進してきます!」
「よし、距離三万で初弾打ち込め、同時に回避運動!」
イリアスⅡの艦長シルエス・バグルが小気味良い口調で繰艦指示を発する。ちなみに女性艦長だ。イリアスⅡの艦橋は普通の戦艦の三倍もの広さがあるのだが、艦橋要員十二名と艦隊司令部二十一名がいるのでかなり狭く感じる。座っているのはキャロル一人で、その椅子も玉座とは名ばかりの小さな椅子だ。キャロルはそれに腰掛け、静かに前方に目をやっている。その後ろに、固い表情のチェルナが立っていた。
「ロードリック中将、指揮は任す」
「畏まりました」
ロードリックは長身を折り曲げて一礼すると、伝声管に向かって張りのある声で怒鳴った。
「各艦に発光信号!作戦ラインを維持しつつ各個に戦え!追って指示を出す!」
「は!」
聖戦帝国フヒト守備艦隊には戦艦がたったの三隻しかいない。如何に最新鋭戦艦とはいえ、四倍の数を相手にするのはかなり苦しい。しかし、艦橋に動揺は無い。
「敵艦隊三万メートルに達しました!」
「撃て!」
シルエスの号令に応じ、イリアスⅡの前方主砲が一斉に火を噴いた。轟音が空気を揺るがせ、爆風が艦橋のガラスにぶち当たる。
「回避運動取り舵一杯!」
「敵艦隊発砲!」
艦が大きく揺れ、立っている者たちが軽くたたらを踏む。
「照準!敵先頭艦!」
「初弾命中、二!力場突破、一!」
「敵先頭艦大破!」
「照準修正!敵二番艦!」
瞬間、閃光と轟音が同時に炸裂した。
「至近弾!」
「損害無し!」
「照準完了!」
「撃て!」
再びイリアスⅡの主砲が放たれる。
轟音と閃光、焦げ臭い匂いと怒号。キャロルはいつの間にか自分の肩にチェルナの手が置かれていることに気が付いた。震えている。キャロルはチェルナの顔を見ないまま、その手にそっと自分の手を置いた。手は汗ばんでいた。
「敵艦隊二万五千!」
「陛下?」
「まだだ、あと五千引きつけよ」
「了解しました」
敵艦隊の攻撃は激しさを増した。ひっきりなしに至近弾がイリアスⅡを掠め、防御力場が直撃弾を撥ね砕く回数も多くなる。イリアスⅡ以下三隻の戦艦は不規則にターンしながら回避運動を取り続け、周辺空域は爆煙でうっすらと煙るほどだった。戦艦三隻こそ無傷だったが、巡洋艦以下の防御能力の低い艦艇の中には撃沈されたり大破したりするものも出てきた。
もちろん帝国艦隊も、ただやられてはいない。艦艇の性能、また錬度においても帝国艦隊の能力は反乱軍のそれとは比べ物にならない。しかし、反乱軍は数に物を言わせ、損害を度外視してしゃにむに突撃してくる。
轟音と爆炎に包まれながら、キャロルは冷たい表情で時を待っていた。
「敵艦隊二万!」
「よし!」
キャロルは立ち上がった。右手を横なぎに打ち振る。
「信号弾を発せよ!」
間髪入れずにイリアスⅡから信号弾が三発打ち上がった。これは当然反乱軍からも観測されたが、それの意味することを理解し得た者は皆無だ。
ウオルブは艦橋に仁王立ちになり、ひたすら突撃を叫んでいた。しかし、
「て、敵が!」
観測員が叫ぶが早いか、旗艦が大きく鳴動し、ウオルブは艦橋の床に叩きつけられた。
「な、なんだ!」
「敵艦隊が、敵艦隊が突撃してきます!」
「何をしておる!敵は少数だ!押し包んで横殺せよ!」
「そ、それが!新たな敵が四時と八時方向に現れました!距離三万!」
ウオルブは這いつくばったまま硬直した。
「どういうことか!」
「分かりません!大艦隊です!」
悲鳴のような報告を聞いた瞬間、電撃のように理解がウオルブの脳髄を走り抜ける。
「計られたか!」
陽動作戦に引っ掛かり、おとりの艦隊を追撃したはずの帝国本艦隊である。
チェルナの作戦の骨子はこうだ。まず、エーデルから程よい近さにある街に戦略拠点を築く。物資に乏しい反乱軍は必ずやこの拠点から物資の強奪を狙うであろう。狙ってくれなかった場合は実際に戦略拠点として使える訳であるから、物資を集積すること自体は無駄にはならない。
そして、反乱軍の戦力に余裕が無い以上、物資強奪作戦は必ずやおとり部隊を使った作戦にならざるを得ない。それに引っ掛かった振りをして敵の強奪部隊を誘い出し、本艦隊が反転して強奪部隊に襲い掛かる。
そして強奪部隊を壊滅させた後、おとり部隊を追撃すればいいのだ。
作戦は見事なまでに成功しつつあった。
タルタック中将の指揮する帝国艦隊本隊は、反乱軍の後方という火力的に優位な位置から主砲弾をつるべ撃ちに撃ちまくった。三方向から二倍以上の帝国艦隊に包囲されることとなった反乱軍艦隊にはもはやなすすべが無い。
それは絶望的な抵抗でしかなかった。帝国艦隊はじっくりと包囲の輪を縮め、連携し、反乱軍艦隊を灼熱の爆炎の中に叩き込んでいった。戦艦の主砲弾が駆逐艦を紙くずのように粉々に砕く。巡洋艦がねじれるように燃え上がり、戦艦が多数の命中弾に耐えかねて内部から大爆発、轟沈する。
虐殺だな。キャロルは無意識に下唇を噛んだ。効率の良い殺戮の完成形がここにある。見事な作戦、それが生み出す結果がこの一方的な虐殺なのだ。チェルナにも痛いほど理解出来たであろう。
キャロルはその治世において、幾度か反乱鎮圧のために親征を行っている。このため、彼は好戦的であったと批判する歴史家も少なくない。しかし、実際にはキャロルは戦争とそれによって生じる死について強い嫌悪感を抱き続けていた。
しかし、いみじくもチェルナが言ったように、全世界の反皇帝勢力、不満勢力に見せ付けるためにも、ここで情けを掛けるわけにはいかない。徹底的に打ちのめし、殺し尽くし、反乱を起こした者の末路を帝国史上に赤字で彫りこまなければならないのである。それは今後反乱を企む連中に対して強い抑止力となるだろう。その刻印が深ければ深いほど、それが結果的に平和の永続に繋がるのだ。それが、この殺戮の免罪符にならないことは重々承知の上で、キャロルは決断する。
そう、自分も、責任を取らなければならない。皇帝として。彼にしか負う事の出来ない十字架を背負うために彼は戦場に赴いたのだから。
キャロルはあえて、静かな声で指令を発した。
「敵を殲滅せよ。降伏は許さない。なで斬りにするのだ!」
チェルナは戦闘中一言も発しなかった。ひたすらキャロルの手を握り締め、硬直している。自分の考えた作戦が生み出した、阿鼻叫喚の有様を見せ付けられながら彼女が何を考えていたのか、キャロルには知り様が無かった。
確かなのはこの後、チェルナが聖戦帝国軍の作戦行動に口を差し挟んだ形跡が見られなくなるという事実だけだ。
反乱の首謀者モルベヤ王国ウオルブ王は旗艦と共に爆死した。反乱軍の艦艇は一隻たりとも降伏を許されず、全て撃沈された。
この戦いはこれで終わりではない。反乱軍艦隊が壊滅した後、キャロルは艦隊を整え、今度はアゲラの街へ向かった反乱軍の残り半数を追った。
反乱軍陽動部隊は途中で異変に気付き、反転してエーデルの街に逃げ込む構えを見せていた。そこに帝国艦隊全軍が殺到する。
二倍の兵力差、艦艇の質、錬度の差、そして主将を失っているという状態では反乱軍に戦意など残っていない。ここでも一方的な殺戮が繰り広げられ、そして全てが終わった。
「エーデル殲滅戦」と後に呼ばれることによるこの戦いにおける反乱軍の死者は十万人。帝国軍のそれが千二百四十一人である。降伏を許されなかった反乱軍の死者の数が異常に多いのは差し引くにしても、帝国軍の損害が少ないことは特筆されるべきだろう。損失艦艇は巡洋艦が一、駆逐艦以下艦艇が四に過ぎない。戦術史に残るほどの大勝利であった。
この戦いで文字通りプロト大陸の反乱は粉砕された。迅速で苛烈な対応は世界を震撼させ、とりあえず反乱が全世界にとび火するような事態は防ぐことが出来た訳だ。しかし、それはあくまでとりあえずである。諸王国の不満を弱めるなんらかの方策をとらない限り、このような反乱は何度でも起こるだろう。キャロルにはそれも十分わかっていた。
「エーデルの殲滅戦」はキャロルが政治、軍事の表舞台に初登場した戦いとして歴史上意義深い。同時にこの戦いは、チェルナ・リュートの名が聖戦帝国史に初めて記された事件ともなった。
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