さようなら

 もう、復讐は止めたのよ――。


 少し冷めたカフェオレを飲む鶉野は、目を見開いて硬直する京香と安居に構わず、「ちょっと甘いわね」とカップを置いた。九月一九日の放課後は細かな雨が降り続け、駅から程近い位置に構える喫茶店に彼女達はいた。


 鶉野の衝撃的な発言から一分が経った。安居はプルプルと身体を震わせ、「よう言った!」と鶉野の手を掴み、激しく上下に振った。


「よう言った、よう言ったわ鶉野ちゃん! そりゃ絶対赦せへんって怒るのはしゃあないと思うよ? でもなぁ、やっぱり復讐はアカン、だってわざと負けよう思うて打った訳やないやろ? こういうタイミングで言うのもけったいかもしれんけど、水に流すー言うのも大事や思うわ」


 あー喉渇いた! 一気に喋り過ぎたわ――安居は手の平で顔面を扇ぎ、アイスコーヒーを一息に飲み干した。ガラン、と浮力を失った氷が下方へ沈み込んだ。


「でも……鶉野さん……」


 怖ず怖ずと京香が口を開いた。


「どうして急に……」


「そうね――何だか、馬鹿らしくなったのよ」


 木枠の窓ガラスに雨が当たり、細い筋を描いては上から別の筋が塗り潰していく。雨脚が強まったらしかった。


「何かあったのですか……?」


「ええやん、羽関ちゃん。何はともあれ復讐なんて危ない事を止める言うてんやから。時には皆まで訊ねない……ええ女の条件やで」


 安居に肩を叩かれた京香は、それ以上何も言わなかった。


 鶉野が「復讐中止」を宣言した後、実に三人は年頃の女子高生らしい会話を楽しんだ。九割方、安居が話題を提供しては一人で広げ、一人で冗談を言い、一人で突っ込むというじみた空間だったが、それでも京香は楽しげに笑い、鶉野もごく稀に微笑した。




 秋雨が止み掛けた一九時前、三人は喫茶店のドアを開いた。アスファルトを濡らした匂いがコーヒーを挽いた匂いと入り混じり、独特の解放感が鶉野達を包んだ。


「ほな、また来ような!」


 安居は二人に別れを告げ、折り畳み傘を開いてから「何や、降っとらんやないかい」と大きめな独り言を言い、スタスタと帰って行った。残された鶉野と京香は、どちらからともなく歩き出した。


「……そう言えば、鶉野さん、今日は早く帰らなくて大丈夫なんですか?」


「えぇ。母親の仕事が休みだから」


 間も無く、二人の会話は途切れた。鶉野の「宣言」を境に……二人の間に見えない壁が生まれたようだった。濡れた地面を踏む音、傍を過ぎて行く自動車のエンジン音、跳ねた水が何かにぶつかる音は――。


 しかし、鶉野の耳には届いていない。


 久方振りに吐いた嘘がもたらすによって……彼女は一点前を向き、歩くだけの機械へと変貌していた。




 当然――目代小百合の討伐を中止した、というのはであった。




 大変に愚かしい行為を働いたが故に……協力者兼、天敵であった矧名涼はすっかりと大人しくなってしまい、廊下で擦れ違っても目礼だけでそそくさと立ち去ってしまうようになった。


 真相がどうであれ――矧名には最早、京香と安居に害を及ぼす程の気力は残っていないと判断した時、鶉野は本来の標的であった「目代小百合」の事を思った。京香達に吐いた嘘の通り、本当に復讐を中止しても良かったのだが……。


 目代小百合を打ち負かし、「忌手イカサマを使ってまで敗北した事」を何としても認めさせたかった。


 私は清廉潔白な打ち手です——そう言い切り暮らしているような様子が、どうしても赦せなかった。


 今更「垂野さんを転校させてしまってごめんなさい」と謝られても意味は無く、かといって「忌手イカサマを使ってごめんなさい」と謝罪されれば此方までばつが悪い。しかしながら「この女はとても卑怯な女です」と喧伝して回っても、冷たく白眼視されるだけに違い無い。加えて……。


 鶉野は既に、目代小百合を怨んでいると「常に自覚し続けなくてはならない」程に――優しさを取り戻し始めていた。「彼女も必死だったんだろう」と同情し掛けた自分が堪らなく嫌だった。


 現在ボンヤリと思う事は、隣を気まずそうに歩く京香と、嘘吐きの自分を褒めてくれた安居が、このまま平穏無事に過ごして欲しい――それだけだった。




 うん。そう、よね。それしか無いわよね。


 あの女と戦うのなら――


 私には、二人の暮らす温かな世界は似合わない。もっと……相応わしい場所がある。


 協力して貰うわよ——目代小百合さん。




「……羽関、さん」


 紆余曲折を経て、方向転換を迫られ、作戦変更を繰り返し……莫大な労力を払い辿り着ける場所は、自分にとって最高の――或いは相応しい――安息地に違い無い。


「は、はい」


 そして安息地とは、常に花の咲き乱れ、清らかな小川が走り、甘い果実を鈴なりに生やす樹木が並び、無二の親友が木陰に憩うとは限らない。


「もう……そろそろ、も止めて良いかしら」


「ご……ごっこて、何の――」


 その者が腰を下ろし、軋む身体を休ませる事の出来る場所は個々人によって万別である。腐臭漂う骸の山がその場所かもしれないし、永劫に続く闘争の悪夢が、何よりの楽園かもしれない。


「羽関さん。辛いのよ、私も。興味の無い人間と連れ添い、無益な話に作り笑いを浮かべるのは」


「……あ、アハハ……鶉野さん、懐かしいですね、その感じ……」


 この少女もそうだった。数多の人間が考える通り一遍の休息地を求めはせず、無数の針山を自ら選び、その先に聳える腐肉で出来た椅子こそが、自身に相応しい安息地であると決定した。


「憶えているでしょう。貴女は私に協力すると言った。その時を待っていたのだけど、必要無くなったのよ。ごめんなさいね」


「…………鶉野さん、もう良いんじゃないですか、その冗談…………あんまり、楽しくない……です」


 一つ、と違う点を挙げるとするのなら、彼女は純粋な奇特さによって、異形の安息地を望み行こうとしている訳では無かった。まさに、完全とも言える自己犠牲精神が、少女に修羅を選ばせた。


「運良く……貴女の介助無しに機が熟したのよ。最初から私だけで良かったみたい。好機の為なら笑いもするし、泣きもする。友情だって。忘れっぽいのね、私にだってはあるのよ」


「……嘘ですよね、全部嘘ですよね。『驚いた?』って意地悪な事を言ってくれるんですよね!? ほ、ほら……一緒に帰りましょうよ、そうだ、今週私の家に――」


 自分だけが不幸になれば良い。親友達を守る為なら、自分はどんな不幸な目に遭っても構わない。自己犠牲とは、の時のみ輝く精神だった。


「そう、嘘よ。全部、何もかも嘘。笑って泣いて、言いたくない事まで打ち明けて友人の振りをしたのは、使。喜んで頂戴、貴女は私に利用されず、こうしてお役御免となった」


「…………っ、うぅ……ひぐっ……嘘です、嘘ですよ……何でそんな酷い事を言えるんですかぁ…………もう止めて下さい、楽しくないですから…………」


 鶉野摘祢は悪であり、正義であった。その境は誰の目に映る事も無く、曖昧だが確実に存在していた。


「教えてあげる。ここまで酷い事を言えるのは…………あ、貴女が友達ではないからよ。安居さんにも伝えておいて、これ以上私に付き纏わないで欲しい、と。ハッキリ言うけど、私達、一緒にいるメリットが無いのよ。もう限界なの、ストレスの原因でしか無いの」


「う、鶉野さん…………嫌です、嫌だよ……折角仲良く……なれ……なれたのに……もう学校で挨拶……出来ないんですか…………一緒に賀留多……う、打てないんですか……」


 楽しかった日々は、二度と戻る事は無い。


 羽関京香、安居春音の高校生活は――かくして平穏を取り戻した。


「さようなら。貴女と会えた事を……心から後悔しているわ」

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