ライラック 【最初】

あるところに海の化け物がいた。

神に生み出され、しかしその存在を否定された、そのような者がいた。

彼は母を憎み、母の恩恵を受けるものを妬んでいる。

それ故に愛を知らず、その身は怨恨で成り立っていた。

名をクトゥルフという。

その力は神に等しいものであったが、しかし母なる神と対立しているために邪神と呼ばれ、バケモノとして広く知られていた。

それは海底の国に匿われ、昏々と眠り続けるだけのものだった。


ところで、神には化身が居る。

それは人であったり異形であったり、姿形は様々である。

このバケモノ、まがりなりにも神であったので、本体が眠っている間に化身を作り出していた。


それが、今こうして本体の目の前でうんうん唸っている青年である。


「……俺の想像ではもっとこう、人間らしくなるつもりだったんだが」


青年は不満げに自分の体を見つめている。


黒い髪に、金の瞳の青年。

神の化身であるためか、その顔は人のそれとは思えないほど整っていた。

一見普通の人間だが耳は尖っているし、髪が中途半端に触手になってしまっている。

彼はしばらく自分の体の調子を見た後、まあいいかと息を吐いた。

この世界には獣人もいる、その類だと思われるだろう。


本体が未だ眠っている弊害か、眠たげに一つあくびをしつつ彼は歩き出した。

彼が生み出された目的は、彼の本体を起こす誰かを探すことである。

要するに、生贄の存在が彼には必要だったのだ。



少女は立ち竦んでいた。

雨が自分の体を容赦なく冷やしていく中、呆然としている。


「ああ、どうしよう」


綺麗に結われている三つ編みをぐしゃぐしゃに乱した少女は呟いた。

今日は酷い日だ、と少女は様々な要因が重なって汚れた服と地面に散らばった花を見下ろす。

深く息を吐きながらしゃがみこみ、雨にぬれた花を拾い集めた。

地面に落ちて無残な状態になってしまうまで、それは白い綺麗な百合だった。

とても綺麗な百合だったので、少女は水溜りの中から恨めしげに睨んでいる自分と目を合わせる。

このままじゃあ家には帰れそうにない。

服はあまりにも汚れているから、洗うのにも一苦労だろう。


元から濡れていたスカートが更に雨水を含んで重くなる。

泣きそうになって歪む視界の端から、手が伸びてきて花を拾った。

それに驚いて顔を上げれば、そこには金の瞳をした青年がいる。

目を伏せていた青年は彼女が自分の存在に気がついたのを知ると目を上げた。


「手伝ってやるよ、お前も災難だな?」

「え、あ……ありがとうございます」


礼を言う少女に彼は相好を崩す。

少女はそれに言葉を詰まらせながらも慌てて手元に目をやった。



「ありがとうございました」


少女は頭を下げた。


あの後花を拾い終えてもやまない雨に少女は青年を自宅へと招いたのである。

窓を叩く雨粒の音が響いていた。


タオルを頭に乗せたまま青年は手をひらひらと振る。

気にするな、という言葉の代わりのようで、その表情はにこやかだ。

拾った百合は少し花が散ってしまったものの、今は窓際に置かれた花瓶に挿されている。

まだ外の雨はやまない。


「その……すごい雨ですね」

「そうだなあ。

普段は海底にいるから濡れても平気かと思ったらそんなことなかったよ」

「へ……下部の人ですか?」


海底と聞いて、少女は瞬きをした。

単純に珍しかったのだ。

ここは滄劉の中でも数少ない陸地、上部の町である。

下部に暮らす人々が上部に来ることは滅多にない。

青年はしばし無言であったが、やがてこくりと頷いた。


「そう言えば、お名前聞いてもいいですか?」

「んー、クトゥルフって言うんだけど、まあルフでいいぞ」

「ルフさん……ですか、私はリラって言います」


少女の名前を聞いたクトゥルフは窓をじっと見つめながら頷く。

それを見て何となくリラも窓を見つめた。



リラが淹れた紅茶を飲みながら雨が止むのを待つ。

その長いまったりとした時間の中、少女は口を開いた。


「……あの、ルフさん。」

「うん?」

「また来てくださいね。」


少女の提案に彼は目を点にした。

その後不思議そうな表情をする。


「何で?」

「理由は、ないですけど……。」


それを聞いた彼は尚一層不思議そうな顔をした。

しかしすぐに笑顔に戻る。


「いいぜ」

「ほ、ほんとですか?」

「うん、ほんとほんと。

お前の淹れる紅茶美味いし」


彼は丁度良い獲物を見つけられたと思った。

彼女を贄に本体を起こそうと思った。

しかしながら、彼は彼女の紅茶を気に入ったのである。

しばらく生かしておいてやろうと思うくらいには。

だから彼は彼女の要求を飲んでやった。

リラは嬉しそうに笑っている。

クトゥルフはそれに笑い返した。



「最近、よくいらっしゃいますね」


それからというもの、しょっちゅう家に遊びに来るクトゥルフに、リラは笑顔を浮かべながら言った。

それを聞いたクトゥルフは少し目をそらす。


「……暇だから」

「お仕事とかは……」

「あるんだけど……やる気が出ない」


仕事というより使命なのだが、クトゥルフは少し困ったように目を逸らした。

彼女をさっさと贄にしなければ目覚められないというのになぜかその気になれない。

紅茶を啜りながらやる気が出ないと口にすれば、リラはくすくすと笑った。


「まあ、そういうときもありますよね」

「そういうこった」


一向にこちらを見て会話をしようとしないクトゥルフに、少女は席から立つ。

彼の前に向かうとしゃがみこんで青年の顔を覗き込もうとした。

その顔にぽす、とクトゥルフの手が乗っかる。

ぶかぶかな袖が同時に少女の視界を覆った。


「ちょ、何するんですか?」

「いや、ついつい」


少女が後ろに下がってクトゥルフの手から逃れる。

青年がにやにやとした笑いを浮かべていたので、リラはぺしぺしと彼を叩いた。

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