悪と悪
二年七組の
九月二〇日――この日は良い日であった。画鋲や虫の死骸一つも、上靴の中から落ちて来なかったからだ。今日の天気のように晴れ晴れとした気分の宝井は、しかし笑う事は無く、そそくさと上靴に履き替えて教室へ向かう。
毎朝彼女は思った。「何て教室は遠いんだろう」と。
二年七組へ向かう最短のルートは、玄関ホールからすぐ近くの階段を上るものだが……このルートはどうしても使いたくなかった。宝井は一番遠い階段をわざわざ使い、長い時間を掛けて教室へ辿り着く。
何故、彼女は毎朝無益な遠回りをするのか?
それは……絶対に顔を合わせたくない人物もまた――玄関ホール側のルートを多用するからだった。その人物は三学年の女子生徒(
宝井は次のような連鎖的不幸により、長きに渡って孤独な生活を続けていた。
かつて二人は同じソフトテニス部に所属していたが、今年の二月中旬頃に宝井は退部していた。
部員から集めた部費を掠め取った大守によって、その罪を擦り付けられ……唯一の突破口であった《札問い》にて大守を相手取り、禁じ手の
幼馴染みの目付役に看破され、失格。その後、半年以上も大守とその一派から虐められていた。
大守は実に周到な手口で宝井を追い詰め、教員や風紀管理部に発覚しないよう、細心の注意を払って「盗人」を苛め抜いた。庇う事による巻き添えを恐れ、或いは流言に惑わされた友人達は一人、また一人と……彼女から遠ざかっていったのである。
出来る限りの長大なルートを辿り、ようやく教室に辿り着いた宝井は、ソロソロと引き戸を開ける。数人が既に到着しており、楽しげに雑談していたが……。
「…………で、でね? 昨日彼氏がめっちゃウザくてさぁ」
話題を提供していた生徒は数秒間口を閉ざし、それからぎこちなく会話を再開した。聞き手も「へ、へぇ」と気まずそうに相槌を打ったが、宝井は黙したまま、なるべく気配を消し……自席へ着いた。
やがてクラスメイトが続々と入室して来た。室内が賑やかになるにつれ、宝井は完全に気配を消す事が出来た。
彼女に注意を払う者はいない。否、払いたくとも――払えなかった。宝井の周りには地雷が大量に埋まっている。少しでも近付けば大変に過敏なセンサーが反応し、強烈な爆風を以てして「無関係だった生徒」を、無理矢理に宝井と関係付けてしまうのだ。
宝井は、それでも朝は好きだった。気を付けていれば実害は無く、「昼休み」まで四時間近くも間隔があるからだ。
「昼休み」までは――宝井は少なくとも、泣く事は無かった。
「遅いよ、泥棒」
立木にもたれ掛かる三年生――大守は、肩で息をする宝井の右足を蹴り付けた。
「す、すいません……購買部が……混んでいて――」
いや、訊いてねぇし。憎々しい声で毒突く大守は、宝井の右手からレジ袋を引ったくった。中には化粧品が二点入っていた。
「あれ? 私、リップもお願いって言わなかったっけ? わざと?」
「すいません! 今すぐ買って来ますから……」
もういいわ、何か――溜息を吐く大守。泣き出しそうな顔の宝井を見つめ、「罪悪感湧いているんでしょ?」と笑った。
「アレでしょ? 私に庇って貰っているのが辛いんでしょ?」
「そっ、そんな……! お願いします、止めて下さい――」
「だってそう思うよ。これで何回目なの? 私のお願いを無視して、違うもの買って来て。部費を肩代わりしたのも私なのに、しかも返済しなくて良いって言っているのにさ」
はい、復唱……大守はへたり込んだ宝井の顎を掴み、無理矢理自分の方へ向かせた。
「部費を盗んだのは私です、部費を盗んだのは私です……ほら、繰り返せよ」
やがて宝井は涙を流しながら――大守の言う通り、「部費を盗んだのは私です」と三〇回繰り返した。
部費を盗んだのは、事実では大守であった。そして今、この事実は宝井の「暗唱」によって捩じ曲げられようとしていた。如何に理不尽であっても、絶望的状況で暗唱される虚言は不可思議なリアリティを持ち始め……。
「ぶ、部費を……盗んだのは、私で……す」
犯人はこの女だ、という確信が揺らぎ――もしかしたら私だったのかも、という記憶の改変が進んでいた。
「はい、よく出来ました。ここで確認だよ、アンタを庇っているのは誰?」
三〇回目の暗唱を終えた宝井は、虚ろな目で大守を見つめ、言った。
「……お、大守……先輩です」
その日の放課後、大守は担任から職員室に呼ばれていた。担任はファイルをパラパラと捲り、「喜べ」と笑い掛けた。
「お前の言っていた教育大なんだが、まぁ、アレだ――推薦枠の内定が出たぞ」
「ほ、本当ですか!? えぇー超嬉しいんだけど!」
シィー、と担任が興奮する大守を制した。他の教員も顔を上げ、彼女のあどけなさに目を細めた。
「あくまで内定、だぞ。今後お前が成績をガッツリ落としたり、悪さをしでかしたら……推薦枠は別の奴に譲る。気ぃ付けろよ?」
「分かっています! ちゃんと勉強しているし、この間も仙花祭で一杯売り上げたし!」
本当に分かっているのかぁ? 担任は笑いながらファイルを閉じ、「とにかく」と大守を見つめた。
「大守はキチンとしているし、大学で学びたい事のビジョンもしっかり見えている。後は、ちょっと喧しいところを直すだけだな」
教員達はドッと笑い声を上げ、大守も「何で笑うんですかぁ」と不満げに返した。職員室は実に明るい空気で満ちていた。
「それじゃ先生、お願いしますね。失礼しまーす!」
出入り口で一礼した大守は、そのまま鼻歌を歌いながら階段へと向かった。時折擦れ違う友人に挨拶しつつ、順風満帆な未来に笑みを溢した。
一階に降り、玄関ホールの方へ向かおうとした矢先の事である。右方から強い寒気を覚えた大守は、怯えるように鞄を抱き締め、冷感の出所を探ると――。
暗がりから此方を見つめる……不気味な女子生徒が歩み寄って来た。この生徒の顔を、名を――大守は知っていた。
「こんにちは、大守さん」
喉元を撫ぜるような声質は、大守の身体を微かに震わせた。
「うっ……鶉野…………さん? 八組の鶉野さん、だよね。何か用?」
その女……鶉野摘祢は一メートル前方まで接近すると、表情一つも変えずに「伝えたい事がある」とやや低い声で言った。
「貴女の目指す大学の教育理念に、貴女自身が合致していないのでは、と思ったのよ」
「…………はっ? いきなり何を言っているの?」
呆気に取られる大守に構わず、鶉野は淡々と続けた。
「『先輩を敬い、同輩と支え合い、後輩を導く者こそが、真の教育精神を育て養う事が出来る』素敵な精神だと思うわ。……でも、おかしいわね、大守さん」
鶉野はゆっくりと歩き出した。次第に息が荒くなる大守の傍を通り過ぎる瞬間、「後輩とは」と鶉野が囁いた。
「虐めるものでは無く、導くものでしょう?」
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