第24話

 ぬかるんだ地面は非常に歩きづらい、しかしそれ以上に周囲を警戒しなければいけない状況というのは厳しいものだ。

 追手から逃げている最中は昼夜問わずの襲撃だったので、休憩をとる暇もなかったが、時折休憩を提案される。

 その休憩中も気を抜くことは許されないと言われ、常に周囲に気を配っていた。

 目に見えない脅威というものがこれ程厄介だとは思わなかった。

 揺れる木、風、臭い、すべてを感じ取ろうと五感を研ぎ澄ませ、そして疲弊する。

 体力の回復を図れるような状態ではない。


「無意識の警戒、必須技能だから慣れておきなさい」


 厳しい言葉を投げかけてくるメアリーだったが、荷物の類は降ろしてしまっている。

 どころか、木の根を枕代わりに寝転がってしまった。

 もし周囲に獰猛な生物がいたらごちそうが落ちているようにしか見えないだろう。

 そんな事を考えた瞬間だった。

 顔の横を何かが掠めた。

 それから間もなく何かが地面を揺らす。

 腹部に響く地響きと、嗅ぎ覚えのある独特な鉄臭さ。

 そしていつの間にか右手を僕に向けて、いや、僕の背後に向けているメアリー。

 背後を振り向いてようやく状況を把握できた。


 地面には倒れ伏した獣が一匹。


 猫科に属するだろう外観、しかし異常なほどに大きい。

 僕はおろか、メアリーでさえも一口で丸のみにできるだろう体躯は威圧感を覚える。

 しかし身動き一つ見せない。

 それもそのはず、額から生えているのは串作りに使ったナイフの握りだった。

 先ほど頬をかすめたのもこのナイフだろう。


「はい、休憩終了。いやぁ長いこと跡を付けられて鬱陶しかったわね」


 メアリーの言葉にただただ戦慄する。

 曰くこの猫は長時間僕たちをつけまわしていたらしい。

 以前読んだ書物では、猫科の動物は狩りの際相手が隙を見せるまで身を隠し続けることもあると書いてあった。

 その記述にどれほどの信憑性があるかわからないが、少なくとも僕は気づくことができなかった。

 そしてそのことを理解したうえで、メアリーはあえて隙を作って見せた。

 結果は……眼前の光景だろう。

 刈りとる者だったはずの猫は、刈られる者だったはずのメアリーによって躯となった。


「ローリー」


「……なに」


 思わず声に力が入る。


「これって食べられるかな」


 今しがた刈り取った猫の額から、根元まで突き刺さったナイフを引き抜いたメアリーは冗談交じりの笑顔でそう尋ねてきた。

 その笑顔は、酷く楽しげだった。


 さて環境が変わっても性分という物は変わらないと、実感した。

 今まで研究所にいた頃は日に数時間の授業を受けて、本を読んで、グリムと討論をして、その繰り返しだった。

 ここでは授業を受ける事はない。

 とはいえメアリーの教えや森を歩いていると指摘が入るからその辺りは授業に近いのかもしれないが、座学ではなく実践式というのが今までと違うところだろう。

 そして当然ながら本が無い。

 グリムが手元にあるだけでそれ以外の本はなく、また会ったとしてもゆっくりと呼んでいる暇はないだろう。


 そして一番の違いは、そのグリムが話をしてくれないという事だ。

 議論をしていた相手がいなくなって、それは心に喪失感を抱かせる。

 だから他の誰かに代わりを務めてほしいと願うようになる。

 その相手はメアリーしかいなかった。

 彼女は言葉は厳しいが、面倒見のいい性格をしているのだろう。

 だから僕を拾ってくれた。

 だから指摘をしてくれる。

 けれど、甘やかしてはくれない。


 議論や討論を持ち掛けても、森の中で会話に夢中になることは餌になるという事といって取り合ってくれなかった。

 だから僕は議論から疑問へと内容を変えた。

 メアリーから受けた指摘を、噛み砕いて組み立てなおす。

 その理解が正しいかを尋ねる。

 間違っていれば都度指摘しなおしてくれるし、合っていれば正しく吸収できる。

 果てのない議論から、結論の見えている疑問へ。

 そこには大きな違いがあったが、僕には同じ物に思えていた。

 学ぶこと、知識を得る事、そして施行する事が僕の本質であり性分。

 この知識も、今は開くことさえできないグリムに蓄積されているのだろう。

 そう考えると寂しくもあり、そして嬉しくもあった。


 死とは喪失であり、機能の欠落。

 半身のグリムが死んでしまったとしたら、僕の欲求は消えるのかもしれない。

 あの液体にグリムが落とされたときに抱いた絶望も、彼の活躍で乗り越えることができたからこそ思う。

 グリムが僕の原点なのではないかと。

 つまりは彼がいなければ、僕という存在はただの人形であり、あそこに打ち捨てられた僕の兄弟姉妹は 人形のまま生まれて人形として朽ちていくだけの悲しい存在だったのではないかと。

 あの亡骸とその元になった者達には申し訳ない話だが、彼ら彼女らが朽ちていたのはなるべくしてなったモノであり、僕とグリムというイレギュラーが作り出された本質はそこにあるのではないかと思う。

 一つの肉体には収めきれなかったものを、二つの肉体ならばあるいは……そんな結論を導き出したとしても不思議ではない。


 なにせあの男とともに研究を続けていた者達なのだから。


 あの男が率いた研究なのだから。


 そしてそのイレギュラーが、非常事態を引き起こした。

 この仮説が正しければ、皮肉な話だ。

 そんな事を考えながら、メアリーの後を追う。

 いつかグリムが目を覚ました時に、この仮説について存分に語り合うためにも。

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