ライラック 【中間】

あれからどれくらいこの人間を構っていただろうか、青年も正確な時間は覚えていない。

だがある日のことだった。

いつものようにリラを尋ねていくと、何やら元気が無い。

珍しいな、と思いつつ聞いてやろうかと気まぐれを起こしたクトゥルフはリラの肩を叩いた。


「どうした?」

「……悪い夢を見てしまったんです」


それを聞いたクトゥルフの動きが止まる。

それに気づいていないのか、リラは言葉を続けた。

内容を知った彼の表情に少女は気づかない。


「……それは嫌な夢だな」

「でしょう?それであまり寝れてなくて」


ため息を吐くリラに、クトゥルフは黙り込む。

それを不審に思ったのか、リラはクトゥルフの顔を覗き込もうとした。

青年の服がリラの視界を覆う。

抱きしめられているのだと気がつけば、少女は驚きのあまり硬直した。

ぽんぽんと頭をなでられてこわばりが解ける。


「えっと……ルフさん?」

「……添い寝でもしてやろうか?」

「えっ」

「冗談だよ」


思わぬ一言に硬直した少女にくすくすと笑い声を漏らす。

本気で言っていたわけではないので彼は肩をすくめた。

クトゥルフが体を離すとリラの手がその服を掴む。

どうかした、というように自分を見る青年に、リラは俯いた。


「……もしよければ、添い寝してほしい、です」


そのお願いに、クトゥルフは微笑んで彼女の頭をなでる。

仕方ないな、と言いたげにクトゥルフはまたリラを抱きしめた。



彼は理解していた。


クトゥルフとの精神接触で発狂するものは少なくない。

きっと少女も化身の自分が関わったことで狂気の片鱗に触れてしまったのだろう。

隣で自分が眠れば、悪夢を見せて彼女を発狂させられることもできる。


そうすれば当初の目的通り彼女を贄にすることも容易いだろう。


「……眠気が来ない」


普段あれほど自分を苛んでいた眠気が来てくれない。

それを理由にクトゥルフは起きていた。

同じ寝台に横になった少女は眠っている。


何をしているんだろう、と青年はその寝顔を見ながら独りごちた。

化身としての役割を忘れたわけではない。

それなのに、こんなに都合の良い存在が近くに居るのに、彼は彼女を生贄にするのをためらっていた。

それだけでなく人間ごときにこんな気まぐれを起こすなんて、彼は頭を抱えたい気分だった。

彼女に自分が何を求めているのか、彼は自分でもわかっていない。



今日は残念ながらいつものようにリラの家に行くことができそうにない。

クトゥルフはなぜか本体の前にいるニャルラトホテプの化身に困惑の表情を浮かべた。


「何しにきたんだお前」

「いえいえ、何か面白そうな匂いを感じましてね。

……リラとか言う女の子、可愛いですね?」


風を切る音と共に槍がニャルラトホテプの頬を掠めて壁に突き刺さる。

しかし何を思ったかニャルラトホテプは動かず、クトゥルフは少年の姿をしたその化身に近づいた。

胸倉を掴み、睨みつける。


「あれは俺の贄だぞ、何かしたらお前だろうが殺すからな」

「贄?おかしいなあ、僕はてっきり、あの人間に自分の子供を生ませるのかと。

ヨグ=ソトースやシュブ=ニグラス、それに私のようにね」


クトゥルフは黙り込んだ。

それを面白く思ったらしい愉快犯はにっこりと口を笑みの形に曲げる。

青年は哀れなほどの動揺を浮かべて少年を見下ろした。

その様子を見ると、少年は呆気に取られたような表情をした後一層面白そうな厭らしい笑みを浮かべる。


「おや?おやおや?もしかして、恋でもしちゃいました?」

「……」

「いえいえ、責めているつもりじゃあございませんよ。

邪神の中にも人を娶るケースはあるんですから」

「……そんなはずない」


彼の呟きに、ニャルラトホテプは首をかしげた。

胸倉からクトゥルフの手が離れる。

彼は目を泳がせ、最終的に両目を伏せた。

深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

ニャルラトホテプはじーっと青年の様子を眺めるように黙り込んでいる。


「人間相手にそんな感情、抱くわけ無いだろ」

「……さあ、どうでしょうね。

そんなに混乱するなら、さっさと贄にしてしまった方がよいのでは?」


やれやれ、と言いたげに両手を挙げながら少年は跳ねるような足取りで立ち去った。

自分だけになった部屋の中で、化身は本体を見上げる。

本体は未だ夢の中に沈んでいた。

青年は自嘲気味な笑みを浮かべる。


「……そうだよな」


ぽつりと呟いたその言葉に答える声は無い。



「お前に見せたいものがあるんだ、来てくれないか」


青年は笑顔を浮かべている。

少女は同じように微笑んだ。


手を引かれて町を歩く。

後ろ髪を引かれるような気持ちを抱きながら、少女は青年の手を離さなかった。

海の音がやけに耳につく。

ゆっくりと海の中へ体を沈め、下部を抜け、遺跡の前で止まる。

本体のところには行かない。

青年は足を止め、振り向いた。


「俺、お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」

「奇遇ですね、私もです」

「へえ?じゃあお前に先を譲ろうか。」


からかうようなクトゥルフの言葉。

リラは答える前に一度表情を曇らせ、しかしすぐに微笑む。

その一連の動作に青年は訝しげな顔をした。

少女の細く白い手が青年の首を引き寄せる。

互いの唇が触れた。

驚きに硬直していた青年が拒絶する前に、触れ合うだけのそれが終わる。

リラはただ微笑んだ。


「好きです」


青年は狼狽したように忙しなく視線を動かし、口を覆った。

答えが見つからない。

少女は苦い笑いを浮かべる。


「……ごめんなさい、急にこんなことを言って。

……話をどうぞ」


波が少女の髪を靡かせた。

青年は言葉にできず、海に目を向ける。

辺りに自分たちの影は無かった。

当然だ、余程の物好きでなければこんなところに来るわけが無い。


「……俺、お前を殺そうと思うんだけど、どうする?」


ようやっと出せた言葉はそんなものだった。

それを聞いた少女は少し黙り込んでいたが、やがて微笑みを浮かべて青年の両手をとる。

青年がそれに気づいて目を向けた。

少女はその手を自分の首に当てている。

少女は何も言わない。

今を逃せば、自分は彼女を殺せないような、そんな気がしてその首に指を回した。

鼓動が血を巡らせている感覚を手のひらに感じる。

ゆっくりとその手に力を込めた。

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