第5話:刺し合い希望
例えば――友人の家に久方振りに出向いたとする。歓待する友人の後を追って居間に足を踏み入れると、物陰から此方を睨め付けて来る猫がいた。その時、猫は部屋全体を揺るがすような、低く……不快感をタップリに添加した鳴き声を上げる。
お前は誰だ。お前は敵なのか、いやそうに決まっている……。
言葉を介さぬ猫ですらが、不意の来客の感情に訴え、大いに怯ませる事が可能な声。その「警戒発声」に酷似したものが――。
「お届けものです……」
ケーキを風呂敷に包んで運んで来た、大変に目付きの悪い女子生徒の声であった。一方、柊子は巾着袋を開きながら「あーら」と明るい調子で笑った。
「ごめんねぇ、アイツも偉くなったわねぇ……後輩に行かせるだなんて」
「いえ、仕事なんで……」
一年生らしい彼女は「失礼します」と気怠そうに頭を下げ、テーブルの上で風呂敷を開いた。
「……」
仏頂面の配達員がケーキを並べていく間、一瞬だけ、テーブルの上に置かれていた浜須の手帳に目を留めた。《むじな》の手順を記したそれに刮目し――。
記憶の奥底に眠る何かを思い出すように、彼女は眉をひそめた。ごく短いその反応に気付いた浜須は、放って置いてはいけない好機の匂いを嗅いだが、不意を突く龍一郎の耳打ちが掻き消してしまった。
「あの子、何組だっけ……?」
「えっ!? あぅ、いやぁ……さぁ?」
職業柄(組織柄)生徒の顔と名前は殆ど記憶している浜須だったが、この時ばかりは脳内生徒簿が消失してしまった。ど忘れによるものでは無く、急速に接近して来た
止めてぇー! それ以上近付かないでぇ……!
狼狽する浜須を他所に、既に配達員は何事も無かったかのようにケーキを並べ終えていた。
「ちょっと姐さん、美味しそうですよこれぇ! え、『払うよ、幾ら?』って? 良いじゃないですかぁたまには。いつも姐さんばかり払っているでしょう?」
謎の女子はムスッとした顔で風呂敷を畳むと、ポケットから自前の会計盆を取り出し、托鉢のように柊子の前へ立った。
「お代……頂きます」
「勿論よぉ、ジャラジャラーっと」
パンパンに膨れた巾着袋は滝のように花石を吐き出した。ものの数秒で盆の上には、代金の二倍近くの花石が載った。
「チップよぉ。アイツじゃなくって、貴女に渡すんだからねぇ」
「要りません」
「うん?」
一同の視線が配達員に向いた。一応の遠慮では無く、心底の拒否感が彼らを叩いたからだった。
「そんな堅い事言わないでよぉ、もう一度しまうのは格好付かないわぁ。ほら、私を立てる為と思って?」
しばらくの間、一年生はその場で立ち尽くした。やがて「お借りします」と柊子の巾着袋を手に取ると、代金から差し引いた額を勝手に戻し入れたのである。
「げっ……」
「……」
龍一郎、浜須の両名が目を見開いた。奥で目代が「あぁっ……」とでも声を上げるように、口元を手で押さえた。
「受け取れません。後程の突き合わせで過不足が生じては、部長に叱られてしまいますので……」
本日が初対面となるであろう一年生が、《
「…………へぇー」
顔に泥を塗られる事を最も嫌う女、宇良川柊子が……笑った。探し求め続けた商品をようやくに見付けたが如く。
「素晴らしい教育をなさっているのねぇ、購買部長さんは……。けれど、マニュアル通りの動きでは喜ばない人間もいるって事、どうも教え忘れていたみたいねぇ?」
にこやかな顔、朗らかな声は柊子のトレードマークでもあった。しかしながら一年生はその笑顔を嫌っているのか、上目遣いに睨め付けるようにして、「申し訳ありません」と謝った。
「しかし、部長は『チップを受け取ってはならない』と私達に厳命しています。貰うのが当然となれば、チップありきの働きになってしまい、更にはチップを渡さない、或いは渡せない方への奉仕態度に濁りが生じる――これは部長の言葉であり、また私も正しいと思っております……」
二〇秒近くの間、部室は静寂に包まれた。廊下の何処かから笑い声が響き――。
「……近江君ですら、こんなに可愛い事は言わないわぁ」
ギクリと肩を震わせる龍一郎。お鉢が回ったかと怯えた為だった。
「素晴らしい度胸ねぇ、貴女……。良いわ、返されてあげる。お名前は何ていうのぉ?」
物怖じしない一年生は柊子の目を見つめ、言った。
「購買部接客課、一年一組、
「飛凪さん、飛凪さん……しーっかり憶えたわぁ。私の名前は宇良川柊子、どんな人物かはそこらの二年を捕まえて訊いてご覧なさい。これからもよろしくねぇ、飛凪富生さん……」
最後まで笑顔を見せない飛凪は、「またのご用命をお待ちしています」と四人に頭を下げ、静かに部室を去って行った。
「……宇良川さん、あんまり虐めないで下さいよ。彼女、凄い怒っていたじゃないですか……」
あの顔、癖じゃないのぉ? 柊子はいち早くケーキの前に座り、薄膜を剥がし始めた。
「面白い子がいるなぁって思っただけよぉ? 私のチップを受け取らないどころか、突っ返して持論まで語っていくんだもの。おまけに誰にでも噛み付きそうな表情……良いわね、ああいうの大好きよ。そうだ、浜須さん?」
「は、はい! 何でしょうか?」
先端の部分をフォークで小さく切り取り、柊子は嬉しそうな声で言った。
「今の子、調べて欲しいんだけど……頼めるかしらぁ?」
何する気なの!? 目代は急いてメモに記したが……。
「違うわ姐さん、物騒な事じゃないんです――気になるんですよぉ、あの子の戦力が」
「戦力って……打つんですか? 飛凪さんと」
「是非とも刺し合いたいわぁ。けれどもぉ……これにはちゃーんと理由があっての事なのよ。一つは私の純粋な興味、もう一つは――」
この時、浜須は「飛凪富生」の調査依頼を密かに喜んでいた。
柊子に依頼されずとも「手帳を見た際の反応」について、後日飛凪に問い質したかったが、如何せん、カクサレの背景を考えると気が引けた。しかしながら……先輩に頼まれた為、致し方無く接近するという建前を得られたが故に――。
周囲の会話が全く聞こえない程の喜びに、浜須の胸は一杯になった。
秘匿技法について何かを知っているのか、もしくは純粋に関心を抱いただけか、全ては間も無く明らかになる気がした。
「……初耳ですけど。全部……」
「この前おトセちゃんも含めて話したのよぉ。近江君、おデートだったんでしょう? お熱い事で……。という事で浜須さん、急がなくて良いからあの子の件……よろしく出来るかしらぁ?」
浜須は元気良く頷いた。あくまで「先輩の依頼を断る事を知らない、献身的な後輩然とした顔」で。
「お任せ下さい! この浜須、必ずや飛凪さんの情報を掴んでみせます!」
素敵な後輩だわぁ――実に嬉しげな宇良川は、「そういえば」と龍一郎の方を見やった。
「近江君は、その《むじな》だかって技法……もう憶えたの?」
「えぇ、一応……打てるぐらいには」
チラリと浜須に視線を移し、「だったら」と宇良川が名案のように言った。
「浜須さんと打ってみたら?」
「えっ!?」
天を衝く勢いでカチューシャが動いた。三人は一斉に浜須を見つめたが……当の本人は「汗の処理していないよぉ!」と頭がショートし掛けている。
「えっ……浜須さん……嫌ならいいんだけど……」
「あらぁ、近江君拗ねちゃったのぉ?」
「ち、ちち違う違う! 嫌じゃないよ!? でも、その……自信が無いからさ!」
大丈夫だよ、浜須さん! 目代のメモがヒラヒラと、汗掻きの少女を励ました……。
これ、勝敗を決める技法じゃないから!
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