第6話:捕獲
その週の金曜日の事である。スマートフォンのアラームを設定し忘れるという失態を犯した浜須は(この日に限り、両親共に朝から仕事に行っていた)、生まれて初めての遅刻への恐怖を味わった。
「ヤバいヤバいヤバい! 遅刻なんかした事ないのにぃ! カチューシャカチューシャ――って、あぁそうだ! まだ椿先輩に取られたままじゃん!」
無駄にその場で足踏みをし、時間通りにしかパンを焼けないトースターを急かした。急いでいるというのにしっかりと朝食を摂り、おまけにシャワーも浴びてしまった彼女は、いよいよ顔面を蒼白にして家を飛び出した。
人生で一度も遅刻を経験した事の無い浜須にとって、始業時間に間に合わないという狼藉は耐え難いものだった。無遅刻だからといって金一封が約束されている訳ではないのだが、「一度も時間に遅れない素敵な自分」を崩したくない、その一心で今、彼女は白い息をもうもうと吐きながら駆けて行く。
「ちっくしょー! 絶対に遅れてやんないぞぉ!」
トレードマークの頭上のリボンは、しかし今日は揺れていなかった……。
「まぁ無理だよね、絶対」
彼女が甘んじて遅刻を受け入れたのは、スクールバスの停留所に到着して間も無くであった。当然ながら、スクールバスという乗り物は遅刻する生徒を考慮しないダイヤで運行されており、幾ら息を切らして浜須が停留所に辿り着いたとして、待てど暮らせどバスが来る訳はなかった。
「……ふぁーあ」
どうせ遅れるなら……と浜須は居直り、ゆったりと通常のバスに乗りこみ、流れて行く車窓を眠たげな目で見つめた。担任教員に何と言い訳をすれば良いかは後程考える事にし、置かれた状況を楽しむ――そんな芸当を身に付けられた事は、遅刻も捨てたものではないと彼女は思った。
プツリと途切れた無遅刻の記録も、信号機の数を数える内に「あんなに必死に守っていた理由って何だっけ?」と、一時間前の自分に問いたくもなった。バスに揺られて一五分後、浜須はすっかり静まり返った花ヶ岡高校へと到着した。
「静かだなぁ……当然か」
卒業生が贈ったという時計塔は、この瞬間、九時一〇分を指した。校門を潜り、いつものようにガラス戸の並ぶ正面出入り口から入ろうとすると――。
「あっ、鍵……」
用務員の手によって施錠されていた。一度も遅刻をした事の無い浜須にとって、遅刻時の手続きなど毛頭知らず、監視カメラに向かって手を振ってみたが反応は無く、このまま無為に時間を潰していれば、不審者として刺股を突き出されそうな気がした。
もう帰ろうかな――ふと、彼女は思った。遅刻だけに留まらず、無断欠席という生徒会組織に有るまじき行為が頭を過った。
「流石に部長、怒るよね」
冷静で常識的な理性が彼女をその場に止めた。来客インターホンを使おうと周囲を探し始めた瞬間、背後から足音が聞こえて来た。ローファーで石畳を叩くような音は、毎朝大勢の生徒が鳴らすものだった。
渡りに舟だ……浜須は振り返り、自分と同じく遅刻して来たらしい生徒に助言を乞おうとした。
「あ、あの! 私、今遅刻して……来て……」
眼前に立っていた生徒に――確かに、見憶えがあった。
「あれ…………」
その生徒は女子だった。制服は大いに着崩され、花ヶ岡らしからぬ痴態だと教員から呼び出されてかねない程に……スカートは短く、胸元は開き、顎先まで伸びた髪は無造作なものだった。
見た、何処かで見た! 何処だ、何処でこの人を…………あっ――購買部で…………そうだ……。
「……ふふっ」
痴態の生徒は微笑し、実にゆったりとした足取りで浜須の方へ歩み寄った。やがて両者は拳二つ程にまで接近し――。
「運命って、例えばこういう時に使うのかもね?」
「……はっ?」
突拍子も無い発言をした。その生徒は満面の笑みを浮かべ、許可も無く浜須の手を取ると、優しく……それでいて力強く握った。
「私ね、いつかこういう瞬間が来るんじゃないかって……思っていたの。ふふ、当たるも八卦当たらぬも八卦とは言うけれど、あのね、私、毎日占っていたの、《おおとりさま》って技法で!」
「……あの、すいません、何かの間違いじゃ――」
「間違いだなんて、そんな訳無いわ!」絞り出すような、媚びるような声で生徒は叫んだ。
「貴女、私とお友達にならない? いいえ、なって欲しいの、違うわね、此方からお願いしなくっちゃね! 何卒、よろしくお願い致します!」
「ご、ごめんなさい、本当に分からないんです……確かに何度かお見掛けしましたけど、その、名前も知らないし、話した事も――」
ビクリ、と浜須の身体が震えた。眼前で狂言を発し続ける女の細指が、いつの間にか頬に触れていたからだった。
「私は貴女を知っているわ、浜須矢恵さん。私の名前は洛笈沙南禾。唯の三年生、唯の生徒……。さぁ、つまる話は中でしましょう、ふふ、そうね、まずはお菓子でも如何かしら――」
「……」
同時刻、数学の授業を受けていた二年生――椿珠青が板書の途中、突然に顔を上げた。
「うん? 椿さん、何かあったかね?」
「いえ、何でもありません」
心配する教科担任を他所に、椿は何気無く校門の方を見やった。暖かな陽光が、これから来る冬の季節に抗うように――時計塔を照らしていた。
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