第2話

チェルナ・リュートと関わるとあまり幸福にはなれない。


エスパーナが早期に発見したその法則を、どうやらキャロルは理解していないらしい。キャロルは今日も今日とて、チェルナに駆り出されていた。


そこは山道である。かなり険しい。ごろごろ転がる大岩や、節くれ立った木の根を乗り越えながら、時に垂直に近くなる道を行く。


しかもキャロルは大荷物を背負っていた。


「あんたならこれくらい余裕でしょ!」


と言われて担がされた荷物は、食料、薬、日用雑貨などであった。思いきり良く梱包されたそれは、人二人分はあろうかというような重量と容積を誇っている。まぁ、キャロルなら持てなくはない。しかし、これを持って山を登れというのか。


「何言っての!ごく普通の登山家だってこれくらいなら担いで登るわよ!」


登山家は専門家であって、ごく普通の人間ではない訳だが。まぁ、それはいいとして、問題は何故にキャロルがその様なことをせねばならないのかということなのだが。


「せっかく特技が有るんだから、それを活用して世の中に役立たせるのは、もはや義務よ!義務!」


というチェルナの言い分によって、要するに山頂近くにある山小屋まで荷物を届ける仕事を仰せつかった訳である。正確にはチェルナが勝手に約束してきて、キャロルに押し付けたのだ。ちなみにそのチェルナはキャロルの先を登っている。ほとんど手ぶらだ。


「ほら!早くしないと日が暮れるわよ!がんばれ、がんばれ!」


景気良く応援している。キャロルは苦笑して荷物を担ぎ直した。


夏である。木々の葉は日の光を十分溜め込んだ事を示すように深緑色に染まっている。日差しはきついが、山であるから空気は清涼で、風は涼しい。


ここは、クレタ盆地を囲む、標高三千メートル級の山の中腹である。朝早く出立して、今は真昼だ。このあたりから木々はまばらになり、足元には岩が増える。短い夏を謳歌する高山植物の可憐な花々が咲き誇り、時折、何か動物が足元を走りぬけた。


クレタの街が見下ろせた。街は盆地をほぼ完全に埋め尽くしている。中央に見える緑色の空間が皇宮だろう。やや離れた場所にある小さな緑がエブリス大学。皇宮を取り巻くようにオレンジ色の屋根が光り、その外側を白い光が取り囲む。


ここからはこういう風に見えるのだな。キャロルは半ば呆然と街を眺めやった。生まれた時からずっと住んできた街も、こうして見ると見知らぬ風景の一つに見える。


「何やってるのよ!」


なかなかついてこないキャロルに業を煮やして、チェルナが戻って来た。しかし、キャロルが街の方眺め、動かないのを見ると、


「…疲れた?」


少し心配そうに声を掛けてくる。


チェルナは傍若無人だが、全く気配りの利かない女であるかのというと、まぁ、そんな事も無い。死なない程度には気を使ってくれる。


「ちょっとね。少し休もう」


頷くとチェルナは自分のリュックから水筒を取り出した。彼女が持っているのはそれと昼食の弁当だけだ。一杯注いでキャロルに渡す。キャロルはそれを美味そうに飲み干した。




エスパーナを始め、キャロルの友人は残らず彼に忠告した。


「チェルナとは別れた方が良い」


別れるも何も、キャロルには恋人同士になった覚えは断じて無い。


自覚が無いのが更に危険だ、とエスパーナ達は心配するのである。彼らは、今でさえ手に負えないほど我が侭なチェルナが、キャロルという後ろ盾を得て、無敵に我が侭な存在となり、自分たちを騒動に強制的に巻き込むのではないかと心配していたのだ。


しかも、まかり間違ってあの暴走女が皇妃にでもなれば、それは国民全体の不幸になりかねず、キャロルの友人としてそれだけは阻止しなければならないという義務感に、エスパーナなどは駆られている訳だ。キャロルを除けば誰よりもチェルナの暴虐に晒されていると自負するエスパーナである。


そもそも、聖戦帝国には不敬罪というものが一応は存在し(この時点では適用されたことが無かったようであるが)、チェルナの行動はまず間違い無くそれに当てはまるはずだ。いくらなんでもキャロルを労働に駆り出しては給料をピンはねするような、明白な犯罪行為は許すべきではないのではないか。


口々に主張する友人達をキャロルは苦笑しながら見ていたが、やがて言った。


「これでも僕は楽しんでいるんだ」


唖然とするエスパーナ達に向けて続ける。


「チェルナがいなければ僕は、ああいう風に肉体労働をしたり、一般庶民と密に触れ合ったりすることはなかっただろう」


それはそうだろうが…。時折、キャロルの感覚はエスパーナ達にも理解しかねる場合が有る。余りにも超然としているというか、呑気すぎるというか。


「そういう意味で僕は彼女に感謝しているんだ。他の事は大したことじゃない」


しかし、彼は知らないのだ。彼と彼女の物語はまだまだ始まったばかりであり、そんな結論じみた感想を漏らすには早すぎるのだという事を。




山小屋は標高二千五百メートル付近に建っている。元は猟師や鉱山師のために作られたものだが、今では単なる観光のための小屋になっていた。


木造二階建てのかなり大きな山小屋だ。意外に賑わっており、山小屋の周囲には幾つもカラフルなテントが張られている。


キャロルは大荷物を降ろすと首を回してほぐした。流石にきつかった。帰りは手ぶらだと聞いているのでその点は安心だ。


「何の騒ぎ?」


チェルナが首を傾げる。


キャロルが見ると、小屋の横で数人がなにやら騒いでいた。


人込みの中央には人が倒れているようだ。


「行ってみましょう!」


チェルナが走り寄る。否や無くキャロルも後に続いた。


倒れているのは女性だった。亜麻色の髪をした小柄な女性。年齢はキャロルたちと同じくらいだろうか。典型的な軽登山の服装をして、お腹を押さえてうめいている。


チェルナは躊躇無く膝をつくと、女性に声を掛けた。


「大丈夫?見せて、私は医者です」


キャロルは少し驚いた。確かにチェルナは解剖医学を学んではいたが、医者であるという訳ではない。しかし、ここでその様な細かい説明は不要だろう。女性も信じたようだ。


チェルナは女性の腹部を服の上から触診し、足を曲げさせたり腕を上げさせたりして、簡単に結論した。


「盲腸ね」


「分かるのか?」


チェルナはキャロルの耳に口を寄せて囁いた。


「本に載っていた症状と同じだから、多分よ」


だとすれば、困った事になった。ここは標高二千五百メートルの山の上だ。山小屋には簡単な治療用具はあるが、手術など出来ないし、そもそも医者がいない。チェルナにやらせるのは論外だ。


しかし、チェルナはこれまたあっさり結論した。


「キャロル、あんたこの娘を担いで降りなさい」


「僕が?」


「あんた以外に出来そうも無いし、一刻を争うのよ。さ、早く!」


キャロルは仕方なく女性に背中を差し出した。女性は戸惑っていたが、チェルナに半ば無理矢理キャロルの背に押し上げられる。まぁ、女性は登りに担いできた荷物に比べれば随分軽い。


「さ、丁寧に急ぐのよ!あたしも荷物の代金を受け取ったらすぐ追い掛けるから!」




結局、キャロルは山道のほとんどを駆け足で降り切った。チェルナもすぐ追い付いてきて、女性に鎮痛剤を飲ませたり励ましたりした。


通常五時間は掛かる行程を二時間で踏破する。キャロルは兎も角、チェルナにはかなりきつかったはずだが、一言も弱音は吐かない。到着した時、辺りは次第に暗くなりつつあった。


麓に着くとチェルナの案内ですぐに病院に辿り着いた。病院の前には既に看護婦が待っており、女性は担架に移し替えられ、すぐに病院の中に消えた。


チェルナは山小屋から無線で、麓の病院に事の次第を伝えていたのである。街の地図をチェックし、病院の位置も確認していたのだ。ついでに病院の医師から応急処置方を聞いてもいる。キャロルは感心した。いつでもどこでも暴走超特急なのかと思っていたら、ちゃんと地に足を付けた対応が出来るのだな。


「あんた、あたしを何だと思ってるの?」


チェルナはキャロルを投げやりな目つきで睨むと、キャロルの肩に手を掛ける。


なんだ?と思う間もなく、チェルナはキャロルの背中に覆い被さった。


「疲れたからちょっとおぶってて!」


仕方なくキャロルはチェルナの足を抱えた。チェルナは信じられないほど瞬時に寝息を立て始めた。僕だってかなり疲れているんだが…。途方に暮れるキャロル。


その時、病院の門から数台の車が入って来た。ライトがキャロルたちを照らす。


ビートル機関の動作音と冷却ファンの静かな音に乗って、車は滑るように病院の前に進んできた。キャロルはチェルナを背負ったまま少し避ける。


そこここに豪奢な飾りの付いた車であった。見るからに上流階級の人間が乗っていると分かる。ドアが開き、何人かの男が降りてきたが、彼らは護衛であろう。キャロルに警戒の目を向け、キャロルの視線から最後に降りてくる人物の姿を隠そうとする。


そして、ゆっくり降りてきた紳士を見て、キャロルは思わず声を出した。


「ファビオス!」


その声を聞きつけ、紳士がキャロルに視線を向けた。背が高くがっしりとした体つきの、初老の男性である。灰色髪を丁寧に撫で付けている。眼鏡の下のこげ茶色の瞳がしげしげとキャロルを観察していたが、やがて驚きに見開かれた。


「陛下?」


彼の声に、彼の護衛達も一斉にキャロルを見る。なにしろ登山の後でもあり、薄汚れてしかもチェルナを背負うという奇妙な格好であったが、良く見ればその特徴ある金髪は間違いなく彼らの皇帝陛下なのであった。唖然とした気配の後、ファビオスを含め全員が一斉に跪く。


ファビオス・ベルナーはこの当時、国税担当大臣を勤めていた。聖戦軍発足当時からのメンバーで、聖戦帝国政府の中でも有数の、実力者の一人である。キャロルは当然、子供のころから彼の事を良く知っていた。


「奇遇極まりますな、陛下」


「ああ、あ、皆、立つが良い」


キャロルは慌てていた。なにしろチェルナは熟睡しており投げ出す事も出来ない。自分がこんな無礼な態勢で他人を跪かせているというのは気分が悪かった。


「ファビオスこそどうした?何処か悪いのか?」


「いえ、今日ここに私の娘が担ぎ込まれたと連絡がありまして。登山中に倒れたとか」


「ああ、あの娘はファビオスの娘だったのか」


不審げに眉を顰めたファビオスに事情を説明する。ただし、彼自身が山に登った理由とチェルナについては曖昧にして話した。


聞き終えるとファビオスは大笑した。


「まさか陛下にお助け頂けるとは。我家にとって末代までの誉れとなりましょう。まことにお礼の申し様もありませぬ」


深々と頭を下げる。キャロルは苦笑して礼を受けた。


「それより、早く娘の所に行ってやるがよい。盲腸だそうだ」


「失礼ながらそうさせて頂きます。また後日。ああ、お帰りになるのでしたらお送りいたしますが」


「よい」


ファビオスはもう一度深々と頭を下げ、護衛を引き連れて病院の中へと消える。


辺りはとっぷり暗くなっていた。チェルナは何やらぶつぶつ寝言を言うほど熟睡している。聞き取れなかったが。キャロルはチェルナを背負い直し、とりあえずチェルナの下宿へと歩き出した。




さて、その様な事があってから一月程経たある日の事。


大学の構内を何気なく歩いていたキャロルはいきなり後ろから突き飛ばされた。


「キャロル様!」


突き飛ばされたのではなく、後ろから何者かに抱き付かれたのだと気が付いたのは、バランスをとろうという努力も空しくうつ伏せに転倒してからであった。


何事だ?一体。


彼の背中には一人の少女が張り付いており、全体重を彼に浴びせていた。その重さと彼女の亜麻色髪に覚えがある。


「君は…」


「はい!」


がばっとばかりに顔を起す。大きな大きなコバルトブルーの瞳が美しく輝きつつキャロルを見詰めていた。


「ヘレナ・ファビオスです!陛下!」


ああ、元気になったんだな。というか、なりすぎだろそれ。キャロルのツッコミは心の中でなされたので、当然彼女には届かない。


亜麻色の髪を頭の両脇で縛っている。服装はなんだか時代錯誤なまでに少女チックだ。詳しくはしらないが、ひらひらふわふわしている。小さくまとまった顔の造作の中で、瞳だけが不自然に大きい。ついでに言えば押し付けられている彼女の上半身は柔らかくそれでいて弾力性に富み、それはこの間背負ったチェルナと比較して二割り増しといった感じで…。


て、それはどうでもいい。キャロルはどうにか身体を起した。しかしヘレナが改めてという感じで胸に飛び込んできたので再び身動き出来なくなる。どうにかしないといかん。なにしろ大学の構内、かなり人通りのある所で女性と二人抱き合っている訳であり、既に大注目を集めてもいる。


「とりあえず離れてくれ」


「嫌ですわ」


ヘレナはきっぱりと言い切る。


「やっと見付けたのです!お礼を言うまで離れられません!」


「じゃぁ、早く言ってくれ」


「なんですの?照れてるんですの?陛下ってかわいい!」


もはや言葉が通じる気がしない。まるで子ザルのようにしがみ付くヘレナを抱き抱え、キャロルはようやく立ち上がった。


その時。


びしぃ!っと、何かがひび割れるような音がした。いや、錯覚だろうが、キャロルには確かに聞こえた。


恐る恐る音が聞こえた(様な気がした)方向を向く。


怒っているとか、泣いているとか、分かり易い表情であったのならキャロルの恐怖は半減した事であろう。しかし、その時の彼女の表情は、怒っているようでもあり、笑っているようでもあり、喜んでいるようでもあり、やっぱり怒っているようにも見えるという、実に複雑な表情であった。初めて見る表情だ。思わず冷や汗が出てしまう。


立ち止まった彼女は、数秒無言で立ち尽くすと、踵を返し数歩遠ざかった。


呼び止めた方が良いのか?キャロルが迷っていると、彼女はやおら向き直る。


あ、まずい。キャロルは地震前の野生動物のように危険を察知したが、ヘレナが邪魔で動けない。


彼女は軽くステップを踏むと、旋風を巻き起こしつつ走り出した。キャロルの方に。


「この~!」


右足が思い切り地面を蹴った後振り上げられる。


「不埒者が~!」


スカートがはだけるのも構わず彼女は見事な飛び蹴りを放った。動けないキャロルは避ける事も出来ない。見事側頭部にクリーンヒット。


せっかく離れた地面にまた倒れ伏す寸前、薄れ行く意識の中でキャロルは鮮やかな着地を決めるチェルナの足だけを見た。




ヘレナ・ファビオス。ファビオス・ベルナーの長女。年齢は十七歳。標準学校を卒業して家事手伝いをしている。家事手伝いとはいうが、ファビオスのような政府高官の家には召し使いもたくさん雇われている訳で、別に彼女が炊事洗濯に励んでいる訳ではない。


「良い御身分でうらやましいですこと」


不機嫌にそっぽを向きながらチェルナが嘯いた。


大学の食堂である。テーブルを挟んだ向かいには頭に氷嚢を当てたキャロルが座り、その腕にすがりついたヘレナが心配そうに彼の頭を見上げている。


ついでに言えばやや彼らを遠巻きにしてエスパーナなどキャロルの友人数人が見物している。薄情な連中だ。


「そうでもないですよう。毎日退屈でしょうがないからって、こっそり登山に出掛ければその先でお腹痛くなっちゃうし…。でも!」


ヘレナの大きな瞳にむやみやたらと星が飛び交い始める。


「おかげで陛下と出会えたんですもの!これはもう運命ですわ!運命ってすばらしい!」


この娘もチェルナとは違った意味でどこかが暴走している。


「何言ってんの。あんたが助かったのはあたしのおかげよ。九十八パーセントくらい」


「もっちろん感謝していますわ!チェルナお姉様はあたしと陛下を結び付けてくれた天使ですもの!」


「感謝する方向性が間違ってる気がするけど、まぁ、いいわ、感謝は形で示してもらうから」


ということで、チェルナは心置きなく早い昼食を盛大に注文し始めた。ヘレナに払わせる気だろう。果たしてヘレナが財布などを持っているものだろうか。キャロルは疑った。


ところで、ヘレナは当然ながらエブリス大学の学生ではない。つまり部外者だ。構内への立ち入りは許可されていない。


「固い事言いっこなしですわ!」


まぁ、付近の市民が散策しに大学を訪れることは良くある事でもある。ヘレナが学校に大迷惑でも掛けない限り問題になることはあるまい。


ちなみにヘレナは「勉強きらい!」とのことで、上級学校に進学する気は毛頭無いらしい。ファビオスには他に三人の男子がいるが、これがかなり優秀な面々なので、親もヘレナには立身出世系の期待をまるでしていないのだろう。ただし、愛されていないという訳ではない。入院した娘を案じて多忙な父親が自ら駆け付けるくらいなのだ。


猫のように身体を擦り付けてくるヘレナ。ふわふわしたドレスに隠されているが、童顔に似合わず実はかなりグラマーである。キャロルは軽く困った。ふと、チェルナの方を伺うと、ひたすら口に食料を詰め込みながら時折、三角な目でキャロルの方を睨んでいるようだ。なにかこう、いろいろな意味で危険だ。


空気を読まない(読めない)ヘレナは食堂をきょろきょろ物珍しそうに見回している。


「皆さんこんな所でお食事なさるんですかぁ。キャロル様も?」


「ああ」


「でも、こんな所じゃ美味しいものは食べられないんじゃないですか?」


チェルナの眉が引き攣るのが見える。キャロルは慌ててフォローした。


「そんなことはないよ。結構美味いんだここ」


「そうですかぁ?」


と言いながらチェルナの前に並ぶ料理を疑わしげに見て、


「そうは思えませんけどぉ」


などとチェルナを逆撫でするような事を言う。


「そだ、明日からキャロル様のためにお弁当を作ってきます!」


「え?いや、いいよ、いらない」


「え~、こう見えてもあたし、お料理得意なんですよぉ。そだ、あたしが手ずから食べさせてあげます。あ~んって!」


くすくす笑いながら、スプーンか何かでキャロルに何かを食べさせる真似をした。その時。


ぶち!


などという分かり易い擬音が聞こえた(気がした)。チェルナが食べ終わったシチュー皿を持ち上げ、ゆっくり振りかぶる。


キャロルはヘレナにしがみ付かれているので動けない。しかし、幸いな事に今度の標的はキャロルではなさそうだ。


「いい加減に!」


ヘレナが小動物じみた動作で顔を上げるのと、チェルナの腕が振り切られるのはほとんど同時だった。


「せんか~!」


シチュー皿は結構ものすごいスピードで飛び、見事ヘレナの額に命中して上方向に跳ねた。


「きゅう…」


テーブルの下に沈没するヘレナ。




授業中には離れているように、との厳命をヘレナは素直に守ったので、キャロルは心置きなく授業には集中する事が出来た。なにしろせっかく入学したエブリス大学なのである。これで授業がまともに受けられないような事態になれば、何のために進学したのか分からない。ついでに言えば、エスパーナもチェルナも、馬鹿な事ばかりをやっているようだが授業はまじめに受けている。後のことになるが、彼らは皆めでたくエブリス大学を卒業することに成功した。特にチェルナは首席卒業の栄誉に輝くことになる。


ヘレナは朝が激弱だということで、もっぱら昼食時間になると大学に登場した。


「キャロル様!」


レースの飾りの付いた日傘を投げ捨ててヘレナがキャロルに走り寄る。彼女の服装は基本的にふわふわひらひらな白いドレスで、そんな格好をしていると五歳は幼く見える。


「お疲れでしょう?ささ、こちらへ」


ヘレナが身体ごと引っ張って行く先には、芝生の中に白いパラソルと、ご丁寧にテーブルクロスが掛けられたテーブルがある。最初は執事とメイドまでいたのだが、それだけはキャロルがなんとか止めさせたのだ。ヘレナはテーブルの下においてあったバスケットからサンドイッチやグラタン、パスタやサラダなどを次々と取り出す。


「ささ、召し上がれ!」


…落ち着かない。大学の構内、しかも人通りの結構ある場所だ。そこに場違いなほどメルヘンなパラソルとテーブルを勝手に設置して、美少女に抱きつかれながら昼食をとる、皇帝陛下。誤解招きまくり、というか、誤解か?それ。


一応、キャロルも抵抗したのだ。最初はヘレナに強固に拒絶の意志を伝えた。するとヘレナは古代悲劇のヒロインさながらに崩れ落ち、よよよ、と泣き始めた。これにはキャロルも参った。往来で美少女を無体に泣かせる皇帝陛下。素直にテーブルに付いて食事をするのと、どちらが外聞が良いか、微妙な光景だった。


そして、珍しくヘレナの肩を持つ人物もいた訳で。


「はい!あ~ん…きゅう」


ヘレナがサンドイッチをキャロルに食べさせようと差し出したその瞬間、ヘレナの姿が下方向にキャロルの視界から消えた。


チェルナは見事な踵落しでもってヘレナを排除すると、倒れた椅子を起してそれに腰掛け、遠慮容赦無くチキンの照焼きに手を伸ばした。


「うまっ!相変わらずいい腕してるわ!」


「へへ、それほどでもぉ~」


ひょろりと起き上がったヘレナが照れたように言う。意外に頑丈なのだ、この娘。


つまりチェルナは、自分がお相伴にあずかるためにヘレナの肩を持った訳である。金銭を用いて奢らせるよりも遥かに後腐れ無い飯の種だと思えたらしい。チェルナの熱心な勧めによってキャロルはしぶしぶヘレナのもてなしを承知した。


ちなみに、この昼食は本当にヘレナが作っているらしく、これがかなり美味い。


チェルナはキャロルが感心するほど良く食べる。キャロルと出会ってからは昼食の安定供給に成功している訳で、それほど飢えているはずはない。つまり、彼女はそもそも大食いなのだ。その割りにはスレンダーだが。


ヘレナはお茶を給仕したりしていてなにやら楽しそうである。別にチェルナの登場を嫌がってもいない。最近では明らかにチェルナの分も予定した量を作って来るくらいだ。


チェルナのヘレナに対する認識は、なんだか気に入らない女→昼食担当の便利な女へと変っていた。しかし、ヘレナが人前でキャロルとじゃれていると容赦無い鉄槌を下したくはなるらしい。ヘレナが意外に頑丈であることが分かってからは更に容赦が無くなっているようだ。


エスパーナがやってきた。この軽い男はキャロルとチェルナの間にヘレナが割り込むという事態を明らかに歓迎していた。しかも、どうもヘレナが趣味に合致したのか、


「ヘレナちゃん今日もかわいいねぇ」


などとやにやにやしていた。手を伸ばしてポテトフライを摘まもうとしてチェルナに手を叩かれる。


「あんたにやる料理はない!」


「おまえのじゃないだろ?」


「何言ってんの!ヘレナが作って来た食べ物は全てあたしのものよ!」


と、彼女が宣言したからにはそうなのだろう。キャロルは深く考えない事にした。ヘレナも反論しないし。


「何しに来たのよエスパーナ!あんたはさっさと食堂に行って寂しく一人で食べてれば!」


「やかましい!おまえなんかに用はねぇよ!」


と言いつつ、キャロルの肩に手を回す。


「なぁ、例の話、考えてくれたか?」


「なんだっけ」


「ほら、ダンスパーティの話だよ」


「ああ」


なんでも、ある場所で知り合った(ナンパだ)エベンナという娘が、キャロルに会いたがっているというのだ。どうせエスパーナがキャロルとの関係を誇大に吹聴したのだろう。それで、この週末に行なわれる彼女の誕生パーティにキャロルを連れて行くと、どうもエスパーナは既に約束してしまったようなのである。


「な、助けると思ってさ!」


「う~ん…」


「ダンスパーティ!」


突然叫んだのはヘレナである。


「あたし、ダンスパーティ行きたいです!ダンス大好き!」


と、言いながら踊り出す。


「ね、チェルナお姉様も行きましょうよ!」


突然話を振られてチェルナは喉にマカロニを詰まらせた。


「あたし?」


「ねね、エスパーナ様、いいでしょう?」


「いや、その…」


困惑するエスパーナ。チェルナも首を横に振った。


「いや、あたしドレスとか持ってないし…」


「あたしが貸してあげますよぅ!」


「あんたのじゃサイズが…」


「大丈夫です!お母様のが多分ぴったりです!ね、いいでしょう?」


チェルナはかなり引き気味にヘレナとキャロルを交互に見ている。お?これは復讐のチャンスかもしれん。エスパーナはわざとヘレナに小声で(しかしチェルナに聞こえるように)言った。


「駄目だよう、ヘレナちゃん。チェルナはダンスが下手なんだから」


「ええ?そうなんですかぁ?」


ああ、こんなことを言われて黙っているチェルナでは無論無い。彼女は立ち上がってエスパーナの頭頂部にチョップをかましてから、憤然と叫んだ。


「ダンスぐらい出来るわ!」


そして、三人を睥睨しながら高らかに宣言する。


「あたしも行くからね!」


僕は行くとも行かないとも言っていないのだが。キャロルはそう思ったが、口に出しても無視されると思われるので、黙っていた。




ダンスパーティにもいろいろある。庶民の間で流行していたいわゆるポップス・ダンスのパーティというものもあったが、これはただ飲んで騒ぐだけというようなものだ。これに対して上流階級の間で行なわれるクラシック・ダンスのパーティは、要するに当時の上流階級の社交場を意味した。


クラシック・ダンスパーティにも、若者の出会いや社交のために開催されるもの、貴族、政治家、軍人などが表面的な交流を行うために開催するもの、単なるばか騒ぎをするためのものなどなどがあった。その日キャロルたちがやってきたのは要するにエベンナ嬢の誕生パーティである。ただしかなり盛大な催しで、エベンナ嬢の友人以外にも、彼女の父親関係と思しき年嵩の男女も相当数出席しているようだった。


キャロルとエスパーナが館の玄関に立つと、中から正装した男性がまろび出て来た。


「へ、陛下!この様な所にお運び頂き、きょ、恐縮至極!」


跪くのはエベンナ嬢の父、ボルドフ・ロクスである。国土省の高級官僚の一人であったが、キャロルとは面識が無い。キャロル苦笑して彼の手を取った。


「今日はよろしく頼む」


「は、はは!」


たかが高級官僚の娘の誕生パーティにキャロルが臨席するというのは、実はかなり異常なことなのである。政治的にはあまり好ましからぬ行為だと言えるのかもしれない。キャロルはプライベートであることを強調するように、地味な一般的なスーツを身に纏っていた。そのため、外観上はむしろエスパーナの方が、彼の張り切りようを示すように豪奢な正装を身を包んでいる分、目立っていた。


しかし、出席者、ボルドフの親族や同僚、エベンナ嬢の友人達はキャロルを見て騒然としている。キャロルが挨拶のために近付くと、ドミノ倒しのように一斉に跪いた。キャロルは一人一人の手を取って立たせたり、声を掛けたりする。その様子を見て離れた場所から様子を伺っていた連中も、次々とキャロルの周りに集まり始めた。中には皇帝と握手した感激で涙ぐむ者もいる。


エスパーナは、これはまずいのではないか?と思い始めていた。キャロルがこれほどまでに注目されるとは、エスパーナには想定外のことであった。


彼は、大学であまりにキャロルと身近に接し過ぎていたのである。有り体に言ってキャロルが皇帝であるなどと言う事は、忘れていたのだ。このため、出席者達の反応が異様にすら思えたのであった。


しかし、キャロルは皇帝なのである。一天万乗の君。聖戦帝国国民三十億人の頂点に立つ存在なのだ。


この時点で彼の持っていた権力を列記してみればそのことがより一層はっきりする。


・ 執政権…行政にまつわるあらゆる決定権。


・ 議会拒否権…聖戦帝国議会における拒否権。


・ 最高司法権…聖戦帝国における最終裁判所、皇帝裁判における最高判事権。


・ 統帥権…聖戦帝国軍に対するあらゆる決定権。ちなみに階級は大元帥。


・ 不可侵権…如何なる犯罪を犯しても追訴されないという権利。


つまり、三権および軍事において絶大な権力を持っているということであった。民主主義が常識な後世の我々からすれば、些か信じ難いほどただ一人に強大な権力が集中している政治体制、それが帝政である。しかし、これでもかつての黄金帝国の皇帝達の権力に比すればやや劣るのだ。なにしろ、黄金帝国には議会というものが存在しなかった。立法と行政が一体化していた訳で、皇帝がやる!と言えばなんでも出来た訳だ。聖戦帝国では、例え皇帝といえども、単独で法律を制定する事は不可能である。


しかしそれにしても、これほどの権力者を前にすれば、パーティに出席した人々が穂を垂れるように恐れ入るのはむしろ当然なのである。


こうして皇帝として振る舞うキャロルは、エスパーナから見てもかなりの存在感を発していた。はっきり言ってパーティの主催者であるエベンナ嬢が霞んで見えなくなるほどである。まずい。せっかくエベンナ嬢の機嫌を取るためにキャロルを連れて来たのに、これでは逆効果になりかねない。


そして、そこへ更に事態をややこしくする存在が乱入した。


「キャロル様~!」


広間の入り口ではしたなく大声を上げている少女。もちろんヘレナであろう。…て、


「どうですかぁ、キャロル様、似合いますかぁ!」


イブニングドレス姿では流石にいつもの様には走れないのだろう。裾を持ってちょこちょこ駆けて来るその姿。エスパーナは思わず鼻の下を長くし、キャロルでさえも一瞬唖然として、咳払いをしてしまう。


髪をいつも通りツインテールに結い、軽く化粧をした可愛らしい面立ちはいつも以上に幼く見えた。大きく胸元が開いた白を基調としたイブニングドレス。それ自体は別に何ともおかしくはない。しかし、この少女。顔立ちは天使のようにあどけないのに、体つきは犯罪的なまでにナイスバディなのである。それがドレスを着る事によって強調され、なんというか、殺人的な魅力を存分に発散しているのだった。


周囲の男性は残らず目を丸くし、女性は全員目を三角にした。もちろんエベンナ嬢も。


ここまでで既にエスパーナの目論見は壊滅的なダメージを受けていた。しかして、最後の人物が登場した瞬間、エスパーナは全ての計画を放擲した。もう、どうでもいいや。


「チェルナお姉様!こっちよ!」


チェルナはヘレナの屋敷に一度寄り、そこで着替えをしてヘレナと一緒に来る手筈になっていたのだ。


エスパーナとキャロルは広間の入り口を見る。そして、時が止まった。


絶世の美女なる形容詞が有る。しかし、美人の判断基準などは人それぞれだし、時代によっても異なる。ある時代、ある国でそう呼ばれる存在も、違う世から見ればたいした事が無いと思われるのかもしれない。


しかし、美というのは同時に、全てを超越するものでもある。優れた芸術作品、自然美は時代や国境を越えて永遠に賛美の対象となるだろう。


ああ、この美は既に芸術だ。エスパーナは半ば腰が抜けかけた。足が震えてしまう。キャロルも思わずつばを飲み込んだ。


長い黒髪は高く結い上げられ、花の形をした髪飾りが輝いている。薄紅色のイブニングドレス。流麗なシルエットはヘレナのような派手さこそ無いものの、計算され尽くしたかのような曲線を強調していた。普段少し日に焼けている肌は薄化粧で雪のように白くなり、鮮烈な紅を含ませた唇を艶やかに引き立てている。夜空のような深みのある黒い瞳が宇宙への窓のように開かれ、長いまつげが光を浴びて薄く輝く。


完璧なスタイル。圧倒的な美貌であった。


精霊がこの世に顕現したような。妖精が人間の服を着て現れたかのような。そういう抽象的な表現を用いる他無いような、この世のものとも思えない美しさ。男性女性を問わず、広間にいる全ての人間の動きが止まっていた。楽団さえ楽器を操作出来なくなっている。


チェルナは空気が凍り付いたかのような沈黙の中進み、キャロルの前に立った。キャロルも動けないでいる。


「…そんなにおかしいかな?」


チェルナの声は不安げだった。それはそうだろう。周囲の反応は普通ではない。キャロルはどうにか言葉を押し出した。


「そ、そんなことはないけど」


「ね!」


空気の読めないヘレナがチェルナを指差す。


「すっごくキレイでしょう!チェルナお姉様!超超々~完璧よね!」


我が事のように誇らしげに胸を反らす。


チェルナはドレスの裾を気にしながら頬を赤く染めた。


「変な格好」


「いや!似合う。似合うって!」


 キャロルの声も不自然に上ずる。エスパーナは声を掛ける気もしない。


 この時点での存在感ランキング。圧倒的一位チェルナ、やや離れた二位ヘレナ、かなり離れた三位キャロル、圏外エベンナ嬢。ただ単に皇帝のことが見てみたいなどと好奇心を覚えたばかりに、誕生パーティの主役の座を奪われてしまったかわいそうなエベンナ嬢には同情を禁じえない。エスパーナは全てを諦めて嘆息した。




 ダンスパーティには当然ながら晩餐会が付随している。ダンスホールの隣の広間が晩餐会の会場であった。テーブルが置かれ、既にさまざまな料理が並んでいた。チェルナがあからさまに感激する。


「全部食べていいの?」


 中身はおんなじだな。エスパーナはやや安心した。


「食べてもいいが、マナー良くな」


 チェルナは小首をかしげた。マナーとは何かと真剣に考えている表情だった。しまったこの女、まさかテーブルマナーというものを知らないのではないだろうな。


 そのまさかである。当たり前だ。彼女は孤児院出身の筋金入りの庶民である。上流階級のテーブルマナーなぞ概念すら知らないだろう。テーブルにつけない方がいいかもしれん。エスパーナは考えたが、料理に目が釘付けになっているチェルナを見たらそんなことが可能だとは到底思えなかった。キャロルが笑いながらチェルナに耳打ちする。


 ネサイエス式のテーブルマナーはいろいろあるが、それほど難しくない。テーブルに並んでいる料理は給仕係に命じて取り分けさせ、けして自分で取ってはいけない。命じる際には大きな声を出してはいけない。食べ終わった皿も命じて下げさせるが、この際は軽く皿を持ち上げて合図をする。あとは下品にならなければそれでオーケー。


「なんだ、簡単じゃない」


 最後の「下品にならなければ」という部分が大問題なのだが、キャロルはあえて論評を避けた。


 案の定であった。


 チェルナは最初に給仕が取り分けてきた皿を見て、不満気にうなった。


「もっととって!」


 そういう場合は何度かに分けて取ればいいのだし、料理数も多いのだから一つの料理は食べ過ぎない方がいい、という意見は言うだけ無駄だろう。キャロルは苦笑した。チェルナの瞳は見たことも無い程豪華で多彩な料理に超新星のように輝いており、全ての料理を食い尽くすまで帰る気がないことは明白だった。


 スープを飲む時は頭を動かさない。皿を擦る音は立ててはいけない。口に物を入れてしゃべってはいけない。などという細かい作法は求めるだけ無駄だった。ただし、彼女は彼女なりに遠慮していたらしく、それほど極端に見苦しくはなかったことは特筆しておくべきだろう。しかし、なにしろ食べる量が半端ではないので目立つことは目立つ。しかも完璧美人がそれをやるのだ。にこにこ楽しげに見ているキャロル。何にも考えていなそうなヘレナはともかく、エスパーナは肩身が狭かった。エベンナ嬢からの「なんでこんな女を連れてきたんだこら!」と強く訴える視線が痛い。


 結局チェルナが心置きなく食い、すっかり満足した頃には出席者のほとんどは隣のダンスホールに移動していた。大体、ダンスパーティではこの後踊るわけなのだから満腹になるまで食うということ自体が非常識なのだ。


「大丈夫、大丈夫!あたしはむしろ満腹の方が身体の切れがいいのよ!」


 彼女は人目が減ったのをいいことに、はしたなくも反動をつけて椅子から飛び降りた。


「さ、キャロル!エスコートしなさい!」


 ヘレナが抗議する。


「あ、あ、ずるいです!あたしもキャロル様にエスコートされたいです!」


「あんたは、エスパーナにしときなさい!」


 結局、キャロルは美女二人に左右を挟まれるという格好でダンスホールへと入った。その後ろにやさぐれ気味のエスパーナが続く。


 既に数人の男女が曲に乗って踊っていた。シャンデリアが白々しいほど明るくその様子を照らし出している。


曲はゆったりしたワルツだ。とりわけ特殊なステップが必要な曲ではない。ただし、こういう社交ダンスにもいろいろマナーがある。キャロルはチェルナにそれについて幾つか耳打ちした。


聞いていたのかどうなのか、チェルナは踊る人々を目で追っていたが、やがて安堵と自信がないまぜになったような表情を浮かべた。


「簡単じゃない!」


曲が終わり、踊っていた人々が壁際に下がってくる。チェルナは今にもキャロルを引っ張って中央に出て行きそうになったが、キャロルが引き止めた。


「君はもう一遍通しで見ていた方が良い」


チェルナは不満気に鼻を鳴らしたが、意外に素直に引き下がる。


キャロルはヘレナの手を取って、広間の中央に出た。人々がざわめく。ヘレナは楽しそうに笑いながら、曲が始まる前から身体を揺らしていた。


曲が始まる。意外な事に、ヘレナは軽快な踊りを披露した。実際、彼女はかなり運動神経が良い。さっきの曲よりもややテンポが早めの曲に乗って、軽妙にステップし、優雅にターンする。それに比べればキャロルは可も無く不可も無い感じの平凡な踊手であった。


エスパーナが頭を抱えた事に、観衆の注目はほとんどこの二人に集中していた。


曲が終わり、キャロルとヘレナは壁際に戻った。待ちわびたかのようなチェルナ。


「行きましょう!」


キャロルは苦笑してチェルナの手を取った。


彼らが進み出ると広間が水を打ったように静まり返った。中央に出ようとしていた数組の男女が慌てて戻る。結局この曲は二人のためだけに奏でられることとなった。さらに深く頭を抱えるエスパーナ。


流石に緊張を隠し切れないチェルナ。キャロルはチェルナの耳元にそっと囁いた。


「僕に合わせて。大丈夫。チェルナになら出来る」


「当たり前じゃない!」


強気の返答が返って来た。


曲が始まった。ゆるいテンポの曲だ。二人が滑り出す。


言うだけあって、チェルナは曲とキャロルの動きに完璧に合わせてみせた。堅実な踊り方である。たった二曲聞いただけでこれほどの踊りを披露できるのだからたいした物だ。しかし、キャロルは少し不満だった。キャロルは、身体を寄せ合うタイミングでチェルナに囁いた。


「楽しくやろうよ」


チェルナの視線が驚きを伝え、次の瞬間輝いた。


チェルナの動きが変る。躍動感が増し、キャロルについて行くだけだった動きが逆にキャロルを引っ張るようになる。動きが大きくなり、広間全体を二人は宙を舞うようにステップを刻んだ。


それはある意味歴史的な光景であった。しかしそれに関係なく、二人のダンスは圧倒的な輝きを放っている。なにしろ、鮮烈さには欠けるが十分美青年と呼べるだろうキャロルと、緊張が解けて普段の闊達さを取り戻したために、もはや見ているだけでも眩しいようなチェルナが、華麗な音楽に乗って、独創的な動きで流れるようなダンスを披露しているのである。広間に集った人々は咳ひとつせずに二人のダンスに見入った。


曲が終わると、誰からとも無く拍手がおこった。二人は軽く一礼して壁際の人となる。


途端に、キャロルの周りに老若を問わず女性が群がった。皇帝陛下と踊ったとなれば終生の自慢となる。キャロルはチェルナを気にしながら中の一人の手を取った。


見るとヘレナの周りにも男性が鈴なりになっている。


キャロルは続けて六人と踊る羽目になった。さすがに目が回ってきたので更なる誘いを謝辞してチェルナの所に戻る。


見慣れない表情だった。呆とした視線を踊る人々に投げ、軽く唇を開いている。心がここに無いような、そういう表情だった。キャロルが声を掛けても反応が無い。肩に手を触れさせると、ようやく我に返った。


「踊らないの?」


「…もういいわ」


見ると、ヘレナとエスパーナは次々と相手を入れ替えながら踊り続けている。ヘレナはにこやかに、エスパーナは自棄気味に。


どうも、チェルナを誘いに来る男性はいなかったようだ。彼女の美貌に圧倒されたというのが理由の一つではあろう。しかし、それ以上に彼女が一般庶民であるというのが大きかったと思われる。差別ではあろうが、このような社交の場では仕方が無い面もある。


また呆然とダンスを眺めやるチェルナ。何かを悲しんでいるかのような、そんな、表情だった。何を悲しんでいるのか、それは本人にも分かるまい。


ヘレナが帰ってきたのを機に、キャロルはチェルナに声を掛けた。


「帰ろうか」


チェルナはどうでもいい様に頷いた。


「ヘレナ、服とアクセサリーは明日返すわ」


「え~、帰っちゃうんですかぁ?あ、いいですよ、その服はチェルナお姉様に差し上げます」


手を振るヘレナに別れを告げ、キャロルはチェルナの手を取って広間を出た。


この格好では流石に歩いて帰る訳にはいかない。キャロルは待たせていた車を呼ばせ、ボルドフの見送りを背に、チェルナと共に後部座席へと収まった。チェルナの下宿へと命じる。


流れる窓の外を眺めるチェルナ。ダンスの時の闊達さは消え失せ、時折、外灯に照らされて浮かび上がる白い面はもの憂げだ。声を掛ける事を躊躇してしまうような姿だった。


下宿に到着した。そのまま別れても良かったが、気になったキャロルは部屋まで彼女を送る事にした。階段を上る間も二人は無言。


ドアの前でチェルナはキャロルに向き直った。


「お茶でも飲んでく?」


キャロルはかなり驚いた。チェルナが誰かに何かを御馳走するなどというのは前代未聞の珍事であると言えた。


チェルナの部屋の中は半分を本の山が埋め尽くし、後の半分にベッドが置かれていた。チェルナはキャロルに後ろを向かせて服を着替えた。髪を解き、おしろいを拭い、シャツとズボンに着替えたチェルナは、数分前とは別人に見えた。違う美しさだ。


お茶といっても台所がある訳ではないので、沸かし置きした冷たいお茶だった。かなり渋い。パーティ会場からくすねてきたという菓子を新聞紙の上に出す。


恐ろしく静かな夜だった。開いた窓からは冬に向って急速に冷やされつつある夜風がゆったり吹き込み、チェルナの髪を揺り動かしている。


チェルナはキャロルを前に置きながら、右の壁をぼんやりと眺めていた。化粧の名残である口紅の紅さが妙に目に付く。


キャロルはチェルナの横顔を眺めている内に気がついた。彼女が何を思っているのか、気がついたのだ。思わず苦笑しそうになる。


「大丈夫だよチェルナ」


チェルナは目だけ動かしてキャロルを見た。


「…変じゃなかった?」


「全然。ダンスもきちんと踊れてた」


「他の人とちょっと違っちゃったけど?」


「いいんだ。みんな拍手をしてくれたろう?」


チェルナは気に病んでいたのだ。自分は庶民的な振る舞いをして恥をかいたのではないかと。自分の住む世界とあまりに異なる世界に足を踏み入れ、何が何だかよく分からず、キャロルに助けてもらった。そのことが彼女のプライドをすこし傷付けていたのだ。


気にする事はない。キャロルは思う。ああいう上流階級風の礼儀作法などとりわけ意味がある事ではないのだ。礼儀作法など同席した相手に不快感を与えなければそれで十分なのであって、彼女にはそれが出来ていた。ならばそれで良い。


チェルナの表情にようやく笑みが戻った。


「ありがとう、キャロル」




聖戦帝国首都クレタの中央には皇宮がある。丁度盆地においても中央に位置し、それを囲むように旧市街が碁盤の目のように広がっていた。皇宮の敷地は概ね正方形で、その一辺は十キロメートルにもおよぶ。黄金帝国絶頂期に建設が進められ、紫玉王国時代に改修を重ねられながら今に至る。広さにおいても、また豪奢さにおいても全世界に比類無い大宮城であり、正に天下を束ねる皇帝の住居として相応しい威容を誇っていた。


聖戦帝国の前身、聖戦軍がこの宮城を占拠した際「全て破壊して聖戦軍が新しい世界を作るという意気込みを世界に示すべし」という意見があったのだが結局退けられ、聖戦帝国が成立した際そのまま皇帝宮城として活用されることとなったのである。ただし、宮城の大半を占める庭園はほぼ全て公園として開放され、離宮や邸宅も、歴史的価値が高いものを除いてかなりの数が民間に払い下げられた。


現在皇帝宮殿として使用されているのは、全体のほんの二割に過ぎない。黄金帝国歴代皇帝が居住した「天下の主座」と呼ばれた主宮殿は、改装されて帝国議会議場になっていた。皇帝の居住部分は「暁の宮」と呼ばれるかつての離宮とそれに付属する庭園のみである。


聖戦帝国は当初その成立の性格上、皇帝にあらゆる権力が集中する絶対君主制ではなく、皇帝、議会、官僚機構が鼎立する比較的緩やかな君主制度を政治制度として採用していた。このため、皇帝の権威を派手に示すことは極力避けられる傾向があったのである。初代皇帝ガイア・ラリオスと皇妃クシー・ルシメオスが極端に華美を嫌う性格であったことも、皇帝の住居がこれほど小さくなってしまった理由の一つであろう。


余談になるが、聖戦帝国の政治機構そのものは他ならぬキャロル帝の手によって次第に絶対君主制に近い形に改められた。このことで彼は当時の世論や後の世から「復古主義」と非難されることになる。しかし宮殿は、キャロル以下歴代の皇帝が非常に質素であったこともあって、結局最後の皇帝コーネルに至るまで「暁の宮」を改装しながら使い続けることになる。


「暁の宮」は扇を重ねたような典雅な屋根を持つ宮殿である。広さこそ庭園を含め二千坪ほどとそれほどでもないが、総木造の凝った造りで庭園も大変に美しい。


小さいとは言ってもそれは黄金帝国の主宮殿であった「天下の主座」と呼ばれていた九層にも及ぶ大宮殿などに比べれば、ということだ。クレタ一般庶民の住居が三間ほどしかない集合住宅であることが普通だった時代である。二十九の間を持つ「暁の宮」はこれはこれでやはりかなり豪奢な宮殿なのであった。キャロルは特にこの宮殿を愛し、後に旧帝国の「お古」を使うことに難色を示した議会を自ら説得しさえしている。


キャロルの寝室は庭園に面した一階の部屋である。彼も父親であるガイア・ラリオスと同様、物的欲求に乏しく無頓着であったため、部屋の広さは兎も角、内装や調度品は一般庶民とほとんど変らない状態であった。一度、天蓋付きのベッドを勧められたのだがあっさり断り、子供時代から使い続けている小さなベッドで今も寝ていた。整理整頓が下手で、学生時代の彼はベッド周りに乱雑に積み上げられた本の間で寝るという国民には見せられないような部屋であったらしい。


チェルナも最初に入った時には自らの部屋をさて置いて「人の住む部屋じゃない!」と憤然とし、キャロルに手伝わせて自ら片づけてやったのだが、次に来た時に元どおりになっていたので諦めたという経緯がある。


この頃、チェルナはレポート制作にてこずるキャロルを助けるためにキャロルの部屋を何度か訪れていたのである。何しろチェルナは先輩だ。彼女がかつて履修し終えた科目をキャロルが学んでいる場合も多かった。特にキャロルは理数系科目を苦手としており、その方面が得意なチェルナは実に頼りになった。


「暁の宮」のドアを潜るには通常三回の身分照介と身体検査を受けなければならない。これは政府高官でさえそうだ。例外はキャロル本人と彼の養父母で同居者であるアロルド夫妻。そして、外からキャロルと同行した者である。チェルナはキャロルと大学から歩いて皇宮までやってきた。


チェルナは知らなかったのだが、エブリス大学から「暁の宮」までは十八キロもの距離があるのだった。キャロルはこの距離を毎日歩いて通学していたのだ。キャロルは車を嫌い、あまり使いたがらない。


初めて「暁の宮」の門前に立った時、チェルナはなぜか不満気に首を傾げた。


「小さいのね」


と無礼極まる事をのたまった。キャロルは苦笑する。


「まぁね」


「そのへんの、大商人の館の方が大きいわ。ロークシティアの緑玉城なんててっぺんが見えないほど大きいのよ?知ってる?」


「ああ、昔行った事があるよ」


ティティス大陸群、旧緑玉王国の首都であるロークシティアには、緑玉王国宮城であった「緑玉城」がある。これは文字通り世界最大の建築物だ。


外観はグリーンに輝く変形三角錐。十二層に及ぶ多層式構造で、層の一つ一つが五階建てのビルに相当する。かつては下の五層が宮廷区画、その上の区画が王宮として使われていた。この当時は下層を聖戦帝国ティティス分政府が使用し、上層は使用されていなかった。後に上層は皇帝の離宮となる。上層は複合的な空中庭園となっていて、その中に緑と光りに包まれた宮殿があるのだった。


ロークシティアは、建設当初は三角州上に計画されており、宮城に使えるスペースが限られていた。それがこのような高層宮殿を建設させたのである。実際、宮城の敷地面積はわずか百万平方メートルに過ぎない。


チェルナはロークシティア出身である。王宮といえば「緑玉城」をイメージする。「暁の宮」を見て拍子抜けしたのも無理はない。


クレタにも総木造の建物は珍しい。玄関を入ってすぐのホールから廊下、部屋の中に至るまで、頭上には複雑に入り組んだ梁が巡っている。天窓が非常に多く、屋内とは思えないほど明るい。


その日、キャロルは部屋で、チェルナから数学に関わる講義を受けていた。チェルナはこの宮に訪れるのがこの時で四回目となっている。チェルナはなかなか教えるのが上手く、分かり易い。ただし、キャロルが理解しない事があると「なんでこんなことがわからないのよ!」と言いながら首を絞めるのが難点だ。


途中、この宮に唯一いる初老のメイドが何度か茶菓子を持ってきた。チェルナの目的は二回目の来訪以降、明らかにこちらの方であった。キャロルの分も含めて実に美味そうに食べてしまう。彼女は甘いものが大好きなのだ。


のどかな春の一日であった。キャロルがエブリス大学に入学してから一年が経とうとしている。つまり、チェルナと出会ってから一年になるということだ。なかなか愉快な一年だった。キャロルはそう思う。エスパーナに言わせれば、そのように呑気な感想を抱けるキャロルの神経は特殊合金でも出来ているのかよ、ということになるのだが。


庭園の木々はまだ寒々しい姿だが、ガラス越しに落ちかかる陽光は実に心地良い。クレタの季候は高地であるためネサイエス大陸群にしては涼しい。特に春は良い季節だ。


ノックの音がした。キャロルが促すと、メイドではない老婦人が入って来た。


ソフィア・コルネリアであった。キャロルの養母であり、摂政アロルドの妻である。すっかり白くなった髪を後ろでまとめている。ふくよかな小柄な女性で、表情は実に柔和であった。キャロルがガールフレンドを連れてきていると聞き、様子を見にやってきたのだ。


彼女はドアを閉め、床に置いた盆をもう一度持ち、キャロルたちに笑顔を向けた瞬間、凍り付いた。


何かが落ちる激しい音がして、キャロルたちは驚いて顔を上げた。ソフィアが持った盆を落したのだ。


「お養母さん?」


 ソフィアは顔面蒼白。目は驚愕に見開かれ、手を頬に添えている。視線が、真っ直ぐにチェルナを指していた。震える声が唇から漏れ出る。


「み…、ミヘルナ様!」


 その言葉を聞いてチェルナの表情が少し固くなる。


 キャロルは、少し考え、そして、


「あ!」


 思わず叫んだ。


 一年前、チェルナに合った時感じた意味不明のデジャブ。知らないはずなのに知っているような、あの感覚。その正体がこの瞬間、霧が晴れたように明らかになったのである。


「そうだ。ミヘルナ・ロイ・イシリオに似ているんだ!」


 ミヘルナ・ロイ・イシリオ。緑玉王国最後の国王、女王ミヘルナのことである。


 降臨暦四七五二年即位。夫である緑玉王国の名宰相ヤスターシェ・ニクロムと共に、聖戦帝国の天下統一戦役において、最後の敵役になった人物である。


 ヤスターシェの献策もあって、四大宝玉時代末期、緑玉王国はティティス大陸群の統一に成功。四七六一年、他の全大陸群を統一し、天下統一を賭けてティティスに侵攻してきた聖戦帝国と激突した。


 「四大宝玉時代最高の戦略戦術家」という評価をほしいままにするヤスターシェは、この第一次ティティス侵攻戦役の最後アテネシア会戦において、聖戦帝国軍を完膚なきまでに打ち破った。聖戦帝国軍は艦隊の半数近くを失い、ティティス大陸群から撤退することを余儀なくされている。旗艦にして聖戦帝国艦隊の象徴であった「イリアス」が撃沈され、聖戦帝国艦隊初代司令官であったラウル・バルダも戦死。その損害の大きさに、聖戦帝国議会では強固な停戦論が沸きあがったほどだった。


 しかし、皇帝ガイアは議会で「第二次聖戦演説」を行い、第二次侵攻を強行する。


 そして、四七六三年、両軍はエイケルディアの地で最後の決戦を行った。


 戦いは一進一退の激戦となったが、ヤスターシェ・ニクロムの戦術が功を奏し、緑玉王国軍が聖戦帝国軍に大打撃を与えた。皇妃であり作戦参謀本部長でもあったクシー・ルシメオスは撤退を決断。緑玉王国が遂に勝ったかに思えた。


 しかし、ここで歴史を変えたと言われる一つの事件が起こる。


 追撃を指令しようとしたまさにその瞬間、ヤスターシェ・ニクロムが狙撃されたのである。犯人は反動派貴族の手による暗殺者であった。


 ヤスターシェは昏倒。緑玉王国軍は大混乱に陥り、その隙を突いて反転迎撃した聖戦帝国軍により大損害を被る。


 撤退中ヤスターシェ・ニクロムは死去。ここに緑玉王国の命運は尽きる。緑玉王国が聖戦帝国に対して降伏を申し入れたのはその一月後のことであった。


 ミヘルナ・ロイ・イシリオは退位。この時彼女は二九歳であった。ちなみに彼女は四七八三年現在、ロークシティアにて存命である。


 キャロルが頻繁に見たことがあると思ったのも無理はない。ミヘルナは現代史において最重要人物の一人であり、聖戦帝国にも縁深き人物である。現代史の本や、聖戦帝国建国譚を扱った本には必ず彼女の写真が載っているのだ。


 ミヘルナ・ロイ・イシリオは「天下に並ぶ者なき美貌」と厚く賞賛される。歴史上稀に見るほどの美女とも賞された。長い黒髪と黒曜石のような黒い瞳が特徴だ。


 そう、正にチェルナと瓜二つなのである。この瞬間までその事に思い至らなかったキャロルがどうかしていたとしか思えない。


「そうかぁ、そうだよ。ミヘルナ女王に似ているんだよ。やっと気がついた!」


「いまさら何を言ってんの」


 チェルナはふんと鼻息を放つと立ち上がった。ソフィアに近づく。


「大丈夫ですか?」


 まさか菓子が惜しいと思ったわけではあるまいが、呆然と立ち尽くすソフィアの代わりに落ちたカップや皿を拾う。


「あ、あああ、すみません、ぼーとしてしまって…」


 ソフィアも慌ててしゃがみこむ。


「…そんなに、似ていますか?」


 チェルナは拾ったものを渡しながらソフィアに視線を向けた。


「よく言われるんです。あの、ソフィア様は、ミヘルナ女王にお会いしたことがあるんですか?」


「え、ええ、緑玉王国の降伏交渉の時にお会いしました」


 当時彼女はクシーの副官であった。


「本当ですか!どんな方でした?是非お話を聞かせてください!」


 チェルナの反応はキャロルが驚くほど積極的だった。


「どんなことでもいいんです!」


「いえ、いえね、お会いしただけで、直接お話などさせていただいたわけではないのよ。そう、あなたには良く似ていらっしゃったけど…」


 ソフィアは口ごもり、チェルナから皿などを受け取ると、逃げるように部屋を出て行った。


 ソフィアの反応も妙だった。チェルナがミヘルナ女王に似ているからといって、あれほど動揺する理由にはならない。ソフィアは別に、ミヘルナと個人的面識があったわけではないはずだ。


 面識といえば、キャロルはロークシティアに行幸した際、ミヘルナ・ロイ・イシリオに会ったことがあるのだった。彼が十歳の時で、ミヘルナは既に緑玉城地上庭園内にある小さな館に隠棲していた。優しく、美しい貴婦人であったことを覚えている。父ガイア・ラリオスについての話を少しした。


「話を聞きたかったのに」


 チェルナは残念そうに言った。


 キャロルは現代史の本を出してきて、ミヘルナ女王若かりし頃の写真を探した。


 キャロルは驚いた。似ているとは思ったが、あたらめて見比べると、それは正に生き写しである。チェルナの写真だといわれれば信じるしかないほど似ているのだ。


「すごいね。すごい偶然だ」


 それを聞いて、チェルナは顔をしかめた。


「なに?」


「ううん、なんでもないよ」


 チェルナは椅子に座りなおしてため息を吐いた。


「キャロルって呑気だな、と思っただけ…」




 ソフィアは震えていた。


 間違い無い。あの子だ。あの時の。


 抱き上げた温もり、いとけない笑顔、そして、彼女の涙。全てがフラッシュバックする。


 ああ、なんという奇縁だろう。ロークシティアにいるはずのあの子が何故かクレタにいて、しかもキャロルのガールフレンドだなんて!


 なんという皮肉な運命であろう。彼女はチェルナの名前を知っていた。


 チェルナ・リュート。彼女の産着にその名を記したのは他ならぬソフィアだったのだ。


 孤児院の門前にチェルナの入った籠を置き、院長が出てきて抱き上げるまで見守っていたのもソフィアであった。


 その後のことはあえて調べなかった。秘密は墓場まで抱えて行くつもりでもあった。


 しかし、今ここにチェルナは現れた。


 一体どうすればいいのだろう。ソフィアは途方に暮れて座り込んだ。






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