皇帝キャロル一世

宮前葵

第1話


世界一の大学といえば、今も昔もエブリス大学の事を指す。


元々は、黄金帝国時代の大学者レナード・ウィックリーが創設したものであった。その規模を四大宝玉時代の紫玉王国が拡大し、世界最高学府と呼ぶに相応しい大学へと成長させたのである。聖戦帝国時代になってからもそれは変わらない。


敷地は聖戦帝国の首都クレタ郊外にあり、広さは二千万平方メートルにも及ぶ。その蔵書は一億冊と言われ、大移民時代以前の貴重な書物をも多く含んでいた。教授陣も学長である大哲学者ソード・ケルケスを筆頭とした層々たる面々が名を連ね、あたかも世界の賢人が全てここに集ったかのような様相を呈している。


当然のことながら、この学校への入学は極めて難しい。降臨暦四七八十二年の入学試験の倍率は十二倍という狭き門であった。しかも入学試験以前に審査があり、人格等を考慮されるその段階で落されてしまう者も数知れなかったから、実際の倍率は更に高くなるといわれている。受験資格は義務教育を終えた十六歳以上の男女。しかし十六歳で入学出来る者は極めて希だ。普通で二十代、時には四十代まで受験を繰り返してようやく入学を許可される者もざらに見られた。


彼も、一度では合格出来なかったくちである。十六歳から十九歳まで受験を繰り返し、ようやく今年合格したのだ。それでも十代での合格者は四七八二年の合格者の中に、僅か三人しかいなかったのだから、別に将来を悲観する事はない。


徒歩でエブリス大学へ向いながら、彼はむしろ誇らしい気分で一杯だった。自分は遂にやり遂げたのだ。


まず特徴的なのは白金色と言うしかない髪の色である。太陽光を吸い込んで拡散させるような、自ら発光しているような独特の金髪。癖の無いその髪の下には滑らかな輪郭と、やや女性的でさえある端正な目鼻立ち。瞳の色は深い緑。引き締まった体躯をカジュアルな格好で包み、はやる気持ちを表わすように大股で歩道を歩いている。


遂に自分は、人から与えられることの無い事をやり遂げたのだ。自分自身の力を全世界に示したのだ。それを思うと生まれてこの方感じた事の無いような開放感に包まれた。


しかし、もうすぐエブリス大学の門という所で、彼は思わず立ち止まった。


門の周りに何やら人だかりが出来ているのが見えたからである。彼にはそれがなんであるのか、誰を待っているのかが分かってしまった。彼には見慣れた光景でもあったのだ。


彼は数瞬立ち止まったが、ため息を一つ吐くと、さっきとは対照的にとぼとぼ歩き出した。


その人だかりは、彼の姿を確認すると一斉に駆け寄ってきた。途端にカメラのフラッシュが焚かれ、彼の視界は光で包まれる。


「陛下、おめでとうございます!」


「喜びの声を一言!」


彼は突きつけられるマイクを辟易したように軽く払いのけた。


「君たちはこうして毎日学校まで押し寄せるつもりか?」


「そんな事は致しません。今日だけです。心得ておりますよ」


「ならいいが…」


彼はインタビュアーの要望に応じて入学出来た事への喜びを語り、長い歴史を持つエブリス大学に入学できた事は光栄だと、情感を交えない紋切り型の文句で語った。カメラマンの要求に応じてポーズを取り、笑顔を作ってみせる。


幼少時より慣れ親しんだことである。うんざりするが、これも自分の責務の一つであると心得ていたので、彼はなるべく不満そうな様子は見せない様にしていた。


一通り済んだらしいので彼は記者達に、構内まで付いてこない様に、と念を押して門の中へ入ろうとした。


その時、彼を囲む記者たちの一番後ろの方から声が上がった。


「陛下!一つよろしいですか?」


その記者はあまり柄の良くないタブロイド紙の記者だった。何度か不快な質問をぶつけられた事を思い出す。彼は聞こえなかったふりをして歩き去ろうとした。


「陛下が入学出来たのは、帝国政府が学校に圧力を掛けたからだという噂があるのですが…」


彼は足を止めた。ゆっくりその記者の方を振り返る。


冷たい表情。近くにいた記者たちが思わず身を避けてしまうような、冷然とした無表情。


彼は質問を発した記者を容赦無い視線で串刺しにしたまましばらく沈黙していたが、やがて表情を変えないまま、翌日の朝刊の見出しに使えそうな台詞を吐いた。


「そのような噂は、余と帝国に対する侮辱以外の何ものでもない」




聖戦帝国二代皇帝キャロル一世、と後の世には呼ばれることになる。この時代、姓は無いのが普通であった。父親の名前が姓の代わりに戸籍帳に記録されていたので、キャロル・ガイアというのが彼の正式名だ。


聖戦帝国は、黄金帝国以降四百年も続いた戦国時代「四大宝玉時代」を終わらせ、天下統一を果たした、史上二番目の全星統一国家である。


キャロルの父ガイア・ラリオスは、降臨暦四七五六年より聖戦軍を率いて天下統一戦役を開始。数々の戦いを経て、遂に四七六三年末、黄金帝国以来となる天下統一を実現した。キャロルが生まれたのはこの年である。


生まれた時から天下統一国家の皇帝となる事が確実視されていたキャロルであったが、即位の時はあまりにも早く、唐突に訪れた。


天下統一直後、初代皇帝ガイア・ラリオスとその妻で皇妃たるクシー・ルシメオスは、急病のために同時に死去してしまう。この結果、キャロルが生後僅か一年あまりで皇帝の座に就く事となったのだ。四七六四年のことである。


当然、親政などどう考えても行えず、摂政アロルド・ケドネスが実質的な政治を取り仕切り、聖戦帝国は初期の混乱をどうにか乗り越えた。


四七八二年時点、摂政アロルドは六二歳でまだまだ健在だったが、本人は早くキャロルに政権を引き渡して引退したいとぼやき続けていた。


故に、キャロルの合格を知って、養父でもあるアロルドは当然喜んでくれたのだが、その心中はかなり複雑だったようである。キャロルは当面、政治よりも学問に専念する機会を得る事が出来たわけだ。一生このままではいられないとは知っているキャロルである。だからこそキャロルは、この大学生活を有意義なものにしたい、と考えていた。




さて、ここでこの時代の大学というものについて少し解説しておかなければならないだろう。


聖戦帝国教育法による義務教育は六歳から十年間の標準学校のみである。しかしここではいわゆる一般教育のみしか学ぶ事が出来ない。それ以上の学問を修めたい場合、大学校や専門教育学校へと進学する訳だ。専門教育学校は大学校とほぼ同じものだが、工業技術、商業経営など、やや実用的な学問を学ぶ。大学校は文学、歴史学、哲学、物理科学、解剖医学などを学ぶことになる。


専門教育学校と大学校を合わせて高等教育と称するが、これには決められた卒業年数が無い。その学校が認めれば極端な話一年でも卒業でき、認められなければ何年でも学生でいなければならない訳だ。もっとも普通は四~五年で卒業出来る。


高等教育の目的は、はっきり言えば社会のエリートを養成することである。このため、学業は相当厳しい。しかしまぁ、それでも大学はあくまで大学である。いつの時代にも学問以外何もする事が無い大学などあろう筈も無く、学生達はスポーツや学生らしい遊びをそれなりに楽しんでいる。キャロルはもちろん好きな歴史学や哲学を学ぶために進学したのだが、卒業後に待ち受ける皇帝としての政治生活前の息抜き期間として、学生生活を楽しむ気でもいた。




学校の敷地内には基本的に、学生以外は立ち入り禁止である。しかし、門番が立っている訳でもないので学生以外の一般人が全く入れないという訳でもない。このため、記者達も入ろうと思えば入れたのだが、彼らも皇帝陛下の意向を無視する事はしなかった。


キャロルはこの頃、政治に直接携わっている訳ではなかったから、マスコミからの注目度はそれほど高くなかった。なにしろ幼少時から「陛下」の尊称を奉られている立場であるから常にマスコミに露出はしていたが、それはほとんどが成長を見守る好意的視点でのものであったのである。世の中、好意よりも悪意の方が先鋭的になるのが普通である。彼に対して二十四時間態勢でマスコミが張り付き、毎日のように彼の名前が社会面や政治面に飛び交うようになるのはもう少し後の話だ。


つまりこの時点では、彼は後の自分から比べれば意外に気楽な立場だった訳である。本人は十分うんざりしていたのだが、それは彼がマスコミの本性をまだまだ知らなかったからであると言わなければならない。摂政アロルドがマスコミに対して取材制限の要請をしていたことも大きかったと思われる。


とにかく彼は念願のエブリス大学構内に入るなり、皇帝としての身分をすっかり頭の中から追い出した。


構内にいる学生たちはそれなりにキャロルに注目してはいた。それはそうだろう、門の前で記者達に取り囲まれていた金髪の若者が誰なのかは、聖戦帝国民なら誰でも知っている。彼がエブリス大学に十九歳の若さで合格した事はちょっと前にかなり大きなニュースになったから、彼が今日の始業日に初登校する事は学生なら知っていて不思議は無い。


しかしそれはそれである。キャロルにとってそのくらいの注目は、それこそ生まれた時から慣れ親しんでいたことであったから、注目を意識して自由行動を制限されるようなことはまったく無かった。彼は元気良く大股で歩き、まず事務局に向かった。


事務局で手続きをし、学生証を交付される。ここで始めて彼はエブリス大学校、第一五六期生キャロル・ガイアとなった。学生証を思わず抱きしめた。


この時代のエブリス大学には入学式というものが特に無く、この日からいきなり授業開始となる。


新入生はまずあらゆる教室を見学する事から始める。そしてその中から自分の好みと学力に応じて幾つかの科目を選択し、年間学習計画表を作り学校に提出。それに沿って自分なりの計画に沿って授業を受けるのだ。学校からは卒業までに幾つ以上の単位を取得するようにという要求は出されるが、年間幾つの単位を取得しろとは言われない。計画通りに単位が取得出来なくても何も言われない。ただし、規定数の単位が取得出来なければ当然卒業は出来ない。成績不振による落第、放校処分というものはないので、その気があれば一生学生でいることも出来てしまう訳である。ただし、学費を払い続けなければならないのは言うまでも無い。


とにかく新入生は全ての教室を見学して周り、自分好みの科目を発見しなければならない。エブリス大学では科目数が三百以上もある。もたもたしていると見学だけで一年が終わってしまう。事務局で今週の時間割と教室割り当て表を受け取ると、キャロルは早速歩き出した。


キャロルはまずなによりこの学校で受けたかった授業の一つ、ドラーム・ファスティシオン教授の近代史の教室へと向かった。ドラーム教授は黄金帝国時代中~後期研究の大家として知られ、キャロルはその著書に大きな感銘を受けたものだったのだ。


歴史あるエブリス大学、そのことを如実に表わして校舎はどれも良く言えばアンティークだ。悪く言えば相当古ぼけている。その校舎も、外壁をびっしり蔦草が覆い、窓だけが太陽光を浴びて光っていた。中も木製の階段中央部が凹んでいるほどだったが、良く清掃されていて不潔感はまったく無い。迷っている内に授業が始まってしまったらしく、階段や廊下にはほとんど生徒が見えなくなっていた。


ようやく教室を探し当て、キャロルはそっとドアを開いた。


かなり広い階段教室。入り口はその一番上であった。正面下に大きな黒板があり、その前で男性教授が何か喋っている。


あれ?ドラーム教授じゃない。写真などで見た教授とその教授は明らかに容姿が異なっていた。どうも教室を間違えたようだ。しかし遅れて入ってきてすぐに出て行くというのも格好がいいものではない。黒板に書かれた文字を見るにつけ、ここも歴史関係の授業であることは間違い無い様である。キャロルはとりあえず手近な席に腰を下ろした。


あまり人気が無い授業であるらしかった。百人くらいが座る事が出来そうな階段教室内には、生徒が二十人程しかおらず閑散としている。しかし、キャロルは教授の顔を良く見て、それがバーナード・ヒルティス教授である事に気が付いて、驚いた。四大宝玉時代史研究家の中でも若手ながらトップクラスにランクされる学者だ。なるほどさすがはエブリス大学である。


「…ティティス大陸群は人類発祥の大陸群として大移民時代以前には繁栄の極みにいた訳でありますが、その反動で大移民時代以降人口の減少が続いた訳であります。これは、大移民以前の乱開発によって食料生産能力が極端に落ちたためであり、これはかなり後の時代にまで解消されませんでした。食糧問題脱却のために大量輸入を行っていた黄金帝国時代にさえ何度も飢餓に襲われるほどだったのです。これが解消されるには輸送機関の発達と航路の確定によるネサイエス大陸群からの安定輸入体制の確立が不可欠であった訳ですが、これを最終的に確立したのが、かの緑玉王国王夫、ヤスターシェだった訳であります…」


キャロルは主に歴史学を修めようとこの大学に進んだので、この授業もなかなか興味深かく聞いていた。なにしろ標準学校では歴史学など概略以下の事しかやらない。


しかし、ある瞬間から授業に集中出来なくなった。


視線を感じる。前述したが彼は生まれた時から注目には慣れていた。人の目を無視して振る舞うことは彼の得意技でさえあったのだ。


しかし、その視線を無視する事が出来なかった。強い視線ではなかった。しかし、何とも言えず気になって、キャロルは教授から視線を外してそちらの方を見てしまう。


それは、美人だった。


キャロルよりも3段下の席に座り、肩越しに振り返る彼女。腰に達する漆黒の髪。落ちかかる前髪の陰から切れ長の印象的な黒い瞳が覗き、すっきりした鼻梁の下で小さな唇がもの憂げに閉じられている。頬杖を付き、セーターに包まれた細い背中を軽く丸めていた。


視線が交錯したのはほんの数秒。彼女はゆっくりと授業へと興味を戻した。


キャロルは、しばらく彼女の後ろ姿を見てしまってやや慌てた。自分が呆然としていた事に気がついたからである。それから考え込んだ。


美人である。それは確かだ。滅多に無いレベルの美しい容姿を持った女性ではある。しかし、考え込んだのはそれが理由ではなかった。


どこかで見た事があるような気がしたのだ。会った事はたぶん無い。それなのになんだか彼女を非常に良く知っている気がしてしまったのである。一体なぜなのだろう。キャロルは結局、授業時間終了までそのまま考え込み続けてしまった。




歴史上、偶然が運命を決定付けた例は数知れない。この時キャロルが教室を間違わなかったなら、彼は彼女と出会わなかったであろう。その後の歴史も多少違った物にならざるを得なかったに違いない。




授業が終わり、教授が退席、生徒達が席を立ち始めた時の事。


授業を良く聞く事が出来なかった事を後悔しながらキャロルが席を立とうとすると、いきなり目の前に人影が立った。


軽く視線を上げただけで相手の視線とぶつかった。


あの女性だった。先程はすこし退屈気な様子を表わしていたその表情は、今は晴れやかでさえある微笑に覆われている。大きな瞳は彗星のように輝き、口元から白い歯さえ覗いていた。その表情が叫んでいる「面白い物見付けた!」と。キャロルは戸惑った。彼女から読み取れる感情は、彼が今までの生涯で向けられたことの無かった類の感情であったからだ。


「ちょっとあんた!」


彼女は仁王立ちでキャロルを見降ろしながら傍若無人に言った。


「売店で鉛筆買ってきて!」


突きつけられた小銭を見詰めながら、キャロルは小首をかしげた。


「…なぜ僕に言うんだ?」


「あんた新入生でしょう?あたしは三年生。つまり先輩。先輩の言う事が聞けないの?」


キャロルは井戸よりも深く考え込んだ。


キャロルも標準学校で十年学んだのだから、先輩後輩の概念は当然知っていた。しかしながら、先輩の用を後輩が召し使いのように動いて果たさなければならない場面というのは今まで無かった。自分も後輩に何かを命じた事はなかったし、ましてや見も知らぬ先輩からいきなりお使いを命じられたことなど一度も無い。


しかしながら、もしかするとこれが大学での流儀なのかもしれない。なにしろ長い歴史を誇るエブリス大学だ。変な伝統に支配されている可能性もある。


キャロルは結局、軽く頷いて小銭を受け取った。


「鉛筆なら何でもいいんですか?」


「普通の鉛筆よ!かわいい絵なんか描いている奴は駄目よ!」


「分かりました」


キャロルは構内案内図を片手にうろうろと売店を探し、鉛筆を無事購入し、また迷いながら無事、先程の教室に帰ってきた。


女性は教室前の廊下で腕を組んで待っていた。


「遅い!」


キャロルは多少、理不尽さを感じながら軽く頭を下げ、購入した鉛筆を渡した。


女性は鉛筆をしばらく見詰め、やがてがっかりした様に首を振って言った。


「つまんない!」


いきなり指を突きつける。


「あんた皇帝なんでしょ!」


キャロルはなんと言ったものか分からず沈黙する。もしかしてこの女性は自分が皇帝である事を知らないのかも知れないと思っていたのだが、どうやらそれは間違いであるようだ。というか、皇帝である事を知りながら人をパシリに使ったのだとしたらいい度胸だと誉めるべきなのだろうか。


「皇帝なら皇帝らしく尊大な態度で怒るとか、部下を呼び寄せて人を逮捕させるとか、寒いギャグを飛ばすとかしなさいよ!ただ行って帰ってくるだけなんて、芸が無さ過ぎるわよ!」


無茶を言うな。キャロルは憮然とした。


なんだこの女は、無礼極まりない。キャロルは生っ粋の皇帝であり、幼い頃よりいつ如何なる時にも敬意を払われるという状況で育った。そのため面と向かって無礼をはたらかれるなどと言う事はまず有り得ず、まさにこれが生涯初の体験であるかもしれない。


しかし女性は心底残念そうに見えた。せっかく見付けたおもちゃが壊れている事に気が付いた幼児のようにしょんぼりとして見える。それを見るとキャロルはなんだか自分が悪い事でもしたかのような気分に襲われた。彼は思わず言った。


「期待に応えられなくてすまないね」


女性は目を丸くしてキャロルの方を見た。そして、思わず吹き出す。


「もしかして、あんた天然?」


そして非常に良い表情でコロコロと笑い転げ、キャロルの肩をバンバン叩いた。


「わるかったわ!ちょっと退屈していたのよ。からかっただけ!本当に行ってくれるとは思わなかった!」


キャロルは目を白黒させる。感情の起伏が激し過ぎる女性だ。怒ったりしょんぼりしたり笑い転げたり。全く邪気を感じないのは本人の人徳のなせる技か。キャロルも思わずつられて微笑んでしまっていた。


「お詫びにおごるよ!食堂のやっすいメシで良ければさ!」




チェルナ・リュート。彼女はそう名乗った。年齢は十九歳。


「じゃぁ、同い年じゃないか」


「そうよ。でもあたしは十六歳の時入学したから三年生。先輩なのは本当」


チェルナはサンドイッチに豪快に齧り付きながら言った。場所は、先程鉛筆を買いに行った購買部に併設された食堂である。大ダンスホールに匹敵するような広さを持つ大食堂であったが、未だ昼食の時間には相当早いためか閑散としている。キャロルもお茶を飲むだけにした。しかし、チェルナは一人で大量な料理をオーダーして、ひっきりなしに口と手を動かしている。


それにしても、十六歳で入学?にわかには信じ難い話である。疑わしそうな表情をしてしまったのだろう、ムッとした顔でチェルナが投げて寄越した学生証には、なるほど確かに三年前の日付が記されていた。


三年前ならキャロルも受験したのだが、かすりもせずに落された。朝のタブロイド紙の記者が言った言葉を思い出す。帝国政府が圧力を掛けたなどと言う事が本当であるなら、自分も三年前に合格出来ていたはずではないか。


「で、チェルナさん…」


「チェルナでいいよ!同い年だからタメ口でいいよ!その代りあたしもタメ口する!」


無用に高いテンションにあてられそうになりながら、キャロルは言った。


「じゃぁ、チェルナ。君さっき、おごるって言わなかったか?」


チェルナは食堂に入るなりキャロルに手を突きつけて「財布忘れちゃった!金かして!」とのたまったのだ。仕方なく頷くと、遠慮会釈無く料理を注文したのである。


「そんなん嘘に決まってんじゃん!」


おいおい。


「金持ちが貧乏人に奢るのは世の中の法則!あたしがどんなに貧乏か、知りたい?そうかー、知りたいか。じゃぁ、代金代わりに教えてあげるわ!」


自己完結しながらチェルナが語り始めた、驚愕の身の上話を整理するとこのようになる。


チェルナは生後間も無い状態でティティス大陸群、旧緑玉王国首都(現在は聖戦帝国ティティス分都)ロークシティアの孤児院の前に捨てられていたのだという。つまり孤児だ。チェルナ・リュートという名前は保護された時に着ていた産着に書かれていたものである。


親の顔は全く覚えておらず、ミルクを飲ませて彼女を育てた孤児院の院長が親代わりであった。しかしその院長も五年前に亡くなり、今では本当の天涯孤独の身である。なにしろ兄弟代わりに育った孤児院の仲間達も、院長が亡くなった際に孤児院が解散してしまったため、各地の孤児院に分散して引き取られてしまったのだ。


彼女自身も遥々、ティティスからネサイエス大陸群はクレタの孤児院へとやってきた訳だが、ここの孤児院は定員オーバーで自分のような余計者を抱える余裕はなさそうだった。十三歳の彼女は考える。こうなったら自立するしかない。


彼女は居酒屋で働きながら標準学校に通うことにした。更に彼女は考えた。


将来的に一人で生きて行くのなら、これはもう手に職付けるしかない。それには高等教育を受けるに限るのだがこの時代、高等教育を受けるにはかなりの費用が掛かる。奨学金なぞという制度は未だ無い時代だ。


諦めかけたその時、聞きつけてきたのはエブリス大学の募集要項であった。その中に「十六歳で入学出来た者の学費を免除する」という項目があったのだ。チェルナは決死の覚悟で勉学に励み、遂に十六歳で合格という快挙を成し遂げた。ちなみにこれは、エブリス大学が当時の入学規定になって僅か二人目の快挙である


「と、いうわけで、学費は払う必要無いんだけど、教科書や参考書代は掛かるしね!アルバイトじゃ全然追い付かないのよ!ちなみにこれ、三日ぶりの食事!」


キャロルは愕然としつつ彼女の話を聞いていた。明るい口調とは裏腹に、彼の想像を絶する様なチェルナの半生である。


キャロルは何しろ皇帝であるから、何不自由無くというか、物質的にも愛情的にも人三倍満ち足りた中で育ってきた。彼も父母の顔を覚えていなかったが、養父母であるアロルド夫妻が十分にその代わりを務めてくれたため、ほとんど自分が孤児であるという認識を持っていない。


まさに対照的な生活を送ってきた訳である。チェルナの半生が想像出来ないのも無理はなかった。


なんとコメントして良いか分からず、キャロルはとりあえず当たり障りのない事を言うしかなかった。


「それは…、大変だったね」


すると突然チェルナの表情が変化した。形の良い眉と目尻が釣り上がる。いきなり不機嫌となったチェルナは最後に残ったスティック菓子を無言でバリバリ噛み砕き、あっさり立ち上がった。


「簡単に信じちゃうのね。つまんない。そんなに騙され易いと将来苦労するわよ!」


チェルナはごちそうさんと言い残しさっさと歩き去った。と、思ったら、売店に立ち寄り、なにやらしこたま買い込んだ後、キャロルの方を指差しながら店員に何かを告げ、キャロルに向けて子供のようなアンカンベーをした。そして今度こそ本当に姿を消した。


あれはきっと「料金はあいつに請求せよ」と言ったのだろうとキャロルは想像し、それでも彼女の事を不思議に怒る気になれず、果たして財布の中身が足りるだろうかと心配し、最後に彼女のアカンベーを思い出して苦笑した。


チェルナ・リュートは聖戦帝国史上初、皇帝をパシリに使い、飯をたかった挙げ句アカンベーをしやがった女として歴史に残るな。キャロルは椅子から立ち上がり、おろおろしている店員に金を払うべく近付いて行った。




これがキャロルとチェルナの最初の出会いであったのだが、この出会い以降、二人がいきなり親しい関係となった訳ではなかった。そればかりか、この後二月ほどもの間、二人は顔も合わせていない。


エブリス大学の敷地は広大であり、構内にいる人間も学生、研究員、職員、教授などを合わせれば三千人ほどにもなる。目的をもって探しでもしない限り、特定の人物と偶然出会ってしまう確立はかなり低かったのだ。そして、キャロルもチェルナもお互いを特に意識して捜し求めることはなかった。


キャロルの方は勉学に勤しむのに忙しかったのである。彼は養父アロルドと五年で大学を卒業する約束をしていた。ぐずぐずする暇はなかったのだ。しかも、彼は大学生活と同時に皇帝としての責務も果たさねばならなかった。アロルドの方針で、彼が判断や決済をしなければならない政治的案件は年々増えていた。エブリス大学のかなり厳しく難しい学問と、皇帝としての責務を両立するのは相当な難事であり、たまたま出会った奇矯な女のことをいつまでも気にしている余裕など無かったのだ。


チェルナの方は、キャロルのことを「つまんない男」とこの時は断定していたらしい。チェルナの価値基準では「つまらない」イコール「無価値」であり、そんな男は例え皇帝であろうとも存在価値が無く、そんな男をわざわざ探す理由など爪の先ほども存在しない。


そんなわけで、二人はしばらくお互いを無関係な存在として過ごした。キャロルはその間に少ないながら友人も作り、忙しい合間を縫って学生らしい遊びもこなし、学生生活を楽しんでいた。チェルナのことはほとんど忘れていたと後に述懐している。


しかし、二人は運命に導かれるように再び巡り合うことになる。




その時、彼女に最初に気が付いたのは、実はキャロルではなく彼の友人エスパーナ・ロドリクである。キャロルより三歳上の同級生で、キャロルとは逆にジョークとウィットをこよなく愛する赤毛の男であった。女と見れば片っ端から声を掛けたくなるという性格の持ち主でもある。性格が正反対と言えるほど違うにも関わらず、キャロルと不思議と気が合った。結局、彼はキャロルと生涯親友付き合いを続ける事になるのだが、後年インタビューに答えてこの時の事を得意げに話したものである。


「俺がキャロルに言ったのさ。『お、女王様が歩いてる』てな」


エスパーナの指す指の方へキャロルは視線を向けた。キャロルとエスパーナは大学構内の芝生に座り雑談を楽しんでいたところだった。


見覚えのある黒髪。黄色いロングスカートと黒いシャツを着たその背の高い女性。なんだかおぼつかない足取りで歩き、印象的でさえある麗貌には生気が無い。


チェルナ・リュートだった。キャロルはエスパーナに尋ねた。


「知っている人か?」


「有名人だよ。『たかりの女王』って言えばあの女のことだ」


「たかりの女王?」


エスパーナは苦笑気味の表情を浮かべながら説明する。


「誰彼無くたかりまくった挙げ句、見返りも無ければ礼の一つも無い。そこから付いたあだ名だよ」


「ああ…、なるほど」


「何しろ見た目がいいだろう?男はみんな下心を持って奢ってやる訳だよ。だけど手の一つも握らせずに逃げちまう。逃げるどころかセクハラの一つでもされたらそれを口実に身包み剥いじまう…らしいぜ」


間違いなくエスパーナも被害者の一人だな。


「後は嘘か本当か分からん身の上話をして相手の同情を誘うって話もあるなぁ。孤児だとか。エブリス大学に無一文の孤児が入れる筈ないのになぜか信じる奴がいるらしい」


キャロルは思わず苦笑した。


「ま、最近は悪名が知れ渡ったせいで引っ掛かる奴も減ったろうがな。新入生が餌食にならなきゃいいんだが」


キャロルはもう一度チェルナの事を目で追った。なんだか目を離し難かった。なんだか危なっかしく、ふらふらしているように見えたからかもしれない。再びその相貌に強烈な既視感を覚えたからかもしれない。一体この感じは何なのだろう。


その時、実に唐突に、チェルナが崩れ落ちるように地面に倒れたのである。人間が倒れたというよりは砂袋でも倒れたかのような音がした。そのまま動かなくなる。


キャロルは反射的に立ち上がった。同じくチェルナを目で追っていたエスパーナがキャロルのズボンの裾を引っ張りながら言う。


「やめとけって。新手のたかり手口かもしれないぜ」


キャロルは構わなかった。まっすぐチェルナに近付く。チェルナは起き上がろうとしてもがいている。キャロルがしゃがみこんで、チェルナの右手に手を触れた所で彼女も彼に気が付いた。


「あれ?」


チェルナはキャロルの腕を頼って立ち上がりながら微笑未満の微妙な表情を向けた。


「面白くない皇帝陛下じゃないの。丁度いいわ。肩を貸しなさい」


なるほど女王様である。


「…今度は何日食べていないんだ?」


「五日かな?水と塩だけよ」


チェルナは不機嫌そうに言った。確かに、身体を預けてきたチェルナは羽毛のように軽い。キャロルはこの時、彼女の語った身の上話が嘘やジョークではないことを悟った。


「死ぬぞ、そんなことをしていると」


「食べられないものは仕方が無いじゃない」


キャロルはエスパーナの方を少し眺めやった。彼はキャロルがチェルナに肩を貸している様を興味深げに見ている。その表情は明らかに何事かを誤解している顔だった。誤解を招く行為の上塗りかもしれないな。キャロルはため息交じりに言った。


「奢ってやるよ。食堂に行こう」


「いい」


思わず表情を確認してしまうほど意外な返答が即答で返ってきた。彼女はキャロルから視線を逸らしている。


「あたしは乞食じゃない」


キャロルはしげしげとチェルナの顔。頬がこけ、顔色も青白いまでになっていたが、それでもどうしようもなく怜悧で美しい相貌を観察した。


キャロルはしばし考え、それからチェルナの身体を抱え直した。


「…お近付きの印に奢らせて頂けませんかね?チェルナさん?」


チェルナはキャロルを見上げた。数秒の沈黙。


やがてその表情にみるみる輝きが戻った。終いには声を出して笑い始める。


「あんたにしては上出来よ!うん、わかった。奢らせてあげる!ささ、早く行きましょう!」


俄然元気になったチェルナはキャロルの腕を引っ張る様にして歩き出した。エスパーナがそれを呆然と見送る。


前述のインタビューの中でエスパーナは苦笑混じりにこう述懐した。


「俺がチェルナを見付けなければチェルナは行き倒れて、そのまま死んでたかも知れん。キャロルと仲良くなることもなかったろうよ。そう思えば、チェルナは俺に感謝のキスの一つもよこすべきだと思うんだがね」




偶然が重なれば、それは往々にして必然となる。


結果論から言えばキャロルとチェルナの二度に渡る偶然の出会いは最終的に歴史の必然となった。なぜならチェルナ・リュートこそ、後の聖戦帝国二代皇妃チェルナとなる存在だからである。ただし、彼と彼女が華燭の典を挙げるのは、紆余曲折を経て六年あまりも後のことだ。


故に彼らは、この時点でお互いが将来の伴侶であるなどとは知らない。想像してもいない。未来からやってきた人間がそのことを二人に教えてやろうものなら、主にチェルナから半殺しの憂き目に遭うだろう。


確かにチェルナは、この二度目の出会いでキャロルのことを認識した。どう認識したのかと言えば「つまらん優等生だと思っていたら、意外に天然系の面白い奴だった」という認識の仕方であり、彼女の基準で言えば実に大出世であるらしいのだが、そんな基準が万人に通じると思ったら大間違いな訳だ。


キャロルの方はチェルナのことがどうしても気になっていた。見た事が有るはずなのだがどうしても思い出せないむずかゆさ。頻繁に見た事が有るような気さえするのだが、どう考えても入学初日の出会いが初対面だと正式な記憶が告げている。ちなみに、キャロルの女性の理想は、いわゆるお姫様タイプであって、断じてチェルナのような女ではなかった。


ロマンチックでも何でもない再会の後、二人は友人関係となった訳なのだが、それがどのような関係だったかと言えば、エスパーナの言葉を借りるとこの様になる。


「女王様と下僕」




聖戦帝国の首都クレタは、ネサイエス大陸群エルローネ大陸の内陸部、標高三千メートル級の山々に囲まれた盆地にある。


太古の昔は湖であったと思われ、大移民時代、人類がこの大陸群を発見した時には泥湿地帯であった。発見からしばらくは、どこの国からも見向きもされないような不毛の地であったのだ。


その使い様のないと思われた土地に住みついたのが、後の黄金帝国初代皇帝クレタ・ササリージュとその仲間達である。彼らはこの地に黄金王国を建国。湿地の干拓事業に着手した。


五年の歳月と難工事を経て、干拓事業は身を結ぶ。盆地は豊かな穀倉地帯となり、同時に周辺の山岳部から鉱山が発見される。ここから三十八年後の天下統一に繋がる黄金王国の飛躍が始まったのだ。


降臨暦四七八二年の段階では、クレタ盆地はそのほとんどが市街地で覆われるようになっている。黄金帝国の都として繁栄を謳歌し、四大宝玉時代にも戦火を浴びることがほとんどなかったこの街は、四七五六年に聖戦軍の拠点になり、四七六三年には聖戦帝国の首都に定められた。


古い歴史を誇り、大規模な破壊を一度も受けなかったこの街は「天空の都」「世界の王冠」「世界の首都」と呼ばれ、称えられている。


この二百年ほど後にティティス大陸群のロークシティアが抜くまで、クレタは世界最大の都市でもあった。皇宮を中心に据え城壁に囲まれた旧市街を、溢れ出した新市街が取り巻いている。旧市街には黄金帝国時代に築かれた古い建物が良く残されており、その屋根の色から「オレンジ色の街」とも言われていた。新市街の方は近代的ながら無秩序な様相を呈している。


チェルナ・リュートの住まいは新市街の下町にあった。


キャロルは、クレタにこんな場所が有ったのか、と、かなり驚いた。皇宮の辺りからすれば些か信じられないような区域だったのだ。


クレタはかつて湿地帯であり、干拓事業によって農地へと変ったことは既に述べた。しかし、その干拓の度合は一定ではなく、盆地のそこここには湿地が残されていたのである。チェルナが住んでいる場所は、どうもその様な所に、無理矢理に建物を建てたもののようであった。


道路は舗装されていない。それどころか、そこは踏み込むとずぶずぶと沈み込んでしまいかねない湿地帯であった。歩道には木製の橋が架けられている。建物はどれも高床式の粗末な木造住宅であった。しかもそのどれもが傾いで見える。


チェルナの住んでいる集合住宅も例外ではあろう筈も無く、それどころか一際豪快に傾いてさえいた。彼女の部屋は恐ろしく狭く、僅か三畳ほどしかない。その大半を本が埋め尽くしていた。一体どこで寝るのだろうか。


キャロルがここに来た理由。それは「引っ越すから手伝いなさい」というチェルナの言葉に従ったからなのだが、さもありなん。流石に耐えられなくなったのだろう…、と思いきや、


「何言ってんの。ここは気に入ってたのよ。何せ家賃が激安だったしね」


「じゃぁ、どうして引っ越すことにしたんだ?」


「このままじゃ建物が到壊するから、本を捨てるか引っ越せって言うのよ」


チェルナは憤然とした顔をしたが、キャロルは納得した。なるほどこの建物は、正にチェルナの部屋を最下点にして傾斜している。


それにしても、チェルナには恐れ入る。出会って数日、キャロルの認識ではようやく打ち解け合ったかどうかというような関係の男性を引越しの手伝いにこき使う(しかも皇帝をだ)神経もだが、年頃の娘がこんな便所も風呂もなく、狭くておまけに不潔極まりない集合住宅に平然と住むというのは、なんと言おうか、良い度胸であると言わなければならないだろう。治安も悪そうだし。


引越し先は決めてきたというので、後は荷物(主に本)を運び出し、新居に運び込めば良いのだという。そのためにキャロルはチェルナがどこからか調達してきた荷車を引いて来ていた。


キャロルのお人好しさ加減たるや天文学的であると言わなければならないだろう。チェルナが引越しの手伝いを命じた時、実はエスパーナも一緒にいたのである。しかし、エスパーナの方は端から来る気は無く、平然とばっくれた。しかし、キャロルは特に疑問もなさそうに待ち合わせ場所に現れたのである。


「あんたも暇ねぇ」


勝手な言い草ではあるが、チェルナも呆れていたのである。


「暇じゃぁないよ。試験の準備で大変なんだから」


「じゃぁ、何で来たのよ」


「君が来いって行言ったんだろう?来なきゃ怒るくせに」


「当たり前じゃない」


チェルナは手際良く本を紐で結わえ始めた。彼女の蔵書は、何しろ大学で使う参考書であるので、かなり分厚く重い。


「さ、どんどん荷車に積むのよ!」


「はいはい」


キャロルは本の束を四つ同時に抱え、反動も付けずに抱え挙げた。


それを何気なく見ていたチェルナは、何か非常な違和感を覚えた。何だろう?…て、


「ちょっと待って!」


床を鳴らしながら部屋を出ようとしていたキャロルが振り返る。


「何?」


「何じゃないわよ!」


キャロルは不思議そうに首を傾げた。本の束を四つも抱えたままで。


「…重く無いの?」


本の束はチェルナなら一つでも持て余す、というくらいの重量があるものだったのだ。それを四つも一度に持って平然としているとは…。


「力持ちなのね、意外と」


キャロルは何故か不機嫌になり首を竦めてみせた。


「父譲りさ」


その言葉でチェルナが思い出したことがあった。キャロルの父、聖戦帝国初代皇帝ガイア・ラリオスの話である。


ガイア・ラリオスは「歴史上比類の無い」という形容詞が最も多く捧げられる歴史上の人物であろう。その功績ももちろんだが、単なる人間としても十分歴史上希な個性を持った人物であったのだ。


まず、その容姿である。今をもって彼の肖像画、ブロマイドの売り上げが、人気役者のそれを凌ぐと言われる。キャロルに引き継がれた、輝くような金髪。一切の妥協無く精緻に配された、切れ長でエメラルド色の瞳と高い鼻梁。引き締まった薄い唇。背が高く、流麗な体躯。表情に乏しいのが唯一の欠点とされるが、それでもその美しさは写真からでも見る者を圧倒する。おそらく歴史上最高峰の美男子であろう。


別名を「剣舞帝」と呼ばれる。彼はその時代で間違いなくナンバーワン。全史上を見渡しても確実に五指に数えられる名剣士であった。生涯九十四回の一騎打ちに臨み、一度も負けなかった。戦場で唯一人の働きにより戦況をひっくり返し「白い悪夢」の二つ名で呼ばれたこともある。


余談だが、喋らなかったことでも特に有名で、「聖戦演説」「第二次聖戦演説」の二度に渡る歴史的演説以外にはほとんど人前で口を開かなかった。彼の肉声を集めたレコードというものが発売されたことがあるのだが、分量が三十分に満たず、しかも後に、中の声のほとんどが別人のものだと判定されてしまってさえいる。


彼にまつわる伝説の中に、その怪力について語られていたものがあった。人一人を片腕で軽々と持ち上げることが出来たというのである。彼は細身の人物で、とてもではないがそのような怪力を発揮できる様には見えない。故にそれは、歴史上数多あるガセネタであろうと思われていた。しかし…、


「本当の話だったのね」


チェルナは目を輝かせた。彼女は、歴史系科目は現代史だけを専攻していた。


本当の話であっただけではなく、その息子に遺伝までしていた訳だ。彼女はキャロルの腕や背中を指で押しながらしきりに感心した。


「多分、筋繊維の出力が普通とは違うんだろうって話だよ」


「へぇ、いろいろ便利そうね」


「そうでもない。子供の頃は力の制御が上手く行かなくて散々苦労させられたよ」


赤ん坊のころは哺乳瓶を割ってしまったり、寝ぼけて養母の肋骨を蹴り折ったりしたらしい。標準学校での体力測定では周囲が白けるほどの数値を叩き出してしまう。おかげで彼は生涯、スポーツを嫌った。


「ふ~ん、でもそれ、働くには便利よねぇ」


チェルナの考え込むような微笑を見てキャロルは何故か嫌な予感に襲われたが、その正体を看破するには、彼の経験値は余りにも少なかった。


ちなみに、面白がったチェルナによって実験された結果、彼は本の束を十四個持ち上げるのがさすがに限界だということが分かった。


一度に全ての本を荷車に載せたのでは、荷車も歩道ももたないので、何度かに分けて運ばなければならないとのことだった。もちろん荷車を引っ張るのはキャロルの役目である。別に苦でもなかったので良いのだが。


本を満載した荷車を引きつつ向かった先は、皇宮の方角であった。行く道は木の歩道から土に、そして石畳の舗装路面に変る。


「ここよ」


チェルナが指差した建物は、まぁ、普通に見えた。新市街の中でも比較的古い時代に建てられた石造りのビル。少なくとも傾いてはいない。元の建物よりは余程文明的に見える。とりあえず本の束を抱えて、住所の書いた紙を見ながら部屋を探すチェルナの後について彼女の新居とやらに向う。


…キャロルはとりあえず絶句した。その、部屋と呼ばれているならまぁ、部屋なのだろうという場所は、その建物の半地下にあるほんの二メートル四方ほどの空間であった。明らかに人の住めるスペースではない。正面には共同便所があり、強い下水の臭いさえ漂っていた。


「チェルナ」


「何よ」


「…本が入ったら君が入れないよ」


「仕方ないじゃない、ここしか借りれなかったんだから」


しかし、どう考えてもここは人の住む場所では無く、ましてや年頃の女性の住む場所とは思えなかった。彼女の趣味なら仕方が無いが、物理的に彼女の蔵書を収納し切ったら彼女はドアの外で寝ることになるという問題は解消し様が無い。


問題点を指摘するキャロルの言葉を聞きながらチェルナは珍しく考え込んでいたが、やがて納得したようだった。


「確かにここは無理そうね」


賃貸契約する前に気が付け。キャロルはそう思ったが声には出さなかった。キャロルの常識はあくまでキャロルの世界の常識でしかなく、チェルナの常識は多分キャロルのそれとは基礎からして異なるのだろう。


チェルナは荷車を引くキャロルを引き連れて不動産屋に向かった。不動産屋は小奇麗な表通りに面しており、キャロルとしては自分の風体に多少の気恥ずかしさは禁じ得ない。


チェルナは不動産屋の事務所に乗込むと、例の部屋を解約すると一方的に告げ「もうちょっとマシな部屋」を同じ値段で貸すように強く要求した。


しかし敵も百戦錬磨の老獪な不動産屋である。チェルナの、弁護士も左に避けるような舌鋒に対して顔色も変えない。例の部屋の今月分の家賃の免除こそ認めたが、この世にあの部屋よりも安い家賃で貸せる部屋など無いことを強く主張し、二人の主張は火花を散らしつつ平衡線を辿った。


キャロルの聞く所、不動産屋の主張は「定職も保証人もないような人間に、保証金も取らずに貸してやれる部屋などそんなに無く、ましてその中に、あんたの求めるような激安物件などあるわけ無い」ということに尽きるようだった。


キャロルはしばらく逡巡していたが、激昂したチェルナが不動産屋を脅迫し始めるに至って、たまりかねて口を挟んだ。


「僕が保証人になるよ。それならいいんだろ?御主人」


不動産屋は胡散くさげな目つきでキャロルのことを上から下まで眺めやった。


「見たとこあんたも学生じゃないのか?」


「そうだけど」


「ふむ、もしかして親が金持ちなのか?それなら…」


「いや、親はいない」


不動産屋は呆れたように首を振った。


「なら駄目だ」


キャロルは仕方なく言った。咳払いを一つする。


「僕はキャロル・ガイアなのだが、それでも駄目なのか」


効果は絶大であった。不動産屋は改めてキャロルを観察し、驚愕に目を見開く。


「…!こ、これはいったい…」


キャロルはとりあえずエブリス大学の学生証を見せる。当然彼の名が明記してある訳だ。不動産屋の血の気が引く。いきなり飛び上がって床に土下座した。


「し、失礼しました!皇帝陛下のお知りあいとはつゆ知らず…!」


チェルナは「余計なことを」とでも言いたげに舌打ちしたが、とりあえずはこの状況を利用することにしたようだ。額ずいた不動産屋に近付き交渉を再開する。キャロルはこっそりため息を吐いた。




恐れ戦いた不動産屋は特上の部屋をタダで貸すと申し出たのだが、チェルナはそれを断り、旧市街の外れにある、とある建物の屋根裏部屋を借りることにした。ここも広さは七平方メートルほどとそれほど広くはなかったが、公衆浴場に近かったのだ。便所は共同だったが。


彼女は正規の料金を払うと強く主張した。もっとも、天井の形が変形であるこの部屋の家賃はそもそも非常に安かった。前に住んでいた掘っ建て小屋が三万共通単位であるのに対して三万五千共通単位であったのだ。つまり、きちんとした保証人さえいれば、まともな部屋に安く住むことはそう難しいことではなかったのである。


賃貸契約書にはキャロルもサインした。ちなみにこの契約書はチェルナとキャロルの名が並べて記入された初めての公文書となる。不動産屋の家宝として後々まで伝えられ、六百年後にオークションで、八千万共通単位で取り引きされた。


謝罪を際限無く続ける不動産屋に他言無用を申しつけ、キャロルとチェルナは借りたばかりの部屋に向かった。


何故だかチェルナは恐ろしく不機嫌で、キャロルの方も晴れやかな気分とはとても言えなかった。つまり二人は無言でてくてくガラガラ歩いた。


五階建て、旧市街風石造りの建物は堅牢な外観を誇り、古ぼけてはいるが清潔で瀟洒だった。旧市街の住人は、偉大なるクレタの古きオレンジ色の街に住んでいることに絶大な誇りを抱いており、建物の外観の補修や道路の清掃を欠かすことはない。一階に住んでいる老夫婦が管理人を兼ねていた。そこで鍵を受け取り、屋根裏部屋を目指す。


屋根の形に天井は変形し、床面積も狭いが、小奇麗で良い部屋だった。電気も通っており、素っ気無い天井灯も付属。一つだけある窓を開くとオレンジ色の屋根が連なるような旧市街が一望出来る。彼方にはエブリス大学の敷地がちらっと見えた。


ここならば彼女の蔵書を収納し切って、なおかつ寝床を確保するのにも困らないだろう。女性が一人暮らしするなら、前の掘っ建て小屋よりは断然ここだ。キャロルは安心した。とりあえず持ってきた本の束を降ろすと、チェルナに声を掛ける。


「さ、どんどん運んじゃおう。ぐずぐずしてると日が暮れるよ」


しかし、窓の外を向いていたチェルナは、振り返って全然違うことを叫んだ。


「いい気になっているんじゃないでしょうね!」


何を言い出すのか。キャロルは戸惑った。チェルナの顔は紅潮し、大きな瞳には怒りが満ちていた。そう、チェルナは怒っている。


「あたしは頼んでないからね!あんたが勝手にやったんだから!」


ああ、キャロルは思い当たった。彼が保証人になると申し出たことを言っているらしい。


「出過ぎた真似だったかな」


「当然よ!あたしは今まで誰の力も借りないでやってきたの!あんたがあんなことを言い出さなくても何とかしてみせたわよ!」


キャロルはチェルナの表情を見て少し微笑んだ。


「なにがおかしいのよ!」


「僕は、他人の力を借りないで出来た事の方が少ない」


チェルナは意表を突かれて沈黙した。


「生まれてからこのかた親はいないし、厄介な身分でもあるし、それでいて何の力も無い。いつも誰かに頼って生きてきた。だから、自分も出来る範囲で他人に手を貸したいと思う」


キャロルは静かな表情。チェルナは反論の言葉を失って更に沈黙。


「ただ、今回は僕の力では無く、皇帝という肩書きを使った。少し反則技だよね」


キャロルの表情に張りが無いのはそのせいだった。彼は、自分の身分を振りかざすことを極端に嫌っていたのだ。


今度はチェルナの方が戸惑ったような表情を浮かべている。


「さ、済ませてしまおうよ」


「…うん」


階段を降り始めたキャロルの後ろをチェルナも降りてくる。暗い階段で、チェルナはぽつりと呟いた。


「やっぱり変な人ね、あんたって」




昼食時、大学の食堂にキャロルとチェルナ、それとエスパーナがそれとなく集合して食事をするというのは最近当たり前の光景となりつつあった。キャロルとエスパーナが食事をしている所にチェルナが乱入してくるといった方がより事実に近いか。


なにしろチェルナはひたすらに貧乏であり、大学の「やっすい」食堂の料金すら全く払う事が出来なかった。故に「たかりの女王様」と呼ばれるほど他人にたかって飲み食いすることになった訳だが、最近その対象はキャロルとエスパーナに収斂されたようである。


彼女には奇妙な美意識が有り「奢らせる」のは構わないが「奢ってもらう」のは我慢ならないらしい。それゆえ彼女はキャロルとエスパーナが食事をしている場所に強引に割り込んでついでに注文して御相伴に与かる、というスタイルに拘っていた。


エスパーナにとってはいい迷惑である。どうもチェルナは、キャロルにだけ奢らせるのは平等の精神の観点から問題ありと考えたらしい。しばしばエスパーナにも「奢りなさい」と命じるのであった。彼も親が大商人であったから小遣い銭には不足していなかったが、何しろ商人の息子である。見返りの無い出費には我慢ならなかった。


しかし、チェルナはまったく頓着しない。彼女に言わせれば、働きもしないで存分に小遣いを持っているエスパーナの意見などまるで説得力が無いのである。悔しかったら働いて金を稼ぐ苦労を味わってみろと言うのだ。


「おまえは働いているのかよ」


「働いてるわよ!いつも夕方には居酒屋の看板ウェイトレスなんだから!」


パスタを盛大に口の中に運びながら力説する。


「他にも休みの日にはいろいろやってるのよ!」


「どうだか」


キャロルはどうでも良さそうに微笑している。ちなみに、キャロルの方はチェルナに奢ることにはなんの痛痒も感じていないようだ。彼の得ている金はそもそも国民の税金の一部であり、それをチェルナに還元することは、社会福祉活動の小さな一環だ、くらいに思っているのかもしれない。


「おまえに出来る様なことなら俺にだって出来るな」


憎まれ口をたたくエスパーナ。しかしそれがいけなかった。チェルナの黒い瞳がここぞ!とばかり光を放つ。


「そ~お?ふ~ん、言ったわね?じゃぁ、やってもらおうじゃないの!」


しまった、思わず後退するエスパーナ。チェルナはテーブルの上に身体を乗り出し、じりじりと男性陣の方に顔を近づけて行く。


「どんなバイトが良い?あたしが吟味して選んでおくわ。安心しなさい、程よく危険で笑えるほど辛い奴を選んでおくから。今は好景気だしねぇ、そういう仕事ならいくらでもあるわよ~」


エスパーナは助けを求めるようにキャロルを見たが、


キャロルは微笑しながらお茶を口に含んでいた。




さすがのエスパーナも言い出した手前一人で逃げる訳にも行かず、しぶしぶ集合場所に現れた。キャロルものほほんとした顔で既にいる。


こんなに暇なのかキャロルは、と思われた方のために解説すると、実は彼、それほど暇ではない。彼は既に皇帝としての政務を一部開始しており、謁見や書類処理などを日常的にこなし始めていたのである。その上大学の厳しい勉学も進めなければいけない訳であるから、実際かなりの激務であると言える。この日も朝に前倒しした会議に出席したばかりだった。


なんでまた強制力が有る訳でもないチェルナの呼び出しに唯々諾々と応じているのか、エスパーナでなくとも不思議に思うだろう。


この日キャロルは大き目の帽子を被り、色眼鏡を掛けている。一応変装して来なさいとチェルナが言ったからなのだが、あまり変装にはなっていない。まぁ、一目で皇帝陛下だとばれなければ良いのだからこれでいいのだ。


最後にやってきたチェルナはなぜか作業ズボンと紺のジャンバーというおっさん地味た格好で登場した。ちなみに、引越しの手伝いをしたキャロルは知っているが、チェルナの持っている衣類はそれ程多くない。


チェルナは満足そうに笑った。


「良い心がけね!特にエスパーナ!よくきたわね!楽しみねぇ~!」


憮然とするエスパーナ。


チェルナの先導によって辿り着いた場所は、何のことはない。ただの工事現場であった。


要するに、新市街で建築途中の高層ビルの建築現場である。クレタは地盤が軟弱であるために高層建築はそれほど多くはなかったのだが、近年、技術の進歩によってそれが増加しつつあった。


その建築途中のビルは二十階建て。既に十階までは壁が付いていた。クレタの中では比較的高い部類に属するビルだ。


非常に愛想良く建築現場に足を踏み入れたチェルナは、監督らしき人物と何やら交渉を始め、やがて満面の笑みで監督と握手を交わすとヘルメット三つを抱えてキャロルたちの方へ戻ってきた。二人にヘルメットを押し付ける。


「じゃ、行くわよ!」


チェルナが指差した方向に、作業用エレベーターが有った。




地上二十階と一口に言うが、その高さまで登れば、そこは正に別の世界である。


まず、目に入ってくるのは空の青さだ。建物や木々に囲まれて狭くなっている空が、開放されたかのような広さと青さを見せ付ける。眼下には凹凸の激しい建物の屋上。旧市街と違って屋根の色や形が統一されていない無秩序な新市街の建物群。遥かに霞んで見えるのは、クレタ盆地を囲む高山の威容である。


地面を歩く人の姿はゴマ粒の如し。車でさえ木の実のようだ。


吹き寄せる風に煽られそうになってエスパーナは手近な鉄骨にしがみ付く。


キャロルとエスパーナ、そしてチェルナがいるのは幅五十センチメートルほどの鉄骨の上である。建築途中の高層ビル。正にそこは最前線であった。足場は鉄骨有るのみ。その下はようやく床の張られた十階まで何も無い。吹き抜けである。


落ちれば即死。そんなことは言われないでも分かる。


当時の建築現場では当たり前のことであったのだが、命綱も落下防止ネットも存在しない。本気で命懸け、それが高層建築現場であったのだ。


「ここで、呼ばれたら行って、ここの棚からボルトとか工具とかを届けたり、仕舞ったりするの。簡単でしょう?」


簡単だ。言うのは。エスパーナはほとんど腰が抜けている。


「あたしが見本を見せるわね」


言うと、チェルナはボルトの入った袋を担ぎ、地上五十メートル上空に渡された幅五十センチメートルの橋を渡り始めた。後ろでひっつめた髪が風に煽られて靡く。そして難なく目的地に辿り着き、ボルト袋を渡し、代わりに大きなスパナを受け取って帰ってくる。


あれをやれと言うのか。まるで雑技団だ。エスパーナは本気で卒倒しかけた。キャロルも目を丸くしてチェルナに見入っている。


「さ、どんどん注文が来るわよ。とっとと行きなさい!」


 あちらこちらから作業員たちが何やらわめき始めた。チェルナは腕を組んで静観の構え。エスパーナは俯いたままだ。


ところが、キャロルは多少の躊躇はしたようだったが、作業員の怒声に応じて頷きを返すと、エレベーター横にぶら下がっている棚からスパナを取り出し、意外にあっさり鉄骨の橋へと足を踏み出したのである。チェルナの表情が固くなる。


キャロルはゆっくりとではあったが着実に前進し、目的地に到達。作業員にスパナを渡し、金槌を受け取って帰ってきた。


「ふぅ」


額に汗をかき、顔色も蒼白であったが、表情は晴れやかだった。


「恐かった」


「すごい!」


チェルナは思わず叫んでいた。


「本当に行くなんて!」


何か聞き捨てならない台詞のような気がしてエスパーナはチェルナを問いただす。


チェルナが案外あっさり白状した所によると、普通はさすがに危ないので、新人をいきなり最上階に連れて行くようなことはしないのだとのこと。


「ほんのジョークよ。でも、キャロル、さすがねぇ」


チェルナはしきりにキャロルを誉め称えた(わざとである)。そうなればエスパーナも男である。黙ってはいられない。彼は決然と顔を上げ、かなりへっぴり腰ではあったが、きちんと鉄骨の上を往復してみせた。


帰り着いたエスパーナは大粒の涙を流していた。エスパーナ・ロドリク。後に辣腕の内務大臣として世界に名を轟かせる男の、若き日のエピソードである。


チェルナは笑い転げたが、謝罪の意味かエスパーナとキャロルの額にキスをして、二人をエレベーターに押し込んだ。本来の作業場は床が出来つつある十階で、二人はここで荷物運び他雑用を日が暮れるまでやらされることとなった。チェルナは二人に手を振ると上に戻って行く。後から聞いたところによると、上での作業の方が危険ではあるが、楽で日当は良いのだとのこと。


なるほど、床があるのだから当然恐ろしくはないが、仕事は楽ではなかった。荒っぽい作業員に怒鳴られ、小突かれ、鉄骨やセメント袋のような重量物を運ぶことを強いられる。エスパーナは俗に言うお坊ちゃまであったから、力仕事などした事も無い。キャロルの方は特殊体質を遺憾無く発揮して重宝がられたが、もちろん疲労しない訳ではない。


作業終了を告げられた瞬間、エスパーナはボロ布の様に崩れ落ち、キャロルの肩を借りてようやくエレベーターに乗込んだ。


地上には既にチェルナが待っていた。満面の笑みを浮かべている。顔のそこここが油で汚れていたが、その笑顔は隠し様が無いほど魅力的だった。彼女は二人に給料袋を押し付ける。


「ごっくろうさん!どう?働くってのはこういうことなのよ?特にエスパーナ、分かった?あんまり役に立ってなかったみたいだけど?」


エスパーナは返答する気力も無い。キャロルも渡された紙コップから水を一息に飲むと、大きく息を吐いた。


「チェルナは休みの度にこんなことをしてるのか?」


「そうよ!しかもこの後ウェイトレスが待ってるのよ!」


キャロルは論評を避けた。人間業じゃ無いとまで思うが、それを安易に口にするのはチェルナに対して失礼なような気もする。スゴイね、と誉めるのも違うだろう。


「じゃ、そういうことで!また学校で会いましょう!」


チェルナは大きく手を回すと踵を返した。


「待て」


給料袋を覗き込んでいたエスパーナが呼び止める。


「いくら抜いた」


「そんなことはしないわよ。エージェント料をもらっただけ!」


「いくらだ」


「けちな事言いっこ無し!良い社会勉強が出来たでしょう!じゃぁね!」


と、言い残すと軽快に駆け去って行く。疲労困憊の極致にあるエスパーナは追い掛ける事も出来ない。


「やられた」


「何が」


無言でエスパーナが差し出した給料袋の中を、キャロルが見てみると、


…そこには五百共通単位札が一枚、申し訳なさそうに縮こまっていた(学食一食分が大体、五百共通単位である)。





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